はじめに




 米軍のニュース映画には、ドイツの破棄された都市の風景が数多く映っている。こうした焼けた建物(欧米の建物は焼けると壁だけが残ることから、魚の腸を抜くというGUTを用いる)や瓦礫の散乱した通りといった景色は、ドイツ本土を空襲から守っていたドイツ空軍(Luftwaffe)の完全な失敗に対する遺書といえるだろう。戦争によって、ドイツの主要な工業地帯や人口密集地帯は、英王立空軍(RAF)と米陸軍航空隊(USAAF)の高性能爆弾と焼夷弾による空襲によって、跡形もなく消されてしまった。RAFの無数の爆撃機は、主に夜間爆撃でドイツの主要工業地帯や人口密集地帯を絨毯爆撃して多くのドイツ人から家を奪い(dehouse)、戦争に対する士気を落とそうとした。1943年には米陸軍航空隊もドイツ空襲に加わり、ドイツ工業の心臓部を狙った昼間の精密爆撃を行った。第三帝国に対する航空作戦を通じて、英軍と米軍の延べ数万機の爆撃機が、ドイツに対して120万トンもの爆弾を投下した。そしてこの空襲によって約30万人の市民が死亡して78万人が負傷し、360万戸の建物が破壊されたのである。

 このドイツへの爆撃の後、第二次世界大戦における戦略爆撃の効果について、多くの研究論文や記事が書かれた。少数の例外を除いて、こうした論文の多くは英空軍もしくは米陸軍航空隊の、ドイツの降伏への貢献について書かれている。アングロサクソンの多くは連合軍の司令官や爆撃機のパイロットの視点から物事を見てしまいがちである。ドイツの防空ネットワークに対する評価では、ほとんどの歴史家はドイツ空軍の戦闘機並びに夜間戦闘機がヨーロッパの制空権において果たした役割についてしか触れていない。一方でドイツ空軍の標準的な歴史の中では、ドイツの地上防空の開発や運用についての評価は短く、時には全く無視されているのである。
 一般的な歴史家によるドイツ軍の地上防空の分析では、高射砲部隊を単体もしくは他との組み合わせで使用した際の貢献を、以下の3つの論点から外してしまう傾向にある。
 まず初めに、多くの歴史家はドイツ空軍において、地上の防空部隊、特に対空もしくは高射砲部隊は連合軍の爆撃機の撃墜においてあまり活躍できなかったという戦後の証言を受け入れている。ドイツ空軍の防空計画の中心人物で空軍省の次官だったErhard Milch陸軍元帥(?Field Marshal)は、この意見を最も強く主張している。戦後の英国爆撃調査団(BBSU)も、この論法に依っている。英国爆撃調査団は、ドイツ空軍の高射砲による防空力を「豊富」ではあったものの「とても驚異」という程ではないと記述することで、相当に過小評価してしまっている。
 2つ目の一般に広まっている高射砲に対する批判は、地上防空に予算的にも人員的にもコストがかかり過ぎていた、というものである。この主張は主に米軍戦略爆撃調査団(USSBS)と英国爆撃調査団のレポートに出ている。どちらのレポートも指摘しているのが、高射砲や高射砲弾の生産によって、野戦砲の部品の生産などの他のより重要な分野への資材や人材の移動を妨害してしまったというものである。また人材に関しては、高射砲の配備によって多くの男性や女性を取られてしまったという指摘もある。この指摘では、何十万人ものドイツ人の男女が高射砲部隊に吸い取られてしまったが、この人材を他の部隊や工場での労働に回せば、もっと効率よく利用できたのではないかとしている。
 3つ目の高射砲に関係する主張は、前に挙げた批判に密接に関連している。戦後のアメリカの歴史家もドイツの歴史家も、高射砲を製造する資材で戦闘機を製造した方が何倍も効率的だったと断言している。この主張の最も熱烈で同時代の提唱者であるMilchは、爆撃機に対しては戦闘機の方が高射砲の5倍の効率があり、戦闘機こそはドイツ上空を防御する為にまずもって構成すべきものであり、また最後の手段となるものであったと繰り返し主張している。
 以上のようなドイツ空軍の高射砲部隊に関する主張はそれなりのメリットも存在するが、しかし限定された視点や、当時の状況的要素の組み合わせの失敗といった問題を抱えているのである。

 まず1つ目の、高射砲の効果が限定的であったという主張は明らかな間違いである。米英の戦闘機と爆撃機の撃墜数の内、ドイツの高射砲部隊は戦争を通じて高い割合を保っていた。例えば、戦争中に喪失したアメリカの航空機の少なくとも半数以上がドイツの高射砲によるものである。同様にRAFの空戦に関する公式記録では、1942年7月から1945年4月までの夜間空襲中に喪失した爆撃機軍団の航空機は3,302機だが、その内の37%に当たる1,229機がドイツの高射砲によるものであるとしている。更に、この主張が無視もしくは過小評価しているのが、高射砲の存在の為に爆撃高度を高くしなければならず、結果として命中精度を落ちたことである。またこの主張では、高射砲によって損傷した爆撃機がドイツ空軍の戦闘機の撃墜能力を向上させたという事実も無視している。この事は、イギリスやアメリカの作戦研究部門における統計学でも、また多くのベテランパイロット達がドイツの高射砲について、究極的でしばしば効果的な敵であったと述懐していることからも明らかである。
 次に2つ目の、高射砲が他の兵器分野から貴重な資材や人材を奪ってしまったという主張であるが、これは部分的には正しいともいえる。生産された光学機器の約3分の1、レーダーや通信機の半分から3分の2が、高射砲部隊の為のものであった。しかしレーダーや通信機に関しては、その殆どが高射砲と戦闘機の作戦の両方を補助するものである。それに加えて航空情報隊(Luftnachrichtentruppe)は高射砲兵器の一部ではないが、通信に転用された資材の一番上等な部分を消費していた。補助機器とは対照的に、高射砲そのものとその弾薬へと資材が転用されたのではないかという疑問については、明らかに説得力が無い。「ドイツの軍需経済に対する戦略爆撃の効果」と題されたその報告書において、アメリカの戦略爆撃調査団の経済効果部門は、「初期の生産に対する制限は、主に要求を慎重に限定していたためであり、1943年までに高射砲に対してなされた投資が、他の兵器や弾薬に関するコストに匹敵するとは言えない」としている。更に、高射砲の整備計画が前線で利用可能な野戦砲を奪う事になったという指摘も部分的にしか正しくない。1944年8月1日に空軍の戦闘機パイロットとの会議の際に、ドイツの軍需相であるアルバートシュペアは、「現在、我々の大砲の生産計画は、元々総統によって設定されていた目標の、遥か上を行っている。全ての重要な兵器において7月にふたたび生産記録を更新したが、これは1941年の約8から10倍の規模になっている」と言っている。それに加えて、高射砲とその砲弾の生産によって他の野戦用兵器の生産が少なくなったと言っている人は、国防軍の作戦の全ての前線において空軍の高射砲部隊が重要な貢献を果たしていたことを忘れている。事実、フランス戦線とロシア戦線のどちらもにおいて、空軍の高射砲部隊が陸軍の地上戦において決定的な役割を担っていた。高射砲が対空防御以外にも様々な用途に利用可能なことから、陸軍にとって高射砲を1門生産する毎に他の野戦砲が1門不足するという単純な積分計算を論破することができるだろう。人員に関しては、高射砲がその任務を果たす為に多くの人員を必要としたのは事実である。しかし高射砲の防空ネットワークの構築によって何百という新しい師団を作れるほどの膨大な数の国防軍兵士を横取りしたという議論も、また誤りである。確かに、対空防御には膨大な数の人員が必要であった。1940年には高射砲兵だけでも528,000人が居たが、しかしこの数は1944年には573,000人までしか伸びていない。これは工場労働者や未成年の男女、それに更には戦争捕虜までを動員した結果である。事実、1944年の秋からはこうした予備兵が高射砲の操作員の3分の1から半数を占めるようになった。それに加えて1945年には、こうした予備兵の3分の1が老兵だったり、軍事作業に就くことのできない医療的不適格者で構成されていた。1944年まで、高射砲部隊は国防軍の「失われた師団」によって構成されていたのではなく、むしろ、主として前線に出す事の出来ない人員で構成された掃溜め部隊であった。
 最後に、空軍は高射砲を整備する資金で戦闘機を作るべきだったという議論だが、これも部分的にしか説得力が無い。
 実際には、空軍のドクトリン(教義)では防空というものを戦闘機によるものなのか高射砲によるものなのかを定めていない。戦争の始め、ヒトラーとゲーリングは疑いもなく高射砲を本土防空の主要な手段と見ていたが、空軍の教義(ドクトリン)では高射砲と戦闘機とはドイツの防空を確かにする為に互いに補い合うべきものであると強調している。同様に、第二次世界大戦時のドイツ軍の主要な司令官であるAlbert Kesselring陸軍元帥(Field Marshal)は、「戦闘機の効率を全て認めたとしても、地上の高射砲を止めて代わりにより多くの戦闘機を製造すべきだという戦争経済学者の視点は矛盾している。高射砲による部隊と本土の本質的な防衛は、絶対に不可欠なものである。」と言っている。更に高射砲の製造によって航空機の生産数が減少したとする主張には、重要な状況的情報を考慮していない。例えば1942年の始め、ドイツ空軍は稼働する飛行機に対して十分な数のパイロットを養成することが出来ないという大きな問題を抱えていた。また燃料の決定的な不足とパイロットの損失の増加によって、1942年には240時間としていたパイロット養成のために必要な飛行時間を、1944年の中頃にはたった120時間にまで減らすことになった。1944年の秋には、何千機もの航空機が、パイロットと燃料の不足から供給場や駐機場に置かれたまま錆びついていた。1943年末から1944年にかけて始まったアメリカ軍戦闘機の護衛も、ドイツ空軍の損害を増加させて空の戦いの状況を変えた重要な要素の一つであり、それによって高射砲による防衛が比重を増すことになった。同様に、高射砲の代わりに戦闘機をと主張する人は、空軍の戦闘機が連合軍の飛行機を撃墜するために、探照灯と高射砲中隊とが重要な役割を果たしている事を無視する傾向がある。1941年には、探照灯の補助の下で夜間戦闘機が325機の爆撃機を撃墜したのに対して、探照灯の無い状態ではたった50機しか撃墜できなかった。同様に戦争を通じて、空軍の戦闘機のパイロットは、高射砲によって損傷して機動が悪くなったり、また比較的安全である編隊から離れた航空機に対して攻撃を集中することが多かった。空軍のパイロットの一人は次のように言っている。「これは古参の戦闘機パイロットのトリックだ。撃墜数の多い奴はこのようにしてスコアを稼いでいるんだよ」。それに加えて、アメリカの搭乗員の記録には、高射砲によって飛行機が損害を受け、そして主要な編隊から落伍して行く事が如何に危なかったという記述であふれている。結局のところ、この高射砲対戦闘機の議論では、第二次世界大戦を通じてドイツ空軍の防空作戦を形作っていた多くの相互関係や状況的要素を無視しているのである。
 戦闘機対高射砲の問題を取り巻く議論ではまた、第二次世界大戦におけるドイツ空軍の地上防空部隊の広い範囲での全体的効率を幅広く過小評価するという、より重大な論点も含んでいる。当時のドイツ空軍の指導者も戦後の歴史家も、ドイツの防空ネットワークの全体的な状況の評価をしていない。殆どが、連合軍の航空機を高射砲もしくは戦闘機で何機撃墜したかといった単純な視点で見てしまう傾向にあったが、これは防空というもののほんの一部分であり、それによってドイツ空軍の防空に関わっている他の組織の構成を幅広く低く評価している。例えば、爆撃機を本来の目標から誘惑して遠ざける為に使われたドイツ空軍の欺瞞建造物や偽装手法に対して、多くの歴史家はほとんど注意を払っていない。欺瞞建造物や偽装手法は戦争を通じてその成功率が変化していたが、しかし何度となく、RAFや米陸軍航空隊の航空機を高い確率で意図した目標から外させてることに成功しているのである。これまで見てきたように、照空陣地は戦争のある時期には高射砲と戦闘機のどちらもの作戦を支援することで重要な役割を担ってきたし、煙幕部隊と阻塞気球部隊は連合軍航空機に対して独立して成功をおさめていた。結果として、戦闘機対高射砲といった近視眼的な視点によって、地上防空システムの全ての要素の構成に対して、重大な過小評価を行っていたと言えるのである。
 戦争を通じて高射砲の効果に対する一般的な過小評価の原因の2つ目の見方として、高射砲による防空に失敗して都市や工場を連合軍の空襲によって破壊された事に関係するドイツ空軍のリーダーの精神的反応がある。繰り返し語られている有名なものとして、ヘルマンゲーリングが「もしもルール地方に敵の爆撃機の侵入を許すようなことになったら、自分の事をヘルマンでなくマイヤーと呼んでも良い(ヘルマンは高貴な名称、マイヤーは平民の名称)」と豪語した事がある。これはゲーリングの気取った宣言への偏向の一つの例だと言われているが、このゲーリングの豪語は、ドイツ空軍の防空力によって「三次元」からの攻撃に対してドイツを広く絶対的に防御することができると、彼自身が信じていた事の表れでもあった。実際、このゲーリングの確信は単なる妄想に依るものではなかった。
 戦争が始まった頃、ドイツは世界で最も高価で能力のある地上防空システムを所有していた。しかしそれと同時に、ドイツ空軍の抱いていた高い期待は、間違った仮定を基にしたものであることも確かであった。例えば戦前の高射砲の試験では、88mm高射砲の砲弾1発で半径33ヤード内の爆撃機を撃墜できると評価していた。しかし戦争が始まるとすぐに航空機の設計やエンジンでの技術発達によって、戦前の試験結果が実情と合わなくなってしまった。1943年10月の会議でゲーリングは、戦前に高度6,500フィートから13,000フィートで侵入してきた敵機の搭乗員に、2度目は無いと思わせると約束した空軍の高射砲部隊の指揮官に対して激しく叱責している。同様に、敵機に致命傷を与えられる距離が33ヤードから13ヤードに暴落し、しかもその距離でも四発の重爆撃機の撃墜は保証できないことも指摘している。まさにこの時、空軍高射砲部隊のWalther von Axthelm高射砲大将(General of the Flak Artillery)、は不承不承、以下のように告白している。「あの頃は、戦闘機に対する補助兵器であった」。von Axthelmの自分の部隊に対する幻滅は、戦後、他の空軍指揮官の記憶や回顧ほどは長続きしなかった。究極的には、空軍の高射砲部隊の業績に対する極端な落胆や中傷傾向は、戦前の高い期待と現実が合わなかった事への代償なのである。

 この論文は、1914年から1945年までの期間のドイツにおける地上防空の組織と作戦を調査してまとめたものである。戦争を通じて、ヨーロッパの空の戦いにおいては、技術が攻撃側と防御側の間のバランスを左右する決定的な役割を果たした。同様に資材の制限や経済的な考慮も戦争遂行の手法に影響を与えた。最終的には軍のドクトリンと政治的決定とが、連合軍の戦略爆撃に対するドイツ空軍の対応を決定する重要な役割を果たした。簡単にまとめると、ドイツ空軍の地上防空システムの発達は、近代の工業化された戦争の時代における、経済と技術、軍事ドクトリン、そして政治的決定との結び付きを体現しているのである。またドイツの地上防空の発展は、軍の戦略の形態における期待と認識の役割についての物語であり、また、こうした期待を果たそうとして失敗して引き起こされた、軍事的で政治的な結果をも表現している。
 この論文を作成するにあたってすぐに、ドイツ空軍の地上防空が(一見)想像力の無い努力をするに至った状況を理解するには、ドイツ空軍の戦闘機部隊と戦略爆撃の発達についても議論して行かなければならない事が明らかになった。ドイツ空軍の戦闘機部隊や戦略爆撃に関する包括的な歴史を描くわけではなく、この時代を通したドイツ空軍の地上防空の発展と構成についての徹底的な評価の枠組みを提供する為に、この論文ではこれらを話の中に統合してゆくだけである。
 この論文の構成を述べて行く前に、この原稿の元になった資料の状況についても簡単にふれておきたい。ドイツ空軍の研究を行うにあたって歴史家が突き当たる大きな問題の一つは、戦争終結時に空軍の記録が広く失われてしまった事である。こうした記録の喪失は、ドイツ空軍の特定の期間での記録のギャップや、特定の組織の情報不足となっている。しかしこうしたギャップが存在しても、戦争中のドイツの記録や、戦後の総合的な報告書、それに個人的な文章や空軍指揮官の回想といった、膨大な量の歴史的証拠がまだ残っており、これらによってドイツの防空について再構成することが可能となっている。それに加えてRAFや米陸軍航空隊の情報組織や航空部隊によってまとめられた当時の記録や報告書も、ドイツ側の記録の穴を埋める為に良く使われている。更に、連合国側の記録や回想を使う事によって、地上から空から、またベルリンから、High Wycombe(RAFの基地があった)から、BushyPark(米第8航空軍の司令部があった)からといった様々な視点へと、この論文の幅を広くすることができた。同様に、同時代のドイツ側と連合国側の資料が共に存在している場合には、それらから両陣営の評価の正確さを比較できるし、これは現実と期待との関連性を決定するという重要なステップでもある。
 第1章では第一次世界大戦時の地上防空の成長とその能力について説明する。第2章では1919年から1932年までのドイツ軍と市民の理論家の間で広く行われていた、防空の形態と本質に関する理論的な議論について触れ、第3章では1933年のナチの政権奪取後の再軍備での、ドイツ空軍の対空兵器の最初の飛躍の詳細を述べる。第4章では1939年と40年のドイツによるヨーロッパ征服作戦での、対空兵器の発展と性能に触れる。第5章では1941年を通してのイギリスの近代的な空襲に直面した地上防空がどのように発展したかの概要を描く。第6章では次第に強烈になる空襲によって第三帝国が敗北して行く中でも、空軍の高射砲部隊の効率が高かった点について述べる。第7章では、それまでドイツの防空が幸福だったものが、レーダーに対する妨害や、慢性的な人員不足、そして連合軍の爆撃機軍団の努力によって爆撃機側が優勢になるなどして、ドラマチックに逆転していく様を描く。第8章と9章とでは、連合軍の強烈な空襲がドイツ空軍の防空を次第に圧倒し、ヒトラーの世界征服という狂った野望の為に第三帝国が瓦礫の山と化して行く中で、ドイツの防空がどのように変化していったかを見てゆく。



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