冠 村山田 藤河 砲台


2015.1.18 探索1
2015.3.15 探索2



 福津市から古賀市にかけての海岸線沿いの平野部の南北縁に、6門の15cmカノン砲が配備される予定だった…っぽい。昭和20年5月末にケ号演習が始まり、比較的内陸部に砲台が移設されたものの、それから2ヶ月半後には終戦を迎え、その混乱と期間の短さから、この付近の砲台も、まともな記録が残っていないか、工事が進まず遺構らいしものも残っていないかのどちらかであるようだ。


 この辺の砲台の記録として、4つの資料があるのだが、ズレが大きい。
大きく分けると:

 (A)山田砲台(15K 2門)・東郷北西側砲台(15連K 2基)[1]
 (B)冠砲台(15K 2門)、村山田砲台(15K 2門)、藤河砲台(15K 2門)[3][4]  (名称は地図にある附近の地名から)
 (C)分宿地点として、東郷と福間[2]

(A)の東郷北西の「北西」が間違いで「南西」が正解なら、東郷南西≒冠+村山田ということになる。また(A)の「山田」が、藤河南西にある山田であれば、


 (1)冠(=東郷南西側:15連K 1基)
 (2)村山田(=東郷南西側:15連K 1基)
 (3)藤河(=山田:15K 2門)

と、こじつけることができるかもしれない。




郷土史の「久山町の大東亜戦誌」には、以下のように書かれている:
(宗2735部隊とあるが、「宗」は資料[5]より下関・壱岐・長崎の重砲兵連隊の文字符、「2735」は資料[6]より下関重砲兵連隊の番号なので、合っているのかと)

昭和20年4月(山田村)
本土決戦予想の最悪事態となり各部落に軍隊入居し陣地構築に着手した。
藤河(宗2735部隊)、大谷、伏谷

昭和20年7月(久山村)
 国民勤労報国隊の軍関係作業出勤計画

 出勤先:山田村藤河(重砲陣地構築)宗2735部隊に協力
 出勤期間:昭和20年7月20日〜8月18日
 出勤人員:毎日25人
 雨天の際は順延せず、翌日合併出勤。
 毎朝7時、下山田県道十字路集合。






下関要塞守備隊戦史資料[1]

工事進捗状況:
 山田砲台(旧蓋井島15K 2門) 洞窟掘開70%
 東郷北西側(旧沖ノ島15K 4門) 洞窟掘開10%




下関重砲兵連隊史[2]

「(沖ノ島からの火砲搬送の記事)…撤収作業の見通しがついた8月の初めに、私は一足先に島を離れて九州本土へ渡った。それは火砲を設備する場所を決めるためで、軍司令部と連絡の上、福岡県福間町附近の山中で陣地偵察をしていた。…」

「終戦になり、連隊本部では全員を下関に集結しようとしたが、混乱と輸送手段がないため、関門地区の第1大隊のみを大畑練兵場に集めて復員式を行い、一方遠賀郡岡垣村、宗像郡東郷、福間附近に分宿していた第2大隊は、9月上旬、宗像中学校の運動場で、本部より荒牧大尉を迎えて復員式を行い、連隊は解散となった。」






第351師団戦史資料[3]

資料をスケッチしたもの(冠・村山田のカノン砲マークの基点が○なのは、連装カノンだからか?)

工事進捗状況:
 冠砲台(15K 4門)7月末:0%、8月:20%
 藤川砲台 (15K 2門) 7月末:30%、8月:50%




第56軍配備要図[4]

資料をスケッチしたもの




日付 記事(特記以外、現代本邦築城史より)
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[1]
蓋井島内の2ヵ所の工事中止、火砲は浅川と山田へ
昭和20年8月 沖ノ島 第7中隊 2連式15加 4門 [2]
第56軍隷下の第57師団に配属され、8月上旬撤収を終了。火砲、弾薬共博多港に到着時、終戦。(佐藤中尉)

[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[2] 下関重砲兵連隊史
[3] 第351師団戦史資料 (防衛省戦史資料室、本土-西部-89)
[4] 第56軍配備要図 (防衛省戦史資料室、本土-配備図-49)
[5] 符号要塞重砲兵連隊・要塞砲兵隊(アジア歴史資料センター:C12121120900)
[6] 第56軍要塞(アジア歴史資料センター:C12121024400)









冠 砲台


左:第56軍配備要図[4]、右:第351師団戦史資料[3]




左:崩落部Aを西下から、右:同左を南西から


左:崩落部Aを東上から、右:同左を北東上から


左:崩落部Bを南西下から、右:同左を北東上から


左:崩落部Bを東上から(アップ)、右:射線方向を(手前に低いものの山が)


左:南西から尾根を(赤矢印付近に崩落部A・B)、右:同左続き(A・B)


左:冠山城山頂からの眺め、右:同左平坦部



 鹿児島本線東福間駅の北約1km、冠集落の南西にある尾根の西面に、合計4ヶ所の崩落跡がある。その内の2ヶ所は比較的大きく、場所からも15cmカノン砲のトンネル砲台の掘りかけ跡ではないかと思われる。ただ配備予定は15cmでも連装砲であり、そうなると幅が足らず、また2ヶ所も不要ということにもなり、辻褄の合わない部分もある。
 射線は南西方向を向いていたようだが、正面には低いながらも山があり、山越え射撃で敵から射点を見え難くする工夫をしているようだ。

 冠集落の北西上には冠山城跡がある。第351師団戦史資料内[3]の略図には砲台の北西に観測所のマークが描かれており、見晴らしからも有力候補であることから登ってみたが、観測所らしい遺構は見当たらなかった。








村山田 砲台


左:第56軍配備要図[4]、右:第351師団戦史資料[3]


左:北側の候補地、右:同左


左:南側の候補地

2ヶ所程回ってみたが、いずれも空振り。北東側の68m高地が次の候補地だが、いつになるかわからない。








藤河 砲台


左:第56軍配備要図[4]、168mの山が三岳山、右:第351師団戦史資料[3]


左:藤河周辺、右:観測所があるとすれば尾東山か


 周辺を車で回ってみたが、候補地が絞れない。三岳山の南西麓の小さい山2ヶ所(上記地図の下の切れている範囲)に入ったものの、いずれも空振り。
 観測所は第351師団戦史資料[3]の略図からすると尾東山かと思われるが、工事もろくすっぽ進んでないところから、ただの候補地止まりで何も無い可能性が高い。








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