選り抜き「坂の上の雲」




司馬遼太郎の小説には、本筋とは関係の無い挿話が良く入る。作者の脱線なのだが、後期の作品になると、実はこの挿話が書きたい為に小説を書いているのではと思われるような熱の入っているものが多い。

この「坂の上の雲」もその一つで、挿話に作者の心の底からの叫び声のようなものを感じた。
著作権的にはやばいとは思うが、面白いので気になる挿話を抜き出してみた。よりぬきサザエさんならぬ「選り抜き坂の上の雲」である。
本当ならテーマごとにまとめると良いのだが、小説のストーリーと比べる為にページ順のままである。またページは文春文庫の古い方のページ数であり、新しい物とは違う場合があるかもしれない。また、出来る事なら小説を1度は普通に読んでからこれを読んでもらえると、読後の印象とのギャップが比較できて更に面白くなるだろう。
最後に、このくらいの量なら引用の範囲かなと思うのだが、やばかったら連絡ください。>>出版社







1巻

P.75
小さな。
と言えば、明治初年の日本ほど小さな国は無かったであろう。産業と言えば農業しかなく、人材といえば三百年の読書階級であった旧士族しかいなかった。この小さな、世界の片田舎のような国が、はじめてヨーロッパ文明と血みどろの対決をしたのが、日露戦争である。
その対決に、辛うじて勝った。その勝った収穫を後世の日本人は食いちらかした事になるが、とにかくこの当時の日本人たちは精一杯の知恵と勇気と、そして幸運をすかさずつかんで操作する外交能力のかぎりをつくしてそこまで漕ぎつけた。いまからおもえば、ひやりとするほどの奇跡といっていい。



P.225
ちなみに明治時代がおわり、日露戦争の担当者がつぎつぎに死んだあと、日本陸軍がそれまであれほど感謝していたメッケルの名を口にしなくなったのは戦勝の果実を継いだ―たとえば一代成金の息子のような―者がだれでももつ驕慢と狭量と、身のほどを知らぬ無智というものであったろう。






2巻

P.31
西洋の帝国主義はすでに年季を経、劫を経、複雑で老獪になり、かつては強盗であったものが商人の姿をとり、ときには変幻してヒューマニズムのすがたをさえ仮装するまでに熟していたが、日本のそれは開業早々だけにひどくなまで、ぎこちなく、欲望がむきだしで、結果として醜悪な面がある。ヨーロッパ列強では、帝国主義の後進国であるドイツが多分にそれであった。


P.51
ドイツは遅れて統一を遂げた。目下、ドイツ帝国の伸張期にあるが、そういうドイツの現実を他の欧州人たちは、
「プロシャでは国家が軍隊をもっているのではなく、軍隊が国家をもっている。」
と冷笑した。
川上操六は骨のずいからのプロシャ主義者といっていい。かれはその思想であったため、参謀本部の活動は、ときに政治の埒外に出る事もありうると考えており、ありうるどころか、現実ではむしろつねにはみ出し、前へ前へと出て国家をひきずろうとした。この明治二十年代の川上の考え方は、その後太平洋戦争終了までの国家と陸軍参謀本部の関係を性格づけてしまったといっていい。


P.56
伊藤がつくった憲法はプロシャ憲法をまねしたものであり、それによれば天皇は陸海軍を統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属していない。作戦は首相の権限外なのである。このことはのちのちになると日本の国家運営の重要課題になってゆくのだが、そういう憲法をつくってしまった伊藤は、はるかな後年、軍部がこの条項をたてに日本の政治のくびを締めあげてしまうにいたろうとはおもわなかったであろう。


P.58
首相の伊藤博文も、陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまったところに明治憲法のふしぎさがある。ちなみにこの憲法がつづいたかぎり日本はこれ以後も右のようでありつづけた。とくに昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんでしまったことをおもえば、この憲法上の「統帥権」という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう。


P.182
しかしながら日本人は清国そのものを押し倒したのだと錯覚している。


P.182
子規の庶民精神からいえば、敵は善戦善闘したけれどもそれ以上に強い日本軍の前に力尽き、ついに屈したというほうがのぞましい光景であろう。


P.263
小村寿太郎の政党論。
「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のためにあつまった徒党である。主義もなければ理想もない。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。日本の政党は、憲法政治の迷想からできあがった一種のフィクション(虚構)である」


藩閥論。
「藩閥はすでにシャドウ(影)である。実体がない。」
「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいのけんかをつづけているのが日本の政界の現実であり、虚構と影のあらそいだけに日本の運命をどうころばせてしまうかわからない。将来、日本はこの空ろな二つのあらそいのためにとんでもない淵におちこむだろう。」

小村は藩閥と党閥が国家を滅ぼすということをつねに言った。


P.265
「違憲とおっしゃいますか」
と、以下の言いぐさが、小村の政治思想をよくあらわしている。
「そもそも立憲政治とは責任政治のことでありましょう。国利民福になることなら国務大臣が責任を負って断行すればいいので、いちいち議会にはかることだけが立憲政治じゃありませんよ。げんに憲政の本家である英国はどうです。かつてディスレリーが電報一本で一夜のうちにスエズ運河の株を買いしめ、四十五万ポンドという大金を支出して運河の管理権を英国の手に収めたではありませんか。時に議会は休会中で、その再開を待って事をやれば機会は永久に去るということでそれをやったのです。」


P.268
「正直は最上の政策である、と言ったワシントンが、おれにはたれよりもえらい政治家だったようにおもえる。」
と小村は滞米中つねにいった。真之も、しばしばきいた。
「かれは独立戦争の党派争いのなかにあってただひとり超然とし、米国主義をかかげた。米国以外にかれの関心はなかった。またかれの外交はうそをつかない。他国もついにワシントンはうそをつかぬということを信じるようになった。うその外交は骨がおれるし、いつかはばれるが、つねに誠をもって押し通せばたいした知恵もつかわずにすむ。外交家としてもワシントンは偉大である」


P.310
「山本権兵衛というの海軍省の大番頭は、かきがらというものを知っている。日清戦争をはじめるにあたって、戊辰以来の元勲的な海軍幹部のほとんどを首切ってしまった。この大整理はかきがら落しじゃ。正規の海軍兵学校出の士官をそろえて黄海へ押し出した。おかげで日本海軍の船あしは機敏で、かきがらだらけの清国艦隊をどんどん沈めた」


P.311
素人というのは知恵が浅いかわりに、固定概念がないから、必要で合理的だとおもうことはどしどし採用して実行する。あるい意味ではスペイン海軍の方が玄人であったが、その玄人が、カリブ海で素人のために沈められてしまった、と真之はいう。


P.375
「ヘータイの本務は敵を殺すにある。その思考法はつねに直接的で、いかにヘータイの秀才であろうとも政治という複雑なものはわからないし、わかればヘータイは弱くなる。世に醜怪なもののひとつは、兵にして政を談ずる者だ」






3巻

P.41
この当時の日本人が、どれほどロシア政府を憎んだかは、この当時にもどって生きねばわからないところがある。臥薪嘗胆は流行語ではなく、すでに時代のエネルギーにまでなっていた。
エネルギーは、民衆のなかからおこった。為政者はむしろそのすさまじい突きあげをおさえにかからねばならない側であり、伊藤博文などは、
「おおかたの名論卓説をきいていてもしようがない。私は大砲と軍艦に相談しているのだ。」
といったりした。軍事力においてくらべものにならぬ大国に対し、国内世論がいかに政府を突きあげたところで政府としてはどう仕様もないのである。

大建艦計画は、この国のこの時代のこのような国民的気分の中でうまれ、遂行された。
明治29年にスタートする建艦十ヵ年計画が実施された。国家予算の総歳費が、いよいよふくらんだ。明治30年度の総歳出のごときは軍事費が55%であり、同32年度のそれは明治28年度のほぼ3倍というぐあいにふくれあがった。国民生活からいえば、ほとんど飢餓予算といってよかったが、この時期の日本の奇妙さは、これについての不満がどういうかたちでもほとんど出なかったことである。


P.48
薩摩的将師というのは、右の3人に共通しているように、おなじ方法を用いる。まず、自分の実務のいっさいをまかせるすぐれた実務家をさがす。それについては、できるだけ自分の感情と利害をおさえて選択する。あとはその実務家のやりのいいようにひろい場をつくってやり、なにもかもまかせきってしまう。ただ場をつくる政略だけを担当し、もし実務家が失敗すればさっさと腹を切るという覚悟をきめこむ。かれら三人とおなじ鹿児島城下の加治屋町の出身の東郷平八郎も、そういう薩摩風のやりかたであった。


P.49
日清戦争の前、権兵衛がやった最大のしごとは、海軍省の老朽、無能幹部の大量首切りだった。
「大整理をして有能者をそれぞれの重職につける以外にいくさに勝つ道はありません」
と、西郷従道に建言した。


P.50
「功労者は、勲章をやればいいのです。実務につけると、百害を生じます」
と権兵衛はゆずらない。権兵衛の計画では、これらが去ったあとの空白に、正規の兵学校教育をうけた若い士官を充当し、実力海軍をつくりあげるつもりであった。
「恨まれますぞ」
「むろんかれらは恨むでしょう。しかし国家がつぶれてしまえば、なにもかもしまいです。」
権兵衛は、この首切りしごとを西郷には押しつけず、みずからやった。


P.57
「西郷従道という庇護者がもしいなかったら、権兵衛のようなかどの多い、風変わりな人物はおそらく二等巡洋艦の艦長くらいで退役になっていたかもしれない。そのかわり、日清戦争も日露戦争も、あるいはどうなっていたか、わからない」
ということは、のちに海軍部内でもよくいわれた。


P.65
しかし日本人はフランス人ときわめて似ている点は、対外的な華やかさをこのむ民族であることであり、たとえ浮華な外交であっても勝ちがたい勢力に対して外交上の離れわざを演じて大見得を切るとか、ときには戦争手段により勝ちがたい敵にいどんで国威を発揚するとかをこのんだ。とくに、いつの時代でも在野世論がそれをこのみ、政権担当者はそれをおさえ、つねに対外問題においては、慎重派の当局の方針と急進派の野の世論とが真っ二つにわかれてきた。


P.66
英国外交は、つねにそういう自己の存立にとって危険のある事態を、いちいち芽のうちにつみとってゆくのが基本的態度であった。
が、摘み方は、いわゆる老獪である。できるだけ戦争という直接手段を避け、避けられぬときも巧みな外交操作をもって他国にやらせ、ついにせっぱつまって自国軍を出さねばならぬときも、できるだけ共通利害の国にはたらきかけて連合して事にあたるというところがある。


P.84
ついでながら、政治におけるまるっきりの現実主義者は二流以下の政治家にすぎず、政治家というよりも商人であるにすぎない。政治家がどのような理想をもっているかにおいて人物の品質がきまるのだが、しかし政治が現実からはなれて存在しない以上、理想の比重が重すぎる人物は、結局は、単なる願望者か、詩人か、それとも現状否定のヒステリー的な狂躁者になりがちである。


P.89
どの時代のどの国の軍人でもその単純な頭脳がひとたび侵略事業に熱中したとき、侵略以外の態度をとる国民や政治家を非愛国者のあつかいをする性向があり、この時期、比較的穏健な政治姿勢をもつ陸軍大臣クロパトキンですら、その仲間であった。
当然、この計画の途上において日露戦争がおこることは、どのロシア軍人の目にもはっきりしている。むろん、日本を粉砕する。粉砕するしごとは軍人がうけもつのだが、ふしぎなことに、ロシア軍人のひとりとして、日本の実力を正当に評価した者がいなかったばかりか、それを冷静に分析した者さえいなかった。
一国の軍部が侵略に熱狂したとき、自分の専門であるはずの敵国の軍事的分析というものすら怠るのかもしれず、そういう作業をすることじたいが、取り憑かれている政治的熱気からみれば、ばかばかしくおもえてくるのかもしれない。


P.91
どの国の軍人でも、軍人というのは既成概念のとりこであるというのは、ロシアにおいても例外ではないらしい。


P.98
ロシア人は、民族としてはお人よしだが、それが国家を運営するとなると、普通考えられないようなうそつきになるというのは、ヨーロッパの国際政界での常識であった。
小村は、べつに英国ずきではなく、英国外交の老獪さをかれほど知りぬいている者はないといっていいほどだったが、日露同盟案か日英同盟案かをきめるばあい、まず露英両国の信用度で判断しようとした。
かれは下僚に命じ、ロシアおよび英国がそれぞれ他国とむすんだ外交史をしらべさせたところ、おどろくべきことにロシアは他国との同盟をしばしば一方的に破棄したという点で、ほとんど常習であった。しかし英国には一度もそういう例がなく、つねに同盟を誠実に履行してきている。


P.111
「このごろは、陸軍の連中と飲んどるそうじゃないか」
と、好古はいった。陸軍の参謀本部の若い参謀たちとしばしば会合をもち、ロシア情勢を論じ、政府の軟弱をののしり、主戦論的な気炎をあげているということを、好古は耳にしていた。
「酒をのんで兵を談ずるというのは、古来下の下だといわれたものだ。戦争という国家存亡の危険事を、酒間であげつらうようなことではどうにもならんぞな」
真之は、いやな顔できいていた。かえりみると、多少そういうところがあったからである。


P.126
ついでながら、好古の観察には、昭和期の日本軍人が好んでいった精神力や忠誠心などといった抽象的なことはいっさい語っていない。
すべて、客観的事実をとらえ、軍隊の物理性のみを論じている。これが、好古だけでなく、明治の日本人の共通性であり、昭和期の日本軍人が、敵国と自国の軍隊の力をはかる上で、秤にもかけられぬ忠誠心や精神力を、最初から日本が絶大であるとして大きな計算要素にしたということと、まるでちがっている。


P.131
さすがに火力重視の国であり、歩兵戦闘に主力を置く日本陸軍は、砲兵だけの旅団というものをもっていないばかりか、その思想もない。むろんそれをつくる経済力もない。砲兵旅団というのは、歩兵に直接協力する砲兵ではなく、軍作戦というひろい場に立って、必要なとき必要な場所に巨大な火力を集中するための戦略砲兵であった。経済戦争がつねに思考の基準になる日本では、くりかえしていうが、戦略砲兵というぜいたくなものを常設する考えは、まったくない。


P.138
ついでながら、作戦畑の軍人の通弊で、真之も軍事的見地を基準にする以外に国家の運命や将来を考えることのできない人物であった。
…略…
いかにも、軍人の思考法である。しかし対露開戦主義者は、この時期にあっては、、元老や政府当局から「一国の運命を賭け物にする国賊同然の者」といわんばかりの批評をうけており、真之はこれもはらが立って、
「あちこちに気をくばり慎重々々といって、慎重主義のみが忠臣であるという面をする連中が多いが、じつに不愉快である」
といっている。


P.163
十九世紀からこの時代にかけて、世界の国家や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力をもち、帝国主義国の仲間入りをするか、その二通りの道しかなかった。
後世の人が幻想して侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそ当時のあるべき姿とし、その幻想国家の架空の基準を当時の国家と国際社会に割りこませて国家のありかたの正邪をきめるというのは、歴史は粘土細工の粘土にすぎなくなる。世界の段階は、すでにそうである。日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立をたもたねばならなかった。


P.168
後世という、事が冷却してしまった時点でみてなお、ロシアの態度には、弁護すべきところがまったくない。ロシアは日本を意識的に死に追いつめていた。日本を窮鼠にした。死力をふるって猫を噛むしか手がなかったであろう。
ついでながら、ヨーロッパにおける諸国間での外交史をみても、一強国が他の国に対する例として、ここまでむごい嗜虐的外交というものは例がない。白人国同士では通用しない外交戦略が、相手が異教の、しかも劣等人種とみられている黄色民族の国ともなると、平気でとられるというところに、日本人のつらさがあるであろう。
すこし余談に触れさせてもらいたい。
筆者は太平洋戦争の開戦へいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかでもゆるす気になれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英智と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえば相手が日本ではなく、ヨーロッパのどこかの白人国であったとすれば、その外交戦略はたとえおなじでも、嗜虐的なにおいだけはなかったにちがいない。文明社会に頭をもたげてきた黄色人種たちの小面憎さというものは、白人国家の側からみなければわからないものであるにちがいない。
1945年8月6日、広島に原爆が投下された。もし日本とおなじ条件の国がヨーロッパにあったとして、そして原爆投下がアメリカの戦略にとって必要であったとしてもなお、ヨーロッパの白人国家の都市におとすことはためらわれたであろう。
国家間における人種問題的課題は、平時ではさほどに露出しない。しかし戦時というぎりぎりの政治心理の場になると、アジアに対してならやってもいいのではないかという、そういう自制力がゆるむということにおいて顔を出している。
1945年8月8日、ソ連は日本との不可侵条約をふみにじって満州へ大軍を殺到させた。条約履行という点においてソ連はロシア的体質とでもいいたくなるほどに平然とやぶる。しかしかといってここまで容赦会釈ないやぶり方というものは、やはり相手がアジア人の国であるということにおいて倫理的良心をわずかにしか感じずにすむというところがあるのではないか。
いずれにせよ、日露戦争開戦前におけるロシアの態度は外交というにはあまりにもむごすぎるものであり、これについてはロシアの蔵相ウィッテもその回想録でみとめている。


P.170
日本政府は、戦争をおそれた。ロシアへの恐怖が、対露交渉のテンポをゆるやかにしていたし、それが国民一般の目にはロシアに対する哀願的態度にうつった。
世論は好戦的であった。
ほとんどの新聞が紙面をあげて開戦熱をあおりたて、わずかに戦争否定の思想をもつ平民新聞が対露戦に反対し、ほかに二つばかりの政府の御用新聞だけが慎重論をかかげているだけであった。


P.185
ちなみに、すぐれた戦略戦術というものはいわば算術程度のもので、素人が十分に理解できるような簡明さをもっている。逆にいえば玄人だけに理解できるような哲学じみた戦略戦術はまれにしか存在しないし、まれに存在しえても、それは敗北側のそれでしかない。
たとえていえば、太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想がそれであろう。戦術の基本である算術性をうしない、世界史上まれにみる哲学性と神秘性を多分にもたせたもので、多分というよりかはむしろ、欠如している算術性の代用要素として哲学性を入れた。戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない「必勝の信念」の鼓吹や、「神州不滅」思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた。
この奇妙さについては、この稿の目的ではない。ただ日露戦争当時の政戦略の最高指導者群は、三十数年後のその群れとは種族までちがうかとおもわれるほどに、合理主義的計算思想から一歩も踏みはずしてはいない。これは当時の四十歳以上の日本人の普遍的教養であった朱子学が多少の役割をはたしているともいえるかもしれない。朱子学は合理主義の立場に立ち、極度に神秘性を排する思考法をもち、それが江戸中期から明治中期までの日本の知識人の骨髄にまでしみこんでいた。


P.270
戦術の要諦は、手練手管ではない。日本人の好みとして、小部隊をもって奇策縦横、大軍を翻弄撃破するといったところに戦術があるとし、そのような奇功のぬしを名将としてきた。源義経の鵯越の奇襲や楠木正成の千早城の篭城戦などが日本人ごのみの典型であるだろう。
ところが織田信長やナポレオンがそうであるように、敵に倍する兵力と火力を予定戦場にあつめて敵を圧倒するということが戦術の大原則であり、名将というのはかぎられた兵力や火力をそのように主決戦場にあつめるという困難な課題について、内や外に対しあらゆる駆けひきをやり、いわば大奇術を演じてそれを実現しうる者をいうのである。あとは「大軍に兵法なし」といわれているように、戦いを運営してゆきさえすればいい。
日本の江戸時代の史学者や庶民が楠木正成や義経を好んだために、その伝統がずっとつづき、昭和時代の軍事指導者までが専門家のくせに右の素人の好みに憑かれ、日本特有のふしぎな軍事思想をつくりあげ、当人たちもそれを信奉し、ついには対米戦をやってのけたが、日露戦争のころの軍事思想はその後のそれとはまったくちがっている。戦いの期間を通じてつねに兵力不足と砲弾不足になやみ悪戦苦闘をかさねたが、それでも概念としては敵と同数もしくはそれ以上であろうとした。海軍の場合は、敵よりも数量と質において凌駕しようとし、げんに凌駕した。


P.294
ちなみに日本陸軍の首脳は、この時代における騎兵、のちの時代における捜索用戦車や飛行機といったふうな飛躍的機能をもつ要素をつねにつかいこなせないままに陸軍史を終幕させた。日本人の民族的な欠陥につながるものかもしれない。


P.295
ただし、クロパトキンのわるい癖として、かれの命令はつねに付帯条件がいくつかつくのである。この場合も、
「もし敵が暴進してくれば、しかも後続部隊をもっていなければ、兵力をもっと増加してこれを撃破しろ」
というもので、いかにもロシア軍きっての秀才らしく命令に芸のこまかさがあった。が、軍命令というのは、
―敵の先進部隊を撃滅せよ。
というだけでよい。「敵が暴進し、しかも後続部隊をもっていなければ、もっと兵力をふやしてこれを撃破しろ」というのは命令としていかにも弱く、軍の断固たる決意を表現しえていない。しかもこのこまごまとした指示などは、兵団長たるシタケリベルグ中将にまかせるべきで、かえってかれを拘束することになるであろう。シタケリベルグがもし臆病な男なら、この付帯条件を言いわけにして作戦の不遂行を正当化するかもしれなかった。


P.297
が、日本軍の基本思想は、そのような「陣地推進主義」ではなく、大きな意味での奇襲・強襲が常套の手法であった。拠点をすすめてゆくどころか、拠点すらろくにない。兵士の肉体をすすめていくのである。当然、戦術は指揮官と兵士の勇敢さに依存せざるをえない。ときには戦術なしで、実戦者の勇敢さだけに依存するというやりかたもとる。のちの乃木軍(第三軍)の旅順攻略などはその典型であり、このほとんど体質化した個癖は昭和期になっても濃厚に遺伝し、ついには陸軍そのものの滅亡にいたる。

P.308
そのような方針やら戦略戦術なりは、ふつう水兵に無関係なものとして知らされることがない。とくにロシア軍隊においてはそうであった。ところがマカロフの統率法は、水兵のはしばしに至るまで自分がなにをしているかを知らしめ、なにをすべきかを悟らしめ、全員に戦略目的を理解させたうえで戦意を盛りあげるというやりかたであった。19世紀が終わったばかりのこの時代、マカロフがやったこのことはきわめて斬新であった。






4巻

P.23
やがて大本営が第三軍をつくることになったとき、軍司令官に補せられたのは、ひとつには長州閥の総帥山県有朋が推薦したからでもあった。ついでながら、第一軍から第四軍、および鴨緑江軍にいたるまでの軍司令官が、第二軍の奥(福岡県出身)をのぞくほかぜんぶ薩摩人で、長州人がいなかった。薩長両閥人事のバランスをとるために、長州人の乃木を入れることは、この当時の人事感覚からみて安定感があったのであろう。


P.28
初動期の計画では大山が剣山にのぼってあたりを視察しているこの時期には、すでに第一目標である遼陽会戦がおこなわれていなければならなかったが、しかしその大会戦をするための補給が計画どおりにすすまず、会戦はどうやら八月を越えそうであった。
日本人の計画感覚のなかに、補給という感覚が欠如しているのかもしれなかった。遼陽大会戦のための補給どころか、現状において兵隊の食糧さえ欠乏していた。…略…
補給は、兵站のしごとである。食糧が大連湾に陸揚げされても、それを前線へはこぶ方法があらかじめ研究されていなかった。


P.33
しかしステッセルは海軍についてどういう同情ももたず、陸軍の利害のみを固執した。このあたりはステッセルの性格に罪があるわけではなく、この時期の老化しきったロシアの官僚組織と官僚意識に罪があるというべきであろう。この当時のロシアの官吏、軍人は大なり小なりステッセルのようであった。


P.66
そこへゆくと、日本人は徳川300年のあいだ、わが田を守る百姓根性が骨のずいまで沁みこんでいるうえに、あらゆる意味での冒険を幕府が禁じてきたために、精神の習性としてその要素が薄い。
一方、日本人は忠実できめられたことをよくまもるために、大艦の乗組員にはむいている。戦艦の砲側にあって、上官の五体が飛び、同僚がひきさかれて倒れようとも、水兵たちは持ち場を離れようとはしない。主力艦隊の強味は、たしかにそういうところにあった。
が、個人としての勇気や、個人としての冒険精神を必要とする駆逐艦の世界は、一見日本人に適っているようで、適っていないのではあるまいか。


P.86
このあたりが、明治三十年代国家のおもしろさであろう。国民が、艦隊を追いつかっているような位置にあった。租税で艦隊をつくって上村に運営させている。上村は国民の代行人であり、代行人が無能であることを国民はゆるさなかった。ついでながら昭和十年代の軍事国家としての日本は、軍閥が天皇の権威をかりて日本を支配し、あたかもかれらが日本人の居住地であるこの国を占領したかのような意識の匂いをもった。当然、国民はかれらの使用人になり、末期には奴隷のようになった。日露戦争当時の国家と、昭和十年代の国家とは、質までもちがうようであった。


P.101
日本陸軍の伝統的迷信は、戦いは作戦と将士の勇敢さによって勝つということであった。このため参謀将校たちは開戦前から作戦計画に熱中した。詰め将棋を考えるようにして熱中し、遼陽作戦などは明治35年のころから参謀本部での「詰め将棋」になっていた。かれらは戦争と将棋とは似たようなものだと考える弊風があり、これは日本陸軍のつづくかぎりの遺伝になった。
かれらはその「詰め将棋」に血をかよわせて生きた戦争にするのは、実戦部隊の決死の勇戦あるのみという単純な図式をもっていた。「詰め将棋」が予定どおりにうまく詰まないときは、第一線の実施部隊が臆病であり死をおそれるからだとして叱咤した。とめどもなく流血を強いた。
それが、東京なり後方なりにいる陸軍の作戦首脳の共通しての頭であった。「詰め将棋」を肉付けしてそれを現実の戦争に仕立てあげるものは血よりも物量であるということがわかりにくかった。たとえば日本陸軍は遼陽作戦をはじめるにあたって準備したのは砲弾ではなく、1万個の骨箱(ロシア側資料)であった。


P.102
砲弾については、戦争準備中、
「どれほどの砲弾の量を予定すべきか」
ということを、参謀本部で考えた。もし日清戦争の十倍が必要なら、それだけの量を外国に注文したり、大阪砲兵工廠の生産設備を拡充してそれだけの用意をせねばならない。
が、日本陸軍は、
「砲1門につき50発(一ヶ月単位)でいいだろう」
という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。
このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長であった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もそれに盲判を押し、大臣も同様、判を押し、それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながれたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はない。


P.105
ところが、砲弾の量がきわめて貧弱であるうえに、前線では食糧すら欠乏し、食事を半減している部隊すらあった。補給の不手際のためであった。補給という、この地味な、しかしきわめて戦略的で計画性を要する活動は、日本人の性格からみて不むきなのかもしれなかった。ただし、海軍はそれを手ぬかりなくやり、この戦争期間を通じて疎漏はなかった。陸軍における補給の疎漏さが、もし日本人の国民性の欠陥に根ざすとすれば、元来、陸軍というものはその民族の土俗性を多分に遺伝するものであるため、やむをえないことなのかもしれなかった。
―補給の欠乏は、戦闘の勇敢さをもってカバーせよ。
というのが、大本営の意志であった。いかにも日本的であり、この奇妙な性格的発想は、日本陸軍の終末まで遺伝した。


P.114
ついでながら、日露戦争人事のおもしろさは、これら維新の生き残りの軍司令官に配するに、参謀長は陸軍大学校出身の少将級をえらんだことである。一軍の統率は司令官がその人格力をもってやる、作戦のほうは参謀長がうけもつ、というのが、だいたいのやりかたであった。このため、黒木軍の参謀長藤井茂太のようにすぐれた人物をもった軍司令官は幸運だったが、乃木軍における伊地知幸介のような才質の劣った人物を配せられた軍司令官は、不運だった。
奥保鞏は、包容力に富んでいる。かれはこまかい作戦計画や作戦判断にいちいち口出しせず、
「すべて参謀長にまかせる。二者択一をせまられたときか、戦況が紛糾しきったときのみ自分が決をくだす」
と、最初からそのような方針でいた。


P.120
敵情判断をあやまったといえば、クロパトキン以上に児玉源太郎もそうであった。かれの誤認は致命的なものであった。
かれは、首山堡の線の敵がばかに頑強なのをみてひそかにおどろいたが、それでもこれは遼陽の前哨陣地的なものだとみていた。押しまくれば敵は例によって退却し、遼陽にひきあげ、そこをもって大決戦の拠点にするであろうとみた。
が、クロパトキンはちがった。この首山堡の線で日本軍と決戦すべく、遼陽にある予備隊をどんどん投入しはじめたのである。奥軍を後方から叱りとばしている児玉にも、甘さがあった。


P.151
ところで、この日本軍司令部には一つの欠陥があった。各国からきた従軍記者のあしらいがへたなことで、その接待はきわめて粗末であり、そのうえ若い参謀たちにいたるまでかれらに対して傲慢(と、かれらはみた)で、極端な秘密主義をとった。
もともと明治人は新聞記者や世論に対する認識が貧困で、日本人記者なども軍夫のようなあつかいをうけた。
…略…
もともと大本営そのものが、はじめから国際的な世論操作の感覚や能力にかけていた。


P.158
黒木・藤井コンビが、日本軍を辛勝へもちこんだのに、大勝へもちこまなかったという、いわばないものねだりのような理由で、この両人はのちに元帥や大将になる名誉をうしなった。信じがたいほどの気宇の狭さが、日本陸軍を支配していた。そのせまさの原因のひとつは、日露戦争遂行についての日本国の最大の痛点である戦費調達にあるということはすでにのべた。
金がなかった。


P.174
「乃木ではむりだった」
という評価が、すでに出ていた。参謀長の伊地知幸介の無能についても、乃木以上にその評価が決定的になりつつあったが、しかしそういう人事をおこなったのは東京の最高指導部である以上、いまさらどうすることもできない。更迭説も一部で出ていた。しかし戦いの継続中に司令官と参謀長をかえることは、士気という点で不利であった。


P.175
錯誤というようなものではないであろう。日本陸軍は、伝統的体質として技術軽視の傾向があった。敵の技術に対しては勇気と肉弾をもってあたるというのが、その誇りですらあった。これはその創設者の性格と能力によるところが大きいであろう。日本陸軍を創設したのは技術主義者の大村益次郎であった。が、大村は明治2年に死に、そのあと長州奇兵隊あがりの山県有朋がそれを継いだ。山県の保守的性格が、日本陸軍に技術重視の伝統を希薄にしたということはいえるであろう。技術面の二流性は、兵卒の血でおぎなおうとした。


P.177
日本の近代社会は、それ以前の農業社会から転化した。農の世界には有能無能のせちがらい価値基準はなく…略…きまじめさと精励さだけが美徳であった。
しかし、人間の集団には、狩猟社会というものもある。…略…こういう社会では、人間の有能無能が問われた。
軍隊が、それに似ている。
世界史から見て、狩猟民族や遊牧民族が軍隊をつくることに熟達し、しばしば純農業地帯に侵入して征服王朝をつくったのは、かれらが組織をつくったり、その組織を機能化したりすることが、日常的に馴れていたからであった。…略…ヨーロッパの場合、本来が、狩猟と牧畜の色合いが濃く、しばしば騎馬民族の侵略になやまされたために、早くから人間の集団を組織化するという感覚に習熟していた。ということは同時に、人間を無能と有能に色濃くわけてその価値をきめるという考え方に馴れていた。


P.178
有能無能は人間の全人的な価値評価の基準にならないにせよ、高級軍人のばあいは有能であることが絶対の条件であるべきであった。かれらはその作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘においては無能であるがためにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追いこむことになるのである。


P.179
「薩の海軍」のばあいは薩閥の山本権兵衛自身が、日清戦争の前に薩摩出身の先輩たちのうち、無能者の首をことごとく切って組織をあらたにし、機能性をするどくし、清国に勝つことをえたが、しかし「長の陸軍」のばあいは、そういう新生改革の時期がなく、大御所である山県有朋が、依然として藩閥人事をにぎり、長州出身者でさえあれば無能者でも栄達できるという奇妙な世界であった。
「乃木がよかろう」
と、山県がいったのには、そういう事情がある。この当時、参謀総長は山県自身で、陸軍大臣も長州藩整武隊士あがりの寺内正毅である。寺内というのは軍事的才能はあまりなく、実戦の経験もほとんどなく、軍政家の位置にありながら、陸軍の将来を見通しての体質改善ということもしなかった。ただ部内人事は上手であり(むろん藩閥的発想によるものだが)、さらに書類がすきで、事務家としては克明であった。


P.181
当初、
―旅順はたいしたことはあるまい。
という空気が陸軍の首脳にあり、この人事は能力的配慮よりも派閥的配慮のほうがつよかった。すでに現職の世界からひいていた乃木にとってこの起用は名誉であったであろうが、しかし同時に現実の旅順にぶちあたった乃木にとって、この職はかならずしも幸運でなかったかもしれない。
いまひとつ乃木にとって幸運でなかったのは、参謀長の人選までが、派閥的配慮でおこなわれたことである。
山県や寺内は、
「司令官を長州がとった以上、参謀長は薩摩にせねばまずかろう」
ということで、少将伊地知幸介がえらばれた。理由は砲兵あがりであるということもあったが、薩摩出身であるという配慮の比重のほうがはるかに大きい。
伊地知幸介がすぐれた作戦家であるという評判は、陸軍部内ですこしもなかった。ないどころか、物事についての固定観念の強い人物で、いわゆる頑固であり、柔軟な判断力とか、状況の変化に対する応変能力というものをとてももっていないということも、かれの友人や旧部下のあいだではよく知られていた。
…略…
要するに、旅順攻囲について日露戦争そのものが日本によって敗北へ転落する危機が持続的におこるのだが、この責任をもっとも大きく負わねばならないのは、陸相の寺内と参謀総長の山県であろう。


P.183
第一回の総攻撃で、一個師団に匹敵する大兵力が消えてしまったということについては、東京は寛大であった。寛大であるというよりも、
「旅順はそれほどの要塞か」
ということを、この大犠牲をはらうことによって東京自身が認識したのである。この錯誤と認識は戦争にはつきものであった。しかし東京の長岡外史らが、乃木軍参謀長のあたまをうたがったのは、この錯誤をすこしも錯誤であるとはおもわず、従ってここから教訓をひきだして攻撃方法の転換を考えようとはしなかったことであった。
要塞ならば、あたりまえのことであった。伊地知は一万数千の犠牲をはらってこの程度の、百科事典の「要塞」項目程度の知識をえた。しかもその知識は、かれら参謀が前線へ挺身して得たものではなく、「諸報告を総合」して得た。


P.186
もっとも、乃木軍はこの「正攻法」をとらなかったわけではない。不徹底ながらも第二回総攻撃はこの正攻法を併用したということはすでに触れた。塹壕を掘ったり、またさまざまな方面から敵の堡塁にむかって坑道を掘ったりしたが、しかしロシアは要塞を守る戦いにかけては世界一というべき戦闘技術をもっており、この程度の幼稚な坑道作戦に対しては適切に手をうち、妨害し、このためあまり効を奏さなかった。


P.186
日本軍には大和魂があるうというのである。大和魂は鉄壁をも熔かすであろうという信仰は実施部隊にこそ必要であったが、しかし高等司令部がその職能上それにたよるべきではなかった。かれらは国家と国民から、よりすくない犠牲において戦勝を得るということの期待と信頼との交換においてその尊厳性がゆるされている存在であった。


P.188
もっとも、官僚としては不運でもなかった。かれ(伊地知幸介)は旅順であれほどの失策をかさねつづけたにもかかわらず、戦後男爵になった。藩閥のおかげであった。ただ大将にだけはなれず、中将でとどまった。


P.190
かれら旅順攻撃の高等司令部は、旅順要塞とはどういうものであるかということを、この惨憺たる攻撃中にも十分に知らなかった。敵情というものが容易につかめないということも、戦争にはつきものであったが、知ろうとする努力を怠っていることもたしかであった。


P.195
陸軍には、海軍の山本権兵衛に相当するようなすぐれたオーナーがいなかった。
山本には、
「日本海軍はどうあるべきか」という構想が最初からあり、いかにすればロシアに勝てるかという主題がその構想を精緻にし、それをもって海軍の体質から兵器まで一変させた。
が、陸軍は山本に相当する人物をもたなかった。
地位と権力からいえば山県有朋がそうあるべきだったが、この権力好きな、そしてなによりも人事いじりに情熱的で、骨のずいからの保守主義者であったこの人物の頭脳に、新しい陸軍像などという構想がうかぶはずがなかった。


P.199
陸軍の人事は山県を頂点とする長州閥がにぎっていることはすでにふれた。
その閥人の会には、
「一品会」
という名がつけられていた。毛利家の紋所が(一に三ツ星)で、一品という漢字のかたちに似ているからであった。山口県出身の軍人で少将以上の者がこの会の会員で陸軍という国家の機関における私的結社でこの結社がいかにおそるべき(軍人にとって)結社であるかというと、陸軍全体の人事―たれを進級させるかとか、たれをどの職にもってゆくかということ―をほとんどこの秘密会できめていたことであった。乃木や長岡の人事もここできめられたといってよかった。
ついでながら大佐以下の山口県人は、
「同裳会」
という結社をつくっていた。同裳会は一品会のジュニア団体であり、一品会に直属していた。
これらの団体は他府県出身の軍人から見れば不愉快きわまりない存在であった。後年、これへの反動がおこり、長州閥への対抗意識から他の出世閥がうまれ、やがてそれらが昭和初年、皇道派とか統制派とかいったような一見思想派ふうにみえる存在に変転するのだがここではそれらは主題ではない。


P.215
豊島も伊地知も、じつは専門家ほどの専門知識ももっていなかった。この巨砲はいかに分解運搬が困難であるとはいえ、据えつけには十日もあれば十分ということは、この世界の常識であった。かれらは一知半解の知識で、体面だけは傲然として専門家の態度を東京の「しろうと」に対してとってみせたのである。
ところが、その「東京」には大砲研究の世界的権威というべき、有坂成章がいたし、それにこの砲の専門家もいた。


P.219
陸軍にとって宿命的なことは、
「旅順要塞にはさわらない」
ということが、開戦前、数年のあいだ対露戦研究に全力をあげていた陸軍参謀本部の基本的な考え方であった。
「敵は城(要塞)にこもっている。相手にする必要があるものか」
と、考えていた。これはこれで、正しかった。日本軍としては大連湾に上陸し、背後の旅順要塞などにかまわずに北進し、野戦において連戦連勝してゆけば、旅順要塞は結局は立ち腐れてしまう。捨てておくほうがよいのである。
…略…
ところが、開戦ぎりぎりの段階になってから海軍側が、
「旅順を陸から攻めてほしい」
といってきたのである。
これも、強力な申し入れではなかった。もし海軍が、緒戦において旅順艦隊を一隻のこらず沈めることができれば(空想にちかい期待だが)もう陸からの攻撃は不必要である。海軍としては、できるだけ独力で旅順艦隊を全艦沈めようとしてかかった。ところが旅順艦隊が出てこないためにどうしようもならず、封鎖だけをつづけた。
その間、一度出てきた。東郷艦隊はそれを追って黄海開戦を演じたのだが、討ちもらした艦が多く、それらがまた旅順港ふかくにげこんでしまった。そのためまたまた海軍は全力をあげて封鎖をつづけざるとえなかった。敵艦はもう、おびえきって出て来ない。
このため陸上から陸軍に攻めてもらわざるをえなかったのである。海軍としては港内の敵艦を沈めればいい。そのためには弾着観測兵を置ける(結局それが203高地なのだが)山を陸軍に占領してもらい、陸軍砲をもって港内の敵艦を沈める。それだけでよかった。それで日露戦争における旅順の始末はついてしまうはずであった。ところが乃木軍が要塞をすっかり退治してしまおうとおもったところに、この戦史上空前の惨事(戦争というよりも)がおこるのである。


P.225
クロパトキンは元来、
「遠くハルビンの線まで退き、そこで百万のロシア軍を集結させて攻勢へ転ずる」
という大戦略をもっていた。もしかれにこの作戦を自由にやらせれば、日本軍は百に一つの勝ち目もなかった。
…略…
が、クロパトキンは、このハルビン案はすてざるをえない。理由は軍事的なものではなくかれ個人の官僚としての事情からであった。これ以上退却をすれば宮廷での人気はさらに下落するし、そのうえ、かれにとって存在理由不明の上官であるアレクセーエフ極東総督が、かれに奉天の線をまもることを主張していて、それも無視することができなかった。


P.230
この砲弾不足には、ひとつには明治日本の無理が集約されていた。
…略…
明治日本の無理は、日露戦争のはじまる前8年間というみじかい期間に、師団の数を二倍にしたことであった。二倍にしてやっと十三個師団になった。
当時の日本の国力としてはこれは限度以上のもので、増設された師団は戦時に必要な砲弾を十分に貯蔵するまでに至らなかった。


P.232
そもそも開戦前の日本陸軍に近代戦に対する想像力が不足していたことが遠因のひとつであった。このため野砲一門についての弾薬定量というものが、日本ではたった百三十六発ということになっていた。それで十分だと思っていた。ところがいざ戦いがはじまってみると、百三十六発などはあっというまにつかってしまう。せめて五百発はもたなければヨーロッパ陸軍に対抗できないということがわかった。


P.243
ひるがえって考えてみると、日本軍の組織にすこし無理があった。旅順攻撃をうけもつ乃木軍だけは、東京の大本営の直属にすべきであった。
それが大山、児玉の命令系統のなかにある。大山、児玉がやるべきことは、満州本部における主力決戦であり、これだけでも精いっぱいであるのに、旅順は別方面にあり、しかもそのしごとは要塞攻撃という野外決戦とはまるでちがった異種のしごとである。それを大山、児玉が同時にやってのけることは、神業でないかぎりできない。
このためつい、旅順は乃木軍の好きなようにまかせる結果となった。それが、この惨状である。


P.246
ロシア軍は、敵よりも二倍ないし二倍半の兵力・火力を持つにいたらなければ攻勢に出ないという作戦習性をもっている。これはロシア軍が臆病であるからではない。
敵よりも大いなる兵力を集結して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄味はそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。
日本軍は、日露戦争の段階では、せっぱつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いであり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。
が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで勝利を得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。


P.247
陸戦における日露戦争は、全体として桶狭間的状況と宿命と要素に満ちているということはすでに触れた。これが、意外に成功した。
それに成功したことでの旨味により、日露戦争後の日本陸軍の体質ができてしまたという滑稽さは、いったいどういうことであろう。
日露戦争における日本陸軍は、砲弾が慢性的に欠乏したり、あるいは機関銃という新兵器をほんのわずかにしかもたなかったという点では欠けたところがあるが、その他の装備では世界第一流の陸軍であったといっていい。
その後、昭和二十年にいたるまでの日本陸軍は、装備の上では二流であり、二流の上になったことすらない。
「日露戦争はあの式で勝った」
というそういう固定概念が、本来軍事専門家であるべき陸軍の高級軍人のあたまを占めつづけた。織田信長が、自己の成功体験である桶狭間の自己模倣をせず、つねに敵に倍する兵力をあつめ、その補給を十分にするということをしつづけたことをおもえば、日露戦争以後における日本陸軍の首脳というのは、はたして専門家という高度な呼称をあたえていいものかどうかもうたがわしい。そのことは、昭和十四年、ソ満国境でおこなわれた日本の関東軍とソ連軍との限定戦争において立証された。
この当時の関東軍参謀の能力は、日露戦争における参謀よりも軍事知識は豊富でありながら、作戦能力がはるかに低かったのは、すでに軍組織が官僚化していてしかもその官僚秩序が老化しきっていたからであろう。
…略…
これにひきかえ日本陸軍の秀才たちは政治が好きで、精神力を賛美することで軍隊が成立すると信じていたため、日本陸軍の装備は日露戦争の延長線上にあったにすぎず、その結果は明瞭であった。死傷率73%という空前の大敗北を喫して敗退したのである。


P.294
要するに沙河戦は砲弾不足のために中止せざるをえなくなった。山県有朋はこの責任を、
「積年の消極計画のため」
などとばくぜんとした表現で言いのがれているが、要するに日本陸軍というものには補給観念が体質的欠陥としてはじめから欠落していた。
たとえば、日本陸軍の常備兵は十三個師団で、戦闘員二十万。戦時に召集する後備兵を入れると三十万である。この動員計画はむろん西洋のまねで参謀本部では平時といえどもつねに準備している。
ところが、戦時下において砲弾を生産するという面を全陸軍がわすれていた。おなじ日本人でも海軍のほうがそれを十分に準備し、戦時生産力をたっぷりもっていたというのはどういうことであろう。
おどろくべきことに、陸軍においては東京、大阪の両砲兵工廠の砲弾製造能力が両廠あわせても一日わずか300発でしかないということであった。300発というのは、砲兵一個中隊で迅速射すればわずか7分30秒で撃ちつくすという程度の数量である。うそのような話だが、日本陸軍というのは要するにそのような智能上の欠陥としかいいようのない体質を最初からもってうまれついていた。


P.296
もはや戦争というものではなかった。災害といっていいであろう。
「攻撃の主目標を二百三高地に限定してほしい」
という海軍の要請は、哀願といえるほどの調子にかわっている。二百三高地さえおとせばいい、そこなら旅順港を見おろすことができるのであろう。大本営(陸軍部)参謀本部もこれを十分了承していた。参謀総長の山県有朋も、よくわかっていた。
ただ現地軍である乃木軍司令部だけが、
「その必要なし」
と、あくまでも兵隊を要害正面にならばせ、正面からひた押しに攻撃してゆく方法に固執し、その結果、同国民を無意味に死地に追いやりつづけている。無能者が権力の座についていることの災害が、古来これほど大きかったことはないであろう。


P.303
乃木軍の参謀長伊地知幸助の能力や性格に対する評価は、もはや決定的になっていた。
伊地知は、そのたびかさなる作戦上の失敗を、自分の方針の失敗であるとは、思っていなかった。
「罪は大本営にある」
と、公言していた。
…略…
乃木軍の伊地知はそのような客観性のある視野や視点をもてない性格であるようであった。さらにつねに、自分の失敗を他のせいにするような、一種女性的な性格のもちぬしであるようだった。
…略…
伊地知は、出征前、教育総監部の野戦砲兵監であった。自分の専門であるのに、出征するときはそのことにすこしも気づかなかった。
…略…
乃木希典という人物はみずからに対して厳格な精神家であったが、自分の部下に対しては大声で叱るということもせず、伊地知の意のままに動くところがあり、たとえば乃木軍司令部は後方にありすぎて要塞下の凄惨な戦闘の実相を知らず、このため司令部を前進させよという声に対しても、それに従わなかった。伊地知が、司令部は後方にあったほうが砲声のために作戦思考をわずらわされなくてすむ、といったからであった。山県のこの叱責についても、乃木はついに伊地知に伝えなかった。


P.308
ただ、形式上、大山・児玉の支配下にある乃木軍司令部が、その大戦略についての感度がきわめてわるく、かれら乃木軍幕僚たちが会議をするたびに、
「海軍はあせりすぎている。陸軍には陸軍のやり方があるのだ」
と、問題を、大戦略という高次元から、陸海軍対立という低次元へひきさげてしか、物事を考えたり言ったりすることができなかった。そのために海軍が主張しつづけている二百三高地への主力攻撃をしかけるということを乃木軍司令部は拒絶しつづけてきた。


P.309
バルチック艦隊の司令長官であるロジェストウェンスキー中将は、どちらかといえば日本の陸軍大臣寺内正毅に似ているであろう。
創造力がなく、創造をしようという頭もなかった。事務家で、事務にやかましく、全能力をあげて物事の整頓につとめ、規律をよろこび、部下の不規律を発見したがる衝動のつよさは異常で、双方とも一軍の将というより天性の憲兵であった。さらに双方とも、その身分と位置は他のたれよりも安泰であった。なぜなら、ロジェストウェンスキーは皇帝ニコライ二世の寵臣であり、寺内正毅は山県有朋を頂点とする長州閥の事務総長的な存在であった。日本によって幸いだったのは、寺内が陸相という行政者の位置につき、作戦面に出なかったことであった。ロジェストウェンスキーは、対日戦の運命を決すべき大艦隊の司令長官として海上をはしっているのである。


P.310
日本の海軍はできあがったばかりの組織であったため、電流の通りがよく、分掌は合理的であった。軍令部長は作戦の頭脳で、その作戦命令は海軍のすみずみまでゆきわたった。が、ロシアの国家組織も海軍組織も老化しきっており、たとえば極東の海軍戦略については本国の軍令部長はほとんど権限がなく、極東は極東で、皇帝の寵臣であるアレクセーエフ極東総督が勝手にやっているというぐあいであった。


P.315
この宮廷会議は、当時の日本の政治家からみれば、奇妙なものであったろう。
ほとんどの要人が、
―艦隊の派遣は、ロシアの廃滅になる。
とおもいながら、たれもそのようには発言しなかった。文官・武官とも、かれらは国家の存亡よりも、自分の官僚としての立場や地位の保全のほうを顧慮した。
「敗ける」
といえば、皇帝の機嫌を損ずるであろう。損ずればかならずやがては左遷された。


P.316
老化した官僚秩序のもとでは、すべてこうであった。1941年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した。その陸軍内部でも、ほんの少数の冷静な判断力のもちぬしは、ことごとく左遷された。結果は、常軌はずれのもっとも熱狂的な意見が通過してしまい、通過させることによって他の者は身分上の安全を得たことにほっとするのである。


P.328
…ロジェストウェンスキー自身がこの妄想の信者であった。
この一事だけでも、かれはこれだけの大艦隊の長官になる資格はなかった。もしかれ一個とはべつにこの妄想がかれの艦隊に蔓延していたにせよ、それを沈静させるのが統帥というものであった。総大将の任務というのは、最低限それであった。人心を統一し、敵にむかって士気をたかめ、いささかの敗北心理も持たせない、というのが、国家と国民が軍隊統率者に期待し要求しているところの資質であり、行動である。作戦のごときは、ときには参謀まかせでもいい。
「負けいくさになればわしが指揮をとります」
といったのは日本の全野戦軍の総司令官である大山巌のことばであり、かれの言葉は統帥というものの本質を指し示している。軍隊から集団恐怖や妄想や敗戦心理をとり去るのが、統帥であった。乃木希典もまたその点では不足のない統率力をもっていた。旅順攻略の乃木軍はあれほど負けに負けていながら、集団敗北心理というほどの症状を罹患するまで至らなかったのは、多くは乃木希典の統率力に負っているといっていい。


P.329
軍隊は、最高司令部に最も多くの情報が集まっている。下級仕官以下は部署々々の労働者であるにすぎず、なんの情報も持たされていないし、むしろ持つことは好ましくないとされている組織である。このため下級仕官以下は上層部を信頼する以外になく、自然、上層部が1ミリの振幅で動揺すればそれが下層部につたわるころには1メートルの振幅になるという神経機能になっている。ロジェストウェンスキーの戦慄は、この大艦隊に大恐慌としかいいようのない心理をもたらしたのは当然であった。

P.330
しかしかれが軍人であるなら、その恐怖心はかれ個人の胸の中に閉じこめておく作業をすべきであった。恐怖心のつよい性格であることは、軍人としてかならずしも不名誉なことではなく、古来名将やすぐれた作戦家といわれる人物にむしろこの性格のもちぬしが多い。人間の智恵は勇猛な性格からうまれるよりも、恐怖心のつよい性格からうまれることが多いのである。が、古今の名将といわれる人物は、それを自分の胸中に閉じこめ、身辺の部下にさえ知られぬようにした。それが統帥の秘訣であるであろう。


P.332
軍隊のおもしろさは、自分の将が神秘的なほどの名将であるということをつねに望んでいるし、もしそうだとわかればほとんど宗教的な信仰ともちたがるものであり、軍隊がそういう信仰でかたまったとき、統帥ははじめて成功する。


P.361
「この第七師団で二百三高地攻撃をやろう」
というのが、乃木軍司令部の考えであった。
同司令部はおどろくべきことに、二百三高地が以前と一変して大要塞になっているということを知らなかった。ろくに偵察もしていなかったのである。盲同然の司令部のもとでその鉄壁に向かわされる第七師団ほど不幸な師団はなかった。


P.368
乃木軍司令部の奇妙さは、戦史上類がないといっていいほどの無能頑迷な作戦を遂行しながら、しかもその戦況報告すらろくによこさぬことであった。大山巌を長とする満州軍総司令部は、乃木軍にとって上級司令部でありながら、乃木軍は粗末簡単な報告しかよこさない。


P.370
ドイツ仕込みの伊地知はつねにどこかドイツ軍人のにおいがあり、傲然と構えているのがそのスタイルであったが、しかしこの人物は、物事の構想がまったく立たない頭脳をもっていた。さらに他の参謀の手をかり一つの構想ができると、それが信念化してしまうところがあった。その構想を、他人の誹謗からまもるために倣岸にならざるをえず、主観的には信念化せざるをえない。
「悄然たり」
というのは、その信念もゆらいできたのであろう。軍人という職業は、敵兵を殺すよりもむしろ自分の部下を殺すことが正当化されている職業で、その職業にながくいると、この点での良心がいよいよ麻痺し、人格上の欠陥者ができあがりやすい。伊地知はそこまでなりきっていなかった証拠に、あまりにも多量の同民族を殺してゆくことが空おそろしくなってきたのにちがいなかった。それでも伊地知は、作戦担当の軍人にありがちな虚勢を張りつづけ、
「自分の作戦にまちがいはない」
と、右の大本営からの使者にもいったが、ただその顔つきはしょんぼりしている。悄然たり、とは、そういうことであった。


P.372
「小姑が東京にもいる。遼陽にもいる。こっち(乃木軍司令部)としちゃ、たまったものではない」
と、乃木軍司令部の若い参謀が、東京からの連絡将校をつかまえてぼやいたというが、このことも一面の真実はあった。乃木軍に対する指揮系統が創設のときからあいまいで、東京の大本営と満州軍総司令部の両属のようなかっこうであり、そのくせ両者に直接的な命令権がない。
―こうすればどうか。
という参考意見が言える程度であった。それが乃木軍司令部にとってはこごととしかうけとれなかった。
日本陸軍は、最初から乃木軍を大山・児玉の満州軍からきりはなして、東京の大本営の直属にすべきであったかもしれない。


P.373
―司令部が、司令部自身、自信のもてない作戦計画を実施し、習慣的に兵を殺そうとしている。
という印象を、連絡将校のたれしもがもった。東京の大本営陸軍参謀次長の長岡外史のいう、
「無益の殺生」
という表現は、小姑たちのすべての印象であった。
乃木と伊地知がやった第三回総攻撃ほど、戦史上、愚劣な作戦計画はない。あいかわらず要塞に対する玄関攻撃の方針をすてず、その作戦遂行の成否のすべてを、日本人の勇敢さのみに頼った。乃木軍司令部というのは、ただ、
「突撃せよ」
と、死を命ずるのみで、計画と判断の中枢であるという点では、まったくゼロというにひとしかった。海軍と小姑たちがやかましくいっている二百三高地については、その声があまりにやかましいために、「兵力の一部を小出しにしつつ攻撃」という、戦術上おこなうべからざる方法をもって実施した。


P.376
この不幸な白襷隊戦法ほ着想ほど、乃木軍司令部の作戦能力の貧困さをあらわしたものはなかった。
戦術上、これを突撃縦隊という。本来、突撃縦隊は奇襲のためにもちいられるべきもので、敵の搦手を不意に突くという用兵のために存在する。ところが乃木軍司令部は、これを正面攻撃に用いたのである。
敵の正面どころか、そのなかでももっとも敵が強大な防御力を集中している本街道方面をゆけ、というのである。
「この司令部はほとんど発狂の体で、これを実施しようとしたとしかおもえない」
という意味のことを、このとき兵站部にいた一将校(のちの陸軍中将佐藤清勝)が書いている。
ヒステリー体質の人間が困難から逃避しようとする場合、ヒステリー発作をおこすことがあるが、無能な軍司令部は困難の極に達したとき、もっともおろかな戦法を実施する。ヒステリーは女性に多いといわれるが、男子のなかには軍人にそれが多く、とくにヒステリー稚態といわれる症状が、この職業人に多い。幼児に類する行動を示すというのである。乃木軍司令部は、全体としてこのヒステリー稚態のなかにあったのかもしれない。


P.378
さらにはまたこのおよそ現実感にとぼしい作戦をたてた乃木軍司令部という存在は、かねて、
「司令官以下、現場を知らないのではないか」
という点で、東京の大本営や満州総軍あたりから決まり文句のように陰口をたたかれていた。この司令部にあっては参謀みずからが激戦場にとびこんで偵察するということが開戦以来一度もおこなわれていないばかりか、司令部の所在地が前線から遠すぎるという批難に対しそれをあらためようとしていなかった。当然なことながら司令部が後方にありすぎるということは、作戦に前線感覚が入りにくいということであった。


P.381
「わざわざ敵に準備させ、無用に兵を殺すだけのことではないか。いったい乃木や伊地知はどういうつもりで二十六日をえらぶのか」
ということを総長の元帥山県有朋も、次長の少将長岡外史もおもい、こんどの第三回総攻撃にあたって、この疑問だけのために東京から森邦武中佐を使者として送り、柳樹房の乃木軍司令部を訪ねさせた。これに対し伊地知参謀長が返答したのは、意外な理由であった。
「その理由は三つある。その一つは火薬の準備のためだ。その導火索はは一ヶ月保つ。(一ヶ月たつとカゼをひき、効力がうすれる)。だから前回の攻撃から一ヶ月目になるのだ」
という科学性にとぼしく、しかも戦術配慮皆無の理由がひとつ。 「つぎに、南山を攻撃して突破した日が、二十六日だった。縁起がいい」
さらにいう。
「三つ目は、二十六という数字は偶数で、割りきれる。つまり要塞を割ることができる」
乃木も横で、大いにうなずいた。この程度の頭脳が、旅順の近代要塞を攻めているのである。
兵も死ぬであろう。






5巻

P.7
ついでながら、日露戦争後、報告文の文飾性というのは、日本陸軍の個癖のようになったが、これは乃木の癖による影響なのかどうか、どうであろう。上級司令部に対する戦闘報告文は、化学実験の進行状態を報らせるような客観性が必要であるのに、日露戦争後の日本陸軍にあっては詩人が用いるような最大級の形容詞をつかいたがった。もっとも日露戦争中の各軍司令部の報告文は、乃木のそれのようではなかった。児玉が乃木を叱ったことがあるように、乃木のもとから来る報告では、客観的戦況がつかみがたかった。


P.10
「戦略に、政略が入ってはいけない」
という軍事学の原則を、児玉は平気で無視するのである。戦略戦術は、それのみを目的として純粋思考をおこなうべきであり、そういう意味で純度が高かるべきものだが、児玉はそうではなかった。
…略…
児玉は、純粋に作戦家であるには、あまりに大きな、つまり一国の安危を背負うという別次元の政略的課題まで背負いこんでいる立場にあった。つまり日本そのものを、児玉は背負っていた。理由は、日本が小国の貧乏世帯であるせいであった。


P.16
大山巌は、幕末から維新後十年ぐらいにかけて非常な智恵者で通った人物であったが、人の頭に立つにつれ、自分を空しくする訓練を身につけはじめ頭のさきから足のさきまで、茫洋たる風格をつくりあげてしまった人物である。海軍の東郷平八郎にもそれが共通しているところからみると、薩摩人には、総大将とはどうあるべきかという在り方が、伝統的に型としてむかしからあったのであろう。


P.23
もっとも、こんどの総攻撃において、二百三高地は副次的に攻めてはいた。が、要塞攻撃というのは敵の一弱点に味方の全力を集中していわゆる「穿貫突破」すべきものであり、副次的な攻撃という考え方は本来ありえない。副次的にそして兵力を小出しにして攻撃するほど無益な殺生はないであろう。


P.26
戦術にとってもっとも禁物なことの一つは兵力を小出しに使用することであるが、乃木軍司令部はつねにこの戦術上の初歩的な常識について無関心であることだった。とくにいままで第一師団が担当していた二百三高地攻撃については、それが唯一の失敗の理由であった。


P.39
日本歴史は、明治になるまでのあいだ、他の歴史にくらべて庶民に対する国家の権力が重すぎたことは一度もない。後世のある種の歴史家たちは、一種の幻想をもって庶民史を権力からの被害史として書くことを好む傾向があるが、たとえば徳川幕府が自己の領地である天領に対してほどこした政治は、他の文明圏の諸国家にくらべて嗜虐的であったという証拠はなく、概括的にいえばむしろ良質な治者の態度を維持したといっていいであろう。
庶民が
「国家」
というものに参加したのは、明治政府の成立からである。近代国家になったということが庶民の生活にじかに突きささってきたのは、徴兵ということであった。国民皆兵の憲法のもとに、明治以前には戦争に駆り出されることのなかった庶民が、兵士になった。近代国家というものは「近代」という言葉の幻覚によって国民にかならずしも福祉をのみ与えるものではなく、戦場での死をも強制するものであった。
…略…
が、明治の庶民にとってこのことがさほどの苦痛ではなく、ときにはその重圧が甘美でさえあったのは、明治国家は日本の庶民が国家というものにはじめて参加しえた集団的感動の時代であり、いわば国家そのものが強烈な宗教的対象であったからであった。二百三高地における日本軍兵士の驚嘆すべき勇敢さの基調には、そういう歴史的精神と事情が波打っている。


P.47
これは乃木の軍司令部や大迫の師団司令部だけの責任ではなく、日本陸軍の痼疾とでもいうべきものであった。戦略や戦術の型ができあがると、それをあたかも宗教者が教条をまもるように絶対の原理もしくは方法とし、反覆してすこしもふしぎとしない。この痼疾は日本陸軍の消滅までつづいたが、あるいはこれは陸軍の痼疾というものではなく、民族性のふかい場所にひそんでいる何かがそうさせるのかもしれなかった。


P.57
「田中、軍人は階級があがるほどにモウロクしてくる理由を知っているか」
田中は意外な話題に、存じません、と答えると、児玉は、マッチをすることまで部下が介添えするからよ、おれは陸軍大臣になっても自分の身のまわりのことは自分でやる、といった。なるほどそういえば、児玉は日常の起居のなかで、まるで一兵卒のようにちまちまと自分のことをやっているようであった。
「そのかわり、貫禄は出来んがね」
くすっと笑った。起居動作のことを配下に介添えさせてさえいれば自然に王侯のような貫禄ができる、と児玉はいった。しかしそんな貫禄はでくのぼうの貫禄で、すくなくとも参謀には不必要だ、というのである。


P.94
ところが児玉にいわせれば、
(専門家のいうことをきいて戦術の基礎をたてれば、とんでもないことになりがちだ)
ということであった。専門家といっても、この当時の日本の専門家は、外国知識の翻訳者にすぎず、追随者のかなしさで、意外な着想を思いつくというところまで、知識と精神のゆとりをもっていない。児玉は過去に何度も経験したが、専門家にきくと、十中八九、
「それはできません」
という答えを受けた。かれらの思考範囲が、いかに狭いかを、児玉は痛感していた。児玉はかつての参謀本部で、
「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」
とどなったことがある。専門知識というのは、ゆらい保守的なものであった。児玉は、そのことをよく知っていた。


P.95
さらには、乃木軍の司令部幕僚は、その幕僚としての領域を犯されたという、官僚独特のグループ意識が、児玉のこの不合理な闖入に反撥していた。


P.98
「陛下の赤子を、無為無能の作戦によっていたずらに死なせてきたのはたれか。これ以上、兵の命を無益にうしなわせぬよう、わしは作戦転換を望んでいるのだ。援護射撃は、なるほど玉石ともに砕くだろう。が、その場合の人命の損失は、これ以上この作戦をつづけてゆくことによる地獄にくらべれば、はるかに軽微だ。いままでも何度か、歩兵は突撃して山上にとりついた。そのつど逆襲されて殺された。その逆襲をふせぐのだ。ふせぐ方法は、一大巨砲をもってする援護射撃以外にない。援護射撃は危険だからやめるという、その手の杓子定規の考え方のためにいままでどれだけの兵が死んできたか」


P.99
「ここ軍司令部にあっては、参謀がこの柳樹房の司令部を離れることを不利とする考えがあるという」
伊地知が、攻囲戦開始以来、そういう方針をとってきた。若い参謀たちのなかには、戦闘惨烈の現場まで偵察に行きたいと言いだす者があったが、伊地知は、
―参謀には参謀の仕事がある。戦闘の惨況をみれば、かえって作戦に曇りが生ずる。
という奇妙な説をもって、それを禁じてきた。軍司令官の乃木もまたこれにひきずられ、歩兵の突撃用の壕のある第一線までは行っていないのである。乃木軍司令部の作戦と命令が、事ごとに実情と食いちがいを生ずるのは、ひとつはここにあった。児玉はそれを痛烈に指摘し、
「第一線の状況に暗い参謀は、物の用に立たない」
と、切るようにいった。


P.106
やがて、師団参謀の書きまちがいであることがわかった。書きまちがいというより、その参謀が、現地を知っていない証拠であった。現地からの報告だけを基礎に参謀はそれを机上で組み立てて作戦計画を練っているということが、これだけでも明白であった。軍司令部にせよ師団司令部にせよ、この戦いを連戦連敗させている主たる原因はここにあった。そのことは、児玉は繰りかえし指摘してきた。
それだけに、地図をのぞきこんでいる児玉の怒りはすさまじかった。
(この連中が人を殺してきたのだ)
とおもうと、次の行動が、常軌を逸した。かれは地図のむこうにいる少佐参謀におどりかかるなり、その金色燦然たる参謀懸章をつかむや、力まかせにひきちぎった。
「貴官の目は、どこについている」
とどなった。つぎの言葉が、長くつたえられた。
「国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない」


P.107
少佐参謀はそれへのぞきこんだが、やがて理由がわかったらしく顔をあげたが、しかしこの地図の粗漏さに恐れ入っているような表情ではない。児玉の怒りがどの程度であるかを窺うべく、自分の表情をわざと鈍くした。官僚としての自己防衛の心理のつよさは、参謀軍人の通弊ともいうべきものであった。
…略…
他の参謀も、児玉のこの処置を決して愉快とは思っていなかった。参謀が、第一線の突撃部隊の線までゆく必要があるだろうか。児玉は、この無言の問いを、すばやく感じた。
「参謀は、状況把握のために必要とあれば敵の堡塁まで乗りこんでゆけ。机上の空案のために無益の死を遂げる人間のことを考えてみろ」


P.109
死んでいる者、生きて動いている者がよくみえた。山頂の一角をなおも死守している百人足らずの兵の姿が、児玉には感動的であった。かれらは高等司令部から捨てられたようなかたちで、しかもそれを恨まずに死闘をくりかえしている。
「あれを見て、心を動かさぬやつは人間ではない」
と、児玉は横の福島にいった。参謀なら、心を動かして同時に頭を動かすべきであろう。処置についてのプランが湧くはずであった。頭の良否ではない。心の良否だ、と児玉はおもった。
そう思ったために、かれの有名な怒声の場面が、そのつぎに炸裂するのである。
なぜなら、ぞろぞろあがってきた師団長や参謀たちは、なにか義務的にこの上まで登らされたように、ぼんやりしている。
(たれも責任を感じてはいない!)
と、児玉はおもった。責任を感じているならこの場でもすぐ処置があるべきであった。ところがみな見学者のように無責任な顔をしている。


P.118
児玉にすれば、そもそもこの乃木軍による旅順要塞攻撃は海軍側からの要請によるものであった。その海軍の要請というのは、港内にひっこんで外洋へ出ないロシア旅順艦隊に手こずったあげく、陸上からの要塞占領を陸軍に依頼した、ということなのである。その後、乃木軍はこのために大苦戦をせねばならなかったが、その目的はあくまでも単純であった。港内の軍艦を沈めれば足りる。沈めてしまえば、東郷艦隊は封鎖を解き、佐世保に帰って艦艇の修理をし、きたるべきバルチック艦隊にそなえることができるのである。


P.122
児玉は大山の命により、一時期、乃木から指揮権を奪った。その秘事を現地において知っているのは乃木と軍司令部参謀だけであった。東京では山県参謀総長と長岡同次長だけが知っている。部外に洩らすべからざるものであり、すべては第三軍司令官男爵乃木希典の功績にすべきものであった。でなければ、今後陸軍の統帥権の問題において、この児玉のやったことは、すさまじい悪例をのこすであろう。


P.232
このクリミア戦争は、ロシア一国を相手に英と仏それにサルジニアがトルコを応援して連合軍を組織して戦った戦争だが、連合国の側の政情なり政略なりが入り組んで、政治が戦争を強力にコントロールしてゆくところがにぶかったために、どちらに勝敗があるともなく長びき、しかも双方死傷がぼう大な数字にのぼったという特徴がある。戦争は政治がおこなう最大の罪悪であるとはいえ、その罪悪を単に罪悪にとどめず、いっそうに退廃させるものもまた政治であろう。日露戦争にあって、日本側の戦争が小気味よく進行されて行ったのは、ロシア側のそれよりも政治の理念と指導性が明快であったということがいえるであろう。


P.235
アジア人は数字と記録に鈍感であるが、ヨーロッパ人は物事を数量的にとらえることをこのみ、歴史のなかにおける数字の記録をこのんだ。ロシア人もヨーロッパ人である以上、この習慣の外にいるわけではない。


P.239
軍隊心理からいって、戦闘中の軍隊で部下の信望を得るという原理は、ごく単純であった。もっともよく戦う指揮官であればいいというだけである。よくとは、勇敢でしかも的確な判断力をもち、戦闘を遂行する以外に余分の感情をもたないという条件が不可欠であった。
兵士というのは、ただ命令されるだけの可憐な集団だが、受身の立場であるだけに自分たちを死地に連れてゆく指揮官がどの程度の質のものであるかを見ぬく嗅覚は、ほとんど動物本能のようにして持っている。
しかもかれらがつねに望んでいるのは、よき戦闘者としての指揮官であった。その命令に従ってゆくだけでその前途に勝利があるという信仰をもちうる指揮官であり、そういう場合、戦闘がいかに惨烈の極所に立ちいたっても、兵士たちは十分に堪えてゆく。が、逆の場合、その指揮官がいかに兵士たちに媚を売り、おだて、たくみな演説をしようとも、かれらは決して鼓舞されることはなく、その指揮官への軽蔑を深めるだけのものであった。


P.240
無能な指揮官が、その無能を隠蔽するために、みずから風紀係になったように軍旗風紀のことばかりをやかましくいう例は軍隊社会にふんだんに見られるが、ステッセルもそうであった。かれはまるで儀仗兵の指揮官のように行儀をやかましく言い、砲台にチリ一つ落ちていても兵士を怒鳴りつけ、なによりも軍隊における荘重美を好んだ。このあたり、バルチック艦隊のロジェストウェンスキーに酷似しているであろう。
…略…
それにくらべてステッセルは、より女性的であったといっていい。戦前から旅順の社交界の中心人物であったかれは、社交の友を欲し、幕僚のうちでも自分におべっかする者を偏愛し、その献言をつねに採用した。このためステッセルのまわりはそういうふんいきが充満し、愚者のサロンというほどではないにしても、智者や勇者の意見が素直に通るような空気ではなかった。
…略…
サロン風という点でいえば、かれのその部分は、病的なまでに領域意識がつよすぎることであった。秩序好きの性格というのは、えてして動物的な領分意識の患者である。かれは旅順にあって、海軍と張り合った。


P.259
「降伏」
とは、むろんいわない。ある意味では「降伏」ということを打ち出すにはよほどの勇気を要する。そういう勇気がステッセルにないことは、レイスも知っている。ステッセルがねがっている案は、
―よく戦った。
という印象を本国政府に思わせつつ、しかもやがては降伏にもちこむ。でありながら「降伏もやむなし」といううわべだけの戦闘経過をつくりあげようというものであり、レイスはステッセルのよき幕僚としてその意を迎える案を考え出していた。というような案をつくるレイスの意識はあくまでも対内的であり、目の前に日本軍はなく、ステッセルだけがあった。ステッセルもまた本国政府の方向にのみ顔をむけている。帝政末期のロシア陸軍の悪弊が、こういう場合でさえ露出していた。


P.312
この時期、たしかにロシア本国は迷いに迷っていた。
「よびもどすべきである」
という意見もあり、その理由も十分説得力をもっている。しかし秩序の老朽化した軍事国家の軍事官僚というものは、国家を救おうとする気持ちよりもむしろ保身への配慮のほうをつねに重んじがちで、そういういわば軍人としては消極的な発言をすることによっておのれが自滅することをおそれ、他の表現でそれをいうか、もしくは蔭でそれを言うにとどまった。公式の場では、つねに粗大で勇ましい意見が勝ち、
「日本艦隊を過大視することはない」
という意見がまかり通っていた。


P.329
が、戦争は相手のある動的なものであり、極端にいえば味方の欠陥と敵の欠陥の搗きあわせでこねあがってゆくものである以上、完全主義は本国の参謀本部で考えるべきものであり、現場の総司令官としては敵を崩す為のより現実的な作戦をその場その場で考えてゆかねばならない。


P.336
結局はどちらが非というよりも、ロシア陸軍というものが兵力世界一という雄大さをほこりつつ、ここまで官僚化し、秩序がぼろぼろになっていたことがむしろ問題であったであろう。


P.337
これらヨーロッパ経由の諜報に対する日本の満州軍総司令部の鈍感さは、おどろくべきものがあった。
「ロシア軍が攻勢に出るなど、そんなばかなことがあるか」
という態度で終始した。
「この厳寒時に、大兵力の運動はとてもおこなえるものではない」
というのが、その唯一の理由であった。
この態度は、参謀松川敏胤大佐が最初からとりつづけていたもので、児玉源太郎はこの松川の能力を信頼するところが深く、
「そのとおりだろう」
と、かれもまたそう信じた。


P.338
戦術家が、自由であるべき想像力を一個の固定観念でみずからしばりつけるということはもっとも警戒すべきことであったが、長期にわたった作戦指導の疲労からか、それとも情報軽視という日本陸軍のその後の遺伝的欠陥がこのころすでに芽ばえはじめていたのか、あとから考えても彼ら一団が共有したこの固定概念の存在は不思議である。


P.339
と、松川敏胤は考えていた。
児玉も同意している。
同意しただけでなく、いったんこの固定概念をつくりあげると、牢乎としてそれを動かさず、その概念を通してしか物事を見ないために、それに反するどういう情報が入っても、
「馬鹿をいうな」
と、拒絶反応のみを示した。


P.341
その理由のひとつは松川たちの疲労にもよるであろうが、ひとつには常勝軍のおごりが生じはじめたためであろう。かつてはかれらは強大なロシア軍に対し、勝利を得ないまでも大敗だけはすまいと小心に緊張しつづけたころは、針の落ちる音でも耳を澄ますところがあったが、連戦連勝をかさねたために傲りが生じ、心が粗大になり、自然、自分がつくりあげた「敵」についての概念に適わない情報には耳を傾けなくなっていたのである。
日本軍の最大の危機はむしろこのときにあったであろう。


P.345
総司令部は、総参謀長児玉源太郎以下、
「ロシア軍は冬季には活動しない」
という、根拠あいまいな、それだけに信念化してしまったような固定概念にとりつかれてしまっていたのである。のちにひきおこされる黒溝台の惨戦は、その初動期においてすでにそのような運命にのめりこむべく日本軍は置かれていた。


P.366
日本陸軍の保守的性格は、のちの航空機や戦車についても積極的でなかったように、ほとんど体質的なまでのものであるということは、かつて触れた。


P.368
日露戦争の指導原理そのものが、児玉源太郎の開戦直前のことばにあるように、
「勝敗はやっと五分々々である。それを、戦略戦術に苦心してなんとか六分四分にもってゆきたい」
という、いわば勝つよりも負けないように持ってゆくということが、全軍の作戦思想をつらぬいている原則のようなものであった。
このために、用兵上の賭博性をできるだけすくなくした。一軍を、ただ作戦上の痛快さを満足させるための、もしくはある種の政治目的のための賭場に投ずるという、その後の日本陸軍の精神病理学的な性癖(たとえばシベリア出兵、ノモンハン事件、インパール作戦)といったふうな傾向は、まったくなかった。


P.374
敵情を誇大にみるというのはロシア軍の通弊であり、逆に過小にみるというのは日本軍の通弊であった。






6巻

P.16
日本人には、元来防御の思想と技術がとぼしい。
日本戦史はほんの数例をのぞいては、進撃作戦の歴史であった。
防御戦における成功の最大の例として、戦国末期、織田信長の軍団を数年にわたってささえつづけた石山本願寺(いまの大阪城付近)のそれが存在する。本願寺は戦闘では最後まで戦闘力を失わずに戦勢をもちこたえたが、結局は外界の外交事情が不利になり、和睦した。
このいわゆる石山合戦の場合でも、防御戦のための工学的な配慮や物理力が存在したわけではなく、物理力といえば、
「堀一重、堀ひとめぐり」
というかぼそいものであった。この合戦の本願寺側の防御力をささえたものは、門徒たちの信仰の力しかない。この点、徳川初期の島原ノ乱におけるキリシタン一揆もおなじ事情である。
日本人のものの考え方は、大陸内での国家でなかったせいか、物理的な力で防御力を構築してゆくというところにとぼしく、その唯一の例は秀吉の大坂城くらいのものかもしれない。秀吉はかつて自分が属した織田軍団が、あれほど石山本願寺の防御力に手こずったことを思い、おなじ石山の地に大阪城という一大要塞を構築したが、その規模の大きさは城内に十万以上の兵士を収容できるもので、それ以前の日本史ではとびぬけたものであった。
しかし結局は大阪夏ノ陣において、家康の野戦軍のために陥ちた。物理的な構造物が存在しても、防御戦というきわめて心理的な諸条件を必要とする至難な戦いをするには、民族的性格がそれにむいていないからであろう。


P.35
戦後も、
「あんなことはいかんのじゃ」
と、黒溝台の戦術検討をするときにつねにいった。ロシア軍を二つに割ったほどの大軍がきているときに、小細工をたのしむような戦術が通用するはずがない、ということであった。作戦立案者のそういう精神そのものがよくない、という。


P.41
「日本の総司令部は、兵力不足のために兵力の出し吝しみをし、その結果、兵力の逐次投入という戦術上の初歩的な禁忌をおかしてしまった」
と、述べたが、それだけではなく、総司令部の敵情判断の根底には抜きがたい甘さがなお横たわっていた。
「ばかに敵は多いらしい」
と、児玉さえ、第八師団を派遣したあとさらに第五師団の全力を急派したあとも、そうおもっていた。
が、戦後、このときやってきたロシア軍はなんとその全兵力の半分であったことを知り、
「あれでよく支えることができたものだ」
と、参謀たちは溜め息をついた。


P.59
兵力の逐次投入という禁忌が、やぶられつづけた。傑出した作戦家であったはずの児玉源太郎の作戦能力がもっとも低下したのはこの時期であっただろう。その理由は、最初のつまずきにあった。最初、敵情を過小にみすぎた。それが、ここまで過誤を大きくした。


P.59
作戦の目的は、一つである。
これだけの兵力にふくれあがった作戦部隊は、当然一人の指揮下におかれねばならない。
「これを臨時立見軍とす」
として、立見尚文中将をして臨時の軍司令官職をとらしめたのは、二十八日になってからである。
…略…
ところが、この、
「臨時立見軍」
の師団長の立見尚文は中将であった。
ここで不都合のことがおこったのは、立見尚文の「臨時立見軍」の麾下に入った師団長(中将)たちのうち、立見よりも年次のふるい中将がいた。
…略…
あるいは非は総司令部の処置のほうにあるかもしれない。
…略…
立見は、黒溝台にちかい古城子の師団司令部にいる。立見自身が前後左右の敵と戦うのがやっとであり、他師団にさしずをしているような余裕がなく、さらにはそれをやるだけの電話、伝令といった通信機能をもっていない。あるいは、
「軍」
を運営するには、軍司令部に戦場諜報のための機能をもっていなければならないが、師団司令部でしかない立見の機能はそれらを持っておらず、全般の敵情などわかるはずがない。敵情もわからずに、何個師団といった大軍をうごかすことはできないのである。


P.65
が、歴史というものは、歴史そのものが一個のジャーナリズムである面をもっている。立見尚文は東北のいろり端でこそ「軍神」であったが、他の地方ではほとんど知られていない。
突如妙なことをいうようだが、林屋辰三郎氏の表現を拝借すると、歴史上の人物で宣伝機関をもっていたひとが高名になる。義経は「義経記」をもち、楠木正成は「太平記」をもち、豊臣秀吉は「太閤記」をもつことによって、後世のひとびとの口に膾炙した。旅順における乃木希典は、最後の一時期にいたるまでは史上類のない敗将であり、その不幸な能力によって日本そのものを滅亡寸前にまで追いつめたひとであったが、戦後、伯爵にのぼり、貴族でありながら納豆売りの少年などに憐憫をかけるという、明治人にとって一大感動をよぶ美談によって浪曲や講釈の好材になり、ああたかも「義経記」における義経に似たような幸運をもつことができた。


P.78
ロシアは日本のように憲法をもたず、国会をもたず、その専制皇帝は中世そのままの帝権をもち、国内にいかなる合法的批判機関ももたなかった。
「専制国家はほろびる」
というただ一つの理由をもって、この戦争の勝敗の予想において日本の勝利のほうに賭けたのは、アメリカ合衆国の大統領セオドル・ルーズヴェルトであった。
その理由は、簡単である。
二流もしくは三流の人物(皇帝)に絶対権力をもたせるのが、専制国家である。その人物が、英雄的自己肥大の妄想をもつとき、何人といえどもそれにブレーキをかけることができない。制度上の制御装置をもたないのである。
ロシア帝国は、立憲国家である日本帝国と同様、内閣はもっていた。しかし日本の内閣とはちがい、独裁皇帝の輔佐機関、もしくは厳密には側近であるにすぎない。
ロシアのすべての官吏、軍人は、その背後におそるべき猛火を感じ、その火に背をあぶられている思いをもっていた。猛火とは独裁皇帝とその側近のことであり、独裁体制下の吏僚の共通心理として、敵と戦うよりもつねに背後に気をつかい、ときにはクロパトキン大将のごとく、眼前の日本軍に利益をあたえてもなお政敵のグリッペンベルグ大将を失敗させることに努力し、その努力目標を達した。セオドル・ルーズヴェルトのいう「専制国家が勝つはずがない」という理論は、そういう戦場現象にまで適用することができる。


P.79
なぜ、皇帝ニコライ二世が、
「かの猿を懲らしむべし」
として発航せしめたロジェストウェンスキーとその艦隊をして、二ヶ月という長期間、マダガスカル島の漁港で足ぶみさせていたのか。
その基本的理由は右にふれたとおりだろう。それに付属する理由として、この時期「タイムズ」(ロンドン)がしばしば論評しているように、
「ロシアの行政組織の陋劣さ」
にある。
陋劣といっても、なお抽象的であるかもしれない。陋劣とは行政組織の機能性がひくいということもあり、さらには官僚の怠慢、無責任ということもあるかもしれない。


P.87
もともと戦争というのは、
「勝つ」
ということを目的にする以上、勝つべき態勢をととのえるのが当然の事であり、ナポレオンもつねにそれをおこない、日本の織田信長もつねにそれをおこなった。ただ敵よりも二倍以上の兵力を集中するということが英雄的事業というものの内容の九割以上を占めるものであり、それを可能にするためには外交をもって敵をだまして時間をかせぎ、あるいは第三勢力に甘い餌をあたえて同盟へひきずりこむなどの政治的苦心をしなければならない。そのあとおこなわれる戦闘というのは、単にその結果にすぎない。
こういう思想は、日本にあっては戦国期でこそ常識であったが、その後江戸期にいたって衰弱し、勝つか負けるかというつめたい計算式よりも、むしろ壮烈さのほうを愛するという不健康な思想―将帥にとって―が発展した。
江戸期という、世界にも類のない長期の平和時代は、徳川幕府独特の治安原理の上で成立している。体制原理によって、幕府は諸大名以下庶民にいたるまで競争の精神を奪った。このことが江戸期日本人全体から軍事についての感覚の鋭敏さをうしなわしめたということがいえるであろう。

その屈折した結果として、江戸期の士民を感動させた軍談は、ことごとく少人数をもって大軍をふせいだか、もしくは破ったという奇術的な名将譚であり、これによって源義経が愛され、楠木正成に対しては神秘的な畏敬をいだいた。絶望的な籠城戦をあえてやってしかも滅んだ豊臣秀頼の、大坂ノ陣は、登場人物を仮名にすることによって多くの芝居がつくられ、真田幸村や後藤又兵衛たちが国民的英雄になった。その行為の目的が勝敗にあるのではなく壮烈な美にあるために、江戸泰平の庶民の心を打ったのであろう。この精神は昭和期までつづく。


P.114
考えてみれば、ロシア帝国は負けるべくして負けようとしている。
その最大の理由―原理というべきか―が、制度上の健康な批判機関をもたない独裁皇帝とその側近で構成されたおそるべき帝政にあるといっていい。
この帝国は皇帝の気分とその気分に便乗する側近たちによって極東侵略政策をおこし、反対者であったウィッテらを追放し、ついに日本を戦争へ挑発した。このため勝つための計画などはすこしもない。
「すこしも」
というつよい言葉をつかったのは、日本の準備がロシアとかけはなれて計画的であったからである。立憲国家である日本は、錬度は不十分ながら国会をもち、責任内閣をもつという点で、その国家運営の原理は当然理性が主要素になっている。ならざるをえない体制をもっていた。
陸海軍も、その後のいわゆる軍閥のように「統帥権」をてこにして立憲体制の空洞化をくわだてるような気配はすこしもなく、統帥上は天皇の軍隊ということでありながら、これはあくまでも形而上的精神の世界とし、その運営はあくまでも国会から付託されているという道理がすこしもくずれていなかった。この点、ロシアと比較してみごとに対蹠的であるといっていい。


P.124
例の黒溝台戦の前ぶれになったミシチェンコ騎兵団の機動や、グリッペンベルグの大攻勢の準備なども、ロンドンでいちはやく知ることができた。このことはすでに触れたがロンドンの日本公使館の駐在武官である宇都宮太郎中佐がつかんだ情報であり、宇都宮はこれをいちはやく東京に報じた。満州の現地軍は、この情報が世界を一周して東京経由で戦場にきたことに多少の違和感をもった。その違和感が、
「まさか」
という態度をもたせ、黙殺させる結果になった。もっともこれを黙殺した総司令部参謀の松川敏胤大佐にも、多少弁解の理由がないでもなかった。「ロシア軍の大攻勢」という予兆が、現地にあっては秋山好古から騎兵情報が来るのみで、福島安正少将が統轄する戦場諜報網のほうにはひっかかって来なかったのである。
「現地の諜報と一致しない」
と、松川はそれで黙殺した。この点にかぎっていえば、この時期、戦場諜報よりも国際諜報のほうにすぐれていたといえるであろう。


P.189
明石はさらに、ロシアの亡国のキザシとして官界の腐敗と汚職をあげている。
「すでにヨーロッパでは定評がある」
といっているが、この面で明石がしきりにおどろいているのは、日露戦争時代の日本の官界にはこの病弊はまったくなかったからであった。
…略…
ロシア海軍は汚職の府であるといわれていたが、かれはそこから砲弾や食糧をひきずりだすのに、担当官をおどしあげ、どなりつけ、ほとんど強奪同然のかたちでそれらをととのえねばならなかったという。戦時下における海軍省でさえこうであったから、他の役所の状態は推してしるべしであろう。


P.199
多くの革命は、政権の腐敗に対する怒りと正義の情熱の持続によって成立するが、革命が成立したとき、それらはすべて不要か、もしくは害毒になる。革命の火をもやした正義の人も情熱のひとも、革命権力の中枢を握った集団から排除され、最大の悪罵をもって追われ、殺され、権力者が書かせる革命史においても抹殺されるか、ロシア革命におけるトロツキーのように奸物としてしか書かれない。
人間に正義の心が存在する以上、革命の衝動はなくならないであろう。しかしながら、その衝動は革命騒ぎはおこせても、革命が成功したあとでは通用しない。そのあとは権力を構成してゆくためのマキャベリズム(権謀術数)と見せかけの正義だけが必要であり、ほんものの正義はむしろ害悪となる。


P.203
この見出しをみれば、当時の日本の新聞記者というものがいかに国際感覚に欠けていたかわかるであろう。まず、
「突如」
ということはこの当時のロシアの革命気運にかぎってありえない。もし日本がヨーロッパ的水準の国ならば、日露戦争開戦前後に、新聞記者がロシアの政情と社会について多くの情報とその分析を提供しておくべきであった。しかし日本の新聞社はまだ海外派遣員をおくほど財政的ゆとりをもっていなかった。それにしても敵国の状態について不勉強すぎるであろう。


P.204
帝政ロシアの皇帝制と明治日本の天皇制を同性質のものとしてとらえる把え方の無知については、この明治三十八年一月二十五日付の記事の見出しをつけた編集者をわらうことができない。その後、昭和期にいたり、さらにこんにちなお、一部の社会科学者や古典的左翼や右翼運動家のなかに継承されているのである。


P.205
新聞の水準は、その国の民度と国力の反映であろう。要するに日本では軍隊こそ近代的に整備したが、民衆が国際的常識においてまったく欠けていたという点で、なまなかな植民地の住民よりもはるかに後進的であった。
ロシアの革命勢力の徒に対し、
「不忠者」
と呼ばわらんばかりの見出しを、ロシアの敵国の新聞がつける滑稽さはどうであろう。要するに、この当時の日本人は、ロシアの実情などはなにも知らずに、この民族的戦争を戦っていたのである。


P.206
ついでながら、この不幸は戦後にもつづく。
戦後も、日本の新聞は、
―ロシアはなぜ負けたか。
という冷静な分析を一行たりとものせなかった。のせることを思いつきもしなかった。
かえらぬことだが、もし日本の新聞が、日露戦争の戦後、その総決算をする意味で、
「ロシア帝国の敗因」
といったぐあいの続きものを連載するとすれば、その結論は、「ロシア帝国は負けるべくして負けた」ということになるか、「ロシア帝国は日本に負けたというよりみずからの悪体制にみずからが負けた」ということになるであろう。
もしそういう冷静な分析がおこなわれて国民にそれを知らしめるとすれば、日露戦争後に日本におこった神秘主義的国家観からきた日本軍隊の絶対的優越性といった迷信が発生せずに済んだか、たとえ発生してもそういう神秘主義に対して国民は多少なりとも免疫性をもちえたかもしれない。


P.207
ロシアの都市労働者のすべてが革命化していたわけではない。
すべてという点では、都市労働者のすべてが憤りをもっていたのは、政府の無能についてであった。この時期のロシア政府の機構の非効率と官吏の慢性的な怠惰というものは、ほとんど西欧的感覚では信じがたいほどのものであった。


P.232
兵が弱かったのではなく、戦術上の光明を見出しえない絶望的な状況のもとにあっては、どの国の兵士でも身をすくませてしまうものであり、勇気の問題ではなかった。兵をこういう救いのない状況下に進んでたたきこみ、あとは兵の熱狂のみに期待するというのは、高級司令部としてとるべき態度ではなかった。フォークのいうような、
―もう一段の勇気があれば。
というのは、実際に銃をとらない者の現実ばなれした空想にすぎないであろう。


P.238
その翌十五日、総司令部から人事に関する電報がきて、乃木軍司令部の大異動がおこなわれた。
旧参謀のほとんど全員が転出するというさわぎで、結局は旅順攻撃の作戦と指導上の責任を問われたものであった。
乃木希典は、軍司令官の地位にとどまった。軍参謀長の伊地知幸介は旅順要塞司令官という閑職にまわされた。
参謀副長の大庭中佐と白井中佐はいったん大本営(東京)付ということになり、後命を待つかたちになった。


P.251
乃木はその点、あくまでも憑いていない男であった。かれにあたえられた最初の参謀長はたれもが唖然とするほどにその任にふさわしくない男であったし、つぎに総司令部がやった乃木軍司令部の大異動でやってきた小泉正保は、まだ一発の弾もうたず、敵の顔も見ず、集結地にすらついていない汽車のなかで墜落事故をおこしてしまった。


P.257
乃木はこの松永の懇願を容れたようにたしかに仁者であり、武士の情に動かされるという点では美的行動者であったが、しかし半面、これを容れたことが証拠だてているように、戦争をどれだけ損害すくなく勝利へ運営してゆくかということについて、どこか神経の欠落したところがあった。


P.260
なにしろこの国の国民が、超歴史的な貧窮の代償としてつくりあげた艦艇が海軍にまかせられている。それによって勝利をうけあうというのが、いわば国民と海軍とのあいだに成立している自然な黙契のようなものであり、海軍としては国民が知りたがっていることを、作戦の機密に属することをのぞいてはできるだけ知らせるという気分をもっていた。


P.286
ニコライ二世でさえ、観念的には終始国民のことを考えているように、ロジェストウェンスキーも、かれ自身の観念のなかでは水兵の給与とか休養とかといったいわば優しい心づかいでいっぱいであり、こういう点では申しぶんないように思われるが、それだけに逆にいえばかれにとって全水兵が敵であり、全艦隊が憎悪の対象であるという矛盾が、矛盾でなくて自然に成立しているのである。清廉でそして無能で、さらには不幸にも艦隊をよくすることのみを考えている強烈な善意の専制者には共通した性格であった。


P.290
その流説の山を海へ掃きだしてしまう仕事はロジェストウェンスキーのみがやりうる仕事だったし、かれにそれを考慮させるのが幕僚の役目でもあった。
しかしあらゆる専制がそうであるように、幕僚たちは専制者の機嫌をおそれて意見具申しないのである。
水兵たちは、支配される者の敏感さで、これらの機微や事情を知っていたから、高級仕官をばかにするようになった。


P.314
いずれにせよ、
「戦争による財政的滅亡」
という危機感が最初からあったために、日本政府がこのときほど国家運営の上で財政的感覚を鋭くしたことはそれ以前にもそれ以後にもない。このおなじ民族のおなじ国が、はるかな後年、財政的にも無謀きわまりない太平洋戦争をやったということは、ほとんど信じがたいほどであった。


P.323
乃木は、元来、上部機関に対して強い姿勢をとったことがなく、すべてあたえられた条件のなかで人事をつくすというところがあって、それが乃木の美徳にもなっていた。乃木は典型的な古武士というところがあったが、古武士とすれば、戦国期の侍大将のあつかましさはすこしもなく、むしろ江戸期の教養ある武士の典型というべきところがあった。


P.324
乃木はいつもこうであった。旅順のときも参謀長の伊地知幸介少将がなにを具申しても、「よろしかろう」とうなずくばかりで反対をしたことがなかった。旅順のころ、若い参謀たちは伊地知の独断的性格と万事杓子定規のやりかたにいやけがさして参謀軍紀ともいうべき軍司令部のふんいきが、日本の他の軍司令部にくらべてきわだってゆるんでいたが、それでも乃木はだまっていた。


P.325
しかしながらこの全野戦軍の参謀官のなかで、天才的な人物をもとめるとすれば最高位の児玉源太郎と、最下位の津野田是重だったかもしれない。しかし津野田は、日露戦争後、急速にロシア風に官僚化して行った日本陸軍のなかにあってながく棲息できなかった。かれは結局、少将で陸軍を追われた。


P.339
その目的には作戦的要素がすくない。
政治的色彩が濃厚であった。
というよりも、戦争をもって一個の国家商売にしようとする思想が、日本軍部のなかではじめて濃厚にあらわれてきた最初の現象といえるかもしれない。


P.341
児玉のことばはほぼ正確につたわっている。
「戦ヲハジメタ者ニハ、戦争ヲヤメル技倆ガナクテハナラヌ。コノビンボウ国ガ、コレ以上戦争ヲツヅケテ何ニナルカ」
と、ウラジオ攻撃案を一言で蹴ってしまった。


P.341
長岡という男は所詮は軍人というよりも壮士で、国力というものや国際環境の計算というものが生涯できなかった。
…略…いずれにせよ、後年の陸軍に国家膨張についての粗大な壮士的気分が伝統としてつづくその元祖的位置に、この長岡が存在するということがあるいはいえるかもしれない。


P.343
―東京はいくさを知らぬ。
と、児玉は無数の理由をあげて激怒したがそのなかに人事に関する痛烈な発言があった。
「まだ座敷で人事をしておるか」
ということであった。川村は薩摩人である。川村の上司になるのが、韓国駐剳(※左側は「答」)軍という戦闘とは直接関係のない政略的軍隊の軍司令官である長谷川好道だが、これは長州人であった。この国家存亡のときにおいてなお、東京の感覚は、薩長両閥の人事上のバランスをとることのみ考えていることに、児玉は憤慨したのである。児玉は長州人であったが、しかしこの精神の風通しのよさそうな男は、藩閥という意識世界から突きぬけてしまっているところがあった。


P.344
川村は無学な男であったが、文久三年、薩摩藩と英国艦隊とが戦ったとき、少年兵として出陣して以来、明治の日本が経験したありとあらゆる戦争に出ている。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、佐賀ノ乱、西南ノ役、日清戦争といったぐあいに、焔(※「旧」部は「臼」)硝のなかからうまれてきたような男だけに、
「作戦目的というのは一行か二行の文章で足りるのだ。るる説明してもなおわからないような作戦目的というのは、もうそれだけでろくなものではない」
と、ひそかに決するところがあった。






第7巻

P.10
…しかしながら専制国家の官僚というのは、国家へもたらす利益よりも自分の官僚的立場についての配慮のみで自分の行動を決定する。


P.23
ただし、クロパトキンもそれを露骨にはいえない。この処世上の秀才は、軍司令官たちに実情を説明することによって、軍司令官たちの側から、
―それじゃ中止しましょう。
という声が出るのを待ったのである。それによって責任を回避できるし、あとでペテルブルグの宮廷からなにごとか言われたばあい、あのときは軍司令官たちの意向もこうだったから、と言いのがれすることもできる。


P.29
しかし、
「作戦中止」
とまでは、クロパトキンは言いきれない。多少の尾ヒレをつけておく必要があった。それはロシア帝国のためではなく、かれ自身の官僚的立場をまもるためであり、もし後日、ロシアの宮廷からかれの弱腰を衝かれた場合、それを言いのがれるための配慮だけはしておかねばならなかった。
要するに、かれはその配慮による作戦だけを用意する。それによって兵を死なしめるのだが、専制者(皇帝)が支配する国家の兵というのは、つねにそういうものであった。独裁者の機嫌を損じまいとする官僚たちの保身のために兵たちは死なねばならず、死んでもむろん、そういう国家の兵士である以上、その死は当然な死であり、さらには皇帝と表裏一つになっているギリシャ正教の宗教的権威がかれらを天国へ送りとどけてくれることだけはたっぷり保証されていた。


P.40
(またあれをやるのだ)
という兵士たちの絶望的な思いが、眼前のロシア軍陣地をもって「小旅順」ととなえしめたのであろう。日本軍の師団参謀たちの頭は開戦一年余ですでに老化し、作戦の「型」ができ、その戦闘形式はつねに「型」をくりかえすだけという運動律がうまれてしまっていた。「型」の犠牲はむろん兵士たちであった。


P.41
型といえば、元来、軍隊というのは型そのものであり、その戦闘についての思考は型そのものであった。
ついでながら型をもっとも種類多く諳記している者が参謀官になるという習慣が、日露戦争後にうまれた。日露戦争の終了後、その戦訓を参考にして作戦関係の軍隊教科書が編まれ、陸軍大学校における作戦教育もそれが基調になった。その日露戦争の型をもって滑稽なことながら太平洋戦争までやってのけるという、他のどの分野でも考えられないほどの異常さが、軍隊社会においてはむしろそれが正統であった。
「日本軍は奇妙な軍隊である。そのなかでももっとも愚かな者が参謀懸章を吊っている」
と、太平洋戦争の末期、日本軍のインパール作戦を先制的にふせいでこれを壊滅させた英軍の参謀が語っているように、軍人というのは型のどれいであり、その型というのは、その軍隊と、それが所属する国家形態がともどもにほろび去るまでほろびない。


P.45
クロパトキンが絶対権力をもっている以上、その作戦がたれの目でみても誤りであったところで、それを制限できるような制御装置がロシア軍の統帥部には構造として存在しなかった。このことはバルチック艦隊のロジェストウェンスキーにおいてもいえるし、それを国家規模に拡大してみても、ツァーリズムそのものが、そうであった。

P.66
維新後わずか三十年で各国の水準並みの技術効果をあげたいという欲求は当然ながら真似になった。世界の最優秀の技術のサンプルをことごとくあつめ、その優劣を検討しつつ国産品を生み出すやりかたである。
このやりかたは、無難でいい。
しかしながらこのやりかたの致命的な欠陥は、独創で開発するばあいとちがい、その時点における水準を凌駕することができないことであった。ときには世界の水準よりも宿命的に遅れるということがあった。例えば三十一年式野砲の場合、「世界の優秀野砲」を買い入れたのが明治二十九年なのである。以後、検討と試作の期間が要る。このようにして誕生した三十一年式が陸軍の制式野砲になったのは明治三十二年で、そのころには独自の力で技術を開発している国々にあってはもう一歩も二歩も進んでいることになり、このやりかたが、その後の日本陸軍の技術の管理方法にながくひきつがれてほとんど体質化してしまった。


P.66
村田銃といわれている陸軍の制式銃が世界的水準からいっても優位にあったのに比して、砲については技術的に劣っているというより、日本の陸軍軍人の過去およびその後の伝統ともいうべき機械力についての精神的器局の狭小さが、露骨にあらわれていた。ここでいう器局の狭小というのは、
「日本ならこの程度でよかろう」
という奇妙な自己規定をさす。自己規定がいわば日本陸軍誕生のときからの伝統的性格であった。日本陸軍は明治初年の鎮台の成立から明治十年代の前半までは外征用の軍隊としてつくられておらず、あくまでも内乱鎮定用のものであり、制度も兵数も装備も、純粋にそうであった。これが原形であるとすれば、ヨーロッパの軍隊とは原形として相違していた。やがて明治十年代のおわりごろに日本陸軍がメッケルを招聘して軍制のいっさいをドイツ式に切りかえてから「制度」が軍人の思考法を変えた。隣国のフランスを仮想敵とするという目的のものにすべてが成り立っているドイツ陸軍の方式にあっては、その制度のもとで軍人の思考が旋回するかぎり、制度と没交渉の思想がうまれるはずがなく、この時期以後、すべての軍人は意識するとせざるとにかかわらず、外征主義者になったといっていい。
かといっても、鎮台時代の思想は、機械に対する考え方として残ったといっていい。
「日本の兵器は、この程度でいい」
という無意識の規定は、日本陸軍が消滅するまでつづき、機械力の不足は精神力でおぎなおうという一種華麗で酔狂な夢想―茶道の精神美にかようような―に酔いつづけるというふしぎな伝統が属性としてこびりついてくるが、むろんこういう形而上的軍隊観は日露戦争のころには存在しない。
話がわきにそれた。要するに三十一年式野砲というこの貧しい機械をうんだ発想のもとは、鎮台から出発した日本陸軍の遺伝体質によるとしか考えられない。


P.70
が、陸軍は伝統として兵科将校が兵器技術部門に対して絶対的に優越し、新兵器や新装置が出現すると、かならず兵科将校が、「運用や操作面でそれは面白くない」と反対するのが性癖のようになっていた。


P.108
ロシア軍の敗因は、ただ一人の人間に起因している。クロパトキンの個性と能力である。
こういう現象は、古今にまれといっていい。
国家であれ、大軍団であれ、また他の集団であれ、それらが大躓きに躓くときは、その遠因近因ともに複雑で、一人や二人の高級責任者の能力や失策に帰納されてしまうような単純なものではなく、無数の原因の足し算なり掛け算からその結果がうまれている。


P.117
将師という者の世界では、かならずしも経験の古い者をもって貴しとするわけにはいかない。経験には悪しき経験と善き経験があり、そのことは古今の名将といわれる者の多くが、かならずしも百戦の経験者ではなく、むしろ素人にちかい経験のすくない者であることをおもえば、クロパトキンの経験の誇示がいかに無意味なものであるかがわかるであろう。


P.126
が、乃木軍としては、形だけをととのえねばならない。高級司令部の命令に対して、成功の見込みがないままに形式だけをととのえるという、日本軍がかつてそれをやったことがない悪しき事例がここにうまれた。


P.177
ウドサァになるための最大の資格は、もっとも有能な配下を抜擢してそれに仕事を自由にやらせ、最後に責任だけは自分がとるということであった。


P.183
児玉が閉口しきっていることは、新聞が連戦連勝をたたえ、国民が奉天の大勝に酔い、国力がすでに尽きようとしているのも知らず、 「ウラルを越えてロシアの帝都まで征くべし」
と調子のいいことをいっていることであり、さらに児玉がにがにがしく思っていることは政治家までがそういう大衆の気分に雷同していることであった。


P.190
話がかわるが、英国というのは、英国の機能そのものが一大情報組織といっていいほど、各国の情報を精力的に収集し、それを、現実認識についてはもっとも適したその国民的能力をもって分析していた。
…略…
もともと英国というのは情報によって浮上している島帝国であるといえるであろう。伝統的外交方針として、ヨーロッパを操作するにあたって、「勢力均衡」を原則とした。ヨーロッパにおける一国のみが強大になることをおそれ、その可能性がうまれた場合は、すばやく手をうち、その強国から被害を蒙るべき弱国を陰に陽に支援してきた。


P.192
しかしながら、日本は外交上の打つべき手をできるかぎり打ちつつあった。極東の孤島の上に国家をもったこの国が、そのながい歴史の上で、世界の外交界というものを相手に、舞台上であれ舞台裏であれ、懸命な活動をした最初のことであり、しかもその後これだけの努力を払った例は日本の外交史に出現していない。


P.205
ルーズヴェルトは当然なことながら日露戦争についてはアメリカの利害を中心に考えていた。
「ロシアがアジアにおいて強大にあることはアジアにおける勢力均衡がくずれることになる。まず日本によってこれを押えねばならない」
という考え方を、基調としてもっていた。
この点、日英同盟をむすんだ英国の立場とそっくりである。
日本は、道具にすぎない。
もっともそれをもって怨声を発する日本人がいるとすれば―げんにいたし、その後もその質の日露戦争観があったが―それは世界政策をもたない質的弱者(被害意識者)の立場からみたヒステリー的発想にすぎないであろう。世界のどの国家もそれなりの世界政策をもっており、ときに他国の道具になったり、他国を道具にしたりしてその世界政策を成立せしめていた。


P.207
日本と日本人は、国際世論のなかではつねに無視されるか、気味悪がられるか、あるいははっきりと嫌悪されるかのどちらかであった。
たとえばのちに日本が講和において賠償を欲するという意向をあきらかにしたとき、アメリカのある新聞は、
「日本は人類の血を商売道具にする」
という深刻な罵倒をおこなった。


P.214
外交の本質は策略よりも誠実であるというのがどの国でも通用する原則のようなものであったが、一般にロシア人のやる外交については誠実も誠意も存在せず、表裏のカラクリだけでかれらはうごくといわれている。


P.214
ロシアの官吏は文官であれ武官であれ、もっともかれらが怖れるところのものはその国家の専制者―皇帝―とその側近者(皇后をふくめて)であり、かれらはつねに対内的な関心のみをもち、その専制者の意向や機嫌をそこなうことのみを怖れ、「人が何といおうともロシア国家のためにこれが最善の方法である」といったふうな思考法をとる高官はまれであった。専制の弊害はここにあり、ロシアが戦敗する理由もここにあり、さらにはニコライ二世皇帝がついにはその家族とともに革命の犠牲になり果てるのもここにあった。


P.215
世界の歴史のなかで無数の専制者が出たが、そのうちわずか二、三人のみがすぐれた政治業績を残した。あとはことごとく専制のために国家をやぶり身の破滅を来たした悪例の歴史であるが、しかし存在としてすでに悪である専制者たちは、つねに歴史上数例しかない英雄的な先例を神聖視することによっておのれの専制を正当化する癖があり、常人以下の能力でしかないニコライ二世でさえ、即位早々、
「予は、予の父帝がなしたるごとく、専制の原理をゆるぎなく守るつもりである。このことを国民にしらしめよ」
と、宣言した。偉大なるロシアは、ただ一人の愚者によってひきいられているのである。もっともその愚者が勇敢な英雄的賢者であれば専制の害はさらにひどいものになるにちがいないが。…


P.218
日本においては新聞は必ずしも叡智と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった。日本をめぐる国際環境や日本の国力などについて論ずることがまれにあっても、いちじるしく内省力を欠く論調になっていた。新聞がつくりあげたこのときのこの気分がのちには太平洋戦争にまで日本を持ちこんでゆくことになり、さらには持ちこんでゆくための原体質を、この戦勝報道のなかで新聞自身がつくりあげ、しかも新聞は自体の体質変化にすこしも気づかなかった。


P.221
高平は語学に堪能で米国通というだけの外交官であり、すぐれた外交官に不可欠の条件である経綸の能力がなかった。外交官というのは、いかに末端の仕事を担当していても即座にでも日本国の首相がつとまるほどの経綸と構想を用意しておかなければならない性格の職務だが、高平は有能な使い走りというタイプの人物であり、ワシントンに駐在していてもとうていルーズヴェルトの相手になれるような男ではない。


P.222
日本人の気質の一典型として存在するおべっかをふくめた狎れなれしさ―というより相手に子猫のようにじゃれたいために、つまりは相手の心をこのようなかたちで攬りたいために―自分の属する上部構造の無知、臆病というものを卑屈な笑顔でぶちまけてしまうといった心理から出ているようであった。


P.244
ついでながらロシアの革命気分を醸した原因は無数にあるが、ロシアの市民が政府、具体的には官吏の能力に対して絶望的な不信感をもっていたこともそのひとつにあげられる。官吏の無能とそれへの民衆の不満というのは帝政ロシアのぬきがたい病根であった。軍隊の場合は士官の無能ということになり、これに生命をあずけねばならない兵卒としてはペテルブルグやモスクワの市民よりも不満は深刻であった。

P.246
ところがペテルブルグの海軍省はまったく見解を異にしていた。
「老朽でも戦艦は戦艦である。その巨砲は大いに威力を発揮するであろう」
と、砲力のみを評価した。この見解には海軍に何の知識もないアレクサンドラ皇后がもっともつよい態度で賛成しており、従って皇帝もこの派遣を中止しようという意志はもっていなかった。皇帝の意志ひとつで全ロシアの運命が左右されるというロシア的専制の弊害が、この一件にも濃厚に露呈していた。


P.256
「ネボガトフ艦隊が待つに価いする艦隊なのかどうか」
ということについても、世界中の専門家は否定的であった。
とはいえ、ロジェストウェンスキーがみずから好んでこの道化芝居をやっているわけではなく、かれにそれをやらせているのは皇帝ニコライ二世とその皇后アレクサンドラであった。さらにいえば皇帝に絶対的専決権をもたせてしまっているロシアの体制そのものがそれをやらせているわけであり、もしこの国の国民と将兵がこの一大愚行から抜け出そうとするなら革命をおこすしか手がなかった。ロシアの専制体制は、ヴァン・フォン湾の三海里沖合でゆきつくところまできてしまっているという観があった。


P.313
しかし人間は―最高指揮官といえども―机の上の思想は論理的であろうとも、ぎりぎりの場にいたってなお理性をうしなわず論理に従ってみずからを動かすということは困難であるようだった。むしろ恐怖とか希望的な期待という情念で行動を決することが多いようであり、とくに極端な独裁家であるロジェストウェンスキーの場合はその傾向がつよかった。独裁家はかならずしも強者ではなく、むしろ他人の意見の前に自己の空虚さを暴露することを怖れたり、あるいは極端に自己保存の本能のつよい精神体質の者に多い。


P.315
一行動が一目的のみをもたねば戦いには勝てないというのがマハンの戦略理論であった。


P.342
かれが水兵の人望を得ていないのは、粗暴で怒りっぽいということではなく、マカロフ中将のように有能で捨て身の精神をもった提督ではないということを水兵大衆がそのするどい嗅覚でかぎわけきっていたからであろう。戦場へひきだされてゆく水兵たちにとって自分の提督に期待するのは優しさでも愛嬌でもなく、ただひとつ有能であるということだった。






第8巻

P.38
ついでながらこの種の誇張表現が軍隊のなかで日常的につかわれはじめたのは、軍人が官僚化し、あるいは国士気どりになって、現実認識の精神をわすれてしまった―としか言いようのない―昭和期に入ってからである。昭和期とくに日中事変前後から軍人のこの種(現実認識と無関係な誇張の文章を書くという)の傾向は、昭和軍隊のもっとも深部のなかにおける頽廃に根ざしていると考えていい。昭和期の陸軍では、中隊長あたりの小さな団隊長の報告文さえこの種の誇張表現がちりばめられていた。


P.276
維新後、日本の国軍にあって捕虜というものは不名誉なものとされており、自然、捕虜になった場合の教育が施されていなかった。西洋の場合はよく戦って力尽きて捕虜になるというのはあながち不名誉ではなく、そのために捕虜としての倫理も確立していた。敵に味方の状況をしゃべるなどということがよくないということをたれでも知っていたが、「日本軍に捕虜はありえない」ということをたてまえとしている日本軍にあっては、いったん捕虜になった場合、敵の訊問にすらすら答えてしまうものが多い。


P.279
秋山騎兵団の成立は乃木軍司令部の若い参謀たちの気分をも昂揚させたらしい。ある参謀が、好古の司令部に電話をかけてきて森岡守成という好古の中佐参謀をよび出し、
「新編制の秋山騎兵団を一度も戦場に用いることなしにこの戦役を了えるのは残念なことだから、一度やってみないか」
と、いった。乃木軍司令部は旅順攻略の当初から司令部軍規がみだれているという定評があったが、ひとつにはこういう気分もそれを物語っているといえるかもしれない。乃木希典の意見をきくことなくいきなり下部団隊の参謀をけしかけるようなことをいってくるのである。


P.282
日本の軍隊はロシアとはちがい、国軍であると、好古はよくいった。好古は生涯天皇については多くを語らなかったが、昭和期において濃厚なかたちで成立する「天皇の軍隊」という憲法上の思想は好古の時代には単に修辞的なもので、多分に国民の軍隊という考え方のほうが濃かった。
「ナポレオンはフランス史上最初の国民軍をひきいたから強かったのだ」
と好古はよくいったが、日露戦争における両軍の強弱の差もそこから出ている、と好古は考えていたらしい。好古にすれば日本軍は国民軍であった。ロシアのように皇帝の極東に対する私的野望のために戦ったのではなく、日本側は祖国防衛戦争のために国民が国家の危機を自覚して銃をとったために寡兵をもって大軍を押しかえすことができたのだ、という意味であるようであった。


P.283
好古は乃木がきらいではなかった。しかし乃木の旅順要塞に対する攻撃の仕方には無言の批判をもっていたようであり、たとえば、
「日本の非力な騎兵が、数倍のミシチェンコ騎兵団をなんとか追いはらってゆくことができたのはおれの功績ではない。日本の騎兵が最初から機関銃を装備していたのに対してむこうがもっていなかったからである。精神力を強調するのあまり火力を無視するという傾向はどうも解せない」
とよくいっていたのは、あるいは一種の乃木批判になるかもしれない。


P.284
乃木は身を犠牲にすると言いつつも、台湾総督をつとめたり、晩年は伯爵になり、学習院長になったりして、貴族の子弟を教育した。


P.300
戦争という、このきわめて思想的な課題を、わざわざ純軍事学的にみるとして、日露戦争というのは日本にとってやるべからざる戦争であった。あまりにも冒険的要素がつよく、勝ち目がきわめてすくない、という意味においてである。
当然ながら日本政府の要人のほとんどが戦争回避論者であった。なかでも元勲の伊藤博文が非戦のための先鋭的存在だったことは、伊藤という人物がいかに愛国的ファナティシズムにまどわされず、いかに政治家として現実主義的思想をくるわさずに生きえたかという点であらためて評価を重くしてやってもいい。


P.301
思想性とは、おおげさなことばである。しかし物事を現実主義的に判断するにあたって、思想性があることは濃いフィルターをかけて物をみるようなものであり、現実というものの計量をあやまりやすい。ときに計量すら否定し、「たとえ現実はそうであってもこうあるべきだ」という側にかたむきやすい。芸術にとって日常的に必要なこのフィルターは、政治の場ではときにそれを前進させる刺激剤や発芽剤の役割をはたすことがあっても、ときに政治そのものをほろぼしてしまう危険性がある。


P.303
私は、いわゆる明治的な天皇絶対制の基礎をつくったのが大久保利通であり、それを憲法によって制度化して、大久保の思想よりも明朗なかたちにしたのが伊藤博文であり、その明色を暗色にしておもくるしい装飾をほどこしたのが山県だとおもっている。


P.303
日露戦争前、政府はもっぱら避戦的態度であり、自然、政府系の新聞とされる国民新聞や東京日日新聞は自重論であり、これら数種の新聞は経営の危機がつたえられるほどに人気がなかった。
民衆はつねに景気のよいほうでさわぐ。むろん開戦論であった。この開戦への民衆世論を形成したのは朝日新聞などであった。学者もこれに参加した。帝大七博士といわれるひとびとがそれで、七人が一小党をなして政府にはたらきかけた。
「今日は馬鹿七人がきた」
と、自宅の応接室から出てきて、ぼんやりした顔でつぶやいたのは、この時期の参謀総長大山巌であった。日本の実力からみてできもせぬ対露戦を、何人かの論客がせっつきにきたのである。


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日本人は国民的気分のなかで戦争へ傾斜した。これら政府側の避戦論もしくは自重論者が結局は開戦の決議者になり、戦争の運営者になるのだが、かれらにとってやりやすかったのは、国民を戦争に駆りたてるための宣伝は、世論じたいが戦争にむかって奔馬のようになっていたため、いっさいする必要がなかったことであった。


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このきわどさの上に立って、その大テーマにむかって陸海軍の戦略も、外交政略もじつに有機的に集約した。そういう計画性の高さと計画の実行と運営の堅実さにおいては、古今東西のどの戦争の例をみても、日露戦争の日本ほどうまくやった国はないし、むしろ比較を絶してすぐれていたのではないかとおもわれる。
しかし、勝利というのは絶対のものではない。敗者が必要である。ロシア帝国における敗者の条件は、これまた敗者になるべくしてなったとさえいえる。極端にいえば、四つに組んでわれとわが身で膝をくずして土をつけたようなところがある。


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戦後の日本は、この冷厳な相対関係を国民に教えようとせず、国民もそれを知ろうとはしなかった。むしろ勝利を絶対化し、日本軍の神秘的強さを信仰するようになり、その部分において民族的に痴呆化した。日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る。やがて国家と国民が狂いだして太平洋戦争をやってのけて敗北するのは、日露戦争後わずか四十年のちのことである。敗戦が国民に理性をあたえ、勝利が国民を狂気にするとすれば、長い民族の歴史からみれば、戦争の勝敗などというものはまことに不可思議なものである。


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明治は、日本人のなかに能力主義が復活した時代であった。能力主義という、この狩猟民族だけに必要な価値基準は、日本人の遠祖が騎馬民族であったかどうかはべつにせよ農耕主体のながい伝統のなかで眠らされてきた。


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明治には非能力主義的な藩閥というものはあったが、しかし藩閥は能力主義的判定のもとにうまく人を使った。明治日本というこの小さな国家は、能力主義でなければ減滅するという危機感でささえられていた。


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が、長州閥でにぎられていた陸軍は、この点でおなじ民族とはおもえないほどに能力主義からいえば鈍感であった。


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「君は重箱のすみをせせるような男だ」
と、同郷の児玉源太郎が寺内をこのようにからかったことがあるが、寺内のこの性癖は全陸軍に知られていた。この点、おなじ長州人の乃木希典に酷似しているが、乃木とのちがいは、乃木は極端な精神主義で、寺内は偏執的なほどの規律好きという点にあり、いずれもリコリズムという点ではかわりはない。あるいは長州人のいくつかの性格の型にこの種の系列があるのであろう。たれかの言葉に、精神主義と規律主義は無能者にとっての絶好の隠れ蓑である、ということがあるそうだが、寺内と乃木についてこの言葉で評し去ってしまうのは多少酷であろう。かれらは有能無能である以前に長州人であるがために栄進した。時の勢いが、かれらを栄進させた。栄進して将領になった以上、その職責相応の能力発揮が必要であったが、かれらはその点で欠けていた。欠けている部分について乃木は自閉的になった。みずから精神家たろうとした。乃木は少将に昇進してから人変わりしたように精神家になったのは、そういう自覚があったからであろう。乃木がみずからを閉じこめたのに対し、寺内は他人を規律のなかに閉じこめようとした。


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その叱責の論理は規律主義者が好んで用いる形式論理で、
「この文字はおそれ多くも有栖川宮一品親王殿下のお手に成るものである」からはじまる。「しかるをなんぞや、この手入れを怠り、このように錆を生ぜしめ、ほとんど文字を識別しかねるまでに放置しているとは。まことに不敬の至りである。さらにひるがえって思えば本校は日本帝国の士官教育を代表すべき唯一の学校であるにもかかわらず、その扁額に錆を生ぜしめるとは、ひとり士官学校の不面目ならず、わが帝国陸軍の恥辱であり、帝国陸軍の恥辱であるということは、わが大日本帝国の国辱である」
と説諭した。この愚にもつかぬ形式論理はその後の帝国陸軍に遺伝相続され、帝国陸軍にあっては伍長にいたるまでこの種の論理を駆使して兵を叱責しみずからの権威をうちたてる風習ができた。逆に考えれば寺内正毅という器にもっとも適した職は、伍長か軍曹がつとめる内務班長であったかもしれない。なぜならば、寺内陸相は日露戦争前後の陸軍のオーナーでありながら、陸軍のためになにひとつ創造的な仕事をしなかったからである。


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これほど独創性のない人物が、明治三十三年、陸軍参謀本部次長というもっとも創造性を必要とする職についている。山県の長州閥人事によるものであり、日本陸軍が先鋭能力主義思想をもっていなかったのはこのことでもわかるであろう。


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寺内は日露戦争の陸軍オーナーとしてどの程度の働きをしたのかについてはわれわれ後人としてはその痕跡をさがすのに苦しまねばならないが、その後の陸軍の人事に閥族主義の遺伝体質を残したという点では山県とともに十分あきらかであり、その意味での近代史のある部分の重要なかぎをにぎった人物であるといえる。


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元来、日本の国内戦の歴史で「後方」というものが存在したのはわずかに秀吉の時期に例外があるが、概して経験がなく、その任務の内容どころか、その任務の概念を感覚としてつかまえることすらぼうばくとしているといった傾向があった。田村はやむなく日清戦争の戦訓を点検しつつ「後方勤務令」を書きあげ、それを担当する諸部隊にくばり、そのしごとの原理や運営法などをさだめた。この一冊の書物が日露戦争に間にあわなかったなら、事態はずいぶんちがったものになっていたであろう。


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かれの最大の不幸は、かれの参謀長として少将伊地知幸介という能力も協調性もひくい人物をあてがわれたことであった。陸軍の総帥である山県有朋の人事感覚は、軍司令官に一人の長州人もいないことを不満として第三軍に乃木をえらんだのだが、そのかわり薩摩閥へのサービスのために伊地知幸介を乃木のコンビにもって行ったらしい。
…略…
総司令部では乃木と伊地知への囂々たる非難がうずまいたが、しかしそれについては総司令部参謀たちは児玉の耳に入れることをはばかった。児玉が乃木と同郷で、しかも親友であることを知っていたためである。さらには、乃木はべつとして「伊地知を交代させよ」という声がさかんにあがったが、たれもが総司令官の大山巌の耳にいれることをはばかった。なぜなら伊地知は大山の親戚だったからである。


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ともかくも乃木軍司令部がやった最大の愚行は、この第一回総攻撃において強襲法をとったということよりも、前線がどうなっているかも知らず、そのあまりにも大きな損害におどろいていっせいに退却せしめたことであった。


P.324
第一線の実情がわからなかった最大の理由は、軍司令部の位置をすすめて各師団の動きがみられるところへ置き、地下に壕を掘り、上を掩堆でかためればよい。それをせず、軍司令官以下が前線を知らなかったことがこの稀代の強襲計画を、それなりに完結させることさえせずにおわらせてしまった。この時期の満州軍総司令部の参謀たちの一致した意見では、
「第一回で奪れていたのだ」
ということであり、それだけに乃木軍司令部への風あたりがつよかったのである。


P.324
この日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、別の集団になったとしか思えないが、その戦後の最初の愚行は、官修の「日露戦史」においてすべて都合のわるいことは隠蔽したことである。参謀本部編「日露戦史」十巻は量的にはぼう大な書物である。戦後すぐ委員会が設けられ、大正三年をもって終了したものだが、それだけのエネルギーをつかったものとしては各巻につけられている多数の地図をのぞいては、ほとんど書物としての価値をもたない。作戦についての価値判断がほとんどなされておらず、それを回避しぬいて平板な平面叙述のみにおわってしまっている。その理由は、戦後の論功行賞にあった。伊地知幸介にさえ男爵をあたえるという戦勝国特有の総花式のそれをやったため、官修戦史において作戦の当否や価値論評をおこなうわけにゆかなくなったのである。


P.325
これによって国民は何事も知らされず、むしろ日本が神秘的な強国であるということを教えられるのみであり、小学校教育によってそのように信じさせられた世代が、やがては昭和陸軍の幹部になり、日露戦争当時の軍人とはまるでちがった質の人間群というか、ともかく狂暴としか言いようのない自己肥大の集団をつくって昭和日本の運命をとほうもない方角へひきずってゆくのである。


P.344
その戦争を遂行した陸軍当局が、みずから戦史を編纂するということほどばかげたことはない。たとえば第二次世界大戦が終わったとき、アメリカの国防総省は戦史編纂をみずからやらず、その大仕事を歴史家たちに委嘱した一つの時代を背景とした国家行動を客観的に見る能力は独立性をもった歴史家たちの機構以外には期待できないのである。また英国の場合は、政府関係のあらゆる文書は三十年を経ると一般に公開するという習慣をもっている。その文書類を基礎に、あらゆる分野の歴史家が自分の研究に役立ててゆく。アメリカもイギリスも、国家的行動に関するあらゆる証拠文書を一機関の私物にせず国民の公有のもの、もしくは後世に対し批判材料としてさらけ出してしまうあたりに、国家が国民のものであるという重大な前提が存在することを感ずる。


P.347
極端にいえば満州の陸戦における行司役はタイムズとロイター通信であった。それによって国際的な心理や世論がうごかされた、日本が情報操作が上手であったわけではなかった。世界中の同情が弱者である日本にかたむいていたし、帝政ロシアの無制限なアジア侵略に重大な危機意識をもっていた。そういう面でのすべてが日本に有利であり、逆にいえば喧嘩というものはどういう諸条件が醸成されている場合でしかしてはならないことをこのことは教えているようでもある。






以上