南山口リベンジ

平成19年1月7日〜9日


敷山城から南側を望む



○1月9日

ホテルで朝食を食べた後、0715に出発。国道262号線を山口方面へ向かう。




勝坂台場(勝坂砲台)


左:台場南西側から、右:西側から



左:台場の上部脇の石垣、右:台場上部





防府と山口とを結ぶ国道262号線のすぐ東側の台地上にある。手前の交差点には右折レーンが無いので、南から来る際には一度行き過ぎて、一つ北の交差点でUターンした方が良い。駐車場は無いものの、台場の南下の道は比較的広くなっている。
現在は石垣しか残っていない。向かいの西側にも対の台場があったらしいが現在は消滅している。

文久3年に藩主毛利敬親が萩から山口に移った際、山口の防御の為に萩往還の勝坂に関所が置かれ、その東西に台場が築かれた。




敷山城


左:登山道脇に建つ碑、右:梵字岩のある平坦地



左:郭というには細い平坦地、右:駐車場の近くにある忠魂碑のある平坦地





防府の北東にそびえる矢筈ヶ岳の中腹に位置している。標高170m付近まで舗装された林道が伸びており、駐車場から城跡まで徒歩で20分程である。今回敷山城に登った際に梵字岩で引き返してしまったのだが、その上に験観寺跡の広い平坦面がある事を、書いている今になって気が付いてしまう。あああああ。(地図での3つ●のマークの辺りらしい)
しかも調べてみると、12あったとされる寺坊も主として現在の登山道の西側一帯に位置している為に、普通に登山道を登っただけでは全貌はわかり辛いようだ。どおりで登山道周辺に平坦地が殆どなかった訳である。

建武3年(延元元年、1336年)に足利尊氏が西国の兵を集めて上京した隙を突いて、後醍醐天皇に近かった周防国府の清尊、教乗らが挙兵した。しかし北朝方の院宣によって南朝方の国府官吏が罷免され、石見国守護上野頼兼の討伐軍が迫るに至り、清尊と教乗は石見の小笠原長光と共に矢筈ヶ岳の八合目にあった敷山験観寺に立て篭もる。上野頼兼は石見、安芸、長門などの近隣諸国の軍勢を集めて敷山の城を攻め、清尊と教乗らは戦死し、城も落城。小笠原長光は行方不明となる。




戸田聴音探照所


左:頂上南端にある探照灯?の台座、右:頂上付近に残る兵舎



左:頂上西端にある聴音機?の台座、右:頂上西下にある兵舎跡地



左:頂上の西下に連なる水槽、右:頂上から徳山方向を望む





山陽自動車道の徳山西ICのすぐ南西にそびえる昇仙峰の頂上に、海軍の聴音探照所の跡がある。砲台跡という記述も多いが、ここに配備されたのは聴音機と探照灯が1基づつと、13mm機銃が1丁のみであり、砲台というにはふさわしくない。ちなみにこの聴音探照所の役割はレーダーサイトのようなもので、空襲に来る敵機の監視とその追跡、夜間ならサーチライトの照射である。米英独は早々にレーダーに移行できたが、技術力の低い日本は終戦まで聴音機(音で敵機の位置を判別する。精度は良くない)が第一線に置かれていた。
登山道は幅も広くて傾斜もゆるく、軽トラなら頂上まで登ることが可能である(ただし入り口に車止をされている)。恐らく当時の軍道かと思われるが、山陽自動車道建設の際に途中で削り取られてしまった為に切り取った斜面に沿ってコンクリート道がつけられているが、傾斜が急すぎて徒歩で登るのは辛い。麓から頂上まで徒歩で30分である。
頂上とその周辺は広く開けており、頂上には兵舎と、聴音機と探照灯の台座が、頂上の西下の兵舎跡と思われる広い平坦地には防空壕や発電機用水槽、それに油脂庫(発電機用燃料貯蔵庫)が、その中間の傾斜には生活用水の水槽が残っている。規模や設備は広島にある中野村聴音探照所とほぼ同じだ。頂上の兵舎は内装を改装して憩いの家として利用されている。ただ外壁の剥落も多く、長く持たないかもしれない。頂上からの眺めは最高で、ハイキングコースとして人気が高いのもうなずける。

徳山にあった海軍の燃料廠の防衛の為に作られた防空砲台群の外郭監視網の一つとして建設された。工事開始時期は不明だが、昭和17年3月までには完成している。終戦後の引渡し時の装備は、96式150cm探照灯1基、仮称ヱ式空中聴測装置1基、40KVA三相ディーゼル発電機1基である。

詳しくは別途まとめる予定。




三丘嶽城(三丘城山)


左:西隣の平家ヶ岳からの全景、右:主郭の三角点付近



左:主郭南端の石垣、右:主郭から南へ2段下の郭



左:主郭東下の郭、右:主郭から東へ2段下の郭



左:主郭から西へ2段下の郭、右:同左の西端の石垣



左:同上の南西端南側の石垣、右:同左上の西下にある堀切





岩国市と周南市の境、JR岩徳線沿いに走る細い県道の南に三丘城山の山頂が三丘嶽城である。この細い県道は旧山陽道であり、交通の面からも重要な位置にあったようである。
山はハイキングコースとして整備されており、幾つかの登山ルートがある。今回登っている最中(平日)にも3組の登山客に遭ったが、1組は恐らく城の南側の尾根を登るルート、他2組は我々と同じ鉄塔道(鉄塔メンテナンス用の登山道)を登るルートだった。他に夫婦岩経由の登山道があるが、距離が長く城山を攻めるだけには不向きである。鉄塔道の登り口は、岩国市と周南市の境から岩国市側へ10m程寄った場所。麓から平家ヶ岳経由で城山山頂までは40分。このルートだと登って降りてになるため、登らされる比高だと城山の南から登るルートと変わらないだろう。
城域はかなり広いが、雑木が茂って入れる場所に制限が多い。南側は登山道が通っているので良いのだが、もっとも広い東側の尾根沿いの郭群への道が埋もれてしまっている。無理をして2段下まで行ってみたが、矢竹が群生していたので諦めて引き返す。これだけの規模と遺構を残す山城は全国でも有数のものなのだから、せめて全ての郭をまわれるようにくらいには整備してもらいたいものである。また木島孝之の本にこの城の詳細な縄張図が載っているので、予め手に入れてから登った方が楽しめるだろう。

詳細不明。倉田治部太夫が三丘に城を構えていたが、毛利元就と敵対して攻め落とされたと農家の家譜に載っている。また毛利輝元の時代に城番が置かれていたことは、当時の文書に残っているので確からしい。現在残っている縄張りは、その当時の物かと思われる。




鞍掛山城


左:主郭に建つ展望台、右:主郭、狭い



左:尾根上の郭群、狭い、右:駐車場からの登山道、きつい





玖珂町の北にそびえる蓮華山の、南麓にある小さな山が鞍掛山である。山の中腹まで林道が伸びてトイレ付きの駐車場が備わっているが、ここからの登山道は全て階段の為に足には悪い。他に南東側から登る本来の登山道もあるので、山登りも楽しみたい方はそちらを選択するのが良いだろう。駐車場からだと頂上まで徒歩10分である。
山頂は狭く、主郭と思われる平坦面には展望台が建っている。主郭から北北東方向に3ヵ所の郭が連なっているが狭く、城というよりも狼煙台といった感じである。余りに小さすぎるので調査すれば城域はもっと広くなるかもしれない。

大内氏の家臣杉隆泰の居城。弘治元年(1555年)に陶晴賢が厳島で敗死すると毛利氏に仕えたが、大内義長に内通した為に毛利勢に包囲され落城、隆泰は首を切られた。




冷泉屋敷(冷泉氏館)


左:南側から、右:南西側の段差と神社への入り口



左:南西下の平坦面、右:神社(北東側から)



左:北側の畑、右:北東端



左:東端から西側、右:西下の帯郭



左:北東側から全体を望む、右:東端部分を南側から





玖珂町から国道437号線を南下、高照寺山の南西麓の小字別当の中にある。周りの田畑よりも5〜10m高台で土塁が無く珍しい。形状は北東から南西に向いたしゃもじ型で、南西側には神社と五輪の塔が建ち、北東側は畑になっている。南西下には幾つかの平坦面があるが、どこまでが居館の範囲なのかは不明である。城郭大系によると四方に土居と一部に石垣が残存とあるが、どこなのか良くわからない(場所が違っていたら嫌だな)。

大内氏の家臣冷泉隆豊の居館。




以上で日程全て終了。冷泉氏館の測地で時間を食ってしまったために、大急ぎで新岩国駅へと向かう。ガソリン代の清算もあるので途中のガソリンスタンドで給油をしようと思っていたら、新岩国駅周辺ですら見つからず、急いでいたこともあって窪谷さんから多目のガソリン代を頂いた。


一人、山陽自動車道を広島へ帰るのだが周りに雪一つ無く、2日前の早朝の、あの見渡す限り真っ白の景色とは大違いである。1年前の九州遠征の帰りの時といい、爆弾低気圧には困ったものだ。そしてスタッドレスタイヤ万歳。


山口県の城はあまり紹介されていない。防長2国は大内氏の治世が長かったこともあり、他の場所と比べて城の数が少ない事が理由なのかもしれない。しかし今回幾つかまわってみたところ、数こそ少ないものの良い城が多かった。少なくとも荒滝山城と三丘嶽城の2つは全国でも相当にレベルの高い城山であり、しかもどちらもハイキングコースとして整備され登りやすい。それが知られていないというのは余りにも勿体無い。
また山口県には幕末や戦時中の史跡も数多く、また食べ物も美味しいし良い温泉もある。観光名所としてもっと売り出せるのではないだろうか。少なくとも広島なんかよりかは、よっぽど面白い所である。「山口よいとこ一度は来んさい」



戦果
	攻撃対象	23城

	うち 棄権	1城

			22城	攻略



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