鹿ノ川 防空高角砲台(聴測照射所)
2006.5.12 探索(失敗)
2020.3.25 再探索(失敗)
2023.3.4 再探索
2023.7.1 大幅改定

赤色が攻略時の移動の軌跡、オレンジ色が旧軍道?

 江田島市の環境センター(ゴミ処理場)の北にある標高131mの山を中心にして、防空高角砲台と聴測照射所、兵舎施設が分布している。ただ、防空砲台のある131mの山は半分近くが真砂土採取で削り取られてしまい、いずれ消失してしまうかもしれない。また聴測照射所も探照灯があったらしいピークは跡形も無くなっており、聴音機掩体も畑にされてすり鉢状の地形は残っていない。比較的残存状況が良いのは兵舎施設のみである。

 またアプローチが難しくなっている。2006年春に131mピーク直前まで探索した際には、鉄塔の保守道があったおかげで北から尾根沿いに南下できたのだが、2020年に探索した際には鉄塔が撤去され保守道が荒れた結果、保守道に取りつくことすらできなくなった。その為2023年に探索した際には、仕方なく山の南西麓の崖をよじ登ったが、危険を伴うのでお勧めできない。他には兵舎から東に下る尾根を登るか、兵舎のある尾根の南に取りつく林道を辿るくらいである。
 聴測照射所は、北東が私有地、東が環境センターの敷地でアプローチが更に難しい。環境センターの敷地の境界付近を無理やり進んだが、藪が酷くて体力の消耗が激しい。尾根に取りつければ移動は楽だったので、北の麓から尾根沿いの南下した方が良さそうであった(取りつければの話だが)。

目次

 航空写真から見た鹿ノ川防空高角砲台

施設:
 防空砲台
 兵舎施設
 謎の施設?
 聴測照射所(聴音機)


 来歴
 参考文献・リンク


全体図
航空写真から見る鹿ノ川防空高角砲台


1962年の航空写真(MCG628-C29A-4、国土地理院)


米軍の航空写真(M691-78、国土地理院)
 終戦直後の航空写真には鮮明なものが
無いものの、聴音機掩体や聴測照射所の
指揮所らしいもの、防空砲台の北西の
弾薬庫らしいもの等が写っている。1962年
の航空写真には、防空砲台や兵舎も写って
おり、全体的な配置が良くわかる。

 聴音機の北に延びる尾根に白い影が写っ
ており、最初はここが探照灯かと思って
いたのだが、実際に山に入ってみると、
巨大な花崗岩の岩があるだけで、施設の
跡らしき物は何も無かった。

 防空砲台の北東に施設らしい白い影が写っているが、藪が酷くて調査が余りできていない。防空砲台の北西にある弾薬庫らしき施設は、現在は真砂土掘りで削られて、恐らく消滅している(崩落が怖くて近寄っていない)。



1974年の航空写真(CCG747-C46A-3、国土地理院)

 1974年の航空写真では、付近一帯が大規模に開発されている。この時点で聴測照射所の大部分は削られてしまい、探照灯や指揮所があったと思われるピークも無くなっている。聴音機掩体があったと思われる場所の現在の地形は航空写真と同じ形状であることから、この時のに整地されたものだと思われる。

 防空砲台の南斜面を通る林道は、この頃に付けられたものであることがわかる。伐採された形跡がないことから木材を切り出す為のものでもなく、東の尾根付近で終わっていることから、山頂の鉄塔を建設する為に築かれたものかもしれない。

 また南東から兵舎施設の直ぐ南西下を通って、現在の環境センターの正門付近に至る別の林道が作られている。この道は環境センターの建設によって分断されているが、南東の鉄塔跡の辺りまでは現在でも良く残っている。

防空砲台





左:鉄塔跡Aを東から、右:方形窪地Bを南西から


左:方形窪地Bの南側、右:方形窪地Bの北側




左:穴C、右:同左から山頂付近を


左:窪地Dを東から、右:窪地Dから西に抜ける通路


左:方形窪地Eを南東から、右:方形窪地Eの南西側

 標高141mの山頂の東に鉄塔跡Aがある。現在は鉄塔は撤去され、猪のヌタ場になっている。それほど広くなく、鉄塔建設で砲郭が削られた可能性は低そうである。
 山頂付近に方形窪地Bがある。約3.5mx4mで、南下に通路が出ている。内部には煉瓦と三和土(タタキ)の瓦礫が1つづつ残っている。位置からすると砲郭のようだが、サイズが少し小さい。北西上に直径約70cmの穴Cがある。こちらも用途は不明。
 その西に窪地Dと、そこから西に抜ける通路がある。窪地Dは約3mx1.5m程で、位置や形状から指揮所関連の施設だと思われる。


左:方形窪地Eの三和土破片、右:方形窪地Eの南東側


左:方形窪地Eの水槽、右:同左内部


 少し南西に下った尾根に方形窪地Eがある。約5.5mx5mで、4か所ある方形窪地の中では一番大きい。内部に三和土(タタキ)の瓦礫が1つ残っていた。Dから伸びている通路はEの北西を通っているが、Eにも繋がっている。また南東に石垣モルタル塗りの掘り込み水槽がある。水槽は計測していないが目測で約1.5mx1mくらいである。窪地の形状が方形であること、斜面に掘り込まれていること、水槽が隣接していること(水槽があるということは、天水桶にしても、防火水槽にしても、建物の存在が不可欠)を除けば、砲郭である可能性は高いと思われる。ただ、ここと対になるもう1か所の砲郭がどこになるのか、という問題は残ったままである。北西の尾根に砲郭があったものの削られて消滅してしまった可能性もある。



左:方形窪地Fを南東から、右:方形窪地Fを北東から


左:方形窪地Fの内部、右:方形窪地Gを南から


左:方形窪地Gの南側の出入口、右:方形窪地Gの北側

 更に南西に尾根を下ると、方形窪地FとGがある。どちらも約4.5mx4.5mのほぼ正方形である。山頂から下った尾根にあるので、砲郭である可能性は低い。建物の基礎らしいものが見当たらないので、弾薬庫とも言い難い。


左:崖から北西方向を、尾根が綺麗に無くなっている、右:林道H



左:軍道?I、右:今回の登り口(環境センターの入り口横)

 山の南斜面には、HとIと2本の道が
ある。Hは軽トラでも走れるくらいの
道幅で、Iは少し広めの登山道である。
1974年の航空写真になって初めてHが
明確に写っていることから、防空砲台
とは関係のない道であると思われる。
その為、道Iが本来の軍道である可能性
がある。どちらも西は真砂土採取で、
東は土砂崩れで、それぞれ削られて行き止まりになっている。

 防空砲台と書きながら、どこが砲郭かわからないという、歯切れの悪いことになっている。単純に位置からだけ考えると、BとEが砲郭で、CとDが射撃指揮関連施設、FとGが弾薬庫、ということになるのだろうけど、サイズが小さすぎたり、余計な遺構があったり、高角砲や建物の基礎が見つからないことから、推測も難しい状態である。崩される前の北西側の尾根の遺構の状況が分かれば良いのだけど、別の航空写真だと2000年頃には削られていたようで、それ以前に探索をしていた人を探すのは難しい。
兵舎施設


左:Jの北西上の平坦地、右:軍道脇の崩落した地下壕


左:クランク状の崩落した地下壕、右:平坦地Kの北東隅、右上を道が通っている


 防空砲台のある標高141mの山から南東に下った尾根に
兵舎施設がある。尾根に沿って一列に並んでおり、中世
城郭のようで面白い。

 北の端には地下壕跡Jがある。地下壕は2本共崩落して
いるが、北側のものはクランク状に折れている。北西上
に狭い平坦地があるが用途は不明である。

 その南西に平坦地Kがある。約10m四方で、斜面を一部
切り崩して作られている。また南西には南下へと下る
スロープが設けられている。南のLとの間は元々石垣だっ
たようだが、西端と東端にしか石が残っていない。建物の
基礎のようなものは無く、瓦礫も見当たらない。用途は
不明である。


左:平坦地Kを北から、右:平坦地Kの南西下の石垣、スロープになっている


左:平坦地Lの北東の軍道分岐点と入口、右:平坦地Kの南東下の石垣


左:平坦地Kの南西下の石垣、右:平坦地KとLの間の段差を西から、奥がLの入口

 平坦地Lは南北約20m、東西約10mで、兵舎施設の中では最も広い平坦地である。東側が土塁のようになっている。また西側中央部に掘り込まれた水槽がある。幅約2m、長さ約5mで、深さは目測で2m以上ある。掘り込まれているので上水ではなく、また天水桶としても大きすぎる。構造がシンプルだがトイレの便槽の可能性が高そうである。
 1962年の航空写真を見ると、ここに南北に長い建物が写っている。兵員の宿泊施設だったのではないかと思われる。


左:平坦地Lを北から、右:平坦地Lの西側の掘り込み水槽


左:平坦地Lの東の土塁にある何かの基礎?、緩く折れている、右:同左南の石垣


左:平坦地Mの北東の水槽を北東から、右:同左を西から


 平坦地Mは約15m四方で、北東に水槽があり、内部には煉瓦
モルタルの瓦礫が多数散乱している。恐らくは烹炊所や風呂等
の施設があったのではないかと思われる。水槽は幅約1.3m、長さ
約3.5m、高さ約1.2mで幾つかのパイプ穴があり、位置から上水槽
と思われる。この水槽は強度上の都合か少し下膨れになっている。
同じ形の水槽が水谷山防空砲台にもあるが、水谷山のものは
2基1組である。水槽の北には石垣や基礎のようなものがあるが、
何なのかはわからない。


左:水槽の内部、右:平坦地M


左:平坦地Mの中央にある煉瓦モルタルの遺構、右:平坦地Nを北東から


左:コンクリート製の建物基礎っぽい何か?、右:コンクリート製の枡?

 平坦地Mの中央には大きめの瓦礫がある。微妙に原型を留めておらず、元が何だったのかはわからない。

 平坦地Nは約10m四方で、コンクリート製の建物基礎のような物と、コンクリート製の枡のようなものがある。建物基礎のようなものは長さ約4mで、他は埋もれているのか見当たらない。枡は幅約1.2m、長さは開口部で約70㎝、内部は北側に40㎝くらい奥行きがある。 用途はわからないが、トイレだろうか。


左:枡の北側、右:平坦地Nの南西下の石垣


左:平坦地Oを東から、右:平坦地Oの南端の海軍標柱


 施設の南端には平坦地Oがある。瓦礫も基礎らしいもの
も見つからないが、南角に海軍標柱が建っている。

 兵舎施設の東側を南北に軍道が通っている。また兵舎
施設の南北からそれぞれ、東下へと続く道が出ている。
恐らくはこの道が麓から登っている軍道なのではないかと
思われる。

 兵舎施設の東側の軍道沿いに、地下壕がある。入口は
幅約1mで、奥行きは5m程しかない。内部はモルタルで
塗られており、パイプ穴のようなものもあり、丁寧な作り
になっている。崩落した土や落ち葉をどけると、何かある
のかもしれない。
 


左:Mの東下の地下壕入口、右:同左から北を


左:地下壕内部、左右上にパイプ穴っぽいものがある、右:地下壕の端部


左:Mの北東下の海軍標柱、右:Lの北東下の海軍標柱

 軍道沿いには、平坦地Oの物も含めて3本の海軍標柱が建っている。上面の境界方向は微妙に噛み合っておらず、途中にも標柱があるのかもしれない。
謎の施設?



左:円弧土塁Pを北から、右:同左を南から


左:尾根上の埋もれた煉瓦の遺構、右:緩い平坦地Q


 兵舎施設から南に延びる尾根上にも遺構らしいものがある。
円弧土塁Pは尾根道の西にある。内側も円弧に削られている
ので、何かの目的で作られた人工物かと思われる。また付近に
古い白色のガラス容器の破片が幾つか落ちている。

 Pの少し南には緩やかな平坦地Qがある。PからQにかけて、
幾つかの煉瓦の遺構が埋もれた状態で残っている。1974年の
航空写真を見ると、Qの西下に鉄塔が建っており、斜面の幾つ
かの窪地は鉄塔建設の際に削られたものだと思われる。この
鉄塔は現在は撤去されている。Qの近くでナットを見つけた。
ボルト径が約15mmのもので、鉄塔の部品にしては小さすぎる
ので、防空砲台関連の物の可能性もある。

 Qの西下には南北に林道が通っている。その林道に煉瓦や
瓶等の瓦礫が大量に落ちている場所Rがある。煉瓦や古い瓶が
あることからゴミではなく、砲台関連の遺物のように思われる。


左:Q付近の埋もれた煉瓦遺構、右:ナット


左:林道と尾根への道、左奥がR、右:瓦礫が散乱しているR


左:煉瓦の瓦礫、右:コンクリート片、古い瓶

 PからQにかけての尾根に埋もれた煉瓦の遺構が残っていること、Qの西下に煉瓦や瓶等の瓦礫が散乱していることから、PからQの付近にも、何かしらの遺構があったのではないかと思われる。
 推測だが、昭和12年の竣工当時には、この辺に聴測照射所があり、後年に探照灯と聴音機を更新する際に場所が狭かったことから、砲台の西側に新たに聴測照射所を建設したのではないだろうか。時間をかけて埋もれている遺構を掘り起こしてみると、建物の形跡とか出てくるかもしれない。
聴測照射所(聴音機)



左:平坦地Sを東から、右:その続き


左:平坦地Sを南から、右:平坦地Sの西の段差


 終戦後の航空写真を見ると、防空砲台のある標高131mの山の南西400mにある標高140mの山のピーク付近に、聴音機掩体が写っている。しかし1974年の航空写真では切り開かれて平坦地にされてしまっており、現在の地形はその時のものである。


左:平坦地Sを北東から、右:平坦地Sの北の段差


左:平坦地T付近の瓦礫、右:平坦地U

 平坦地Sは東西に2段になっている。東西南北共に約20mと、ヱ式聴音機の掩体には十分な広さになっている。平坦地S付近ではコンクリート片等の瓦礫は見つからなかった。

 Sから東下へと続く尾根上に加工された地形が続いているが、いずれも1974年頃に開発された際の地形のようである。T付近にコンクリートの瓦礫が散乱しているが、当時のものかは不明である。平坦地Uの先は、環境センターが建設された際に新たに削られ崖になっている。
来歴
日付 呉海軍警備隊戦時日誌等[1][2]による記事
昭和12年9月4日 竣工 官房機密第3562号(S17.8の記事)
昭和16年11月 防空砲台、第四砲台群(下士官3、兵13)
准仕官以上2、下士官兵53、有線電話
8cm高角砲2門、ステレオ式2m測距儀1、シ式75cm探照灯1
90式2型聴音機1、ディーゼル直流発電機1
准士官以上2、下士官6、兵47  
昭和16年12月 防空砲台  
昭和17年1月 防空砲台  
昭和17年3月 将来砲台建設要望(?)
昭和17年4月 3年式40口径8cm高角砲2門
ステレオ式2m高角測距儀1
斯式75cm探照灯1、90式空中聴音機2型1
池貝式ディーゼル発電機1
装填演習砲1、点的機1
常装3号通常弾薬包改一600
89式尖鋭高射信管600、96式伝火管600
莢2号撃発火管4型711
38式小銃6、弾薬包840、空砲630
配員 下士2(臨10)、兵14(臨17)
昭和17年8月 8cm高角砲2、75cm探照灯1、ス式2m測距儀1
90式聴音機1、12cm望遠鏡1、観測鏡2、6倍双眼鏡2
昭和17年9月 防空砲台第4砲台群  
昭和18年1月 防空砲台(第3砲台群)  
昭和17年6月 機密呉警備隊命令第41号(18.6.25)、警戒隊派遣、准士官1、下士官兵5  
昭和18年7月 官房機密第1922号訓令による8cm防空砲台装備兵器中探照灯・聴音機の換装基礎工事7/1以降兵力をもって実施中
昭和18年8月 官房艦機密第4198号(18.8.18)(呉鎮機密第25号ノ286)、直流発電機械撤去の件訓令接受、時期を得次第工事に着手の予定
艦本機密兵電第970号(18.8.27)、電気兵器供給の件通牒接受
昭和18年9月 官房艦機密第19220号(18.4.22)訓令により工事中なりし電気兵器換装工事中、鹿ノ川のみ完成す(18.9.30)
螺山・鹿ノ川防空砲台道路新設工事施工訓令(官房機密第2471号、18.9.9)接受、右の兵力により工事施工中
昭和19年6月 8cm高角砲2門  
昭和19年7月 防空高角砲台 8cm高角砲2門  
日付 呉海軍警備隊戦時日誌等[1][2]による記事(続き)
昭和19年8月 8cm高角砲2門 既設  
昭和19年9月 8cm高角砲2門 新宮へ移設
昭和19年10月 機密呉鎮守府命令第402号(呉鎮守府S19.10)
現装備の鹿ノ川及螺山8cm高角砲を新宮に移装す
但し現装備の鹿ノ川探照灯は探照灯台として残置す  
昭和19年11月 150cm探照灯1、空中聴測装置1、砲移設完了せば照聴所とす
昭和19年12月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年1月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年2月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年8月31日 引渡[3]
96式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
仮称ヱ式空中聴測装置、付属品補用品共 1基
貨物自動車 1台
建築物 兵舎1、其ノ他付属施設4

[4]
用地:7299m2、建物:290m2(鹿ノ川)
用地:7299m2、建物:383m2(鹿ノ川砲台)
用地:1788m2(鹿川)