第二次世界大戦までの米陸軍のレーションの歴史



ration
(1)(食料・燃料などの)一定配給量、定量
(2)食料、糧食


兵隊も人間、腹が減っては戦は出来ない。古来から様々な兵食が用いられた。しかし、それらの多くは普段の食事と変わらなかったり、長期保存が効く物でも、板のように堅い乾パンや干飯のように「保存」のみに重点の置かれた物が多かった。そして近世に入り各種産業が発達すると、缶詰などの加工食品などの誕生によって兵食も発達した。中でも現代アメリカの兵食は最も進化し、システム化されたものになっている。
そこで現代アメリカの兵食(レーション)の歴史についてまとめようと思い立ち、今流行のネット検索をしていたところ、アメリカ陸軍のクォーターマスターコープ(Quartermaster Corps:補給本部)のホームページに、アメリカ陸軍のレーションの歴史をまとめたページを発見した。アメリカ独立戦争から第2次世界大戦までのレーションの発達について、写真入で詳しく述べられており、ちょっとガックリと来たものの、あまりに素晴らしいので今回そのまま和訳して紹介することにした。 アメリカの食文化を余り知らない人間が訳しているため、各所誤訳があるかもしれませんので、その場合には以下のアドレスにある原文を参考にしていただければ幸いである。

http://www.qmfound.com/army_rations_historical_background.htm



また、以下のレーションのページからも一部写真を引用させていただいています。
(2003.5.13追記)
World War Two Ration Technologies



初期の陸軍のレーション

第一次世界大戦時の特殊レーション
リザーブレーション(Reserve Ration:予備レーション)
トレンチレーション(Trench Ration:塹壕レーション)
エマージェンシーレーション(Emergency Ration:緊急用レーション)
1918年から36年までのレーション開発

1936年から1941年のレーションの開発
フィールドレーションD(Field Ration D:Dレーション)
フィールドレーションC(Field Ration C:Cレーション)
第2次世界大戦中の作戦用レーション
Dレーション
Cレーション
Kレーション
マウンテンレーション(山岳部隊用レーション)
ジャングルレーション(熱帯地帯用レーション)
5-in-1レーション(5人用レーション)
10-in-1レーション
アサルトランチ(突撃昼食)
Xレーション
エアクルーランチ(Aircrew Lunch:飛行士用ランチ)
空軍用コンバットランチ(AAF Combat Lunch)
サンドイッチパック(Sandwich Packs)
緊急パラシュート降下用レーション(Parachute Emergency Ration)
空中投下式救命艇用レーション(Airborne Lifeboat Ration)
キッチンスパイスパック(Kitchen Spice Pack:野戦キッチン用スパイスセット)
野戦病院補助食品(Hospital Supplement)
救護所用飲料パック(Aid-station Beverage Pack)
赤十字食糧パッケージ(Red Cross Food Package)



初期の陸軍のレーション

1776年の陸軍創設期、キャンプ地での食事や行軍中の食事、戦闘中の食事などは、「ガリソン(garrison = 守備隊) レーション」(駐屯地食という感じか)と呼ばれる簡単なパンや肉、野菜などのメニューで賄われていた。
そして、独立戦争から第一次世界大戦にかけて、レーションはその配給対象として部隊単位や小数グループ、さらには個人に至るまでの幅広い範囲をカバーし、配給手段としても、食堂での給仕から戦闘中やサバイバル中の配食までもが考慮されていくようになっていったのである。


独立戦争当時、革命議会によって制定されたガリソンレーションの内容は、牛肉と豚肉もしくは塩漬け魚、パンもしくは小麦粉、えんどう豆もしくは大豆(※1)もしくは同等の野菜、牛乳、米もしくはトウモロコシ粉、そしてビールかリンゴ酒であった。また、ロウソクと石鹸も基本的な物として配給されていた。
通常、食事の準備は兵隊の義務であった。生肉を供給するために、季節が来ると牛や野豚が駐屯地に連れてこられて屠殺され、残りは保存処理がなされた。また、食糧の供給事情も変化するため、配給される食材も変化した。特に喜ばれていたものに「スピリット(ラム酒やウィスキー)」があった。

※1:peaはグリーンピースで有名なえんどう豆、beanは空豆、いんげん豆もしくは大豆を指す。


独立戦争後、レーションから肉の量が減り、また新鮮な食糧が事実上消えてしまう。これは当時、新鮮な食糧の保存や輸送の技術がほとんど無かったからであり、その為に陸軍の軍医をしていたベンジャミンラッシュは、このままの状態が続けば戦闘による負傷者よりも栄養不足による病人が数で勝ることになるだろうと警告している。しかし、この生鮮食糧品の供給不足は、その後も何十年と続いていくのである。

独立戦争後、辺境の兵士の食糧を増量する幾つかの試みもなされた。辺境の兵士はより厳しい状態にあるとして、1796年に議会は、小麦粉やパン、牛肉、豚肉、そして食塩などを標準の軍隊食に追加する旨を決定している。
1832年10月にはコーヒー(豆)も登場した。アンドリュー=ジャクソン大統領は、コーヒーと砂糖をラム酒とウィスキーの代用品とする決定をした。これは翌年に議会によって、次の通り施行された。「(ウィスキーの)代用品として、下士官、軍楽隊員、兵士に対して、補給可能な場合には、100人当たり週に6ポンドのコーヒーと12ポンドの砂糖を配給することとし(1日当たり、1人コーヒー4g、砂糖7g)、現物がない場合には代わりに現金で支払うものとする」

南北戦争が始まると、独立戦争当時よりもより良い食事を兵士に配給するため、1861年8月3日に議会は次のような標準軍隊食の増量に関する臨時法案を決定した。

「以下のように、陸軍の食糧支給を増量するものとする。

  • 現在決められている量に代わって、22オンス(625g)のパンもしくは小麦粉、もしくは1ポンド(454g)の乾パン(※2)を支給する。
  • 連隊長が希望する場合、可能なら塩漬け肉に代わって生牛肉を支給する。
  • 豆類や米もしくはトウモロコシ粉は現在の標準量と同量に支給される。
  • 週に最低3度は1人当たり1ポンド(454g)のジャガイモを支給する。 以上の食糧支給が不可能な場合には、それに代わる何らかの食糧を支給する。
    また、将校の要求があれば、コーヒーの代わりに紅茶を支給する。
    以上の増配は、反乱が終るまでの臨時のものであり、その後は1861年の7月1日当時の標準に戻るものである。」

    ※2:原文中の「hard bread」は、乾パンの他にもビスケットやクラッカー、ラスク等も含まれるが、全て「乾パン」で訳している


    兵隊達の食べ物の嗜好を考慮すると言う、現在では陸軍のレーションで基本的要求も、この南北戦争時に認識され始めた。
    コーヒーエッセンスや干肉、乾燥野菜なども、費用がかさまず兵士達の受けが良かったならば、正式に導入されていたに違い無い。しかし、この当時の多くの缶詰食品で欠陥が明らかになり、後に補給本部の調査対象となった。調味料や香料の支給も1863年の3月3日に裁可され、これによって、100食当たり4オンス(113g)の胡椒が支給されることになった。
    南北戦争の終りには、兵隊1人当たりの基本的な食糧は、1ポンド(454g)の豚肉もしくはベーコン、1.5ポンド(680g)の生もしくは塩漬け牛肉、そして18オンス(510g)の小麦粉で構成されていた。これにメニューによって変わってくるものの、ジャガイモ、エンドウ豆、大豆もしくは米、コーヒーもしくは紅茶、砂糖、食酢、食塩、胡椒、ロウソク、石鹸などが支給されていた。
    作戦中や行軍中には、トウモロコシや乾パンが支給された。
    そして、正式に認められていたわけではなく、また常時可能なものでも無いが、膨大な量にのぼる食糧の調達するための、兵士各自による自発的な食糧徴収(現地調達)も半ば期待されていたのである。


    1865年から1890年にかけての、対インディアン戦争中、レーションは南北戦争当時から受け継がれたパターンを基本としており、味も単調でまずく、扱いにくいものであった。辺境の兵士の健康な肉体は、レーションのおかげと言うよりも、辺境でのきつい仕事と環境への適用性のおかげであった。

    新鮮な食糧が手に入らないと栄養不足で壊血症や脚気になってしまう。そこで長期駐留している軍隊では、新鮮な野菜の補給の為に畑を作る事を試みた。乾燥玉葱や乾燥キャベツ、干大根、干カブ、干人参、そして緑唐辛子などの乾燥乾燥野菜が辺境の部隊へ支給されたが、これらは概ね好評だったようである。部隊が騎乗や徒歩での移動時には、乾燥食品は「行軍食」としても用いられていた。また、「ペミカン(Pemmican)も、この時期にはこうした行軍用のレーションとして用いられていた。

    ペミカンは、ダコタ州のスー族に「ワスナ(wasna)」と呼ばれているネチティブアメリカンの保存食である。作り方は、まずバッファローの肉を細かく砕いて突き固め、干した野イチゴか野生のチョークチェリーをそれに混ぜて大きなバッグに詰め、獣脂で封をする。チョークチェリーは普通は潰して中の種を取り除いてからバッファローの乾燥肉の中に入れる。野生のスモモやグース・ベリー(スグリの実)、干しぶどうなどが使われることもあり、レシピによってはバッタを入れるものすらある。恐らくバッタはアミノ酸等の栄養価を高める為に入れられていたものと思われる。

    ビーフジャーキーとパイノル(pinole)も、この時期に辺境に所在していた陸軍に採用されたネイティブアメリカンの食糧である。
    ビーフジャーキーは、細長く切った牛肉を乾燥した場所で干して、水分を全て飛ばしたものであり、生肉と比べて栄養分の減少は無い。パイノルは、小麦かトウモロコシを炒って粉にしたもので、穀物を細かく粉砕してあるので容易に水に溶けて消化も良かった。


    スペイン戦争時の標準的なレーションの内容は、牛肉(もしくはその同等品)、小麦粉かパン、ベーキングパウダー、豆類(大豆、金時豆等)、ジャガイモ(生)、グリーンコーヒー(焙煎前のコーヒー豆)砂糖、食酢、食塩、胡椒、石鹸、ロウソクであった。
    調達、管理、出荷、貯蔵などの技術の向上により、生や缶詰の肉類の供給量も増えたが、かなりの量が不良品だったり腐敗していた為に兵士の健康に悪い影響を与えており、この戦争中に戦死者の14倍の病死者を出している。


    1901年には陸軍によって、レーションは使用目的によって以下の5種類に分別されることになった。
    (1)駐屯地用(ガリソンレーション)
    (2)作戦中の戦場用(フィールドレーション)
    (3)行軍中など移動中で、調理設備を利用できない場合(トラベルレーション)
    (4)陸軍の輸送部隊によって移動中用
    (5)作戦中の緊急時用(エマージェンシーレーション)

    ガリソンレーション(駐屯地用の食品)としては、生牛肉、小麦粉、豆類、ジャガイモ、すもも、コーヒー(豆)、砂糖、食酢、食塩、胡椒、石鹸、ロウソクなどがあり、これらの食品が入手困難な場合には代用として、生羊肉、ベーコン、缶詰肉、干魚、酢漬魚、缶詰魚、エンドウ豆、米、トウモロコシ粉、玉葱、ホールトマト、その他新鮮野菜もしくは乾燥野菜が用いられた。林檎や桃がすももの代用になったり、コーヒーの代わりに紅茶、また調味料としてキュウリのピクルスが加えられる事もあった。更に、気象条件でアラスカを対象としたり、輸送中での給食も条件に挙げられるようになった。

    フィールドレーションは、ガリソンレーションと基本的に同じで、肉、パン、野菜、果物、コーヒーに砂糖、調味料、そして石鹸にロウソクから成っていた。その他に代用品として、生羊肉、缶詰肉、ベーコン、普通のパンに乾パン、ホップ、乾燥もしくは圧搾イースト、米、タマネギ、乾燥ジャガイモ、乾燥タマネギ、ホールトマト(缶詰トマト)、紅茶、キュウリのピクルスなどがある。

    普通のパン、乾パン、コンビーフ、ベークトビーンズ(煮たインゲン豆)、トマト、焙煎して粉にひいたコーヒー、そして砂糖は、徒歩以外の移動時に部隊に支給された。こうした移動時の食糧は、駐屯地の貯蔵品から用意され、同等の価格の別の食糧で代用されることもあった。

    緊急用レーションは、作戦中に通常のレーションが入手不可能な時の為のものである。ひとまとまりに包装されており、背嚢や雑嚢などに入れておけるようになっていた。その形状や構成する食品については陸軍省によって決められていた。

    ガリソンレーションとフィールドレーションの構成は、1908年に改定される。これは、コーンビーフが生肉の代用として認可されたからである。また鶏や七面鳥が祝日に支給されることも認められた。新鮮な野菜類も、近くで入手しやすいか、もしくは遠方からでも状態の良いまま輸送可能な場合には、支給されることになった。エバミルク(無糖練乳)も新たに加えられた重要な食品の一つである。


    独立戦争から第一次世界大戦にかけて、宿営、行軍、野戦といったあらゆる状態で支給される兵食の中心となったのは、肉にパン、野菜を中心とした、革命議会が規定したガリソンレーションであり、これに食品技術の進化によって少しずつではあったが、新しい食品が追加されていった。
    だが、給食計画の中心はあくまでもガリソン(駐屯地用)であり、戦争や軍事作戦時などの非常状態用の特殊レーションの必要性はあまり気に留められなかったのである。
    ところが、第一次世界大戦への参戦によって、膨大な物資を遥か遠方から供給するという経験から、特殊レーションの思想を復活させることとなるが、この事は歴史的にも有意義なことであった。
    何種類かの戦時用レーションは早い時期から開発や試作が行なわれていたが、こうした特殊レーションの基盤が出来上がるのは、世紀が替わり、生産や配送、貯蔵と言った技術が発達してからのことであった。基地内やその他のあらゆる場所での兵隊への給食問題は、専門的知識を必要とするようになり、その為にこの問題の解決には、科学分野、食品工業、そして軍の補給部門とが共同で当たらなければならなかった。



    第一次世界大戦時の特殊レーション


    リザーブレーション(Reserve Ration:予備レーション)

    第一次世界大戦の時に、リザーブレーション、トレンチレーション、そしてエマージェンシーレーションという3種類の特殊用途のレーションが登場した。
    リザーブレーションは1人前ずつ個別包装され携帯出来るようになっており、通常の食事が摂れない場合に利用された。このレーションは1人が1日に必要な量が揃っており、1ポンド(454g)の缶詰肉(主にコンビーフ)、8オンス(227g)の缶入り乾パンが2個、2.4オンス(68g)の砂糖、1.12オンス(32g)の焙煎引き割りコーヒー豆、そして0.16オンス(4.5g)の食塩で構成されていた。1セットで重量が2.75ポンド(1.25kg)で3300kcalの熱量を持っていた。食品の分量は充分で満足の行くものだったが、複数の1ポンド缶で構成されていたので、実用的でも経済的でもなかった。



    第1次世界大戦当時の背嚢


    トレンチレーション(Trench Ration:塹壕レーション)

    その名の通り、トレンチレーションは塹壕戦を考慮して作られたものである。1ユニットは25人の1日分に充分な量の缶詰肉と缶入り乾パンで主に構成されていた。缶詰肉には、ローストビーフ、コーンビーフ、それに鮭や鰯などの種類があり、肉と乾パン以外にも、食塩、砂糖、インスタントコーヒー、固形燃料、そして煙草によって構成されていた。このユニットは、亜鉛メッキされた大きな缶に納められており、毒ガス攻撃から中の食料を防御出来るように工夫してあった。トレンチレーションは本来は温食を考慮して作られていたが、温めなくてもそのままで食べれるようになっていた。トレンチレーションの利点としては、柔軟性のある構成、耐毒ガス性、そしてリザーブレーションよりも幅広いメニューと言ったものが挙げられる。反対に欠点としては、トタン製の重くて扱い難い箱と、25人分が1缶にまとめられているので1人前だけを取り出せない融通性の無さ、一度開けたら腐敗や汚染し始めてしまうこと、そして最後に栄養学的にあまりバランスが取れていなかった事である。


    エマージェンシーレーション(Emergency Ration:緊急用レーション)

    エマージェンシーレーションは、一般には「アーマーレーション」もしくは「アイアンレーション」として知られている。これは、ワンパッケージに食品を集約して兵士が持ち運べるようにし、いざ緊急時に他から補給を受けられなくなってしまった場合に、それで生命を保持させようというものである。エマージェンシーレーションは、牛肉粉末と加熱加工した小麦粒とを固めた3オンス(85g)のブロックが3つと、1オンス(28g)のチョコレートが3つで構成されていた。これらは楕円形でラッカー塗装された缶に詰められており、兵士のポケットに収めやすくなっている。
    終戦までの約200万個のレーションがフランスに向けて積み出された。1922年に製造が中止され、陸軍のレーションに関する仕様書からも除外された。第1次世界大戦中に製造されたエマージェンシーレーションは、戦後にメキシコ国境を警備する飛行機のパイロット達に使用され、その際に出てきた色々な改善要望が、後の空軍のフライトレーションの元となった。


    第1次世界大戦を振りかえって見ると、リザーブ、トレンチ、エマージェンシーと言う3つのレーションの開発と利用という事実は、特殊な軍事状況に対して特殊なレーションが必要であると言う事を示している。この必要性からレーションの開発研究が刺激され、第2次世界大戦時にアメリカ軍が世界各地に展開した時に研究の最盛期を迎えるが、それと共に様々な給食に関する問題点も浮き彫りになっていくのである。



    1918年から36年までのレーション開発

    トレンチレーションが自然と消滅し、エマージェンシーレーションも廃れてしまうと、補給本部は、将来のリザーブレーションの開発に注目するようになった。そして1920年にはレーションに関し、コンテナにまとめて持ち運びしやすくする事、1食毎に分割する事、チョコレートをメニューに加える事、コーヒー豆をインスタントコーヒーに換える事などが提案された。しかし、缶詰肉、缶入り乾パン、そして野菜という基本的な構成については何の提案もされなかった。恐らく関心の低さ故に、大戦中のバージョンで十分であると思われていたようである。

    補給本部の兵站学校(Subsistence School)でもレーション開発が試みられ、その成果は、1922年に陸軍のレーションに関する仕様に盛り込まれた。そのレーションの構成は以下の通りであった。

    コンビーフもしくはチョコレート:3オンス(85g)
    干し牛肉の薄切り:1ポンド(454g)、インスタントコーヒー
    乾パン:14オンス(400g)、角砂糖

    肉は、1×4×4インチ(25×100×100mm)の寸法のオイルサーディン型の缶2つに詰められ、また乾パンとチョコレートとコーヒーは、1×2×8インチ(25×50×200mm)の缶2つに詰められている。そしてこれらの缶は油紙で一塊にパッキングされていた。1923年にこうしたレーションが1万個作られた事を見ると(1個当り1.33ドル)、一通りの成功を収めたものと見られている。


    1925年に、リザーブレーションは再び改良される。乾パンと牛肉の量が減らされ、干し肉がポークアンドビーンズに換えられた。楕円形の缶は大量生産に不向きだったにもかかわらず、そのまま残された。1930年に陸軍大学(Army War College)は、改良型レーションを優秀なものと認め、品質管理の高さを誉め、さらにレーションの融通の高さを評価した。だが、1932年に補給本部の兵站学校で実験的に円形の缶のリザーブレーションが作られただけで、その後のレーション開発は1930年代の不況の影響で暫く止まってしまった。
    36年には補給本部兵站研究所(Quartermaster Subsistence Research and Development Laboratory)が新しく開設され、主食がコンビーフのAユニットと、同じく主食がポークアンドビーンズのBユニットで構成されたリザーブレーションが試験的に作られたが、主食以外の乾パン、インスタントコーヒー、チョコレート、砂糖、そしてそれらを収めた円筒型の缶はそのままであった。


    この第1次大戦後の短い時期、陸軍は1種類の特殊レーションの開発ばかり行っていたが、スペイン内戦などから、大量の飛行機と快速戦車による新しい戦略理論が入ってくると、それまでの戦争やレーションに対する構想そのものが全く変ってしまった。その結果、トレンチレーションは移動中に利用可能な食品へと変ってしまった。そしてこうした新しい思想でのレーション開発は、ヨーロッパに戦争の不安の過り始めた1936年から始められた。



    1936年から1941年のレーションの開発

    近代的レーションの研究は1936年から始まると言っても過言ではない。折りから戦雲も迫っており、補給本部の兵站研究所が開設され、ここで研究開発が始められた。それから5年の間に、フィールドレーションCとフィールドレーションDと言う2つの種類のレーションが開発され、戦時計画の一端に登ったのである。


    フィールドレーションD(Field Ration D:Dレーション)



    1932年に騎兵部隊用に提案されたエマージェンシーレーションがフィールドレーションDの母体となった。その時に提案されたレーションは、チョコレート、砂糖、そしてピーナツバターから成る12オンス(340g)のチョコレートバーだった。しかし、試作品は品質保持できなかったのと、また性質上やたらと喉が乾くために、あまり受けは良くなかった。
    だが、試作と実地試験は繰り返され、1935年に兵站学校によってレーションとして完成した。

    1935年に開発されたものは、開発を指導していた兵站学校の校長、ポール・ローガン大佐の名前を取って、ローガン・バーと呼ばれていた。ローガン・バーは、なるべく少ない容積で尚且つ高カロリーを摂取可能で、その上に毎日食べても苦にならない味を維持することを目的に開発された。
    原材料は、チョコレート、砂糖、オート麦、ココアバター、脱脂粉乳そして香料で、4オンス(113g)のアルミホイルで包装されたバー3本が紙で包装されていた。ところが、開発の要求仕様の中で「毎日摂取可能な味」という項目が挙げられていたにも関わらず、ローガン・バーの開発者は味に関して一切考慮していなかったようで、決して美味しいとは言えないものであった。
    1937年に試験の準備が整えられ、翌年にかけて実地試験が行なわれた。そしてローガン・バーは、エマージェンシーレーションとして試験に合格したものの、1939年にはこれを「リザーブ」と「エマージェンシー」の両方の用途を兼ねるレーションとして標準化出来ないかと提案されることになる。その為に更に余計な論議が重ねられることとなったが、それでも何とか陸軍のレーションに関する規定が改定されることとなり、このローガン・バーが「フィールドレーションD」という名前の正式なエマージェンシーレーションとして採用されることになった。

    1940年の6月までに仮の仕様が設定され、陸軍はDレーションの大量調達を開始する。その後も試作が繰り返されて改良が重ねられたが、基本的には変化することはなかった。本格的大量生産は1941年から始められ、9月に20万個が出荷されたのを皮切りに、その年の終りまでに1000万個が生産された。



    フィールドレーションC(Field Ration C:Cレーション)




    このCレーションの起源はは第1次世界大戦中に遡る。当時、兵士1人が1日に必要な3食分を供給し、かつ保存が利き、味が良く、そして栄養バランスの取れたレーションの開発が試みられた。そしてその後も研究は続き、兵站研究所の初代所長であるW.R.マックレイノルズ少佐によって、Cレーションが生み出されることとなった。 このマックレイノルズ少佐はそれまでの味が単調だったリザーブレーションに、「ビーフシチュー」や「牛肉入りヌードル」、「ラムシチューそれ」に「アイリッシュシチュー」と言うような家庭的なメニューを12オンス(340g)入りの長方形の缶詰にしたものを加える事を提案した。1938年の6月までには、この提案を基にして、3つの肉ユニットと3つの乾パンユニットとで構成される試作レーションとしてまとめられた。この6つの缶で構成される試作品は好意を持って受け止められ、補給本部の技術委員会から、リザーブレーションの後継としての開発を認められたのである。だが開発延長用の資金としては、300ドルしか研究所に与えられなかった。


    1939年までに研究所は10種類の主食案を提案した。そして、それまでの12オンス(340g)入りの長方形缶の代わりに、16オンス(454g)入りの円筒缶を用いる事とした。こうして、1日分6缶のレーションは、熱量4437キロカロリー、重量5ポンド10オンス(2.5kg)というものになった。1939年の9月には、当初10種類だった主食のメニューが生産設備の関係上、これまで試作されたもの以外の生産が困難な事が判明し、その為に主食は「肉と豆の煮込み」、「肉と野菜のハッシュ」、そして「肉と野菜のシチュー」の3種類に減らされることとなった。

    そして1939年に、陸軍のレーションに関する基準を変更によって、「合衆国陸軍レーションC」として公式に発表された。また、Cレーションは陸軍の作戦時に調達されるレーションにもなった。

    1940年には厳しい実地試験が行われ、その結果、缶が大きすぎて邪魔になる、主食の種類が少なすぎる、主食の量が多すぎる、主食で肉よりも豆が多すぎる、等の評価を受けたものの、栄養的には十分であり、陸軍で支給されてきた野戦レーションの中で最も優れたレーションであると認められたのである。

    実地試験の結果から、16オンス(454g)缶から12オンス(340g)缶に変更され、Bユニットのビスケットの数が減らされ、その代わりチョコレートとインスタントコーヒーが追加された。生産の経験から主食の品質が改善された。後の変更点としては、1941年の終わりに個別包装されたキャンディとチョコレートキャラメルが採用された。

    1941年の8月に、初期ロットとして150万個のCレーションが戦争準備の為に生産された。そしてCレーションは、第2次世界大戦を通じて、「フィールドキッチンが使用不可能な際の主要な作戦食」の座を占める事となる。



    第2次世界大戦中の作戦用レーション

    以上のような開発の結果、陸軍は2種類の特殊用途レーションである、DレーションとCレーションとをもって第2次世界大戦に望んだのである。Dレーションは戦争を通じて陸軍の緊急用レーションとしてや、他のレーションを補う食品として使用された。Cレーションは戦争中も開発が進められ、最終的には、通常の食糧供給を受けられない場合に利用可能で、かつ兵士が持ち運び可能な日常食という開発目的を満たす、傑出したレーションとなった。


    また、1941年以降の実戦での使用経験から、それまでに開発したレーションだけでは、新しい戦闘形態から引き起こされた多くの給食問題に対応できないことが明らかになった。こうして、参戦後も新しい種類のレーション開発は継続され、ポケット入りレーションやレーションを補うアイテム等が終戦まで作られた。1941年には、他の戦略物資と同様に食糧に関しても統制が始まったため、レーション開発も急ぐ必要に迫られ、それまでのようなトライアンドエラーによる開発は出来なくなり、品質も低下せざるを得なかった。しかし、アメリカ軍の兵隊への給食計画は、「すべての部隊は、可能な限り、値段の手頃で入手可能な最も良い食糧を最も美味しい形で与えられなければならない。特に部隊が戦闘状態にある場合には尚更である。」という根拠の基に最後まで立てられていった。
    また、食べ物の豊富な都市圏で生活していた都会出身の兵士にとっては、「いつ食べられるのか(量)」よりも「何を食べられるのか(味)」という事の方が重要な関心事であった。この問題に対応するためにレーションの開発者は、軍事用途への適合性や、食品の長期安定性に保管性に対する要求、栄養的要求、運搬の為の容積の効率化、そして戦場までの輸送を考慮した市販品の基準を遥かに越えて頑丈な包装の必要性を、同等に配慮していく必要があった。
    その上に、戦時による材料の不足やそれによる代用品の利用などにより、第2次世界大戦中のレーション開発の問題点が次々と明らかになっていった。

    こうした多くの問題にも関わらず、多数の種類の優秀なレーションやポケット食品、栄養補給品が開発され、兵士達に支給された。数の上で見てみると、約10億食の特殊レーションが6億7500万ドルをかけて、1941年から1945年までに生産されたのである。
    この生産数の中には、軽量のKレーション、緊急用のDレーション、1日食のCレーションが含まれる。またこの3種類の他にも、特殊な気候の必要性によって生まれたマウンテン、ジャングル、デザート(砂漠)の各レーション、機上食(aircrew lunch)、降下兵用緊急食(parachute-emergency packet)、機上戦闘食(in-flight combat meal)等のポケット食品、そして救命艇や救命筏用のレーションや、多目的のサバイバル食品などが生産された。
    また、救急医療所や野戦病院用の野菜パックや、野戦キッチン用のキッチンスパイスパックなども作られた。更に戦争の終りには、戦闘直前に簡単に栄養補給の可能な、アサルトポケットも生産された。



    Dレーション

    大戦突入後も、Dレーションは成分構成を管理する仕様が少し変化しただけだった。原材料はチョコレート、砂糖、粉乳、ココアバター、オート麦粉、香料で、1本当たり600キロカロリーの熱量を持っていた。他の変更点は、材料不足と別の改良によって包装が変わっただけである。1944年には、Dレーションの半分の大きさの物や2オンス(57g)のDバーが、他のレーションの補助食品として作られることになった。


    2オンスのDレーションバー
    (この写真はGerald PetersonさんのWorld War Two Ration Technologiesから許可を受けて引用させていただいております)
    (Copyrighted images used by permission of Gerald R. Peterson, World War Two Ration Technologies, All Rights Reserved)


    Dレーションはその登場以来、膨大な数が生産された。1941年には60万個だった生産数も、42年には1億1780万個に達した。そして、43年にはヨーロッパで山積みになったDレーションの在庫処理の為に生産を停止し、44年には最終ロット5200万個を生産した。

    本来緊急用であったDレーションを日常食としての利用するという誤用によって人気は悪く、最後にはCレーションやKレーションと置き換えられてしまった。1945年には限定標準品に格下げされ、仕様からも消えることとなった。

    ヨーロッパに山積みとなったDレーションの処理問題は、補給本部の懸念事項となり、1945年の頭には研究所に、過剰となったDレーションを再利用して、軍や民間人に受け入れられるような別の食品への再加工に関する研究を行なうよう指示を出した。研究所はキャンディ製造業者に再加工に関するアイデアと、業者でいくらかのDレーションの引き取りの可能性について意見を求めたが、業界は何の提案も出来ず、また引きとりも渋った。引き取りを渋った理由は、オート麦が混ざっていた為にチョコレートとして再利用が出来なかったのと、包装を取り除くために費用がかかり過ぎるの事であった。結局、余剰品となったDレーションは、戦争捕虜に包装を取り除く作業を行なわせて、コンテナに詰めて処理場に再送しチョコレート菓子に作り直し、戦争地域の市民への緊急食糧援助として利用することとなった。

    Dレーションの開発での大きな失敗は、このチョコレートバーの使用目的についての宣伝が徹底されていなかった事である。結果的に、Dレーションを本来の正しい用途である緊急用食品としての利用は余り行われていなかった。その為に、緊急用食品として申し分の無い容積、重量、栄養分、パッケージ、品質等の特徴を持ちながらも、あまり受け入れられなかったのである。それにもかかわらず、戦争を通じて兵站研究所ではDレーションに関する研究が最も熱心に行われていたのである。



    Cレーション

    アメリカが第二次世界大戦に参戦した時に利用可能だったもう1つのレーションに、フィールドレーション・タイプC(Cレーション)がある。これは肉缶詰と乾パンで構成されており、第1次世界大戦中の1918年型「リザーブレーション」と似ているが、それよりも栄養バランス、品質保持性、包装の頑丈さも向上していた。しかし、かさばって持ち運びに不便なのと、二重缶という複雑な構造の為に生産性が悪いという欠点もあった。しかしその後も改良が続けられ、今日のコンバットレーションやCレーションへと発展するのである。第2次世界大戦の勃発によって、このCレーションの問題解決が急がれたが、しかしようやく完成した製品が行き届かないうちに、戦争そのものが終ってしまうのである。

    Cレーションの抱える大きな問題は、その主食のメニューの種類である。数の調達に重点が置かれたため、主食のメニューの種類は二の次にされてしまった。その為に、この初期型Cレーションの単調な肉メニューを嫌い、戦場から脱走する兵隊が続出したのである。前線でCレーションのミートアンドハッシュ(※3)を繰り返し食わされた挙句、やっとのことで後方へ戻ってみると、軍用食堂のBレーションで同様なメニューを出されるのである。これはたまったものではない。
    ※3:細切れ肉orミンチ肉と細かく切ったジャガイモや人参などを煮たり焼いたりしたもの。日本のハヤシライスとは違う。米国メニューに良く出るが美味しいものではない


    主食缶のメニューの種類を増やそうという努力は続けられたものの、すぐには人気回復の兆候は現れなかった。新メニューや代替品は、生産設備の関係ですぐには生産できなかった。その為に初めの内は、菓子類やBレーションについているような煙草を付けたり、また包装の改良などを行って間に合わす他は無かった。

    1944年の初めまでは、CレーションのBユニット(乾パンユニット)に関しては別の仕様が使われていたが、その年の6月に「アメリカ陸軍 フィールドレーション C」という仕様に統一され、「レーション、Cタイプ、アッセンブリ、パッケージング、パッキング(Ration, Type C, Assembly, Packaging and Packing)」という専門用語も付けられた。
    この仕様の元で、Cレーションは各々3つのBユニット(乾パン類)とMユニット(主食、肉類)、それにアクセサリーパックが1つという組み合わせとなり、またこの組み合わせの種類は6通り用意された。Bユニットは6種類あり、各々2種類ずつが朝食、昼食、そして夕食用となっていた。
    Bユニットの内容物は、其々の食事に合う様に、ビスケット、圧縮シリアル、糖衣ピーナツ(M&Mのピーナツ版という感じか)、糖衣レーズン、インスタントコーヒー、砂糖、レモンもしくはオレンジジュース粉末、キャンディ、ジャム、粉末ココア、キャラメルといった品物から組み合わせられた。
    アクセサリーパックには、市販品の質の高い9本の紙巻煙草、水浄化剤、紙マッチ、チリ紙、チューインガムそして缶切が入っていた。
    Mユニット(主食缶)の種類は、「肉と豆の煮込」、「肉と野菜のシチュー」、「ミートスパゲティ」、「ハム・卵・ジャガイモの和え物」、「肉とヌードル」、「豚肉と米の煮込」、「フランクフルトと豆の煮込」、「豚肉と豆の煮込(ポークアンドビーンズ)」、「ハムとライマビーンス※4の煮込」、そして「鶏肉と野菜の煮込」の10種類となり、不人気であった「肉と野菜のハッシュ」と、「英国風シチュー」はメニューから消される事になった。
    ※4:葵豆、ライマメ、緑豆の先祖種で、南北アメリカ大陸ではポピュラーらしい


    (参考)復刻版Cレーション。左:12オンス缶、右15オンス缶
    (この写真はGerald PetersonさんのWorld War Two Ration Technologiesから許可を受けて引用させていただいております)
    (Copyrighted images used by permission of Gerald R. Peterson, World War Two Ration Technologies, All Rights Reserved)




    戦中の最終バージョンは、1945年の4月に出て、6月に一部改善された。これは野外テストと実戦経験をふんだんに盛りこんで改良されたものである。キャンディと糖衣ピーナツ・レーズンは、品質維持が難しい為にBユニットから外され、代わりにファッジ(キャラメルの親戚みたいなもの)とクリームサンドビスケットが加えられた。日射病予防用の錠剤状食塩もアクセサリーパックに付け加えられた。最終バージョンでは、粉末飲料の増加から砂糖は溶けやすいグラニュー糖へと変更され、円盤状に圧縮されたココアがBユニットのリストに加えられた。また、軍医総監の要求から浄水剤がアクセサリーパックから外された。そしてMユニットのメニューに、新しく「ビーフシチュー」が加えられた。アクセサリーパックは「ロング」と「ショート」の2つに分割され、後には「アクセサリーパック」と「シガレットパック」になる。煙草を除く、ガム、チリ紙、缶切、粉末食塩、錠剤状食塩そして木製スプーンは、「ロング」パックにまとめられ、そして「ショート」、後のシガレットパックには、3本ずつのパックが3つか、9本1パックの煙草と、紙マッチとがまとめられた。


    1945年型のCレーション:メニュー1

    開発から実際の供給までの時間差と、それまでに生産されて山積みになっている古いバージョンのCレーションの在庫処理の為に、この新しいバージョンのCレーションは戦争中には満足に出まわらず、評価される事も無く終わる羽目になってしまった。ただし後に、更に発達した「レーション、コンバット、C-2(Ration, Combat, C-2)」によって、やっとそれ相当の高い評価を受ける事となるのである。だがそれは後の話であり、レーション本来の目的から逸脱した誤用や過剰支給があったにせよ、第2次世界大戦の体験者に関する限りは、Cレーションはやはり単調で受け入れがたいものであった事は間違いが無い。



    Kレーション

    Kレーションこそは、戦闘中にでも摂取可能な個人用に独立して持ち運びし易いレーションをと言う要求に対する、兵站研究所の1つの回答である。

    Kレーションは、元々は兵站研究所が戦争の初期に空軍の依頼を受けて作った降下兵用のポケットレーションである。まず二つのサンプル(1つが、ペミカンビスケット、ピーナツバー、レーズン、濃縮ブイヨンの構成;もう1つは、ペミカンビスケット、Dバー、肉の缶詰、そして粉末飲料)が作られ、更にこれを発展させて、朝食(breakfirst)、昼食(dinner)、夕食(supper)という組合せとなり、降下兵部隊に採用された。この3食の組合せの内、共通なものはペミカンビスケットとガムだけであり、それに加えて朝食では、麦芽入りミルク錠剤(malted milk tablets)、仔牛のミートローフの缶詰、インスタントコーヒー、砂糖が、また昼食には、ぶどう糖錠剤、スパム(canned ham spread)、濃縮ブイヨンが、そして夕食にはチョコレートバー(Dレーションバー)、ソーセージ、レモン果汁粉末、そして砂糖が、それぞれ組み合わされていた。陸軍はすぐにこの降下兵用レーションに目をつけ、1942年にはこのレーションを「フィールドレーション・タイプK」として採用した。この広まりの早さに、研究開発陣は大変に驚かされた。

    成功後も研究は引き続き行われた。戦争終結までに、Kレーションの内容構成と包装は7回も変更され、それによち、ビスケットの種類は増え、新しくてより人気の高い肉缶詰が開発され、反対に不人気だった麦芽ミルク錠剤とDバーは他の菓子類に変更され、粉末飲料の種類が増加され、更に煙草、マッチ、食塩錠剤、チリ紙、それと木製スプーンがアクセサリーとして付け加えられた。

    初期型Kレーションの中身


    不人気だった麦芽ミルク錠剤の外箱
    (この写真はGerald PetersonさんのWorld War Two Ration Technologiesから許可を受けて引用させていただいております)
    (Copyrighted images used by permission of Gerald R. Peterson, World War Two Ration Technologies, All Rights Reserved)



    包装も度々変更された。初めは紙製の外箱の中と外を二重にビニールで包装してあった。これは後に外面だけのワックスコーティングに改められ、外箱をワックスペーパーで包装したその上にへ、-30℃〜57℃までの耐性を持つ市販品の特殊ゴムで更に包装した。他にも、上下の蓋が金属製で胴体が繊維製で紐を引くと容易に開けられる外箱を含む、様々な外箱がテストされた。しかし、結局はワックス浸透材料が採用され、最終的には内容物をワックスペーパーで包装したものを、朝食・昼食・夕食の分かりやすい印刷の施された外箱で包装する形式を取る事となった。


    左:初期型の外箱、右:後期型の外箱


    後期型のパッケージング

    最終的な仕様では、

    朝食:缶詰肉料理、ビスケット、圧縮シリアルバー、インスタントコーヒー、フルーツバー、ガム、錠剤状砂糖、煙草4本、マッチ、水質浄化剤、缶切、チリ紙、木製スプーン
    昼食:缶詰チーズ、ビスケット、キャンディーバー、ガム、各種粉末飲料、グラニュー糖、錠剤状食塩、煙草4本、マッチ、缶切、木製スプーン

    夕食:缶詰肉料理、ビスケット、粉末ブイヨン、菓子、ガム、インスタントコーヒー、グラニュー糖、煙草、マッチ、缶切、木製スプーン

    となった。
    ビスケット、粉末飲料、砂糖、フルーツバー、菓子、ガム、スプーンはラミネートセロファンの袋に入れられ、肉などの缶詰はボール紙の箱に入れられていた。この2つのパッケージはワックス包装され、Kレーション独自のカーラー印刷された外箱に詰められた。このパッケージは12個ずつ繊維板製の箱に詰められて、さらに保護用の板を上から囲わせて、船積みされた。

    1942年5月から大量生産され、その後も増産が続けられた。ピークである1944年には、1億個を越すKレーションが生産された。だが終戦にかけて、さすがのKレーションもCレーションと同様の在庫過剰と言う結末を迎えた。戦後の1946年、陸軍食糧協議会はKレーションの生産打ち切りを提言し、1948年には補給本部技術委員会によって廃止されることとなった。倉庫の膨大な過剰在庫は、ヨーロッパ等の戦災市民への食糧供与などにで処分された。


    (参考)復刻版Kレーション、左:中期型、中:後期型、右:アクセサリー品等
    (この写真はGerald PetersonさんのWorld War Two Ration Technologiesから許可を受けて引用させていただいております)
    (Copyrighted images used by permission of Gerald R. Peterson, World War Two Ration Technologies, All Rights Reserved)



    他のレーション等と同様に、Kレーションでも誤用によって人気を落とす事となった。本来2,3日の短期間の使用を目的に開発されているにもかかわらず、時には1週間もKレーションが続く事すらあった。他に食糧が無い場合もあったのだが、Kレーションが支給しやすいと言う理由で過剰支給される事も多かった。こうして、Kレーションはその価値を下げてしまったのである。



    マウンテンレーション(山岳部隊用レーション)

    レーションの歴史の中で、グループレーション(小人数用、分隊用レーション)においては、良いデモンストレーションの機会が無かった為に、軍中央の権威者がこの種のレーションに対する明確な指標を持つことが無かった。その為に、第2次世界大戦の初期にはマウンテン、ジャングル、5-in-1レーションという3つものグループレーションがほぼ同時に出現する事となった。結果として、3つのレーションの共通な特徴を残しながら、「レーション、10-in-1」へとまとめられる事となる。この統合において余計な混乱や出費や時間の浪費を伴ったが、結果として補給本部研究所が、レーション開発の中心的存在である事を強調する事となる。


    1941年に活動を開始した山岳部隊から、寒く標高の高い気候での使用に適したレーションの要求が出された。兵站研究所は、重量は40オンス(1.13kg)を超えず、高地での調理が容易で、加圧縮小包装を用い、熱量は4800キロカロリー、そして腹持ちが良い食品を十分に含むと言う条件を提示された。1942年の11月に示されたマウンテンレーションの最終仕様では、4人の1日分を1つにパッキングしたものとなった。
    メニューの基本構成は、カーターズスプレッド(代用バター)、インスタントコーヒー、粉ミルク、ビスケット、キャンディー、3種類のシリアル、乾燥チーズ、Dレーションバー、フルーツバー、ガム、レモンジュース粉末、インスタントスープ、食塩、砂糖、紅茶、煙草、チリ紙、で、これにメニュー1ではランチョンミート(スパム)と乾燥ベークトビーンズ(煮豆)、メニュー2ではコンビーフに乾燥ポテト、メニュー3ではポークソーセージと調理済ライスが加えられた。
    これらは、「アメリカ陸軍 マウンテンレーション(U. S. Army Mountain Ration)」と印刷された繊維版の箱に詰められ、同じメニューの箱3つごとに、更に大きな箱に詰められた。

    仕様が出来上がる前に、しかも研究所が、実際の購入は仕様を決定するまで待った方が良いと警告していたにもかかわらず、60万個を超えるマウンテンレーションが発注されていた。1943年にも更にそれに加えて125万個が追加発注されたが、その後は調達される事は無かった。



    ジャングルレーション(熱帯地帯用レーション)

    戦域の拡大によって、熱帯地方での使用を考慮に入れたジャングルレーションが開発された。仕様が慌てて作成されたため、はっきりとしたコンセプトも無く、基本的にマウンテンレーションを参考にして、4人-1日分で構成されていた。 構成は、缶詰肉、粉ミルク、ピーナッツ、調理済シリアル、ガム、タバコ、キャンディ、粉末ココア飲料、インスタントコーヒー、フルーツバー、粉末レモン飲料、レーズン、食塩、砂糖、そしてチリ紙で構成されており、繊維板の頑丈な箱の中に隙間無く詰められていた。

    兵站研究所は、包装方法の決定と梱包についての要求にしか関与していなかったが、ジャングルレーションの開発目的が鮮明でないと警告し、また同様な環境を目的としたKレーションがすでに開発済みである事も指摘していたにもかかわらず、1942年には960万個、1943年初めにもにも42万5千個のジャングルレーションが調達され、後にマウンテンレーション共々廃止されることになった。



    5-in-1レーション(5人用レーション)



    短命に終わったマウンテンレーション、ジャングルレーション、5-in-1レーションの3つのグループレーションの内、5-in-1レーションは企画から兵站研究所で始められたものである。開発の始められた1942年初期には、砂漠地帯での自動車化部隊での利用を対象とし、配布しやすく、かつ分隊単位で、最低限の調理設備と調理技能さえあれば利用可能な、5人-1日分のレーションを目標としていた。
    5-in-1レーションの最初の仕様では3つのメニューが提案されており、基本的には、アーミースプレッド(Army spread)、野菜、肉料理、エバミルク(無糖練乳)、フルーツジュース、果物、インスタントスープ、シリアル、そして粉末飲料などのBレーション※5の構成物に、他のレーションと同じくビスケット、キャンディ、食塩、砂糖、チリ紙などで構成されていた。この構成品の内、缶入りでないものをまずまとめて包装し、それから缶入りの物と合わせて更に箱に詰められた。メニューは内容物リストとして箱に同封された。
    こうした仕様を元に大量のレーションの調達が終わった1943年に10-in-1レーションが登場し、その後は戦争終了まで在庫処理が続けられた。しかし評判は良く、戦争が終わるまで事実上存在しつづけ、戦後再び5-in-1レーションという名で復活することとなる。 ※5:生鮮食料品をベースにした準平常食で、一部が乾燥野菜等で代用されていた。後方の野戦移動キッチンで調理され、前線まで運ばれていた



    10-in-1レーション



    戦争の初期から、B-レーション10人分を1つのユニットにパッキングする可能性について示唆されていたにもかかわらず、1943年にマウンテン、ジャングル、5-in-1レーションが生産中止になるまで、何の進展も無かった。イギリス軍の「コンポ(14-in-1レーション)」が1942年の北アフリカ戦線で成功を収め、また戦前までのレーションを4つのカテゴリーに再編成しようと言う流れの中で、やっと10-in-1に対して興味を持たれるようになったのである。以下に挙げる1943年の決定をもって、開発が急いで進められた。

    小人数向けのフィールドレーションは、標準フィールドレーションであるタイプB(Bレーション)を元に、容積の縮小、重量の軽減などの改良を行いつつ、5つ分のの完全な食事を1つのユニットにまとめたものとする。内箱と外箱は、防水・防湿・防暑・耐薬品性を持つものとし、人や馬、ラクダなどで搬送可能な寸法とし、さらに通常の取り扱いや自動車や馬、ラクダ、人での搬送に耐える頑丈さを持ち合わさなければならない。

    要求仕様が急いで整えられ、他のグループレーションの代用として標準化された。10-in-1レーションは5-in-1の代用となるはずだったにもかかわらず、2つの5-in-1をパックしたものになっている。そういう構成だったが、種類は5-in-1レーションの3から5に増えている。戦争を通して幾度か変更されていったが、5種類のメニューと、10人-1日分という基本構成だけは変化することが無かった。一日分は、朝食と夕食用の完全な食事と、昼食用の簡易的な食事とで構成されていた。

    基本的なメニューは、バタースプレッド、インスタントコーヒー、プディング、肉料理、ジャム、エバミルクそして野菜の缶詰に、ビスケット、シリアル、粉末飲料、キャンディ、食塩、砂糖、それにアクセサリーパックとして、煙草、マッチ、缶切、チリ紙、石鹸、タオル、水質浄化剤がついてきた。簡易昼食ユニットは1人分ずつセロファンで個別包装してあり、昼食時に兵士1人ずつに分配しやすくなっていた。構成はビスケット、菓子、粉末飲料、砂糖、ガム、缶切となっていた。こうした略式の食事は、昼食時にグループで食事をとる機会や時間が無い場合には、個別の「スナック」のような物の方が喜ばれるというセオリーから考え出された。

    この昼食用簡易パックがKレーションと良く似ていたために、1945年には更なる改良が提案され、それまでの2完全食+1簡易食という構成から、3完全食という構成へと変更されることとなった。この変更での重量増が指摘されたが、その分だけ満足度が増し、更に食材が増えるだけ栄養価も上がるので、重量増分は相殺されるものとされた。だがこの変更は結局終戦によって日の目を見ることは無かった。

    10-in-1レーションとして3億食分(1食分85セント)が、他のグループレーションに代わって、1943年の中頃から終戦にかけて生産された。こうして「レーション、10-in-1」が第二次世界大戦での最後の小人数グループレーションとなったのである。



    アサルトランチ(突撃昼食)

    実際の戦闘と、出撃前に後方で支給される食事との時間のずれを埋めるための、軽量で小さく栄養分の集中されたレーションの必要性は、1944年中の陸海両作戦を通して明確になっていた。こうしたポケットレーションの走りとしては、市販品のキャンディやチョコレートバー、ガム、煙草それにマッチを、ハワイ諸島でパッキングされたものがある。これは防水性のバッグに詰められており、敵前上陸前の部隊に配布されていた。そしてこうしたお菓子の詰め合わせが、後のアサルトランチへと発展して行く。
    1944年の終わりに、陸軍によってこの種類のレーションが定義されると、開発は急速に進むことになった。陸軍によって規定された仕様では、アサルトレーションは1500から2000キロカロリーの熱量を持ち、-50℃から55℃までの気温に耐え、カビ、湿気、荒い取扱い等から守られ、開封しやすく、6ヶ月間品質を維持するというものであった。また、フルーツジュース、インスタントコーヒー、圧縮シリアル等を加えるという案も出されたものの、結局は採用されなかった。
    最終的に決定された仕様では、チョコレートバー、キャラメル、乾燥果実(プルーンとレーズン)チューイングガム、ピーナッツ、錠剤状食塩、煙草、マッチ、そして水質浄化剤で構成されており、プラスチックフィルムのパックに入れられ、再度封が可能な様に粘着テープで閉じられていた。このパック45個が6.5ガロン(24.5リットル)の缶に入れられて、出荷・配送されていた。

    このアサルトランチが出来て間もなく戦争が終ってしまった為に、その効果を十分に発揮することは無かった。そして1947年に、「補給本部ではすでに必要が無くなった」という良くわからない理由で廃止されたのである。



    Xレーション

    レーション・タイプXの「機密」仕様は、1944年に作られた。これはアサルトタイプのレーションで、「侵攻直前もしくは侵攻中」の部隊への支給を目的としていた。構成は、Kレーション用のビスケット、チョコレートもしくはDバー、粉末ブイヨン(インスタントスープ)、インスタントコーヒー、フルーツバー、砂糖、ガム、キャンディ、缶詰肉、そしてマルチビタミン錠剤であった。これらを幾つかのグループ毎に防水の箱に詰め、更にそれらをワックスペーパーで包装した。機密という目的から、「このレーションとその内容物、並びに梱包材に至るまで、全てラベル、印刷、識別マークなどを付けることを禁じる」と規定された。1943年の12月に60万個が、そして44年の12月にも25万個が調達された。兵站研究所は要求仕様に基づく準備だけに作業を限定されていた為に、どこでテストされたかもどこで実戦投入されたかも、補給本部には一切記録が残っていない。Xレーションは目的においてアサルトランチと似通っていたが、同様な終末を迎えることとなった。この「機密」品も、第二次世界大戦中に特殊な目的を持って登場し、そして消えていったレーションの1つである。



    エアクルーランチ(Aircrew Lunch:飛行士用ランチ)

    第二次世界大戦中、アメリカ空軍(AAF)が輸送、戦闘、爆撃等の任務をこなしていく中で、空軍用の特殊レーションの必要性が出てきた。世界各地で様々な任務に就いている、パイロットやクルーから、多くのタイプのレーションを要求されていたが、空軍と補給本部は以下の4つの基本的なものにまとめた。

    ・単座もしくは戦闘機のパイロット用
    ・パラシュート脱出用
    ・大型機の乗客と乗務員用、調理器具を使用
    ・墜落時のサバイバル用

    このレーションに関する決定により、1943年と44年に、「エアクルーランチ」、「空軍用コンバットランチ」、「緊急パラシュート降下用レーション」といった、一連の特殊レーションの仕様となった。これらはそれぞれ、長距離飛行時のクルー、操縦中のパイロット、そして緊急パラシュート降下時の為に作られている。この他の緊急時用レーションに、「レーション、救命艇及び空挺用(Ration, Lifeboat, Airborne)」と「レーション、救命筏用(Ration, Liferaft)」がある。空軍は、こうしたレーションの他にも、10-in-1、C、Kレーションなどの陸軍のレーションを、通常の給仕設備が使えない地上施設で使っていた。またKレーションを不時着や不時着水用として機上に持込んだり、パラシュート脱出時の持出品にKレーションやDレーションバーを加えたり、捜索隊や救助隊でCレーションやKレーションが使用することなどがあった。

    戦争の初期、パイロットやクルーや乗客は自分達の飛行食として、キャンディーや果物、スナック類を機内に持込んでいた。こうした菓子類の人気が高かった為、1943年には「アメリカン」キャンディー補助食が開発され、イギリス駐在のパイロット達に使われた。これ、開封しやすくしたガムやフルーツバー、Dバー、それにキャンディーをまとめたもので、後に1943年に調達された菓子型レーションである、空軍用ポケットランチ(Air Forces Pocket Lunch)や、1944年9月に登場して成功を収めたエアクルーランチ(Aircrew Lunch)へと発展するのである。

    エアクルーランチは、小さなソフトキャンディー(loose candy)やキャンディーバーやガムを、蓋がスライド式で中が2つに仕切られている箱に詰めたものである。仕切りの片方にはチョコボール、球状ガムなどのソフトキャンディが、そしてもう片方にはバニラファッジバーとガムが入っていた。箱は赤と青の二色で塗られ、片手でも好きな方の中身を取り出せるように工夫されていた。80個を5ガロン(19リットル)缶に詰めて、出荷・配送されていた。このエアクルーランチは戦後も引き続き使われ、朝鮮戦争時には「ポケット食、戦闘機パイロット用(Food Packet,Individual,Fighter Pilot)」へと発展するのである。



    空軍用コンバットランチ(AAF Combat Lunch)

    長距離飛行の時にクルーが摂っていた元々のコンバットランチは、飛行中に簡易調理される、未調理もしくは乾燥した食材だった。軍用機には調理設備が備えられていないにも関わらず、こうした調理の必要な食事が戦争を通じて公式に規定されていたのである。この規定によると、粉ミルク、チリパウダーもしくはトマトペースト、濃縮ブイヨン、キャンディ、ガム、調理済みライス、食塩、紅茶タブレット、そして缶切から成る3人1食分が1パックとなっており、ワックスコートされた繊維板の箱に詰められていた。その後、種類も増えてメニューも2つに増えた。このコンバットランチは乗員全員に十分な量が飛行機に積み込まれた。ランチは水で戻せるようになっているため、乗員は機上でこれを戻して食べるだけであった。

    1943年から44年まで、限定的にこのランチの調達が行なわれた。しかし1944年12月に、空軍補給部隊はそれまでの航空食は乗務員には量が多過ぎると判断して調達を一時中止し、代わりに片手に入り一度に食べ切れる量の代用品を探し始めた。1945年の7月までにこのランチは廃止されて軍の仕様からも抹消されてしまう。

    乗務員達によると、簡単な調理とは言え、準備に手間取る割には満足の行くものではなく、それほど大がかりなものは必要無いということであった。乗務員達が理想的だと考えていたのは、何種類かの缶スープに魔法瓶入りのコーヒー、肉かチーズのサンドイッチ、果物(なるべくならオレンジ)、そしてこれまでの航空食に付いていた物よりもより適したキャンディーバーなどであった。チューイングガムやチョコレートにチャームズ(キャンディの商標)だけが、こうした航空食で満足の行く食品であったのである。



    サンドイッチパック(Sandwich Packs)

    航空機用のグループレーションを見ていく中で、忘れてはならないものに機上食としてサンドイッチを準備しようと努力していた事実である。だが地上基地での補給不足や不十分な調理施設の為にままならないことも多く、そこで兵站研究所は、そういう地上基地で機上用サンドイッチを調理するのに便利なように、サンドイッチとドリンクの材料を揃えた「サンドイッチ-ドリンクパック」の開発を1945年5月にスタートさせた。この開発は終戦によって中止されてしまうが、1950年の機上用食糧パックの開発に大きく寄与した。


    緊急パラシュート降下用レーション(Parachute Emergency Ration)

    第二次世界大戦末期に使われた緊急パラシュート降下用レーションの前身は、1942年に空軍で使われていた緊急脱出用(bailout)レーションだった。このレーションはサバイバル用品としてパラシュートパックに入れられ、緊急パラシュート降下の際に使用された。1943年調達の最終バージョンでは、Dバー、フルーツバー、キャンディー、粉末レモンジュース、Kレーションビスケットで構成されていた。1943年以降、この緊急脱出用レーションの代わりに、空軍の非常用ベストのポケットに合う様に小型化された「レーション、緊急パラシュート降下(Ration,parachute,emergency)」が採用される。この新しいレーションは、チョコレート、キャンディ、乾燥チーズとクラッカー、濃縮ブイヨン、砂糖、煙草、水質浄化剤、インスタントコーヒー、チューイングガム、それから缶を開封後に食べ残したものを入れる為のセロファン袋とで構成されていた。重さは11.5オンス(326g)で、1062キロカロリーの熱量を持っていた。このパラシュートレーションは大きな変更を加えられることもなく使用され続け、1952年2月になって仕様から削除された。



    空中投下式救命艇用レーション(Airborne Lifeboat Ration)

    このレーションは、不時着水時に機内から下ろされるか、もしくは空中からパラシュートで投下される救命艇に装備する為のレーションをという空軍の要求に対して、1944年に開発されたものである。このレーションの主な要求は、ライフボートに貯蔵するスペースによって左右されていた。2人前1食で1パッケージととなっており、またパッケージには朝食と夕食とがあった。この2つのメニューや組み合わせなどにより、バリエーションを生み出していた。朝食ユニットには、CレーションのBユニット(乾パンユニット)、肉缶詰を4種類ある内から1つ、濃縮スープ、マッチ,チリ紙が入っていた。一方、夕食ユニットは、ライフラフトレーション(Ration, Liferaft)にあるBユニットと肉缶詰を増量させたものを利用していた。これらのメニューはそれぞれ繊維板製の箱に詰められ,救命艇の製造過程で艇に積みこまれた。内容は変わることなく1944年まで製造され、1949年には仕様からも削除された。



    キッチンスパイスパック(Kitchen Spice Pack:野戦キッチン用スパイスセット)



    第2次世界大戦中に、野戦病院や野戦キッチン用の補助食品として、3つのパッケージが開発された。この内の1つであるキッチンスパイスパックは、調味料、香料、薬味、その他雑多な材料の各種詰め合わせであり、野戦食堂でBレーションの調理に使用された。野戦病院・救護所用補助食品は、文字通り野戦病院等の負傷者の為に開発された。そうした補助食品に対する必要性は、戦争初期から指摘されており、現場では代用品でまかなわれていた。ところが開発はゆっくりとしたペースで進められ、戦争末期になるまで正式な要求品目に挙げられる事も無かったのである。


    当初、調味料類は物毎にバラバラに支給されており、その要求と支給とのインターバルの為に、現場で必要な調味料が必要な時に存在しない事が多々発生し、特別な「調味料パック」の開発が望まれた。そして1944年の初めに、野戦食のメニュー内容に対応した調味料パックに対する要求が兵站研究所に承認された。この調味料パックは、1000食分(100人10日分)の調味料や香料で構成されていた。調味料の内容は事前に決まっていたので、研究所は調味料容器や梱包方法の開発を主に行った。実際に調達が始まると現地での使用実績から、調味料の分量調整や新たな提案の採用、容器の改良などの更なる開発項目が出てきた。1945年に多く出荷され、現地での受けも良かったが、その後調達計画が中止され、開発も止まってしまった。

    仕様は認められていたにもかかわらず、調味料パックは終戦までに正式な個別名称を与えられなかった。1948年になってやっと正式名称を得て、それまでの「陸軍規定302210」から「レーション補助品、野戦用調味料パック(Ration Supplement, Spice Pack, Kitchen)」になったのである。



    野戦病院補助食品(Hospital Supplement)

    病院用補助食品は、野戦病院や搬送中の負傷者に消化の良い飲み物やスープ、果物といった食品を与える為に開発された。戦争初期には、補給本部カンバーランド支部で病院補助食品のパッキングが行われていたが、あまり十分なものではなかった。そこで1943年に兵站研究所が以下のような、より良いパッケージ開発を行う事となった。

    No.10缶(フルーツ):1缶
    46オンス(1300ml)缶オレンジジュース:2缶
    14.5オンス(400g)缶エバミルク:20缶
    2ポンド(900g)缶コーヒー豆:1缶
    乾燥スープ(5ポンド=2.3kg):1袋
    砂糖(5ポンド=2.3kg):1袋

    このパッケージは1943年から44年までに87000ケースが調達された。

    1944年版は「補助食」としてより認識されるようになり、基本構成が変更されたり新しい食品が加えられたりした。新しいバージョンのレーションは、コーヒー豆の代わりにインスタントコーヒーが、エバミルクの代わりに粉ミルクが、乾燥スープの代りに濃縮スープが加えられた。他にもシリアル、ココア、モルトミルク錠剤、紅茶、それにトマトジュースが新たに加えられた。更にトイレットペーパーやプラスティック製ストロー、ペーパータオルなどの備品も加えられた。これらは木の箱に詰められて出荷された。戦争が終わるまでに、この新しいバージョンのレーションが17万5千ケースほど調達された。



    救護所用飲料パック(Aid-station Beverage Pack)

    この救護所用飲料パックは、最前線の救護所での負傷者や疲労者の栄養補給の為に開発された。兵站研究所では主に、軍医総監によって指定された食糧品の容器や梱包に関しての研究が行なわれた。構成品はコーヒー、紅茶、ココア、エバミルク、そして砂糖から成っており、これに付属品としてプラスティック製のストローに缶切、そしてトイレットペーパーが付いていた。最終的に開発されたものは、12オンス(340ml)入り缶飲料が290本で構成されていた。

    このパックの前身の補助食品は、煙草、マッチ、固形ブイヨンから成るB-C(戦傷者--Battle-Casualty--もしくはブイヨン-煙草--Bouillon-Cigarette)キットで、これは1944年に兵站研究所で製造されたものだった。しかし戦場での経験から、このキットでは暖かい飲み物を供給するには少な過ぎることが判明する。その為に急遽、コーヒー、ココア、砂糖、固形ブイヨン、そして紙コップから成る新しいパックを開発することとなり、これが新しい仕様の基本形となったのである。そして合わせて9000ケースの救護所用飲料パックが1945年の終りまでに調達された。

    この飲料パックは、1944年に陸上部隊用救護所の標準品に指定され、それ以後も標準品であり続けた。戦争が終ると、救護所は平時でも有用であるとする海兵隊の調査報告がなされたにもかかわらず、この飲料パックの研究はストップしてしまった。確かにその報告書にも、この飲料パックは平時には基本的に必要無いとされていたが、しかし代わりに航空機の乗務員や救難飛行艇用の備品や、孤立部隊への空中投下などの機動部隊用の補給品として再提案された。



    赤十字食糧パッケージ(Red Cross Food Package)

    赤十字食糧パッケージとして知られている戦争捕虜用ポケットレーションは、補給本部にとっては開発というよりもサービスによって作られたものとされている。1945年に赤十字から補給部隊に極東での戦争捕虜用の食糧パッケージ開発を打診されたのが始まりで、仕様は救援組織の協力を得て作られた。構成品は、アーミースプレッド(代用バター)、缶詰ベーコン、ランチョンミート缶(スパム)、鮭缶、乾燥コンビーフ、缶入りチーズ製品、インスタントコーヒー、缶入り牛乳、チョコレートバー(Dバー)で、トイレットベーパー、石鹸、ペーパータオル、缶切が付属品として付いていた。更に服のボタンや縫糸、当て布、ビタミンカプセル、食塩、煙草といったものも、1つの缶に納められていた。パッキングの基本方針としては、1缶の重量が12オンス(340g)以内とし、出荷用の梱包は50ポンド(23kg)以内、逆向きに貯蔵されても品質を落とさないなどが挙げられていた。

    仕様採用から終戦までの5カ月間では、満足に生産・配送が出来なかった。そして1949年の戦時レーション類の大処分が行なわれた頃に、同じく仕様から外された。


    (概要は省略)



    感想他

    第2次世界大戦中のレーションの記述だけを見ても、恐ろしくシステム化されていることがわかる。これに比べ、日本陸軍の「主食:米、副食:現地調達、緊急用:乾パン」という荒っぽさは、兵站に関する思想の違いを良く表している。良い資料が見つかれば、日本陸軍の兵食に関する文章をまとめてみたいと思うのだが、ネット検索に古本屋や市立図書館通いだけでは思うように資料が集まらない。やはり防衛庁の図書館にでも行かないと無理なのだろうか。


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