鹿島 特設見張所(聴測照射所)
2023.2.4 探索
2023.8.3 新規作成


 呉警備隊の遺構を調査を始めた2006年頃に、遺構調査の先輩であるYさんから「鹿島に状態の良い遺構が残っているよ」とメールで教えてもらっていたのだが、それから実際に調査するまで20年近くかかってしまった。何故後回しにしていたのか、当時の心情はハッキリとしないが、登り口まで車で直接行けるのでいつでも大丈夫だという安心感があった一方で、そして登山ルートに関する情報が一切無く不安があったことが原因だと思う。しかし最近になって探照灯建屋(直流発電機室)の完全に近い状態の写真を見たことと、様々な時代の航空写真を調べていくと、兵舎のある尾根まではそれ程苦労せずに登れそうなことが判ったことから、ようやくの調査となった。

 鹿島の南西端にある宮ノ口集落の東の、簡易水道跡のある谷筋を登る。標高100m程まではしっかりとした道がついているが、そこから先は進むに従って藪が酷くなる。兵舎の手前で倒木が多くなり、仕方なく西から迂回した。また兵舎から聴測照射所へは本来の軍道が見つからず、福王寺山の山頂(標高216m)を経由した。兵舎と聴測照射所を結ぶ軍道は、福王寺山の西斜面を通っているのではないかと思われる(オレンジ色点線)。


 聴測照射所は福王寺山の南に続く尾根上にある。尾根は比較的なだらかな地形で、構造物の周辺のみ整地されている。西斜面は石垣を使った段々畑だったが、放置され山に飲まれて久しい。
 兵舎は福王寺山の北下の鞍部にある。30m四方の広さで整地されており、整地部に兵舎と烹炊所の建物跡が、そして斜面上に水槽が2基ある。水槽の近くにポンプ式の井戸が残っているが、明治期の見張所の施設かもしれない。
 発電所は簡易水道跡の下、標高50m付近にある。冷却用の2層式水槽は確認できたが、発電所の建物跡や発電機基礎等は確認していない。水源は簡易水道のダムの辺りにあったのではないかと思われる。発電所と兵舎の中間くらいの場所に、水槽に似た形の遺構がある。造りや材料から兵舎と同じ時期に造られた物かと思われるが、用途は不明である。

 福王寺山山頂に明治期の海軍の見張所跡があるが、跡と言っても狭い平坦地と石垣が残っているだけである。





目次

 航空写真から見た鹿島特設見張所

施設:
 聴測照射所
 兵舎施設
 発電所他
 明治期の見張所


 来歴
 参考文献・リンク

航空写真から見る鹿島特設見張所


米軍の航空写真(M318-2-52、
         国土地理院)

 鹿島周辺の航空写真で良い物が余り無いが、
解像度が低くて不鮮明でも聴測照射所の探照灯
建屋、指揮所、聴音機掩体がそれぞれ比較的
明確に写っている。聴音機掩体の北西横に小屋の
ようなものが写っているが、小屋が建つほどの
広さは無かった。

 兵舎は既に移築されていたのか、建物は写って
いない。明治期の見張所もこの時期には既に
建物が無かったのかもしれない。

 発電所だが、1981年の航空写真を見ると、
発電所の敷地に3棟の建物が写っている。
この建物は1965年の航空写真にも写っているので
3棟の内の1棟が発電所の建物なのかもしれない。
現在は3棟共に撤去されている。建物基礎は残っ
ているようだが、私有地で人の出入りがそれなり
にあるので、土地の所有者を見つけられないと
探索は難しい。
 道を挟んで南側にも建物が写っている。現在は
崩れて瓦礫になっているが、ここも調査しておい
た方が良いかもしれない。





左:1981年のの航空写真(CCG814-C21-3、国土地理院)、右:現在(Google Map)
聴測照射所


左:探照灯建屋Aを北から、右:東から


左:西から、右:南東から



 


左:探照灯建屋Aの内部を西の窓から、右:電動直流発電機の基礎


左:屋上への電線跡、右:同左上部の電線貫通穴、枯れ草が出ている


左:北東隅の何かが置かれていた跡、右:探照灯建屋Aの屋上北側

 聴測照射所の一番北には探照灯建屋Aがある。南北約4.4m、東西約4.2m、壁は煉瓦、屋根だけが鉄筋コンクリートになっており、東壁に出入口が、西壁に窓が開けられている。屋上の中心には探照灯基礎がある他、周囲に手すりか何かを固定していた基礎のようなものがある。
 内部は中心に近い場所に電動直流発電機の基礎がある。アンカーボルトは4本で約73㎝x60cmの間隔に植えられている。南東隅には電線を固定した跡と屋根に電線貫通穴がある。北東隅には高さ50㎝程の長方形の箱のような物が置かれていた跡がある。


左:探照灯建屋Aの屋上を北から、右:探照灯基礎


左:指揮所Bを北西から、右:指揮所Bの西面



右:指揮所Bの間取り図(灰色線は木造の壁があったと思われる位置)


左:指揮所Bの南西端の塔、右:指揮所Bを南から


左:指揮所Bの南東隅の水槽、右:指揮所Bの南東にある水槽C


左:指揮所Bを東から、右:指揮所Bの北東にある便槽?D

 探照灯建屋Aから約50m南に指揮所Bがある。尾根の東側を切欠いて造成された平坦地に建てられている。南北約13m、東西約6mで南東に塔がある。指揮所Bは、特設見張所の後期型の指揮所と同じ構造をしている。

 建物の北西隅と南東隅に天水を貯める水槽がある。またこれとは別に、指揮所の南東側に地下に埋められた水槽Cがある。大きさからトイレの便槽ではないと思うのだが、何なのかはわからない。指揮所の北東側にも埋もれた水槽Dがある。こちらはトイレの便槽ではないかと思われる。



左:指揮所Bの北西隅の水槽、右:指揮所Bの西側


左:指揮所Bの東面を北から、右:指揮所Bの内部を北から



右:指揮所Bの間取り図(灰色線は木造の壁があったと思われる位置)  


左:指揮所B内部の北東隅、右:指揮所Bの壁の上面、元々ここまでしかない


左:指揮所Bの南西の塔を北東から、右:塔の内部


左:塔の内部から出入口を、右:塔の天井

  外周の壁は煉瓦のモルタル塗りで、屋根は木造の三角屋根だったようである。内部には、南北に仕切る壁の跡と、北東隅に小部屋を造っていた壁の跡がある。内部のこれらの壁は煉瓦ではなく木造だったと思われる。床というか地面にコンクリートの基礎もしくは壁跡のような瓦礫があるが、何なのか良くわからない。



左:塔の北面、三角屋根の跡、右:塔の南面の上側にある通気口


左:塔の屋上を北から、右:塔の屋上の西側、手すりの基礎のようなものがある


左:塔の屋上の管制器基礎?、右:同左

 塔の屋根は鉄筋コンクリート製である。屋上は積もった落ち葉に樹木が生えてジャングルのようになっており、その隙間から辛うじて平べったい円筒形の管制器基礎らしい物がが垣間見えている。また西側には手すりか何かの基礎っぽい物がある。塔の内部は下側にアスファルト塗装の跡のようなものがある。ここの塔には上部に通気口が開けられている。塔の北面には、2本の鉄棒が斜めに突き出ており、モルタルもそれに平行して剥げている。恐らくはこれにそって屋根が付けられていたようであり、そうなると前期型のような平らな屋根ではなく、三角屋根だったのではないかと思われる。
   


左:聴音機掩体Eの東縁を北から、右:聴音機掩体Eの内部を北から


左:聴音機掩体Eの中心部、奥が出入口、右:聴音機基礎

 指揮所Bの南西約50mに、聴音機掩体Eがある。内径約17mで、周辺から5m程が斜面になっており、北西に幅約3mの出入口がある。中央に直径約90㎝のコンクリート製基礎があり、直径約78㎝の円周上にアンカーボルトが9本…ある筈なのだが、7本しか見つからなかったものの、恐らくはヱ式聴音機の基礎である。
 掩体の出入口周辺だけが石垣になっている。終戦直後の航空写真だと、出入口の先に小屋のようなものが写っているのだが、小屋を建てられるような広さの平坦地は無い。




左:聴音機掩体Eの出入口の北側の石垣、右:同左の続き


左:出入口部分での掩体の断面、右:出入口の南側の石垣


左:聴音機掩体Eを北西から、正面が出入口、右:北東隣にある猪のヌタ場

 聴音機掩体Eの北東隣に塹壕のようなものがある。深さは50㎝程で、不定形に蟻の巣のように伸びている。恐らくは猪のヌタ場で、長い間使われているうちに少しづつ拡張され、このような複雑な形になったのではないかと思われる。
 掩体Eの西40m程に円形に近い窪地Fがある。内径は約1mで、蛸壺かもしれないが、畑の関連施設の方が可能性が高い。福王寺山の山頂の南の尾根にも円形窪地がある。内径は約1.5mで、こちらは機銃座か蛸壺かと思われる。
 


左:窪地Fを北東から、右:尾根の西斜面の連絡通路?


左:探照灯建屋Aの西から連絡通路へと下る道?、右:山頂の南の尾根にある円形窪地

 尾根からすこし西に下った場所に、連絡通路らしいものがある。聴音機掩体Eの出入口付近から始まり、山頂の西斜面の方へと続いている。探照灯建屋Aの西側にここへ降りるスロープのようなものもある。



兵舎施設



左:1層式水槽Iを北東から、右:同左を南から


左:水槽Iの内部、右:珍しく鉄パイプが残っている

 兵舎平坦面の南側の斜面に上水用の水槽IとJがある。水槽Iの方が少し高い位置にある。水槽Iは1槽式で、寸法は今回も測り忘れたものの、他の1槽式水槽と同じくらいの大きさである。あまり破壊されておらず、珍しく鉄パイプが残っていた。



左:3層式水槽Jを南から、右:水槽Jを西から


左:水槽Jの内部、右:同左


左:井戸枠K、右:同左内部

 3層式水槽Jは約5.5mx4.1mで黒煉瓦(炭滓煉瓦もしくは鉱滓煉瓦)のモルタル塗り。一部崩されているが、全体的に良く残っている。
 水槽の南西下に井戸枠が残っている。内径が約50㎝で、深さは5m弱くらい。セメントではなく三和土(タタキ)製の筒を約10段くらい重ねている。水は枯れていて底には落ち葉が積もっている。この井戸が聴測照射所の施設であれば、水槽Iへ水をくみ上げる為に、井戸の脇にポンプ用の基礎がある筈だが、それが無いということは明治期の見張所の施設なのではないかと思われる。


左:兵舎平坦地の南端を北から、右:兵舎Lの南隅の水槽を北東から


左:兵舎Lの南西面の建物基礎、右:兵舎Lの北隅の水槽を北西から

 平坦地の中心には兵舎Lの跡がある。北と南の隅に天水用の水槽がある他は、建物基礎の一部が残っているだけである。建物の寸法は測り忘れた。





左:烹炊所Mの西側、右:東側


左:烹炊所Mの東側のコの字、右:同左の向かい側のコの字


左:烹炊所Mの北隅の水槽、右:烹炊所Mの北西面の壁、一部崩されている

 平坦地の北西側には、烹炊所Mがある。煉瓦積モルタル塗りの壁は高さ70㎝くらいまでしか造られておらず、そこから上は木造だったようである。
 烹炊所Mの東側は、コの字型の壁が向かい合っている。他は何も残っておらず、ここが何だったのかは分からない。ただ消去法から(この建物には台所、風呂、便所がある筈)、ここに台所があったのではないかと思われる。また北隅には天水用の水槽がある。


左:烹炊所Mの北西面の壁に開いた穴、右:壁の隅に設けられた小水槽


左:烹炊所Mの西側のトイレを北西から、右:小便器

 真ん中には、風呂があったのではないかと思われる。北西面の壁に直径20㎝程の穴が開いているが、これが風呂の配管もしくは煙道の通っていた穴かもしれないし、崩された部分にあったかもしれない。内側の壁の隅には、温度調整用の水を貯めていた小水槽の跡らしいものがある。





左:大便器の便槽と汲み取り口、右:普通煉瓦と黒煉瓦の組み合わせ


左:烹炊所Mの西側の南東面の壁、洗面台?、右:円形窪地N


左:烹炊所Mの東側の斜めの壁?の痕跡、右:平坦地に落ちていた壷の破片

 西側には大小の便所跡が明確に残っている。便所は東側の区画とは壁で仕切られており、出入口は南西側にしかない。便槽には普通の煉瓦と黒煉瓦が両方使われている。偶々資材が切り替わった時期なのかもしれないが、南東斜面に赤色の煉瓦の瓦礫が散乱していることから、山頂等に残っていた明治期の見張所を崩して煉瓦を回収し再利用していたのかもしれない。
 烹炊所Mの北東側に、円形窪地Nや薄い壁の跡らしいもの等があるが、何があったのかはわからない。
発電所他



左:発電所敷地を東から、右:同左


左:2槽式冷却水槽Pを南西から、右:南東から



左:1981年のの航空写真(CCG814-C21-3、国土地理院)
 
 簡易水道跡の下、標高50m程の所に発電所跡がある。冷却用の2槽式水槽は横が約4m、奥行きは計測できていない。発電所の建物の基礎や発電機の基礎の有無はわからない。1981年までは北側に3棟の建物があったようであるが、これが発電所の物かどうかは不明である。水源は簡易水道のダムの辺りだったのではないかと思われる。



左:戦後作られ、既に放棄された簡易水道の浄化槽、右:簡易水道のダム


左:謎の構造物、右:同左の反対側、手前側が開いている


左:北東側の壁は崩れている、右:底にはアンカーボルトは見当たらず

 簡易水道は、ダムの碑銘に「昭和36年12月完成」とあるので、その頃に造られたものかと思われる。放棄されてから20年くらいは経っているくらいに朽ちていた。

 兵舎の少し下、標高150m付近に謎の構造物がある。約2mx1.2m、高さ1m弱。一見水槽のようだが、長辺の面の1つが無く、箱型のソファーのような形である。壁面は黒煉瓦のモルタル塗りで、兵舎にある構造物と同じ時代の物だと思われる。底は20㎝くらいの分厚いコンクリートもしくは三和土(タタキ)で、アンカーボルトは見当たらなかった。用途は不明である。
明治期の遺構

 福王寺山(標高216m)山頂にある遺構について、倉橋町史[5]によると、日露戦争頃の遺構であると書かれている。


 そこでアジア歴史資料センターで調べてみると、明治33年2月1日付の海軍の書類[6]に「鹿島に見張所設置の件認許す」と書かれている。


 続いて明治33年10月12日の書類[7]には、土地献納願として、

   ・倉橋島村字鹿島?谷4226番地の内の山林40坪
   ・同村鹿島字福王寺4228番地の内の山林40坪
   ・倉橋島村字鹿島7866番地の畑110坪

の3ヶ所、合計190坪を受領した、と書かれている。


 その後、明治33年12月10日付の書類[7]には、「鹿島見張所並びに信号兵詰所敷地に充用の見込みを以て」と書かれている。


 この海軍の鹿島見張所は昭和に入ってからも書類上は残っていたようで、資料[8]には、昭和12年3月31日現在の国有財産として以下の記載がある。

   鹿島見張所
     敷地190坪、建物:事務所2坪、雑屋9.6坪






左:平坦地Gを北から、右:平坦地Gの石垣


左:海軍標柱H、波マークの下に旧字体で弐とある、右:上面も十字マーク


左:兵舎西下に転がっていた海軍標柱O、壱とある、右:上面は十字マーク

 福王寺山山頂に平坦地Gがある。南側に石垣が、また北東下に海軍標柱Hがあるだけで、建物の基礎等が残っていない。兵舎の西下にも引き抜かれた海軍標柱Oが転がっているが、このHとOはどちらも古いタイプの標柱で、波マークの下に数字が旧字体で彫られている他、標柱上部も境界の方向ではなく、十字マークが彫られている。その為、これらは明治期の見張所時代の標柱であると思われる。それから山頂から兵舎平坦地にかけて、煉瓦の瓦礫が散乱しているが、この瓦礫は元々平坦地Gにあった構造物が崩されたものかもしれない。

 
来歴
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事
昭和17年2月 聴音照射所 調査中
昭和17年3月 特設見張所 将来要望
昭和17年8月 特設見張所(丁)工事施工内報済
仮称ヱ式空中聴測装置1、150cm探照灯(管)1
12cm望遠鏡3、7倍稜鏡4
電源装置1、通信装置1
予定内報施本機密第13033号(17.2.4)
電気及工学兵器装備の訓令官房機密第8038号(17.6.27)
訓令資料提出呉鎮機密第60号ノ1228(17.7.21)
工事施工内報
昭和17年9月 特設見張所(照聴所)、丁乙、工事中
昭和17年11月 照聴所工事中
昭和17年12月 照聴所工事中
昭和18年1月 照聴所工事中
照聴所(丁)(第1砲台群)工事中
昭和18年2月 照聴所工事中
昭和18年3月 照聴所工事中
昭和18年4月 照聴所工事中
呉建機密第21号ノ249、鹿島その他特設見張所(丁)施設一廉工事要領変更内報の件(18.4.15)
昭和18年5月 照聴所工事中
呉建機密第21号ノ289、鹿島その他特設見張所(丁)施設一廉工事要領変更訓令の件通知接受(18.5.11)
昭和18年6月 照聴所工事中
昭和18年7月 官房艦機密3560号(18.7.15)、電気及工学兵器装備工事完成期変更の件通知接受す
昭和18年8月 施本機密第2970号(18.8.4)、鹿島その他特設見張所(丁)施設工事要領変更内報の件接受
変更完成期(18.8.31)
昭和18年9月 施本機密工第1567号(18.8.14)、鹿島その他特設見張所(丁)施設工事要領変更通牒
官房機密第4656号(18.9.11)造兵工事完成期変更の件通知、電気及光学兵器装備工事の件
昭和18年10月 照聴所工事中
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事(続き)
昭和18年11月 照聴所工事中
官房設機密第2874号(18.11.5)工事要領変更訓令、鹿島その他特設見張所(丁)
施設外一廉工事要領変更の件訓令
昭和19年3月 官房機密第12090号の訓令により工事中の照聴所完成
昭和19年6月 既設照聴所
昭和19年7月 既設照聴所
昭和19年8月 既設照聴所
昭和19年9月 既設照聴所
昭和19年10月 既設照聴所、150cm探照灯1、空中聴測装置1
昭和19年11月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和19年12月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年1月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年2月 150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年8月31日 引渡[3]
96式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
仮称ヱ式空中聴測装置、付属品補用品共 1基
ディーゼル交流発電機陸上用40KVA220V三相60KVA配付 2基

用地:16618m2、建物:396m2 [4]
用地:16619m2、建物:419m2 ?[4]