但馬攻城ツアー

平成11年3月20日~21日
天下の大悪人、もとい大役人Y田さんが大阪に出張する機会があり、
また、あっしも折角関西で車を買ったのだからと、
普段はなかなか行こうとも考え付かない、但馬攻城ツアーを組むことに。

他にも人数を集めようとしたものの、急な話だったからか、
それとも主催者の人徳の無さが原因か人は集まらず、
仕方なく最小催行人数の2人だけで但馬に向かうことになった。


○3月20日
6時半に起きて、垂水駅までY田さんを迎えに行き、そのまま第二神明を西へ。
姫路辺りから雨がぽたぽた落ちてきて、播但自動車道を北上して生野に着いた頃には、
かなりの雨が降り出していた。
この雨で山城は無理だろうと言うことになったが、
折角来たのだし、とりあえず登り口だけでも確認に行こう、ということで、
機甲部隊の利点を利用して、教徳寺裏の鉱山従業員住宅後前まで車で寄せて、
登り口を求めて上水タンク付近まで歩く。
と、上水所脇には、最近手が入ったと思われる整備された道が付いており、
足場がかなりしっかりしているので、
「ついでだから登ってしまいましょう」ということで、そのまま強襲することに。


生野城



比高250m、20分ほどで本丸へ。
大雨が降っていても、大丈夫なほど足場がしっかりと整備されていた。

生野城は、応永年間(1394~1427)に、但馬守護山名時ひろ(字が変換できず)が、
播磨の赤松氏に備えて築城したとされている。
生野で銀が本格的に産出し始めるのは天文年間(1532~1554)以降であり、
それまでは但馬と播磨の境目の城であった。

中腹付近から雨が雪に変り、山頂では吹雪になる。
これも日頃の悪行三昧への因果応報か。
本丸付近の主要な郭を見ただけで戦意喪失し、下山することに。


何とか無事に車のところまで下山することが出来、
そのまま播但道を北上し、竹田城へ。
ここは山頂付近まで車道が付いており、機甲部隊なら天候不良でも攻略可能だと期待していたが、
登り口付近で工事中のため、立ち入り禁止になっていた。
さすがに下から歩いて登る気はさらさら無いので、そのまま撤退することに。
因果応報は続く。


次に八鹿に向かい、越前朝倉氏の出処地と言われている朝倉城を攻めることに。

朝倉城



八鹿町の南東2kmほどのところにある、朝倉の集落のさらに南東にある、
標高152mの山が朝倉城跡である。比高は70mほど。

鎌倉時代に、越前朝倉氏の祖、朝倉高景が築いたものとされているが詳細は不明。

ものの本には、「集落の奥の墓の側、動物避けの柵を潜る」とあり、
全く同じ条件のまぎらわしいトラップに引っかかり、泥濘の山道を右往左往させられ大混乱
やっと本来の登り口を発見して攻略を開始したものの、
登山道の道の悪さに泥濘と、それに加えてそれまでの混乱による疲労により、
戦意を急速に喪失。城のすぐ下まで来ていたものの、そのまま撤退してしまう。
あまつさえ撤退中滑って転びそうになった折、右腿上部の筋を危うくつりそうになる。
踏んだりけったりである。
因果応報もここまでくると、祟りとしか言い様が無い。
一体普段どんな悪行を重ねているのだろうかとY田さんを見つめながら考えるも、
口には出さず。
ちなみに、正解の登り口の墓場の前には、「朝倉宝○印塔」(○部分は漢字も出ず、読めもせず)
という石塔とお地蔵さんが祭ってある。
つまり、集落に入って右の道を進まなければここに出ずに奥の方に行ってしまう。
…まるで今は無きアドベンチャーブックの世界である。


もう一つの朝倉向山城も足場が悪いだろうとあきらめ、
国道9号線を西に向かい、多少なりとも足場の良さそうな八木城を目指す。


八木城(石)



八木村落のすぐ北にそびえる山が八木城である。
八木城は、手前側に石垣の城である八木城(石)、
その200mほど奥には土塁の城である八木城(土)があるという変わった城である。
(写真右、本丸の奥の山が土城である。未踏破)
標高、比高はそれぞれ330m、200mと404m、270mである。
この八木城は、伝承では平安時代末期に閉伊頼国が築いたとされている。
その後、朝倉城を築いた朝倉氏と争いになり、結局閉伊氏は滅亡し、
朝倉高清の次男重清が八木城に入り、八木氏を名乗る。
秀吉の但馬攻略後、八木城には別所重棟が入り、
この時大々的な石垣への改修が行なわれ、現在のような形になる。

さすが国指定遺跡なだけあって、登り口はあっさりと見つかる。
足場は泥濘だったものの、これ以上落としたくなかったので、ここも強襲。
中腹辺りからここも雨が雪に変り、山頂はうっすらだが積雪していた。
本丸まで、徒歩で15分ほど。
なかなかに良い城だったが、足場が悪くてあまりあちこち回れなかった。
さらに八木城(土)の方には道が悪くて行くことが出来ず、無念の撤退。
因果は巡る。


下山中も泥濘に足を取られて幾度か転倒しそうになる。
これはいかん、ということで急遽山城攻略は中止して、
悪天候でも比較的攻略の容易な平城・陣屋に目標を変更、
国道9号線をそのままさらに西に向かい、村岡陣屋へと向う。


村岡陣屋



国道9号線沿いの村岡町の中心部。現在は御殿山公園となっている。
寛永19年(1642)に、将軍の旗本と化した山名氏の陣屋として築かれたが、
現在ではすっかりと公園化してしまった為、当時の面影はほとんど残っていない。

公園の敷地内には資料館があった。休憩ついでに入館。
それなりの資料が置いてあるだけだったが、無料なので別段文句は無い。


居るだけ時間の無駄なので、すぐに出発。


因果のような、悪天候とそれに伴う泥濘・積雪等の悪条件のため、士気が大分下がってしまい、
おまけに時間的にこれ以上攻略も無理になったので、
いつかまた来る日に備え登り口を下見するために、2つの山城へ向う。


宿南城(参考)

国道312号線から宿南の村落に入り、川沿いに南下すると城の看板が見つかる。
そこで城郭大系の地図とこの看板とを頼りに<登り口を探すも、
それらしいものは見つからず。
地元の人に聞くと、城の世話をしている高校教師を紹介してもらう。
田舎の人は親切でありがたい。
高校教師に城の歴史を一通りと登り口を教えてもらう。
とりあえず書いておくと、
「川側の城の看板から南南東へ向かい、消化栓のある民家の裏」に登り口がある。
時間的に厳しいので、登りたいのを我慢して次の城へ向う。


宵田城(参考)

大分暗くなってきたので慌てて向う。
宿南からさらに国道312号線を北上、江原の町に入る手前にある
水力発電所のすぐ北の山が宵田城である。
水力発電所横に車を止めるスペースがあり、
さらにそこから山頂に向けて、車で登れそうな道が付いている。
ここも登ってみたい衝動に駆られるものの、
日没した後だったのでさすがにあきらめる。


雨と泥濘に祟られた第1日目の日程を終了して、夜営地である城崎温泉へと向う。
途中地酒「香佳鶴」の純米吟醸を購入。宿に無断で持ち込む。
まず温泉につかって一日の疲れを取り除き、
4000円の定食+蟹の焙烙焼き2000円という豪勢な夕食をいただく。
蟹を丸2匹分も食う。もう当分食いたくは無い。

強くない酒にしこたま酔って、11時前には寝てしまう。



○3月21日

昨日とは打って変わって天気も良くなり、
今日は大丈夫か、と思っていたら豊岡に入った辺りからまた天候が悪くなる。


此隅山城



豊岡市から国道426号線沿いに出石へ向かう途中の、
宮内村落の出石神社の北方にある小高い山が此隅山城である。
比高150m、本丸まで麓から15分ほど。規模はかなり大きい。

山名一族が11カ国を領有し最盛期を向かえていた頃、
但馬の国を領していた山名時義によって築城されたとされている。
明徳の乱で衰退した山名氏も、山名持豊の代で大きく復興するものの、
応仁の乱後、他の守護大名と同じく山名氏も時とともに衰退して行き、
遂には此隅山城も永禄12年(1569年)に織田信長の命を受けた
羽柴秀吉軍の攻撃によって落城している。

ここも看板はすぐに見つかったものの、登り口が見つからず苦労する。
どうも但馬の看板は不親切極まりない。これなら初めから無い方がましだ。
何とか山の麓の住人から登り口の場所を聞き出す。
新興住宅団地の西にある農家の裏手から山に入るも、
冬の大雪のせいか、倒木や泥濘で条件は最悪であった。
登り道も途中から良く分からなくなってきてしまい、
木に付けてある青いテープを頼りに、本丸まで何とか登る。
本丸周辺は木が適度に切り払われていて、眺めは大変に良く、付近が一望にできた。
また遺構自体の残存具合もなかなかに良かったのだが、
いかんせん泥濘になっているため足場が悪く、本丸周りの幾つかの郭しか行くことが出来なかった。
ここで雨に降られると大変なので、天候が悪くなる前に下山する。


続いて、地図上では車道が付いているため、楽勝と思われた有子山城へ。


有子山城




比高300m、麓から徒歩40分ほど。

前出の此隅山城の落城で、一度は城無しになった山名祐豊が、
泉州堺の商人の力を借りて但馬に復帰し、天正二年に、より堅固な城をと、
この城を築いたものと伝えられている。
しかし、六年後には羽柴秀長軍によって包囲され、落城している。

因果応報の流れで来ているので、そう楽には登れないかと思ったら、
案の定、車道が入り口で通行止めになっていた。
比高300mを悪天候下登るのもどうだろうか、とも思われたが、
折角来たのだからと、ここも強襲。
地図にあった、谷筋の本来の大手道は道らしいものが見つからず断念し、
尾根沿いに登る道をひたすら登る。
中腹で一度雨がひどくなり、さらに斜面の傾斜も足場も悪く、
登り始めたことをかなり後悔しはじめる。
それでも40分ほどかけてなんとか山頂へ。
眺めは最高、というか、回りを見渡してこの山より高い山がほとんど存在しない。
というか、こんなとこに作らなくても…と言う場所である。マチュピチュに近いかも知れない。
山名祐豊も、よほど此隅山城が落とされたのがショックだったのだろう。

山頂まで続いていると思われた車道は、山頂付近では土道になっていた。
登らなくて正解である。
今度車を買うときには、四輪駆動の軽自動車にしよう。

あまりにも高く登る人もまばらなせいか、遺構の残存状態は比較的良い。
石垣もかなりふんだんに使われており、見ごたえは十分である。
が、倒木やがけ崩れなどでいたるところで道が寸断され、
また悪天候下で郭も数を見ることはできなかった。


とっとと麓の出石城に降りる。

出石城



比高2、30m?、5分ほど。

関ヶ原の戦いの後に五万石で但馬に入った小出吉政の嫡男小出吉英が、
不便な山城である有子山城を廃して、麓の居館を大改修して出石城を築いたとされている。

城の周辺では祭りの最中で、かなりの人手でふるわっていた。
城自体は、大きな陣屋という感じで、山派の自分としてはあまり気を引かれるものではなかった。


城の側の蕎麦屋で昼食。出石名物皿蕎麦をいただく。
わんこ蕎麦を皿に盛ってあるようなもので、蕎麦は色が黒く、細めの手打ち麺であった。
これを葱、山葵、大根おろし、生卵などの薬味でいただく。
わざわざ皿に盛らなくても…などどいう無粋な思考は無しである。
味は、新蕎麦の時期に来たら良かったかな、という感じであった。

食後に甘いものをということで、縁日の屋台でベビーカステラを買って2人で食う。
焼き立てで懐かしい味がした。

時間も1時を過ぎ、福知山駅に四時半までにY田さんを送っていかなければならないので、 慌てて出発。
途中渋滞に巻き込まれる。また、後の車が釜を掘られる瞬間を見る。
人事だとどうしてこんなに楽しいのだろうか。

3時半頃にやっと福知山着。
どうせなのでと福知山城に向う。
しかしここで贋駐車場看板にだまされて、貴重な時間を浪費してしまう。
最後まで因果に祟られた二日間だった。


福知山城



比高20m、2、3分。

復元された建物が幾つかあって、見た目なかなかに良いものがある。
本丸の大井戸もなかなか。
ただ、古地図や復元模型にあった二の丸部分が、
現在では影も形も無くなっているのには驚いた。
(写真右の、木の茂みの部分までが2の丸だったが今は宅地)


四時になったので慌てて出発。福知山駅には15分前に到着。
最後の旅費清算の段になって、徳の御方、Y田さんの威信が発動され、
宿のお金を大幅に負けてもらう。
さすが飛騨国一の偽民…もとい義民Y田さん。ははぁっ…。


しかし、それから神戸の寮に帰るまでにひどい渋滞にあってしまう。
なんとも苦労の絶えない城攻ツアーだった。



戦果
	攻撃対象	11城

	うち 棄権	4城

			7城	攻略



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