連島 防空高角砲台


2009.5.10 砲座等の写真を追加







左:一番東側の砲座、右:同左を上から



左:砲側弾薬庫、右:同左内部



左:砲座を南側から、右:砲座付近から東側を望む



左:砲座のあった高地E付近、右:同左



左:砲座のあった高地E付近から北西方向を望む、右:水島方向を望む



左:指揮所?Aの東端の窪地、右:東から2番目の窪地



左:東から3番目の窪地、右:西端の窪地



左:指揮所?Aの石垣、右:内部の窪地



左:指揮所?Aの背後、右:同左の石垣



左:弾薬庫?B、右:同左手前の石垣



左:弾薬庫?Bの北東端、右:西壁の石垣



左:弾薬庫?C、右:同左



左:弾薬庫?C北西方向、右:同左石垣



左:航空写真で兵舎の写っている付近、右:同左の西側





国会図書館蔵の米軍の空中写真(USB-15 R-13-121より)
写真のAは砲座付近、Cは恐らくは兵舎。また写真のDは麓にある小学校。Bは外れでただの影だった


戦争遺跡系の資料によると倉敷芸術科学大学の南東の丘陵上に5ヶ所の砲座に関連する遺構(コンクリート製の砲側弾薬庫)が残っているらしいが(地図のEの高射砲マーク5ヶ所)、引渡目録の連島の項には高射砲が入っていない。終戦間際に他に移されてしまったのだろうか。構築時期は「水島の戦災」によると昭和19年夏とあるのだが、戦時日誌の記事からすると昭和20年1月(呉警備隊による応急配備)よりも後ではないかと思われる。


2009年1月に再訪して地元の方に伺ったところ、一番東側の砲座跡と砲側弾薬庫の場所を教えていただいた。一見したら見過ごしてしまうようなところである。写真には砲座の中心に穴が空いているが、これはゴミ捨て用に掘ったもので遺構とは関係の無いものだそうだ。砲座の大きさは直径約7mである。同じ標高をたどって他の砲座を探してみたが、一応平坦地は幾つかあったものの砲側弾薬庫は見つからず、それが砲座なのか戦後の畑なのかの区別がつかなかった。
詫間の防空砲台と同様に、斜面に平地を掘り下げて、それを砲座としていたものと思われる。こうすれば広大な平地を掘削することも、砲座に土塁を造るもしくは砲座を平面から掘り下げる必要なく、作業を大幅に低減することが可能だ。問題としては、指揮所から砲座を直接視認出来ないために指揮がやりにくくなったり、地形から射撃方向に死角ができてしまうかと思われる。

老人ホームDの入口にある遺構Aは、用途不明である。大きな窪地を中心に東から南東にかけて4ヶ所の窪地が繋がった形をしているのだが、砲台の指揮所というには見慣れない形である。弾薬庫候補の遺構と同じく、採石場の跡かもしれない。

遺構Aの北側に弾薬庫らしい遺構B・Cがある。Bは方形、Cは歪な形状で、どちらも土留めに石垣が造られている。位置や形状から砲台の弾薬庫ではないかと思うのだが、ただの採石場の跡の可能性も捨てきれない。

航空写真のCの兵舎らしいものが建っていた場所に行ってみた。写真に写っていた軍道と同じ位置に今も道が残っており、兵舎の位置付近は畑になっている。証言こそ得られなかったが、この付近に兵舎があったのではないだろうか。



また西下(倉敷芸術科学大学の南東下の谷筋)の畑で作業をしていたおじいさん数人に話を伺ったところ、
(1)ジャガイモを取りに行っていたら空襲が始まった
(2)大正時代の高射砲で届かなかった。破片が多く落ちて来た
(3)ジャーバン(良く聞き取れず)の辺りに探照灯があった。ラツ神社(聞き取れず、結果的には厄神社だったようだ)の上の方
という話を聞くことが出来た。
88式野戦高射砲は昭和3年制式化なので大正時代という表現も当を得ていて面白い(そうなると海軍の10年式12cm高角砲は本当に大正時代の高射砲だ)。また届かなかったという話も半ば事実として語られているが、実際には爆撃高度は5000m前後であり一応届く高度だったものの、数が絶対的に不足していたので当らなかった事には変わらない。


その他:
・海軍の防空高角砲台は一般的に平坦地に築かれた。山上の場合も中世山城のように山頂部を削って平坦部を造り出した。また一部の山上に造られた応急高角砲台は平坦部を削り出さず、なだらかな尾根上に砲座を配置した。しかしこの連島の高角砲台のように、緩やかな丘陵部の少し下がった周囲に砲座を築くことは珍しい。このような造りの砲台は他に詫間航空基地の高角砲台でしか確認していない(2009年5月現在)。



日付 引渡目録による記事
昭和20年8月 引渡:
 なし



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