上蒲刈島 特設見張所(聴測照射所)
2007.3.4 探索
2023.3.11 再探索
2023.8.28 更新

 オレンジ色が旧軍道?

 上蒲刈島の南東端にある標高224mの山の頂上付近に上蒲刈島特設見張所がある。2007年当時には、南西麓にある「県民の浜」が整備した遊歩道が生きており、少なくとも展望台までは容易に寄せることが出来た。しかしそれから15年が経過した2023年には、この遊歩道も立入禁止になっていた。土砂崩れによる物理的分断箇所は無かったものの、幾つかある開けた場所が藪化してしまい、迂回も容易ではない状態である。また下山時に北西へ下る軍道らしいものを辿っていたが、途中で進むのが難しくなり、尾根筋を無理やり下山する羽目になった。次登るのであれば、北東からみかん道を使って寄せて、尾根を直登するのが楽そうである。
 指揮所や兵舎施設は2007年当時から荒れていたが、指揮所に関しては当時よりも巻き付いていた蔦が減っているように思う。探索者が剥してくれたのだろうか。兵舎施設に関しては2007年当時とほぼ変わっていなかったが、ということはちょこちょこと手が入っていたのかもしれない。

 2回の探索をしたものの、山頂までの軍道と発電所、そして水源の場所が不明のままである。
 素直に考えると、兵舎施設のある山の東側にある方がまとまりが良いのだが、島のこの辺りは戦前は集落や港が無く、車道も無い。砂浜に大発で乗り上げて物資を揚陸、ということも無いことは無いのだろうけど、開戦後まもなくの比較的余裕のある時期なので、桟橋くらい整備しそうなものである。
 山の西側には軍道らしい道があるものの、こちらも発電所と水源が見つからない。破壊されず残りやすい発電所の二槽式水槽くらいあっても良さそうなのだけど。こまめに聞き込みをしてまわるしかないのだろうか。



目次

 航空写真から見た上蒲刈特設見張所


施設:
 聴測照射所
 兵舎施設
 その他


 米陸軍による記録


 来歴
 参考文献・リンク

航空写真から見る上蒲刈島特設見張所


1962年頃の航空写真(MCG629-C22-12、国土地理院)

 1962年の航空写真を見ると、山頂の少し西下から北西に向けて道が写っている。歩ける範囲を歩いてみたが、幅50cm~1m程の歩きやすい道であった。またこの道は終戦後の航空写真にも断片的に写っていることから、この道が元が軍道で、それを戦後に農道として利用していたのではないかと推測してみる。
 ただ、二槽式水槽で比較的判りやすい筈の発電所が見つからない。水源もわからなかったのだが、これをまとめている段になって山頂南西下から北西に降りている谷の先に池が写っていることに気付いた。ただGoogleのストリートビューで調べると谷に土石流が発生しており、今から探索に行っても埋もれていて何も見つからないかもしれない。
 山頂から北東の尾根沿いにも道っぽい物があるが、未確認である。


左:終戦後(M124-91)、右:1974年(CCG747-C70B-5)、どちらも国土地理院

 終戦後の航空写真を見ると、兵舎施設に2棟の建物が写っている。恐らく北側が烹炊所で、南側が兵員宿舎かと思われる。山頂の北西下の、現在は索道施設跡の場所に何かの施設らしい物が写っている。物資運搬用に戦前から索道施設が造られていた可能性があるかもしれない。この写真には北西へと下る道も断片的にだが写っている。山頂の南西下の谷に施設っぽいものが写っている(「?」の部分)。今回の探索でこの谷に降りてみたものの、施設らしい痕跡は発見できなかった。ただ色々な年代の航空写真を調べていると、この谷で何度か土石流が出ているようなので、それで流されてしまった可能性もあるかもしれないし無いかもしれない。

 1974年の航空写真には、指揮所や2基の水槽、烹炊所施設跡が写っている。聴音機掩体はこの時期には既に跡形も無くなっている。

聴測照射所


左:指揮所Aの北東隅の塔を北西から、右:指揮所Aの北面


左:指揮所Aを北東上から、右:指揮所Aの塔を北から

 山頂の南西下に指揮所Aがある。特設見張所の後期型の指揮所の形状をしている。南北約13m、東西約6mの大きさであり、北東隅に管制器を載せた塔が、建物の北西隅と南東隅に水槽がある。内側はモルタル塗りだが外側は煉瓦がむき出しで、その煉瓦も色が黒っぽい。黒っぽい煉瓦は吸水性の低い焼き過ぎ煉瓦で、これを外面を用いることで、モルタル塗りを省いているのかもしれないが、色の薄い普通の煉瓦を用いている箇所もあるので微妙な所である。



 


左:指揮所Aの東面、右:指揮所Aの南面


左:指揮所Aの西面の北側、庇や窓の梁で低い壁を造っている、右:南側


左:指揮所Aの内部、右:西面南側の出入口の庇

 また指揮所Aの北西の壁が半分くらい崩されている。更に良く見ると他の面の壁も、窓上の梁より高い部分の煉瓦が剥ぎ取られている。山頂の北西下斜面に煉瓦を用いた土留がされているが、これらの煉瓦は、こうして指揮所から剥ぎ取った煉瓦を用いているようである。
 一方で、煉瓦は剥ぎ取られているが、木枠や金属類は比較的良く残されている。終戦後直ぐに何かの用途で使用されていたのかもしれない。



左:指揮所Aの内部を南から、右:北西隅の水槽


左:指揮所Aの塔の内部、南面の出入口、右:北面の窓



左:指揮所Aの塔の内部、天井、右:塔の屋上、管制器の基礎の盛り上がり?

 北東隅にある塔の内部は黒く塗られていたようである。この塔には上部に排気口が無い。塔の屋上も撮影してみたものの、樹木が茂り、その落ち葉で一面覆われていて、管制器の基礎は確認できなかった。南西側に盛り上がりがあり、恐らくはこの下に管制器の基礎があるのかもしれない。
 


左:窓枠の梁の上面の煉瓦を剥いだ痕、右:指揮所Aの内部を北から


左:指揮所Aの内部、東面、右:南西隅


左:指揮所Aの南西にあるトイレの便槽、右:同左内部

 指揮所Aの内部は、他の指揮所と同じくモルタル塗りである。床に機器の基礎は残っていなかった。

 指揮所Aの建物の南西に、トイレの便槽がある。煉瓦造りのモルタル塗りで、2つの桝があり、内部で1つに繋がっている。地面に対して面一ではなく少し高くなっている。


左:探照灯掩体Bの西側を南から、右:東側を南から


左:探照灯掩体Bの中心に探照灯基礎、右:探照灯基礎

 山頂に探照灯掩体Bがある。掩体の周囲の土塁は低く、南北にある土塁の切れ目もあまりはっきりとしていない。掩体の中央には探照灯の基礎があるが、アンカーボルトを抜き取るために一部破壊されており、アンカーボルトは5本しか残っていない。ここの基礎は手が込んでおり、縁が曲面に成形されている。

 


左:探照灯基礎、右:探照灯掩体Bの内部を北から


左:探照灯掩体Bの近くにあった筈の海軍標柱、右:Bの北西下斜面の煉瓦を使った土留

 探照灯掩体Bの周辺で探照灯用の直流発電所を探したものの、それらしい遺構は見つけられなかった。山頂の北西下斜面に段々があるものの、指揮所Aから剥ぎ取った煉瓦で土留がされており、戦後に造られた畑跡のようである。

 2007年当時はこの掩体の近くで海軍標柱を発見して写真を撮っているのだが、今回はこれをすっかり忘れていた。水場や発電所の探索も含めて、もう一度行かなければならない。
兵舎施設



左:一槽式水槽Cを西上から、右:水槽Cを北東から


左:三槽式水槽Dを北東から、右:窪地E

 山頂の南東下に兵舎施設がある。斜面にはいつもの上水槽が1組ある。一槽式の水槽Cが三槽式水槽Dより少し高い位置にある。珍しいのは三槽式水槽Dの大きい桝が斜面下側である東側ではなく、北側にあることである。水槽の近くに窪地Eがある。何かなんだろうけど何だかわからない。





左:兵舎施設の北側、右:兵舎施設の中央部


左:烹炊所Fの南東角の壁と瓦礫、右:北東隅の水槽


左:烹炊所Fを東から、右:台所の流し台を南西から

 水槽のある斜面の東下に広い平坦地があり、その北側に烹炊所Fと、兵舎Gがある。
 烹炊所Fは、遺構が比較的良く残っており、施設の機能を推測しやすい。北東隅と南西隅に天水用の水槽がある。内部は東西に三分割されており、東から台所、風呂、トイレとなっている。煉瓦モルタル塗りの壁は全て高さ1mくらいまでで、それより上は木造だったようである。


左:流し台の東隣の汲み置水槽を北から、右:流し台を北から


左:流し台の西隣の煉瓦構造物を北から、右:焚き口と貯炭庫を東から

 台所は北端に流し台がある。その東隣に水槽があるが、恐らくは流し台で使用する水を汲み置きしておく為のものかと思われる。流し台の西隣には煉瓦の塊のようなものがある。下側が空いており、かまどだったのかもしれないが、詳しく調べるのを忘れていた。台所の南側は何も残っていない。南東隅に瓦礫が積み上げられている。





左:貯炭庫、右:焚き口、壁に上下に穴が2つある


左:風呂場を北から、右:浴槽を南から


左:浴槽の内部、穴が上下に2つある、右:風呂場を南から

 風呂場の北に、貯炭庫と焚き口がある。貯炭庫は東に取り出し口があり、木板を差し込み蓋をするような構造になっている。その東隣には風呂釡を置いていた焚き口があるが、基礎があり、板壁で囲んでいたようである。焚き口の南の壁には上下に2つの丸い穴が開いている。浴槽と風呂釜の間で水を循環させる管を通していたようである。焚き口の南は壁を挟んで水槽になっている。これが直接に浴槽になっていたのか、この中に木製の風呂桶をはめこんでいたのかはわからない。風呂場の南西にも浅い水槽のようなものがあるが、何なのかはわからない。



左:トイレを南から、右:トイレを西から、手前壁跡の手前が凹んでいる、大便槽?


左:小便器?、右:同左北側、左右で壁の塗りが違う

 烹炊所Fの西の区画はトイレになっている。構造上、風呂場との間の壁の西側が小便器になっていると思われるのだが、埋もれていて確認できない。その北には掘りこまれた水槽があるが、小便を貯めた便槽ではないかと思われる。烹炊所Fの西端の壁の東側に壁に平行に基礎のようなものがあり、また壁の西側は凹んでいる。恐らくはここに大便器と便槽があったと思われる。





左:小便槽?を南から、右:小便槽と貯炭庫


左:烹炊所Fの南西隅の水槽を北から、右:兵舎Gを北から


左:兵舎Gの南西隅の水槽(2007年撮影)、右:兵舎Gの北東隅の水槽

 烹炊所Fの南には兵舎(兵員宿舎)Gがある。建物の基礎は残っておらず、終戦後の航空写真と北東と南東に残る水槽から、ここに兵舎があったと推測できるに過ぎない。戦後の航空写真ではここがみかん畑になっていることから、利用価値のある水槽以外の建物基礎等は掘り起こされて、他へどけられてしまったようである。南西側の水槽は撮影し忘れてしまった。



左:兵舎Gの南西にある崩落した地下壕H、右:同左(2007年撮影)

 兵舎Gの南西の斜面に崩落した地下壕Hがある。2007円当時は辛うじて隙間が残っていたが、2023年現在は土砂で埋まってしまっている。

 2007年の探索記事には、兵舎施設の南東端から、北東下と南西上に続く軍道があり、と書いているのだが、今回の探索では軍道らしい物は見つけられなかった。当時見誤ったか、今回の探索がいい加減だったかはわからない、そういう意味でももう1度は探索が必要である。




その他



左:平坦地J、右:平坦地Jの東縁


左:平坦地J内に転がっていたコンクリート片、右:同左

 指揮所Aの約50m程南の尾根上に、聴音機掩体があったと思われる平坦地Jがある。戦後、みかん畑にされた際に造成され、独特な擂鉢状地形は跡形も無くなっている。平坦地内には、聴音機基礎とその周辺を形成していたと思われるコンクリートの破片が幾つか転がっている。平坦地Jの北東には展望台Iがあるが、2023年現在は朽ちかけていて上には登れなかった。


 




左:指揮所Aの西下の谷にある石積み、右:西斜面の軍道もしくは農道


左:石積み遺構K、右:同左

 航空写真から、山の西下の谷地に水源もしくはポンプ所があったのではないかと推測し、谷地を探索してみたものの、それらしいものは見当たらなかった。もっと下にあったのか、戦後の土石流で流されてしまったのか、元々そんなものは無かったのかはわからない。
 戦後、西下の斜面一帯はみかん畑になっており、あちこちに石垣の土留や遺構が残っている。中でもコの字型をした石積み遺構Kは面白い。上に屋根を葺いて、みかん畑の作業に使う道具を納めていたのかもしれない。





左:索道施設のある平坦地Lを西から、右:索道施設


左:平坦地Lの北下の石垣、右:北西下へと続く道


左:麓にあるコンクリート製水槽、右:同左


 山頂の北西下に、索道施設のある平坦地Lがある。終戦
直後の航空写真を見ると、この位置に何か施設らしいもの
が写っていることから、元々何かの施設がここにあり、
その跡地を使って索道施設を設置したのかもしれない。
 麓の畑跡にコンクリート製水槽があるが、形状が異なる
ので、戦後の物かと思われる。

米陸軍による記録

41st Division Artillery 167th Field Artillery Battalion
A P O 41 Reconnaisance Report(国会図書館:WOR-48193)


1945/11/16

・大浦(上蒲刈島、773.0-1235.6):
探照灯(150cm-130KW)が(773.35-1233.4)にある。探照灯は運用可能な状態で、
スイッチを入れると照射できた。電話通信手段が箱型聴音機の傍まで引かれており、
聴音機も運用可能な状態だった。

来歴
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事
昭和17年2月 聴音照射所 調査中
昭和17年3月 特設見張所 将来要望
昭和17年8月 特設見張所(丁)工事施工内報済
仮称ヱ式空中聴測装置1、150cm探照灯(管)1
12cm望遠鏡3、7倍稜鏡4
電源装置1、通信装置1
予定内報施本機密第13033号(17.2.4)
電気及工学兵器装備の訓令官房機密第8038号(17.6.27)
施設工事施工内報呉建機密第21号ノ608(17.8.27)
訓令資料提出呉鎮機密第60号ノ1326(17.7.8)
施工内報に依る竣工予定(17.3.31)
工事中
昭和17年9月 特設見張所(照聴所)、丁乙、工事中
昭和17年11月 照聴所工事中
昭和17年12月 照聴所工事中
昭和18年1月 照聴所工事中
照聴所(丁)(第1砲台群)工事中
昭和18年2月 照聴所工事中
昭和18年3月 照聴所工事中
昭和18年4月 照聴所工事中
昭和18年5月 照聴所工事中
昭和18年6月 照聴所工事中
昭和18年7月 官房艦機密3560号(18.7.15)、電気及工学兵器装備工事完成期変更の件通知接受す
昭和18年9月 施本機密工第1559号(18.8.14)
板城村その他特設見張所(丁)施設工事要領変更の件通牒
変更完成期(18.8.31)
昭和18年10月 照聴所工事中
昭和18年11月 照聴所工事中
昭和19年3月 官房機密第10508号の訓令により工事中の照聴所完成
昭和19年6月 既設照聴所
昭和19年7月 既設照聴所
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事(続き)
昭和19年8月 既設照聴所
昭和19年9月 既設照聴所
昭和19年10月 既設照聴所、150cm探照灯1、空中聴測装置1
昭和19年11月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和19年12月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年1月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年2月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年8月31日 引渡:
96式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
仮称ヱ式空中聴測装置、付属品補用品共 1基
ディーゼル交流発電機陸上用40KVA220V三相60KVA配付 1基
建築物 兵舎1、其ノ他付属施設3

用地:6611m2、建物:198m2
用地:9918m2、建物:370m2(上蒲刈島特設見張所)