呉 その他





冠崎 防空高角砲台(2006.5.22)


米軍の航空写真(R462-18、国土地理院)






左:観音崎(冠崎砲台)を北側から、右:火の山荘の正面



左:火の山荘、右:火の山荘北側裏手



左:裏手付近のコンクリート、当時のものかは不明、右:高烏砲台から見た観音崎(冠崎砲台)


現在のIHI火の山荘(2006年3月末で閉館)の建つ観音崎に、重巡洋艦の15.5cm三連装砲塔を据えつけた無茶苦茶な砲台だったらしい。平成10年頃、15.5cm三連装砲塔が写った航空写真が中国新聞に載り話題になった。


保養所の担当者の方に砲台について尋ねて見たところ、砲台はこの保養所を建設する際に壊してしまったとのこと。建物北側の裏手を見て見たが、これといった遺構は見つからず。コンクリートも当時のものか保養所のものか、判別つかなかった。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和19年11月 新配備 15.5cm単装砲2門 未配装備 呉鎮命令第436号による応急砲台、配員 准士1、下士6、兵53

機密呉鎮守府命令第436号応急用防空砲台構築の件(別紙第一)
対空砲台整備予定地:冠崎 15.5cm単装砲2(呉鎮)
昭和20年1月 15.5cm砲台 工事中

機密呉鎮守府命令第10号 昭和19年機密呉鎮守府命令第436号中左の通改正す
冠崎の項「同右2基」を15.5cm三連装砲1基」に改む(呉鎮)
昭和20年2月 15.5cm砲台 完備(鍋山もしくは冠崎?)
昭和20年8月31日 引渡 15.5cm三連装1基
89式方位盤装置 1組
5m二重測距儀 1組
12cm高角双眼望遠鏡 1個

用地:3655m2、建物:259m2





呉海兵団 応急防空砲台(不明)

呉警備隊戦時日誌に出てくるが、実際どうだったかは不明。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和17年9月 8cm高角砲2門、防空機銃4丁、非常警備銃隊2(1)個中隊
昭和18年1月 8cm高角砲2門、防空機銃4丁、非常警備銃隊2個中隊





呉海兵団練兵場 応急防空砲台(消滅)






右:米軍の航空写真(昭和20年4月の偵察写真)


呉の練兵場(入船山公園運動広場、市民広場)にも応急砲台を築いていたらしい。昭和20年4月の米軍の航空写真に幾つかの砲座が写っている。米軍はこの写真からここに両用砲3門、機銃13丁、探照灯1基をカウントしているが、写真撮影当時に実際にここにどれだけの砲や偽装砲が配備されていたかは不明である。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年11月 新配備 12cm高角砲2門 完備 呉鎮命令第436号による応急砲台
配員 准士1、下士4、兵34





呉工廠西海岸 応急防空砲台(消滅)



米軍の航空写真(M312-2-169、国土地理院)



米軍の航空写真(M312-2-168、国土地理院)



米軍の航空写真(日本大空襲/月刊沖縄社)





現在の日新製鋼呉製鉄所のある場所は呉工廠製鋼所で、この製鋼所の南西側の海岸に、5門の12cm高角砲が据えられていた。航空写真を見るにこの付近は砂浜だったようで、砂浜に組立式の八角形の基礎を埋めているのが判る。また空襲中の航空写真(日本大空襲)を良く見ると、端っこの方にかすかに砲座の円形土塁を確認する事が出来る。
現在はもちろん跡形も無い。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和19年11月 新配備 12cm高角砲5門 完備 呉鎮命令第436号による応急砲台、
配員 准士1、下士10、兵110
昭和19年12月 新配備 応急高角砲台 12cm高角砲5門
昭和20年1月 1/8試射済
応急砲台(12cm)完備
昭和20年2月 応急砲台(12cm)完備





城山砲台(不明)

呉周辺の防空砲台の調査をされているYさんとヴぁもさんから教えていただいた情報によると、「城山」とは海上自衛隊城山門の横、教育隊と総監部の間の小山の事だそうで、そしてここに配置されていた8cm砲は午砲を撃つための砲であり、対空用ではないとのこと。
昭和19年12月に、一度15.5cm高角砲台の予定地になっていたようだが、すぐ翌月には撤回されている。

日付 呉海軍警備隊 引渡目録による記事
昭和19年12月 機密呉鎮守府命令第436号応急用防空砲台構築の件(別紙第一)
対空砲台整備予定地:城山又は新宮 15.5cm三連装砲1(呉鎮)
昭和20年1月 機密呉鎮守府命令第10号 昭和19年機密呉鎮守府命令第436号中左の通改正す
「城山又は新宮」の項を削る(15.5cm砲台)(呉鎮)
昭和20年8月31日 引渡 毘式短8cm砲1門(号砲用)





八本松 応急防空機銃砲台(未攻略)



米軍の航空写真(M907-11)




八本松(東広島市)付近にもあったらしいが、詳細不明。航空写真を見ると、弾薬庫の境界にあたる尾根上に幾つかの影が写っているが、今はテロ対策で状況が厳しいだろうから確認のしようがない。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年6月 25mm連装機銃6基 応急機銃として工事中
昭和19年7月 25mm連6基 応急機銃として工事中
昭和19年8月 25mm連装機銃3基(?) 応急 工事中
昭和19年9月 25mm連6基 工事中(応急分散)
昭和19年10月 25mm連6基 工事中(応急分散)
昭和19年11月 (機銃砲台リストから消える)





軍港第一波止場 応急防空機銃砲台(消滅?)



右:米軍の航空写真(昭和20年4月の偵察写真)

詳細不明。昭和20年4月の偵察写真を見ると、呉線脇の現在は海上自衛隊の敷地内にあった建物の屋上に、銃座らしきものが4基写っているのでこれかとも思うのだがどうだろうか。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年6月 25mm連装機銃3基 応急新設工事中 銃座完成
昭和19年7月 25mm連3基 銃座完成
昭和19年8月 25mm連3基 応急工事中 銃座のみ完成
昭和19年9月 25mm連3基 工事中(応急分散)、銃座のみ完成
昭和19年10月 25mm連3基 工事中(応急分散)
昭和19年11月 (機銃砲台リストから消える)





鎮守府構内 応急防空機銃砲台(消滅)



米軍の航空写真(昭和20年4月の偵察写真)


米軍の航空写真(M312-2-176、国土地理院)



米軍の航空写真を見ると、呉鎮守府(現在の海上自衛隊呉地方総監部)の南東端、ドックの脇の高台に、銃座らしきものが写っているので、恐らくここではないかと思われる。現在は駐車場になっており、消滅している。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年8月 25mm機銃6門 官房艦機密第4992号該当予定地、工事中
昭和19年9月 25mm単6門 工事中(官房艦機密第4992号)
昭和19年10月 25mm単6門 工事中(官房艦機密第4992号)
昭和19年11月 25mm単6門 官房艦機密第4992号に依り工事中





呉航空隊 防空機銃砲台(消滅)

広の多賀谷3丁目辺りに呉航空隊があったそうで、その辺りにあったと思われるが詳細不明。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和17年5月3日 官房機密第5409号
昭和17年6月3日 機密呉鎮命令第135号
昭和17年8月 13mm連装機銃1基 工事完成、居住は呉空兵舎を使用
17.6.11現地調査完了、工事未着手、在庫兵器無
昭和17年12月 仮設機銃砲台 13mm 12月18日完成予定





岩国航空隊 防空機銃砲台(消滅)

岩国航空隊にもあったそうだ。後に、かなり大規模になるので、呉警備隊の日誌以外のものは別途記載予定。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和17年5月 官房機密第5409号(17.5.3)
機密呉鎮守府命令第135号機銃防空砲台仮設の件、13mm連装機銃1(呉鎮)
昭和17年6月3日 機密呉鎮命令第135号
昭和17年8月 13mm連装機銃1基 工事完成、居住は岩空兵舎を使用
昭和17年12月 仮設機銃砲台 13mm 12月16日完成予定





切串 防空高角砲台(不明)

呉警備隊戦時日誌に出てくるが、実際どうだったかは不明。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年11月 呉鎮命令第425号に依り工事中(訓令あり次第砲装備)






中黒瀬 移動砲台(不明)

呉警備隊戦時日誌に出てくるが、実際どうだったかは不明。野戦高射砲部隊をこのように表現したのだろうか。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和17年3月 将来砲台建設要望





渡子島村 防空高角砲台(不明)

呉警備隊戦時日誌で1ヶ月だけ記事に出てくるが、実際どうだったかは不明。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和17年3月 将来砲台建設要望





海軍兵学校 江田島本校(未攻略)



引渡目録内にある地図を元にした、大まかな銃座、砲座の位置


左:江田島本校周辺の防空砲台、右:米軍の航空写真(M2-6-30、国土地理院)での鷲部山らしき場所



米軍の航空写真(M2_6-31)での御殿山


「帽振れ海軍兵学校」という本によると、江田島本校では
・海岸の砲術講堂最上部を砲戦指揮所とした
・御殿山と鷲部山に教材用の高角砲・機銃で防空砲台を設置
・鷲部山砲台には12.7cm連装高角砲4基、25mm三連装機銃8基を配備
・陸奥砲塔の隣の高角砲も使用
とある。
12.7cm連装高角砲は引渡目録には2基4門とあるので、4門と4基を勘違いしているのかもしれない(大原分校の記事でも同様)
御殿山は兵学校のすぐ北西の山なのは判ったのだが、米軍の航空写真からは砲台跡らしい遺構は発見できなかった。
また鷲部山はどの山なのか全く不明。鷲部町は兵学校の南側の町であり、場所から推測するに飛迫山の南西、秋月トンネルの真上にあるピーク付近の、米軍航空写真に写っている砲座らしき2つの円形構造物が並んでいる辺りかと思われる。ただし現地で円形構造物の直径を計ってみないことには何とも言えない。秋月防空砲台を跨ぐ形になるが、終戦直前の混乱期だからこのぐらいはありなのだろうか。
御殿山は、終戦1年後の航空写真ですでに畑と化しているので、遺構は残っていないと思われる。


日付 呉海軍警備隊引渡目録(江田島版)による記事
昭和20年8月31日 引渡 40cm砲2門、12.7cm4門
引渡 8cm高角砲5
引渡 40mm機関砲2門(連装)、25mm機銃28丁(連装8、単装12)
引渡 13mm機銃20丁(連装6、単装8)、110cm探照灯4(管制器)
高角射撃盤2、測距儀12

用地:36000m2、建物:180m2(古鷹山)





海軍兵学校 岩国分校(未攻略)



海岸の12cm高角砲陣地、米軍の航空写真(左:M283-55、右:M144-A-4-55、国土地理院)


日付 引渡目録(?)による記事
昭和20年8月31日 引渡 12.7cm連装高角砲1基(校庭東南部)
引渡 12cm高角砲2門(海岸)
引渡 25mm連装機銃2基(神社裏、海岸)
引渡 90cm探照灯、管制器込み、1(校内東南部)
引渡 2式1号電波探信儀2型1基(校内東南部)





安浦海兵団 応急防空高角砲台(未攻略)



右:米軍の航空写真(R512-1-19、国土地理院)


右:米軍の航空写真(R512-1-19、国土地理院)


JR呉線の安浦駅の南側に、安浦海兵団が置かれていた。この海兵団の南東の小山の周辺に水尻砲台が、西側の標高190m程の山頂付近に子ノ浦砲台が築かれていた。水尻砲台は現在山ごと削られて消滅してしまったが、工事前に調査が行われていたようで、写真や図面の一部が安浦町史に載っている。

日付 安浦町史による記事
(安浦海兵団 引渡目録による)
昭和19年12月 機密呉鎮守府命令第467号に依り安浦方面防空砲台の整備を令す(呉鎮)
昭和20年8月31日 水尻砲台: 12cm高角砲 6門
子ノ浦砲台: 12cm高角砲 1門





広設営隊訓練所内 応急防空高角砲台(消滅)



右:米軍の航空写真(USB15-R14-0080。国会図書館)


米軍の航空写真を見ると、広駅の北西にある白岳小学校の校庭辺りに3ヶ所+αの円形窪地を確認できる。ここは呉海軍工廠関連の書籍内の地図によると、ここは広設営隊訓練所となっている。記録に無いので偽装砲台の可能性もあるが、米軍の写真分析では機銃3丁でカウントされている。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
記事無し





呉警備隊隊内(不明)

呉警備隊戦時日誌に出てくる。呉警備隊の場所は調べていない。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年11月 電波探信儀3式1号3型2基 未着工
昭和20年8月31日 引渡:
弾着観測鏡 12個
陸用電話機 20組、鉄兜 3111個
各種高角砲尾栓(発火装置含)93個
電波探信儀 未装2





呉方面 第二期緊急戦備防空関係機銃隊及照空隊

呉警備隊戦時日誌に出てくる。どうだったかは不明。

日付 呉海軍警備隊戦時日誌による記事
昭和19年10月 兵器未装備につき未配備

山崎隊(機銃隊) 准士1、下士3、兵71
中村隊(機銃隊) 准士1、下士5、兵71
岸隊(機銃隊) 准士1、下士3、兵71
末広隊(機銃隊) 准士1、下士2、兵71
西田隊(機銃隊) 准士1、下士2、兵71
前隊(照空隊) 准士1、下士4、兵22
東隊(照空隊) 准士1、下士3、兵20







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