1933年に陸軍は、それまでに存在していた7個の自動車分隊(?Fahrabteilungen、英語に直訳するとDriving Section、運転部門)の再編成作業を開始した。この「自動車分隊」という用語は、これらの部隊が実際には機械化高射砲部隊であるという真実を偽装する為に作られたものである。この再編成は、共和国軍の指導者が陸軍の規模、中でも特に高射砲、通信、砲兵の各部隊を大きくする為に作成した、1932年11月の転化計画(Umbau-Plan)によって実施された。陸軍は、それまで様々な砲兵連隊下に配属されていた機械化分隊によって、高射砲部隊を編成した。1933年3月1日には自動車分隊は「監視部門(Observation Departments)」としてまとめられ、ケーニスベルグ、Juterborg、ミュンヘン、Landsberg am Lech、そしてBerlin-Lankwitzに配備された。部隊はそれぞれ4個中隊(Eskadronen)で構成されたが、Landsbergに配備された部隊の中の2個中隊は、山岳作戦を支援する為のものであった。
陸軍を支援し、また帝国の防空を行う為の全部で7個の防空部隊は、戦争でドイツを防衛するには明らかに不十分であった。しかし他の主要国の努力と比較すると、共和国軍の努力はかなり良い方であった。イギリスでは、緊縮財政と「10年ルール」、それに加えて広範囲に渡る領土の保全の為に、防空は国防義勇軍(Territorial Army)に移管されていた。1925年に、新しい司令部として英国防空部(Air Defence of Great Britain(ADGB))が創設され、防空に関する7つの委員会が置かれたが、実際には殆ど進んでいなかった。ある歴史家の言葉を借りるならば、1929年から30年にかけての金融危機によって「装備の不足や、燃料、弾薬、費用の制限を受け、訓練が役にも立たない茶番になり下がってしまっていた」といえるだろう。そしてイギリスの地上防空の状態が謙虚なものだとすると、アメリカの状態は最悪と言えるだろう。後に陸軍総参謀長になるGeorge C.Marshall大佐は、1935年の演説の中で「我々の航空隊は、他の陸軍部隊と比べると装備も開発も良いとは言えない状態である。しかし我々の対空兵器、高射機銃や高射砲などの装備は、悲惨なまでに不足している。」と言っている。こうした状態と比べると、1933年までのドイツにおける努力は、全く十分であったと言えるだろう。
自動車分隊(Fahrabteilungen)の組織と行動についての綿密な調査によって、1930年初めにはこうした部隊の効率評価の枠組みが出来上がっていた。1933年3月に、Berlin-Lankwitzの第3自動車分隊は医療、気象、そして通信の各部門を含めた本部要員(?staff)と、照空中隊1個と88mm高射砲4門の高射砲中隊1個によって構成されていた。本部要員(?staff)の内訳は、将校9名、文官(civil servants)3名、そして130名を超える下士官(non-commisioned officers:NCOs)と兵(enlisted members)であった。同様に、照空中隊は将校6名、士官候補生(officer candidates)3名、下士官31名、そして兵130名、また高射砲中隊は将校6、士官候補生3、下士官26、兵112だった。1933年10月には、軍は75mm高射砲4門の高射砲中隊と、88mm高射砲4門の高射砲中隊を各1個づつ追加して部隊の増強を図った。
また1933年の初めには、防空関連の訓練活動の回数と規模が大きくなっていった。まだ存在が秘密であった高射砲訓練参謀は、個々の高射砲部隊の熟練度を向上させる為に相当な努力を払った。1933年3月にRudel大佐は「1933年の訓練についての批評」と題した包括的な報告書を作成した。この中でRudelは1933年の訓練計画について議論し、より一層の改善を要求する範囲を強く示している。その中でも特に光学測距儀要員(EntfernungsmeSleute)の訓練を挙げている。実際に光学照準機器を操作する測距員(range finder)は、恐らく高射砲操作員の中で最も重要なメンバーである。最初に計測される目標までの距離が、その後に続く全ての計算の土台となり、目標との交戦において重要な役割を演じるのである。Rudelは各部隊の熟練度がバラバラであることも指摘している。更に彼は経験上、例え質の高い操作員といえども、通常訓練が中止されてしまうかもしくは長期間中断されてしまえば、熟練度のレベルは瞬時に劇的に下がってしまう事を注意している。訓練と測距員の熟練度という項目は、1945年に至るまで、防空指揮官達の中で大きな関心事であり続けた。
Rudelが示した2つ目の点は、中隊指揮官は常に部隊と通信連絡手段を持つ必要があるという事である。一見すると奇妙な指摘だが、機械化された高射砲部隊は前線の陸軍部隊を支援する為に移動中であることが多いという事実を考慮すれば、奇妙な話とは言えないだろう。それから、中隊指揮官は自分の部隊と高射砲器材の配置に適した場所を探す責任があるとしている。そして最後に、Rudelは射撃訓練の問題に注意を向けている。Rudelは実弾射撃に関する標準は、実際の戦場での状態にもっと近づける必要があるとしている。しかし彼はまた、全ての部隊が夜間射撃訓練に参加することは不可能であるとも言っている(?能力不足で参加すら不可能という意味か)。Rudelが最後に挙げた夜間射撃への指摘は、1933年における高射砲兵の大きな弱点であった。夜間射撃訓練の不足という問題は、第二次世界大戦の初めの数年間、再び空軍を悩ますこととなる。夜間射撃の(?低い)熟練度にもかかわらず、Rudelの報告書ではまだ、1933年の初めには、訓練と防空部隊の為の標準の改良へと重点を移してゆくべきだと強調している。これは1933年初めに、特定の部隊において訓練の摂生が見受けられたことから、このような視点が助長されたようである。
実戦訓練と理論的訓練
第3自動車分隊の1933年3月から5月の間の活動を見ると、高射砲部隊の訓練頻度が上がっていることがわかる。3月には、部隊は週3回の探照灯と聴音機との合同野外訓練の命令を受けている。この野外訓練は、夏に計画されている実戦演習(?war game)の準備として企画されていた。4月には、部隊は毎週の訓練を行いつつも、戦場状態の体験も行うよう要求されていた。5月には戦闘訓練が引き続き行われつつ、Schilligの射撃場で2週間にもわたる長期の実弾射撃訓練と、1週間の探照灯訓練、そして新兵も含めた戦闘演習(?combat trial)も合わせて実施された。
1933年の夏にはは、レベルの向上したこのような訓練の結果が、いくつかの能力評価として出始めていた。聴音機の場合では、1933年7月の国防省(?Reichswehr Ministry)への報告書は、都市や工場地帯、鉄道、高速道路に近い地域における聴覚測距に関する難問に触れられている。こうした地域での環境音の高さが、聴音手の任務を複雑にしてしまうのである。そして報告書では、環境騒音は戦時には更に悪化することから、こうした環境騒音のレベルの高い状況で訓練を引き続き行うべきであると書いている。報告書ではまた、中短距離で相当に正確に追尾可能であるよりも、長距離において平均的に最も熟練している方が、聴音手として優れているでとも指摘している。実際に報告書は、聴音機の限界の距離で訓練を実施する事が、教育課程の中で最も重要な任務であると断言すらしている。報告書ではまた、夜間に爆撃機と交戦する訓練を、聴音機手と探照灯手と共同で実施する事の重要性も挙げている。総合すれば、報告書は音による探知に関しての限界を現実的に評価し、なおかつ将来の訓練へ現実主義的に対応していると言える。
重要な実践経験は、探照灯の運用に関してもまた得られた。大戦間、探照灯の効率に対する認識は全く悲観的であり、探照灯の開発も芳しくない状態であった。1930年代初めの野外演習によって楽観的な評価も現れるようになり、ある指揮官は110cm探照灯と、それから特に150cm探照灯の実際の照射距離は、常に過小評価され続けていると主張している。続いて作戦演習によって幾つもの明確な戦術的勧告も出てくるようになった。1933年夏に、第3自動車分隊のHubert Weise中佐(後の中央航空管区司令官、Commander Air Region、Center)は、国防省(?Reichswehr Ministry)の防空局(office)に提出した報告書において3つの勧告を行っている。1つ目として、Weiseは平時における探照灯2基編成の小隊3個だけの場合には、防御目標周辺の特定区域のみの照射を許可するべきであると主張している。こうする事によって、敵機の乗員は探照灯に対して上手く交戦する為に、敵機は決まったコース付近を飛行せざるをえなくなると指摘している(?)。更に各小隊を探照灯4基に再編成すべきで、これは緊急で当然の要求であるとしている。2つ目として、機械化通信分隊を各小隊に付属せしめ、反応時間を少なくし、機動作戦を実施可能にすべきであるとしている。最後に、照空中隊には実物並みの訓練目標が、高射砲中隊以上に必要であるという主張で締めくくっている。これに関してWeiseは、爆撃機よりも遅く、低空でしか飛行できない単発のスポーツ機を使う事は問題であるとしている。彼は、実物に近い訓練目標を使わない限り、現在のレベルを超える完全な訓練の実施は、不可能であると見ていた。
実際に高射砲の訓練を実施してみると、考慮した程の成果が出ないことが何度もあったが、理論的訓練への努力と注意に関しては別であった。1933年秋に第3自動車分隊は、1933年12月と1934年2月に実施予定の、大規模な作戦立案訓練を準備した。前者はベルリン市を中心とした本土防空訓練であり、後者は陸軍の機動作戦を支援する高射砲部隊の運用を目的としたものであった。他の理論的訓練としては、高射砲と探照灯の装備、航空戦術、そしてエンジン音で種類を区別するエンジン認識といった科目が、40時間にも渡って防空士官に対して教育された。それに加えて個々の将校は、12にも及ぶ口頭による発表が要求されていた。この発表の題目には、「最新航空兵器の運用について」、「急降下爆撃機による低空からの攻撃に対する防御」、「高射砲中隊における高射砲と探照灯の最小装備数は?」、「防空における煙幕生成」、「高射砲の測定機器とその射撃操作における重要性」、「日中戦争における航空隊と防空部隊の活動」といった、ドクトリンや作戦手法から戦術手続きに至る、印象的なものが提供されていた。実際、防空部隊における徹底的な理論的訓練は、この分野におけるプロシア陸軍とドイツ陸軍によって作り上げられた、卓越した伝統が脈々と受け継がれていたことを考慮すると、驚くには値しない事であった。
それにもかかわらず、幅広く徹底的に理論的教育が実施された為に、前線からは不満の声も上がってきた。ある将校は、自身の活動報告書(After Action Report)の中で、実弾演習の最中の理論的訓練は、やることが多すぎる割に時間が余りにも少なすぎると不満を述べている。後の高射砲兵准将(Lieutenant General of the Flak Artillery)のEugen WeiSmann大尉も「発表に参加しなければならない理論的訓練を、実弾射撃期間に行うのは不可能である」と書いている。彼はまた「発表や宿題、そして射撃任務への参加は非常に重荷となっており、訓練コースでの目的の多さは限界に来ている(?)」と主張している。物事が余りにも早く動き過ぎていると信じていたのはWeiSmannだけでないのは確かであり、この現象は自動車分隊の組織的再編成にも当てはまった。
1933年10月現在の高射砲と探照灯の部隊は第3自動車分隊(Berlin-Lankwitz)の他に、第1自動車分隊(ケーニスベルグ)、第2自動車分隊(Stettin)、第4自動車分隊(ドレスデン)、第5自動車分隊(Ludwigsburg)、第6自動車分隊(Wolfenbuttel)、そして第7自動車分隊(Furth)であった。部隊は広範囲に分散配置されたが、この配置地域は既存の陸軍方面担当域(Wehrkreise)と一致していた。この分散配置はまた、他のヨーロッパ諸国からドイツの防空活動を隠すのにも役に立った。このように隠匿しようとしていた事は、防空総監(Inspector of Air Defence Force)に昇進したRudelが、1933年10月7日に出した「訓練や兵器、装備に関係する全ての情報や写真を公表することを禁止する」という命令によってもわかる。
兵器と装備に関する情報の公開禁止は、1933年末に防空部隊において、その分野における開発が進んでいる事を示していた。1920年代の終わりに、ラインメタル社とクルップ社は何種類もの重・軽高射砲の開発を行っており、1933年12月にこの内の幾つかが生産ラインに乗ることになった。例えば第3自動車分隊の隊員は12月に、37mm高射機関砲18型、88mm高射砲18型、そして150cm探照灯を見学する為に集められた。新しい37mm機関砲は幾分か期待外れで更なる改良が必要だったが、それとは対照的に88mm高射砲と150cm探照灯は、それまでの装備とは大幅に性能が高くなっていた。特に88mm高射砲は、75mm高射砲から格段に性能が上がっており、最大射高が33000フィート、最大有効射高が26000フィートであった。この最大射高とは、砲弾が理論上届き得る最大高さであり、また最大有効射高とは、物理力や気象状態が砲弾の弾道に影響を及ぼし始めるない範囲内での、交戦が可能な最大高さ、である(訳者注:砲弾の弾道が予想範囲内のものでなければ、まともな交戦は不可能になる為)。また、この新しい88mm高射砲は、射撃指揮装置からの射撃データを砲に直接伝達する機能が無く、射撃速度がかなり低いという特徴もあった。そして再び探照灯に注目した事により、第一次世界大戦時の夜間空襲による教訓でもあった夜間の航空攻撃の危険性を、防空部隊の指導者達に改めて認識させることになった。
1933年の終わりには、防空部隊に対する訓練や装備への投資は、かなりの配当を生みだし始めた。1934年に新しく4個の自動車分隊が増えることにより、自動車分隊全体で15%も拡大することになった。それに加えてDoberitzに防空部隊を増設し、同時に防空訓練学校を設立した。しかしこの拡張によって自動車分隊は、深刻な人員不足に陥ることになる。新しい部隊を創設する際に、陸軍は単純に既存部隊の中隊を引き抜き、再編成することで新しい自動車分隊を作ろうとした。1934年8月には特に将校の不足が緊急なものとなり、防空部隊に対して150名、気象部隊に対して70名の士官候補生の枠を作成した。防空部隊の急激な拡大によって発生した問題にもかかわらず、1934年の終わりにかけて成長は順調に進んで行った。
Rudelの攻勢
1934年10月1日、Rudel大将は「高射砲兵総監並びに防空局局長(Inspector of the Flak Artillery and Head of the Air Difence Office)」という肩書を得た。これによってRudelは、急速に拡大していた防空部隊の訓練、組織、装備における上級首席将校の地位を得た事となり、この状況は1939年2月まで続く。1934年11月に作成された「1934年の訓練における観察」と題された報告書で、Rudelは防空部隊によって達成された進歩を手放しで賞賛している。彼はこの報告書を、高射砲兵の射撃熟達度を「完全に良い(durchweg gut)」とした評価から始めており、そしてこの成功における測距員の努力を強調した。しかしRudelは、より現実的な戦闘状態での射撃訓練を、将来実施することの必要性には触れなかった。急速に進化する航空機技術から、Rudelは「航空機の速度が、高射砲の有効射撃範囲をすぐに横断してしまうまでに上昇している」と見ていた。こうした開発の観点から、Rudelは「最高レベルの精度に加えて、各作業のスピードも最高のレベルまで引き上げて行かなければならない」と命令している。彼はまた、高射砲による防御の「モラルの効果」を増大させる為に、全ての砲による短時間の集中射撃についても議論している。この面について、引き続き射撃指揮装置を使用した指揮射撃もしくは照準射撃に重点を置き続けていたものの、悪天候や夜間において、聴音機での敵機探知に信頼性が無い場合での、「便利な」弾幕射撃についても強調している。最後にRudelは、探照灯要員の任務効率において「大きな進歩」があったと言っているが、探照灯要員の訓練にはより現実的な戦闘状態が必要であると再度警告している。
Rudelの分析は、幾つかの面で重要である。まず1934年末には防空部隊が明確に進歩していた事を示している。そして2つ目に、防空作戦において航空技術の進歩が大きな衝撃となっている事を、Rudel自身が認識していた事を示している。そしてこの最新の航空機によってもたらされた危機に対する彼の反応は、基本的に作業速度、熟練度、そして知識を向上を目指した訓練の改良に集中していた。そして最後に、Rudelの弾幕防壁に関する主張は、図らずしも、雲の上もしくは中を飛行する航空機に対しては、高射砲は聴音機に完全依存してしまという事実を指摘しているのである。音響による手法に頼らざるを得ないという事は、次の戦争の初頭において防空部隊の大きな弱点となるのである。
Rudelの報告書の結論として、防空部隊の指揮官は、自らのシステムに関する規則だけでなく、戦闘機のそれも身につけなければならないとしている。実際に、Rudelはこうした航空機についての戦術と兵器の可能性を詳細に理解することだけでなく、作戦立案練習や野外演習の場で戦闘機と任務を共にする機会を持つ必要性を挙げている。Rudelが高射砲部隊の年評価を、航空隊との協調を増す必要性があるという議論で終えた事は、偶然の一致とは言えない。まず、彼は前線での防空における陸空の合同作戦の重要性を認識していた。彼の主張は、防空とは高射砲と戦闘機のどちらか一方だけのものではなく、どちらも重要な役割を果たしているという、彼自身の考えを反映していた。そしてもう一方で彼は、翌年にかけて防空部隊に関する幾つもの大きな組織改編が待っている事に、明確に気付いていたのである。
高射砲部隊の所属に関する官僚的戦い
1930年から、陸軍は自らの指揮下から防空部隊が外される事に抵抗していた。ワイマール時代には、航空機と防空部隊の両方を管理する独立した空軍を創設しようという提唱がなされても、常に戦いに勝ち続けていた。これは、航空部隊の再武装の秘密を保たなければならなかった事と、創設から間もないドイツ航空隊と高射砲部隊とが、どちらもまだ小規模であったことから、こうした部隊を陸軍の管理下で保つことができた。しかし1933年の政権交代と第三帝国というヒトラーの壮大な計画によって陸軍の規模が拡大したことから、航空隊と防空部隊の両方に関する幾つもの組織的改編が起ころうとしていた。組織的改編の主導者はヘルマンゲーリングだった。ゲーリングは第一次世界大戦の戦闘機エースで、かつ有名なリヒトホーヘンの空中サーカスの最後の指揮官であり、そしてまた政治的権力慾の突出した野心的で政治的な日和見主義者だった。自らをヒトラーの「本当の聖騎士」と公言するように、ゲーリングの政治的成功は総統のそれとややこしく結びついていた。
ヒトラーがドイツの首相になった1933年1月、ヒトラーはゲーリングを自らの内閣の無任所大臣に任命した。ヒトラーはまた、ドイツ軍と民間航空界の拡大の主導的役割に立ちたいとするゲーリングの要望を受け入れ、1933年2月3日にゲーリングを帝国航空協会の会長に任命した。1933年4月27日には、帝国大統領ヒンデンブルグによって協会の名前は帝国航空省(Reichsluftfahrtministerium)と改名され、組織も省へと昇格した。航空省は今や、国防軍(Wehrmacht)の司令官であるWerner von Blomberg大将(General)と国防省(Defence Minister)の直下に位置することになった。5月1日には、von Blombergは防空局(Air Defence Office)を航空省の下に移管し、ゲーリングと彼の副官(second-in-command)であり航空大臣(?State Secretary for Aviation)のErhard Milchの管理下に移管するよう命令し、この移管によってゲーリングは国防大臣と同等の地位になった。続いて1933年9月16日にはvon Blombergは「防空総監(Inspector of Air Defence Forces)」という官職を作ったが、これによって今度は、防空部隊の組織や訓練や拡張、そして装備に関連する事象について権限が、ゲーリングのものとなった。総監の主な任務は「前線並びに本土における防空に関する軍事と民間の準備手段全ての調整の標準化だけでなく、防空戦術と技術関連事項のシステム的な継続開発」であった。ゲーリングの明らかな勝利にもかかわらず、陸軍は総監と防空部隊の作戦活動に対して影響力を残し、抵抗したが、これも無駄な抵抗でしか無く、陸軍がこの地位を公的に維持できたのは1935年4月1日までであった。
ゲーリングは地上防空部隊を公的に我が物とする前から、高射砲部隊の人員的・資材的拡張を推進する中心的役割を果たしていた。1934年8月にはゲーリングの部局(?防空総監局)は、1938年には重高射砲2,000門、中高射砲510門、軽高射砲3,560門、150cm探照灯1500基、聴音機1,000基、そして射撃指揮装置510基を調達する秘密計画を立てた。それに加えて計画では、640万発の重高射砲の砲弾と、430万発の37mm機関砲弾、そして610万発の20mm機関砲弾の調達も要求していた。ゲーリングの提案は防空部隊による拡張計画の青焼きによって構成されていたが、すぐに彼自身がこの拡張を推進する地位を得ることになるのである。
1935年春には、ヒトラーとナチス党はドイツの政治と社会とを支配することになった。これと同様にゲーリングも、それまでの軍事航空と防空部隊に対する事実上の権力を、正当な権力とする地位に就任することになる。1935年3月はドイツ軍にとって2つの面で重要な1ヶ月となった。1つは1935年3月1日に、ヒトラーは帝国空軍(Reichsluftwaffe)を創設して陸海軍と同列の独立したものとし、ゲーリングを司令官に任命した。次に1935年3月16日にヒトラーの政府は、ベルサイユ条約の破棄に繋がる徴兵制の再導入を宣言した。空軍の独立により防空部隊を完全な管理下に置くこととなり、一方で徴兵制の導入により、軍隊の規模の大々的な拡張に必要な人材源を確保することができるようになったのである。空軍の独立後、ゲーリングはすぐに高射砲部隊を自分の指揮下に入れた。1935年4月1日の指令の中で、ゲーリングは自分の指揮下に入った高射砲部隊に対して次のような言葉で挨拶をしている。
1937年の開発計画は、ドイツ空軍の地上防空への明確な傾斜を示しているといえる。しかしこの傾斜はRudelだけの視点ではなかった。ドイツ空軍の参謀本部は、1936年から38年にかけての一連の研究と発表における、防空作戦に関する記事を調査している。1936年10月に参謀本部の将校のPaul Deichmann大尉(後に准将(Lieutenant General、General der Flieger))は、将来の戦争でのドイツ空軍の役割に関する発表資料を作成した。この発表資料のコピーは、全てのドイツ空軍の飛行隊指揮官や、高射砲連隊や大隊の指揮官、そして空軍の学校にまで配布された。しかもこの極秘研究を閲覧を許可されたのは、空軍の将校だけであった。Deichmannの「空の戦いでの作戦指揮の基本」と題したこの資料では、単純に敵の領土内の全ての工業中心地域を破壊し尽くせば戦争が終結するという、ドイツ空軍における共通の誤った認識について議論している。彼によるとこの認識は間違っており、航空機の組立工場、弾薬工場、そして物資集積地といった重要な軍事目標は、ドイツ国内だけでも2359か所存在していると指摘している。そして彼は、ドイツ空軍の任務において必要なのは、この中から更に「少数の決定的な」目標に破壊対象を絞ることであるとしているが、これはアメリカ陸軍航空軍団の戦術学校(U.S. Army Air Corps Tactical School)における「工業網(industrial web)」原理の視点と似ている。Deichmannはそれに続けて、ドイツ空軍は陸軍と共に作戦を行う事は良く教育されているにもかかわらず、独自に作戦を遂行する能力は殆ど開発されていないと指摘している。
Deichmannによるドイツの攻撃的航空作戦に関する議論も重要ではあるが、この研究資料の最も興味深い面は、彼によるドイツの防空に関する議論であり、それは資料の残り半分を構成している、もう一つの主題でもある。研究資料における防空に関する議論は、一般にドイツ本土と、そして特にルール工業地帯の防衛に重点が置かれている。Deichmennは高射砲部隊、戦闘機部隊、もしくはその両方を特定の地域や場所の防衛に運用する際に、柔軟性が必要である事を強調している。彼はまた、幾つもの空域における防空部隊の指揮と管理に関して鋭く記述している。彼は、戦時の空域における飛行司令官(General der Flieger)に相当する「各空域における高射砲部隊の上級司令官」の設立を、ドイツ空軍が拒否していることを明確に指摘している。この点は、航空部隊の上位の司令官の位置にある高射砲兵科司令官の指揮下でのパイロットの運用を、拒否する傾向にドイツ空軍があったという議論を反映している。1935年にドイツ空軍の指導者達は、上級高射砲司令官に各空域における防空部隊の訓練と作戦の調整を行う事を許可するものの、しかしこの地位は高射砲部隊のみが管理可能であるように厳密に制限されていた。Deichmennは、戦時にこうした司令官の役割の定義、というよりも権限の一層の制限が更に行われることになるだろうとしている。彼はもう一度、飛行司令官(General der Flieger)が自分の担当地域にある全ての航空部隊と高射砲部隊の指揮を執ることによって、組織の集中化を行うことの重要性を説いている。彼は次のように言っている。「空軍の指導者は、攻撃部隊と防御部隊の協調というものを、我々の防空システムの戦力という片方の手段(訳者注:つまり防御側にしか有利にならない一方的な協調関係ということか?)としか見ようとしていない」と。
防空部隊の指揮の集中化の重要性を主張した後に、Dechmannは戦時における防空の運用に議論を移している。彼はこんな奇妙な例え話で始めている。「賢い人は傘を持っておき、雨が降りそうになったら傘を開く。雨が降り出してから開くわけではない。」Deichmannは、これはドイツ空軍の持っている常備と予備の高射砲部隊の平時の組織についての原理であり、非常に重要な施設の防空カタログ(Luftschutzobjektkartei)を予め作っておくということであると言っている。このカタログは、戦時に防空部隊が必要もしくはなるべく必要である、全ての施設と構造物が完全にリスト化されていた。こうした施設には、非常に重要な(vital)軍事拠点や生産拠点、相当に重要(critical)な交通ハブや重要(important)な軍事施設が含まれている。Deichmannはこうした施設はあまりにも多すぎる為に全てを防御する事が出来ないとしている。そこで彼は、これらを優先度によって3つにまとめている。:
1933年から1938年にかけて、ドイツ空軍の高射砲部隊はこれまでになかった拡張を経験した。1933年の時点で、自動車分隊(Fahrabteilungen)としての兵力は、5,100を超すか越さないかだった。これが1937年10月1日には、防空部隊は1,013名の将校と46,500名の兵士を数えるようになり、1938年の終わりには70,000名を越す人員が、ドイツ空軍の高射砲や探照灯、阻塞気球の中隊に所属していた。1938年11月には防空中隊の数は372となり、この内の160が重高射砲中隊、140が軽高射砲中隊、72が照空中隊であった。そして大規模な演習や高射砲部隊と照空部隊を通しての訓練と教育の改良とが、5年間での12倍にも上る人員増加に貢献したのである。1936年には既に、高射砲数の増加によって陸軍と空軍との間で既存の射撃場の再配分が行われた。更に1937年には、ドイツ空軍はRerikにあった高射砲兵学校を作り直して「高射砲兵科訓練並びに実験大隊」とし、4月1日には重・軽高射砲大隊各1個と照空大隊1個から成る高射砲連隊1個をこれに付属させて、空軍訓練師団(Luftwaffen-Lehrdivision)としている。
防空部隊における人員と資材の拡張に加えて、高射砲兵総監と陸軍兵器局の合同努力によって、砲身から測距儀に至るまでの大きな技術的進歩も成し得た。国防軍内の独立した各部隊(?service)間における進化論者の適者生存にも似た予算の取り合いという一般的な雰囲気とは対照的に、高射砲兵(flak arm)は陸軍の兵器局(?armament office)と歴史的で友好的な関係を持つことができていた。1930年代初めにRudelと、陸軍兵器局(?Armament Office、Weapon Officeとは違うのか?)の局長だったKarl Becker大将とは密接な人的・専門的関係を保ち、それによって高射砲と装備の開発を共同で効率的に実施できるようにしていた。この働きかけによって、防空部隊は様々な面において、無駄でコストのかかる組織間の資源の奪い合いを回避することができたのである。スペインにおける地上作戦の支援という高射砲部隊の行動はまた、高射砲の地上戦における価値を強調し、更に1940年のフランスと低地諸国との作戦の後に、陸軍の指導者はこの教訓を心に留めることになるのである。
1938年11月にドイツ空軍は、それまでの6個に分けていた航空区域(Luftkreise、air district)を廃止し、これを4個の航空管区(Luftlotten、Air region)と、10個の新しい航空指揮区域(Luftgaukommandos、air district)とに置き換えた。この航空指揮区域には不連続で、ドイツ全土の陸軍地域と一致するローマ数字が割り当てられていた。またこの航空指揮区域にはオーストリアとスデーテンランドの併合された領土も含まれていた。航空管区の指揮下にあったものの、各航空指揮区域の指揮官は区域内にある全ての空軍の航空部隊と地上部隊の指揮権を持ち、防空戦における戦闘機隊と高射砲部隊の調整の責任者でもあった。それに加えてドイツ空軍は、特にハンブルグやベルリンといった都市、もしくはルール渓谷の工業地帯に対する空襲の脅威の高い地域をより防御して行くために、防空司令部(Luftverteidigungskommandos)を作った。そして航空指揮区域への組織の再編成によって、ドイツ国内の地形的境界線で定義された10か所の独立した防空区域が出来上がることになる。このシステムが新しい空の戦いに合ったものだったどうかは、その後の歴史が証明することになる。
戦争前における軍隊の組み上げの中で、ヒトラーとゲーリングは世界で最も優秀な地上防空部隊を作る為に、相当な量の資源を惜しげなく投資した。そしてここに残るのは、以下の2つの疑問である。「地上防空部隊は怒って使われるか?(??Would these forces be used in anger?、手塩にかけて育てたものを使うので怒るのか?)」と、もしそうだとするならば、「地上防空部隊は効率的か?」である。1939年には、ヒトラーは自らの征服計画に思い焦がれており、ヨーロッパに戦争の脅威が出現し始めていた。仮にヨーロッパの政治的・軍事的指導者が、この嵐の前兆を見損ねたか、もしくは見ようとしなかったとしても、少なくとも次に起こる戦争において、航空兵器が勝利を得る為に大きな役割を担うことくらいは認識していた。イギリスの首相だったStanley Baldwinがしばしば主張していた「爆撃機はいつでも飛来する」という言葉は、空襲に対する防御の効率に対する彼の視点を表している。それとは対照的に、ゲーリングの「敵爆撃機がルールに到達できたならば、もう自分はヘルマン(貴族の尊称)ゲーリングではない。ミスター(一般人の尊称)と呼んでも構わない。」という宣言は、「3つ目の次元(空)」からの攻撃から、ドイツを無事に防御する防空能力への自信過剰を表している。そして1939年には、双方共に正しくなかった事が明白となるのである。戦争の過程で、戦略爆撃のアイデアと、ドイツの防空の効率性の試験が行われてゆくことになるが、これは両陣営にとって決定的に重要な試験であった。