本庄水源地 聴音照射所・応急防空機銃砲台





本庄水源地 応急防空機銃砲台(2007.2.14)







米軍の航空写真(R462-28、国土地理院)での施設の配置





呉市街の北8kmにある本庄水源地付近に応急の防空機銃砲台が築かれていた。
現在は呉市水道局の管理下にあり、銃座のある場所は普段は立ち入り禁止になっているが、事前に申請をすれば立ち入りを許可してくれる。また桜の開花時期にも一般公開しているらしいが、この際に銃座のある場所に入れるかは不明。




左:銃座Bを南から、右:銃座Bの円形土塁の西側



左:銃座Bの円形土塁の西側を北から、右:銃座Bを北から



左:銃座Cを東から、右:銃座Cを南東から



左:銃座Aを北から、右:銃座Aを西から



左:銃座Aの円形土塁の南東部分、右:銃座Aの円形土塁の北部分



左:平坦部南縁、右:Dから北を望む



左:銃座Aの西側から南を望む、右:平坦地の東側の斜面を南から





施設拡張の際に大きく削られているものの、2基の銃座と半分削られた1基の銃座が残っている。内径は約5mで13mm連装機銃のものとしては多少大きいが、同じような円形土塁が3つ並んでいるので、機銃座かと思われる。それぞれ1ヶ所づつ出入口が設けられている。
また南西端部には少し窪んだ平坦地Dがあるが、何の為に段差が設けられているのかは不明。

昭和19年11月に熊野砲台の探照灯と聴音機を移設して聴音探照所が建設されたが、この際にこの銃座を再利用した可能性もあるものの、この遺構からだけでは判断のしようがない。


日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年6月 新設完備せる機銃砲台(応急)に11名配員
13mm連装機銃3基 応急(分散格納)により新設完備
昭和19年7月 13mm連3基 応急既設
昭和19年8月 25mm連3基 応急既設
昭和19年9月 13mm連 3基 既設(応急分散)
昭和19年10月 既設 13mm連3基(応急分散)
昭和19年11月 13mm連3基(応急分散) 既設





本庄水源地 聴音探照所(未探索)





左:米軍の航空写真(M2_6-142、143、R462-28)での影、右:現在の地図へのプロット



本庄水源地の聴音探照所の位置だが、米軍の航空写真を見てもあまりハッキリとした物が写っていない。その中で最も可能性の高そうなものは、本庄水源地北隣のレイパーク本庄になっている付近と、本庄水源地から少し北の熊野町東山にある防主山緑地付近(下記)。レイパーク本庄付近の遺構はレイパーク本庄整備の際にほぼ消滅しており、南にある機銃砲台跡との間にある小さなピーク一つが残っているだけ。ここに遺構が無ければ確認のしようがない。また防主山緑地付近も辛うじて頂上付近が削られずに残っているものの、公園に整備されてしまっており、たとえここに探照灯台があったとしても何らかの遺構が残っている可能性はかなり低い。ともかく聞き込みなり強襲なりしてみないことにはどうにもならない。





本庄水源地 聴音探照所候補 防主山緑地 2007.4.28



米軍の航空写真(M2-6-144、国土地理院)



左:米軍の航空写真(R462-29、国土地理院)、右:現在の地図へのプロット



左:全体図、右:主要部




左:西側からの遠景、右:北側から



左:貯水槽A、右:貯水槽Aの東側のポンプ室



左:公園Cから貯水タンクB、右:公園C、北端に公衆トイレ



左:防空壕もしくは切欠平坦地跡?D、右:Dを上から



左:切欠平坦地?E、右:Eにある方形窪地



左:溝跡?F、その1、右:溝跡?F、その2



左:石垣G、右:石垣G



左:石垣H、右:石垣H



左:大竪堀?I、右:Iの上端から公園Cを望む





とりあえず防主山緑地に行ってみる。
写真に写っていた部分周辺は削り残されていたが、肝心の山頂付近は貯水施設と公園が造られており跡形も無い。最高所は貯水槽Aで20m四方の広い平坦地になっている。そこから少し下がって北に貯水タンクB、公園Cと続いている。
Aの西下斜面には防空壕もしくは切欠平坦地の跡かと思われるDがある。またこの更に西下には切欠平坦地Eがあり、この南東隅には一辺が1m程の方形窪地がある。航空写真にある、円形構造物の西下の影がこれらの遺構?らしきものにあたるのではないかと思われるが、当然に戦後のものである可能性もある。
山の北東側は大きく削られて崖になっているが、その南側に溝らしいものFがある。こちらも連絡通路だったのか、ただの山道だったのかは不明。また山の東側の斜面に石垣GとHがある。普通の石垣と違い、「く」の字にしかも折角部が下に落ちるように組んである。石垣Hの折角部に塩ビパイプが一ヶ所付いているが、他には無いので後から挿入されたものかと思われる。しかし土留めにしては変な形をしており、目的や設置時期は不明である。航空写真にはこの辺りにも影が写っており、F〜Hはその関係施設跡の可能性がある。
北斜面には大竪掘Iがある。中世には城山だったのかもしれないが、教育委員会の資料には防主山は何も触れられていない。


近くの田んぼで代掻き作業をしていた年配の人に聞いてみたものの、知らないと言われてしまう。他の人にも聞こうかと思ったものの、久しぶりの全身運動で疲れて面倒くさくなったのと、丁度バスが来てしまったので帰ってしまう。今にして思えば近くのお好み焼き屋などで昼食がてら情報収集もできたのではないかと思うが、例えここにあったとしてもこれだけしか残っていないのでは、テンションが下がって何事も面倒くさくなってしまう。





日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年11月 150cm探照灯1、空中聴測装置1、熊野砲台に装備すべきを上所に変更
昭和20年8月31日 引渡:
96式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
仮称ヱ式空中聴測装置、付属品補用品共 1基 仮設

用地:6750m2、建物:141m2





ここから以下のページへいけます。