水谷山 防空高角砲台
2023.2.25 探索
2023.7.15 新規作成

オレンジ色が旧軍道

 徳山の南、太崋山のある大島半島の中程の、標高280mの水谷山山頂周辺に水谷山防空高角砲台の遺構が残っている。現存する昭和12年竣工の防空砲台の中では、兵舎跡まで含めた遺構へのアクセスのし易さは最も良い。また、尾根を走る遊歩道の整備で削られた部分が幾つかあるが、遺構の残存状況も比較的良い。それに聴測照射所が新旧2ヶ所共残っていることから、昭和12年竣工の初期型の防空高角砲台のサンプルとして貴重な遺構であると言える。近代軍事遺跡として発掘調査してもらえないだろうかと思う。

目次



 航空写真から見た水谷山防空高角砲台


施設:
 防空砲台
 聴測照射所(旧)
 聴測照射所(新)
 何かの施設
 兵舎施設


 来歴
 参考文献・リンク

航空写真から見る水谷山防空高角砲台


米軍の航空写真([5]の掲載物を加工、昭和20年5月7日撮影)

 大浦油槽所の空襲前の航空写真を見ると、水谷山周辺の諸施設の他、北西麓に続く軍道も明確に写っている。軍道が大浦油槽所の外周道路に合流する手前に建物が写っている(「?」の場所)。位置から発電所ではないかと思われるが、後の大浦油槽所の空襲の際にこの付近に大量の爆弾が落ちており、この建物の用途が判るほど遺構が残っていない可能性が高い。
 また水谷山の西下に水田が写っていることから、この水田は終戦前から存在していたこともわかる。この水田は1975年頃まで写っていることから、防空砲台要員の自活用ではないと思われる(さすがに田んぼは素人には難しい)。


米軍の航空写真(左:M114-84、右:M741-A-104、国土地理院)

 終戦直後の航空写真には、建物が明確に写っている物が幾つかある。左上の写真には、兵舎施設に大小4棟の建物が写っている。中央の大きい建物が兵員宿舎で、その周辺の建物が烹炊所や風呂、便所、倉庫等といったものかと思われるが、これらの中に発電所が含まれているかどうかは不明である。建物が写っている敷地の北に白く写っている範囲がある(上の「?」の場所)が、ここに平坦地は見当たらなかった。
 また左上の写真には聴測照射所(旧)の施設も良く写っている。南東端の影は聴音機掩体かと思われるが、ここに遺構らしいものは何も確認できなかった。また探照灯掩体の南西下に建物のような影が写っているが、ここも探索時には何も確認できなかった。
 右上の写真には、山頂の東下にある弾薬庫の建物が写っている。また聴測照射所(新)の指揮所の建物の西に小さな建物が写っている。便所だろうか。


1962年の航空写真
  (MCG625-C7-2、国土地理院)
 1962年の航空写真を見ると、兵舎の敷地が
写っている。建物が見当たらないどころか更地に
なっており、恐らくは畑として使用されている
のではないかと思われる。周囲に民家も無い標高
200mの高さのこれだけの狭い敷地を畑にして
割に合ったのか疑問であるが、水田の耕作者が
ついでにここで畑作もやってたのかもしれない。

防空砲台


左:砲郭Aを北から、右:砲郭Aの内部の円形窪地を西から


左:砲床のコンクリート(もしくは三和土)の断面、右:方形窪地Bを北から


 水谷山山頂周辺に、防空砲台の諸施設が
ある。砲郭Aは三角点の南側で、内径約4.5m
の窪地の周りに土塁が巡らされている。
土塁は西側が大きく開いているが、元から
こうだったのか遊歩道整備の際に削られた
ものなのかは不明である。円形窪地の北側
にスペースが設けられており、ここに砲側
応急弾薬筐があったのかもしれないが、
それを示す明確な遺構は見当たらない。
砲床にコンクリートもしくは三和土
(タタキ)が敷かれていたようだが、
中央部は破壊され周辺部しか残っていない。
 砲郭Aの西には方形窪地Bがある。内側は
約3mx1.5mで西側は土塁になっている。また
北西隅から西下に溝が伸びている。砲郭Aの
砲員待機所かと思われるが、これと対になる
遺構が砲郭Dに無いことから、別の用途の物かもしれない。


左:方形窪地Bから西下に延びる溝、右:同左北にある方形窪地


左:方形土塁Cの南側の土塁を東から、右:方形土塁Cの内部を西から


左:方形土塁Cの西下の方形窪地、右:砲郭Dの円形土塁

 三角点の西には、方形土塁Cがある。内側の寸法は東西約4m、南北約3.5mで、東西に出入口があり、西側の出口の下には方形窪地がある。2ヶ所の砲郭の中央に位置しており、測距儀等の指揮関連機器が置かれていたと思われるが、2m測距儀にしては土塁が大きすぎる。指揮所は東のEにあり、Cには指揮要員の待機所があった可能性も考えられる。


左:砲郭Dの北側の出っ張り、右:砲郭Dの土塁の西縁


左:砲郭Dの北下の窪地、右上が砲郭D、右:砲郭Dの東から砲郭A方向を望む

 方形窪地Cの北に砲郭Dがある。内径約4.5mの円形
窪地の周囲に土塁が巡っている。円形窪地の北には
方形の出っ張りがあるが、これが砲側応急弾薬筐なの
ではないかと思われる。ここも砲床にコンクリート
もしくは三和土(タタキ)が敷かれていたようだが、
中央部は破壊されて周辺部しか残っていない。
 砲郭Dの北下には円弧状の窪地があるが、用途は
わらかない。

 方形窪地Cの東から砲郭Dの東にかけて、周囲から
高くなっている平坦地Eがある。西側は遊歩道整備の際に削られているようで、窪みも元は円形窪地だったかもしれない。微高平坦地Eには水谷山の三角点があり、その東隣にはU字型の土塁と溝が出ている。Cと同様に指揮所関連施設かと思われる。西にある窪みが元は円形窪地だった場合には、ここに2m測距儀が置かれていた可能性がある。


左:Eの北側、遊歩道脇に窪みがある、右:Eと三角点


左:Eの東端から突き出したU字型の土塁と溝、右:砲郭Dの北東下の平坦地


左:階段から窪地Fを、右:窪地Fを南西上から

 Eの北東下には窪地Fがある。目測で約8mx5mの大きさで、北隅から階段に沿って北東下へと溝が伸びている。窪地の形状から、崩落した地下室かと思われる。コンクリート片は見当たらない。竣工当初から地下室が存在していた場合、資材も比較的豊富だった昭和12年当時に素掘りで地下室を造ることは無いと思われるので、戦争末期、本土空襲の危険性が増した頃に電源や通信等の機能を地下へと移設したものではないだろうか。
 Fと階段を挟んで北西に平坦地がある。砲郭Dの砲員待機所のようにも思えるが、砲郭Aの砲員待機所候補の遺構と対になっておらず、用途はよくわからない。


左:砲郭Aの南東下の窪地を北東から、右:平坦地Gの南東隅の石垣


左:平坦地Gの建物基礎、右:建物基礎と便槽

 砲郭Aの東下に窪地がある。約5mx1.5mで、砲郭Aの
砲員待機所のようにも思えるが、砲郭Aの西にある
窪地Bの方が可能性が高そうである。

 窪地の北東下には平坦地Gがある。約5m四方で、
北東側にコンクリートの建物基礎と便槽がある。
便槽は壷が埋めてあるタイプである。小屋が建って
いたようだが、用途は不明。指揮所、砲郭Aの砲員
待機所、砲員や指揮要員の為のトイレ等考えられるかも
しれないが、用途を特定する決め手は無い。

 砲郭Aから平坦地Gの南を通って南東下へと通路がある。

 山頂から北東下へと石積みの階段がある。遊歩道整備の一環で造られたもののように思えるが、この箇所だけというのも不自然であり、もしかすると砲台の施設として造られたものかもしれない。


左:山頂北東の石積みの階段、右:弾薬庫Hを北から


左:弾薬庫Hの西側の切欠き、右:弾薬庫Hを南から


左:建物基礎とガラス片、ワッシャ、右:弾薬庫Hの南にある崩落した地下壕入り口

 石積みの階段の北東麓から南に通路が分岐しており、その先に弾薬庫Hがある。南北約10m、東西約5mで、西側は斜面を切り崩し、東側は土塁を盛り、周りを囲っている。建物基礎が残っているが、水槽は見当たらなかった。ガラスの破片やワッシャ等が落ちていた。
 通路はそのまま南へと延びているが、途中西斜面に崩落した地下壕入り口がある。


左:平坦地I北西端から弾薬庫H方向を、右:平坦地Iの北西端を北から


左:平坦地Iの西端にある海軍標柱、右:南西へと続く通路


 山頂の南東下に平坦地Iがある。聴測照射所
(旧)の指揮所が建っていたと思われるが、
北から、北西から、南西からと3方向からの
通路が合流しており、別の中心的な施設が
あった可能性もある。平坦地Iの西には海軍
標柱が建っている。平坦地Iの東側にも海軍
標柱があるが、境界方向がかみ合っておらず、
時代が異なったものなのか、敷地が細切れに
なっていたのかはわからない。
聴測照射所(旧)



左:平坦地Iを北西から、右:平坦地Iの南下の石垣


左:平坦地Iの東下の石垣と段差、右:同左付近から東を


 水谷山山頂の東下の尾根上に、恐らくは
聴測照射所(旧)の施設跡がある。

 尾根の西には2面を石垣で葺いた平坦地I
がある。建物の基礎らしいものは見当たら
なかったが、落ち葉をどければ埋もれて
いたかもしれない。その東下にも平坦地が
あり、北隅に海軍標柱がある。平坦地Iの
西にある海軍標柱とは境界方向が噛み
合っていない。

 


左:平坦地Iの東側の海軍標柱、右:東端付近


左:探照灯掩体Jの西側、右:東側


左:探照灯掩体Jの内部、右:コンクリート製の基礎?

 南東のピークには内径約4mの探照灯掩体Jがある。中央にはコンクリート製の基礎のようなものがあるが、持って行った折り畳み式のスコップが途中で壊れてしまい、全体を掘り返すことができなかった。掘り返せた範囲の基礎の形状から、基礎は底面全体ではなく十文字部分のみにしか無いようである。基礎の円弧の半径は約45㎝で、アンカーボルトは確認できなかった。


左:探照灯掩体Jを南から、右:同左を東から


左:探照灯掩体Jを東下から、右:南に下る尾根


 探照灯掩体Jから南に尾根が緩やかに
下っている。航空写真を見るとこの尾根に
聴音機掩体もあるようなのだが、藪が酷い
箇所が幾つもあり確認できなかった。
聴測照射所(新)






左:遊歩道脇に転がる海軍標柱2本、右:指揮所Kを東上から


左:指揮所Kの南面の土塁、右:南西隅の水槽



左:建物基礎、右:アスファルト?


左:北西隅から北に行く道脇の電柱の跡、右:北隅の基礎


左:ほぼ中央部、右:中央部の東側

 尾根の西斜面を削り、指揮所Kが造られている。建物の基礎は煉瓦製で、寸法は長さ約12.5m、幅約5mであり、特設見張所の指揮所とほぼ同じ大きさである。南西隅に天水の貯水槽があり、ここから南面にかけて土塁で覆われている。南東隅の斜面には崩落した地下壕入り口のようなものがある。西面中央部にアスファルトの塊のようなものがあったが、何に使われていたのかはわからない(電池関連?)。
 位置から考えて、竣工当初からこの指揮所があったわけではなく、南西の尾根に聴測照射所を新設した際に新しく造られたのではないかと思われる。


左:指揮所Kを北東から、右:何かの基礎?


左:便所Lを東から、右:便槽



 指揮所Kの北西隅から北へと続く道が出ている。その直ぐ脇に
電柱の跡が残っている。道は少し北で土砂崩れで途切れてしま
う。南西隅からも西へと道が出ていて、直ぐ先に便所Lがある。
便槽が2基残っているが、どちらも便壷は抜き取られている。


左:探照灯掩体Mの東側、右:同左


左:探照灯掩体Mを南西から、右:探照灯掩体Mの内部を北西から


左:探照灯掩体Mの北東の出入口、右:南へ延びる溝

 南西に延びる尾根上に、探照灯と管制器、聴音機の掩体が並んでいる。

 東端にある探照灯掩体Mは内径約6m。遊歩道が東西に貫通しているが、本来の出入口は北東側に開いている。中心部に鉄棒を刺してみたが基礎は確認できなかった。南西方向に溝が伸びており、これがケーブル溝なら、その先に電動直流発電機があると思われるのだが、藪が酷くて確認できていない。


左:管制器掩体Nを東から、右:管制器掩体Nの北側の土塁


左:管制器掩体Nの東の石積み、右:管制器掩体Nの西下の窪地

 探照灯掩体Mと聴音機掩体Oの中間には管制器掩体Nがある。掩体の中央を遊歩道が貫通している。内径は約3mで、中心部に鉄棒を刺してみたが基礎は確認できなかった。掩体の東に石積み、西に窪地があるが、それぞれ用途が何なのかは不明である。




左:聴音機掩体Oを東から、右:聴音機掩体Oの内部


左:排水溝?、右:西側の出入口の掩体の断面


左:聴音機掩体Oを西から、右:ベンチ脇の平坦地

 西端には聴音機掩体Oがある。内径は約10mで、ヱ式聴音機の掩体としては小さめである。遊歩道が中央を貫通しているが、東側は掩体の土塁を削らず、土塁の上を歩く形になっている。西側は土塁が削られているが、元々こちらに出入口が開いていたものを利用したのか、それとも遊歩道整備の際に削られたのかはわからない。中心部に鉄棒を刺してみたが基礎は確認できなかった。底部に排水溝が円形に掘られているようなのだが、藪が酷くて確認できない。掩体の西隣と、少し西に行った遊歩道の南側にそれぞれ平坦地があるが、用途は不明。
何かの施設



左:Zを北西から、右:Zの東側のU字型土塁を北西から


左:U字型土塁を南西から、右:Zの南東下の方形窪地


 北へと延びる尾根上に、何かの施設跡がある。

 尾根の北端には見張所らしい遺構Zがある。直径約5mの
半円状の盛土の東側にU字型の土塁がある。またこの南東下
に約3mx2.5mの方形窪地がある。窪地の南東隅から東下へと
通路のような溝が出ている。見張員の待機所かと思われる。




左:方形窪地を南から、右:東下へと降りる溝


左:尾根上の方形窪地a、その1、右:その2

 尾根の途中には2ヶ所の方形窪地aがある。どちらも約1.5mx1mの大きさで、用途は不明。内側にモルタル等が塗られていないので後世の畑用の貯水槽というわけではなさそうである。蛸壺だろうか。

兵舎施設


 水谷山の北西下の谷地に兵舎施設がある。防空砲台から比高で約50mしか下がっていない場所に、約30mx25mの広い敷地を確保できており、かなり恵まれている。航空写真には、兵舎から防空砲台への道、何かの施設への道、聴測照射所(新)の指揮所への道、麓への道の4本が写っているが、現地で確認できたのは防空砲台への道のみで、何かの施設への道はルートが異なる上に途中で崩落しており、聴測照射所への道は見つからず、麓への道は長すぎるので探索していない。
 1962年の航空写真で更地になっていたことから、戦後畑になっていたと思われる。南西の谷に戦後の古い撒粉機が捨てられていたことも、これを裏付けている(こんな山の中にあんな大きな物をわざわざ運んで捨てることはありえない)広い平坦地Yに建物基礎等が一切無く、一方で平坦地Yの周囲に煉瓦やコンクリートの瓦礫が捨てられていたり、石垣代わりに使用している箇所があるのは、畑作に邪魔な建物基礎等を全て砕いて敷地外に運び出した為であると考えられる。
 水場は不明である。見て直ぐわかるような流水は無かったものの、冬でも図面の水色の部分には水が存在していた。この位置でも水が染み出ているのであれば、もう少し下れば冬場でも水を確保できる場所があるのではないかと思われる。


左:尾根から兵舎施設へと下る道、右:水槽P


左:東側の水槽、右:西側の水槽

 東から降りてきた道の南西下に水槽Pがある。幅約1.3m、高さ約1m、長さ約3.5mの水槽と、ほぼ同じ幅と高さで長さが約2.2mの水槽が並んでいる。位置と形から、上水用水槽と思われる。2つの水槽はパイプで接合されていたようで、鉄?パイプが一部残っている。東側の大きい水槽は鉄筋の入っていないコンクリート製で下膨れになっている。一方で西側の小さい水槽は煉瓦製のモルタル塗りで壁面は垂直である。

東側の下膨れ水槽は、形も寸法も
鹿ノ川防空砲台の上水用水槽と
ほぼ同じである。西側の小さい
水槽の西下には土管が埋め込ま
れている。2つの水槽の造りや
形状が異なることから、この2つ
の水槽は異なる時期に造られた
のではないかと思われる。


左:水槽Pを東から、右:2つの水槽の間、パイプが残る


左:西の水槽の西面、土台には土管が埋め込まれている、右:2つの水槽は形状が異なる


左:池Q、右:池Qの脇にあるコンクリート製の構造物

 水槽Pの南西下に池Qがある。これは東の谷から流れて来る水を貯める為の物だと思われるが、探索時には東の谷は枯れ谷であり、池Qにも水は貯まっていなかった。池Qの南縁には1辺が約40㎝の方形のコンクリート構造物がある。何に使われていたかはわからない。


左:南面西側の2段石垣、右:南面の東側


左:階段Rの東隣の排水口?、右:同左内部

 平坦地Yの南面は2段の石垣になっており、中央に階段Rが造られ下に降りられるようになっている。階段Rの東には排水口と思われるコンクリート製の角管がある。また階段Rの西には、埋もれた土管があり、その下にスレート管が倒れ掛かっている。土管とスレート管は谷Sやその下流にも幾つか転がっている。特に谷Sの東端にあるものは、スレート管の中に土管が入ったままの状態で残っている。

スレート管は恐らく石綿セメント
管であり、断熱の特性から、スレ
ート管の中に土管を入れたものを
煙突として使用していたのでは
ないかと推測してみる。土管を
煙突として利用する例は、
北海道等で良くみられる。


左:階段Rの西隣の土管とスレート管、右:谷Sの東にある土管の入ったスレート管


左:谷S、右:谷Sにある何かの台座?


左:古い戦後の撒粉機、右:平坦地Tから西へと延びる道?

 谷Sには少しではあるが水が流れている。また谷Sから平坦地Uに沿って、台座のようなものがあったり、空き瓶や碍子、戦後の古い撒粉機が落ちていたりする。
 谷の南側に、平坦地Tがある。幾つかの段々が続いた後で西に向かう道のようなものが出ているものの直ぐに行き止まりのようになり、その先は確認していない。Tの北下には平坦地Uがある。北面に石垣があり、瓦礫や遺物も多いことから何かしらあったのかもしれない。


左:平坦地SUの北面の石垣、右:平坦地Uに落ちていた碍子


左:平坦地Yの西下に捨てられた瓦礫、右:平坦地Y

 平坦地Yは一面が竹藪になっている。西下の斜面に瓦礫が落とされている。敷地の西面も、南面と同じく石垣だったのかもしれないが、ぱっと見だと石垣は見えない。北側に正面出入口と思われるVがある。ここから西麓へ軍道が出ているのだと思われるが確認していない。Vから北西上にしっかりとした道が出ている。山側の壁面に石垣が葺かれているなど手が込んでいるが、少し登った所で崩落している。その先どこに繋がっているのかは確認していない。この道の下にスレートの波板が落ちていた。



左:平坦地Yの西縁、右:Vの南の石垣


左:V付近から北西に続く道、右:石垣W


左:スレートの波板、右:平坦地Yの北の石垣の角

 平坦地Yの東面も凝っている。切欠いた斜面の足元に土留の石垣が造られている。煉瓦やコンクリートの瓦礫も混ざっていることから、戦後に新造されたか、もしくは修復された石垣である。


左:平坦地Yの東面の瓦礫の混ざった石垣、右:平坦地Yの東面を北から


左:コンクリートの瓦礫で組んだ石垣、右:X付近


左:Xの南面の石垣、右:Xの西の石塁

 東面の中央部に、東に出っ張った方形の敷地Xがある。東からの道はここに降りてきている。敷地Xの西側に低い石塁が造られているが、瓦礫も混じっていることから戦後に造られた物かもしれない。どういった目的でこの出っ張りが造られたのかについては、建物基礎等が全て破壊されてしまっているので、推測すら難しい。
来歴
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事
昭和12年9月4日 官房機密第3562号(S17.8記事)
昭和12年9月 竣工(S17.8記事)
昭和16年11月 防空砲台、第六砲台群(下士官6、兵11)
准仕官以上1、下士官兵52、有線電話
8cm高角砲2門、ステレオ式2m測距儀1、須式75cm探照灯1
90式2型聴音機1、ディーゼル直流発電機1
昭和16年12月 防空砲台
ディーゼル直流発電機1
昭和17年1月 防空砲台
昭和17年3月 特設見張所 将来要望
昭和17年8月 8cm高角砲2、75cm探照灯1、ス式2m測距儀1
90式聴音機1、観測鏡2、7倍双眼鏡1、6倍双眼鏡4
昭和12年9月竣工、官機3562(12.9.4)
昭和17年9月 防空砲台 第6砲台群
昭和18年1月 防空砲台 徳山支隊
昭和18年7月 官房機密第1922号訓令による8cm防空砲台装備兵器中
探照灯・聴音機の換装基礎工事7/1以降兵力をもって実施中
昭和18年8月 官房艦機密第4198号(18.8.18)(呉鎮機密第25号ノ286)、
直流発電機械撤去の件訓令接受、時期を得次第工事に着手の予定
艦本機密兵電第970号(18.8.27)、電気兵器供給の件通牒接受
昭和18年10月 官房艦機密第1922号(18.4.22)訓令に依り照聴所電気兵器換装工事完成(10.7)
昭和19年6月 8cm高角砲2門
昭和19年7月 8cm高角砲2門
昭和19年8月 8cm高角砲2門
昭和19年9月 8cm高角砲2門、13mm単装機銃 1丁 既設
昭和19年10月 8cm高角砲2門 完備、13mm単1門 既設
士官1、准士官1、下士官兵52(19.10.20)
昭和19年12月 150cm探照灯1
昭和20年1月 150cm探照灯1
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1][2]等による記事(続き)
昭和20年5月 8cm高角砲2門
13mm機銃 1丁、96式150cm探照灯1
昭和20年8月31日 引渡:[3]
8cm高角砲 2門
96式150cm探照灯(100V)1基
仮称ヱ式空中聴測装置 1基
ステレオ式2m高角測距儀 1基

用地、9900m2
兵舎他、木造7棟、333m2

用地:15237m2、建物:380m2[4]