第1章 第一次世界大戦と地上防空、1914年-1918年




 第一次世界大戦における航空戦は、ロマンティックに言うならば、連合軍と中枢軍との「第三次元」(空のこと)をかけた戦場の上空の天国とも、格闘士の故郷とも言える、ドラマティックな戦いが行われた。空戦に関することについて、ほとんどの歴史家は飛行機とそのパイロットの役割や能力に焦点を置くが、しかしヨーロッパ上空の戦いは空だけで行われていたわけではなかった。戦争中、ドイツの地上防空システムは、ゆっくりではあるが着実に、地上から空の楽園を制圧する努力を行っていた。戦線が膠着すると、能力が向上し続ける航空機に対して、ドイツの政治的、軍事的リーダー達も前線だけでなく本土の国境においても明確で効果的な防空が必要であると気づくようになった。地上防空のドイツ全体に対する軍事的な貢献は比較的に穏やかなものであったが、こうした防空が発展してゆく過程は、戦争における技術と資材、そしてドクトリンの相互関係を明確に示しているし、また史上初の空の戦いを同時代的により深く理解する為にも必要である。


戦争前のドイツ地上防空の起源

 ドイツの防空の起源は、1870年から71年にかけての普仏戦争にまでさかのぼる。包囲されたパリからコミュニストが熱気球を使って脱出を行ったことから、ドイツ軍はこのフランスの気球と交戦可能な兵器を緊急に要望するに至った。クルップの兵器工場はすぐに移動可能な台車に装備した36mm対気球砲(Ballonabwehrkanone、もしくはB.A.K.)を製造した。しかしこれを気球に命中させて撃墜することは、当初考えていたよりも困難であった。包囲中に66基の気球が離陸したが、ドイツ軍が撃墜出来たのは1870年11月12日の「Daguerre」のたった1基のみであった。事実、気球や飛行船、航空機を対象とした場合に関連する技術的、機械的問題は、その後75年にも渡り、対空砲によって空の標的との交戦を困難にする主要因であり続けるのである。例えば、ドイツ軍の砲手はフランスの首都周辺を全てカバーする為に、分散配置して機動力に頼っていた。1870年の終わりの時点で、ドイツ軍はまだこうした砲を、都市の全周囲で6門しか持っていなかった為である。気球に砲弾が命中したとしても、36mm砲弾の破片では気球を貫通出来ても撃墜させるほどまでの損傷を与えることが出来ない事が多かった。こうした事があって、フランス側は気球砲による脅威を最小限にする為に、単純に気球を夜に離陸させるようになる。1871年にパリが完全に陥落すると、以後35年間、ドイツの防空研究と開発も中断されることになる。
 20世紀に入って飛行船や飛行機が出始めると、空気よりも軽い航空機(飛行船)と空気よりも重い航空機(飛行機)のどちらもが、偵察や砲撃という面から、軍事的能力における重要性を増してくるようになった。第一次世界大戦までの数年間に、ドイツは飛行船の建造に多くの資材を投入した。Count Ferdinand von Zeppelin(ツェッペリン)は、こうした航空機が高価であるものの、飛行船ならどんな天気でも、夜でも昼でも、敵の部隊を攻撃することが可能であることを軍を説得した。こうしてツェッペリンは軍にも、民間の金持ちにも飛行船を売り込むことに成功したのである。民間への売り込みでは、ツェッペリンは1910年から14年にかけてドイツ国内で約34000人の乗客を運び、商業的にも成功している。しかしツェッペリンの大流行は悪影響も生じ、当時(外国に対して)脅威となっていた海軍と同じように、イギリスとフランスに対してツェッペリンによる爆撃の脅威を与える切欠となった。Bremerhaven(北部の港町)のドイツの小学生達は悪い事をすると「フィッシャー艦隊が来るわよ!」と注意をされていたが、同じように彼らの敵対国であるイギリスとフランスとでは、ドイツによる空からの奇襲という幻想を恐れていたのである。
 飛行船の設計と製造において他国よりも進歩している一方で、ドイツの工業界は飛行船を撃墜可能な対空砲の開発も開始したが、ここでは対気球砲の手法が使われた。1906年に国防省の砲兵試験委員会(Artillery Providing Commision)は、フランスの気球技術が進んでいることについて警告している。1906年の1月29日付の命令でSixt von Arnim大将(General)は、フランスの潜在的な脅威に対抗する手段を取らなければらならない事を警告している。こうして将軍は砲兵学校に対して問題の研究と委員会への報告書の準備を命令した。
 ドイツの工業界もまた対空砲の需要を認識し、いくつかの試作品を作成した。1906年のベルリンの自動車博覧会で、Rheinische Metallwaren und Maschinenfabrik、後のラインメタルが、軽い装甲を施した自動車に搭載した、対飛行船砲として使用する50mm砲を展示した。1908年にはクルップの兵器工場が、回転可能な円盤に搭載して360度の全周旋回可能とし、また60度までの仰角を取る事のできるようにした65mm砲を製造した。1909年のフランクフルト国際博覧会でも、クルップとラインメタルはこのような対空砲を再び展示した。クルップはこの65mm砲に加えて、自動車に搭載した75mm砲と艦艇での防空用の105mm砲を紹介した。面白い事に、こうした砲の幾つかに砲手を保護する装甲が装備されていたが、気球や飛行船が対空砲の砲手の脅威にはならない事を認識していれば、これは無駄なことと見られただろう。こうした初期の設計は好奇心を誘いはしたが、ヨーロッパの陸軍から注文されることは殆ど無かった。
 一方で、ドイツ陸軍は防空分野に急に興味を抱くようになり、一般兵器による対空攻撃を評価する幾つかのテストを行った。1907年に、陸軍は一般的な野砲によってモーターボートに曳航した気球を射撃させた。結果は満足のいくものではなく、一般の野砲は空中目標との戦闘には適さない事が判明した。1909年3月にJuterborgの歩兵学校で行われた2回目の射撃試験では、標準的な歩兵兵器の気球に対する評価が行われた。この試験では2個歩兵分隊(detachment)が参加し、高度4,000フィートに浮いた長さ50フィートの係留気球が用いられた。最初の歩兵分隊(squad)が4,800発のライフル弾を発射したが、はっきりとした変化は無かった。続いて次の部隊が2,700発を何丁かのマキシム機銃で発射したが、こちらも目立った効果が無かった。気球を地上に下ろしてみたところ、この試験で76発の穴が開いていたにもかかわらず、気球はまだ浮上可能な状態であった。この試験によって、目標に命中させることだけでなく(気球の機体に当たっていたのは全体の1%にすぎなかった)、使用する弾薬の種類も重要であることが判明したのである。こうした悪い結果を基に、ドイツ陸軍は歩兵の兵器では気球にはほとんど効果が無いという結論に至り、より適切な砲弾が必要であることを認識したのであった。
 キャンバス地の気球を射撃することには、砲弾そのものの物理的形状と構成とに問題があった。砲弾を炸裂させる信管をどのようにするかも、技術的に難しかった。気球の柔らかい機体では反発力が弱く、相当に敏感な激発信管が必要とされたが、それは同時に腔発事故による危険性も含んでいた。それに加えて飛翔する砲弾を追跡するという更に厄介な問題も控えていた。一般的な砲での射撃の場合、砲弾の命中した地点を観測鏡によって測定し、距離と方位角の修正を行っていた。しかし空中の目標への射撃の場合はこれが不可能である。射撃修正を行う為に砲弾の軌跡を認識する何らかの別の手法が必要であった。そこでクルップの技術者が、焼夷物質を弾の前半分に、発煙物質を後半分に装填した砲弾を設計し、これによって問題の解決を図ろうとした。射撃すると、黒い雲が筋が砲弾の軌跡に残り、この軌跡を追う事で射撃修正を可能にしたのである。しかし、意図した目標と砲弾の炸裂した位置との関係を認識することは困難で、問題は解決しなかった。後に効率的な防空システムの構築を行う際においも、どのタイプの弾薬、砲弾、信管を使用するかという技術的問題において大きな障害が残ることになる。

 1910年にはドイツ軍の指導者達は対空兵器の必要性を明確に認識していた。しかし砲の種類や構成については議論されている最中だった。1910年1月に、砲兵試験委員会の為に作成された報告書では、一般の野砲を馬で牽引可能な車輪付砲架に搭載した構成のものを勧告している。しかし1910年2月14日付の特別報告書(Sondergutachen)では1月の報告書の結果に疑問を投げかけている。この異議の主張者は、Merlack少佐、Kraut大尉、Schmitt大尉、それにSchneider大尉で、この報告書の中で対気球砲の開発に関する幾つかの勧告を行っている。まずこの報告書では、自動車化された砲の開発を挙げている。トラックの荷台上に砲を搭載した方が、牽引式砲の陣地構築作業による遅延も無く素早く射撃が可能となり、車輪牽引式よりも優れているとしている。また彼らは自動車化の機動性の大きさに特に注目し、これによって飛行船の攻撃に対してより柔軟に対応でき、また敵飛行船を追跡することも可能であるとしている。2つ目の主張として、「昨今の技術の状態からして、目的に特化した砲(Spezialgeschtz)の方が一般の野砲の流用よりも、より良い解決であることは明らかである」と、目的に特化した砲による構成をうたっている。それから最後に、飛行船用に特別に作られた専用用途の砲弾の必要性を挙げている。この報告書では、いくつかの対空兵器に関係する基本的な事項が挙げられているが、実際にこれらの事項は、その後の数年間に渡る防空の技術的要求に関係する議論を占めて行くことになる。

 ドイツ陸軍の上級指揮官もまた飛行船からの攻撃に対する防御の重要性が増していることを認識していた。1910年3月10日の覚書の中で、参謀総長のヘルムス・フォン・モルトケ大将(Helmuth von Moltke)は、フランスの飛行船の脅威について述べている。モルトケはドイツの飛行船の武装化を主張していたが、「しかし、敵の飛行船を撃墜するのは地上からでなければならない」と注意を喚起している。しかしモルトケは専用用途の砲の要求は却下している。彼は更にダンチヒ湾での長期にわたる対空射撃試験の早期実施も「こうした試験においていかなる困難があろうとも実施すべきだ」と強く主張している。モルトケは、特に飛行船の機動を追尾し測距を行う砲員の能力の詳細における防空能力についての報告を求めるとして、覚書を結んでいる。
 モルトケの個人的努力は望んだ結果をもたらした。1910年の定期陸軍演習において、陸軍は対空兵器の基本となる2種類の兵器を試験した。1つ目は75mm砲をトラックの荷台に搭載したもので、もう一つは歩兵用の機銃を同じくトラックの荷台に搭載したものであった。どちらもコンセプトは砲に機動性を持たせるとしたものであるのは明白であったが、野砲をそのままトラックの荷台に搭載しただけだったので、砲手やトラックに色々な問題が発生した。射撃時の反動が相当な衝撃をトラックの車体にかかり、また空間が狭かった為に、弾の装填と砲の照準がかなり難しかった。そして最も大きかったのが、火器管制システムが無かった為に砲の有効性がほとんど無かった事である。照準望遠鏡による直接照準は技能以前の問題だった。それと対照的に、車載機銃の方は期待以上の結果が出た。自由に射撃姿勢を取りやすく、射撃速度が速さ、そして必要な空間が小さいこと、砲員の要求に合っていることが明らかに良い結果をもたらした。機銃の主な欠点は射程が短かった事である。これは大きな問題で、機銃の射程よりも高い高度では航空機に自由に行動されてしまうことになる。
 第一次世界大戦の前の数年間の間に、飛行船だけではなく飛行機も急速に脅威となっていった。ドイツ参謀本部は、航空機技術の優位性が将来の軍事作戦と密接な関係を持つことになると認識していた。1911年から12年までのイタリアのリビアにおける作戦と、1912年におけるバルカン戦争での航空機の使用は、航空機の可能性を押し上げていった。ドイツに近いこともあって参謀本部にとってより気にかかったのは、フランスで実施された精密爆撃を含んだ飛行試験の成功であった。ドイツ航空隊の司令官だったErnst von Hoppner大将(General、ヘープナー)は、戦後の回想録の中で以下のように言っている。

 1911年の3月の始めには、帝国の演習の間の対空射撃演習や、フランスが航空軍事分野において進歩しているという情報を通じて、参謀本部は飛行船と飛行機の可能性について印象を深くし、航空機材をまとめ、また航空機の役割として偵察を加えて将来的に開発をすべきであるとした。

 ヘープナーによると、不十分な資金と適当な将校と兵員の不足から、戦争前の数年間はドイツの航空隊と防空部隊のどちらもが成長できなかったとしている。しかしヘープナーのこの評価は恐らく悲観過ぎであり、実際には1911年から14年の間に、ドイツ陸軍は砲や探照灯、それに曳航式と係留式の空中目標に関する多くの試験を実施していたのである。1911年4月には、「航空機の戦闘に関する特別委員会」は、国防省に対して地上防空についての報告書を出している。委員会は、新型の飛行船や、小型でより機動性のある飛行機による脅威によって、防空能力は停滞し続けていると警告している。その為、専用用途砲の開発や砲員のより現実に即した訓練や訓練回数の増加によって地上防空を強化すべきだとしている。
 1912年4月5日付の国防省の「航空機の戦闘」と題した報告書では、委員会の昨年の所見に対して曖昧にしか応じていない。国防省は、実弾を使用した教練や訓練の数を多くするとともに、部隊に対して防空手法を幅広く宣伝することを提唱している。それに加えて報告書では、正確で信頼性の高い測距儀の必要も認めている。しかし、委員会の所見と比較して、国防省は伝統的な野砲や歩兵砲でも航空機との戦闘に完全に間に合うとしている。この姿勢を嫌々捨てるのは、1913年の3月に「航空機と航空機との戦闘手段に関する、部隊に対する教育のガイドライン」と題した初めての対空マニュアルを出したときである。
1914年の初め、陸軍の上層部は防空に改めて興味を向けた。1914年4月9日の指令において、モルトケは利用の可能性が高まりつつある航空機に対抗するために有効な対空兵器の必要性があることを強調し、地上防空に必要な資材や人材の確保を早急に行うよう指示した。更にモルトケはこう付け足している。「我々が幅広い手段を採り、この問題に対して組織的に対応して行くべき時が来たと、私は信じる」。初期に為された提案に従って、32門の車載式高射砲を要求し、ドイツの主要な軍(?German numbered armies, AOKs)に各4門づつ配備するよう命令した。彼は、それまでの数年の間にJuterburgの歩兵学校で行われた軍事テストによって、我々の敵である空からの偵察の実施能力を阻止することの重要性が実証されたとしている。1910年から4年経って、モルトケは専用用途の砲が必要であると、意見を変更した。それに加えて1912年の帝国軍事演習と、1913年と14年のクルップとラインメタルのバルト海での試作品の射撃試験によって、参謀本部も専用用途の高射砲の必要性を認めるに至った。さまざまな出来事を経て、モルトケは今では防空作戦用に特別に設計された火器の必要性の提唱者となったていた。組織レベルでは、モルトケは各師団に付属する通常の砲兵中隊の横に1個高射砲中隊を加えるように命令した。しかし同時に、既存の野砲中隊を高射砲中隊に改編することは厳しく禁止したが、これは師団の基本的な砲兵火力を損なうだけだったからである。モルトケは最後に、この決定を内閣に通知することによって彼の意図を明言し、自分が常に防空に対して相当な重要性を認めていると主張したのである。そして1914年の秋に計画された陸軍演習の中で、防空システムに関する幅広い試験を行うよう要求した。
 しかしこの1914年の秋の陸軍演習は実際には行われなかった。代わりにフランスと東プロシアの戦場で実戦が行われることになったのである。しかし開戦後の数ヵ月間、ドイツ陸軍は対空兵器のコンセプトに関して試行錯誤を繰り返していた。例えば1914年4月にSwinemundeの射撃場で行った防空試験では、改良された火砲を空中の想像の標的目がけて射撃させたが、このような練習では砲手の技量が向上する筈もなかった。それから数ヵ月後に戦争が勃発したが、こうした努力の成果は少なく遅いものだった。初期の高射砲の技術的制限に急速に発達する航空機技術への認識の遅さも相まって、一般的に議論する雰囲気は徐々に高まってはきたものの、高射砲の新型化のペースは遅いものであった。
 戦争前の数年間にわたって地上防空を明確に無視していたことを考えると、国防省と陸軍の上層部で評価が定まっていることは矛盾しているように見えるが、しかしドイツにおける対空兵器に関する努力と他のヨーロッパの国々における戦争前までの努力とを比較すると、ドイツの進歩の程度を見ることができる。N.W.Routledgeはイギリスの防空史の研究家であるが、イギリス陸軍はドイツとフランスに遅れをとっており、1914年になるまでイギリス陸軍には高射砲部隊が存在していなかったと言っている。対照的に、フランス陸軍はすでに1906年には対空兵器への取り組みを開始しており、1910年の始めには車載式の高射砲を試験していたが、フランス陸軍の試験にかける情熱ほどには防空兵器に予算はつかなかった。この簡単な比較から、1914年当時のドイツは地上防空について偏った視点を持っていたものの、ドイツ陸軍は対空兵器の開発に関してはヨーロッパの中ではまだ進んでいる方であったと言えるのである。それに加え、ドイツ海軍は高射砲の研究開発計画を戦争の数年前から独自に行っており、第一次世界大戦時の高射砲としては最も優秀なものの幾つかを作り出していた。
 1914年2月25日のプロシアの国防省からの報告書で、実行可能な防空ネットワークが現実的に必要であると明確に表明している。この報告書は「敵の航空作戦からの重要施設の防御手段」という題名で、具体的には主要な橋梁、飛行船工場と格納庫、それに駅を防御する手段が必要であるとしている。事実、特定個所や重要施設群(key complexes, Objektschutz)の防御は、第二次世界大戦を通じてドイツ本土防空の中心的なドクトリンであり続けた。報告書では、能動的防御手法と受動的防御手法の比較の推奨や、全ての防空資材を一人の司令官の下へ集中することや、対空兵器と早期警戒システムとの密接な協調といった、幾つかの重大な提案がなされていた。しかし全体として、派手な陸軍の指導にもかかわらず、戦争までのドイツの地上防空に関する経験は原理に関する議論と限定された試験くらいであった。
 参謀本部がドイツの戦争計画において典型的な戦争を想定しても、防空の一般的状況には変わりは無かった(?was not surprising)。よく言われているように、第一次世界大戦でのドイツ軍の計画は、シュリーフェンプランと呼ばれる、二正面作戦を避けてまずフランスを6週間から8週間の内に降伏させたのち、ロシア戦線へと重心を移すというものであった。多くの歴史家達が計画の概念と遂行力の不足について批評し、議論している。しかし防空について考慮するに、シュリーフェンプランにおける時間の限定という制約を設けたこと自体、陸軍内で防空に重点を置くのが遅すぎた事を物語っている。1870年から71年の普仏戦争のように戦争は短期間で終了すると広く信じられていた事も、1914年の時点でドイツ本土の防空がほとんど全く無視されていたことの理由の一つである。軍隊は自らが戦いたいと意図した戦争の為の兵器と装備を要求するものであり、混乱を防ぐためにも軍隊は先取りを避け、先取りに失敗しないようにする。第一次世界大戦の勃発時にはドイツ軍の戦争計画者は機動する戦争を予定しており、停滞した戦線における血みどろの戦争は予定していなかった。まとめるならば、ドイツ軍の戦争計画者は、限定された防空能力についてはその可能性を認識していたものの、1914年の前半においては防空が軍のトップの優先項目に挙がることは無かったといえる。


第一次世界大戦の地上防空

 第一次世界大戦がはじまった当初、ドイツの対空兵器はたった6門の車載式砲と12門の馬牽引式77mm砲だけであった。これらの利用可能な砲は、戦前の計画で強く望まれた予定数を大幅に下回っていた。事実、機動化計画は主要な軍(?AOKs)に4門づつの車載砲と各師団に馬牽引式の1個中隊を割り振るものであった。開戦後数日間、ドイツの初頭の攻勢時には、この6門の車載式砲があちこちの軍団に配備される一方、牽引式砲はライン川にかかる主要な橋梁や飛行船の格納庫に配備された。この初期攻勢の頃、ドイツの軍と政府の首脳陣は重要工業地帯や都市部の防空という問題をほとんど無視していた。ドイツ航空部隊の司令官であるvon Hoppner大将は、この見落としを「都市防衛の必要性が予期されていなかった」と説明する。初期の連合軍による空襲と、電撃戦の失敗によって、より多くの防空用兵器の必要性に対する認識が増大することになった。またそれと同様に限られた数の高射砲だけではドイツ本土防衛の為の広範囲なシステム構築は無理である事もすぐに明らかになった。この時期にはドイツの防空能力を向上させる為、ドイツの兵器工場で外国の発注で製造されていた高射砲の没収も行われた。しかし没収された兵器を加えても、1914年10月の時点での高射砲の数はたったの36門でしかなかった。1915年の夏には少しづつではあったものの、陸軍による175門の野砲の改造によって前線とドイツ本土での防空の状況は改善した。この頃になると一般的な砲では対空用途に全く合わない事も明らかになってきた。事実、参謀部の参謀長であるErich von Falkenhaynは1915年3月26日のレポートで、「敵の航空機との火砲による交戦では、現在に至るまで相当に限定的な効果しか得られておらず、かなりの量の弾薬が無駄になっている」と主張している。高射砲の不足から、捕獲したフランスの火器の口径を切り直してドイツで使用できるようにしたが、このような事は第二次世界大戦でも広く行われた。1915年だけでもドイツ陸軍は約1000門のフランスやロシア、ベルギーの捕獲火砲を対空兵器として使用可能なように改造したが、戦争の終わりの時点でもこうした改造された捕獲高射砲は全てのドイツ軍の高射砲の約半分を占めていた。
 部隊や兵器装備を防御する防空手段の必要性の高まりから、1914年の終わりには砲兵部門(branch)の中に高射砲の部局(section)が作られた。Hoppnerは次のように宣言している「この高射砲部の役割は、敵の空からの偵察や、空からの火砲の射撃観測、重要地点への爆撃の阻止と、それから我々の航空機の撤退の支援であり、また重大な局面では歩兵部隊の戦闘への協力である。」しかし、このようにして慌てて編成された部隊は、訓練不足や自らの役割の認識の完全な欠如から上手く機能しなかった。B.A.K.中隊の予備将校だったFritz Nagelは次のように語っている。

「我々は最初期の高射砲中隊の一つを構成していたが、誰も航空機の射撃方法や将来の我々の役割がどうなるかを知らなかった。B.A.K.の文字の意味は気球防御砲の略だったので、観測気球の防衛が我々の主な仕事ではないかと推測していた。ともかく、我々には装備しているフランス製の砲の特別な射撃訓練が必要だった。1915年2月25日に、我々はTangerhuetteにあるクルップの射撃場へ移動し、そこでクルップの技術者から教育を受けた。我々は係留気球を射撃し、効果的な射撃が可能になった。」

 Nagelのような経験は別に珍しい事でもなく、戦争の最初期におけるドイツでの防空の能力は無いも同然だった。事実、Nagelは、ドイツ軍の司令部が高射砲部隊は不要であるという意見を表明した指令を出していたと主張している。
 砲と弾薬に関連する技術的制限は、初期の防空部隊の組織や訓練での問題をより一層ひどくした。例えば77mm砲は機動性が高かったが砲弾の初速が不足し、砲弾の飛行時間が長くなってしまった。一方で海軍の88mm高射砲などの大口径砲では初速が大きく砲弾の飛行時間は短くできたが、砲自体が重すぎて機動作戦には向いていなかった。それに対してエンジンの発達によって連合国側(Entente、協商)の飛行機の作戦高度はより高くなり、高射砲の射程から遠ざかっていった。作戦高度の上昇によって高射砲弾の飛行時間も長くなり、また高空では酸素の減少によって信管の燃焼時間が長くなってしまうという問題も出てきた。また一般的な先鋭砲弾ではキャンバス張りの飛行機に対して思ったよりも損害を与えることができなかった。最後に、精密な射撃指揮ができなかったことが、砲員による空中目標の正確な照準が出来ない重大な欠陥となっていた。射撃指揮計算機の開発に努力が注がれたが、この問題は戦争を通じて陸軍と航空隊では解決しなかった。
連合国側は、ドイツの防空力不足という利点をすぐに突いてきた。1914年の秋には、イギリス王立海軍航空隊(R.N.A.S.)を組織し、ドイツに対して爆撃を行った。イギリス本土へのツェッペリンによる空襲を先制して、R.N.A.S.は9月22日と10月8日にケルンとDusseldorfにあるツェッペリンの格納庫を空襲した。またイギリスは11月21日にもFriderichshafenとLudwigshafenにある飛行船の格納庫を爆撃した。こうした空襲による物理的損害は軽微だったが、10月8日の空襲では1機のツェッペリン(Z9)が破壊された。空襲に対して高射砲による防御はほとんど効果を成さず、Friedrichshafenへの空襲で飛行機を1機撃墜しただけだった。しかし1914年の12月にFreiburgの都市に対して行われた空襲では、それまでの空襲の高度を素早く変更した。都市空襲が始まったことによって、ドイツ市民はより良い対空兵器と発達した警戒システムを望むようになった。1915年の春にはは、ドイツの防衛には、有効的な警戒システムと十分な数の高射砲による組織化された防空システムが必要であることが明白となってきた。


前線と本土の防空の為の組織化

 ドイツ本土防衛に欠けていた大きなものは、ドイツでは幾つもの機関がそれぞれの権力をバラバラに持っていた事である。こうした機関としては、州政府(Lander)、官僚機関と警察、地方軍司令部、そして地方軍基地などがあった。この混沌として非効率なシステムを整理し、合理化する最初の試みとして、国防省は将校のHugo Grimme大佐に、ドイツ本土と西部国境、そして西部戦線における防空に関する改善点の調査と調整をさせた。その後の7月10日に、ドイツ軍の上級司令部は「高射砲兵総監(Inspekuteur der Fliegerabwehrkanonen)」という役職を作り、作戦地域と本土のどちらもの防衛を担当させた。それに加えて主要な軍のそれぞれの参謀に防空将校(Stabsoffizizier der Flakartillerie)の役職を新設した。
 Grimme大佐は高射砲兵総監としてドイツ軍の総司令部に配属され、参謀総長の直属となった。Grimmeは陸軍全体の高射砲の配備と兵員の配属の権限を持っており、また高射砲学校の管理と防空操典(?regulation)の作成を監督していた。しかしGrimmeの陸軍内での影響力は限定されたもので、1916年の春には彼の反対にもかかわらず、陸軍補給部長(Chief of Ordnance)が高射砲の権限を持つようになった。補給部長は早速に馬牽引砲を各師団に分散し、車載砲を主要軍の高射砲参謀の配属とした。補給部長がGrimmeから権限を取り上げたことは、より伝統的な精神の陸軍将官の力が強く、かつ初めての防空組織が表面上のものだけであったことを物語っている。
 組織改編に加えて、陸軍はまたドイツの対空兵器の資材不足にも注目した。連合軍によるドイツ本土の空襲によって、前線に配備する予定だった高射砲の一部を本土防衛用に転用することになった。1915年3月に国防省は「部隊向けの高射砲の増産が要望されているが、今は後方に配備する時である」と警告している。この配置転換は脆い状態だった本土防衛を強化する為にどうしても必要だった。1915年6月には本土に配備された高射砲は、前線で270門に対してまだ150門だけだった。本土防空用の高射砲の数を増やすのに加えて、北はハンブルグから南はミュンヘンまでの半円地帯に5か所の防空地域を作った。しかし連合軍の爆撃機の航続距離の短さから、ドイツはフランスと接する西部国境への防空力の集中をすることができた。防空地域の設立と関係して、1915年にはまた防空警戒隊(Flugmeldedienst)がドイツ本土の高射砲兵総監の下に作られた。この防空警戒隊は防空システムの要となった。敵の攻撃の兵力と方向とを事前警告することにより、空襲の前に迎撃機を発進させ高射砲部隊に警報を出す事が出来た。ドイツの西部国境沿いに二重に防空監視線を設け、これは後には全国へと広げられたが、それによって切迫している攻撃の認識を補助することになったが、しかし警戒システムそのものは非合理で非効率な連絡網のままであった。
 ドイツの空と地上での防空の際組織に関係する最も大きな事は、1916年10月8日にErnst von Hoppener大将が新しく作られた航空隊司令官に任命された事である。1860年に生まれたHoppenerは、騎兵将校から始めてベルリンの軍事学校に入り、参謀本部に勤務していた。戦争の始めにはHoppenerは第3軍の参謀長だったが、航空隊司令官になる前には東部戦線の第75予備師団の師団長の職にあった。黎明期の航空隊の長となったHoppenerに与えられた仕事は、「軍事資材の同一開発に編成、そして雇用」だった。この再編成は、ドイツ航空隊と高射砲部隊、そして航空通信隊(Flying Signals Service)をHoppenerの下へと統合するものだった。ドイツ航空隊を作る皇帝の命令では、「空の戦いの重要性が大きくなり、陸軍の前線と本土とにある全ての空と防空資源を統合しなければならなくなった」と宣言されている。Hoppenerは自身の戦争の回顧録の中で自分に課せられた仕事を次のように言っている。:

 「航空隊の長は常に、敵の空から前線、海岸、港、そして重要軍事施設に対する攻撃に、準備しておくよう見ておかなければならない。我々の防空手段は、戦況の移り変わりに即座に対応してゆけるようにしなければならず、規則正しい計画的なものであってはならない。国防省、航空隊長官、参謀本部の高射砲兵総監、内地の地域高射砲兵総監、各司令部の将校、海軍の指揮下の各種将校といった一連の軍事的権威が、空から帝国を防衛する責任を分け持っている。このような状態で結果を出そうとすれば、統合が必要である。」

明確な統合が即可能だったのは、地上防空の合理化と集中化だけであった。
 Hoppenerの任命は全ての航空機構を直接に一人の司令官の下に集中する必要があったことを強調しており、これによってドイツの航空兵力と航空資産とを、攻撃の面でも防御の面でも、より効率的に利用するための大きな一歩となったのであった。簡単に言うならば、皇帝の命令によって、航空隊の組織や訓練、補給、高射砲、そして市民防空などの全ての航空関連事項が効率的にHoppenerの指揮の下に集中した。この再編成によって、さらに航空関係の調達と技術開発のシステムが合理化されるという利点も加わった。Hoppenerの任命の前は、陸軍と海軍とで別々にそれぞれの計画に従っていた。この2つの系列での開発や調達は、コスト高や人員の増加、そして資材の無駄を招いていた。それに加え、お互いの長所を共有する為の機関が存在していなかった。Hoppenerの任命はまた、港や運河(?sea approach)に配備されていた400門の海軍の高射砲を本土防空システムに組み入れることにもなった。再組織にもかかわらず、航空隊は分離も独立もできておらず、むしろドイツ陸軍の一独立部門であった(第二次世界大戦中のアメリカ陸軍航空隊の地位に似ている)。
 航空隊の創設の前に、陸軍は又幾つかの防空能力を効率化させる為の近代化ステップを採っていた。その一つは1915年にベルリンのOstendeに作った、高射砲部門の為の将校の訓練学校である。2週間のコースで、数マイル北にあるYpresにある防空陣地で実施される実弾射撃試験を含めた理論や実践の教育を行った。1917年に海軍の要請によって12マイル北にある海岸の町Blankenbergに移設されるまで、前線やドイツ本土に配員される高射砲兵はここで教育を受けた。陸軍は専門教育の必要性を認識し、学校の教員は前線で幅広く経験を積んだ将校で構成していた。陸軍はまた、Valenciennesにあった航空部隊の訓練所を含む、いくつかの場所でも将校の訓練を行っていた。
 航空部隊の下に高射砲部隊を入れた事で、ドイツの戦闘機部隊と、高射砲と探照灯との統合の面が強調されることになった。事実、ドイツ陸軍は1912年から探照灯の実験を行っている。主な試みとしては、探照灯によってパイロットの目を眩ませることと、高射砲の為に敵の飛行船を照らし出すことの2つの目的を持っていた。夜間の空襲が多くなってきたことに対応して、1915年に改良された探照灯と聴音機の使用を開始した。この初期の探照灯は高度11,000フィート上空のまでの敵機に対応していたが、新型の探照灯は19,500フィートまで対応できるようになった。聴音機は敵機のエンジン音を利用して遠距離から敵の飛行機の位置を割り出すことにより、夜間や視界の遮られる雨や霧、それにヨーロッパにかかることの多い雲といった状況で探照灯を補助した。探照灯の一番の利点は高射砲の射撃手法に関係している。敵機を照らし出すことによって、それまでの弾幕射撃から敵機を狙った射撃へと変更することができ、それによって一機を撃墜する為に必要な弾の数が減少した。探照灯の重要性が上がるに従ってシステムの数も劇的に上がり、1916年6月には132基だったものが、1918年11月には718基にもなっていた。連合軍パイロットによる「エンジンを切って」目標への最終航程に入るという回避戦術は、聴音機と探照灯、そして高射砲の合体によるドイツ防空が明らかに成功を納めていたことを示している。
 戦争が始まって2年以上経過した後に、本土防衛の経験から追加の組織再編が行われた。1916年12月8日付の国防省の命令で、本土防衛への比重がより一層増すことになった。この命令では本土防衛司令部(Kommandeur des Heimatluftschtzes)を新設してHoppener将軍の航空隊司令部の直属とするというものである。本土防衛司令部は、「本土への敵の攻撃に対する防衛に必要な全ての配員と手段」に関する権限を持つ。本土防衛司令官は、州政府や市上層部、そして工業界のトップ達と協調しながら任務を遂行する。最も重要なのは、本土にある全ての高射砲、迎撃戦闘機、そして早期警戒システムといった防空機構を、本土防衛司令官の下に集中させるという事である。本土防空の組織的集中はまた、他の再編命令と同時に実施された。
 1917年の春には、ドイツの防空は本土のものも前線のものも、地上防空システムと迎撃機との統合による効率化と能力の増加が進んだ。この防空システムの改善は最新技術の進歩と高射砲や装備機器の増加、組織の再構築、そしてドクトリンの改善によってもたらされた。戦争の初期、ドイツ陸軍は連合軍パイロットが良く攻撃する前線に沿った地域に高射砲陣地を集中していた。こうした地域では、高射砲兵は対空弾幕(BAK-Sperren)を作っていた。しかし訓練された高射砲兵や高射砲の不足から、前線で防御できたのは部分的な地域のみであった。陸軍はまた、司令部や補給廠といった重要地点にも高射砲を配備していた。また1917年には、車載化や高射砲数の大幅な増加による機動性の増大によって、前線をより効果的に防御することが可能となっていった。


効果的な防空のための技術的障害

 高射砲に残った大きな制約は技術的なものであった。三次元空間の標的を照準して射撃を行うということは、相当に困難な挑戦であった。この技術的困難から、非効率で無駄の多い「弾幕射撃」に頼ることが多かった。この弾幕射撃の基本的な考え方は、攻撃してくる航空機と敵の目標の間に弾の壁を作るというものである。この戦術は敵の飛行機に攻撃をあきらめさせるか、もしくはこの鉄のカーテンを通過させることで攻撃時の危険性を向上させる。一方で弾幕射撃の主な欠点は、各種の高度を広くカバーしなければならないことと、また命中精度が低いことから来る弾薬の消費量の高さである。それに加えて、1917年に備蓄兵站部(?reserve depots)が設立されたことで補給危機が解決するまで、弾薬不足や、高射砲の予備部品や他の装備品の欠如が、弾幕射撃に対して影響していた。ドイツの地上防空システムが明確な結果をもたらすには、「指揮射撃」による効果的な手法が絶対的に必要であった。
 戦争の最後の数年間で、数々の技術や兵器の進歩によって、地上防空システムの効率も上昇した。例えば1917年から使われるようになった改良式測距儀(EntfernungsmeSgerat)は、射撃計算を行う際の敵までの距離を、より正確に測ることができた。こうした測距儀は基本的に進化したステレオ式の望遠鏡で、三角法の原理によって目標までの傾斜距離(?slant range)を計測するというものである。この機器は横に伸びた腕が三脚の上に載せられたものである。操作員は機器を覗き込むが、この時2枚の鏡によって操作員の視線は90度曲げられて筒の端部まで行き、そこから更に鏡によって反射され、目標へと向かう。操作員の2つの目は事実上機器の幅に分離されて、視野深度も上がることになる。例えばドイツの4m測距儀は、操作員の目の間隔を13フィートにしたのと同じ効果を持っていた。直交した細い目盛(?cross hair)を重ね合わせることによって、目標までの傾斜距離を計算できるようにしている。また効率を上げるには、測距儀を高射砲に物理的に近接させておく必要がある。
 砲と弾薬の技術的進化によって効率も上がっていった。1917年には、特に防空専用として設計されたドイツの高射砲が登場するが、これは第二次世界大戦で名声を馳せた88mm高射砲の基になったものである。この88mm高射砲では初速が向上し、それによって砲弾の飛行時間も短くなったが、これによって射撃速度が上昇し、またより速い射撃修正の評価とが可能になった。また機械式の時限信管の登場によって予めセットした時間後に炸裂するようになり、高射砲の能力を高めることになった。光学測距儀と機械式時限信管との組み合わせによって、測定した目標との距離の場所に砲弾を射撃し、炸裂させることが可能になったのである。ただ技術は進歩したものの時限信管の設定は手動であり、信管の設定と砲弾の装填にかかる時間に進む目標の飛行機の距離を予測して補正しなければならない。つまりこの遅延時間は砲の操作員の熟練度に依存するのである。初期の航空機の比較的遅い速度とそれ程高くない飛行高度では、この程度の技術であっても上手く行くことがあったが、第二次世界大戦では航空機の速度と高度が高くなり、基本的に上手く機能しなくなってゆくことになる。第二次世界大戦と第一次世界大戦での航空機の性能の違いを簡単に比較すると、航空機を目標にすることの複雑さが増大している事を明確に認識できる。例えば有名なフォッカーDr.1三葉機の最高速度は103mph、ソッピードキャメルは116mphである。初速2,250フィート/sで発射した砲弾は、9,000フィートの距離の目標に約4秒で届く計算になる。その間の飛行距離は、Dr.1は604フィート、ソッピードキャメルは680フィートである。それに比べて、第二次世界大戦のB-17の最高速度は290mphで通常飛行高度は約25,000フィートである。同じ高射砲の砲弾はこの高度まで飛翔するのに約12秒かかり、その間にB-17は4,678フィート飛行することになる。この例は、高射砲の初速が上がらなければ、より早くより高く飛行する航空機を目標とする事が困難になるという事を的確に示している。
 軍の組織構造の合理化と計画に基づく教育計画によって、ゆっくりではあったが成果が見え始めてきた。1915年9月における西部戦線で撃墜された連合軍航空機の内、ドイツ軍の高射砲によるものが25%を占めるようになった。1917年秋にはは、ドイツ陸軍は荷台に77mm高射砲を搭載したトラックによって構成された、より機動性を増した高射砲部隊(Kraftwagenflak or K-flak)を配備し始めた。こうした高射砲の機動性によって、前線でより素早い配置転換が可能になった。実際に、このような高射砲の主な用途は前線付近を低空で飛行する航空機との戦闘であった。最新の技術開発と対空兵器の大幅な生産増によって好ましい結果が現れるようになったのである。高射砲によって撃墜された連合軍機の数は、1916年で322機、1917年には467機にものぼった。
 1918年の春と夏には、連合国空軍はドイツ本土の市民を目標とした空襲を行ったが、効果はいま一つであった。戦争の最終年に連合国の空軍は353回の作戦でドイツの目標に対して7,117発の爆弾を投下した。この攻撃によって1,187名の死者と3,600万ドル相当の被害が出した。しかしこの空襲による被害は、西部東部両戦線における塹壕戦での死者や膠着した戦線でのコストと比較すると微々たるものであった。ただ空襲によってドイツはかなりの人材資材を本土防衛に割り当てさせられることになった。防空部隊の指揮官は、ハンブルグからミュンヘンまでの線上にある12の主要都市に置かれた司令部から離れて指揮を執った。都市に置かれた中央司令部は、周辺に配置された付属司令部の行動を調整した。例えばミュンヘン地域の指揮官は、ミュンヘン、アウグスブルグ、インゴルシュタッドの各都市を、ケルンの指揮官はケルン、コブレンツ、Schlebusch、Troisdorf、Trier、アーヘン、Dormagen、Grevenbroich、それにGergheimの各都市の防衛の調整を行うのである。通信網の拡大と指揮系統の明確化によって、より一層の効率化と、早期警戒部隊と実際の防空部隊とのより良い協調がもたらされたが、それには多くの人材と資材とを必要とした。


異種兵器間での協調への動き

 1917年の末には、ドイツ本土防空は地上部隊と迎撃戦闘機部隊の混合で行われた。地上部隊は、104門の車載式重高射砲と112門の車載式軽高射砲、998門の馬牽引式もしくは固定式高射砲、そして416基の探照灯によって構成されていた。航空隊は高射砲と探照灯を重要な工場施設や重要な交通の要衝などの拠点防御に用い続けた。戦争の最終年、連合軍の夜間空襲が次第に多くなるにつれ、探照灯の重要性も増していった。Hoppener大将は、1917年の初めに探照灯の数を大幅に増やしたことにより、無照準の弾幕射撃よりもかなり効率の良い個別照準射撃ができるようになったことで、夜間の防空能力が格段に上がったと言っている。戦争の終わりまでに、探照灯を伴った高射砲によって76機を撃墜し、また探照灯単独でも4機を目くらましによる空中衝突で撃墜している。
 高射砲や探照灯と関連して、航空隊は1917年1月に低空での航空攻撃の防御手段として、阻塞気球の使用を開始した。またこれと同時に、各15基の気球で構成された8個の阻塞気球中隊を創設した。気球は金属製ワイヤーで繋がれ、電動のウインチによって6,000から9,000フィートの高度に保たれていた。係留用のアンカーロープに加えて、何本かのケーブルをぶら下げることにより防御範囲を広げたり、また幾つかの気球をケーブルで繋げることによって空のフェンスを形成した。このような阻塞気球はSaar盆地の工業目標の防御で効果性を証明した。Hoppener大将は、「高射砲と気球のシステム化された連携によって、夜間作戦においてほぼ通過不能な区域を作ることが可能だ」と多少とも楽観的過ぎる発言をしている。
 能動的な防御に加えて、ドイツは都市や工業地地帯の灯火管制や偽目標の建設、市民用防空壕の増設といった、幾つかの受動的防御も実行した。こうした手法は連合軍パイロットを混乱させ、市民の命を救うことになった。例えば1916年の夏に、ドイツはTrierとLudwigshafenで灯火管制を行い、連合軍による空襲を防ぐことに成功した。この第一次世界大戦でのドイツの経験によって受動的防御手法の価値を認めることとなり、第二次世界大戦においてもドイツ市民の防空作業という形で残ることになる。しかし受動的防御手法は重要ではあるものの、それだけでは上空の敵機を排除することは不可能である。真に効果的な防御を達成する為に、航空隊は航空機と地上防空兵器とをまとめて統合されたネットワークとする事を要求した。高射砲や探照灯、阻塞気球に加えて、航空隊は9個飛行中隊を本土防空に使用した。迎撃機は主に、高射砲のように特定物の防御に使用されていたが、1917年の春には航空隊は拠点防御を行う航空機の数を減らして、ドイツ国内の目標へ向かう途中の連合軍爆撃機への迎撃を増やすようにしている。
 地上防空部隊と迎撃機を共に使用したことは、航空部隊に防空を行うには異種兵器間の協調使用という手法が必要であることを理解させたという意味で重要である。1915年の初頭には、陸軍の指導者は特に重要工場施設の周辺での防空を実行するには、高射砲と迎撃機の双方が必要であるという事を認識していた。Hoppenerによると、「高射砲だけでは、空襲に来る航空機を十分に追い払ったり撃破したり出来ない事が判明してきた。その為に、単座の戦闘機を付属させた高射砲部隊を本土防衛司令部の下に配置した。」高射砲と戦闘機との協調は作戦レベルまで広がりを見せ、地上の防空部隊が敵爆撃機の位置へ迎撃機を誘導するということも行われた。例えば、高射砲部隊が敵の方向に向けて短い一斉射撃を行い迎撃機を誘導するが、砲弾の炸裂は距離が多少あっても視認することができるので良い合図となった。
 しかしドイツの防空での異種兵器の協調使用に対する理解は、相当な先見性や作戦的洞察力と結びつかなかった。事実、問題なのは資源を高射砲と迎撃機のどちらに分配するかではなく、むしろその双方に対して資源をどういう割合で配分するかなのである。この問題は第一次世界大戦だけでなく、第三帝国における1939年から1945年までの防空に関する主要な課題として残ったのであった。


ドイツの地上防空の効果性の評価

 戦争最後の年は、ドイツの地上防空部隊にとって快方に向かう兆候を示していた。実際、1918年は高射砲部隊が最も活躍した年でもあった。11月には航空部隊は2,770門の高射砲を持っていたが、この30%が本土防衛用だった。1917年と1918年には初歩的な射撃指揮装置(Kommandogerate)が登場し、この初歩的機械式計算機を使う事によって、それまでの人間が射表を使って計算していた苦労から多少は解放されることとなった。ただし、こうした初期の射撃指揮装置は、操作を行う人によって入力される情報の精度に左右される部分があった。こうした機械によって計算された射撃諸元もまた、いわゆる「高射砲仮定(flak hypothesis)」によって成り立っていた。この高射砲仮定は基本的に、計算を開始してから射撃した砲弾が炸裂点に至るまで、目標の航空機は等速度、等高度、そして直線で飛行するものと仮定したものであり、第二次世界大戦中も射撃計算にはこの仮説が使用された。射撃指揮装置に関する制限にもかかわらず、諸元計算時間の短縮によってより高い射撃速度とより正確な射撃精度がもたらされた。戦争中に実戦で使用された射撃指揮装置はたった60台だけだったが、目標の計算を行う計算機のアイデアは将来の地上防空システムの中心となっていくのである。
 射撃指揮装置と時限信管の組み合わせもあって、戦争の最後の1年はドイツ本土と前線における連合国航空機の撃墜数が大幅に伸びた。このようにして、技術的進歩と目標そのものの数の増加によって、より少ない砲弾でより多い航空機を撃墜できるようになった。例えば1機撃墜に必要な砲弾数は、1914年に11,500発だったものが1918年には5,040発にまで減少している。1918年の1月1日から10月31日までの間に、高射砲だけで撃墜した数は748機になる。事実、終戦直前の2か月間に高射砲が撃墜した連合軍航空機の数は、9月で132機、10月で129機と、驚異的な結果となった。戦争の4年間を通して、ドイツの高射砲は1,588機を撃墜したが、これは連合国側の高射砲が撃墜したドイツの航空機数、フランスによるもの500機、イタリアの129機、イギリスの約300機の、全ての合計数よりも勝っているのである。対空戦闘に加えて、ドイツの高射砲は地上作戦の援助をすることもあった。最も有名な例では、1917年のCambraiの戦いでイギリス軍の戦車の突破をドイツ軍の高射砲が防いだというものがある。戦争の最後の年は、高射砲は地上ではなく空でその最高の成果を出した。1918年の10か月だけで、連合国航空機の損失原因の47%をドイツの高射砲が占めており、更に最後の2か月の間だけではこの割合は60%を越した。一方のドイツの航空機による連合国航空機の撃墜数は6,811機で、高射砲と比較すると4.3対1で航空機の方が優勢である。しかし、技術的制限にもかかわらずドイツの高射砲が19%もの連合軍航空機を撃墜したという事実は、前線でも本土でも地上防空を無視できないという事を明確に証明しているのである。戦争の最終年に遅れてやってきた成功だったが、これによって大戦間中も地上防空の将来的可能性における楽観的見方が続くことになるのである。
 終戦時、ドイツの地上防空部隊は2,770門の高射砲と718基の探照灯、そして2,800名の将校と55,000名の兵によって構成されていた。それに加えて1万名を越す監視部隊と通信部隊が防空戦闘を補助していた。1914年から1918年までの間に連合軍の空襲によって被ったドイツの損害は、746名の死者と1,843名の負傷者、そして25,035,000ライヒスマルク相当の被害だった。それに比べて、ドイツのツェッペリンと航空機によるイギリスへの空襲では、約1,400名が死亡し、300万ポンドの損害を与えた。空襲による死者と損害の数は、地上戦での損害と比べると小さなものである。ただ、第一次世界大戦は制限戦争の時代の明確な終わりでもあった。都市や工場施設の爆撃は、兵器の大量生産の始りによるものであり、これによって軍隊だけでなく市民までもが攻撃の対象となった。このようにして、市民は物理的損害を必ずしも反映していない空襲に対する先入観を抱き続けるようになった。結果的に、航空機の破壊的潜在能力によってもたらされた精神的、物理的損害が、大戦間の防空の状態と討論の経過を形作ることになるのである。





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