角島 砲台


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Googleマップの衛星写真に加筆


左:1975年頃の航空写真(CCG7612-C31-5、国土地理院)、右:発掘調査資料[4]の地図を回転、修正


電燈所?

左:1975年頃の航空写真(CCG7612-C14-1、国土地理院)、右:終戦後の航空写真(M780-74、、国土地理院)





 下関市の最北端に近い角島の東側の中心地である元山集落に、角島砲台が築かれていた。
 戦後、集落に取り込まれていたものの、兵舎はもちろんのこと観測所まで利用され、比較的良く遺構が残っていた。しかし角島大橋の建設に伴う新道工事で、北から2番目の砲座が破壊されてしまった。ただ工事の前の2000年に発掘調査が行われ、資料[4]にまとめられている。

 現在は殆どが私有地内で、また一部住居としても利用されており、怪しまれないように人が居たら声をかけたほうが良い。砲座は一番北の1基のみが地上に出ているが、砲座の中に土が入っており、本来土に埋もれている側面が露出しているという真反対の状態にある。弾薬庫は3ヶ所とも残っているが、内部は鉄筋盗りで扉と蝶番が抜き取られている。建築物は、観測所を入れて6棟残っている。使用されているのは3つのみで、放棄された兵舎の1棟は崩落しつつある。
 建築要領書(現代本邦築城史[1]内に収録)によると、島の西部に簡易観測所を設けるという計画だったようだが、本当に建築されたか、建築されたとすればどこかについては不明である。

 電燈所は、現代本邦築城史[1]によると砲台の南西約700mの標高64m高地付近にあるとされている。探索はしてみたものの、最近になって放棄された畑であるため進入が難しく、端までたどり着けずに引き返す羽目になった。戦後直ぐの航空写真を見ると高地の西下に建物らしいものが写っているので、この付近にあったように思われる(1975年時点で建物は全て無くなっているが)。
 探索の際に、北下に住む方に伺ったところ、「この上に砲台があったのは知っている」との回答があった。ただ畑へ出かける途中だったので、それ以上詳しい話は聞けなかった。これまでの経験から、探照灯の事を大砲と言っていた証言も幾つかあることから、この付近に電燈所があったことは確かなようである。

 近代築城史では、砲台の場所が灯台(島の西端)の南方とされ、しかも備砲が96式15cmカノンとなっており、また比較的まともな下関重砲兵連隊史でも、電燈所の場所が灯台の東側と書かれている。特に下関重砲兵連隊史の記述にはだまされて、灯台周辺を散々うろうろする羽目になってしまった。





現代本邦築城史[1]によると、角島砲台の意図は以下のものであった:

任務: 
 角島西北方海面に於ける敵艦船の航行を妨害し持って該方面よりする敵軽艦船の攻撃に対し我が輸送船の海上交通を援護す。

備砲:
 ラ式15cmカノン砲 4門

標高:
 60m〜63.5m

昭和14年7月1日起工、昭和15年9月26日竣工

摘要:
 ラ式は独国「ラインメタル」会社製にて中華民国にて鎮江、江陰等に備附けありしを支那事変の際分捕りたるものなり。



角島電灯所:
 射光機(96型遊動式150cm)1、発電所・属品格納庫及掩燈所1
 昭和14年7月1日起工、昭和15年9月26日竣工






下関要塞角島砲台建築要領書(昭和14年3月調製、参謀本部)[1]

三、築設要領:
 1.砲台の首線は概ね真方位270度とし、射撃区域は首線の左右を成るべく広く直接照準し得る如く施設す
 2.観測所は砲台付近に設け96式測遠機に依る射撃設備を具備せしむ。尚軽易なる補助観測所を角島西部に設く
 3.砲座は「ラ」式15cmカノン4門を築設す
 4.電燈所は砲台の西南方約700m独立標高64m高地付近に設く
 5.要塞司令部と砲台間に所要の通信網を設く






下関重砲兵連隊史[3]の、戦備下令(昭和16年7月)時の記事

角島は下重第3中隊の現役兵と召集兵で編成された、約60名の部隊が7月中旬に島に到着して戦備を担当した。この砲台の15cm加農砲はドイツ製だったので、教育訓練にあたっては砲兵操典が使用できず、独自に火砲の操作を研究して、これを操典として文書にするのに苦労があった。8月になって電動式照準器具の指導訓練のため、重砲兵学校から教官が来島し、その時この操典を見て、良くできていると評された。9月中旬頃に現役兵は下重へ復帰した。




日付 記事
昭和14年7月1日 起工(電燈所含む)[1]
昭和15年9月26日 竣功(電燈所含む)[1]
ラ式15cmカノン 4門
昭和16年7月7日 戦備下令(陸支機密第67号)[3]
昭和17年5月 第2大隊第8中隊[3]
昭和18年6月 第8中隊が北千島へ転出。代りに藍の島の部隊が進駐して第5中隊となり、それに伴い第1大隊へ編入[3]
昭和19年6月初頭 対潜水艦攻撃(見間違い)[3]
昭和20年2月下旬 第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)[2]
杖坂山(第5中隊102名)と玄海島(第4中隊102名)で洞窟砲台工事開始
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[2]
工事中止、火砲は吉見と大休庵へ

[1] 現代本邦築城史 陸軍築城部本部 編
[2] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[3] 下関重砲兵連隊史
[4] 角島砲台跡2000 (山口県豊北町埋蔵文化財調査報告書第17集、山口県豊田土木事務所、下関市立図書館豊北図書室蔵)



左:砲座1を南西から、右:南から


左:砲座コンクリート部、右:砲座1から南を


左:砲座1の弾薬庫入口を北から、右:同左内部


左:砲座2・3の弾薬庫入口を北から、右:同左内部


左:反対側の入口、右:この先に砲座3の場所があるようだが…


左:指揮所、現住居、右:同左、この家が物件で出てきたら欲しい…


左:指揮所上部をアップ、右:同左、偽装網用のフックも残る


左:指揮所を南西から、右:兵舎方向への道、途中右手に水槽


左:水槽、右:同左、蓋井島第2砲台にも同じ形状の水槽あり


左:砲座4、埋められて畑になっている、右:砲座4の弾薬庫入口


左:砲座4の弾薬庫入口、右:同左内部


左:西側の兵舎、右:同左


左:東側の兵舎、右:同左北面


左:東側の兵舎の南面を西から、右:西面


左:南面を東から、右:東面


左:東側兵舎裏手の貯水池、右:東側兵舎の天水桶


左:東側兵舎の西隣にある倉庫か何か、右:西側兵舎を望む


左:観測所の北東側にある付属施設を北から、右:付属施設その1


左:付属施設その1、右:付属施設その2


左:付属施設その2、現倉庫、右:ここは蝶番が残っている


左:電燈所と思われる64m高地の現在、右:同左、奥のアンテナは高地の南下にある電波施設のもの





砲座・弾薬庫:
 前にも書いたとおり、北から2番目の砲座は道路工事の為に破壊されて残っていない。また地上に露出しているのは1番北の砲座のみであり、特に3番目の砲座は位置すらよく判らないような藪の中にある。一番南の砲座は、南側がそれっぽくカーブしているので雰囲気がつかめる。
 弾薬庫は3ヶ所共良く残っているが、恐らく観測所の現持ち主の所有だと思われるので、中には勝手に入らない方が良さそうである。扉、蝶番、そして一部壁面が破壊されているようだが、他は良好である。
 また、前にも書いたが、この辺一帯私有地なので、人が居たら声をかけておくこと。

観測所:
 現在住居となっており、近寄ることすらできない。遠くから見るに、偽装網用のフックも残っており、状態は良好なのではないだろうか。不動産で物件として出てきたら、借金してでも欲しい所である。

兵舎・水槽:
 南東側に兵舎が2棟と、恐らく兵舎用の水槽がある。
 西側の兵舎は物置に利用されておりしっかりとしている。ただ東側の兵舎は放棄されており、いつ崩れてもおかしくない状態である。東側兵舎の南側には貯水池がある。また西隣には小さなコンクリート製の倉庫のようなものがある。油脂庫とかそういうものだろうか。

付属施設:
 観測所の北東側に2ヶ所(もしかしたらもう1ヵ所あるかも)のコンクリート製の建物がある。比較的小さく、発電所などではなく倉庫か油脂庫とか、そういったもののようである。1つは放棄されているが、もう1つは現役の倉庫として使用されている。金物盗りはあまりされておらず、扉は無いものの蝶番は残っている。



電燈所:
 東側からアプローチしてみたものの、真ん中付近の畑までは何とか寄せられるものの、それよりも西側は棘の多い藪になっており、無理して進んだとしても地形を確認できない。次に行くとすれば、西側から回り込み、電燈所の付属施設や、探照灯の移動路のようなものを探索したい。






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