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「LESSON 1 - HISTORY OF AIR DEFENSE AND EARLY WEAPON SYSTEMS」、
http://www.globalsecurity.org/military/library/policy/army/accp/ad0699/index.html


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第一次世界大戦時の航空機と対空火器(1914年〜1918年)


・第一次世界大戦時の対空防御

この講義を始めるに当って、まずは海岸兵器協会(Coast Artillery Corps、CAC)が現在のADAへと発展した基礎を作ったことから始めたい。これを促すきっかけとなったのは、第一次世界大戦において航空機による攻撃が地上部隊の脅威になり始めたことである。この時まで、陸軍は飛行機を「軍事的なおもちゃ」として軽視し、対空兵器の開発を大きく制限していたのである。

アメリカが渡洋爆撃によって戦争に巻き込まれる危険性が出てくると、戦争大臣(Secretary of War)のNewton D.Bakerは、COLのChauncey B.Bakerの指揮する委員会を組織して、連合軍の調査と、そしてフランスにおいてアメリカ軍がどのように編成されるべきであるかについてのレポートを準備させた。このレポートの中にはアメリカ合衆国における対空兵器の訓練学校の設立に関する提言も含まれており、これは指揮官とフランスでの派遣軍の両方にたいする学校であった。この提言は委員会における、敵の航空兵力が連合軍の地上部隊に対して大きな脅威となっているという調査結果を基にしている。


・最初のアメリカの対空部隊

COL Bakerの、対空部隊はアメリカ遠征軍(AEF)の一部とすべきとの提言が受け入れられ、アメリカの対空部隊の包括的なシステム開発計画が作られた。今後解決すべき大きな問題として、対空部隊の人員をどこから持ってくるのか、対空部隊でどういう兵器を使用するのか、その兵器はどこから調達するのか、そしてどこで砲術を学ばせるのか、というものがあった。

人員調達の問題は、CACが対空部隊に任務を与える事により解決した。CACは2つの基礎となる理由を選んだ。まず、イギリス海軍がドイツ艦隊を効果的に防御している間は、アメリカの沿岸に脅威は無いというもので、これによってCACの人員を訓練する事が可能になった。2つ目として、CACにしか移動目標への砲撃経験が無いというものだった。

アメリカ遠征軍(AEF)が対空部隊で使用する予定にしていた3インチM1917高射砲はまだ試作品で、実用には数ヶ月を要する状態だった。これはアメリカ遠征軍は連合軍の兵器を使用するということを意味し、その結果フランス戦線へ向かう陸軍は、使用する高射砲をフランスへ取りに帰らなければならなくなった。

このようにしてアメリカ遠征軍はフランス軍の兵器を使用することとなり、フランス軍の対空射撃技術を採用する事となった。その当時のフランス軍の対空火器管制技術はそれほど信頼性も高くなかったが、連合軍の中では最も良いものだった。また信頼性が低くても、何も無いよりも増しだった。


・対空部隊の組織体制

人員の供給、装備、そして訓練が決定され、次にフランスでの組織的活動が始まった。GEN James A Shiptonの指揮下に入った。

GEN Shiptonはアメリカの対空部隊の創設者とされている。これは彼と彼の部隊の2人の指揮官、Glenn P.AndersonとGeorge Humbertとが、フランスにアメリカ軍の対空部隊の学校を創設したからである。この学校は創設時には小さかったが次第に大きくなり、全ての訓練を執り行なう事が可能なものになっていった。面白い事に、1918年当時実戦を行っていたアメリカ対空部隊の将校によって編み出された戦術と技術とは、現在の対空防御戦術とそれ程変っていないのである。


・空の脅威

最も被害が大きく、爆撃距離が最も長かったのは、ドイツの行ったツッペリン飛行船とゴータ双発爆撃機による空襲だった。

ツッペリンは、天候に影響されやすく、また大きい為に対空砲や戦闘機によって攻撃され破壊されやすかったが、イギリスに対して51回にも上る爆撃が行われた。トータルで5806発の爆弾を投下し、750万ドルにも及ぶ被害と1915名の犠牲者を出した。パリに対してもツッペリンによる空襲が何度か行われたが、被害は大きくは無かった。1918年の8月5日にドイツの最新式の飛行船であるLZ-70(最高速度82マイル時)が撃墜された事により、第一次世界大戦における飛行船による空襲は事実上終了した。

双発爆撃機ゴーダ(図6)は大戦を通じてドイツ軍の主力爆撃機であり、ロンドンやパリに対する昼間及び夜間爆撃に使用された。しかしドイツ軍は第一次世界大戦では戦術爆撃を殆ど行わなかった。これは当時の爆撃技術は未完成で不正確であり、また普通は爆撃機のパイロットを爆撃目標と同じくらいの危険に晒すものであった。


ドイツ軍はまた、フォッカーD1やDVIIといった軽戦闘機の使用を制限していた。こうした飛行機は、偵察や観測、爆撃機の迎撃、そして戦争後期になると陸上部隊への機銃掃射といった色々な任務を果たしてゆく。戦争初期にはドイツの飛行家達は、空中から人を撃つという野蛮な行為を行わなかった。彼らはそうした行為をスポーツマンとして恥ずべき行為であり、紳士的でないと考えていたのだ。




・対空火器

アメリカは1917年に3インチ高射砲を開発しつつあったものの、第一次世界大戦に参戦した当初には、対空兵器を持っていないも同然の状態であった。

結果として、アメリカ軍の対空部隊はフランス軍の兵器と射撃技術とを採用せざるを得なかった。この対空兵器は基本的に架台を対空用途に利用できるよう改良した地上用の大砲だった。

フランスの75mm高射砲(図8)や75mm自動砲、そしてホッチキス社製の機関銃を対空用の架台に装備したもの(図9)が使用された。






・目標の探知と火器管制

CACの兵士は移動目標に対する射撃経験がいくらかはあったものの、航空機の速度と動きを光学機器で追尾し、それに対して射撃を修正する事は難しかった。

このため、対空射撃を補助するデータ計算機が必要となり、アメリカ軍はフランスのBrocqとR.A.修正器とを装備した。この機器は航空機の速度、高度、飛行方向のデータから、見越角を含んだ砲の諸元情報を計算するのである。



航空機による夜間攻撃が行われるようになると、敵機が見えないと対空攻撃を行えないという別の問題が出てくる事になった。このためキャデラック社製の60インチ探照灯のような、敵機を照明する機器が装備されるようになった。




探照灯で敵機を捕捉する為には、航空機の位置情報が必要になってくる。航空機のエンジンとプロペラから出る騒音を使って航空機の位置を指示する、図12のような聴音機も使われた。聴音機はオペレーターの感覚能力を格段に良くし、それによって探照灯での探知を行うのである。





・対空戦闘の詳細

対空火器の性質から、対空防御が明確に機能する機会は殆ど存在しなかった。しかし戦争を通じて、アメリカ派遣軍において対空部隊の能力と不屈の精神を発揮する場に何度か遭遇する事はあった。

第一高射砲大隊の高射砲B中隊でもそうした機会に恵まれた。この部隊は、フランスの75mm牽引式高射砲によって118日間に9機のドイツ軍機を撃墜するという、第一次世界大戦での連合軍における大記録を作った。

第一高射砲大隊並びに第二高射砲大隊は、3ヶ月間に合わせて41機を撃墜したが、イギリス軍全体でも1ヶ月に3機しか撃墜する事ができなかったことから比べると、すごい事である。

118日の間に、アメリカ派遣軍の75mm高射砲中隊は17機を撃墜したが、この時の1機当りの射撃数は605発だった。この記録は司令部において稀な記録とされ、他の同盟国のそれよりも遥かに勝っていた。




対空火器の開発(1919年〜1939年)


・第一次世界大戦後の対空火器開発

第一次世界大戦が終わった後のアメリカを、平和主義や軍縮、孤立主義が席巻した。世論から急速に復員と軍事力削減が行われ、殆どの戦時中の開発計画は中止されてしまった。この敵対行為後における戦争嫌悪に加えて、動員された市民兵によって構成するというコンセプトによって、対空部隊は陸軍の組織として存在できなくなった。1919年までに、全てのアメリカの対空部隊は復員し、そしてそうした部隊の必要性が認められていたにも関わらず、1920年まで対空部隊はその存在が消滅してしまったのである。

1920年と21年に、アメリカの対空部隊が再度設立された。それは6個連隊で構成されていたものの、殆ど大隊程度の戦力で、重要な港湾やパナマ運河などの主要な施設に配備された。


・新しい高射砲の開発

第一次世界大戦の終結時、アメリカの対空部隊の器材と装備の主要なものは、フランスのものかもしくは戦時生産品であった。生産された唯一のアメリカ製高射砲は、3インチ高射砲M1917(固定砲床)と3インチ高射砲M1918(牽引式、図13)だけであった。このM1918は1927年まで主要な高射砲の座を占めていた。



1926年から1929年にかけて、幾つかの対空火器の試験がメリーランド州にあるアバディーン実験場で行われた。その時に使用されていた全ての対空器材と対空火器が試験され、その結果、高射砲の技術が格段に向上した。

このテストで評価された高射砲の一つに、3インチ高射砲M3がある。この高射砲は自動排莢(automatic breechblock)機能を持ち、360度全周旋回、そして俯角1度から仰角80度まで操作できた。このM3高射砲(図14)はM1918に代わり標準の牽引式高射砲になっていった。




他にも、37mm、40mm、そして90mm(M1)高射砲がアバディーンで試験された。また1927年には固定砲床の105mm高射砲が試験された。この高射砲(図15)は自動装填式で、1分間に15〜20発ほど射撃可能で、初速は2800(f/s)だった。1928年に陸軍に採用され、パナマ運河地帯に順次15基が配備された。





・探照灯の開発

アバディーンでの試験を通じて、探照灯も注目され、開発が続けられていた。アークの生成や定温コントロール、光量の増加、そして直径60インチの金属製反射板の開発が行われた(図16)。





・聴音機の開発

図17に挙げるM1A1のような聴音機と聴音修正器はかなりの注目を集め、幾つもの改良が行われた。しかし航空機の速度増加によって音速との速度差の補正が難しくなり、1940年までに殆ど使用されなくなってしまった。目標の位置測定の手法は、すぐに新しいレーダーの開発によって取って代わられてしまう。





・射撃指揮装置の開発

第一次世界大戦の終了時に残されたM1917R.A.修正器(Range Angle?)は、改良の余地が多かった。終戦時までにWilliam P.Wilson少佐は、R.A.修正器の不正確さを改良したWilsonのT1指揮装置(図18)と呼ばれる指揮装置の試作品を開発していた。




Wilson少佐は1927年に亡くなったが、スペリー社が少佐の開発計画を受け継いだ。こうして、1930年には初のアメリカ製指揮装置であるM2が採用された。M2(図19)における計算は単純だったが、大きくて重く(2500ポンド)、かつ複雑な機構をしていた。




1935年には新型のM3指揮装置が採用された。これは基本的にはM2と同じだったが、単純化されて重量も650ポンドと軽くなった。またM2では185mphまでだった追尾可能な目標速度は、M3では250mph(nm/h)まで向上した。

スペリー社はM3指揮装置の改良を続け、すぐに新しい型であるM4(図20)を設計した。M4までの指揮装置では直線飛行で等高度の目標しか未来位置を計算できなかったが、M4では目標が一定の割合で降下もしくは上昇しているものにも対応できるようになり、更に追尾可能な目標速度も400mphまで上がった。






・レーダーの開発

1922年、海軍研究所のA.Hoyt Talor博士とLeo Youngの2人が電波通信の試験を行っていた時に、送信側と受信側の間をボートが通り過ぎた。この時に受信信号がはっきりと変化する事を発見し、これからアメリカ初のレーダー開発が漸次行われる事になった。

1937年5月には、通信隊(Signal Corps)によってSCR-268の試作品のデモンストレーションが行われた。この初期のレーダーは可搬式の短距離電波標定機で、探照灯を操作するように設計されていた。このレーダーの目的は、夜間に飛行する敵機の距離、仰角、方向角という位置情報を素早く正確に測定し、その情報から沿岸高射砲台に配備された探照灯で敵機を照射することである。

SCR-268(図21)は第二次世界大戦勃発時には本格的な生産に入っており、探照灯の操作だけでなく高射砲の指向にも使われた。




1937年5月のSCR-268のデモンストレーションの後、航空部隊はこのレーダーを早期警戒用に改良したものを開発した。この新しいレーダーはSCR-270(可搬式、図22)とSCR-271(固定式)の2つの型式として配備された。




これらの初期のレーダー開発によって、アメリカは早期警戒用、探照灯指向用、射撃用といった実用的なレーダーをもって第二次世界大戦に望む事ができたのである。





ヨーロッパ戦線における対空戦闘(1939年〜1945年)


・ヨーロッパ戦線
第一次世界大戦当時に空軍の一方の雄であったドイツは、1918年11月11日の降伏後からすでに航空機開発に重きを置いており、特に急降下爆撃機の開発に重点を置いていた。


・ドイツの急降下爆撃機

ドイツの主な急降下爆撃機はスツーカ(図23)として知られているJu-87である。このスツーカは最高速度242mphで、498マイルの行動半径を持っていた。通常武装は主翼に装備された7.9mm機銃と後部座席に装備された旋回式の7.9mm機銃である。1100ポンド爆弾1発もしくは550ポンド爆弾2発を胴体下に装着するか、もしくは110ポンド爆弾4発を主翼の下に装着できた。






・ドイツの中型爆撃機

主な中型爆撃機はハインケルのHe111シリーズとドルニエのDo17シリーズであった。

He111(図24)はドイツ空軍が調達した初の近代的中距離爆撃機である。最高速度は267mphで、実用高度は22950フィートだった。標準武装は7.9mm機銃3丁で、2200ポンドの爆弾を運搬できた。




Do17は最高速度220mph、実用高度18050フィート、1760ポンドの爆弾を装着したときの行動半径は990マイルだった。標準武装は7.9mm機銃2丁だった。


・ドイツ軍の戦闘機

ドイツの主力戦闘機は、Me262ジェット戦闘機が出るまでは、Me109、Me110、そしてFW190だった。

1941年7月により高性能なFW190が出てくるまでは、メッサ―シュミットMe109がドイツ軍の戦闘機の主体をになっていた。Me109は最高速度428mphで行動半径は350マイル。標準武装は15mm機銃2丁と30mm機関砲1丁だった。

メッサーシュミットMe110は長距離掩護戦闘機として開発されたが、イギリスのハリケーンやスピットファイアよりも遥かに劣っていた。最も性能の良かったのは夜間戦闘機のGシリーズだったが、アメリカ軍の昼間爆撃の掩護に来るサンダーボルトに全く歯が立たなかった。

フォッケウルフFW190(図25)はドイツ軍の最優秀戦闘機である。高高度戦闘機や戦闘爆撃機、急降下爆撃機など色々な種類が生産された。FW190は最大速度が440mph、行動半径が500マイルだった。武装は型式や目的によって異なっていた。最も重武装だったもので、13mm機銃2丁に20mm機関砲4丁、そして12発のR4M対空ロケット弾というものであった。




Me262(図26)は、作戦行動に参加した初のターボジェット軍用機で、ドイツの首脳部の優柔不断によって戦争での用途を変更させられてしまった。この優柔不断の為にMe262は1944年の秋まで作戦に参加できず、余りに登場が遅かった為にドイツの防空作戦に殆ど寄与できなかった。Me262はその初陣で、連合軍の戦闘機よりも圧倒的に速いところを見せつけたのであった。標準武装は30mm機関砲4丁か、R4M対空ロケット弾24発である。






・V1とV2ミサイル

V1とV2は主にイギリスに対して使われた長距離爆撃兵器である。

ドイツのV1は比較的小さく、自動操縦でジェット推進の単葉機で、1トン近い高性能爆薬を運搬する。射程は250マイルで、平均速度は300から400mph、飛行高度は600から10000フィートの間で選択できた。飛行制御は磁気コンパスとジャイロで行われ、予め設定された直線コースに沿い、1回から最大450回までの旋回で微修正しながら飛行した。

V2ロケット(図27)は葉巻型で流線型、長さ46フィート10インチ、最大直径5フィート5インチの誘導ミサイルである。発射時の重量は14トンで、この内で高性能爆薬は1トン、燃料は9トンである。この燃料は最初の60秒間の飛行分だけである。




ロンドンに初めてV2が落下したのは1944年の9月9日で、1945年3月28日までに全部で1115発のロケットが190マイルから220マイル離れたオランダから発射され、イギリスに落下した。


・第二次世界大戦の対空火器

アメリカが第二次世界大戦に参戦したとき、手元にあった高射砲は3インチ高射砲が807門、105mm高射砲が13門、そして37mm対空機関砲が8門であった。

開戦後まもなく、ドイツ軍の新式高性能航空機が登場するにおよんで、3インチ高射砲は既に効果的な兵器ではなくなっていることが判明した。この3インチ高射砲の代替品として90mm高射砲M1(図28)が選ばれ、1942年までに実戦配備された。このM1高射砲は3インチ高射砲よりも遥かに優秀で、有効射高が30000フィートだった。




1943年には別の新しい高射砲が標準化されたが、第二次世界大戦中に使用される事は無かった。これはM1対空砲架に装着された120mm高射砲M1(図29)である。この高射砲は大きく、重量は30トンにもなり、一応可搬式ではあったものの、運搬には舗装された道路や強度の高い橋が必要で、時間も相当にかかった。




1944年には、M2高射砲架の90mm高射砲M2が採用された。このM2(図30)は基本的にはM1高射砲と一緒だが、自動装填装置と自動信管測合装置が付いており、1分間に25〜35発を発射する事が可能になった。この高射砲がアメリカで開発された最後の高射砲になった。




1927年に37mm対空機関砲が標準化されたが、1940年まで改良が続けられ、動力駆動のターレット型の砲架に搭載された。37mm砲と同軸に2丁の空冷式の12.7mm機銃を装着したもので、この砲架を自走運搬車に搭載したものをM15A1と呼んだ。




1941年にはボフォース社の40mm機関砲が、40mm機関砲M2として採用された。このボフォース社の40mm機関砲はスウェーデンの工場で開発され、スペイン内乱で実戦テストされたものである。アメリカの開発した37mm機関砲よりもかなり優秀だった。


12.7mm機銃は、対空戦闘の様々な状態で使用された。図32に挙げたのは、M16多連装自走高射機関砲であり、M45動力駆動ターレットに4丁の12.7mm機銃を装備している。






・射撃指揮装置

1941年にM4指揮装置はM4を改良したM7指揮装置(図33)に置き換えられた。主な改良点は対応可能な目標の垂直成分速度が100mphから400mphに引き上げられた事である。このM7はアメリカの最後の機械式射撃装置になった。






Brocq社の修正器から始まった指揮装置の歴史において、最初の電気式計算機が1942年に生産され始めた。このM9指揮装置(図34)は新型の90mm高射砲用に設計されたもので、主にSCR-545レーダーとSCR-584レーダーと一緒に使用された。対応可能な目標の最大速度も600mphまで上げられた。またこの指揮装置は120mm高射砲でも使用された。






この他に、特に自動火器用に設計された指揮装置として、M5A2(図35)がある。M5A2は37mm機関砲と40mm機関砲とで使用できた。







・レーダー

レーダー技術は第二次世界大戦開始時から急速に進化したものの、この新しい装備に対する前線からの要求と製品の性能とが一致しなかった。

戦場で使用された射撃管制レーダーはSCR-547(図36)をはじめ、幾つかの種類があった。このSCR-547はマイクロ波高度測定レーダーで、目視で目標を捕らえ、その距離と角度から目標の高度を出し、指揮装置へと送った。






他に、SCR-545レーダー(図37)は、2つのレーダーを2つにまとめたもので、その内の一つは探索と警戒に使用される長波レーダーで、もう一つは目標を自動追尾するマイクロ波レーダーである。






射撃用レーダー計画は1938年に始まり、SCR-584レーダー(図38)として実を結んだが、このレーダーはマイクロ波をを使って目標の探索と追尾を行った。方向角と俯角方向に自動で追尾を行え、戦争中において世界中で最優秀かつ最も進化した射撃用レーダーである。








・ヨーロッパ戦線での対空部隊の戦闘

第二次世界大戦での対空部隊は、地上部隊の掩護の為に対空火器を使用する事が多かった。色々な理由があると思われるが、中でも90mm高射砲や機関砲は対地上用火器としても十分に高性能であったからかと思われる。


・以下の文章は対空部隊の実戦闘の幾つかの例である:

レマーゲン橋頭堡:
1945年3月7日、アメリカ第一軍の第9機甲師団は、ライン川にかかるルーデンドルフ鉄橋を無傷のまま占領した。初めてこの橋に至った戦闘部隊の中の第482高射機関砲大隊の一部は、すぐに対岸に幾つかの小隊を送り込んで鉄橋を確保し、ドイツ軍の空からの攻撃から鉄橋を守ろうとした。このとき、レマーゲンは連合軍が手にしたライン川にかかる唯一の橋だった。ドイツ軍はこの橋を破壊しようと執拗に攻撃してきた。橋の防御は第16高射砲団(?Group)が行い、第11高射砲団が掩護に当った。この防御は部隊が渡りきるか、工兵によって他に橋が架けられるまで行われた。1945年の3月7日から21日の間にドイツ空軍から442回の攻撃を受けたものの、高射砲部隊は撃墜142機、未確認59機という戦果をあげた。

ドイツ軍が退却時に仕掛けた爆薬の爆発で鉄橋の強度が落ちて、段々と壊れていったものの、鉄橋の防御は成功した。

アントワープ:
1944年10月、連合軍はベルギーの港町であるアントワープを占領した。ドイツ軍はこれによって補給線が短くなり、米軍の第12軍と英軍の第21軍とに有利になると考え、10月24日からアントワープに対してV1ミサイルによる攻撃を開始した。攻撃は1945年の3月30日まで行われ、4883発のV1がアントワープに対して発射されたものの、港湾エリアに正確に届いたものは211発だけだった。

当時対空防御の司令官だったC.H.Armstrong大将に宛てたBernard Montgomery大将の手紙では、アントワープでの対空防御の効果に関して以下のように書かれていた。「第12軍と第21軍に対しての主要な補給基地として充分な任務を維持できたのは対空防御の成功のおかげであり、現在進行中の戦闘に大いに影響を与え、現在の作戦を滞りなく行う事が可能になった」

ブリュージュでの戦闘:
悪天候の為に、戦いの初期段階では航空掩護を受けられなかった。このため、90mm高射砲中隊が対地攻撃や対戦車攻撃の役割にも使用された。例えば第143高射砲大隊のC中隊(Leon E.Kent中尉の指揮下にあった)は、ベルギーのStaumontにいる第30歩兵師団の配下にあった。1944年12月18日、中隊は対地攻撃任務の命令をうけ、la GleizeとStaumont間の街道での防御を行った。Kent中尉以下、実戦は初めてだった。12月19日の午前7時、ドイツ軍の戦車が霧の中から突如現れ、街道を下ってきた。7時35分に2番砲が30ヤードの距離でタイガー戦車に対して発砲し、戦車を破壊した。2番砲はその後に残った戦車に破壊されてしまったが、砲員は無事で、バズーカ砲を持って霧の中に逃れ、さらに2台の戦車を破壊した。その後、第143高射砲大隊のB中隊は3台のタイガー戦車と、ドイツ軍に捕獲されていたシャーマン戦車を2000ヤードの距離で破壊した。ブルージュの戦いを通して、第143高射砲大隊全体では13台の戦車を破壊したのである。

この他にも、対空部隊が対地対空の両方の任務に活躍した例が多くあった。重要な点は、ヨーロッパ戦線での対空部隊が、連合軍の成功の鍵となっていたということである。このことは次に挙げる太平洋戦線での対空部隊の役割の中でも、同様であった。





太平洋戦線での対空戦闘(1941年〜1945年)


太平洋戦線


日本軍の戦闘機

1941年の日本軍の作戦機は、極限まで運動性を考慮して作られており、防弾性は殆ど無く、機体強度も弱かった。その為、連合軍の戦闘機や対空火器に対して大変に傷つきやすかった。日本軍の航空機の機体強度は本当に弱く、初期の日本軍の戦闘機が(逃れようとする)相手の急降下に合わせようとして、翼が破壊したり操縦不能になったりすることが多かった。戦争が進行するに従って、日本軍の戦闘機も改良されたものの、防御力に関しては需要に追いつけなかった。第二次世界大戦で見られた日本軍の主要な航空機について、以下簡単にまとめておく。

三菱のゼロ戦(Zeke、図39)は日本軍の戦闘機戦力の主力であり、このような戦闘機が他の日本軍の軍用機よりも多く製造されていた。1942年6月のミッドウェーの戦いまでは、太平洋戦線においてゼロ戦は無敵を誇っていた。それ以降、ゼロ戦の戦闘機としての位置は下降をたどり、戦争末期にはその殆どは特攻用の機体として使われた。ゼロ戦は最高速度334mphで、行動半径は1130マイル、武装は7.7mm機銃が2丁と20mm機関砲が2丁、また66ポンド爆弾を2発搭載できた。





川崎キ-61飛燕(Tony)は1943年から44年までの、日本陸軍の標準的な戦闘機であり、陸軍の戦闘機の中では最も優秀な機体の一つであった。飛燕の急降下性能は他の日本の戦闘機よりもはるかに優り、またアメリカの重戦闘機の急降下に唯一ついてゆける戦闘機でもあった。戦争末期には、B29に対する体当たり攻撃にも使用された。飛燕の最大速度は348mph、行動半径は1118マイル、武装は12.7mm機銃が2丁と20mm機関砲が2丁であった。

キ-61の大幅な改良型であるキ-100は、かなり優秀な飛行機だった。キ-100は連合軍の最優秀戦闘機の一つであるP-51ムスタングと渡り合えた。実際、P-51とキ-100との戦闘は、機体の能力の差よりもパイロットの技量や数によって優劣が決まっていた。しかしキ-100は主に本土防衛任務にしか使われなかった。

その他の日本軍の戦闘機の中でも、戦闘機対戦闘機の空中戦で際立っていたのが川西の紫電21型(George)である。平均的な腕前のパイロットが乗った紫電は、どの連合軍の戦闘機にも対抗できた。紫電21型の最高速度は370mph、行動半径は1069マイル、武装は7.7mm機銃2丁と20mm機関砲4門、これに1250ポンドの爆弾を搭載できた。




神風攻撃

1944年10月、アメリカの航空戦力に対抗できなくなり、日本の空軍は自殺攻撃(神風)を始めるようになった。神風特攻隊の日本人パイロットは、爆装した航空機を故意に敵の目標、主に艦艇にぶつけるのである。戦争全体を通してのアメリカの艦船の損害の50%は、神風攻撃によるものである。

三菱のゼロ戦は神風攻撃の主要な機体だったが、他にも色々な航空機が使用された。殆どの種類の長距離飛行可能な航空機が、この自殺攻撃に使われた。更に、神風攻撃専用の新しい飛行機も生産された。その一つが馬鹿爆弾(桜花)である。

馬鹿爆弾(桜花)は、第二次世界大戦における日本でのジェット推進による唯一航空機である。この有名な絶対確実(に死に至る)な武器は、1944年にUボートによって日本へ運ばれたドイツのジェット推進のグライダー爆弾をモデルにしている。馬鹿爆弾(桜花、図40)は一人乗りで、目標に一直線に突っ込み、その身を天皇に捧げるのである。馬鹿爆弾は運搬機によって運ばれ、目標の近くで発射される。




全長は6m、全幅は5mで、ジェットによる推進力が大きいので、最大1000km/h近い速度を出す事ができた。




日本軍の爆撃機

第二次世界大戦中の日本の爆撃機は、連合軍の爆撃機と比べると劣っていたが、戦争初期の連合軍による抵抗が比較的弱かった時期には、高い効率を挙げていた。戦争中の日本軍の主要な爆撃機は以下のとおりである。

三菱キ-21(Sally)重爆撃機(図41)は最大速度247mph、行動半径1680マイルで、最大爆弾搭載量は2205ポンドだった。固定武装は7.7mm機銃が6丁だった。




三菱G4M(Betty)重爆撃機(図42)は最大速度292mph、行動半径2670マイルで、固定武装は7.7mm機銃が6丁と20mm機関砲が1丁、2000ポンドの爆弾か1本の長魚雷を搭載可能だった。




中島キ-49(Helen)重爆撃機(図43)は最大速度305mph、行動半径1490マイルで、固定武装は7.7mm機銃が5丁と20mm機関砲が1丁、1654ポンドの爆弾を搭載可能だった。








太平洋戦線での対空火器

戦争開始時、太平洋戦線でのアメリカの対空部隊は間に合わせ的な、3インチ高射砲M2もしくはM4、12.7mm機関銃、そして聴音機付きの探照灯といった装備しか持っていなかった。真珠湾以降に出撃した最初の部隊では、機械式信管を装備した3インチ高射砲に、少数のSCR-268レーダー、そして37mm機関砲を装備していた。多くの37mm機関砲が残っており、40mmボフォース機関砲が到着した後でも使われていた。他には連装や四連装の架台に載せられた12.7mm機関銃が使われた。1944年に新型の射撃用レーダーSCR-584とM9指揮装置が前線に到着し、太平洋戦線における地上部隊の対空防御は完全になった。米軍によって制空権が一度確保されると、アメリカ軍の地上部隊の問題は根本的に小さくなり、戦争末期の神風攻撃くらいになった。




太平洋戦線での対空部隊の戦争詳細

ヨーロッパ戦線での対空部隊と同様、太平洋戦線でも対空部隊が対地防御戦闘に巻き込まれることがよくあった。この良い例の一つが以下に挙げるDorsey E.McCrory大尉のレポートからも判る。

「自動火器による地上支援の記録で最初に出てくるものの一つは、1943年8月13日にニューギニアのルーズベルト峰での第209機関砲大隊C中隊によって行われたものである。7月20日にアメリカ軍の歩兵部隊がルーズベルト峰で強力な反撃に遭った。彼らにできることは、峰の西端に待避して重傷者の手当てをするくらいだった。日本軍は地下に潜っており、野砲による支援は効果が無かった。8月13日にC中隊が射撃位置につき、1400ヤードの距離で7基の40mm機関砲と16丁の12.7mm機銃でもって、10時20分に射撃を開始した。35分間の射撃の後、敵の砲火を受ける前に歩兵部隊は峰の中央部まで進出することができた。歩兵部隊が止まると、C中隊は更に20分の射撃を行った。支援射撃が終わった後、歩兵部隊は残りの峰を敵の反撃も無く、一人の負傷者も出さずに占領する事ができた。自動火器によって日本軍はパニックになり、150から200の遺体を残して撤退していった。」

太平洋戦線での最も有名な防御の一つは、バターン半島での戦闘である。バターン半島はフィリピンのルソン島の西に位置しており、78000人の兵士によって守られていた。この内、66000人はEdward P.King少将の指揮下にあるフィリピン人であり、ルソン軍として知られており、バターン半島の飛行場を守備していた第60沿岸砲兵(高射砲)の一部を含んでいた。ルソン軍は1942年の初めまでにバターン半島へ撤退し、4ヶ月に渡って日本軍からの強力な圧力に対して抵抗を行った。1942年までに半島の食糧は殆ど枯渇してしまい、一人当りの一日の配給量が15オンスを下回った。貧弱な衛生状態、栄養失調、蚊と黒ハエの大量発生、衣類や住居の不足などにより、バターン半島の守備兵の殆どが病気になった。事実、1942年3月の終わりまでに、前線部隊の少なくとも75%がマラリアにかかっていた。1942年4月9日に、King少将はこれ以上は抵抗できず戦う意味もないとして、日本軍に対して降伏した。

そんな中、バターン半島とコレヒドール島での英雄的防御の中で、第60沿岸砲兵部隊(高射砲)は1ダースを越す殊勲十字勲章 (Distinguished Service Cross)、多くの銀星メダルと数が劣るものの銀星勲章そして大統領部隊感状(Presidential Unit Citation)をもらい、国の憧れの的になった。これは絶望的な状況の下で、50機を越す日本軍機を撃墜したからであった。不幸にもルソン軍でのこのような英雄的な活動があったにも関わらず、作戦では敗退してしまった。

(以下略)