第二次世界大戦中の対空防御






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Archie to SAM
a short operational history of ground-based air defense

Writen by: Kenneth P.Werrell
Pressed by: Air University Press






第一章 第二次世界大戦中の対空防御

対空防御の時代は、人が空を飛ぶようになるとすぐにやってきた。アメリカの南北戦争や普仏戦争において、対気球砲に関する記事が出ている。普仏戦争中に包囲されたパリから66の気球が脱出して行ったが、その内の1機がプロシア軍の砲撃で撃墜されている。そして地上火器による飛行機の初の撃墜があったのは、1912年のイタリアトルコ戦争の時である。

つまり、第一次世界大戦が始まる前に、すでに地上での対空防御システムの、明確な前兆が存在していたわけである。しかし、当時まだ少数の、役に立つかどうか良く判らない飛行機を攻撃する事よりも、対地上攻撃に関する事が遥かに重要であった。ドイツは第一次世界大戦の始まる10年も前に対空用に設計された砲を少数だが製作していたものの、この事に対して殆ど注意が払われなかった。ドイツでは戦争勃発時に18門の高射砲を持っていたが、6門は車載式、残りの12門は馬によって牽引された。さらに他のヨーロッパ諸国では、ドイツ程の関心すら持つことはなかったのである。初期の高射砲のほとんどは、一般の火砲を部分的に改造して、より大きな仰角と、より広い旋回角とを取れるようにしたものであった(図1)。高射砲の砲手が一般の砲手よりも一層需要を呼ぶようになったが、目標に命中させるのも遥かに難しかった。一般の火砲では2次元上の目標を狙えば良いが、高射砲では3次元空間を移動する目標を狙わなければならず、当然に距離や偏差の他に仰角も考慮しなければならなかった。その上、一度発射されてしまった砲弾は方向修正をする事は出来ず、目標まで何秒もの時間をかけて弾道曲線を描いて飛んでいくわけで、それも予め考慮して狙わなければならなかった。また当時の技術では、目標の探知、追跡、そして火器管制といった作業を行うには不十分でもあった。

第一次世界大戦中、両サイドの国々はそれぞれ相手先の都市を空襲した。ドイツはロンドンとパリを攻撃し、連合軍側の多くの兵力や資材を都市防空の作業にさかせた。イギリスの場合では、都市の防空にドイツの航空兵の8倍の兵力を必要とした。しかしイギリスの防空体制は次第に効率的なものになっていく。ドイツはその最後の大空襲(1918年3月19日)に43機の爆撃機で臨んだが、それに対してイギリスは延べ84機の戦闘機と、126門の高射砲から発射された3万発の砲弾で迎え撃った。この大々的な迎撃にも関わらず撃墜は3機のみだったが、一方で出撃した43機のうちロンドンの中心部にたどり着き爆撃が行えたものは13機のみであった。戦争を通じて、本土防衛により延べ201隻来襲した飛行船のうちの21隻と、延べ424機来襲した航空機の内27機を撃墜したが、この中の3隻のツッペリンと11〜13機の航空機は高射砲によって撃墜したものである。1918年の11月の時点でイギリスが本土防空に配備していた戦力は、高射砲が480門と航空機が376機であった。

第一次世界大戦中の航空機による作戦は戦略的なものではなく、陸上支援であった。西部戦線においてドイツ軍の高射砲は1588機の連合軍の航空機を撃墜し(撃墜した総数の19%を占める)、それに対して連合軍側が高射砲で撃墜したドイツ軍機は、フランス軍で500機、イタリアで129機、イギリスの遠征軍で341機、アメリカ軍で58機にのぼる。高射砲も、大急ぎで改良された高射砲専用の機器類によって効率が良くなっていったが、それに比べると航空機の能力の進歩は穏やかなものであった。この時に登場した防空技術には、空中聴音機、探照灯、光学測距儀、そして機械式時限信管がある。その結果として、1機撃墜するのに必要な砲弾の量は大幅に下がり、ドイツでは1915年に11600発だったものが1918年には5000発に、フランスでは1916年の11000発から1918年の7000発、ロシアは1916年の11000発から1917年の3000発、イギリスは1917年の8000発から1918年の4550発になった。アメリカの高射砲部隊は3ヶ月で17機のドイツ軍機を撃墜した際に、平均で1機あたり605発という記録を作っている。

第一次世界大戦中に大幅な進化を遂げたのと対照的に、両大戦間には対空防御は殆ど進化しなかった。数少ない高射砲部隊の主力装備は第一次世界大戦時の3インチ高射砲であり、その中の最も装備のいい部隊に聴音機が配備されているくらいであった(図2)。 1928年に、アメリカは航空機の高度が上がるのにあわせて、有効射高が21000フィートの3インチ高射砲M3を採用した。その間、交換可能な砲のライナーや、自動排莢機構や連続信管測合装置といった新しい技術が開発され、高射砲は更に進化を遂げた。しかし1930年代の航空機産業の急速な発展によって航空機の速度と高度とは飛躍的に上がり、3インチ高射砲や空中聴音機はすぐに時代遅れになってしまった。短い間ではあるが、1930年代末までは攻撃力としての航空機が防御力としての対空兵器を凌駕していた。

1930年代後半になると、世界的に新しい装備が対空部隊に配備されるようになった。口径の増加が少しでも威力は大幅に向上し、主要国では口径90mm前後で初速が2800から3000フィート/秒、1分間に30発の射撃が可能な高射砲が採用されていった。ドイツでは88mm高射砲(図3)が採用され、イギリスでは3.7インチ(94mm)高射砲の試作が1936年に行われ、アメリカでも3インチ高射砲から90mm高射砲への交換を1940年から開始した。また全ての主要国では新しい探知技術の試験を行っていたが、レーダーの分野で一歩進んでいたのはイギリスだった。レーダーは防御側にとってかなり大きな優位を与えるものであり、まずは早期警戒の用途に、後には戦闘機の迎撃指示に(主に陸上用で、機上用レーダーも開発された)、最終的には高射砲の照準に使われた。



・イギリスの対空兵器

ヨーロッパ各国の中で、イギリスが最も深刻な防空に関する問題を抱えていた。それは他のヨーロッパ諸国の首都と比べて、ロンドンは最もわかりやすく、最も国境に近かったからである。チャーチルの表現豊かで恐ろしい例えで表現するならば、イギリスの首都は「野獣への生贄に捧げられた、巨大な太った牛」であった。イギリスは空軍力が決定的である事を確信し、そして「ノックアウトブロー(直訳だと強烈な一撃)」と呼ばれるものを恐れていた。イギリス人は、イタリアのGiulio DouhetやイギリスのSir Hugh Trenchard、そしてアメリカのWilliam Billy Mitchellといった理論家達の唱える陰鬱な予言を信じていた。それによると、空軍力によって都市が破壊され、工業力が粉砕され、それによって市民はパニックに陥り、遂には降伏せざるを得なくなるというものでだった。こうした飛行家達は、首相であるSranley Baldwinが簡単に「爆撃機の行く手を阻む事はできない(原文では、自由に飛来する)」と例えたように、爆撃機に対して直接的な防御手段は存在しないと信じていた。早期警戒情報が無ければ、広大な空を高高度にて高速で飛来する爆撃機を迎撃可能な唯一の手段は空中でのパトロールだけだったが、常時これを行うことは現実的ではなかったので、防空問題は解決不可能と見られていた。また他にも、小数の爆撃機でも決定的な結果をもたらすような十分な火力(高性能爆薬や焼夷弾、毒ガスなどによる)を発揮できるものだと信じられていたことも、トップの決断力を鈍らせていた。その為、イギリスは、敵の空襲を防止するためには報復爆撃の恐怖しかないとして、戦略爆撃力の育成に励んだのである。しかし1937年までには、王立空軍(RAF)はその軸足を爆撃機から戦闘機へと移行した。またそれと同時にイギリスはレーダーを全国規模の指揮系統とコントロールシステムへと統合し、防空問題解決の為の新しい手法として育てようとした。しかし、それでもやはり1930年代後半のイギリスの防空力は取るに足らないものであった(図4)。1938年の1月1日現在で、イギリスには50mm以上の口径の高射砲が180門しかなかった。その後随時増加され、1938年9月(ミュンヘン会談)までには341門に、1939年9月(第二次世界大戦勃発)までに540門、そしてバトルオブブリテン時には1140門になっていた。

バトルオブブリテンでは、イギリスが主張するドイツ軍機の総撃墜数である1733機の内、高射砲が撃墜できたのはたった357機だけで、高射砲部隊は英空軍の補助的な役割しか担えなかった(新しい調査によると、更に減って300機を下回っている)。しかし、撃墜数以外の効果も十分に考慮すべきである。1940年の9月の終わりまでに、イギリスは空襲に来たドイツ軍爆撃機の内の48%を防衛ラインで追い返したと見積もっている。多く見積もり過ぎているとはいえ、高射砲の存在の為に爆撃機がより高空を飛行しなければならなくなり、乗員を不安にさせ、その結果、爆撃がより不正確になったことは間違いが無い。それに加えて当時はまだ夜間戦闘機が十分に効力を発揮できなかったので、夜間空襲に対しては高射砲が主要兵器の座を占めていた。1940年末までにイギリスが夜間戦闘で撃墜した85%が、高射砲によるものであった。

イギリスの高射砲部隊は幾つもの問題を抱えていた。その1つで、いまだに対空防御において困難な問題であるにも関わらず、殆ど議論に上らないのが「友軍による誤射」である。実際のところ、開戦3日後にイギリス軍が初めて撃墜したのは、不幸にも味方識別信号を正しく出していた友軍機で、イギリス軍が初めてドイツ軍機を撃墜したのは、それから1ヵ月後の1939年10月19日になってからである。古い3インチ高射砲を1943年まで使い続けていたことも、イギリスの対空防御力を弱めるもう1つの要因となった。そしておそらく最も大きな要因は、目標追尾を光学機器に頼っていた事である。イギリス軍では、1940年の10月になってようやく射撃用レーダーを装備し始めた。レーダーの装備による効果は大きかった。夜間における1機の撃墜に必要な砲弾数は、1940年9月(ドイツ軍が夜間空襲を始めた時)に30000発だったものが、10月には11000発に、そして翌年の1月には4087発にまで下がったのである。
イギリスの高射砲部隊では、戦争を通じて人員不足の問題も付いて回った。イギリスは正規の高射砲部隊を海外へ送り出し、本土防衛はアメリカの州兵に似た国防義勇兵に依存していた。戦争開始時にはその国防義勇兵の質も良かったが、戦争が続いて行くに従って経験者は他の部隊へと転属させられてゆき、義勇兵の質は低下する一方であった。徴兵センターにある医療検査をパスした最初の25人の民兵のグループがとある高射砲陣地に到着したが、この内の2名が重度の性病患者で、他に右手が麻痺したり、精神病患者だったり、親指が無かったり、走ると義眼が落ちてしまう者までが含まれているような状態であった。

高射砲部隊での人員の枯渇によって、イギリスは革新的な方法を採らざるを得なくなった。その1つは混合中隊(mixed battery)と呼ばれる部署へ女性を配属するというもので、その最初のものは1941年の8月に実施された。この部隊の配備先はイギリス本土に限定されていたが、1944年の11月にはフランスへ渡っている。配属された女性達は、砲弾の装填や射撃といった重労働を必要とする部署以外の、全てに配属された。
女性は良く働いた。女性が果たして役に立つのかという問題は、彼女自身からではなく、彼女達の両親や、友達や、そしてイギリス文化によって出されたものであった。ある歴史家は以下のように書いている。「女性は、高射砲の機器類やレーダーを操作する技術を本能的にそなえていた。操作を中断して待つ事や、また敵の空襲に対して立ちっぱなしで居る事については、男性よりも優れていた」。こうして戦争期間を通じて、全体で68000人にものぼる女性が、イギリス軍の高射砲部隊で働いた。
もう1つの人材不足を解決する方法というのは、国防市民軍(Home Guard)を使うことだった。国防市民軍に所属している人達の殆どは、気力こそあれ高齢過ぎたり物理的な制限を持っていた。それに加えて、国防市民軍は28日中48時間しか勤務が出来ない事になっていた。ピークには、1944年1月時点で145000人を越える国防市民軍が高射砲部隊で働いていた。1941年10月の始め、国防市民軍に採用された兵器が、誘導装置の無い対空ロケット弾(図6)である。このロケットは見た目は派手だが、しかし軍事的には効率が悪かった。
これら以外の人員不足への対策としては、他に高射砲部隊の要員の数を減らし、1941年には330000人だったものを1942年の中頃には264000人とした。イギリスは全ての需要に満足の行くだけの人員を配備するのではなく、逆に高射砲部隊に配属可能な人員の数からイギリスに配置する高射砲の数を決定したのである。

初期の頃、ノルウェーとフランスの両戦線において連合軍の野戦高射砲部隊の能力が不十分である事が判明した。イギリスの野戦高射砲部隊はダンケルクで多少増しな成果を残したが、あまり効果が無かったのは一緒だった。イギリス陸軍と高射砲部隊の失敗は、1941年のギリシャ戦線でもまた明らかになった。しかし例え作戦で敗北していても、対空火器の威力は明らかであった。クレタ島では、イギリスはかき集めた16門の3.7インチ高射砲に16門の3インチ高射砲、そして37門の40mm機関砲に3門の2ポンド砲で構成された寄せ集め部隊で、280機の爆撃機と150機の急降下爆撃機、そして180機の戦闘機からなるドイツ空軍に挑んだのである。それにも関わらず、イギリス軍はドイツ軍に対して大きな損害を与え、敗北寸前まで追い詰めたのである。ドイツは合計で147機の航空機を高射砲によって、また73機を他の理由で失い、63機が大破した。そして連合軍の高射砲がドイツ空軍(GAF)に与える損害は、次第に大きくなっていった。
例えばトブルク包囲戦において、ドイツ空軍はイギリスの高射砲を沈黙させて、トブルク港を陥落させようとした。ガソリンが止められた1941年4月から解囲される1941年11月までに、イギリスの高射砲部隊は28門の高射砲と18門の40mmボフォース機関砲、そしてイタリア軍から鹵獲した42門の20mmブレダ機関砲によって延べ4105機の航空機と交戦し、その内の374機を撃墜、もしくは撃破した。そしてそれよりも重要な点は、トブルク包囲中にドイツ軍が撃沈できた輸送船は7隻だけで、港の封鎖に失敗した事であった。

1941年に枢軸空軍が、シチリア島から60マイルしか離れておらず、また地中海と北アフリカでの戦いでの重要拠点であるマルタ島を空襲した。マルタ島は海軍による封鎖と空軍による包囲に対して1年以上良く耐えたが、高射砲のみによって防御することも多かった。1941年1月には70門の高射砲と34門の機関砲があるだけだったが、7月までにそれぞれ112門と118門に増加された。これに対抗するドイツ軍側の戦術の1つは砲座を直接攻撃することで、ドイツ空軍は5ヶ月の間に115回の攻撃を行ったが、これによって5門の高射砲と3門の機関砲を破壊され、149人が死亡、290人が負傷した。1942年の初めにはドイツ空軍はマルタ島上空の制空権を握り、猛烈な攻撃をかけた。2ヶ月間は高射砲部隊だけがマルタ島を守っている状態だった。中でも酷かったのは4月で、枢軸空軍は延べ10323機を出撃させ、約7000トンの爆弾を投下し、その内の約半数がマルタ島に落とされた。イギリス軍はその月に102機を撃墜したと主張したが、実際のところ撃墜できたのは37機程であった。作戦全体では、防御側の航空機と高射砲は、1199回の空襲で860機から1000機を撃墜したと主張するが、枢軸軍側が認めたのは567機である。撃墜の実数がどちらであったとしても、マルタ島防衛の成功が、北アフリカでの枢軸軍の敗北に寄与するところが相当に大きかった。この戦闘は、恐らく連合軍側の高射砲が戦争に与えた影響の中で最も重要なものであったといえる。

技術の発達も対空防御を強化した。1943年までにイギリスでは火薬式信管から機械式信管へと更新した。発射閃光の出ない装薬も高射砲の効率を上げ、更に自動信管測合装置によって信管設定の正確性が上がり、それと共に発射速度の要素が2と1/2から3へと向上した(不明、時間当りの発射弾数か?)。またこの時、電気式指揮装置が導入された。

対ソ連作戦の開始によってドイツの軸足は東へと移り、ドイツ空軍によるイギリス本土への空襲は1941年になると止まった。1942年3月27日に、ドイツ軍はイギリス南部の海岸沿いの都市に対して低高度で進入した少数機の戦闘爆撃機による新しい空襲を開始した。低高度の攻撃機を探知する早期警戒装置の不足と、広い範囲に分散した攻撃目標、そして高射機関砲の不足により、防御側にとって大きな問題となった。イギリス軍は2つ目までの要素に対しては何ら対応できなかったが、1942年3月に41門だった40mm機関砲を大幅に増量し、同年9月の終わりには267門となった。1943年の4月までに、イギリスは917門の40mm機関砲と、424門の20mm機関砲、506門の2ポンド砲を南部の海岸沿いに配置したが、これにはイギリスで利用可能な40mm機関砲の1/3と、イギリスにある軽高射砲部隊の内の2/5が含まれていた。そして砲手の警戒と高射砲の増加により素晴らしい成果を出した。5月23日には延べ42機の攻撃に対して4機撃墜、5月25日には延べ24機に対して4機撃墜、また5月30日には延べ35機に対して10機を撃墜した。周辺目標に対する一撃離脱攻撃という新しい空襲において、イギリスは延べ1250機のうちの56機を撃墜したと主張しているが、これから計算すると撃墜率は4.5%となる(図8)。



・V-1作戦

イギリス本土での高射砲部隊の最後の大きな対象は、ドイツの無人飛行爆弾V-1と弾道ミサイルV-2であった。このV-1飛行爆弾はブーブー爆弾とも呼ばれているが、2トンの弾頭を時速400マイル(mph)で160マイル飛ばすことが出来た。連合軍はこれに対してV-1の発射場や組立工場、貯蔵庫等の空襲や、戦闘機によるパトロール、阻塞気球、そして高射砲によって防備を固めた。V-1は始めは高度7500フィートを400mphで、後に高度7000フィートを350mph、最終的には高度6000フィートを330mphで飛行するものとして防空戦闘を行った。1944年1月に、イギリスは本土防衛の為の詳細な計画を実施した(図9)。これはロンドンの直ぐ南に配置された戦闘機による警戒線と400門の高射砲、346門の機関砲による防空線によって構成されている。しかしD-Day作戦の支援の必要や、ドイツ軍の爆撃機の基地に対する爆撃の結果を楽天的に見積もった為に、3月までにイギリスはこの計画を見直した。ロンドンを防衛する高射砲と機関砲の数を、192門と246門に減らし、イギリス全体でも高射砲の数を528門から288門へ、また機関砲の数も804門から282門へと削減した。これに対して防空司令官であった空軍大将(Air Chief Marshal)ロデリック ヒルは、こちらの予想した高度6000フィートでない、高度2000〜3000フィートでV-1が飛行してきた場合に高射砲部隊による防御が困難になると指摘した。
1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦以降、アドルフヒトラーはドイツ軍の支援の一環としてV-1による攻撃を強化させた。ドイツ軍は6月12日に爆撃を開始したが、その際は2斉射しか発射できなかった。しかし6月21日までには500機の、6月29日までには2000機、そして7月22日までに5000機のV-1を発射した。こうしたV-1による攻撃は、ドイツ軍が連合軍の陸上部隊の攻撃に押されてフランスから撤退する9月まで続けられた。
V-1はその攻撃初期には、海峡を越して海岸線まで平均340mphで飛行し、そこから速度を400mphまで増して燃料が切れるまで飛行した。このため、戦闘機のパイロットはV-1を発見して撃墜するまでに6分間しか時間がなかった。V-1はFW190の半分の大きさしかなかった為に視認することが難しかった。この問題はV-1の飛行高度が2100〜2500フィートという低空であったことによって、更に問題となった。またV-1は発見し接敵するのが難しいだけでなく、なかなか撃墜できなかった。ある情報によると、たとえ直線・等高度飛行であったとしてもミサイルは有人飛行機の8倍撃墜が難しいとある。この情報は多少大げさかもしれないが、ともかくV-1は撃墜の難しい目標だった。
連合軍は、戦闘機部隊を着実に増やしてゆき、戦闘機が15個中隊、夜間戦闘機が8個中隊となった(このうち2個中隊が臨時編成)。また好天時には戦闘機部隊が全面的に攻撃し、また悪天候時には高射砲部隊が自由に射撃するという交戦規定も作られた。好天でも悪天候でもない中途半端な天気の時は、多くの場合8000フィートまでは高射砲部隊が自由射撃を行っていた。7月10日にイギリスは6月26日の命令を改正し、戦闘機部隊がV-1の追撃が長引いた場合に高射砲地帯への進入を許可するようにした。結果として戦闘機のパイロットは射撃中の高射砲地帯へ自分達のリスクで侵入したのである。
攻撃的(ドイツ空軍基地の)爆撃、戦闘機による警戒線に継ぐイギリスの3番目の防衛線は高射砲部隊によるものである。V-1作戦が始まった時には、192門の高射砲と200門の機関砲とを直ちに配備したが、1944年の6月の終わりまでにはどちらも増加されて高射砲は376門、機関砲は594門、対空ロケット砲が362門になっていた。こうした高射砲の増量にも関わらず、イギリスの防空網は十分な機能を発揮できずV-1はすり抜けていった。V-1が飛行する2000〜3000フィートは防御側にとって最も難しい高度だった。機関砲にすれば高度が高すぎ、高射砲にすれば高度が低すぎたのである。特に牽引式の高射砲はスムーズに素早く旋回出来なかった為に、この目標に対しては満足に使えないことが判明した。ドイツ軍による反撃(実施されなかったが)からの防御の為に盆地や谷地に配備したレーダーも使いづらかった。高射砲地帯がロンドンに近すぎた事によって別の問題も出てきた。多くのV-1が、撃墜したにも関わらず、そのままロンドンへと落下してしまったのである。そしてついにはミサイルを追跡しているパイロットが高射砲地帯に迷い込み、それによって同士討ちを避けるために高射砲が射撃を抑制しなければならなくなるといった、高射砲と戦闘機とがお互いに邪魔し合う事が多く発生するようになった。防空部隊は、そうした状況に対して速やかに効果的で柔軟な調整を行い、それによって大いに信頼を得て、最終的に成功することによって大きな責任を果たしたのである。
防空部隊はこの問題のいくつかに対しては、直ぐに対策を打った。1944年6月18日にイギリスはロンドン周辺の高射砲の射撃を中止させ、6月の終わりまでにレーダーを高地へと移動させた。また防空部隊は牽引式高射砲の為の永久砲座を築いた(図10)。この28本の線路の枕木と12本の接合材とで造られた砲座は、始めパイルの可搬式砲座と呼ばれていたが、直ぐに高射砲部隊司令官のGen Fredrick Pileによってパイルマットレスと命名され、広まった。6月の後半には、固定式高射砲を可搬式高射砲に置き換え、7月の始めにはより高性能な高射指揮装置の実用を始めた。
ただし、解決の難しかった被弾したV-1がロンドンに落下してしまう問題と(何かによってダメージを受ける事によって弾頭が爆発する仕組みになっていた為)、高射砲と戦闘機とが互いに邪魔になるという問題は、残ったままだった。
HillとPileは、全ての航空機を締め出すように、全ての高射砲地帯を配置すべきであると結論付けた。このアイデアから、参謀将校は高射砲とレーダーを海岸線へ移動することを提案した。この位置変更によって、撃墜したミサイルがロンドンに落下するのを防ぎ、またレーダーと高射砲に最適な視界を提供した。そしてこの方針は戦闘機のパイロットに対して、高射砲区域と戦闘機区域の間の境界を明確にしたのである(海岸線なので判りやすくなった)。それとほぼ同じ頃、著名な科学者でレーダーの開発を行っていたRobert Watson-Wattも、多少それよりも比重を置いた同様なコンセプトへと行き着いた。
この計画には幾つもの危険性が存在した。まず第一に効率性に対する疑問があげられた。この新しいコンセプトが本当に防空部隊を強化するのか。戦闘区域の分割によって、7月13日現在で1192機のV-1のうち883機を撃墜した戦闘機の働きを抑制するのではないのか。そして第二に、この再配置に必要な何百という高射砲や何千という人員、そして何万トンという補給品や装備品の移動にどれだけの時間がかかるのか。その間の防空体制は大丈夫なのか。そして最後に、この提案に対する明確な決断を得るまでにどれくらいかかるのか。時間が経つごとに、可搬式高射砲はパイルマットレスへと転換され、多くの高射砲が高射砲地帯へと移動され、その分だけ配置転換が難しくなってゆくのである。
7月13日に、Hillは全ての高射砲地帯を海岸線へ移動する決定をした。この上層部の大胆で素早い実施と、その決断が実行されたスピードとは、共に注目に値するものである。7月17日までに、高射砲、レーダー、そして補給品と装備品が、それに続く2日間で機関砲が運搬された。この23000人と60000トンの資材の運搬の功績は決して小さいものではない。イギリスはDoverからBeachy Head に渡る海岸線に高射砲を配置し、海側へ10000ヤード、内陸へ5000ヤードの高射砲区域を作った。そしてこの区域内では、航空機は8000フィート以上の高度を飛行するよう制限された。しかし戦闘機のパイロットは高射砲地帯と阻塞気球ラインに挟まれた、英仏海峡からイングランドの上空を、自由に飛び回ることができた。
高射砲の再配置と航空機と高射砲の分離が防空部隊の効率を上げる主な要因になったが、この他にも要因があった。海岸線地帯の高射砲の数は7月1日に376門だったのが、7月23日には416門、7月30日には512門、そして8月7日には592門へと増加された。それに加えて、892門の40mm機関砲と504門の20mm機関砲、それに加えて254門のロケット発射機があった。また更に、イギリスの3.7インチ高射砲やアメリカの90mm高射砲で使用可能な、アメリカの新型レーダー(SCR-584)と高射指揮装置も、防空能力を向上させた。その他の主な技術的進歩には、セットされた距離に目標が入ると爆発する近接信管の登場がある。この新しい信管は、それまでの時間信管や着発信管に比べて5倍近く効率が良かった。そして最後に、砲手がたゆまぬ訓練によって高射砲の命中率を向上させた事も数えられる。 こうした進歩に、(経験で?)知りえたV-1の飛行方向、高度、そして速度を加える事によって、防空部隊の効率を劇的に向上させることが出来た。再配置前には発見したV-1の内の42%しか撃墜できなかったが、再配置後にはその割合は59%に上がっている。このデータと似ているものの厳密には同一でない別のデータによれば、再配置前には陸上で発見されたV-1の内の48%を撃墜していたが、再配置後には84%を撃墜しているとある。中でも効率が良かったのが8月27日の夜と8月28日の早朝にかけてで、97機のV-1の内の90機を撃墜し、たった4機しかロンドンに届かなかったと報告されている。
高射砲部隊の撃墜率が大幅に向上した事が、防空能力の向上に大きく寄与している。高射砲部隊では再配置前には22%しか撃墜できていなかったのが、再配置後には54%に上昇しており、また再配置後でも最初の1週間は17%まで落ち込んでいたが、最後の4日間(8月29日から9月1日まで)には74%にまで上昇している。
この夏季作戦で、ドイツ軍はV-1を爆撃機から発射する方法を採り始めた。イギリスが察知した初めてのV-1の空中発射試験は、1944年4月6日にPeenemundeで行われたもので、またイギリスに対して初めて実戦で発射されたのは1944年7月9日である。そしてこの日から9月5日まで、ドイツ空軍によって空中発射されたV-1は400機にものぼった。ドイツ軍のフランスからの撤退により従来のV-1の発射場が使えなくなった為に、このV-1の空中発射が戦争の最後の数ヶ月間での、イギリスにおける主な空の脅威となった。9月5日から1945年1月14日までの間に、さらに1400機のV-1がイギリスに向けて発射されたが、命中精度がとても低かったこともあって、ロンドンまで届いたのはたった66機だけだった。
最後に行われたイギリスに対するV-1での攻撃は、ドイツが長距離型のV-1を公表した1945年3月に行われた。V-1に軽量の翼を取り付け、弾頭を軽く(36%減少)したことによって燃料を50%増量することができ、これによって一般のV-1では約150〜160マイルだった飛行距離を、220マイルにまで増やした。ドイツ軍はこの改良型V-1をオランダの発射台から3月3日に発射した。この日から3月29日までドイツ軍は275機の改良型V-1をイギリスに向けて発射したが、ロンドンまで届いたのは13機だけだった。この新兵器に関する偵察写真と写真分析の報告から、連合軍は2月27日に北部の防御を戦闘機7個中隊と夜間戦闘機3個中隊で増強する旨を命令したが、高射砲部隊が大いに活躍した為、戦闘機1個中隊を除く全ての増援を元に戻した。防空部隊は発見した125機のV-1の内の73%を撃墜している。
ドイツ軍は10500機のV-1をイギリスに向けて発射したが、その内の2000機は発射後すぐに壊れている。防空部隊は7500機のV-1を発見し、その内の4000機を撃墜した(53%)。その内訳は、戦闘機部隊によるものが1847機、高射砲によるものが1878機、そして阻塞気球によるものが232機である(図12)。発見したV-1の撃墜効率も、海岸への再配置前(7月16日から9月5日まで)には42%だったものが、再配置後(1944年の9月16日から1945年の1月14日まで)には59%にまで向上した。高射砲での撃墜率は、空中発射のV-1で1944年の9月16日から1945年の1月14日の間で59%、オランダの発射場から発射されたV-1で33%である。別な見方をすると、ロンドンにV-1が届く確率は、先ほど挙げたのと同じ発射方法と発射時期において減少しており(29%->23%、6%->5%)、全体では23%にしかならなかった。約2419機のV-1がロンドンの市民防衛区域に落下し、6184人が死亡、17981人が重傷を負った。被害者の内の約5%が防空部隊関係の人であり、約92%がロンドン地区での犠牲者だった。
V-1を全体的に評価しようとするならば、第二次世界大戦中にイギリス市民に被害を与えたドイツ軍のほかの兵器と比較しなければならない。ドイツ軍の爆撃機による死者は51509人、V-2によるものは2754人、そして長射程砲によるものは148人である。第二次世界大戦でのイギリス市民の死傷者146777人のうち、爆撃によるものは112932人、V-1は24165人、V-2は9277人、そして長射程砲によるものが403人である。V-1やV-2の与えた影響は、イギリス市民を死傷させただけではなかった。5年にもわたる混乱によって、国民戦争のモラルを下げた。V-1とV-2による攻撃によって約150万人のロンドン市民がロンドンを離れたが、それは電撃戦の時に避難した市民よりも遥かに多かった。そしてこの間、国の発表によると生産力が4分の1にまで落ちてしまった。また防空体制をとるために、多くの戦闘機中隊と、約25万人の人員、そして2500門の高射砲が動員されたのである。
もう1つのV-1に関する作戦の話で、よく見過ごされてしまうが、ドイツ軍は大陸の目標に向かっても7400から9000機のV-1を発射しており、その殆どが(4900機)ベルギーのアントワープに向けてである。アントワープの防御の為に、18000人の隊員が208門の90mm高射砲と128門の3.7インチ砲、そして188門の40mm機関砲を操作した。それに加えて、280基の阻塞気球を使った。阻塞気球は後に1400基にまで増加された。アントワープの防備には戦闘機は使われなかったが、この主な理由はV-1の発射場から目標までが近かったからである。
ドイツ軍は10月からアントワープに向けて南東側からV-1を発射した。12月中頃には、発射場をアントワープの北東側へ移動し、そして1月の終わりには北側へと移動した。この最後の北からの攻撃は、北側にあった大きな空港が1945年2月21日まで閉鎖されなかった為に防御に大きな問題を生じさせた。それでも防空部隊は発見した2394機のV-1のうち、91%にものぼる2183機を撃墜したのである。その上、防空部隊が重要区域とした造船ドックから半径7000ヤードの範囲には211機しか届かなかったし、造船ドックに命中したものは150機だった。またドイツ軍はベルギーのリエージュにも3000機のV-1を発射した。大陸全体ではV-1によって947人の兵員と3736人の市民が死亡し、1909人の兵員と8166人の市民が負傷した。中でもアントワープでは1812人の兵員と8333人の市民が死傷したが、これは大陸全体の死傷者14758人中の10145人にあたる。




・アメリカの高射砲部隊

アメリカの高射砲部隊は戦闘において目覚しい活躍をした(図13)。ノルマンディー上陸作戦(1944年6月7日から30日)の初めの1ヶ月の間、延べ682機の攻撃に対して96機を撃墜した。続く、7月31日から8月6日の間の橋頭堡からの内陸部への侵攻の際、ドイツ空軍は1312機でAvranchesの地狭部(?bottleneck)を通過しようとするアメリカ軍を攻撃した。アメリカ軍の高射部隊は58機しか撃墜できなかったものの、ドイツ空軍も橋やダムといった重要目標を1つも破壊できなかった。また別の例としてドイツ空軍は1944年12月3日に、アメリカの第一軍に対して80から100機の航空機で攻撃をかけたが、30から41機を45分間の戦闘中に失うはめになった。バルジ作戦(1944年12月16日から45年1月1日)では、第一軍の高射砲部隊が延べ1178機のドイツ軍機の内の366機を撃墜もしくは撃破したとしている。
連合軍の高射砲部隊における最も壮観な1日は、1945年の1月1日に発生した。ドイツ空軍の計画では、Ju88夜間戦闘機に導かれた900機の戦闘爆撃機で連合軍側の16ヶ所の空港を攻撃するというものだった。しかし連合軍との戦線に至るまでに味方の高射砲によって攻撃部隊の内の100機が撃墜されてしまった為に、攻撃力は大きく下がってしまった(この同士討ちは、ドイツ軍の高射砲部隊がドイツ空軍に所属していたという視点からみると興味深い)。更に悪天候、練習不足、混乱、連合軍の高射砲、連合軍の戦闘機が攻撃部隊の威力を下げてしまった。連合軍側の損害は計画よりも遥かに少なく、ドイツ側の損害は相当に大きかった。ドイツ空軍は連合軍の航空機を地上で402機、空中で65機を破壊したと主張しているが、連合軍側の発表では236機が地上で破壊もしくは大破、23機が空中で失われたとしている。一方でドイツ軍はこの攻撃で304機と232人のパイロットを失ったとしている。連合軍側のパイロットは102機を撃墜したと主張、高射砲部隊は185機から394機と主張している(185機は確実なもの、394機は確実なものに未確認のものを加えた数字である)。連合軍は137機のドイツ軍機が自軍の制空権内を彷徨っているのを再発見し、戦闘機で57機、高射砲で80機を撃墜した。
戦闘の混乱振りをよりはっきりとするために、ある空港への攻撃の詳細を見ていく。ドイツ軍の戦闘機部隊であるJG11は65機の戦闘機で構成され、連合軍側のベルギーのAschにある空港(Y-29)を攻撃目標としており、またこの空港にはイギリスのスピットファイアー4個中隊と、アメリカの戦闘機2個大隊が駐屯していた。ドイツ軍機がAschを攻撃した時、スピットファイア1個中隊とサンダーボルト1個中隊が空中で迎撃し、また第352戦闘機大隊の12機のP-51が離陸中であった。第352大隊の隊長であるJohn Meyer大佐は、自機の車輪を格納し終えるまでに1機のFw190を撃墜したと言っている。そして乱戦の結果、アメリカ軍のパイロットは32機、イギリス軍のパイロットは1機の撃墜を主張し、高射砲の撃墜数も含めた全体では、50機のドイツ軍機の内の35〜41機を撃墜したとしている。連合軍側の損失は、空中戦で1機のP-47が撃墜されたのと、地上で7機のスピットファイアと何機かのC-47が破壊されただけである。ドイツ軍側は攻撃によって27機を失った事を認めている。
それから数ヵ月後に、アメリカ軍の高射砲部隊が別の印象的な記録を残している。1945年3月7日に、ドイツのライン川にかかるレマーゲン鉄橋でアメリカ軍が予期せぬ足止めをくらった後、ドイツ軍は鉄橋を破壊すべく、相当な、そして自暴自棄な攻撃を行った。90mm高射砲64門、40mm機関砲216門、37mm機関砲24門、4連装12.7mm機銃228基に単装12.7mm機銃140丁から成るアメリカ軍の防空部隊は、3月14日までに攻撃に来た442機の内の142機を撃墜したと主張している。そしてそれにも増して重要なのことにドイツ軍は鉄橋の攻撃には失敗している。
対空部隊の成果を示すものとして、2つの統計学上の数値がある。ヨーロッパ戦線でのアメリカ軍の第12軍団(第1、第3、第9軍)は延べ14776機のドイツ軍機によって攻撃されたと記録し、またアメリカ軍の高射砲部隊はその内の2070機を撃墜したとしている。またドイツ空軍は戦争中に29953機を敵の行動等で失ったと記録し、その内の14938機をドイツで失ったが、対空砲火によって撃墜されたものは2598機であると主張している。




・ドイツ軍の高射砲

第二次世界大戦での全ての戦闘部隊の中で、対空防御に関してはドイツが最も経験を積んでいた。ドイツに対空兵器を禁止したベルサイユ平和条約から長い道のりを経て、そこまでたどり着いたのである。ドイツはその条項を何とか避けたかったものの、条約が成立するとヒトラーが政権を握る1933年までの間、対空火器を持たず、1934年の4月になってドイツは空軍に対空兵器を装備した。初めは、ドイツ軍は対空兵器を本土を敵の航空機から守る主力として考えていた。そしてスペイン戦争での経験から、高射砲が歩兵の掩護兵器としても使用可能であることが判明し、高射砲部隊の役割を拡大した。スペイン戦争を基にして、ドイツ軍は高射砲部隊の数を倍にした。そして第二次世界大戦が勃発したときには、ドイツは2600門の高射砲と6700門の機関砲を持っていたが、これは当時としては世界で最も大きな防空兵力であった。
ドイツ軍の最も有名な火砲は88mm高射砲である。この口径の高射砲は第一次世界大戦時にも使われていたが、大戦間にスウェーデンのボフォース社で働いていたクルップの設計者が、新しい88mm高射砲の基本設計を行い、1931年に新設計の高射砲と共にドイツに帰ってきた。その結果、第二次世界大戦におけるドイツの高射砲の60%が88mm高射砲18/36/37型で占められた。この高射砲は20.3ポンドの砲弾を初速2600fpsで発射し、有効射高は26000フィートだった。これを他の高射砲と比較してみると、イギリスの3.7インチ高射砲Mark3は28ポンドの砲弾を初速2600fpsで発射し、有効射高は32000フィート、アメリカの90mm高射砲Mark1は23ポンドの砲弾を初速2700fpsで発射し、有効射高は32000フィートである。この2つの連合軍の高射砲は88mm高射砲よりも重く、そして発射速度は1分間に20発と比べて88mmは1分間に15発だった。しかし88mm高射砲の最大の長所は、対空、対戦車、対地の三つの用途に使えるという多様性と、どんな戦場へも運搬可能な身軽さであった。
1939年には高性能モデルである88mm高射砲41型が開発されたが、1943年になるまで実戦配備はされなかった。初期の機械的な問題があったものの、この高射砲は遥かに高性能だった。20.7ポンドの砲弾を初速3280fpsで発射し、有効射高は37000フィートだった。また、この砲はターンテーブルに装着されており、砲架に装着されている88mm高射砲18/36/37型よりもシルエットを低くしている。しかし複雑でコストのかかる構造だった為に生産数は556門のみで、また1944年2月の時点での配備数は279門に止まった。
ドイツ軍は88mm高射砲を補強する為に、2種類の高射砲を用意した。1933年、ドイツ軍は105mm高射砲の要求仕様を作り、3年後にクルップ社の提案を退けてラインメタル社のものを採用したが、この105mm高射砲38/39型は33.2ポンドの砲弾を初速2885fpsで発射し、有効射高は31000フィートだった。1936年には128mm高射砲の設計でもラインメタル社が競合に勝ち、128mm高射砲40型として採用された(図17)。この高射砲は57.2ポンドの砲弾を初速2890fpsで発射し、最大射高は35000フィートだった。88mm高射砲と比較すると128mm高射砲は4倍の装薬を使用しているが、砲弾の飛翔時間はたった3分の1長いだけだった。1944年の終わりに、105mm高射砲の鉄道搭載のものが116門、固定砲架のものが827門、そして可搬砲架のものが1025門あった。機動性を向上させるために、ドイツ軍は105mm高射砲と128mm高射砲の内の約5%を鉄道搭載式にしていた。ドイツ軍における最も優秀な砲手は、こうした部署に配員されていた(図18)。
戦争の初期(1939年〜41年)には、高射砲はドイツ空軍の撃ち漏らした少数の連合軍機から陸軍を守ったり、または前進する陸軍部隊で対戦車砲やカノン砲として補助的に使用されたりした。1940年の西部戦線では、2379機の航空機の内の854機を撃墜し、また300両の装甲車両を破壊した。そして1941年10月までに、ドイツ軍の高射砲部隊は5381機の航空機を撃墜し、1930両の装甲車両を破壊した。
1943年8月、枢軸軍がメッシナ海峡を渡ってシシリー島から撤退する際に、ドイツ軍の高射砲によって記録的な勝利がなされた。連合軍側が制海権と制空権を握っていたにも関わらず、40000人のドイツ兵と62000人のイタリア兵、そして殿部隊までもが、装備や約10000台の車両と共にイタリア本土へと渡ったのである。連合軍が来るべきイタリア本土上陸とシシリー島の占領に没頭していたのと、また枢軸軍が500門の高射砲と機関砲とを掩護に使用したことによって、枢軸軍の撤退が成功したのである。このメッシナの撤退は、枢軸軍の功績であるとともに、連合軍による失敗ともいえるだろう。

戦争の初期においては、イギリス軍の爆撃機の夜間レーダーが少数しか装備されていなかったり、装備の性能が悪かったり、訓練が行き届いて居なかったりして、目標を殆ど発見できなかったり、発見できても破壊できなかったりしたので、ドイツ本土の防空はそれ程困難ではなかった。しかし、1942年のCologneに対する爆撃機1000機によるイギリス空軍の初めての空襲によって、イギリス軍の爆撃機部隊による強烈な空襲が始まった。その少し後には、アメリカ軍の重爆撃機による昼間爆撃も開始されたが、米軍は1943年の春まで大規模な空襲には参加しなかった。

石油は戦争に欠かせない物資だったが、ドイツは戦争前から石油が不足していた。そこで重要な攻撃目標になっていたのが、PloestiとRomaniaの石油コンビナートで、ここではドイツの原油の35%を生産していた。1942年6月12日にアメリカの13機のB24で爆撃が行われたがあまり効果が無かったので、1943年8月1日にアメリカ空軍の178機の重爆撃機によって低高度爆撃が行われた。アメリカの情報部は枢軸軍の高射砲数を約100門、そして他に数百門の機関砲があるとしていたが、実際にはその2倍近い高射砲が配備されていた(図19)。この高射砲部隊と、リベレーターの低高度での弱点と、戦闘の混乱と、作戦距離が長さ(往復で2300マイルを越していた)の為、攻撃側に多くの損害が出た。全部で54機のB24が戻らなかったが、パイロットはこの損害を高射砲の為であるとした。
連合軍はPloestiに対する攻撃を続行し、1944年4月5日から8月19日までに高高度から19回空襲した(図20)。5479回の有効延べ出撃数で、アメリカは13469トンの爆弾を投下し、223機の爆撃機を失った。高射砲は131機の爆撃機と56機の戦闘機を撃墜している。 以上の21回のアメリカ軍の重爆撃機による空襲に加えて、Ploestiに対して4回の空襲も行われた。その内の3回はイギリス空軍による夜間空襲で、186機の有効延べ出撃機数で313トンの爆弾を投下し、15機を失った。残りの1回はそれとは違い、1944年6月10日にアメリカ軍によって、1000ポンド爆弾と300ガロンの燃料タンクで爆装した46機のP-38と、それを掩護する48機のP-38とで石油関連施設に対する攻撃が行われた。38機のP-38が爆撃に成功し、19発の爆弾が有効弾となった。しかしアメリカ軍の攻撃部隊は100機の戦闘機を含む強い抵抗にあり、9機の急降下爆撃機(その内7機は高射砲による)と14機の援護していたP-38を失った。一方、アメリカ軍の掩護戦闘機は、28機のドイツ軍機を撃墜したとしている。
1944年4月の始めには、178門の高射砲と203門の機関砲がPloestiを守っていた。ドイツ軍は最後の攻撃が行われた8月19日までに高射砲を278門、機関砲を280門まで増加した。高射砲の構成は、128mm高射砲が10%、105mm高射砲が15%、そして60%が88mm高射砲とルーマニアの75mm高射砲、そして鹵獲したソビエト製の76.5mm高射砲が15%というものだった。高射砲部隊がアメリカ軍の爆撃機に与えた損害は、4月の攻撃の際には延べ出撃機数の1.2%だったものが8月の攻撃の際には2.4%と2倍になり、一方で戦闘機による損害は延べ出撃機数の2%から0%に減少した。
ドイツ軍は他の石油施設も同様に、徹底的に防御した。Politzでは600門、Leunaでは700門の高射砲を配備した。Leunaでは高射砲の40%が88mmよりも大口径の高射砲で占められていた。1944年3月12日から1945年4月4日にかけて、連合軍はLeunaのドイツで2番目の大きさの石油合成プラントと化学プラントに対して大々的に空襲を行ったが、それに対して高射砲部隊は第二次世界大戦で最も強力な対空防御力を示した。アメリカ軍は延べ5236機の、イギリス軍は延べ1394機の爆撃機を派遣して18092トンの爆弾を目標に投下した。しかし悪天候と、それから敵の抵抗の為に、石油コンビナートの敷地に命中した爆弾はたった10%だけだった。爆弾の命中率は、1944年3月で35%だったものが7月には5%に、そして9月には1.5%にまで低下した。10月に行われた3回の攻撃では、ドイツ軍は1発も命中しなかったと報告している。アメリカ軍の損害は119機(延べ出撃数の2.3%)、またイギリス軍は8機(0.57%)で、その殆どはドイツ軍の高射砲によって撃墜された。

ドイツの都市もまた、高射砲によって重防備が施されていた。ハンブルグには400門、ミュンヘンには約300門、ウィーンには327門の高射砲が配備されていた。連合軍はウィーンに対して47回の空襲を行って361機の重爆撃機を失ったが、その内の63%にあたる229機が高射砲によるものであった。1945年2月7日、第15航空軍(the Fifteenth Air Force)は689機でウィーンを空襲して25機(内19機は高射砲によるもの)を失った。その翌日も470機で空襲を行ったが、今度は損実は0機だった。この差は、前日の空襲の際には、天候が良くてドイツ軍の高射砲の照準がしやすかった事と、アメリカ軍内での調整が取れていなかった事と、電子欺瞞装置(ECM)を装備していなかった事によって生じた。アメリカ軍はこの成功を教訓にして、以後は悪天候時(雲量7/10から10/10)を選び、また内部調整をして、ECMを装備するようにした。


ドイツ軍は高射砲の効果を増大させる為に、最新技術を導入した。1941年に高射砲部隊に射撃用レーダーが配備され始めた。レーダーは聴音機と比べてはるかに優れており、敵機の探知や追跡にも既に使用されていた。一方で聴音機は探知距離が短く性能が不安定で使い辛かった。しかしドイツ軍でのレーダーの導入はゆっくりとしており、1944年8月の時点でも5500基の聴音機が使用されていた。その他に開発されて導入されたものとして、溝付き砲弾がある。一般の砲弾では1〜7グラムの破片に分裂するところを、溝を付けることによって80〜100グラムの大きな破片に分裂させるというもので、これによってより大きなダメージを与える事が出来るようになった。焼夷弾もまた、ドイツの気候では高射砲の効果を3倍に増加させた。
信管も重要な進化を遂げた。ドイツ軍は1943年に二重信管(触発と時限信管の両方の機能を持ったもの)を要求し、1944年末に使用を始めた。これによって88mmの効果は5倍、105mmは3倍、そして128mmは2倍に向上した。しかしドイツ軍は、連合軍が近接信管を導入したような大きな変更を信管の分野では行わなかった。戦後にアメリカ軍が仮にドイツ軍が近接信管を使った場合を計算したところ、高射砲の効果は3.4倍にものぼり、そうなるとB-17での作戦では大損害を被る事になるだろうし、またB-24では作戦そのものが不可能になるところであった。
ドイツ軍はまた、多くの奇抜な地上用対空兵器システムを試作している。その内の1つが、圧縮口径装弾筒システム(squeeze-bore and sabot devices)で、これは本来の砲弾よりも小口径の砲弾を発射するシステムである。例えるならば88mm砲の砲弾を105mm砲で発射するということである。大型の砲弾を発射する装薬によって小型の砲弾を発射する事により、より速い初速を砲弾に与える事が出来るのである。しかし研究だけで実戦には使われなかった。

ドイツ軍は他にも対空ロケット(後に地対空ミサイルとして知られる)の実験も行っていた。1930年代の実験では芳しくない結果しか得られなかったにも関わらず、この新しい技術が連合軍の空襲に対する有効手段になるものと考えていた。1941年の初めに、ドイツでのロケットとミサイル開発での主要責任者の1人であるGen Walter Cornbergerは、射高が60000フィートの対空ミサイルの研究調査をスタートさせた。これに対してPeenemunde試験場のミサイル研究の長であるWerner von Braunは、ロケット推進の迎撃機を提案した。そしてこれがドイツの採った最初のルートで、後に戦略的には未熟なものの大きな能力を発揮する、Me163として実を結ぶ事になる。しかし1941年の9月に、ヒトラーは全ての長期的な開発計画を凍結してしまった。後に開発が再開され、1942年の4月には、誘導・非誘導の各種対空ロケットの仕様が出来上がったのである。ドイツ軍ではこれらのロケットを開発の目玉として位置付けていた。ドイツ空軍の総帥であるヘルマンゲーリングは大きな期待を抱いており、1942年の9月にゲーリングは対空ロケットの設計生産作業を許可した。それに対してフォンブラウンは、1942年11月に3種類の誘導対空ロケットについて書かれた調査書を送った。この3種類のロケットは、全長28フィートの1段式固形燃料ミサイルと、全長33フィートの2段式固形燃料ミサイル、そして全長20フィートの1段式液体燃料ミサイルだった。ドイツ防空司令官のGen Walter von Axthelmの後押しもあり、対空ロケットは1942年のドイツ対空兵器開発計画の中心的存在となったのである。
その後、ドイツ軍は幾つかの種類の誘導式対空ミサイルと、FoehnとTaifunという2種類の非誘導式地上発射ロケットを開発した。このFoehnは低空で進入する航空機に対応するもので、直径は3インチにも満たず、全長は2フィートで重量も3.3ポンドしかなかった。1943年に初めて使用されたが、このロケットの射程は3600フィートで35連装の発射装置から五月雨式(in ripples)に発射された。ドイツ軍はこのロケットで3個中隊を編成し、これによって3機の連合軍航空機を撃墜したと主張している。しかしこのロケットはインパクトが大きいだけで、精神的な効果しかもたらさなかった。
もう1つの非誘導対空ロケットであるTaifunは、直径が5インチ未満で全長が76インチ(5.8フィート、2m弱)で重量は65ポンド、そして弾頭重量は1.4ポンドだった(図21)。この液体燃料ロケットは88mm高射砲の砲架を利用した30連装もしくは50連装の発射機から五月雨式に発射された。射高は46000フィートから52000フィートだった。
それに加えて、ドイツ軍はEnzian、Rheintochter、Schmetterling、Wasserfallという4種類の誘導ロケットの開発も行った。Enzianは水平尾翼が無く、小さいにも関わらず無線操縦で目標の航空機まで誘導が出来た(図22)。全長は約12フィートで、ミサイルの後退翼の幅は13.5フィート、重量は4350ポンドで88mm高射砲の砲架を利用した発射台から発射する際には4基の固形燃料ブースターを使用した。そして1050ポンドの弾頭を48000フィートまで打ち上げる事が出来、直線距離16マイルを560mphの速度で飛行した。ドイツ軍は約24機のEnzianを試験発射したが、その内の9機が発射に成功した。1945年1月に計画は中止されたが、開発作業は3月まで続けられた。
Rhentochter1型は亜音速、固形燃料、2段式ロケットで、全長は20.5フィート、重量は3850ポンドだった。2段目には4枚のカナード翼(前方翼)と6枚の翼がついており、翼端部での全幅は9.8フィート、330ポンドの弾頭を直線距離で18000フィート、29000フィートの高度まで飛ばすことが出来た。ドイツ軍は1943年8月に無線操縦装置の実験を始め、1945年1月の初めまでに82機の対空ロケットを発射したが(図23)、2月には計画を中止した。Rheintochter2型と3型は2基のブースターを装備していた。3型は他と同じ1段目を使っていたが、2段目は3.3フィートほど長くなっていた。この2段目は液体燃料エンジンを搭載してそれ以前のものよりも僅かながら性能が良くなっており、直線距離で20000フィート以上、高度で約50000フィートまで飛行した。ドイツ軍は1944年7月から1945年1月までに6機の無線操縦装置無しの3型を試験発射したが、Schmetterlingに絞る為にRheintochterの開発はキャンセルされた。
Schmetterlingは見た目が後退翼を持った飛行機のようで、全長は12.5フィート、全幅は6.5フィートである。2種類のタイプのミサイルがあったが、どちらも重量は980ポンド以下である。Hs117Hは空中発射式、Hs117は地上発射式で、Hs117は37mm機関砲の砲架から2基の固形燃料式ブースターによって発射される。初めは有線誘導式として設計されたが、後に無線操縦式に変更された。このミサイルは55ポンドの弾頭を最大有効直線距離で17500フィート、射高で35000フィートまで打ち上げる事が可能で、最大速度537mphで飛行した。1943年8月から開発が始まり、1944年1月に最初の発射試験が行われたが、59基のうち発射に成功したのは25基で、残りはエンジントラブル(燃料調節)で失敗した。
ドイツで最も大型の対空ロケットであるWasserfallは、V-2の縮小版である。しかしV-2と違って、Wasserfallは全長25.6フィートの後から3分の1の部分に4枚一組の翼と、後端に大型の翼とを持っていた。重量は7800ポンドで200ポンドの弾頭を亜音速で飛行させる事ができた。計画では、直線距離で31マイル以内の、65000フィート上空を飛行する560mphの飛行機を撃墜できるようになっていた(図25)。実際には計画値を出す事は出来なかったが、それでもWasserfallは、射程30マイルで射高6マイル、射程25マイルで射高9マイル、射程16.5マイルで射高11.4マイルという、ドイツの対空ミサイルの中では最も大きな交戦範囲を持っていた(1945年のアメリカの爆撃機の編隊は、200mphの速度で飛行し、30000フィートよりも上空を飛行する事は滅多に無かった)。ドイツ軍はミサイルを電波ビームで目標へと誘導するビーム誘導の使用を考えていたが、遠距離では問題が発生した。また弾頭の爆破機構は、地上からの信号によるものと、近接信管とを併用した。1943年の始めにはWasserfallの設計が終わり、1944年2月に発射試験が行われた。少なくとも25回のテストが行われたが、1945年2月に計画そのものがキャンセルされてしまった。
何人かの研究家は、もしも最も成功していた対空ロケットであるWasserfallがV-2よりも多く製作されいてたらどうなっていたかと推測している。確かにWasserfallはV-2の8分の1の工数で製作可能であり、かなりの数を製作する事が可能であったが、幾つかの基本的な要素を見落としている。まず地上の爆撃と違って、対空兵器はその目標が小さく、かつ高速で移動しており、はるかに難度が高くなっている。またドイツは実用可能な近接信管の開発には失敗していたし、更に電子機器関連技術では連合軍の方が進歩していたので、ドイツ軍の無線操縦誘導システムそのものを無効にするか、精度を悪くする技術が開発されてしまっただろう。

多くの問題がドイツ軍の高射砲を制限していた。高射砲の砲手の質は下がり、特に1943年以降は酷い消耗戦の穴埋めのためにどんどんと前線へと引き抜かれていってしまった。ドイツ軍は婦人や老人、青年、工員、外国人や、更には囚人までもを集めて、高射砲部隊へと配属させた。1944年の11月には、高射砲部隊の構成員の29%が市民や補助要員であり、1945年4月にはこれが44%まで増加した。ドイツ軍の高射砲戦力が最大となったのは1945年2月で、13500門を越す高射砲と、21000門を越す機関砲によって構成されていた。しかし砲数の増加によって膨大な量の資材を消費した為に遂には爆薬不足に陥ってしまい、1944年の始めには射撃制限を行わなければならなくなってしまった。また1944年11月には、ドイツの化学プラントと輸送網への爆撃によって、爆薬不足に拍車をかけることになってしまった。こうした爆薬不足によって、遂には幾つかの砲弾に火薬以外の物(inert materials)が詰められるようになってしまった。戦争終了時には、弾薬不足の為に高射砲部隊は半分の火力しか発揮できない状態にあった。ドイツ軍の高射砲部隊の効率が低下してしまった別の原因として、1機撃墜当りの必要弾数の増加がある。開戦から20ヶ月の間では1機当り2800発だったものが、1944年には88mm高射砲36/37型で16000発、128mm高射砲でも3000発になっていた。
しかしそれでもなお、ドイツの高射砲は第二次世界大戦中では効率が良く、時間と共に能力も向上していった(図26)。1944年を通じて撃墜された連合軍機の3分の1が、また損傷した連合軍機の3分の2が、高射砲によるものであった。そして1945年になると、その割合は更に増えて撃墜機の3分の2と損傷機の全てになる。ただ正確に言うならば、戦争の進行と共に高射砲部隊の能力が上がっただけでなく、それに比例して連合軍を迎え撃つドイツ空軍機が撃墜され、数が減っていったことも大きい。例えば1944年6月にはドイツ軍は西部戦線全体で10900門の高射砲と22200門の機関砲とが配備されていた。アメリカ空軍は第二次世界大戦中にドイツ軍との戦闘によって18418機を失っているが(図27)、この内の7821機が高射砲によって、また6800機が戦闘機等によって撃墜されたと報告されている。

高射砲は、連合軍機の撃墜や損傷といった直接的な効果に加えて、連合軍側の爆撃精度の低下という効果も発揮している。1941年のイギリスの報告書では、爆撃機の爆撃精度低下の原因の3分の1が高射砲によるものと言っている。戦後にまとめられた第8航空軍の調査書では、1944年3月から1945年2月までの爆撃ミスの40%が敵の高射砲によるものとしており、また22%は高射砲を避けるために高度を上げてしまった為であるとしている。地中海の航空隊も同じ事を別の方法で言っている。高射砲が無いか小数の場合は、戦闘機は橋梁に爆弾を命中させるのに30発を必要としたが、高射砲の射撃が激しい場合には150発が必要であるとしている。また高射砲による迎撃が無い場合には中型爆撃機は攻撃した橋梁の21%を破壊し、完全なミスも3%しかないが、高射砲による迎撃が合った場合には2%しか破壊できず、また完全な失敗も28%となっている。



・連合軍側の高射砲への対抗策

連合軍の飛行士達も、敵の高射砲の効果を低減させる為に幾つもの方法駆使した。作戦立案者は高射砲陣地を避けるルートを採り、爆撃高度を高くし、飽和戦術を採用し、密な飛行隊形を考案した。この他にも2つの手法があるが、これらは詳細に説明しなければならない。
連合軍の爆撃機が夜間や悪天候時での作戦を増加させるに従って、防御側の早期警戒レーダーや射撃用レーダー装置の重要性も増加していった。連合軍にとって幸運にも、イギリスはドイツよりも電子機器の分野において、一説には2年も先を進んでいると言われている程に優位を保っていた。そこで考えられたレーダーに対抗する手段の1つが、イギリスでウィンドウ、アメリカでチャフと呼ばれているものである。これは飛行機からクリスマスツリーの飾りのような長細いアルミホイルを撒き、ドイツ軍のレーダースコープに誤った信号を表示させるというものである(図28)。イギリス空軍がこの電子妨害装置を使ったのは1943年7月に行われたハンブルグ空襲で、この時に司令部によってウィンドウの使用を決定するまでに18ヶ月もの間使用が保留されつづけていた。もう1つの主要なECM(対電子機器用妨害装置)は、カーペットと呼ばれるドイツ軍のレーダーを電子的に混乱させるものだった。この装置は1943年10月に連合軍によって初めて使用され、爆撃機の編隊から広帯域と狭帯域の2つの妨害電波が発信された。ECMの登場によって戦力見積(estimates)が変わってしまったが、明確な状況の変化、特に天候によってECMの威力は大きく変化した。ECM装置によって高射砲の効果が3分の2にまで落ちたと言われているが、全体的な評価では4分の1まで落ちたというのが事実に近いかもしれない。

アメリカ空軍はもっと直接的な攻撃も行っていた。マーケットガーデン作戦の初日である1944年9月17日に、アメリカ空軍は112ヶ所の高射砲陣地を攻撃した。それに加えて、B-17によって3000トンの爆弾と、またP-47によって36トンの破片爆弾の投下と、同じくP47による123000発もの12.7mm弾による機銃掃射を行った。これによって対空火器からの攻撃による被害が比較的少なくすんだ為に、降下部隊を運ぶ輸送機やグライダーは効果的に機能することができた。しかし驚く事に翌日には、初日の成功と打って変わっていたのである。1944年9月18日、第56戦闘集団に所属する38機のP47がTurnhout地区のドイツ軍の高射砲陣地を12.7mm機銃と落下傘付きの破片爆弾で攻撃したところ、悲劇が起こった。雲が低く立ち込め、靄がかかり、更に作戦命令の内容からパイロットは攻撃開始時まで射撃を制限されており、彼らは条件は悪かった。部隊はドイツ軍の高射砲によって15機を失い、1機は友軍機に撃墜された。それに加えて帰還した22機の内の13機は高射砲弾によって損傷していた。撃墜されたなかで、3人が負傷していたものの11人のパイロットが連合軍の前線にたどり着いたが、他の3人は死亡し、2人は捕虜になった。その日、アメリカ空軍は延べ104機で高射砲に対して攻撃をかけたものの、21機を失い、17機を損傷させられた。そしてこの作戦によって18門の高射砲を破壊したとしている。マーケットガーデン作戦全体では、連合国空軍は高射砲陣地の118ヶ所を破壊し、127ヶ所に損害を与えたと主張している。しかしアメリカとイギリスと合わせて延べ4320機の出撃(輸送機やグライダーを含む)で104機を失い、その内の延べ646機が高射砲の制圧に当り、37機を撃墜されている。作戦全体で分析を行うと、高射砲の制圧に成功したのは初日だけであった。そして当然のことながら、翌月にはヨーロッパ駐留のアメリカ戦略空軍は、高射砲陣地に対する航空機による低空での攻撃は、非効率でコストがかかるだけのもおんであると勧告している。このレポートは代用手段(ECMの使用、編隊隊形、回避行動、破片爆弾の使用)がより効果的であると結んでいる。

第15空軍は高射砲陣地を高空から爆撃する実験を行っている。1945年4月に2度行われ、B-24によって近接信管を付けた260ポンド破片爆弾でVeniceの北東にあるドイツ軍の高射砲陣地を25000フィートの高度から爆撃している。実験はおおむね成功だったようである。
また、アメリカ軍は戦闘機が近づく前に、野砲によって高射砲陣地と思われる場所一帯を射撃させておくということも行った。戦闘機部隊が目的を最小の抵抗で行えるようにする為に、アメリカ軍の野砲部隊が高射砲部隊を拘束するのである。アメリカ軍は1944年6月、フランスのCherbourg包囲戦でこの戦法を使い、複合的な結果を得ている。
連合軍による別の高射砲制圧作戦は、1945年3月24日にライン川を渡河する為に、Weselを英米連合の空挺部隊で強襲したVarsity作戦の際にも行われた。連合軍の航空機と野砲は、Wesel地域にある922門のドイツ軍の高射砲を沈黙もしくは無効化させようとした。連合軍の爆撃機は、空挺作戦の3日前に延べ3741機で8100トンの爆弾を高射砲陣地に投下した、英国空軍のタイフーンは機銃掃射や爆撃、ロケット弾による攻撃を行い、また連合軍の野砲部隊は95ヶ所のドイツ軍陣地に24000発(440トン)の砲弾を撃ちこんだ。この大々的な火力での攻撃に反して、連合軍による制圧は部分的なものに終わった。空襲や砲撃は殆ど当らず、せいぜいドイツ軍砲手の士気を一時的に下げただけに終わった。それにも関わらず、ドイツ軍の高射砲部隊は連合軍に対して大きな被害を与えた。ドイツ軍はアメリカ軍の853機のグライダーの内の381機と、イギリス軍の272機のグライダーの内の160機に損害を与え、特にその内の142機は損傷が大きかった(図29)。アメリカ軍は第二次世界大戦において、高射砲陣地に対する攻撃は得るものが少ないことを理解した。第8航空軍では戦争中に388機の戦闘機を失ったが、その内の77%は機銃掃射(で低空飛行)をしている際に撃墜されている。第9戦略空軍司令部(TAC)の司令官であるElwood "Pete" Quesada少将は、戦闘機による高射砲への攻撃を「人が犬に噛み付くようなものだ」と言っている。




・同士討ち(Fratricide)

高射砲の砲手が語りがらない一つの問題は、味方機への誤射や撃墜である。慌しく混乱した戦闘の最中の同士討ちは理解しうるものであると同時に、痛ましいことでもある。第一次世界大戦時には、地上部隊や高射砲が味方機を射撃すると、「味方機なんていなかった」という態度をとっていたが、そうした態度や問題は第二次世界大戦にも引き継がれた。
第二次世界大戦における連合軍側での最悪の同士討ちは、シシリー侵攻の際に発生した。1943年7月の11日の深夜と12日の早朝の数時間に、連合軍はシシリー侵攻を補強する為に第82空挺師団を投入する事にしていた。師団長であるMatthew Ridgway大将は作戦の難易度を下げる為に、空挺師団が通過する回廊空域の安全を確保しようとし、さらに米海軍と米陸軍から保証を取っていた。しかし不幸な事に、Ridgway将軍が危惧していた最悪の結果が現実のものとなってしまった。空挺隊員を満載したC-47輸送機とグライダーが連合軍の艦隊の上空に差し掛かったのは、枢軸側の爆撃機による空襲のすぐ後であった。1つ目の編隊は何事も無く通過したが、しかしその時に1門の高射砲が発砲を行い、それを合図として地上ならびに艦上の砲手は一斉に射撃を開始してしまったのである。アフリカを飛び立った輸送機とグライダーの144機の内の23機が高射砲によって撃墜され、37機が酷い損傷を受けた。人員被害は97名の空挺隊員が死亡し、132名が負傷した。また60名の輸送機の乗務員も死亡もしくは行方不明となり、30名が負傷した。
2日後の夜にも同様な事件が起こり、同じような結果をもたらした。イギリスとアメリカの輸送機がイギリス軍の空挺部隊を降下させて橋を奪取し、シシリーの東海岸に橋頭堡を作ろうとしたのだが、これに対して友軍の地上部隊と艦隊が砲撃を加え、11機を撃墜し50機を損傷させ、更に27機を作戦から離脱させた。そして87機の輸送機がどうにか目標上空に到着したものの、たった39機だけが降下予定区域から1マイル以内に降下させることが出来ただけだった。こうして、1900名の内の300人だけが目標に到着する事ができたのである。ただし、この失敗にも関わらず作戦そのものは成功した。

同士討ちの問題は戦争を通じて発生した。しかし連合軍にとって幸運だった事に、シチリアの失敗以上のものは発生しなかった。例えばD-Dayの際に、特別な侵攻マーク(白い縞模様)を付けているにも関わらず、友軍の誤認によって多くの連合軍機が射撃された。20時25分には上陸用舟艇の機銃によって、500〜1000フィートで飛行していた2機のP-51が撃墜された。それから10分後には連合軍側の高射砲が更に2機の連合軍機を撃墜した。20時50分には4機のスピットファイアを射撃したが、見たところは撃墜には至っていない。しかし21時30分には連合軍の高射砲の撃った弾が1機のスピットファイアに命中し、スピットファイアは煙を出しながら高度を下げていった。22時には2機のタイフーンと交戦し、2機共に命中させた。これらは記録に残っている例であり、記録に残っていない他の例が何件あったかは、推測することしか出来ないのである。

連合軍は同士討ちを避けるために、電気的な敵味方認識装置(IFF)や識別信号、それに戦域の制限を含む幾つかの手段を用いたものの、問題は続いた(図30)。6月22日から7月25日の間に、連合軍の高射砲部隊は25機の友軍機と交戦し、8機を撃墜している。このうちの5機、6月22日の2機のスピットファイア、それに7月26日の3機のP-51は、味方部隊を攻撃した後に撃墜されている。(こうした連合軍機による味方部隊の誤射事件は1944年6月20日から7月17日にかけて13件発生しており、少なくとも兵士に2名の死者と3名の負傷者が出ている)。アメリカ軍とイギリス軍の高射砲が味方機を撃墜した記録は、8月に6機、10月に2機、そして少なくとも11月に3機を記録している。お偉方ですらもこの問題から回避することは出来なかった。1945年1月1日にアメリカ軍の高射砲部隊はアメリカ空軍の将軍、Carl A.SpaatsとJames J.Doolittleの乗った輸送機を誤射した。Spaatzはこの原因としてGeorge S.Patton Jr.将軍の指揮下の部隊の砲手の、航空機の認識能力と射撃技能の低さを挙げている。第8戦闘機集団は連合軍の高射砲によって7機を失っている。アメリカ軍の高射砲部隊も15機の味方機と交戦し、その内の12機を撃墜したと認めているが、砲手側が主張するにはその15機全てが敵性行動を行うか、もしくは制限空域を飛行していたとしている。その一方でアメリカ軍の高射砲部隊も、識別の不足によって6000あった目標の内の3分の1との交戦を制限されていると不平を言っている。
6月26日に3機のP-51が味方に撃墜されてからは、第9戦略空軍司令部は、自由機銃掃射範囲を、事前に作戦の為に設定された爆撃ラインから10マイル以内に制限した。米陸軍は1944年9月7日から、ベルギーのアントワープからフランスのナンシーに至る連続したベルト地帯で構成される制限区域を設定した。イギリス軍の爆撃司令部(?Bomber Command)はこの制限を守って区域内での作戦を避けたため、連合軍はお互いに不満足なまま区域を制限することになった。
もちろん同士討ちの問題は連合軍側だけのものでもヨーロッパ戦線だけのものでもなく、全ての軍隊に共通した問題だったのである。例えばドイツ軍の戦闘機が1945年1月1日に連合軍の飛行場に攻撃を仕掛けた際にも発生した。ドイツ軍は1943年に229機、1944年の初めの四半期の内に55機が味方の高射砲に撃墜された事を認めている。太平洋でも1943年12月から1944年6月までの間に、アメリカ海軍は少なくとも6機の海軍機と陸軍航空隊のB-25を2、3機撃墜している。最悪だったのは恐らく1943年12月26日にビスマルク群島のGloucester岬で発生したものだろう。この時、アメリカ海軍の対空火器は2機のB-25と1機のP-47を撃墜し、2機のB-25に損傷を負わせたのである。アメリカ陸軍の高射砲もアメリカの夜間戦闘機を撃墜している。この海軍の砲手は、どうも「P-38(識別しやすい双胴の米軍戦闘機)ではない何か」に対して射撃を行ってしまったようである。海兵隊も戦争中に3機を味方の対空火器に撃墜されたとしている。




・太平洋でのアメリカ海軍

アメリカ海軍は敵の航空機から艦艇を防御する為に多大な努力を払った。第二次世界大戦で、防空に関して40億ドルを越す費用を費やしたが、これは使用した全弾薬の約半分にあたった。そのかいあってか、海軍は戦争勃発時と終戦時の防空能力を比較評価して約100倍になったとしている。特に中距離と近距離の対空兵装に関しては、第二次世界大戦前の12.7mm機銃と1.1インチ機関砲では不充分という事が判明していたので、大きな問題となっていた。アメリカ海軍はこの穴を埋める為に、外国製兵器であるスイスのエリコン社の20mm機関砲とスイスのボフォース社の40mm機関砲に注目した。
海軍はこの20mm機関砲について12.7mm機銃の8〜10倍の威力があると評価し、陸軍と海軍の戦闘機にフランスのイスパノスイザ社製の20mm機関砲を採用していたにも関わらず、1935年にスイスのエリコン社の機関砲を購入した。終戦時、海軍は12561丁の20mm機関砲を艦艇に装備し、20mm機関砲弾10億発分にあたる7億9700万ドルを支払っていたが、この投資は成功した。この20mm機関砲は、真珠湾攻撃から1944年9月までの間に海軍の艦載砲が撃墜したとしている日本軍機の32%と、9月以降から終戦までの25%を撃墜しているのである。しかし、20mm機関砲がより大口径の機関砲よりもあきらかに良い性能を持っていたにも関わらず、終戦にかけて40mm機関砲によって置き換えられていったのである(図31)。

ボフォースの40mm機関砲は、第二次世界大戦で最も幅広く使用された対空火器である。スウェーデンはこの機関砲の開発を1928年から開始し、1930年台の初めには実戦部隊に配備されている。40mm機関砲は2ポンドの弾丸を有効射程で1500ヤード飛ばすことができ、1分間に120発の発射速度を持っていた。1937年にイギリスがこの機関砲を発注すると世界的にも注目を集め、1939年までにスウェーデンは18の国々にボフォースを出荷し、またその他にも11カ国との間でライセンス生産の契約を結んだ。連合軍・枢軸国の両陣営共にボフォースを生産並びに使用していたのである。
米海軍がこのボフォースに興味を持ったのは1939年の秋で、1940年8月の終わりには機関砲と装備一式がアメリカに到着した(図32)。そして9月には試験が行われ、ボフォースがアメリカの37mm機関砲やイギリスの2ポンド砲(通称ポンポン砲)よりも優れている事が判った。そこでアメリカ政府は1941年6月に契約を結び、翌年の始めには、初めての40mmボフォースが船に積み込まれた。しかしボフォースの生産には問題もあった。まずオリジナルではメートル法表記だったものをヤードポンド法に変換しなければならなかった。またアメリカでライセンス生産を行う2つの会社が、それぞれ違ったシステムを採用していること(ヨーク社が十進法、クライスラー社が分数法)が判明したのである。結果として2社で製造された機関砲は完全な互換性を持たなくなってしまった。始めは200の部品が違っていたが、しかしこの数は段々と少なくなり、後には互換性の無い部品は10にまで減少した。1945年6月までに、アメリカ海軍は5140門の40mm機関砲を連装、四連装の砲架に装備していた。1944年6月中に対空火器によって撃墜された日本軍機の18%を、また1944年10月から1945年3月までの50%がこのボフォースによるものとされている。

アメリカは1920年代に両用砲(対艦・対空)の試験を行っている。その成果から1930年代の初めに38口径5インチ砲が開発され、1934年に駆逐艦に搭載された。この砲は水平方向で10マイル、高角方向で6マイルの射程と、1分間に12〜15発の発射速度を持っていた。海軍は随時この砲の数を増やして行き、1940年7月時点で611門だったものが1945年6月には2868門となった。
大口径砲の効果を増加させた大きな要素として、近接信管がある。海軍が初めて近接信管の試験射撃を行ったのは1942年1月で、8月に行われた実戦を想定した試験では、4発の砲弾で3機の無人機を撃墜している。近接信管が実戦に使用されたのはそれから1年後のことで、巡洋艦ヘレナが2斉射で日本軍の爆撃機を撃墜している。海軍ではこの近接信管によって高射砲の効果が3〜4倍になったと評価している。この信管によって5インチ砲での日本軍機撃墜率は高くなり、1944年の前半においては31%を記録した。




・日本軍の高射砲

日本軍の高射砲は、戦争を通じて他の主要国の物よりも遅れていた。日本は防空に関する諸問題や防空力不足を解決するだけの技術的・生産的基盤を持ち合わせていなかった。それに加えて、日本はドイツからの限られた技術的援助しか受けられず、また一般技術者を有効利用できなかった。
日本軍で最も広く使われていたのは1928年に制式化された88式75mm高射砲だった。14.5ポンドの砲弾を初速2360fpsで発射し23550フィートまで飛ばすことができたが、実際には有効射高は16000フィート足らずであった。アメリカやイギリス、ドイツが、より大口径でより性能の良い高射砲へ移行していった中で、日本は戦争を通じてこの高射砲を使い続けた。といっても日本軍が兵器の更新をしようとしていなかったということではなく、1944年に改良型の75mm高射砲(4式75mm高射砲)を開発している(ただしこの高射砲の生産数はたった65門に止まり、実戦に使われることは無かった)。同様に日本軍は120mm高射砲を1943年に開発したが、これも生産数は154門に止まり、150mm高射砲に至っては2門しか配備されていない。日本軍は他にも少数の88mm海軍砲(99式88mm高射砲)を使っていた。
日本軍は1941年に本土防衛として300門の高射砲を持っていた。1945年3月までで1250門に、そして終戦時には2000門を越していた。そして当然のように高射砲の多くを(全部の内の509〜511門)東京周辺に配備していた。そしてその中には、1945年8月の時点で、88mm高射砲が150門、120mm高射砲が72門、そして150mm高射砲が2門が含まれていた。ドイツと比べてみると、日本の高射砲の数は少なく、性能も劣っていた。それに加えて日本のレーダーはドイツのレーダーと比べて遥かに劣っていた。日本軍はドイツの技術を利用せず、主に捕獲したアメリカやイギリスの装備に頼っていた。
少しおかしな事に、日本の高射砲は他国のものよりも効果が低い。全体での損失数と、延べ機数あたりの割合とで比べてみると、アメリカ陸軍航空隊にとって日本よりもドイツとの戦いの方がより損害が大きかった(ドイツ:18418機、1.26%、日本:4530機、0.77%)。戦争全体では、アメリカ陸軍航空隊は日本軍の高射砲によって1524機、戦闘機によって1037機を撃墜されたとしている(図33)。日本の対空火器による非撃墜率は、アメリカ海兵隊よりもアメリカ海軍の方が大きく、海軍は損失2166機中1545機を、海兵隊は損失723機中437機を撃墜されている。
日本に対する戦略爆撃作戦では、アメリカ陸軍航空隊は最も優秀な爆撃機であるB-29を投入したが、B-29はドイツを爆撃したB-17やB-24よりも速度や高度、搭載量で優れていた。アメリカ陸軍航空隊は日本との戦いで414機のB-29を失ったが、その内の74機が敵戦闘機によって、54機が高射砲、19機が戦闘機と高射砲によって撃墜されたと評価している(図34)。日本軍の高射砲と電子機器の効率の低さから、アメリカ軍は戦前の爆撃理論による、かつヨーロッパ戦線での戦略爆撃で実施していた、昼間の高高度爆撃から夜間の10000フィート以下での低高度爆撃へと変更した。
ドイツ軍の戦闘機との戦いが主だったドイツでの作戦と違い、爆撃機の損失ではなく爆撃精度の低さから、この変更が為された。結果として、東京に対する低高度での夜間爆撃では損害は少し減り、それまでの昼間高高度爆撃の際の延べ814機中損失35機(4.3%)が、延べ機数1199機中損失39機(3.2%)になった。それと同時に爆撃の効率は大きく上昇した。数の少ない日本軍の高射砲と性能の悪い電子機器の為に、アメリカ陸軍航空隊はより低高度で爆撃する事が可能になり、初期の高高度からの爆撃の際よりもより多くの爆弾を搭載し、しかもより正確な爆撃を行い、尚且つよりエンジン等の故障が少なくなったのである。アメリカ軍は、日本の都市や町に対する空襲をごく一般的な兵器で行った。日本軍の高射砲数の不足と、それからアメリカ軍側の防御手法である探照灯に対する飽和攻撃や、ECM、聴音機駆動の探照灯を妨害する為の爆撃機のエンジンの非同期装置、更には光沢のある黒い塗料の使用によって、消耗は減少してゆき、耐え得るものになった。高射砲と、高射砲並びに戦闘機によるB-29の損失は、1945年1月の延べ機数あたり1.06%をピークにして、一定の割合で減少していった。東京は、日本の目標の中で最も爆撃を行った都市であり(延べ26000機の内の4300機)、また最も防御力の高い都市でもあった。第20航空軍の高射砲による損失55機の内の25機、高射砲と戦闘機による損失28機の内の14機が、東京での爆撃時のものである。もちろん、防御力の低い都市での損失はそれよりも更に低くなる。特に延べ4776機が行った夜間の低高度並びに中高度での日本の主要都市に対する爆撃では、第20航空軍は83機(1.8%)を失ったが、同じ条件での日本の地方都市に対する爆撃ではたった7機(0.1%)を失ったに過ぎないのである。




・第二次世界大戦での教訓

全ての大きな戦争と同様に、第二次世界大戦からも多くの教訓を得られた。第二次世界大戦は、初めての本格的な航空戦であり、且つ唯一の航空総力戦でもあり、アメリカにとっては更に唯一の同等の相手との航空戦であり、そういう意味でパイロットにとって最も重要な戦争である。
全ての国の航空兵は、高射砲を過大視するか過小視するかのどちらかであった。戦争は高射砲の実力や脅威を示していたにも関わらず、パイロット達は自分達の先入観や将来の動向により合う教訓を受け入れる傾向にあったようである。パイロットの態度は、高射砲が使えない、影響の及ばないものだと考慮していた大戦間からは少し変わったものの、この軽侮の結果はそれに続く戦争で評価される羽目になってしまった。


第二次世界大戦の結果を回想してみるに、少なくとも6つの高射砲に関する教訓がある。

1番目は、高射砲は強力で効果的だということである。実際にアメリカの航空機を最も多く撃墜したのは高射砲であった。特に1944年の始めから大きな脅威になっていった。高射砲の集中使用は、V-1作戦や、1944年の秋から冬にかけての石油施設作戦や、レマーゲン鉄橋に対する作戦の場合のように航空作戦を無効にするか、もしくは大きく妨害する能力があることを実証した。

2番目に、高射砲は航空機の低空での運用をとても困難にした。戦争中に失われたアメリカの戦闘機の殆どは、機銃掃射中を撃墜されている。多くの作戦は、低空での運用の危険性を示している。中でも有名なものは、1943年8月のPloesti作戦、1944年9月のオランダのArnhemでの高射砲の制圧、1945年1月のドイツ空軍による連合軍の飛行場への攻撃がある。

3番目の教訓としては、航空機側も対空火器に対して対抗手段を取るようになったという事だが、これは後に一般化して行くことになった。パイロットは高射砲の集中地域を避ける為に、地上火器の正面で異常なコースを採ってみたり、目標の上空をたった1機で通過してみたり、最大限に身を守るために太陽や地形を使ったりした。その他にも、特に夜間や悪天候の際には、チャフを撒いたり妨害電波を使ってレーダー装置の感度を落とした。地上火器を直接に攻撃するという事も行われたが、殆どの航空機対地上火器の戦いにおいて、地上火器側が優勢であった。戦闘の実例からしても、高度に訓練されたパイロットと高価な航空機を、練度のより低い砲手とより安価な高射砲とを戦わすことは、殆ど意味をなさないのである。

4番目の教訓は、急速に進化する技術によって、攻撃と防御の間のバランスが、防御側に有利になっていったということである。レーダーは初めての、そして最も重要な器材であった。レーダーは、どんな場所にでも爆撃機は侵攻することができると信じていた、Douhetやその他の人達(航空隊の戦略学校の教官や生徒等)の理論を覆してしまい、その結果爆撃機は決定的な損害を受け、後の作戦にも影響を受ける事になった。防御側のレーダーを無効にするような電子的妨害装置が使われることがあったが、しかしレーダーはそれでも防御側に早期警戒情報と、それ以前よりも正確な照準情報を提供したのである。またレーダーは夜間や悪天候時での防御側の能力を大幅に向上もさせた。そして近接信管は、高射砲の効果を約5倍にも増大させ、防御側に更に大きな飛躍を与えた。戦争中に開発されたものの実用には至らなかった先端技術の1つとして対空ロケットがある。この対空ロケットは、第二次世界大戦の爆撃機の最大高度を遥かに越える高度まで届き、近接信管を併用すれば、爆撃機の編隊に大きなダメージをあたえることになるだろう。

5番目の教訓は、高射砲は敵の航空機を相対的に低いコストで撃墜できるため、費用対効果が高いということである。しかし高射砲の効用は直接に撃墜するだけではない。地上火器は、出撃回数を増加や追加装備の搭載、手順の追加によってパイロットの作業を複雑化させ、当初の目的に集中させないようにする。そして高射砲による防御は爆撃の精度を低下させた。そしてこのような目標上空で爆弾を投下する事に対して苦労や損害といったコストをパイロットに要求する事こそが、最も大きな効用となるのである。

6番目、最後の教訓として、航空機を正確に識別することの困難さが浮かび上がった事である。高射砲砲手が敵機と味方機を適切に判別する事は不可能である。高射砲が味方の航空機を撃墜してしまうだけでなく(最も劇的な実例は1943年7月のシシリー島での連合軍の輸送機の損失や、1945年1月のドイツ軍戦闘機であるが)、逆に高射砲が敵機と交戦しないということも度々発生した。電子装置や、コードや、手続きや、事前説明会や、制限空域といった各種対策が採られたにも関わらず、問題は解決せず、事故が発生し続けた。


戦争の終わりに、防御側のこうした優位性を無効にしてしまうような2つの新たな開発がなされた。1つ目はジェット推進器であり、これによって航空機の能力が格段に向上して防御側の努力をより複雑化させた。そしてもう1つは原子爆弾であり、これによってたった1機の爆撃機と1発の爆弾で1つの都市を破壊しうるという予見が必要となったが、これはそれまでの毎日のように何百機もの爆撃機の編隊による空襲とは大きく異なっている。この開発によって、航空戦を支配していた攻撃と防御との消耗戦というコンセプトがひっくり返ってしまったのである。そしてこれは、第二次世界大戦後に現れた対空防御の新しい環境でもあった。






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