似島
2006.10.15 探索(北部 )
2006.11.5 探索(南部)
2006.11.6 新規作成
2021.8.24 全面リニューアル

 広島市の南に浮かぶ似島には、明治時代に検疫所が設けられて以来、終戦までに暁部隊の基地等の多くの軍事施設が造られた。その中の防空に関連するもののみを調査、まとめてみた。

 広島市似島臨海少年自然の家のHPで似島の軍事施設跡についてまとめたものがあり、安芸小富士とサルババの遺構について、参照させてもらった。


機銃陣地(間小屋)
監視哨(安芸小富士)
照空陣地(外方)
機銃陣地・監視哨(サルババ)


機銃陣地(間小屋)



左:航空写真(国土地理院、M850-A-51)

 似島の安芸の小富士の南側、間小屋と呼ばれる標高150mの尾根上に機銃陣地跡がある。主に3ヵ所の兵舎らしき平坦地と、6ヶ所の銃座らしき円形窪地から構成される。

 郷土地誌によると1945年7月に築城され、同じ7月に空襲に来た米軍機を1機撃墜したといわれている。配置されていた機器や部隊名は不明だが、立地からして船舶砲兵団(暁部隊)の関連部隊の陣地かと思われる。




左:平坦地A、右:平坦地Bの北端の窪み


左:平坦地Bを遊歩道から、右:平坦地Bを南から


左:平坦地C(東側切り欠き壁面)、右:平坦地C

 北側には、尾根を削り取る形で造られた平坦地A、B、Cがある。いずれも兵舎が建っていたと思われるが、コンクリート基礎や水槽といった遺構は見つからなかった。平坦地Cは2方向が切欠いた壁面になっていることから、兵舎ではなく弾薬庫であるかもしれない。


左:円形窪地D、右:Dの南側の土塁?


左:D-E間の平坦部、右:同左から南方向を望む


左:円形窪地Eの土塁、右:同左


左:円形窪地F、右:円形窪地Fの突出部


左:Fの西側のL字型窪地、右:同左


左:円形窪地G、右:同左の東縁


左:円形窪地Hの土塁、右:同左を南から


左:円形窪地I、右:Iの南側の堀切


 中央から南の尾根にかけては、6ヶ所の
円形窪地D、E、F、G、H、Iがある。一番北
にあるDのみが特別で、後のE〜Iはほぼ同じ
造りである。恐らくはDに射撃指揮具が置か
れていたか、もしくは指揮所があり、E〜I
には機銃が配備されていたのではないかと
思われる。
監視哨?(安芸小富士)





 安芸の小富士の山頂にも高射砲陣地関連の施設があったと聞いたので登ってみた。平坦部は殆ど無く、ABCの3つのアンカーボルト付のコンクリート基礎とDの西側にある平坦地でようやく何らかの施設があったことが判る。Aは6本、BとCは8本のアンカーボルトがついている。高角双眼鏡か何かの基礎と思われるが、現在建っている航空識別灯の関連施設跡の可能性もある。
 藪が酷かったので、それ以上の探索は行っていない。

 実は山頂には軍事施設は無かったのでは?とも思ったのだが、広島市似島臨海少年自然の家該当ページによると、山頂の近くに比較的しっかりと造られた防空壕があるらしい。そうすると、矢張り山頂に見張所や監視哨といったものがあったのではないかと思われる。


左:山頂、奥は航空識別灯B、右:アンカーボルト付のコンクリート基礎A


左:航空識別灯Bの北側、右:アンカーボルト付コンクリート基礎C


左:アンカーボルト付コンクリート基礎D、右:同左西下の平坦地
照空陣地(外方)



右:終戦直後の航空写真(国土地理院、M850-A-51)


右:1960年代の航空写真(国土地理院、MCG628-C22A-3)

 似島小学校・中学校の南東に伸びる岬周辺(外方)に、幾つかの軍事施設跡が残っているが、その岬の頂上部に照空陣地跡がある。道路脇から岬の先端付近まで遊歩道が整備されており、アクセスは簡単である(2006年当時)。ただし陣地南東端から本来の軍道を外れて直登道にロープを張ってある状態になってしまうため、岬の先端まで行くには軍手は必須である。また藪が酷かったので岬の先端部(上左図の薄墨色部分)には行っていない。


左:平坦地Gを北西から、右:平坦地Fの南西隅の土塁


左:平坦地Fの切欠き壁面、右:平坦地E


左:平坦地Dの北下、右:平坦地DとEの間にあるコンクリート製水槽

 1960年代の航空写真を見ると、この一帯が畑に
なっていた時期もあり、平坦面が当時の施設跡
なのか畑跡なのか判別するのは難しい。平坦地Fは
南と西に切欠き壁面があることから、また平坦地Eは
コンクリート製水槽があることから、兵舎が建てら
れてた平坦地ではないかと思われる。平坦地Dに
ついては、位置や大きさから聴音機壕があった
ものの、戦後埋められて畑になったのではないかと推測する。


左:平坦地C、右:平坦地Cの南東端にあるコンクリート製水槽


左:円形土塁Bの南面、右:円形土塁B内部のコンクリート製の内壁の残骸


左:円形土塁Bの内部、右:円形土塁Bの東側の窪地

 平坦地Cについても水槽があるので兵舎が建っていた
可能性が高い。円形土塁Bは、内部に二重土塁が残って
いないが、二重土塁内側の内壁の残骸があることから
照空灯座であると思われる。


左:円形土塁Bの北西縁、右:平坦地Aを南から


左:平坦地A南西隅付近にある窪地、右:平坦地A


左:平坦地Aの北下の平坦地、右:平坦地Aの東側、藪で地形確認できていない

 平坦地Aについても、形状が複雑であることから何かの
建物があった可能性が高い。
 平坦地Aの東側は、藪が酷く地形の把握が出来ていない
ので、もしかしたら何かあったかもしれない。
機銃陣地・監視哨(サルババ)

 広島師団史の「広島市及び周辺防空部隊配備要図」資料[30]では対空監視所のマークが描かれており、また郷土地誌によると1945年7月にサルババ(この岬の先端)に高射砲陣地を築城したとあったので、行けるところまで行ってみたものの、たどり着くことができなかった。


 広島市似島臨海少年自然の家によると、2006年当時たどり着けなかったサルババで、監視所と弾薬庫を発見している。

 三角点付近にある監視所としている遺構は、形状から機銃座かと思われる。上記の郷土地誌の「高射砲陣地」とは、これの事を指しているのではないだろうか。機銃座は2か所あるらしい。機銃座の近くにあるコンクリート製の水槽のようなものの用途はわからない。兵舎が建てられるような平坦地があれば天水桶かもしれないが、そうでない場合、待避所や弾薬庫といった用途も考えられるが、少し小さすぎるようにも思える。

 すこし東の尾根の鞍部にある弾薬庫としている遺構は、構造を考慮すると、機銃座とは時期が異なる物のように思える。戦争末期の建造物は資材不足や人手不足からもっと粗雑であり、このように石のアーチで天井を作るといった悠長なことはとてもできない。一方で明治期の要塞建造物ほど丁寧には作られていない。恐らくは昭和16年前後の、比較的造作に時間をかけられた時期のものではないかと推測する。用途も弾薬庫ではなく、どこかにあるだろう防空監視哨の付属施設(防空壕?)とか、そういったものではないだろうか。