1919年に締結されたベルサイユ条約によって、ドイツの軍備における攻撃能力は劇的に削減された。条項160によって、ドイツ陸軍の最大数は4,000名の将校と96,000名の兵員による10万名に制限された。また条約はドイツの対空火器も効率的に制限しており、共和国軍(Reichswehr、国防軍の前身、ワイマール共和国の国軍)の7個の歩兵連隊にそれぞれ、24門の旧式77mm車載高射砲で構成される1個中隊を割り当てるのみとしている。この旧式砲は、仰角を制限する改造を施さなければならなかった為に、実際には高射砲としての役目を果たせなかった。それに加えて条項167によって、各1門当たりの弾薬数も1,500発に制限されていた。更に条項169では「ドイツの兵器、弾薬、そして防空資材を含む軍事資材の内、許可された数量を越したものについては、主要連合国と協力諸国(Principal Allied and Accosiated Powers)に引き渡し、廃棄もしくは使用不可能な状態とする」と規定している。連合軍は後にこの制限を緩和し、陸軍にはケーニスベルグに16門の固定式高射砲の保持と、海軍には艦艇に少数の固定式砲の装備と幾つかの沿岸砲陣地の所有を認めている。しかしドイツでの保持制限による防空力の削減は、他の交戦諸国の動きの中では決して孤立したものではなく、例えばイギリスにおいては戦争中に主としてドイツの空襲への防御を担っていた防空部隊を、1918年11月には48個小隊、225個分隊、3個機動旅団だったものから1919年の終わりには1個旅団と1個照空大隊に削減している。
大戦間における防空の初期の論点
それでもなお、ベルサイユ条約によってドイツ軍に課せられた制限は、戦後数年間、高射砲の将来的な技術的、資材的開発を不可能にした。しかし使用可能な物理的資源が不足していても、現役・退役将校や学術的専門家達による戦争の「教訓」の研究が試みられた。大戦間、ドイツ軍の作戦計画者(?planner)と市民の戦略家達は、戦車や航空機といった新兵器の潜在的重要性を認識していた。第一次世界大戦後の地上防空の価値についての評価は決定的なものからは程遠かった。ドイツ陸軍の参謀本部の先任副官(Deputy Chief of Staff)だったErich Ludendorff大将は、戦後に行った第一次世界大戦の分析の中で「平時における参謀本部の努力にもかかわらず、不十分な航空兵器で開戦せざるを得なかった」と不平を述べている。
しかしLudendorffは、戦争中にドイツでの防空の発展を認識していた。彼はこう言っている。「対空兵器は完全であり、供給も増加していた。また前線と本土における防衛配置は最も完全な規模で組織化されていた」彼は一般的には戦争中の防空の開発に対して肯定的評価をしているが、一方でこうした防空の発展によって資源を前線から引き抜かなければならなかった事も挙げ、警告もしている。事実、1918年の夏にはドイツの人材不足はピークを迎え、Ludendorffは通信隊の、肉体が健全な男性兵士を女性に置き換え、男性兵士を前線部隊に送って女性に通信任務を引き継がせるという非常手段を採るよう命令していた。戦争の終結でこの計画は実行されなかったが、この事は1918年にドイツ陸軍が直面していた人不足の厳しさを示している。実際、防空システムに必要な膨大な人員の要求は、第二次世界大戦時にもドイツ空軍で問題化している。更にLudendorffは、ドイツ陸軍における前線と本土への資源配分に関するジレンマも挙げている。この地上防空に対する資源配分の問題は、Ludendorffの後継者が30年後に再び直面するのである。
Hoppenerの戦争中のドイツ防空の能力に対する評価は、Ludendorffよりもかなり楽観的である。:
Hoppenerの評価は防空部隊の兵員が直面した困難に焦点が当てられているが、戦争を通じて防空部隊が為し続けた進歩についても評価をしている。しかしベルサイユ条約の締結により、ドイツの地上防空は南北戦争時代のみじめな状態へと再び逆戻りさせられてしまったのである。
ある歴史家は、1919年から1935年までのイギリスの防空を「休止年間」と表現している。同様に1920年代のドイツの地上防空も不毛な状態であった。しかし一方でドイツ陸軍に課せられた物理的制限にもかかわらず、理論的議論はかなり盛んな状態でった。共和国軍(Reichswehr)の兵務局長(head of Truppenamt、兵務局(Truppenamt)は事実上の参謀本部)であったHans von Seeckt大将は、戦争中のドイツ軍部隊の各部署における能力の、率直な評価を促進していた。航空戦力の提唱者であるSeecktは、航空機と対空兵器の事に対して公正な態度を取るようにしていた。1919年12月の兵務局への手紙の中でSeecktはこう述べている「戦場での記憶がまだ新しく、戦争経験のある将校の多くが指導的立場に居る内に、戦争中の経験に光を当てて収集しておかなければならない」。Seecktは戦後の数年における航空兵力と対空兵器との役割に関係する理論的議論を促進した。Seecktは以下のような課題を持つ委員会を作らせた。
・戦前には考慮されていなかったにもかかわらず、戦争中に新しく出てきた状況とは何か?
・上記の状況を処理する際に、我々の戦前の視点はどれくらいの効果を発揮できたか?
・戦争中の新兵器の使用から作られた新しいガイドラインは?
・戦争中に解決できず先送りされた、未解決の新しい問題は?
1919年に、元航空隊参謀長であったWilhelm Siegert中佐の監督の下で、以上のようなガイドラインを使って20名を越す将校が本土防衛の研究を行っていた。同様に追加された3つの委員会が、防空問題に関する研究を、航空兵力や地上防空兵力の装備を含めた色々な角度から行っていた。軍隊と本土の両方を防衛する最も効果的な手法に関する問題も、大戦間の専門書で注目されるようになっていた。
1921年、ドイツ軍の有名な週刊誌「Militarwochenblatt」に、「Flak」と題された論文が掲載された。著者はSeydel大尉で、戦争中の高射砲の長所と短所についてまとめている。Seydelによると主な短所は高射砲の標準化がなされておらず、25種類の違う形式の高射砲を使う羽目になってしまったということである。彼はまた防空部署同士を中継し調整を行う、より効率的な通信システムの必要性も挙げている。Seydelは、戦争末期に高射砲が活躍していたものの、将来には急速に発達する航空技術に高射砲と弾薬の進化を同期させ、より高高度で作戦を行う事になるであろう爆撃機に対抗可能にしておく必要があると指摘している。彼はまた、後の出来事を予言でもしたように、高射砲の対戦車戦闘での価値を認識している。後に書かれた論文で、Seydelは高射砲部隊を完全に独立した兵科とすることの重要性を説いている。彼は次のように言っている。「高射砲は航空機に対する補助的な兵器では決してなく、そのような間違った見方は絶対に避けなければならない」。
1915年にドイツ本土での高射砲兵総監だったvon Keller退役中佐は、これとは対照的な意見を持っている。「1914年から1918年までの戦争中の空襲に対する防御の観点から見た、ドイツの現在の防衛欠陥」と題された40ページほどの小冊子で、Kellerは最近の航空機の技術と能力の発達は地上防空の能力を置き去りにし、このままでは地上防空兵器では空襲に十分対抗できなくなるとしている。その結果、現在の状況では、防空の主要な機材は戦闘機になるとしている。元高射砲司令官であるKellerの評価は、対空防御に限界が存在していることを厳しく指摘している。
防空に関係する問題提起は私的な軍事書だけでなく、ドイツ陸軍のドクトリンにまで広がっていた。1921年には、国防軍の主要な戦術標準の中の陸軍標準487号(Heeresdienstvorschrift 487)には、高射砲による防御に関する詳細な議論が含まれ、そこでは各陸軍部隊はそれぞれで自らの防空を行う義務があり、航空機観測システムを装備すべきであるとしている。Seecktとその部下の軍事作戦計画者は、高射砲による防空だけでなく航空機の役割にも注目していた。実際に、Seecktは航空機を防御的役割よりも攻撃的に運用することを好んでいた。彼の考えでは、攻撃的作戦によって制空権を握り、望めるなら更に敵の航空機をドイツ本土空襲の前に破壊してしまうというものであった。
軍事教育と防空の項目
1920年代のドイツ軍の教育システムも、防空の役割と将来の重要性を強調していた。4,000名の将校団への専門教育は、技術と兵器の協調使用の役割に焦点を置いた。航空兵力と防空は、特に技術に依存し、また兵器の協調使用のコンセプトを尊重する分野であった。防空を考慮して、騎兵、歩兵、砲兵、そして技術といった将校の専門教育では、全ての軍事史項目において何につけても防空の重要性が強調するよう指示している(??be emphasized by all faculty in all military history subjects)。事実、士官候補生の訓練には、1年目と2年目に1週間に1時間の防空に関する論理的教育が行われているが、これは1年目の1週間の論理的カリキュラムの内の4%、2年目では8%を占めている。他にも、参謀コースの全ての将校には、航空兵力に関係するドクトリン、理論、そして技術の研究が要求され、組織的教育が行われている。例えば1920年代の終わりには、参謀候補生は2週間に1時間は防空に関する教育を受けていた。航空兵力と防空に関する議論は、教室での教育だけでなく野外にも及んだ。各師団は防空を含んだ訓練と教育を野外で行い、また定期的に防空研究を実施する義務があった。
1925年と1926年に、共和国軍は区域における防空の作戦訓練教育を実施した。1925年の10月3日から11月3日までの間、砲兵部門(branch)から来た34名の将校は、ケーニスブルグにおいて高射砲を使った防空訓練を受けた。それに加えて、1926年の始めに10週間のコースで、7名の技術将校が探照灯と防空関連機材の訓練を受けた。1928年まで探照灯コースは休止されたが、各師団から3名づつ将校が派遣され、築城学と対空兵器のコースを受講した。教育コースがわずかで、また参加者も少なかった理由は、防空に対する興味不足というよりも、人材や資材の制限が大きかったことが挙げられる。防空訓練へ資源を集中する前向きな姿勢はドイツ陸軍の全体の状況に関連していると考えるべきであり、これらの教育コースへの参加者の絶対数だけを見るべきではない。
人材の制限は1920年代の国防軍における技術開発にも影響を与えた。実際に、技術的資材的不足は、原理を実現可能とする度合を制限した。人材不足から多くの技術開発室が統合され、技術将校と開発要員将校の数が削減された。1919年に国防相は、砲兵検査委員会(Artillery Proving Commision)を含む幾つかの開発室をまとめて兵器並びに装備品総監部(Inspektion fur Waffen und Gerat)とし、存在していた対空兵器の下部組織を廃止して大戦間における防空システムの資材開発を妨げてしまった。技術部門で学位を持つなどした能力のある将校が不足していたことも、第二次世界大戦前の数年前まで明確な弱点として残った。
ドイツ陸軍自身は制限されていたものの、他国の防空開発状況は詳しく調査していた。1920年代、兵務局(Truppenamt)の諜報部門(T-3)は、他国の空軍での組織や訓練、ドクトリン、そして最新技術に関する情報を幅広く取りまとめていた。この情報は定期発行の専門誌にまとめられた。Militarwochenblatt(週刊軍事)の1925年の5月号と9月号では、アメリカ海軍が行った艦隊における対空防御に関する試験について書かれている。9月号の記事では、この試験では3,000フィート上空で曳航する目標に対して16,000発の射撃が行われたものの、この試験高度は戦闘では非現実的な高度であり、結果は不満足なものであるとしている。記事は、アメリカの航空隊(Fliegertruppe)は、この試験結果を「地上防空はその使命を果たし得ないという米軍内での論争の正しさを再確認したものである」と認識した、と結んでいる。
議論の継続
何人かのドイツ人研究家(原文はwriter)もまた、地上防空の効果性について疑問を抱いていた。1926年に出版された「空の戦い(Der Luftkrieg)」において、元参謀本部のハンス・リッター大尉は、第一次世界大戦中のドイツの高射砲の能率について述べている。リッターは、ドイツの地上防空の成功は最小のものであり、1918年に748機を撃墜したといっても、その際の有効撃墜率は、高射砲部隊が会敵した延べ60万機の連合軍機の内のわずか0.12%(原文ではは1/8%)でしかないとしている。そしてリッターは「高射砲は、とても有効的な防御手段とは言えない」と結論付けているのである。しかしこの悲観的な評価にもかかわらず、リッターは高射砲が連合軍航空機の目標への接近や攻撃の妨害に成功した事は認めている。
リッターと違い、他のドイツの軍事作家や学者は、戦争における地上防空の効率に対してより楽観的な意見を述べている。「空からの脅威と防空(Luftgefahr und Luftschuts)」と題された論文で、Heinrich Hunke博士は、第一次世界大戦時の黎明期のドイツ防空ネットワークの影響についての彼独自の分析を挙げている。この中で博士は、「こうした防空が存在していなければ、都市生活はすぐに機能不全に陥り、工場は生産を止めざるを得なくなり、その為にドイツ陸軍は補給不足のために降伏しなければならなくなっていただろう」と述べている。またHunkeは、連合軍パイロットのモラルを下げ、より高い高度を飛行させ、その結果爆撃の精度を落とさせたという高射砲の重要な役割を強調している。それに加え、Hunkeは戦争中に防空において成し遂げられた進歩、特に高射砲と迎撃機との協調攻撃を賞賛している。しかしその一方で、この協調攻撃が最も成功したのが1917年のフランドル作戦のような前線においてで、ドイツ本土防衛ではなかった事も述べている。Hunkeの挙げた高射砲と迎撃機との協調攻撃という点は、戦争中のドイツ航空隊にも大きな教訓とされており、Hoppenerも「航空機との協調攻撃を通して得られた結果から、対空攻撃の発展には航空作戦との結び付きが必要不可欠である」と言っている。このようにして、統一された指揮の下の高射砲と戦闘機との協調作戦が、大戦間の専門家による書籍のテーマとして再び登場するようになっていったのである。
別の研究家であるGroskreutz退役大佐は、フランスの軍事雑誌(La France Militarire)で高射砲の役割についての結論に反論している。Groskreutzは1926年3月のMilitarwochenblatt紙に掲載された「防空火器の重要性(Die Bedeutung der Flugabwehrartillerie)」と題した記事において、軍事演習や調査、そして将校からの投稿などから高射砲の重要性を最小とする傾向があるという報告が、フランスの軍事雑誌に掲載されている事を述べている。そしてこのフランスの偏見こそが、将来の戦争でドイツにおいて重大な結果をもたらすと警告している。彼は前線と本土とにおける防空の役割の違いを明確にしている。本土防衛の為には強力な高射砲部隊が必要であり、これによって工業生産の中心地域と軍隊への補給線と共に「国家のモラルの強さ」を防御しなければならないとしている。Groskreutzはフランスの専門家が高射砲を単独で議論している事を非難し、そして高射砲は迎撃機や阻塞気球、探照灯、高射機銃、そして気象観測部隊によって構成される大きな防空システムの一部分であることを述べている。さらに彼は防空のこうした要素が、航空警戒部隊(Air Warning Service)に依存している事も付け加えている。そしてGroskreutzは防空の様々な要素を全て合同した大規模な演習が必要であると結論付けている。Groskreutzによる防空手法の提唱は偶然のものではない。事実、彼は「元高射砲部隊員の組織(Flakverein e.V.)」のメンバーであり、また組織向けの月刊ニュースレター(Mitteilungsblatt des Flakvereins)の編集者であり、また常連の投稿者でもあった。
大戦間での議論において、本土と前線での高射砲の役割は別のものとされていた。Groskreutzは1926年4月4日付のMilitarwochenblattの「機動化という特別な考慮による対空兵器の装備と運用(Stand und Verwendung der Flugabwehrartillerie mit besonderer Berucksichtung des bewegungskrieges)」と題した記事を書いている。この記事で彼は「王立砲兵」という軍事雑誌によって表彰されたK.M.Loch大尉の論文について触れているが、この論文が、将来の戦争における高射砲の戦術運用に機動化が存在していることを理解する為の重要なヒントになったとしている。Groskreutzの後ろから2つ目の文章(?penultimate sentence)から、当時の地上防空についての議論の状況がわかる。彼は「この研究は、防空についてのあまり知られていない分野において一般人に対し様々なアイデアを提供してくれることになり、そして高射砲を機動兵器として装備する事について理解力を向上させてくれるだろう。」と述べている。
Groskreutzの評論では、防空という事に関する民間の意見や認識の果たす役割についても取り上げている。1920年代前半には、ドイツ人による防空組織が出現していた。その一つである防空連盟(Luftschutzliga)は、1930年代始めにはその構成員が数万人にのぼった。防空連盟は防空に関する題目で講義を行ったり、また有力な機関紙である「サイレン(Die Sirene)」を発行した。それに加えて防空同盟は、Flakverein(元高射砲他員の組織)と合同して、政府組織や民間の中で防空に関する提案も行った。1927年には、警察官や地方都市職員、赤十字社員、そして消防隊員らによって組織が構成され、能動的並びに受動的市民防空手段を補助する活動を行うようになった。そして機関紙「サイレン」の他にも、1920年代から1930年代始めにかけて、1923年に「防空ニュースレター(Luftschutznachrichtenblatt)」、1929年に「ガスマスク(Gasmaske)」、そして1931年に「防ガスと防空(Gas- und Luftschtz)」などの各種機関紙が創刊されたのである。
防空は19世紀初頭の海軍脅威論と非常に似て、センセーショナルの対象となった。典型的な例として、1932年に発行された本の題名は、「ドイツ人よ!!寝ぼけているのか??空からの脅威が迫っている!たった1時間で飛行機が、爆撃機が、毒ガスが、ベルリンやあなたの住む町や、あなたの働く工場地帯へと飛んでくる!あなた方民衆に何ができるのか?自分たちをどのように守ればいいのか?そう、この本に!全ての解答が書かれている!!」という警告的であるが表現的なものであった。1920年代には、イタリアの航空兵力評論家であるCiulio Douhetの影響を明確に受けた研究家達が、ドイツ人の女子供の頭上に爆撃機の大編隊が爆撃を行うという、終末思想的予言を書いていた。こうした研究家達の考えでは、防空において周到な準備が無ければ国家が滅亡してしまうのであった。ナチス政府は民衆の空襲に対する恐怖に突け込み、帝国防空連盟(Reichsluftschutzbund)を組織し、ドイツ人を戦争へと準備させていった。第一次世界大戦時の撃墜王であり、後のドイツ空軍の長となるヘルマン・ゲーリングはこの流れの主導権を握り、1933年4月に連盟の公的創設者となった。連盟員は次々に増加して後に1600万人、ドイツ人の5人に1人が加盟するに至るが、これは連盟が特に民衆を防空に対して興味を煽ることに熟達していたことを示している。民間の展示会や市民による防空演習に加えて、連盟は、例えば1935年には「防空、ドイツ人の不可避な問題」という題目で防空に関するエッセイコンテストも開いた。ドイツ軍の作戦計画者は民衆の不安の中に、ねじれた満足を見て取ることが出来た。事実、空襲に対する潜在的な危険性が広く信じられたことによって、ドイツ本土防衛の能動的・受動的手段の補強を強く進めることが出来たのである。
戦略爆撃と防空との関係は、兵務局(Truppenamt)の参謀達の中では消えることは無かった。第一次世界大戦時の有名なパイロットで、兵務局の航空部門の長であったHelmuth Wilbergは、1926年に「航空作戦を遂行する為の指令集」と題した、39ページの戦略爆撃と防空に関するドクトリンの概略を書いている。この指令集は、戦略爆撃に関係する組織や、目標、作戦事項についての正式な議論を促すことになった。この文章の著者達は、航空機材の運用において二つの組織構造を思い描いていた。一つは、方面司令官の陸上や海上の目標への攻撃を援助する部隊である。そしてもう一つは敵の本土にある目標を破壊する部隊であり、こちらは上級司令部の指揮下に置かれた。この文章の独特の視点は、自分自身の防空の重要性も継続して認識しているということにある。ドイツ軍の作戦計画者は、ドイツの敵の弱点は即ちドイツの弱点そのものでもある、という事を認識していた。これはつまり、作戦部隊とドイツ本土において対空防御が重要であると強調しているともいえるのである。
1920年代の半ばになるとドイツ軍のドクトリンは、理論上の議論や兵棋演習によるものだけではなく、ソビエト−ドイツ協定によって得られた実践による成果も取り込み、発展するようになった。1922年4月16日、ワイマール政府はソビエト連邦とラパッロ条約を結んだが、この条約はヨーロッパの外交界にショックを与えた。この条約でドイツは、共産主義者によって国有化されてしまったドイツの旧所有物に対する賠償の要求を取り下げる代わりに、ヨーロッパの除け者のソ連とドイツの間で、公式に相互通商協定を結ぶことになった。
ラパッロ条約に秘密軍事条項が含まれていたと一般では広く信じられているが、これは間違いである。実際に、1921年には既にドイツとソ連による軍事同盟の、最初の実質的会合が持たれていた。共和国軍と赤軍とによるこうした秘密の交渉は、ラパッロでの公式な政府間の同意に先行していたのである。いずれにしても、条約が両国の軍事同盟を深くする雰囲気を演出した事は確かである。そして1923年と24年に行われた秘密軍事協議によって、国防軍と赤軍との間に幾つかの秘密条項が成立した。例えばその中の一つの条項によって、1924年にLipetskにドイツとロシアの合同航空学校が開設された。Lipetskの合同航空学校はその名の通りドイツとロシアのパイロットの訓練学校であるばかりでなく、同時にドイツの試作機の技術や運用の評価を行う為の重要な飛行試験センターでもあった。合同飛行訓練の実施に加えて、ドイツの航空機会社ユンカースはモスクワに近いFiliに工場を建設した。更に他の条項では、Samaraに一時的ガス(?short-lived gas、化学の用語らしいがわからない)の工場が、Kazanに戦車学校と試験センター、そしてドイツの大手兵器会社クルップの管理による3つの弾薬工場がツーラ、レニングラード、そしてSchlusselbergに建設された。このソビエト-ドイツ軍事同盟によって、大戦間における共和国軍の航空兵力と装甲兵力の開発は明らかに有利となった。元モスクワ駐在武官で、ヘルマンゲーリングの参謀総長と言われていたErnst von Kostring大将は、Lipetskにおける開発と訓練計画によって、ドイツ空軍が1939年に熟達の域に至ることが出来たと信じている。
ドイツの航空機の進歩と比べて共和国軍の地上防空の開発には、ソ連との軍事同盟はあまり貢献しなかった。1928年にソビエトの代表団はクルップに対して、高質鋼と高射砲を含めた火砲の生産の援助を求めた。クルップは初めの内こそ興味を示していたもののこの冒険を断念し、その為にソビエトは1930年1月にラインメタルへと交渉を開始した。ラインメタルとの交渉でのソビエトの大きな目的の一つは、火砲生産の為の軍事工場建設の同意であった。そしてついに1930年夏に同意に至り、高射砲の部品を若干引き渡したものの、その頃にはロシア・ドイツ軍事同盟の破綻が迫っていた。結局、共和国軍と赤軍との軍事同盟の重要性は、主に航空機と戦車の訓練施設から得られるた経験と、ドイツ工業界によって得られた知識とにあった。しかしこの同盟による航空技術の進歩の一方で、防空分野が同盟項目に入っていなかった事から、1920年代は航空と防空とは別々の開発の道を辿らざるをえなくなった。1930年には、ドイツの航空機の技術と材料の進歩はその対抗分野である地上防空のそれを大きく引き離してしまったのである。
技術的・組織的有利
ドイツの航空業界が新しい機体とエンジンの、テストと分析を行っていた1920年代、ドイツの工業界も地上防空に関連する一連の最新技術開発を行っていた。最も緊急な技術的課題は、目標補足の正確性と、火砲の諸元計算を素早く実行する機器に関するものであった。大戦間における航空技術の進歩によって、航空機の性能は画期的な進化を遂げていた。こうした新型の商用ならびに軍用の試作機は、第一次世界大戦当時と比べてかなり高い高度を、速く飛行するようになっていた。そしてより高速で、より高高度を航空機が飛行することにより、対空砲の照準はより複雑になり、また光学照準に依らない方式を過去のものとしてしまった。1925年にイエナにあるカールツァイス社は、光学測距儀の開発契約を受注した。その翌年にはツァイス社は射撃指揮装置の開発も開始し、海軍と技術大学の学生と協力して試作品の試験を行った。最初の実戦用の射撃指揮装置(Kommandogerat P27)は、大戦間連合国管理委員会が大戦後に共和国軍に維持を許可した高射砲陣地である、ケーニスベルグの陸軍高射砲部隊に配備された。1928年に行われた飛行機に曳航された標的を使った実弾射撃試験によって、追加で10台のP-27射撃指揮装置が発注された。この10台は、ヴェルサイユ条約下で保有の認められていた車載式高射砲を共和国軍が極秘裏に改良する為に発注された。1928年にこの車載式高射砲は、クルップ社が外国への輸出用に製造した75mm高射砲をドイツ陸軍向けに出荷した高射砲で置き換えられた。それに続いて1930年と31年にツァイス社が10台の射撃指揮装置を納品した。本来、ドイツ陸軍はこの指揮装置を1個中隊に2基配備するよう考えていたのだが、この機器は高価であったためにそれ以上の数を揃えられなかった。その代りに、この射撃指揮装置を補助するより安価な予備指揮装置の開発を始めた(1934年には開発が終わったが、結果は満足いくものではなく、計画は中止された)。
こうした技術開発に加えて、軍はドイツ陸軍の組織的再構成も行った。1927年6月30日に兵務局(Truppenamt)は「戦時における軍の配備計画(A計画)」と題した極秘の動員計画を作成し、共和国軍の戦時における任務の概要を表した。この計画書では、ドイツ軍の防衛の複雑に入り組む戦略をまとめ上げる、軍上層部の意図が重要だとしている。また同書は、航空部門を含む陸軍のさまざまな部門間を取りまとめ、詳細な人員と資材の要求を準備することも必要だとしている。1928年に国防軍の効率の専門家であるAlbert Kesselring大佐(後の陸軍元帥)は、航空機に関連する組織や訓練、そして調達を集中化する為に、独立した航空総監(air inspector)を作るべきであるという提案を行っている。この提案は陸軍上層部によって拒否されたが、しかし1828年10月1日に、より上層部の将校であるHilmar Ritter von Mittelberger准将(?Brigaduer)が訓練総監(Training Inspector)(In 1)の長官に任命された。そしてこの訓練総監は、訓練や管理、購買、人事、技術、気象観測、そして防空といった、ドイツの全ての航空機活動の中心の局(Office)となるのである。それに加えて防空の重要性が大きくなってきたことによって、1930年2月1日には砲兵総監の下に高射砲訓練将校(Ausildungsstab III)という役職が作られることとなった。そして最も重要な進歩は、A計画全体での航空機に関する添付書類の取りまとめが訓練総監の役割となったということである。この「航空隊におけるA計画」と題された添付書類(?annex)は、一般の動員計画を補助する為に必要な航空機の要求も取り扱っていた。そして当然に主要な計画も、陸軍を補助する航空機の編成に重点を置いて訓練総監によって作成されていたのである。
そして訓練総監は防空を無視していたわけではなかった。1930年12月に訓練総監は「航空部隊の戦場における共和国軍の訓練指針」を作成した。この指針の草案では、航空部隊と防空での陸軍の訓練の改良について議論していたが、更なる進歩が必要である事も喚起している。実際に、師団の特別航空アドバイザー(Referent zur besonderen Verwendung)の主な仕事は、師団の将校と兵隊への航空機の可能性と防空に関する分野での教育であった。それに加えて指針は、師団レベルの特別航空アドバイザーが例年の防空演習へ参加し、車載式高射砲部隊によって実施される実弾射撃訓練に積極的に関与する権限を与えていた。
将来の兵器の未来像
1930年には何人かの共和国軍の上級将校は、将来の戦争における戦略爆撃の役割に大きな関心を払うようになっていた。訓練総監で航空参謀将校だったHelmuth Felmyと、兵器局の将校だったWilhelm Wimmerは、戦略爆撃こそが次の戦争での主役となると強く主張していた。Felmyの戦略爆撃に対する主張は、航空参謀部(air staff)が1930年に出版した「空軍の運用の原理」の内容と一致している。この「原理」の中で、航空参謀部は「敵の力となる軍事的経済的資源」を攻撃可能な、中央で管理された爆撃機部隊が必要であるとしている。「原理」はまた、制空権を握るには、戦闘機と強力な地上防空戦力との協調とが必要であるとも主張している。戦略爆撃に関する航空参謀部の議論に対する一般的で歴史的な反応は、ドイツの「失われた」機会に焦点が置かれ、また1936年のWalter Weverの死によってドイツ空軍が戦略空軍になる野望を捨てた事が強調されている。しかし、この議論で見逃され易いことは、防空分野における戦略爆撃という議題に対するドイツ人の反応なのである。
1929年から30年には、軍事専門書は次第に防空へと重点を置くようになっていた。1929年10月から1930年3月までの間に、Militarwochenblatt誌は、特に防空と対空兵器に関連した論文を何本か掲載している。これらの論文は、ドイツ工業の空襲に対する弱点の戦略的分析から、ビッカーズ社製の0.5インチ機銃の戦術的記述まで、幅広いものであった。1929年10月18日に掲載された、技術者であるW.Hofweberの書いた「ドイツ工業の防空(Luftshutz der deutschen Industrie)」は、ドイツ人とドイツ軍の心配を利用したものであった。Hofweberはドイツを「非武装である祖国(entwaffenetes Vaterland)」と表現し、「夢想者のみが永遠の平和を信じ、無防備な人々は常に恰好の攻撃目標になっている」と主張している。彼は、強力な空の艦隊こそが今日最も重要な兵器であり、今もなお進化し続けている技術を利用した空の艦隊によって「ドイツは早期に降伏させられる」可能性があると断言している。Hofweberは「全滅の危険(Vernichtungsgefahr)」からドイツ工業を防御する為に幾つかの提案をしている。この提案の中には、重要な工業地域を煙幕で覆ってしまうことや、探照灯を利用して攻撃してきた爆撃機のパイロットの目を眩ますこと、効果的な早期警戒システムの設立、耐爆避難所や耐爆施設の建設、そして工場労働者への緊急時の初期治療と消火活動の教育というものが含まれていた。そしてHofweberの予想通り、ドイツ空軍はこれらの手法を第二次世界大戦の終わりまで、段階的に実施して行ったのである。
10月25日には、「フランス側の防空」と題された無署名の論文が掲載された。この論文は2ページ程で、フランスのA.Niessel将軍著の「対空防御の準備」という本の書評と議論を行っている。この中で著者はNiesselの完全さと専門知識とを賞賛している。また著者は、ドイツでは「防空問題が特に重要であるにもかかわらず、近い将来に同様な著書がドイツ語で出版される事をただ願っているだけ」という現実を指摘し、嘆いている。Niesselは防空問題の中心を、空襲を受けた際の「国民全体の精神的準備」と位置付けてているが、この点は著者も同意見である。皮肉にも、精神的準備がその国民に空襲を耐えさせるという含みは、多くの点で、物理的にも資源的にも有利な敵に打ち勝つ気力の源であるというAedant du Picq(?フランスの軍事評論家らしい)の説への追憶であり、数年前にヴェルダンとイープルの戦野に置き去りにされたような理論であった。
もちろん、Niesselの議論では物理的力の果たす役割についても忘れてはいなかった。Niesselは空襲の特徴とその手法、空襲の目的と可能性、能動的防空手法と受動的防空手法、そして防空組織といった幾つかの事について調査を行っていたが、論文の著者は、Niesselの議論の中の、受動的防空手法のみに焦点を当てている。著者は、Niesselの夜間空襲の際に探照灯をパイロットの目くらましとして利用するという提案と、そして全ての国民にガスマスクが必要であるという提案に同意している。彼はまた、煙幕と偽装による広い地域の防御に限界があることと、重要な工場と通信施設の近くに防空避難所が必要であるということについてもNiesselと同意見である。そして評者は、Nisselの著書はドイツ人の防空問題に対する「目覚まし(Weckruf)」になるだろうという悲しげな主張で、この評論を締めくくっている。
1930年1月18日付の、技術者であったA.Weisによる「鉄筋コンクリートによる防空(Luftschutz durch Eisenbetondecken)」と題された論文では、空襲からドイツ人の非戦闘員を守る計画が提案されている。この中でWeisは、工場の近くにある家やアパートを鉄筋コンクリートで建築することを強く提案している。敵の空襲において、煙幕等の防御手法を実施したり戦闘機で迎撃を行えば、目標を逸れた多くの爆弾が非戦闘員の上に落下することになってしまう事を、Weisは正しく観察していた。そして彼はこうした地域の非戦闘員を防御する為の建築基準について論じている。
以上に挙げた3つの論文は、2つの重要な面を示している。その1つは、1920年代終わりから1930年代初めにかけて出てくるようになった、防空に関する書籍の流行である。このような論文や本は、空からの黙示録が存在する事を警告し、空襲による脅威に対して幾つかの対抗策を示している。そしてもう1つは、こうした論文の著者の殆どは、空襲に関する議論を受動的手法か、もしくは攻撃してくる敵機と能動的に交戦しない手法に限定しているという事である。そして能動的防御手法への言及が低調であったのは、次に挙げる3つの原因が関係していた。まずベルサイユ条約がドイツの対空防御に課した制限が効力を持っていたことである。そして2つ目に、共和国軍の能動的地上防空は、どう頑張っても謙虚に書かざるを得ないものでしかなかったことである。そして最後に、1920年代の終わりから1930年代初めにかけて、当時の能動的防御手法に関する議論がドイツの航空機や防空に注意を向けることが無いよう、軍が率先して議論を抑制していたということがあった。
そしてそれとは対照的に、記事はドイツ国外の能動的防御の開発に触れている。例えば、1929年12月25日のMilitarwochenblattに掲載された記事では、アメリカ陸軍の高射砲部隊の組織や運用、そして装備について調査している。この記事には、射撃指揮装置や測距儀、探照灯、そして聴音機を統合した昼夜の防衛の作戦配備図が書かれている。また1930年3月18日の新聞記事では、ビッカース社の最新の対空機銃の評価記事が掲載されていた。
この報告書では、陸空協調の必要性と戦術攻撃に対する防空への理解という、ドイツの防空ドクトリンの他の重要な2つの面も反映している。「対空兵器の任務」において報告書は、「対空兵器は、単体もしくは航空部隊と協調して、前線においては部隊を、本土防衛においては全ての重要な施設を、空からの攻撃から防御する任務を持っている」としている。報告書によると、防空の主要な目的は「常に敵の航空機を破壊し、その物理的・精神的効果によって、敵の任務の実行を少なくとも妨害するか、もしくは敵に活動を全く諦めさせることである」。それに加えて防空計画者は、高射砲の数こそ制限されているものの、機械化することで「数の弱点を補完する」事が可能だと考えていた。
防空の任務と目的を考慮して、報告書は近未来、防空部門に必要だと予想したものに焦点を当てている。実際に、報告書は防空での需要の優先度を挙げている。計画が優先度を「緊急」に挙げているものとしては、88mm高射砲(当座の解決)、20mmと37mmの中口径高射砲、探照灯、音響機器を含む電波探知機、弾幕ロケット、射撃指揮装置、そして赤外線追尾装置である。これに加えて報告書では、阻塞気球の優先度を「重要」、高射砲の遠隔操作を「非緊急」としている。弾幕ロケットと赤外線による航空機の追尾とは、2つの大きな技術革新を成すことになる。この提案の前者の方は、1932年の共和国軍の制限された規模と予算を考えると非常に野心的である。しかしWerner von Braunが液体燃料ロケットの博士研究をベルリン工科大学で開始したのが、同じ年の12月なのである。ロケット開発はベルサイユ条約による制限外にあり、陸軍が防御用ロケットシステムを行う権利を技術的に持っているという利点もあった。
この報告書にはまた、夜間防空における探照灯利用に関するRudelの初期の考えに反して、実際に12kmの照射範囲を持った新型の探照灯を想定して書かれている部分もある。しかし1932年の開発計画の最も特徴的な面は、第二次世界大戦において将来のドイツ防空システムの基本的要素となる全てのものを認識していた、ということである。報告書では大口径の高射砲についても触れているが、「牽引用高射砲の重量内に制限しなければならず、この事から88mmを越す大口径高射砲は、固定砲床もしくは鉄道搭載(RR)高射砲としてのみ利用可能だった」としている。
ドクトリンの面からみると、Rudelが高射砲部隊の主な目標を敵飛行機の「破壊」であるとし、防御や攻撃の妨害には反対していたことは、非常に重要であった。この立場から作り上げられていった、対空兵器の将来の効率を判断する為の標準は、基本的に狭いパラメータを基にする事になってしまった。この固定観念(?iron measure)は、その後のドイツ空軍の指導者達による高射砲性能に対する期待を、多くの面で形成して行くことになる。第二次世界大戦を通して、Rudelと他の高射砲兵は(?rest of the flak arm)、この前提を問い直す機会に何度も直面し、それは決して無くなることはなかった。
こうした初期計画の実施結果は、計画書に書かれていたような劇的なものからは程遠かった。そして1929年秋に発生した世界的な財政危機である「大恐慌」による悪影響にもかかわらず、計画は進められた。例えば、1932年10月には陸軍は既存の馬牽引式高射砲部隊の完全な機械化部隊へと転換(Kraftwagen-Batterien)に十分なだけの予算を確保した。更に1931年に各中隊は、DoberitzとPillauの訓練射撃場における実弾射撃を含む、2週間の訓練を既に受けていた。これらの訓練において、射撃指揮装置の使用は砲手による試用に制限され、また指揮官も速度よりも正確性を要求されていた。それに加えて1932年の夏と秋には、Schilling半島で機械化中隊による射撃訓練が行われた。理論から実践へのゆっくりとした動きは、1920年代終わりには殆ど観念的でしかなかった教育からの、良き脱出口となったのである。
1932年にFelmyとRudelによってまとめられた開発計画は、ドイツの再軍備の過程における重要な段階であった。ドイツの地上防空部隊は確かにささやかなものであったが、Rudelと航空参謀部(?his staff)のメンバーは、1939年の戦争という試練へと次第に向かってゆくことになる防空部隊の、幅広い骨格を描いたのである。実際に、大規模なドイツの再軍備を実施するのは、ナチスではなくワイマール政府の政治的・軍事的指導者であったことを、1930年と1932年の国防軍の再軍備計画は明示している。1933年から39年にかけて、ヒトラーと上級軍事指導者達は、この計画を大喜びで支援し、そして強化してゆくのである。