岩熊山




2016.12.14 探索結果を基に、ほぼ作り直し



右:米軍の航空写真(R515-2-122、国土地理院)



(遊歩道などは整備されていない。今回は南東麓の墓地付近から山に入ったが、団地の上水タンク(山頂北東下)からのアプローチが一般的らしい)




米軍の航空写真を見ると、下松市と徳山市(周南市)の境目にある岩熊山に円形窪地や施設らしい平坦地等が幾つか写っている。しかしこの付近にそれらしい砲台も聴音探照所も無く、謎の施設である。

2016年春に、Y勘さんに案内していただき、この謎の岩熊山に登ってみた。
一通り回ってみて、得られた結論は、
…やっぱり謎だった。




わからないなりに、岩熊山の現状と、幾つかの関連のありそうな資料、そしてそれらから推測される可能性について、まとめておく。







岩熊山の現状(2016.3.27 探索):

主要部(謎施設1、謎施設2)

機銃陣地1、機銃陣地?2








1.戦時日誌・引渡目録等の資料から見た岩熊山


開戦前については演習等の記録が、また昭和16年11月から昭和20年末までについては海軍の戦時日誌や引渡目録、その直後には米軍の接取記録等が残っているが、それ以外の時期については、記録が無いため不明である。

ここでは、存在する記録の中で岩熊山の遺構に一致しそうなものを、取りあえず書き出してみた。



(1)呉海軍警備隊の戦時日誌の昭和19年7月の記事[1]にある「久米砲台」

昭和19年7月
 久米:12.7cm連装高角砲 2基 官房艦機第1661、3544号 工事未着手
 北山:98式10cm連装高角砲2基、官房艦機密第3500号に依る新設予定地

 小野:25mm連装機銃6基 官房艦機密第157号に依り工事未着手(S19.7)


昭和19年8月
 北山:12.7cm連装高角砲2基 官房艦機密第1661号及第3544号に依り工事中
 太華山:98式10cm連装高角砲2基 官房艦機密第3500号に依る新設予定地


 昭和19年7月に久米(岩熊山の近くの地名)に防空砲台の建設が予定されている記事が出てくるが、翌月には12.7cm連装高角砲は北山にシフトし、北山の10cm連装高角砲が太華山へとシフトし、戦時日誌から「久米」の地名は消えてしまう。記事内でも「工事未着手」とあり、工事は着手されていなかった可能性が高い。

 一方で、引渡目録の中の呉鎮施設一覧[2]と徳山海軍警備隊兵器目録[3]には、それぞれ呉鎮守府関連施設、徳山警備隊関連施設の敷地一覧が掲載されているのだが、そこに岩熊山と思われる項目は存在していない。
 こうした資料に無い、と言うことは、「久米砲台」は工事未着手どころか用地買収すらされていなかったか、それとも岩熊山で終戦直前のドサクサに正規の土地買収手続きを行わずに強制接取して何らかの工事を行っていたか、もしくは岩熊山の施設跡は海軍とは無関係、ということになる。




(2)戦前の演習用の施設跡?

昭和10年防空演習陸上防御計画並びに実施概要[4]
別表第6 指定部外対空見張所編成表の中に、「下松」「福川」「花岡」「大華」がある。

昭和11年呉鎮守府防空演習研究会記事[5]
徳山防禦部隊編成表の中に、機銃防空砲台として、稲荷山(2)、福川高地(1)、花岡高地(1)

昭和10年の演習での「下松」は、岩熊山に近いことから怪しいように思える。また昭和11年の演習での「稲荷山」は場所が不明で、仮に地元で岩熊山が「稲荷山」と呼ばれていたとすれば、これが怪しくなる。

ただ、これだけ立派な山だと、明確に「岩熊山」と記録されるものであり、候補としては弱い。







2.岩熊山と、徳山燃料廠の位置関係


右赤丸が岩熊山。同心円は1000mピッチ。大迫田機銃砲台は位置不明の為省略


・高角砲台の可能性
 高角砲の有効射程範囲は約5000m。
 太華山や、地図には無いが北山、仙島砲台と同じ位の距離

・照射所の可能性
 探照灯の有効半径は5000〜10000m程。
 燃料廠本体からは少し離れるが、大迫田のタンクに対しては東山砲台の探照灯と同じ位の距離

・機銃陣地の可能性
 機銃陣地は、防御地域の500〜1000mの近い範囲。
 大迫田のタンクからも1000m以上離れる上に、南と東方向しか射界な無い為、徳山燃料廠関連の防禦陣地ではない。
 可能性が有るものとしては、鉄道の分岐点を防禦するための機銃陣地だが、それなら山頂に置けば良いわけで…。







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3.推測される可能性について





(1)山頂の主要部


左:米軍の航空写真(R515-2-122、国土地理院)




地形についての考察:

 円形窪地Aを無視すると、直径20m程の円形平坦地と、そこから30m程はなれた場所にある内径約5mの円形窪地とが、岩熊山山頂と南西300mピークとで、それぞれセットになっている。
 ここまで似通った形状のものが、別の時期に別の目的で作られる可能性は低いことから、恐らくこの2ヶ所の施設跡は、同時期に共通の目的で築かれた可能性が高い。

 そしてこれらの施設は、終戦直後の航空写真にいずれも明確に写っていることから、終戦までに構築されていたと考えるのが妥当である。


北西側の円形平坦地Aの穴に対して、東南側の円形平坦地Cにも掘りかけた跡がある為(掘った際に出てきたと思われる石も積まれている)、こちら側も西側のような直径10m程の深い穴を開ける予定だったものが、掘り始めたところで工事中止となってしまったとも考えられる。





(可能性1-1)高角砲陣地?(偽装砲台?)

北西側の円形平坦地Aに開けられている直径10mの穴は、見た目、高角砲座のように見える。

徳山周辺では新宮砲台にある砲座の形状がこれに似ている。また周囲の地形や尾根の痩せ方も考慮すると、江田島にある飛渡瀬第一砲台の構造が、より近い。



左:飛渡瀬第一砲台、右:新宮砲台


飛渡瀬第一砲台と新宮砲台の縄張図を見ると(上の岩熊山山頂の縄張図とほぼ同一縮尺)、岩熊山山頂部にも2基の高角砲座と射撃指揮所を構築する広さは十分にあるようであるが、実際に海軍の「防空砲台設営参考書」[6]等では、標準的な高角砲の砲座の間隔は約50mとなっており、高角砲陣地としては岩熊山山頂だけでまかなえそうである。

ただし、この際、南東側のピークは何なのか?ということになる。
標準の高角砲座の間隔は約50mであり、岩熊山山頂のAから300mも離れたC、にもう1基の高角砲座をわざわざ離して配置する可能性は低いと思われる(同一指揮下にある砲座を離し過ぎると、指揮が難しくなる)。

その為、仮にAの穴が高角砲座であったとした場合、2つのピークにある直径20mの円形平坦地と内径5mの円形窪地のセットは、高角砲座とは関係が薄くなる。


円形平坦地Aの穴が高角砲の砲座だとするならば、この穴を掘る前に、岩熊山山頂とその南東300mのピークとに、直径20mの円形平坦地と内径5mの円形窪地とで構成される何かしらの施設を2セット構築しようとしていたものの途中で工事が中断され、その後しばらくしてから、岩熊山山頂の地形を利用して、高角砲台の築城を開始したものの、こちらも砲座を1ヵ所(円形窪地A)掘った所で、またしても工事が中断された、ということが考えられる。


しかし、それでは前半の工事では何を築城しようとしていたのか?、2セットの施設は何だったのか?となると、記録も何も無いため、推測は難しい。



偽装砲台は、通常の高角砲台とほぼ同じ規格で作られる為[7]、この可能性もある。





(可能性1-2)聴音照射所2組?

 直径20mの円形平坦地と内径5mの円形窪地とで構成された東西1対の謎施設のみを考慮した場合、内径5mの円形窪地BとDの候補として最も可能性が高いのは探照灯と思われる。
 そしてそれと組になっている直径約20mの円形平坦地AとCについて考慮したとき、形状だけで最も可能性が高いのは、聴音機である。海軍の「防空砲台設営参考書」[6]では、聴音機壕の内径の標準は25mであるが、実際には15m〜20mの物が多く、外径が20mでも(作りかけの)聴音機壕である可能性がある。

 一方で同書[6]では、聴音機に雑音が入らないように探照灯と聴音機の間隔を30m〜50mを、また眩惑されないように探照灯と管制器の間隔は60m〜80mをそれぞれとり、また照空視界に視界を与えない位置関係に配置するよう指示している。
以上の条件だけから考えると、多少狭いものの、管制器用の円形壕は未工事とすれば、可能性としては無くはない。

 しかし、「15式永久防空砲台の建築標準書」[8](米軍の鹵獲資料)によれば、通常は2基1組の聴音照射所は高角砲台に付属して設置され、その際は高角砲台から約1000m、聴音照射所間は750m〜3000mの間隔を空けるとされている。しかしこの2ヶ所の謎資料は300mしか離れていない。また、付属する筈の高角砲台も近くには見当たらない。
 また、このような聴音照射所が2基1組で付属する防空砲台は昭和17年位までに築城されたものであるが、そうした記録の残っている時期にも関わらず、この施設についての記録が無いと言うことは、これが聴音照射所ではない、ということの証明のように思われる。





(可能性1-3)探照灯電探?

 もう一つ考えられるのは、探照灯電探である。L1からL3まで3種類あったが、L2型が多く装備された。こうした探照灯型の電探は、通常の探照灯と管制器に、電探の送信機と受信機を装着し、探知した敵機の方向に管制器で探照灯を操作して向けるというものである。元は英国の鹵獲品を参照にしたようである。
 直接高角砲を操作するのではなく、わざわざ探照灯を間に挟むのは、この電探が作られた大戦初期の段階では、直接照準を行う為に必要となる精度を出せる程の波長の短い電探が作れなかったことが理由である。探照灯なら射光が広がることから初期の波長の長い電探でも、敵機を照射範囲に収めるには十分な精度であり、照射して浮かび上がった敵機を光学機器で計測し、その諸元を基に射撃を行った。

 ともかく、探照灯電探は、電探装備が追加された探照灯と管制器のみで構成されている。内径5mの円形窪地に管制器を、直径20mの円形平坦地は、その内部に電波反射を考慮して摺り鉢状に掘り、更に中央部を掘りこんで地下に電探室を作り、その屋根にアンテナ付きの探照灯を配置すると考えると、過不足無く収まる。また岩熊山山頂側の円形平坦地Aに掘りこまれた10mの穴は、地下電探室と、すり鉢状構造の作りかけ、と見ることができる(下図)。






 しかし残念な事に、探照灯電探は徳山警備隊の装備品としては記録に残っていない[9]。終戦時、下関防備隊の倉庫にL2が2基在庫が有るが[10]、昭和20年6月頃の「電探関係配属一覧表」[11]によると、部埼と六連島に配備される予定だったようだ。呉鎮守府管下でも、S24やS23の射撃用電探は幾らか在庫があったようだが[12]、L2等の探照灯電探は、先に決まった配備地に置かれており、岩熊山に配備予定だったと思われる在庫は見当たらない。

 また、探照灯電探は生産数もL1からL3までで200基程度であり、その貴重な装備品をこれだけ近い距離に2基も設置したのか?という点でも疑問符が残る。











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(2)機銃陣地



左:米軍の航空写真(R515-2-122、国土地理院)


左:機銃陣地1(西側)、右:機銃陣地2?(東側)





地形についての考察:



 こちらの地形も、終戦直後の航空写真に明確に写っていることから、終戦までに造られた物であると考えるのが妥当である。


 機銃座はその形や大きさが炭焼き窯と似ており間違えそうになることも多いが、炭焼き釜は斜面に作られていることが多く、このような尾根上にあるものはこれまで見たことが無い(熱効率を良くする為かと思われるが、理由は不明)。また機銃陣地1のように炭焼き窯を扇型に配置する理由は無く、機銃陣地2?の方は銃座の形状が鍵型で炭焼き釜のように入口が開放されておらず、これでは炭は焼けない。

 古墳という可能性も存在はするものの、機銃陣地1、2両方共、銃座は掘り跡が明確で崩れが殆ど無く、どう見ても1500年前の古墳時代どころか、400年前の戦国時代の遺構(井戸跡等)ですらない。

 戦前戦後の畑の付属物(肥溜め、水貯め、焚き火用の窪地、等)も、ただの円形窪地であり、鍵型や出入口があるものは無い。


 その為、機銃陣地1と機銃陣地?2は、それぞれ機銃陣地であると見て良いと思われる。




機銃陣地1 機銃陣地2?
銃座の配置 扇型状(4基)+ 1 2基 + 1(1?)
銃座の形状 円形窪地とそこへの出入口
内径は2m〜3m
窪地が鍵穴形状で弾薬置き場っぽい?
内径は2m〜3m



 機銃陣地1では、ほぼ同形状・同寸法の銃座が5基あり、その内の4基が最も一般的な銃座の配置である扇状に配置されている。ただ、残りの1基は少し離れて配置されているが、どうしてかは判らない。これを指揮所と見るには、形状がほぼ同一で追加施設も無く、これも銃座である可能性の方が高そうだ。

 機銃陣地2?は、iが破壊された銃座と見るならば、2基−2基の配置がなされていたと見ることができる。こちらも残っている3基の銃座は、ほぼ同形状・同寸法である。


 2ヶ所の機銃陣地は、両者で銃座の形状や配置が異なりつつも、陣地内では銃座の形状が揃っていることから、配備されていた機銃の違いというよりも、築かれた時期や目的が異なっているのではないかと推測される。





(可能性2-1)山頂施設の防御用?

山頂部にある謎施設と同時期に造られたのであれば、その施設の防禦用の機銃陣地ということになる。
ただ、山頂部に対して南から南東方向に偏って存在しており、更に山頂から下った位置にあることから射界が狭くなっていることなどから、可能性は余り高くないように思われる。





(可能性2-2)徳山燃料廠関連施設の防御用?

岩熊山から最も近い大迫田の貯油タンクから1000m以上離れており、他の機銃陣地が500m前後しか離れていない場所に配置されていることと比較すると、離れすぎており、可能性は低い。






(可能性2-3)鉄道施設の防御用?

 岩熊山の西に鉄道の分岐があり、山の南を山陽本線が、北側を岩徳線がそれぞれ走る、交通の要衝である。その為、岩熊山に鉄道防御用の機銃陣地が配置されていた可能性がある。
 ただ一方で、この配置では分岐のある西側と岩徳線の走る北側に射界が取れない為、中途半端でしかない。


鉄道の対空防御は陸軍の担当であった。


近畿と中四国地方を受け持っていた高射砲第3師団に関する記録を調べてみると:

・戦後まとめられた第3師団の記録[13]には、 「第5節 鉄道施設に対する空襲と之が対策」として、 「更に高取鉄道工場、瀬田川鉄橋を初め各地の鉄道施設掩護の為機関砲大隊の数小隊を派遣する外、海軍より砲を譲り受け多数の機関砲小(分)隊を臨時編成して師管区部隊に転属し此等鉄道要点の掩護に任ぜしめたり」とあり、また

・昭和20年6月頃の記録[14]には、徳山付近への部隊の配置については書かれていないが、「本表の外航空機用13mm機関砲136門を各師管(師団)に分与交通路上の要点に配置する予定」という一文が備考に書かれており、

これらの陸軍機関砲部隊が岩熊山南斜面に配置されていた可能性も考えられる。
(外に同様な鉄道要衝防御の機関砲部隊の陣地跡や配置記録が残っていれば、可能性も高くなるだろう。)





(可能性2-4)戦前の防空演習の際の機銃陣地?

 昭和10年と11年に呉鎮守府の防空演習が行われており、徳山も演習範囲に含まれていた。
 記録には岩熊山の名前は出てこないものの、怪しいものとしては、昭和10年には下松に対空見張所が[4]、昭和11年には稲荷山(場所不明)に機銃陣地が2ヶ所、配置されたことが[5]、それぞれ記録されている。

 ただ、下松と言うには西端であり、また稲荷山の方も岩熊山の麓に稲荷神社が無く(北麓は荒神社)、可能性は余り高くなさそうである。






(可能性2-5)偽装機銃陣地?

偽装陣地である可能性も考慮しておく必要がある。
しかし、機銃陣地1の方には横穴が掘られている。偽陣地に、こうした航空偵察で判らない部分まで作りこむ必要は無いことから、機銃陣地1の方については、偽装陣地である可能性は低いのではないかと思われる。












4.まとめ


 では、結局何だったかというと、冒頭にも書いているように良くわからないとしか言いようが無い。


現時点における個人的偏見による予想は、以下の通りである:

・岩熊山山頂、南東側ピークの謎施設
  探照灯電探×2(山頂の穴は電探地下室)

・機銃陣地1
  陸軍の鉄道防御の為の機関砲部隊

・機銃陣地2?
  戦前の演習用機銃陣地(海軍)








参考文献
[1] 「呉警備隊戦時日誌 昭和19年7月」、アジア歴史資料センター(C08030474500)
[2] 「呉鎮施設一覧」、アジア歴史資料センター(C08011285100)
[3] 「徳山海軍警備隊兵器目録」、アジア歴史資料センター(C08011151900)
[4] 「昭和10年防空演習陸上防御計画並びに実施概要」、アジア歴史資料センター(C05034217800)
[5] 「昭和11年呉鎮守府防空演習研究会記事」、アジア歴史資料センター(C05034891000)
[6] 「防空砲台設営参考書 昭和19年」、防衛省戦史資料室蔵、F教育 学校04 029
[7] 「偽砲台構築の参考」、防衛省戦史資料室蔵、F学校-4 19
[8] 「Standards for Construction of Type 15 Permanent Ground AA Battery (Provisional Manual)」、国会図書館 憲政資料室蔵、USB-13 R39 949-1001
[9] 「徳山警備隊引渡目録」、アジア歴史資料センター(C08011474600)
[10] 「兵器軍需品施設引渡目録 下関防備隊」、アジア歴史資料センター(C08011058500)
[11] 「電探関係配属一覧表」、防衛省戦史資料室蔵、E兵器 540
[12] 「引渡目録 兵器の部 呉海軍軍需部」、アジア歴史資料センター(C08011269300)
[13] 「本土地上防空作戦記録 中部」、国会図書館 憲政資料室蔵、JAM-1J R11 11423-11468
[14] 「本土防空高射砲部隊の概況 昭和20年」、防衛省戦史資料室蔵、本土 全般 061






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