鹿児島



米軍の航空写真(左:R229-50、国土地理院、右:USB15-R16-631、国会図書館)



米軍の航空写真(左:R235-30、右:R229-62、国土地理院)





昭和20年8月の配置図を見ると、鹿児島駅の東に高射砲第7中隊が、鹿児島駅の西に電測分隊が、城山の西端付近に機関砲第5中隊、そして鹿児島本線の甲突川鉄橋の南に海軍の機関砲隊のマークが描かれている。航空写真を見ると、鹿児島駅の東にある埋立地に、砲座こそ確認できないものの半円形の影が映っており、これが高射砲陣地ではないかと思われる。その他は見てもそれらしい痕跡は確認できなかったために、それらしい場所を推測して上図にプロットしている。またこの配置図には高射砲第10中隊が描かれていない。
他に武岡に高射砲があったという記述がある(下に該当部分を引用)。ここに高射砲陣地が築かれた時期については明確には書かれていないものの、比較的早い段階のような書き方をしていること、また大戦末期には北九州周辺しか配備されていなかった聴音機についての記述がある事から、開戦時に鹿児島に配置されていた独立高射砲第21中隊の事かと思われる。第21中隊はその後(恐らくは)大牟田に移動したが、終戦間際になって第10中隊が再び陣地として使用した可能性もある。米軍の資料では、鹿児島の高射砲の数は、7cm6門、8cm6門、20mm6門となっており、この資料が日本側の資料と食い違う部分が幾つかある事を考慮しても、昭和20年6月時点で第10中隊が8cm高射砲装備の予定だったものが、実際には7cm高射砲で編制された可能性も考えられるのではないだろうか。
ともかく、鹿児島中央駅に西にある長島美術館のある場所に、高射砲陣地があった事は確かなようだ。


「昭和12年私が旧制一中(現鶴丸高校)に通う頃から戦時色が強くなり世の中が騒がしくなり出した。武岡に高射砲陣地が出来て今の美術館の辺りは厚いコンクリートに覆われて大砲や物凄く大きなスーター・サックス、チューバ等のラッパを纏めた様なグロテスクな聴音器という大物が据え付けられた。これで飛行機の来襲する方向を探るという今ならレーダーというところだ。その為には工兵隊の部隊が来て今の自動車が通う登山道路を構築した。部隊の集合場所が今の植林地の辺りにあって神社が祭られて兵隊が朝夕捧げ銃などやっていた。今では神社は跡形も無く表に「殉国祠堂」裏に「昭和5年10月5日」と記した1m位の石碑が建っているだけだ(写真B)。丁度満州事変の頃だ。これから軍の圧力が強くなっていった時代で碑文にも何等かの意味が有るかもしれない。B-29の来襲に此処の砲台が応戦しても弾は敵機まで届かずに機体の下で破裂して白煙を残し、敵機は悠々と飛び去るだけだった。戦後陣地は撤去されたがコンクリートの基礎は巨大な塊になって何時までも残っていた。その跡に現在の長島美術館が建っている。」
「武岡の昔」 鮫島 潤(http://www.city.kagoshima.med.or.jp/ihou/555/555-5.htm)




また新川の涙橋の近くや、紫原に高射砲があったという話も別の複数のWebサイト上に書かれていたが、鴨池港付近にあった海軍の鹿児島航空隊の高角砲台が天保山、広添、脇田、谷山の4ヶ所(それぞれ12cm高角砲2門づつ)に、また機銃砲台が郡元、二ノ谷、紫原、亀ヶ原に、探照灯が紫原と亀ヶ原にそれぞれ配置されており、そのいずれかを指しているのかもしれない。



日付 高射戦記、砲兵沿革史、復員省資料等による記事
昭和16年12月 独立高射砲第21中隊 7cm高射砲4門 
昭和20年6月 高射砲第131連隊 高射砲第7中隊 8cm高射砲6門
高射砲第131連隊 高射砲第8中隊 7cm高射砲6門(現在博多にあり)
高射砲第131連隊 高射砲第10中隊 8cm高射砲6門(新設備砲未着)
高射砲第131連隊 高射砲第12中隊 特7cm高射砲6門
高射砲第134連隊 タ号3型1基 調整中(高射砲隊電測小隊配置状況表より)
昭和20年8月 高射砲第131連隊 高射砲第7中隊 8cm高射砲
高射砲第131連隊 高射砲第10中隊? 7cm高射砲?
機関砲第21大隊 機関砲第5中隊 ケキ砲9門
海軍第5機関砲隊 25mm6門
高射砲第131連隊 タ号3型1基 否(電波標定機配置表より)