日本の探照灯
(Japanese Search Light)





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履歴:
2007.6.9 新規作成
2007.7.26 陸軍93式管制器、発電車の写真追加
2007.11.19 海軍96式、写真説明訂正
2010.5.9 96式150cm探照灯と同管制器の写真追加
2013.8.1 追尾式追加、海軍性能一覧追加
2016.9.8 幾つかの写真リンクを追加
2020.9.1 別途新規作成したため、廃止



目次:

概説


海軍の探照灯

海軍 92式探照灯
海軍 96式探照灯
海軍 追尾式探照灯
海軍 その他の探照灯

海軍の防空砲台と探照灯



陸軍 要塞用照空灯

陸軍 外国製の照空灯
陸軍 93式150cm照空灯
陸軍 1式150cm照空灯
陸軍 3式200cm照空灯
陸軍 その他の照空灯


参考文献





概説




左:一般的な探照灯(スペリー社製)と、右:同管制器、Operation of Manual and Employment of Personnel, Antiaircraft Searchlight Units / Coast Artillery Field Manual / U.S.Army より


レーダーが実用される以前は、目標の測定に光学機器を使用していた為に、夜間射撃には探照灯が必須であった。防空用として使用される以前にも、艦載用や要塞用のものが存在していたが、いつ頃発明されたかなどはここでは触れない、というか調べてない。ともかく、どの用途でも、レーダーが実用されるまでは第一線で活躍していた。

一般的な探照灯の発光は、アーク放電によるものである。このアーク放電というのは、狭い間隔をおいた2つの電極に電圧(直流)をかけると放電し、極めて高温になり激しい光を出すというものである。陽電極をその温度で燃焼する素材にして電極の間隔を一定に保つように移動させてやるとアーク(弧光)放電が持続し、発生した光を凹面鏡に反射させて平行な光束にし、目標を照射するのである。同じアーク放電を利用したものに電気溶接がある。

より明るい光を出すには、放電時に流れる電流を大きくしてやれば良いのだが、いろいろと難しい面があるそうである。日本の探照灯は高いアンペア数と高い照度を誇っていたらしいのだが、それもレーダーの登場と共に意味の無いものになってしまった。



探照灯を運用するには、探照灯本体以外にも以下のような装備が必要であった。

(1)直流発電機
アークの生成には直流電源が必要である。しかし例え近くに電源があったとしても一般には交流電源しかなかったので、直流発電機が不可欠であった。
普通は直流発電機に交流モーターが直結されており、交流電源が確保可能な場合にはそれで交流モーターを回し、電源が無い場合には別途交流発電機(ディーゼルエンジンやガソリンエンジンに交流発電機が直結)を用意して交流電源とした。また車載型の探照灯では、トラックのエンジンで直接に直流発電機を回していたようである。

(2)管制器
探照灯で探知する目標は遠距離にあるために望遠鏡で確認しなければならないが、望遠鏡を覗きながら探照灯の向きを指示するのは難しく、その為にリモコン装置付きの双眼鏡で探照灯の遠隔操作を行う管制器が開発された。探照灯の光芒が入ると見えにくくなってしまうので、探照灯から少し離れた場所に設置されて使用した。

(3)聴音機
適当に照射を行って目標を捕らえるのはあまりに効率が悪い為、目標の発する音から目標の位置を探知する聴音機が開発された。詳しくは聴音機のページで説明するが、聴音機単独では射撃に必要な測定精度はとても出せなかったので、聴音機で測定した目標の位置情報を基にして探照灯を指向して照射し、光学機器で再度測定を行う必要があった。しかしそれでも何も無いよりは効率が良く、航空機の速度も遅くレーダーも装備されていなかった第二次世界大戦初頭まで各国で使用された。
また聴音機で測定した位置情報で直接探照灯を駆動するシステムもあった。レーダーが開発されると聴音機に取って代わり、レーダーで駆動する探照灯が開発されたりもしたが、すぐにレーダーの探知性能が向上して探照灯そのものが必要なくなってしまった。

(4)トラック
野戦用の探照灯は、必要な器材を全てトラックやトレーラーに搭載可能なように作られていた。固定式の防空陣地でも配置転換が頻繁に行われていた為に車載式探照灯が重宝されたが、トラックの台数を確保できなかったのであまり数は造られなかった。

(5)その他
他に連絡用の通信機等も必要であったらしい。



国産メーカーとしては、富士電機と東京計器(現トキメック)、島津製作所等があったらしいが、島津製作所の社史には作っていたとしか書かれておらず、詳細は不明。






海軍の探照灯

防空砲台で探照灯が必要になるまで、海軍で探照灯というと艦載用の探照灯だったが、より遠距離を照らすために高い光量が必要だった事、操作性の良さが必要だった事など、艦載用と防空用とで性能が殆ど違わなかったために、艦載用の探照灯に小改造をほどこして防空砲台に用いる事も多かった。

「海軍電気技術史」[3]に、探照灯の性能と機能向上という項目で、海軍の探照灯に関する記述がある。上手くまとまっているので以下にそのまま引用する。

・口径
艦船用としては、大和型の150cmが最大だった。それ以上は考慮の余地が無く、光力増加の為には基数の増加を行った。
陸上用としては、陸軍で200cmのものが製作されたものの、生産数量が減る上に輸送や装備が困難になるため、海軍としては150cm以上は考慮しなかった。

・電流量
96式探照灯の200Aが基準であったが、大和型搭載の150cmは300Aだった。
陸上防空探照灯の能力向上の要望に対して、艦船同様に150cm300Aとすることとしてその準備を進めたものの、実現するには至らなかった。

・操縦性能の向上
96式探照灯及び管制器においては、ワードレオナード方式による速度制御、セルシン方式による同期整合をなす方式を採用し、充分なる性能を得たが、管制器の重量や容積の関係上、小艦艇には搭載ができず、また大量生産には向かなかった。
探照灯を電波探信儀に追従させて目標捕捉を行う方式に関しては、セルシン通信器により方向を受信追尾するものは従来の聴音機との間に使用した99式連動装置をそのまま採用した。一方、探照灯専用の電波探信儀としては96式探照灯灯器に直接受信空中線を、管制器に発信空中線と受像機を装備する方法を完成し、L装置と称した。
この装置は電波探信儀部分のみを新造すればよく、整備も比較的容易だったので、終戦時までには相当数を整備することができた。

・構造の簡易化
構造資材の転換や節約と、大量生産の見地から、呉工廠を主体として製造会社と何回か研究会を開いて簡易化を計った。
主に生産増加が必要だった陸上用150cm、艦用75cm、40cm探照灯について実施された。
生産工程の隘路とその対策としては
1)部品数が余りに多いので、多少の性能低下や操作上の不便は我慢する事として、部品数の減少を計った。遮光扉の廃止などがその大きな例である。
2)ボールベアリングの入手が困難になったので、支障の無い部分では極力スリーブベアリングに転換し、またボールベアリングの使用種類を制限した。
3)歯車製造能力、特にベベルギアの製造能力が不足したので、歯車機構をスパーギアを主にするように、簡易化を行った。


他に、東京計器(現在トキメック)の社史[5]からも。
すべての海軍用探照灯の炭素棒保持器はスペリー式が主流であり、それに日本式の小改造をして使用した。日本式に改造した主な点は、急速弧光起動装置を組み込んだ事と、炭素棒を外部の扉を開けることなく換装する装置などであった。
戦艦大和、武蔵には、当社の150cm探照灯電流300Aのものが装着された。太平洋戦争中の日本海軍の探照灯は、欧米のそれに比べ数段の進歩がみられ、輝度においても、欧米では150cmで150Aくらいが最高であった。





海軍 外国製探照灯

戦時日誌や引渡目録等の防空砲台の記録を見ていると、須式110cm(スペリー式)、斯式150cm(火砲における斯式はスナイドル社だが、探照灯の場合はシーメンス社の可能性がある)、斯式75cmといった外国製の探照灯が出てくる。恐らくは古い艦載用の探照灯を取り外して陸上用にしたものかと思われる。

「呉海軍工廠 電気実験部の記録」[7]に外国製探照灯の製造権争いから92式の開発に関する記事があったので、その部分を引用する。

元来探照灯は、ドイツのシーメンス方式で占められていたが、新しく出現したスペリー式高光度探照灯は、海軍の逸早く注目する処となった。大正10年、東京計器は米スペリージャイロスコープ社と、探照灯及びジャイロコンパスに関する独占製造契約を結んだ結果、探照灯はすべて同社の製造する処となり、其の量は同社全生産金額の60%に達するようになった。他方シーメンス社と特別提携下にある富士電機は、シ社の新型探照灯により、ス社と対抗せんとして、各種のサンプルを提供したが、何れも海軍の要求に適合しないため却下せられていた。富士電機はこれに懲りる事もなく、シ方式に幾多の改善を加え、海軍当局の指導によって、我々の実験部における研究成果も十分採り入れ、海軍式探照灯を完成するに至って、状勢は一変し探照灯製造の主力は、東京計器から富士電機に移ったのである。






海軍 92式探照灯


富士電機社史[4]の記事からすると、シーメンス製110cm探照灯を改良したものが、92式110cm探照灯かと思われる。

艦載用としては従来もっぱらスペリー式90cm探照灯以下が採用されていたが、昭和6年に初めてオランダのネダロ会社(シーメンス傍系)製の艦載用110cm探照灯及び管制器1組を当社から納入した。それは軽合金板張りの弧光電流200Aのもので、管制器はスタンド型、管制方式は従動式と称するものであった。 海軍では従来のものに比べて著しく高性能を有する点を認め、以後艦載用110cm探照灯は全量を当社に発注することになった。 昭和7年にこの探照灯および管制器30組を受注したが、その頃はすでに兵器に関するシーメンス社の技術提供が途を絶たれていたので、これが製作は純国産化のよい機会でもあった。製作に際しては上記輸入品にくらべて著しく改良され、各種の性能は数段向上した。本機は92式110cm探照灯及び管制器と称された。


また、東京計器の社史によると[5]、92式は2人座乗式で、旋回と俯仰を別々に操作したらしい。





海軍 96式探照灯




左:室蘭の恐らく96式150cm探照灯、右:室蘭の恐らく96式管制器(左右共に[9]


オーストラリア戦争記念館[13]の写真:
写真1
写真2(左奥に96式150cm探照灯、右は形式不明、左手前に発電機)
写真3写真4(どちらも、レールを敷き防空壕へ収納できるようにしてある)




これまた長いが、富士電機社史[4]の記事が良くまとまっているのでそのまま引用。

同期駆動方式は電圧分割器と同期電動機とを組み合わせたもので、極微速の制御において両者を円滑に運転することが困難であったので、種々研究を重ねた結果、レオナード制御の直流電動機と強力セルシン電動機とを組み合わせた同期駆動方式を発明したのである。このレオナード発電機の界磁を振動接点制御器で制御することにより、速度比1:300の広範囲において、多数の同調電動機(直流電動機と強力セルシンを直結したもの)の完全同調運転が可能となった。本方式は探照灯に限らず、後記の機銃射撃式装置や74砲架(?)などにも広く応用されるようになった。

昭和11年には、上記の新方式を採り入れた96式110cm探照灯及び96式探照灯管制器の製作を完成した。その試験成績が優秀であったので、従来スペリー式を採っていた90cm探照灯も96式に改めることになり、これに従って昭和12年以降、当社発明になる同調電動機、振動接点制御器、レオナード電動発電機等は当社が独占的に供給するようになった。
昭和16年、17年には武蔵、大和に搭載する96式150cm探照灯、同管制器および選択接断器を納入した。探照灯の弧光電流は300Aで、この2基に選択接断器1基を組み合わせて管制器で制御するもので、1艦に8基を備えた。
これを陸奥、長門級戦艦の110cm(弧光電流200A)4基搭載に比べれば、空前の巨大な装備であったわけである。
海軍基地防空用としては、同上の96式150cm陸上用探照灯を昭和16年から終戦まで引き続き数百組を納入した。


同じく東京計器の社史によると[5]、96式は1人座乗式で、口径90cmは艦艇用、150cmは陸上防衛用で、「ク金物」と称する聴音機と連動した、とある。

メーカーによる多少の食い違いは、納入した機種の違いからであると思われる。






海軍 追尾式探照灯


追尾式150cm探照灯(96式150cm探照灯と同じ)、富士電機社史より

ボルネオ島のパリックパパンで放棄された移動式の150cm探照灯[13](96式150cm探照灯を現地で鹵獲した車台に載っけたような感じがする)



鹵獲した日本海軍資料を英語に翻訳した資料[10]内に、「Mobile Type」として、手書きの漢字で「追尾」と書かれていることから、陸軍で用いられているような車輪式の探照灯のことかと思われる。
戦時日誌や引渡目録を調べても国内では殆ど配備されておらず、呉の大平山と横須賀の小原台にあるのみである。
大平山の遺構を見ると、一段下がった場所に格納庫と思われる建て屋があり、そこからスロープがくの字に上へ登っている。使用する際に格納庫から引き出し、スロープを押し上げて高台に配置していたと思われる。また同様な遺構は陸軍の照空陣地に幾つか残っている。常に地上に露出している探照灯と比較すると、対空防御は高くなるが、採用された場所がごく一部であることを考慮するに、費用対効果が合わなかったのではないかと思われる。






海軍 その他の探照灯


左:96式90cm探照灯ムンダ島の探照灯(形式不明)、右:車載式の探照灯、
共にJapanese Defence against Amphibious Perations / Millitary Intelligence Division / War Department / U.S より


パプアニューギニアのラエで放棄された車載式の探照灯1車載式の探照灯2[13]


車載式の探照灯もしくは発電車[13]


形式不明の60cm探照灯[13]
形式不明の探照灯[13]


上に蝶番があるものと、右に蝶番があるものがある。どちらかが92式で、どちらかが須式かと思われるが、どちらがどちらという明確な資料が無い。






海軍の防空砲台における探照灯

国内や海外の海軍基地や要港は海軍の防衛担当範囲で、その周囲には防空施設として防空砲台や聴音照射所(他に聴音探照所、聴測照射所、特設見張所など名称多数)が海軍によって築かれ、高角砲や探照灯、聴音機や電波探信儀が装備された。

防空砲台への探照灯の配備に関して「海軍電気技術史」[3]にまとめられているので、これまた以下引用。


陸上用探照灯及び関連装置の整備

防空砲台1ヶ所について2から3基を1群として装備し、聴音機と関連して使用する方針だったものの、聴音機の性能が不充分であったために、聴音照射所として完備されたものは極少数であった。
戦争後半においては、電探と関連使用する事として、研究整備が進められた。
逐次、整備計画が作られたが、戦線の急速な拡大によって対応できず、防衛面への関心の薄さから生産施設の拡充も行われなかったが、当時は空襲を受ける事も無く特に問題視されなかった。大戦初期には探照灯の生産能力の過半を逆に電波探信儀の部品生産にあててしまい、それによって探照灯の生産数が減少した。実際には防空砲台の整備は、高角砲の生産数によって制限された為、探照灯を主装備とする照空隊が新設されるまでは生産不足も重大視されることがなかったのである。
防空探照灯は12cm双眼鏡付きの管制器によって管制される96式150cm200A固定装備を制式とした。一方で戦線の急速な前進移動に対処する為に、陸軍と同様に車両搭載の移動式のものも要望され、固定式の探照灯をトレーラーに搭載して管制器をトラックに搭載、トラックのエンジンによって発電点灯するように計画、月産20台程度を見込んだものの、トラックの入手が困難で、完成するまでに半年以上かかった。その後も実際の整備数も月平均10台に達しない、貧弱なものであった。
防空探照灯は、戦争前半までは主として防空砲台の一部として関連整備を計画されていたのだが、ラポールにおいて夜間戦闘機と協力成果を挙げていらい、探照灯を主兵器とする照空対制度がとられ、2から3基をもって1隊とした。
実際、ラポール攻防戦において、始めて本格的空襲を経験し、防空用探照灯が実用され、この充実が強く要望されるようになったのである。
その後、順次戦勢が守勢に回るようになり、夜間空襲を受ける事が多くなったので、防空探照灯の量産が本格的に取り上げられるようになり、製造会社の増加や施設の拡充を計ったものの、充分な成果をあげられなかった。
特に固定式のものにおいては、急迫した前線での装備工事が容易でなく、苦労して送付したもののどのくらいが実用されたのか疑問である。





海軍の探照灯性能一覧[10]

名称 照度アーク
長さ
電圧電流電力陽極
燃焼時間
陰極
燃焼時間
最大仰角最大俯角有効距離最大有効半径
H=6000m,60°
重量
本体
重量
付属品
操作
人員
96式150cm 13600CP30mm85V200A16.7VA30min90min100deg10deg8000m5000m1.5t0.26t4
96式110cm 13600308520016.7307010010600050001.34
96式90cm 13600308520016.7255010010400050001.14
92式110cm 128002876-8220016.74512010010600050001.754
92式90cm 128002876-8220016.7407010010400050001.64
須式150cm 90002270-8015012.0409010015700050001.44
須式110cm 9000227515012.0409010015600050001.24
須式90cm 90002272-7515012.0409010030400040001.04
追尾式150cm 13600308520016.7309010010800050001.54



管制機性能一覧[10]

名称 旋回角度最大俯角最大仰角ギア比最大旋回速度最小旋回速度本体重量最大電力電力
96式1号2型 360°10°100°1/60016°/sec0.40°/sec465kg3kwDC100V
AC200V
96式1号1型 360°10°90°1/60016°/sec0.40°/sec580kg3kwDC100V
AC200V











陸軍の要塞用探照灯

防空用の探照灯が必要になるまでにも、陸軍では要塞用の探照灯を装備していた。明治期の要塞用の探照灯は昭和期のものとそれ程変らないもので(90cm、78V、150A)[6]、手動で操作されていた。


昭和に入った頃から要塞用国産化が進んだようで、その辺りの経緯が富士電機社史[4]にあるので引用しておく。

大正15年に富士200cm探照灯第1号を完成した。大部分はシーメンス社の設計によるもので、反射鏡、6cm双眼鏡、灯器、離隔操縦機の接触盤などの部分はドイツから輸入し、それ以外は当社で製作したものであった。弧光電流200A、陽極炭素棒径16mm、陰極炭素棒径12mmの組み合わせで、反射光力は34億カンデラ以上であった。
その後製作した数台は輸入部品を減じて自社製に置き換えるようにしたものの、昭和6年ごろからドイツ軍部圧力により部品の輸入や技術供与が難しくなり、以後は自社開発するようになった。

それまでの探照灯は従動式とも称されるもので、操縦の途中に眼鏡の旋回よりも光芒の方が遅れて目標を逸することがあったが、昭和7年には電圧分割器(ポテンシャルディバイダ)と同期電動機との組み合わせによる同期運転方式を開発して、探照灯と離隔操縦機との完全同期運転を可能にしたので、この欠点は除去された。また反射鏡の大きさは200cmから150cmとなり、弧光電流200A、陽陰極炭素棒の径は14mm、11mm、光源光力は一層強大となった。昭和13年には艦載用探照灯の操縦方式を取り入れた96式150cm探照灯が完成した。
なおこれらの製品中には孤島の山頂などに据え付けられる場合もあって、その目的に応じて部品を個々に分解できる過般式あるいは遊動式のものも製作した。


他にも東京計器の社史[5]にも分割可搬式の探照灯の記事がある。

94型可搬式110cm、150cmは要地防衛用であり、本体をばらばらにして格納箱に入れ運搬できる構造だった。






陸軍の外国製照空灯

国産化するまでは海外からの輸入に頼っており、「高射戦史」[1]には以下の4種類があげられている。
・須式開放型照空灯(アメリカ、スペリー社製)
・須式軽胴型照空灯(アメリカ、スペリー社製)
・シ式軽胴型照空灯(ドイツ、シーメンス社製)
・改修軽胴型照空灯(ドイツ、シーメンス社製)
いずれも150cm、150A、63000カンデラ

輸入メーカーと国内メーカーにも関係があったようで、東京計器はスペリー社と、富士電機はシーメンス社と関係が深かったようである。以下、両メーカーの社史から引用。

富士電機社史[4]
防空探照灯は従来米国スペリー社およびその製造権を有する東京計器製作所が指名を受けて供給していた。昭和3年からは当社も指名されて、防空用シーメンス式150cm移動型探照灯を受注するようになった。
この探照灯は移動、照射、撤収を敏速にするために発電自動車を備えて、移動する場合に射光機、離隔操縦機、電線等の一式を搭載して運行し、照射の場合には直流発電機(110V160A)を運転して弧光電力、駆動電力等を供給できるようになっていた。

「トキメック社史」[5]
陸軍用探照灯もスペリー式であったが、ドイツのシーメンス式との間の特許係争和解後は、当社と富士電機との間で互いに技術交流をすることになったので、両者とも次第に類似のものになった。






陸軍 93式150cm照空灯


左:93式150cm探照灯と同管制器、運搬用トラック(トキメック社史より)、右:93式管制器(日本大空襲 / 月刊沖縄社より)
ニューギニアのウェワク島で放棄された93式150cm探照灯1
93式150cm探照灯2[13]
管制器と測距儀[13]



「高射戦史」[1]の記述を簡単にまとめると、

・スペリー式およびシーメンス式のいずれの特許にも触れず、炭素棒の落下を防ぎ、離隔操縦機を備えて空中聴音機と電気的連動が可能。
・射光機:四輪車上に胴反射鏡その他一切を装備
・離隔操縦機:最大100m、電気的に操縦、重量60kg、眼鏡倍率10倍
・発電自動車:一切の装具、人員を積載。照空時には発電機車となり、電力を供給。4t。発電能力は18kw。ケーブル長200m。
・性能:有効距離約4km、アーク電圧70V、150A、10億カンデラ


開発は富士電機、生産は富士電機の他に東京計器等が行った。両社の社史[4][5]を引用しておく。

「富士電機社史」
昭和7年からは前述の電圧分割器を用いた同期運転方式が採用され、さらに翌年にはこの型の改良機を試作した。改良の要点は離隔操縦機と空中聴音機とを連繋したことであり、これによっても暗夜でも射光機を容易に目標に振り向けることができ、照射によって直ちに光芒中に目標を捕捉しうるようになった。さらに目標捕捉を便にするために光芒開角を調整可能にした。また炭素棒の保持とその送り方法に著しき改良を施した。
この試作品は直ちに陸軍制式として採用され、93式150cm探照灯と称せられた。同時に他の製作社も本制式によって製作することになった。
この93式は昭和13年頃から急速に需要を増し、当社は毎月5台から10台を納入し、合計台数百台に上った。なお本機に装備する電源発電車はすべて当社が引き受けて、他の探照灯製作会社にも供給したが、その製作数量は当社用を含めて1000台を超えた。

「東京計器社史」
93式探照灯は昭和10年から太平洋戦争末期まで、多少の改造はあったが、機動性がある野戦用として量産された。管制方式は海軍の92式と同一であった。
探照灯は四輪車に固定し、これを発電機と共に大型トラックに積載して移動した。






陸軍 1式150cm照空灯


1式150cm探照灯、富士電機社史より



昭和18年に富士電機で開発されたらしい。[4]
性能:アーク電圧90V、250A、8〜9km[1]






陸軍 3式200cm照空灯

詳細不明
性能:アーク電圧90V、300A[1]






陸軍 その他の探照灯


東京計器の社史[5]に、変った探照灯の記事があったので、ついでに引用しておく。

・移動式柱上探照灯等
蒲田新工場が建築中であった昭和4年頃、突然陸軍から38式砲車の上に取り付けて移動する柱上探照灯26台を4ヶ月で製造するよう要求が合った。この探照灯は今まで製造した事が無いもので、75cmが10台、60cmが16台だった。支柱は写真機の三脚のように3個のパイプを組み合わせて最高7mまで調節可能な構造で、台の上に固定されて、台は牽引車の上に取り付けられていた。






陸軍 関連機器


3式120mm高射砲用の発電車(日本大空襲 / 月刊沖縄社より)

珍しいものが載っていたので、参考に。
これは3式高射砲の駆動用発電車と書かれていたが、照空灯用の発電車もこれと似たものかと思われる。








参考文献
[1] 「高射戦史」、下志津(高射学校)修親会
[2] 「陸戦兵器総覧」、日本兵器工業会/編
[3] 「海軍電気技術史」、防衛省戦史資料室/蔵
[4] 「富士電機社史」、富士電機
[5] 「トキメック社史」、トキメック(元、東京計器)
[6] 「日本築城史」、浄法寺朝美/著、
[7] 「呉海軍工廠 電気実験部の記録」、電実会/編
[8] 「日本大空襲」、月刊沖縄社
[9] 「(写真資料)」 国会図書館憲政資料室、マイクロ番号:USB13 R315、R316
[10] 「Translation No. 61, 18 May 1945, land-based AA gunnery manual」USB-10 R15 568-702、国会図書館 憲政資料室
[11] AUSTRALIAN WAR MEMORIAL https://www.awm.gov.au/








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