大平山 防空高角砲台



2023.7.24 作り直し。htmlファイル名もtaihei.htmlからoohira.htmlに変更。
     今後はこちらへ。



注意:読みは「おおひらやま」ですが、修正が面倒なので裏のファイル名等はそのままです


2016.9.8 米軍の接収記録の追加と、それを基にした修正









米軍の航空写真(M1097-A-16、国土地理院)


下蒲刈島の中心にそびえる大平山の山頂周辺に防空高角砲台が造られていた。山頂部に砲座が残っている他は、公園で整備されてしまった為に余り残っていない。
大平山から尾根続きの大下トンネルと地蔵峠トンネルの近くに砲台付属の聴音探照所が設けられている。
全体的に他に見ない特殊な構造が多い。建設時期が第一期(昭和12年頃、螺山、烏帽子山、大向、鹿ノ川、灰ヶ峰)と第二期(昭和16年頃、亀ヶ首、大須山、前島、白木山)の間の昭和15年完成であり、多分に実験的要素の大きい砲台だったのかもしれない。ただこうした構造が他には用いられなかったところを見ると、有効性が見出されなかったものと思われる。



呉鎮守府の戦時日誌によると、昭和19年7月に他の砲台と同じく、2セットある探照灯・聴音機の内1セットを供出するよう指示が出されている。ただ黒島特設見張所は実現できておらず、計画倒れに終わったのか、引渡目録には2セット分の機器が含まれている。

ただ、戦後の米軍の施設の接収記録によると、探照灯の位置が砲座の西側になっており、大平山の北西約1kmにある標高248mの三角点辺りに新しい聴音照射所を造り、1セット分を移動済みだった可能性もなる。航空写真ではそれらしい影は見当たらないが、ともかく山に入ってみなければ判らない。
別の米軍の接収記録によると、地蔵峠と大下峠の2ヶ所となっている。(2016.9.7 修正)





大平山 防空高角砲台
地蔵峠 聴音探照所
大下 聴音探照所







大平山 防空高角砲台(2006.4.17、2007.3.4再訪)


国土地理院の航空写真(MCG629-C21-4、1960年頃)


米軍の航空写真(M126-63、国土地理院)





左:砲座A、右:砲座Aを南下から



左:砲座B、右:砲座Bの端



左:砲座Bの石垣、右:砲座Bの石垣を逆方向から



左:砲座C、右:砲座Cのコンクリート部



左:砲座Cの出入口、右:砲座Cの出入口を外から



左:砲側弾薬置き場、右:砲座Cを北西下から



左:指揮所跡E、右:同左



左:砲座のある平坦地から南側を望む、右:南の平坦地(当時は山)



左:兵舎があったと思われるテニスコート、右:南側の平坦面から北側の砲座のある高台を望む



左:東下の駐車場、右:下蒲刈島聴音探照所を望む




山頂部平坦地には3基の砲座がある。狭い山頂部を有効利用する為に石垣で張り出させている。米軍の接収記録によると、竣工当時には3基の連装砲が装備されていたものの、開戦直後に1基が南方へと送られたと書かれているが、戦時日誌にはそうした記録はない。また2組の高射装置の内、1組は使用されておらず、訓練に使っていたと書かれているが、これは時代の古い95式高射装置のことか。

山頂平坦部中央には、大きく掘り下げられた指揮所跡Eがある。 1960年頃の航空写真を見ると、中に建物の外壁のようなものが写っており、この現在は貯水槽となっている窪地の中に指揮所が建っていたと思われる。2ヶ所の階段は、指揮所への連絡路だったようである。米軍の接収記録内の管制塔(control tower)がこの指揮所かどうかは不明である。

山頂の南側にある平坦地は広場に、その南東下にある平坦地はテニスコートになっている。
米軍の接収記録によると、ここには教育施設用の兵舎が3棟建っていたと書かれている。銃座が3ヶ所あった事も書かれているが、砲台の南西下一帯が平坦地にされてしまっており、確認する術が無い。

また砲座の北西下には駐車場があるが、米軍の航空写真を見るとここには何らかの建物が建っている。上記接収記録では触れられていないが、記録内の砲座の北東側にある兵舎がこちら側のことを誤記してしまったのではないかと推測してみる。

1960年頃の航空写真を見ると、教育兵舎の北東下に水槽が写っている。大きさからして砲台に関係したものかと思われるが、現在は竹薮になっており、探索は困難そうだ。






大平山 防空高角砲台付属 地蔵峠聴音探照所(2007.3.4)


国土地理院の航空写真(MCG629-C21-5)


右:全体図

大平山の南東にある地蔵峠トンネルの更に南側の168mピーク付近に、大平山防空高角砲台付属の聴音探照所がある。山一帯は観音平遊歩道が整備されていたらしいのだが、今は荒れつつあり鉈鎌が無いと通行が難しい場所もある。山の平坦地にやたらとベンチとゴミ箱が置かれていた。




北部




左:平坦面Aから北側の土塁を望む、右:南西の入口からB内を望む



左:Bの基礎の南西隅、右:B内の西側の内壁



左:B内の東側の内壁、右:B内の南東隅



左:B内の北側の内壁と北上の東屋、右:北西隅



左:Bの基礎の西側、右:Bの出入口を内側から



左:Bの西側の外壁、右:Bの西側のAとCを繋ぐスロープ、一部で石垣が崩落している



左:崩落部分からB内部を、右:東屋C(北方向)



左:東屋C(東方向)、右:東屋Cの北下の平坦面



左:東屋Cを東下から、石垣で補強されている、右:Bの土塁の北東隅を北から



左:防空壕D、右:防空壕D、埋まっている




左:水槽Eを東上から、右:水槽E





最高所Cの南側に建物基礎Bがある。北側は掘り下げ、南側は土塁を盛ってBの四周に壁を作り、所々をコンクリートや石垣で補強している。また建物は鉄筋コンクリート製で壁厚も30cmくらいあり、耐爆性を多少は考慮しているのかもしれない。米軍の接収記録によると、火器管制室付の聴音所があり、箱型聴音機が置かれていたとあるので、この建物は聴音所と思われる。Bの南西隅に出入口があり、その南には南北に長い平坦地Aがある。
最高所Cには東屋が建っている。整地されてしまっているので元の形状は不明であるが、聴音機がここに置かれていたのではないかと思われる。Bの西側はAとCを繋ぐスロープのようになっており、聴音機が移動式のものであった場合には、Aに格納庫があり、使用時にはCまで押し上げていたのではないかと考えてみたのだが、資料には固定装備とあるので、そういうわけでも無いようだ。

南斜面には防空壕Dがある。現在は崩落しているのでどのくらいの広さかは不明であるが、地下施設か何かの入口かもしれない。
地蔵峠へ降りてゆく道の分岐付近に水槽Eがある。位置と大きさからしてトイレか何かかと思われる。




南部




左:Fの東側の石垣、右:Fの上面



左:Fの中心にあるコンクリート基礎、右:Fの西側のコンクリート縁



左:基礎と縁、右:Fから大平山を望む



左:U字溝?G、右:平坦地H




左:F-G間の平坦地を北から、右:円形窪地I



左:山の北東下の林道脇の広い平坦地、右:遊歩道の南西端付近の平坦地





南に伸びる細い尾根上にも幾つかの遺構がある。
Fは直径約5mの円形平坦地で、西側にはコンクリート製の縁、東側は石垣で円形を形成している。中央には直径約150cmのコンクリート製の基礎があり、対角長約120cmで6本のアンカーボルトが植えられている。基礎の形状からして探照灯が置かれていたものと思われる。米軍の接収記録によると、探照灯の北60ヤード(≒60m)の位置に聴音所があると書かれている。北にある聴音所らしい遺構からは200m弱は離れているが、誤差の内かと思われる。

戦時日誌と引渡目録には「追尾式」探照灯が装備されていたとあるにも関わらず、別途コンクリート基礎が残っている理由は良くわからない。


Fの北側の遊歩道脇にFの付属施設らしき遺構がある。
東側にU字溝 のようなGがある。一見切り欠き平坦地のように見えるのだが、よく見ると中央部が盛り上がっている。道路脇は石垣で補強されており何らかの施設だとは思うのだが用途は不明である。
Gの反対側には切り欠き平坦地Hがある。少し狭い気もするが直流発電機でも置かれていたのだろうか。少し北側には円形窪地Iがあるが、用途はさっぱりわからない。



168mピークの、北東下の林道脇に広い平坦地がある。整地されてしまっているので遺構が見つからず何ともいえないが、斜面に生えた木は相当に育っており、平坦地が以前から存在したことは確かである。広さといい場所といい、兵舎がここにあったのではないかと思われる。←米軍の航空写真並びに1960年頃の航空写真からは、ここに施設らしいものを確認できなかった。

また南西に伸びる尾根の先端付近に、切り欠き平坦地らしきものがあったが、ベンチを作るために切ったものか元々あった所へベンチを作ったのかは不明である。参考程度に。

遊歩道は旧地蔵峠を通っているのだが、この峠に大きな溝がある。自然地形だと思って確認しなかったが、もしかすると何らかの施設かもしれない。






大平山 防空高角砲台付属 大下聴音探照所(2007.3.4)


国土地理院の航空写真(MCG629-C21-5)




大平山の北東にある大下トンネルの東上の188mピーク付近に、大平山防空高角砲台付属の聴音探照所がある。兵舎があった平坦面はみかん農園になっている。私有地なので可能なら一言かけてからの方が良い。


ここには、他の呉の海軍施設では余り見ない探照灯の格納庫と、探照灯を引き出すためのスロープとが残っている。

しかし一方で、米軍の接収記録には、大平山山頂の砲台からここにある探照灯を艦艇用双眼鏡ではっきりと視認できたと書かれている。
見えた、ということは格納庫の外に出されいたということになるのだが、米軍部隊が到着する前に、わざわざ格納庫から出すものだろうか?という疑問がある。ここと対になっている地蔵峠には探照灯用のコンクリート基礎が残っており、もしかすると大下でも探照灯はみかん畑裏の建物Aの屋根上に装備されており、こちらの格納庫とスロープは聴音機のものではないのか?、とか考えたりしてみたのだが、資料には97式聴音機は固定装備とあるので、探照灯の格納庫である可能性の方が高いのか。
ともかく、再訪してみかん畑裏の建物Aの屋上を調査してみるしかない。






東部




左:建屋Aを北から、右:建屋Aを南東から



左:平坦面Bにある石垣の残骸、右:兵舎があったと思われるみかん農園K





みかん農園の東側の高台に建屋Aがある。当初は油脂庫と推測し、窓が付いているのも「後から穴を開けて窓を入れているようである」としていたのだが、実は探照灯建屋(探照灯建屋だと、窓がある場合がある)の可能性もある。屋上に探照灯の基礎があるかどうかを確認しておけば良かったのだが、探索当時はそのような知識も無かったので仕方ない。

平坦面Bは細長く、遺構らしいものは見つからなかった。ただ石垣の残骸らしきものが積まれており、元々何かがあった可能性も無いとは言えない。この一帯はみかん畑だったのか、石垣で段々になっている。






西部




左:切り欠き平坦地C、右:Cの南隣の溝




左:兵舎Dの東側の土塁、右:兵舎Dの南側の平坦地、Dへの通路?



左:兵舎Dの内側、北東隅、右:兵舎Dの内側、北面



左:兵舎Dを南東隅から、右:兵舎Dの西端を南から



左:兵舎Dの西壁、右:兵舎Dの西壁の南側



左:兵舎Fを南東上から、右:兵舎Fを東上から




左:兵舎Fの南西隅、右:兵舎Fの南側



左:兵舎Fを西上から、右:兵舎Fの北西隅の防壁



左:防壁を北側から、右:防壁の断面



左:兵舎Fの北東隅、右:兵舎Fの西側の壁断面





左:平坦面Gの北下にある探照灯格納庫(推定)、右:格納庫の西側に伸びるスロープ




左:格納庫を西から、右:格納庫正面



左:格納庫から西へ上がるスロープ、右:スロープのヘアピン部



左:ヘアピン部を西から、右:ヘアピン部から平坦面Gへ登るスロープ



左:平坦面G、右:Gの東側の土塁、兵舎Fへ降りる溝がある



左:H付近のL字型の溝、右:H付近の切り欠き平面




左:尾根に沿った溝I、右:折れて北斜面へ降りる溝I



左:水槽J、右:林道からJのある平坦面を望む






特殊な遺構が残っている。
農園Kの南西側から尾根が登っており、斜面に切り欠き平面Cがあるが用途は不明である。またCの南隣には溝がある。
Cの西上には平坦地があり、その西に兵舎Dがある。三方の壁を土で覆っており、周りから見るとただの土塁にしか見えない。西側は普通の壁になっているが、約30cmの鉄筋コンクリート製である。用途は不明である。

切り欠き平坦地Eを挟んで、西側に兵舎Fがある。兵舎Dのように壁に直接土を盛ってはいないが、南側は山の斜面を切り欠き、北側は防壁を作り、四周を壁で囲んでいる。特に北西隅の壁は表面をコンクリートで覆ってあり、耐爆性や隠蔽性を考慮したものかと思われる。兵舎そのものは他の聴音探照所でも機器類付近に良く置かれている大きさの兵舎であるが、時期的に資材に余裕があったのか鉄筋コンクリート製である。また兵舎Fの西上にある平坦面Gとを結ぶ溝が作られているが、探照灯の配線を通していたものだろうか。

Fの西上には平坦地Gがある。半円形の平坦地で東側半分には土塁がある。北下には探照灯格納庫(推定)があり、格納庫から平坦地GにかけてV字状にスロープが作られている。普段は格納庫に探照灯を置いておき、使用時に探照灯を平坦地Gへ移動させていたのではないかと思われる(聴音機の格納庫である可能性も有り)。

Gの西側の尾根上には、H付近にL字型溝と切り欠き平坦地があるが用途は不明である。探照灯の管制器のようでもあるが、場所が悪いので何とも言えない。
更に西には溝Iがある。尾根沿いに下ってきたものが折れて北側の斜面へと下っていっている。電線か何かが埋められていた溝だろうか。
西端は平坦地になっており、水槽Jがある。ただこの平坦地は畑であり、畑の水槽の可能性もある。


試験的、実験的な意味合いもあってか、耐爆性や隠蔽性を考慮した、他に見ない特殊な構造をしている。特に引き出し式の探照灯施設(もしくは聴音機)は凝っている。

装備も追尾式探照灯と97式聴音機がセットになっており、珍しい。ただこちらは初期の聴音所と開戦後の聴音所の間の過渡期であったことも理由のようだ。










日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和13年11月7日 官房機密第5976号
昭和15年7月 竣工
昭和16年11月 防空砲台、第一砲台群(下士官7、兵19)
准仕官以上2、下士官兵115、有線電話
12.7cm高角砲4門、サ式4m測距儀1、94式4.5m測距儀1、150cm1型陸上用管制器付2
97式2型空中聴測装置2、ディーゼル交流発電機2、電動直流発電機2
准士官以上3、下士官22、兵93
昭和16年12月 防空砲台
サ式4m測距儀1
昭和17年1月 防空砲台
昭和17年4月 89式40口径12.7cm連装高角砲2基、同 装填練習砲1門
97式空中聴音装置2、追尾式150cm探照灯1型2
95式高射装置1、94式高角測距儀1、12cm高角双眼望遠鏡2
新潟型単動4サイクルディーゼル(45PS)2
電動直流発電機2
配員 下士10(臨17)、兵22(臨43)分隊長のみ
昭和17年8月 12.7cm連装高角砲2、150cm探照灯2、94式4.5m測距儀1、95式陸用高射装置1
97式聴測装置2、12cm望遠鏡2、7倍稜鏡3
S15.7竣工 官房機密5976(13.11.7)
砲座3基の所2基装備
昭和17年9月 防空砲台第1砲台群
昭和18年1月 防空砲台(第1砲台群)
昭和19年3月 官房設機密第641号により下士官兵戦時要員教育応急施設として兵舎構築中
昭和19年6月 12.7cm連装高角砲2基
官房設機密第641号により下士官兵戦時要員教育応急施設として兵舎構築中(練習生収容しあれり)
普通科砲術練習生第11期陸上対空機銃班261名6-8月
昭和19年7月 12.7cm連装高角砲2基 既設
官房設機密第641号に依り下士官兵戦時要員教育応急施設 完成


機密呉鎮守府命令第235号、昭和19年7月1日(呉鎮守府戦時日誌より)
呉海軍工廠長は左に依り防空砲台照射聴測装置整理移設を実施すべし
(略)
黒島:
96式150cm探照灯1型陸上用1、同管制器2型1、91式空中聴測装置1(97式?)
大平山
(イ)黒島は大平山南方海上3.5km、(ロ)1組は現在位置の侭とす
昭和19年8月 12.7cm連装高角砲2基 既設
昭和19年9月 12.7cm連装高角砲2基 既設
昭和19年10月 12.7cm連装高角砲2基 完備
昭和19年11月 12.7cm連装高角砲2基 完備
昭和19年12月 12.7cm連装高角砲2基 一部付属装置の外完備
既設 150cm探照灯1、空中聴音装置1
昭和20年1月 12.7cm連装高角砲2基 完備
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年2月 12.7cm連装高角砲2基 完備
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年8月31日 引渡:
12.7cm連装高角砲2基
95式陸用高射装置付属品補用品共 1組
2式陸用高射装置 1組
94式4.5m高角測距儀付属品補用品共 1組
追尾式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 2基
97式空中聴測装置、付属品補用品共 2基
12cm高角双眼望遠鏡 2個、貨物自動車 1台
建築物 兵舎3、其ノ他付属施設9

用地:149425m2、建物:1680m2


米軍の接収記録 G-2 Periodic Report No.25 1945.10/30(国会図書館:WOR22758-10)

下蒲刈島(765-1236(注:地図上の座標値))に向かった偵察部隊によると、大型の砲座が(765-1235)に、
また探照灯施設が(764-1235)にあった。砲座の近くにある兵舎と、
海岸沿いにある兵舎(765.2-1236.0)は主に海軍兵員の教育に使用されていた。
島で唯一のまともな道路は(766.0-1236.5)の海岸をスタートし、
砲座へと弾薬を補給する為に使用されていた。





41st Division Artillery 167th Field Artillery Battalion
A P O 41 Reconnaisance Report(国会図書館:WOR-48193)


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・砲台(764.5-1235.5)について:

2ヶ所の砲座があり、それぞれが12.7cm両用砲2門が連装架台に載っている。
火砲の状態は良く、斉藤たしろ 2nd Sub-Lt(TASHIROとあるが、「としろう」の聞き間違いか?
 また2nd LtもしくはSub-Ltで少尉なので、特務士官?)の警備下にある。
砲台敷地内には、以下の補助装備があった:
 (1)測距儀1
 (2)管制塔(control tower)1
 (3)大型の艦艇用双眼鏡2
 (4)非決定式?高射機(antiaircraft derector of undetermined type)2と管制塔1
 (5)砲座の近くに複数の兵舎と将校用宿舎
 (6)全ての弾薬は砲台から撤去済み

・探照灯1と変圧所(transformer station)(765.0-1235.0、地蔵峠付近)について:

探照灯は実用に使用可能な状態。探照灯の北60ヤードに、火器管制室付の聴音所と箱型聴音機がある。



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・127mm砲台(764.7-1235.6)について:

斉藤たしろ 2nd Sub-Ltによる説明:
砲台は1938年に建築される。備砲はその直ぐ後に行われる。元々は6門あったが、戦争開始時に2門が撤去され、
呉海軍基地に運ばれた後、南西太平洋方面へ輸送された。

火砲運用に関する計画(plan、配置図?)、地図、技術資料は、呉海軍基地の海軍大将の元へ送付された。
閉鎖器と多くの付属品は呉海軍基地へと運ばれている。全ての弾薬は秋月(江田島)へと送られた。

これらの火砲の全ての機器と付属品が日本海軍の所有物である
(property of the Japanese Navy、海軍の装備品ということか?)。
1組の管制装置は1年前から実用から外されていたが、訓練目的に使用されていた。

識別の訓練の為に、アメリカの航空機の絵が、各砲座の内壁に描かれている。

以前は、3門の25mm対空機銃の銃座が存在していた。この機銃は、ここで運営されていた機銃手の為の学校
の一部分だった。機銃は呉海軍基地に送られた。

(764.75-1235.65)に兵舎があり、127mm砲を操作する12名の砲員が2組住んでいた。
(764.80-1235.40)にあった3棟の兵舎には、対空機銃手学校の生徒が住んでいた。
Lt斉藤は学生の大まかな数すらも覚えていなかった。

2ヶ所の探照灯がLt斉藤によって指示された。
1つは(765.65-1236.10、大下隧道付近)にあり、砲台に備え付けられた艦艇用双眼鏡からはっきりと視認できた。
探照灯の大きさは150cmである。もう1つの探照灯は、大浦(773.0-1235.5、上蒲刈島)の南の丘の上に配備されている。
この場所については、後ほど偵察する。



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(764.7-1235.6)にあった砲台施設、高射機、測距儀、訓練機器は破壊された。

・大浦(上蒲刈島、773.0-1235.6):参考
探照灯(150cm-130KW)が(773.35-1233.4)にある。探照灯は運用可能な状態で、
スイッチを入れると照射できた。電話通信手段が箱型聴音機の傍まで引かれており、
聴音機も運用可能な状態だった。


11/17

(765.65-1236.10)の探照灯と箱型聴音機は破壊された。
丘の横にあったU型のトンネル(765.1-1236.75)を調査したが、空だった。


元の地図が無いので、座標値の1≒1ヤード=1kmとして山頂の砲台を中心にマッピングしてみる。その為ズレが大きい。




大平山練習部
日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和19年3月 兵舎構築中
昭和19年6月 兵舎構築中(教育応急施設)
昭和19年7月 教育応急施設 完成
昭和19年8月 13mm機銃8門 応急既設
昭和19年9月 25mm連2基、13mm連1基、7.7mm1丁 既設(練習生教育用)
13mm単8門 既設(応急分散)
昭和19年10月 既設 25mm連2基、13mm連1基 練習用
既設 13mm単4門 応急分散、7.7mm2丁 練習用
昭和19年11月 25mm連2基 7.7mm2門(教務用)、13mm連1基 13mm単4門(応急分散)



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