大原分校の防空砲台





大原分校 防空砲台(2006.5.12)









左:水晶山山頂から北側を望む、右:水晶山山頂の円形の溝



左:円形窪地Aその1、右:円形窪地Aその2



左:平坦地C、右:掘削平坦地D



左:円形窪地C、右:円形窪地Bその1



左:円形窪地Bその2、右:円形窪地



左:円形の掘削窪地G、右:Gの南側の平坦地



引渡目録の江田島版に、海軍兵学校や兵学校の大原分校と一緒に大原分校砲台というものが載っていた。位置は大原分校(現在の第十一海上訓練指導隊)の北西側で、12.7cm連装高角砲1基と13mm機銃3丁とある。地図を見るとそれらしい山があるので、駄目元で行ってみた。

その目標とした山は運良く国立青年の家の敷地内にあり、窓口に立ち寄ってから水晶山と呼ばれている標高90m程の山に登る。
しかしこの山は頂上が広くなだらかな平坦地になっているものの、砂地で崩れやすく、砲座や銃座らしい窪地も何も無い。岩の上に直径15cm程の円形の溝が1ヵ所あったものの、銃座には見えない。北側の山(標高126m)を目指して山に入ってみるが、直ぐにフェンスに行く手を阻まれる。どうも射撃場の立ち入り禁止地区になっているらしい。
諦めて山を降りるが、グラウンドの北側の丘の上に怪しい地形が幾つかあったので、一応調べておく。
円形の窪地が5ヶ所、掘削された平坦地が4ヶ所あるものの、12.7cm連装高角砲の砲座らしき大型の円形窪地が見つからない。平坦地CかHに設置したとも考えられるが、検証のしようがない。掘削平坦地Gは大きさとしては丁度良いが、場所が悪すぎる。ともかく、ここが砲台跡であるという確証は得られなかった。

その時は気がつかなかったのだが、青年の家の西側にも山が有り、もしかしたらこちらかもしれないし、それよりも青年の家そのものが砲台跡に建てられた可能性もある。まあ、結論としては良く判らない。


追記(2006.10.24)
「帽振れ海軍兵学校」という本によると、
・マンドウ山と呼ばれる小高い丘(表桟橋から真北に見える)の頂上に見張所を設けた
・砲術講堂(現在のグラウンドの南東端辺り)の裏側、長浜の射撃場へ行く道の右側一帯に教材用の12.7cm連装高角砲2基、25mm連装機銃5基の他、13mm機銃に7.7mm機銃まで配置
・観測器具は1mのステレオ式測距儀1台のみ
とある。
引渡目録からすると、12.7cm連装高角砲は門と基を混同したのかと思われる(江田島本校でも同様)。25mm機銃の数が5基10丁なのか目録の通り6丁だけなのかは不明。
火砲の配備場所だが、現在のグラウンドの周辺かと思われる。5月の調査の際には水晶山の南側斜面を見ておらず、この辺りにも何か遺構が残っているかもしれない。またこの本に出てくる「マンドウ山」がどの山なのかもハッキリとしない。現在の水晶山のことかもしれないし(石の上の穴はその名残か)、Bの丘かもしれない。航空写真があればハッキリするのだが。



追記(2008.4.17)


江田島兵学校大原分校引渡目録(C08011100400)に記載された地図を基にプロット
位置は大まかなもの


アジア歴史資料センターで引渡目録が公開され、その中に大原分校の目録も入っていた。その中の防空砲台位置図を見ると、青年の家のグランドの北側に12.7cm連装高角砲と13mm機銃が、青年の家の周辺に8cm高角砲と25mm連装機銃が、そして南東側の尾根上に25mm単装機銃が配置されていたことがわかる。
探索した中の円形窪地Aは13mm機銃のものかもしれない。12.7cm連装高角砲の位置については地形を見てもどこだったのか良く判らない。




日付 呉海軍警備隊引渡目録(江田島版)による記事
昭和20年8月31日
引渡 12.7cm高角砲2門
引渡 8cm高角砲2門
引渡 25mm連装機銃2、25mm単装機銃6、13mm単装機銃4
引渡 仮称3式1号3型電波探信儀3
引渡 仮称2号2型改四電波探信儀3
引渡 仮称電波探知機2
引渡 1号2型電波探信儀1





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