日本の空中聴音機
(Japanese Sound Locator)





こちらへ統合されました。



履歴:
2013.8.1 連動機内の追尾式探照灯についての説明修正、海軍聴音機性能一覧追加
2016.9.8 色々な写真リンクを追加、海軍の聴音機の装備方法についての考察を追加
2020.9.1 別途新規作成したため、廃止



目次:

概説


陸軍の聴音機

陸軍 75式聴音機?
陸軍 90式大聴音機
陸軍 90式小聴音機
陸軍 93式大聴音機



海軍の空中聴音機

海軍 90式空中聴音機
海軍 97式空中聴音機
海軍 仮称ヱ式空中聴音機
海軍 移動式軽便空中聴音機

海軍 99式連動装置
海軍の聴音機の設置方法についての考察


参考文献





概説



一般的な形状をしたドイツの空中聴音機
Sound Locators, Fire Control Systems and Searchlights of the German Heavy Flak Units / Werner Muller より



飛行機を見張ろうとしたとき、人間の目だけだと視野は広くとれるものの遠距離の目標を捕らえることが難しい。そこで望遠鏡を使うとかなり遠距離の目標まで捕らえることができるものの、視野が狭くて見張りには不適である。また夜間や霧など視界が全く効かない状態では、見張りは全く不可能になる。そこで考え出されたのが、目標の発する音によって位置を捕捉する空中聴音機であった。

空中聴音機の原理は人間の耳が音源の左右方向を捉えるのと同じであり、ただより精度を出す為に大型のラッパ型集音器を上下左右に配置し、それを上下担当と左右担当の2人のオペレーターに自分の正面に音源が位置するように仰俯・旋回ハンドルを操作させることによって、目標を正面に捕らえるという仕組みである。ただ音の速度は飛行機の速度とオーダーが同じである為に、目標の発した音が耳に届くまでに目標が移動してしまう距離が大きくなってしまうので、飛行機の速度分の位置修正を行わなければならない。しかし修正作業が必要となっても、条件が良ければ10km先の目標を探知することができた。
このように一応観測機器として機能していた聴音機であるが、目標が150m/s以上の速度になると精度が落ち、また風や大気の温度分布によっても誤差が生じる為に、レーダーが開発されるようになると、すぐに姿を消してしまうことになる。


空中聴音機は第一次世界大戦に登場し、第二次世界大戦が始まるまで、各国で様々な形状の空中聴音機が作られた。中には音をマイクで拾って電気信号に変換、処理する電気式聴音機や、水中聴音機のように複数のマイクを配置するもの、また聴音機と探照灯を連動させて照射を容易にさせたものなどもあった。
日本でも早くから研究が進められ、陸海軍でそれぞれ防空用の空中聴音機が開発されたが、欧米ではレーダーの登場で聴音機が消えていく中、日本ではレーダーの開発と生産が遅れていたために聴音機が数多く配備されている状態のまま終戦を迎えることになった。







陸軍の聴音機


聴音機のテストの様子、トキメック社史より



第一次世界大戦終了後、高射砲や探照灯の開発に並行して聴音機の開発が行われていた。大型は車輪式、小型は三脚式で移動を考慮しており、陣地固定用の物は作られなかったようだ。


東京計器(現在トキメック)の社史[5]に、陸軍の初期の聴音機の開発の様子が書かれているので引用する。

大正15年9月頃、技師坪井真男が主となり、研究所において部分的に聴音機修正装置の試作設計を開始したのが、聴音機製造に関与した最初であった。翌昭和2年、聴音機による探照灯の管制装置の開発及び製造を行い、昭和4年にはラッパ、本体および修正装置完備の、探照灯と連動する完全な聴音機を他社に先んじて完成させた。

聴音機の機構内には直径1mくらいの歯車のほか、多数の歯車があり、モータやシンクロ電機が取り付いていて、これらから発生する雑音を数デシベルに軽減する為に非常に苦労した。防音室内で、雑音を騒音計で測定しながら調整したが、室内は全くの無音のため、長く居ると気分がおかしくなる人もいたほどであった。






陸軍 75式大聴音機

高射戦史[1]によると、
「昭和2年11月完成、有効30km、光電」
とある。
研究用の試作品、しかも電気式の聴音機かと思われるが、他に見当たらず、詳細不明。






陸軍 90式大聴音機


90式大聴音機、トキメック社史より



高射戦記[1]の記事によると、4輪台車式で、ラッパは30分程で分解可能だった。ただしラッパが大きかったので風雨の影響を受けやすく、野戦には向かなかった。
使用方法は、目標の移動方向を仮定して設定すると、方向用・高低用の受音ラッパと機械的に連動した指針が動き、余切線図上で音源の現在位置や一定時間後に存在すべき未来位置等を簡単に計測できた。ただしこの計算機能は目標が等高度、等速度という仮定のものでないと使えなかった。

また東京計器の他に富士電機も製造をしていたようで、社史[4]によると昭和13年から14年にかけて陸軍用の大空中聴音機、小空中聴音機を製作したとある。






陸軍 90式小聴音機


90式小聴音機、「日本陸軍便覧」原題:Handbook on Japanese Military Forces、アメリカ陸軍省/編より



高射戦記[1]の記事によると、組み立て三脚式。大型に比べて多少の性能は落ちるものの、移動が容易だった為に野戦照空隊で使用された。探知性能は6〜7km、B29だと10数kmとある。






陸軍 93式大聴音機

高射戦記[1]の記事によると、四輪牽引車によって牽引され、台車上に受音機と計算装置を載せている。受音能力は90式と同等で、受音機の方向と高低角が電気的(光線で?)に計算機の余切線図に表示される。目標の現在位置は1名の操作員によって連続して照空灯の離隔操縦機に伝えられるため、発唱の必要がなくなった。計算装置は風や気温による偏差を自動で修正する機能を持ち、標示する現在地位を自動で修正することができた。とある。

同じ事が東京計器の社史[5]にも書かれている。判りやすいので引用しておく。
聴音機の聴音方向、高低角は機械的に四輪トレーラの上の修正機に伝えられた。修正には光線を利用し、光線の上に載せた余切板とよばれるガラス平板上に投影された光点で目標の位置を表示した。この余切板上の光点の移動から、目標の方向と速度を知り、修正手が手動で追従した。これによって目標の現在方向、高低角はシンクロ発信機から93式探照灯の遠隔操縦機に伝達された。









海軍の空中聴音機


国内外の海軍基地や要港が海軍の担当防衛範囲であり、戦争の可能性が上がると共に、その周辺に配置する防空砲台や特設見張所等で使用する空中聴音機が必要となった。しかし艦上では使えない為に研究開発は殆ど行われておらず、陸軍の聴音機や、輸入したドイツ製の聴音機に多少の改良を加えて採用していた。


「海軍電気技術史」[3]に概要がまとめられているので引用する。

探照灯指導装置としては以前は92式(97式の間違い?)空中聴音機を用い、更にこれに照空指導装置を組み合わせていたが、昭和15年2式(ヱ式?)空中聴音測装置が完成し、これを用いて実験射撃を行った結果これを採用し、空中聴音機と探照灯及び管制器が連動するようになった。
しかしヱ式空中聴測装置は強力な陸上用96式探照灯の指導を行うには、能力、精度ともに不充分であって、あまり歓迎されなかった。
一方開戦後に電波探信儀の研究が進み、敵機の探知が可能となったことから、聴音機は製造を中止し、全面的に電波探信儀に依存する事になった。照射電探として昭和18年末からL2と称する探照灯に直接空中線を張ったものが作られ、これが照空隊に供給された。これは装備調整が更に困難で性能も期待ほどではなく、数も多くは無かった。






海軍 90式空中聴音機

「日本海軍音響兵器整備経過の概要」[2]の記述によれば、陸軍のもの(恐らく90式小)を参考に技研電気研究部(音響研究部)で開発され、昭和4年〜12年にかけて東京計器で製作された。またこれとは別に、東京計器、日本計器(蒲田)および島津製作所(京都)で製造された(恐らく90式小)約30台が、陸軍から委譲された。(注:この辺り、日本語がおかしかったので意訳しており、原文の意味するところから外れているかもしれない)
三脚架台上に、エクスポネンシャル型(対数形状)ベニア板製ラッパ4個を十字型に配列している。ラッパの間隔は1.3m、旋回俯角各1名づつ配員して聴音する。三脚台上の部分のみが旋回するため、聴音手は把手ををもちながら周回しなければならなかった。修正器はなく、余切盤と呼ばれる簡易計算機が付属し、これによって目標速度を判定して敵機の未来位置を算定した。またラッパが木製布張だったので耐水性にとぼしかったようである。






海軍 97式空中聴測装置

「日本海軍音響兵器整備経過の概要」[2]の記述によれば、技研電気研究部(音響研究部)で開発され、東京計器と富士電機で昭和12年〜17年にかけて製造した。
90式を基にして探照灯との連動を主眼として改造し、聴測照射装置と称した。
聴音機2台と修正器2台、的速高度測定器1台で1組であり、それぞれの特徴は以下の通りである。

・聴音機:
鉄板製八角型(もしくは六角型、もしくは上記のエクスポネンシャル型?、字が汚くて読めなかった)木板張集音器を持ち、旋回方向は1.5m間隔、俯角方向は1.35m間隔で、三脚架台に装着された。音の拡大率は約20デシベル、指向性は1000サイクルで約30度、セルシン電動機による角度通報をもっていた。

・修正器:
的速を仮定することにより聴音方向と実際照準角度の修正を行うもので、半球形ガラス上に写される赤と白の光点から照射角を計算した。対応できる的速は80m/s(約300km/h)まで。

・的速高度測定器:
直径約1mの円筒上にガラス板があり、第一、第二修正器からの光点を一致させて高度(5000mまで)および的速(80m/sまで)を判定した。別に斜距離尺で目標までの距離も測定する。

製作にあたって多数の小歯車のかみ合わせと精度の向上、セルシン電動機によって発生する騒音の除去に苦心した。主に内地の防空砲台に固定装備された。また製造された全部が献納兵器として取り扱われた。一組45000円で約30組が製作された。



また東京計器と富士電機の社史[5][4]にも97式の説明が書かれているので引用する。

東京計器:
97式は音速修正した目標の現在位置を、光学的に立体的半球上に投影させるのが特徴だった。

聴音機の音速修正装置を通して、目標の現在位置の方向、高低角が角差修正器に送られる。角差修正器は聴音機と砲の位置の距離による視差を、簡単に図式で修正し、聴音機の探索した目標の方向、高低角を砲から見た角度に換算して伝達する装置であった。


富士電機:
少し遅れて海軍技術研究所の注文で製作した聴音装置は、聴音機2台、修正器2台、高度測定器1台を組み合わせて使用するもので、聴音機で音道を修正し、修正器で的針と的速を修正し、これらの修正された旋回、俯仰角の2組を高度測定器で組み合わせて、標的の高度や速度を知る仕組みのものであった。






海軍 ヱ式空中聴音機


ヱ式のオリジナルのドイツ製聴音機



全て、Flak im Einstatz 1939-1945、ならびに Sound Locators, Fire Control Systems and Searchlights of the German Heavy Flak Units / Werner Muller より




博物館に展示されている実物の写真のあるページ1ページ2[11]
オリジナルの正式名はSonderanhanger 104 (Sd. Ah. 104)で、この聴音機と150cm探照灯で台座が共通化されていたとある[12]


オーストラリア戦争記念館[13]所蔵:写真1写真2写真3、いずれもボルネオ島のバリックパパンの12.7cm連装高角砲陣地付属のもの。コンクリート基礎に直接固定している。




「日本海軍音響兵器整備経過の概要」[2]の記述によると、このヱ式空中聴音機はドイツのエレクトロ・アコースチック社製聴音機のコピーに電気的角度通報装置を付加したもので、呉工廠電気実験部で開発され、東京計器と富士電機、それから芝浦製作所(現在の東芝)が昭和14年から18年まで製造を行った。


聴音機、修正器、そして角度通報装置が、全て1つの架台に取り付けられている構造をしている。

・聴音機:
円周を四分割しエキスポネンシャル類似形を角型に曲げた集音機で、旋回俯仰方向のラッパの間隔は共に1.3mである。音の拡大率は1000サイクルで約30デシベル、旋回手俯仰手は互いに向き合って座った。

修正器:
簡単な構造だが極めて巧妙な装置で、的速100m/s(約360km/h)までの目標速度を修正する。修正手も架台上に座る。

・角度通報器:
最初はセルシンモーターを用いていたが、後に呉工廠電気部考案の分割式角度通報機(探照灯に連動する)を使用した。


昭和16年1月呉工廠電気部にて設計試作を行い、その後呉工廠から東京計器、芝浦製作所、富士電機の3社に各50台づつ発注された。1台の価格は約30000円。完成したのは約120台程度で、昭和18年には製造が打ち切られた。三社共に検査用として防音壁を特設するなどして、音響検査法が発達することになった。そして製品の精度は次第に向上して遂にはドイツ製品に劣らない製品が出来るようにまでなった。
このヱ式は、主に前進基地用として固定、または移動用に装備された。実用的に設計され堅牢で作動円滑、兵器としては申し分なかった。
また初期の電波探信儀の実験では、本機の架台をそのまま流用した。



「海軍電気技術史」[3]では以下の通り。

ヱ式空中聴測装置は92式(97式?)に比べれば音響的には大差が無いと思われるが、自体の中に簡単な敵機の進行方向ならびに速度を計測する計算機を備えていたので、呉工廠において99式連動機なる名称で、このヱ式聴測装置と探照灯管制器及び探照灯を自動的に同期運転させるものを考案し、これによって探照灯の目標指向にかかる時間を減少する事ができ、照空能力を向上させた。しかし空中聴音機としての性能には本質的に限界があり、実戦でも充分な戦果をあげられなかったので、昭和17年には照射用電波探信儀の出現を前提としてヱ式空中聴測装置の製造を中止した。ただし地務(?)の関係上、これを使って照空指揮が可能であるとする論も多数存在した。



製造会社である、東京計器、富士電機、そして東芝の社史[5][4][6]では以下のように書かれている。

「ク金物」と呼ばれた聴音機は、上下左右のラッパが密接して小型化しているため、取り扱いや運搬が便利であるだけでなく修正機構が純機械的でかつ自動だった。想定機体速度を設定するだけで、現在位置として96式150cm探照灯の管制器に伝えられる構造であった。(東京計器)

昭和17年には聴音機の仕様を米国エレクトロアコースチック社型に変更した。これは従来の聴音機とは趣を異にしたものであった。(富士電機社史)

海軍艦政本部第三部から発注された飛行機の方向をさぐるもので、かなり技術的にむつかしいものであった。しかし当社はこれを完成し、レーダーに代わるまでの間に75台(?)を作って納入した。(東京芝浦電気社史)






移動式軽便空中聴音機

「日本海軍音響兵器整備経過の概要」[2]の記述によると、三脚台上にパラボラ型ラッパ2個を1.3m間隔に配置し、その中央に7cm7倍双眼鏡を装備してラッパと連動させるもので、前進根拠地や停泊中の艦艇の甲板上での哨戒に利用された。 沖電気で約30台が生産された。






海軍 99式連動装置

ヱ式空中聴音機で測定した目標の位置情報から、直接に探照灯を操作する装置である。呉海軍警備隊引渡目録の大平山防空砲台での装備機器内に「追尾式150cm探照灯」というものがあるが、もしかするとこの99式連動装置のことを指しているのかもしれない。(2013.8.1訂正、追尾式探照灯は車輪付きの移動式探照灯の事)

ただ、この99式連動装置の名称は引渡目録では見つからず、また仮に追尾式探照灯がこれにあたるとしても、呉警備隊の大平山以外では、佐世保警備隊管内では不明、横須賀警備隊管内では小原台で2基が見つかるだけで、実際にどれほど流通していたのかは不明である。

「呉海軍工廠 電気実験部の記録」[8]に開発の詳しい経緯が書かれているので引用しておく。


照空連動装置

対空防御が大きな問題となり、空中聴音機で敵機を探知し、探照灯でこれを照射し得る装置の要望があった。これに対し、我々は照空連動装置と名づけた次のような装置を試作し、呉の付近の陸上砲台に装備された。この装置では、探照灯、およびその管制器は、機銃射撃装置と同様に一体として連動させ、空中聴音機は、これとは別にその旋回俯仰発信器を設け両者間の角差を、差動受信器(セルシン型)で求め、この角差が零となるように、探照灯のレオナード発電機を制御するようにした。制御方式は機銃射撃装置と同様に、一個の把手で操作する方法を採った。聴音機の精度は、余りよくないので、聴音機の指示する方向の周辺を照射探索する方法をこれに付加した。このために旋回、俯仰夫々に差動発信器(探索角度を発信するもの)を付加した。この装置は良好に作動したが、間も無く電探が登場し、聴音機が使われなくなったので無用のものに帰した。


99式連動装置の試作と実用実験

ドイツ製の空中聴音機と、探照灯との連動装置を完成して、その実用実験が行われた。部内各科からも応援を得て、警固屋の高烏砲台跡で行ったが、当夜は星の綺麗な夏の夜で、その夜のさまは未だに脳裏に焼きついている。種々の型をした飛行機に飛んで貰い、先ず空中聴音機でその位置を捕捉し、これに自動的に探照灯を追従させて、時折探照灯を照射しながら、索的の度合を確認する実験だった。私は探照灯の管制器を操作する配置だったが、12cm望遠鏡で見る星空や、視界に入った飛行機の美しさは忘れ得られない。真夏の作業だったため昼間は肌が焼け、汗の流れる激しい実験だったが、夜に入っての爽やかさのために元がとれる様に思われた。
この実験が完了して、辛労加給とかで特別の報奨金も支給された。又、「99式連動機」と正式に命名もされて、技術有功章も受領した次第である。




聴音機性能一覧[9]

名称 最大探知距離最大追尾距離誤差左右誤差上下誤差距離上下ラッパ左右ラッパ重量人員
ヱ式 15000m10000m0.4°0.4°1.33m1.33m1.4t3
97式 900060000.30.51.352.03.02
90式 80006000411.71.30.264






海軍の聴音機の設置方法についての考察


Yさん(Y勘さん)から、徳山高専の工藤先生(退職されたらしいので元先生)が、白木山砲台の2ヶ所の聴音照射所について探索した結果を、山口県地方史研究に発表したということを教えていただいた。

「周防大島の佐連山と伊崎山にあった聴測照射所」
 工藤洋三著 山口県地方史研究 第115号 別冊 2016年6月



 この論文で興味深いのは、Yさんの探索で見つけられなかった聴音機のすり鉢状窪地について、探照灯&管制器の位置関係と地形から聴音機が置かれていたと推測される平坦地と、その背後にある小屋の基礎らしい物とを繋ぐ、コンクリート敷の幅1.6m程の通路のようなものが双方の照射所に存在していることから、この照射所の聴音機が車輪付きの「移動式」の施設だったのではないか、と推定されていることである。

これは、目から鱗であった。
「海軍の聴音機は固定式である」という観念に染まっていた。探照灯については、「追尾式」探照灯として、呉海軍警備隊の戦時日誌の大平山砲台の項に書かれていたが、聴音機についてはそうした記載は無く、また見かけられる多くの遺構には、中心にコンクリート基礎があるすり鉢状窪地が残っていることから、疑問にすら思わなかった。

しかし自分でまとめた資料を見返してみるに、「このヱ式は、主に前進基地用として固定、または移動用」に装備された」と書かれている。書いた本人すら忘れてしまっていた。


そこで整理も兼ねて、海軍の地上基地における聴音機の設置方法について考察してみる。





・移動式と固定式

 初期に配備された90式は陸軍の軽量タイプのコピーで、重量は約260kg。三脚の上に装備されており、神輿のような運搬架台があれば数名で移動可能だが、どのように運用されていたかはわからない。その後開発された97式は付属機器も含めた総重量は約3トンだが、資料[2]によると固定装備式と書かれている。その為、ヱ式聴音機について考えてみたい。


 場所の移動が無い基地の内部で、探照灯や聴音機を移動式にするメリットは、別の場所にある格納場所へ移動することにより、雨風や空襲から機器を保護し、また偵察から隠匿することが考えられる。戦後の米軍の調査資料[13][14]等によると、スライド式の屋根のある照空灯陣地や、電探などではスライド式の建物の中に配備されているものもあったようだ。その反面、移動式にすると、それだけ施設が多く必要となり、また使用する度に展開と格納を行わなければならない。

仮称ヱ式空中聴音機のコピー元のドイツの聴音機は野戦用で、中央の台座とその前後に分離する仕組みの、大型の運搬車に乗せて輸送できるようになっている(参考:ページ1ページ2[11]
)。工藤先生の上記資料[10]内にあるヱ式聴音機の写真(別資料では長崎県で撮影とある)には、本家ドイツの物と同じ台座が写っているところを見ると、コピーは運搬用の車輪まで含めて丸ごと行われていたと思われる。

しかし、この大型の車輪は長距離輸送を考慮している為、日本陸軍の93式照空灯や、海軍の追尾式150cm探照灯と比べるとかなり大きく、写真を見てもタイヤの幅が少なくとも1.5m以上、また長さも5m弱はある。この大きなものを基地内で取り扱うには、それなりの広さが必要である。


 白木山砲台に付属する伊崎山と佐連山で見つかった通路とおぼしきコンクリート床は幅1.6mであり、この大型の運搬車向けのものとは考え難い。また舗装の先にある建物の基礎の寸法(Yさんによる実測)が3.2m×2.8mであることを考慮すると、尚更である。基地内での運搬専用の、小型の移動用台車を別途作成していた可能性も有るが、それにしてもコンクリート床の幅がギリギリである。ギリギリの幅の場所を車輪物を脱輪させずに移動させるのは大変な作業である。

 そこでもう一つ考えられる可能性が、レール式の運搬車を用いていたということである。 聴音機ではないが、レール式運搬式の探照灯の写真 [13]がある。幅1.6mのコンクリート床であれば、幅1.4mくらいでレールを敷くことができる。レールであれば、移動中に脱輪を心配しなくて済む。またレールの車輪であれば写真のように前後左右をコンパクトに出来るため、3m四方の格納庫に収納することが可能である。



 秋月砲台小松町の聴音機座は、大型のすり鉢状窪地があるもののコンクリート基礎が無く、代りに軽トラックでも通れるような大きな通路が開けてある。舗装はされていないものの、これならば大型の運搬車のまま移動が可能であり、野戦陣地のように中央の台座を地面の上に降ろし、そのまま使用していた可能性もある。


 全体的に、建築時期が遅くなるにつれて、永久固定式(聴音機を搬出する通路すらない)になっていく傾向があるようだ。深浦特設見張所の聴音機座にはコンクリート基礎が備えられているものの、北東に下るスロープと、その突き当たりに格納庫が置けそうな平坦地が作られている。この移動式→固定式へと変化する過渡期のものかもしれない。






・すり鉢状地形


すり鉢状窪地をした典型的な聴音機座


 特に、開戦後に建築されたヱ式聴音機用の聴音機座の多くは、直径15〜20mの大きなすり鉢状窪地になっている。これは陸軍でも同じで、大きさは7m前後と小さいものの、同じようなすり鉢状窪地が作られている。ただ、場所の都合から、直径10m前後の小さめの聴音機座となっている場所もある。
こうした形状は射撃用電波探信儀でも見られるが、地上の雑音を聴音機が拾い難くするための物であると推測される。

 陸軍の物には通路のない物も多くあるが、海軍の物には通路が付けられているものが多い。通路には人が出入りできるだけの狭いものと、軽トラックでも通れそうな広いものとがある(秋月砲台小松町)。

 殆どの聴音機座には、中央に独特のコンクリート基礎(アンカーボルトが8+1本)が有るが、秋月砲台小松町のように基礎が無い場所もある。これまでは金属回収の際に粉々に砕かれたのかと考えていたが、上記のように聴音機を運搬車のまま移動式として運用していたのであれば、コンクリート基礎は不要である。






・構築の時期と、装備機器と、聴音機陣地形状の変遷


初期:昭和12年頃 装備:90式聴音機
   
名称 竣工記述
永源山砲台
水谷山砲台
鹿ノ川砲台
大向砲台
烏帽子山砲台
螺山砲台
昭和12年9月当初は90式聴音機1
昭和18年末に装備換装で仮称ヱ式に交換される
転換時にすり鉢の増築
高烏砲台 昭和12年11月90式聴音機1。そのまま引渡。

90式聴音機時代の、聴音機施設がどのようなものかは不明。 烏帽子山と水谷山、高烏は、90式聴音機時代の施設跡が残っているかもしれない(要調査)。




中期(試行錯誤の時代):昭和15年〜昭和16年 装備:97式聴音機、仮称ヱ式聴音機
       
名称 竣工記述
亀ヶ首砲台 昭和16年11月竣工当初は97式2基。昭和17年4月の記事ではヱ式に。
右翼に聴音照射所らしいものはあるが、すり鉢というよりも円形窪地。基礎も無し。
左翼は未探索。この他にも聴音所があるかもしれない。
白木山砲台 昭和16年6月竣工時は一部未完成で、工事は継続されていたようである。
装備はヱ式2基だが、これが記事に出てくるのは昭和17年4月から。
佐連山、伊崎山の聴音所にはすり鉢状窪地が無く、円形平坦地とそれに続くスロープらしきもの
大平山砲台 昭和15年7月97式2基、追尾式探照灯2基。いずれもすり鉢無し。
大下聴音所には格納庫とスロープ。探照灯のもの? 聴音機の装備方法は不明
地蔵峠聴音所の探照灯は固定式。聴音機の装備方法は不明
前島砲台 昭和16年6月ヱ式1基。広めの円形の基礎らしいものはあるが、すり鉢はない。
スロープや格納庫っぽいものも見当たらなかった。

この時期と、工事開始が昭和18年中の防空砲台は、前島砲台と秋月砲台以外、全て左右2ヶ所の聴音照射所を持っている。





後期(すり鉢状窪地):昭和17年〜19年 装備:仮称ヱ式聴音機
                               
名称 工事開始竣工(中止)記述
灰ヶ峰砲台 昭和16年11月
(仮設砲台)
ヱ式の移動は昭和19年夏に白木山から。
航空写真にはすり鉢状窪地が写っているが、残っていない。
熊野砲台 昭和17年末頃19年夏(中止)ヱ式2基予定。
すり鉢状窪地2ヶ所中、1ヵ所で基礎あり、運搬用通路は無し
秋月砲台 昭和17年末頃昭和19年末?ヱ式1基。
すり鉢状窪地は1ヵ所あるが、基礎無し、通路広。
杉ヶ峠砲台 昭和17年末頃昭和18年末?
(中止)
ヱ式2基予定。
2ヶ所ともすり鉢状窪地&基礎&通路広?
大須山砲台 昭和17年7月ヱ式2基だったが、昭和19年夏に1基他へ。その際に配
置転換。
左右翼は未探索。右翼は写真からすり鉢っぽい。左翼は不明。
転換後の聴音座は小さめのすり鉢、連絡路は微妙な幅。
笠戸砲台 昭和18年春頃ヱ式2基予定。
左翼は工事中断、すり鉢だが通路無し。
右翼は深浦聴音照射所に。
深浦特設見張所 昭和16年11月17年頭ヱ式&150cm。すり鉢と基礎。
別にスロープ状の物と格納所らしき平坦地有り
引渡は笠戸砲台として。
特設見張所
(聴音機装備)
昭和16年
〜昭和17年
昭和17年
〜昭和19年頭
すり鉢状窪地小:

 通路広&コンクリート基礎有り:戸田
 通路狭&コンクリート基礎有り:厳島烏帽子山



すり鉢状窪地大:

 通路広&コンクリート基礎無し:小松町
 通路広&コンクリート基礎有り:室積
 通路狭&コンクリート基礎有り:津和地島中島板城村上蒲刈島中野村

 すり鉢状窪地に落ち着いていっている。場所によって移動式の所もあるが、殆どは固定式のようだ。スロープがあったり、すり鉢状窪地の通路が広いものの、中央に基礎が設けられている所は、後から固定式に改造されたのかもしれない。






昭和19年末から昭和20年にかけて作られた砲台や特設見張所では、聴音機は配備されず。











参考文献
[1] 「高射戦史」、下志津(高射学校)修親会
[2] 「日本海軍音響兵器整備経過の概要」、防衛庁戦史資料室/蔵、
[3] 「海軍電気技術史」、防衛省戦史資料室/蔵
[4] 「富士電機社史」、富士電機
[5] 「トキメック社史」、トキメック(元、東京計器)
[6] 「東京芝浦電気社史」、東芝
[7] 「陸戦兵器総覧」、日本兵器工業会/編
[8] 「呉海軍工廠 電気実験部の記録」、電実会/編
[9] 「Translation No. 61, 18 May 1945, land-based AA gunnery manual」USB-10 R15 568-702、国会図書館 憲政資料室
[10] 「周防大島の佐連山と伊崎山にあった聴測照射所」 工藤洋三著 山口県地方史研究 第115号 別冊 2016年6月
[11]
「Richtungshorer Ringtrichter RRH (Novion)」http://www.maquetland.com/article-phototheque/2509-richtungshorer-ringtrichter-rrh-novion
[12] 「3.7cm Flak 37 (Sd.Kfz. 7/2)」http://www.onthewaymodels.com/reviews/RevellAG/AlMagnus_Revell_03207_review.htm
[12] 「Survey of Japanese Antiaircraft Artillery」GHQ USAFPAC AAA Research Board, 1946.2.1 国会図書館(WOR 9670-9675)
[13]
AUSTRALIAN WAR MEMORIAL https://www.awm.gov.au/
[14] Electronics / Evaliation of Photographic Intelligence in Japanese Homeland / The United States Strategic Bombing Survey








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