第3章 実践への理論の転換 1933年-38年




 アドルフヒトラーとナチス党が政権を取った事は、共和国軍の拡張・近代化計画にとって幸先の良いことであった。首相に就任してすぐ後に、ヒトラーは共和国軍を「国家の中で最も重要な機関」であるとし、再軍備計画全体に対して支援を行う事を固く誓った。ヒトラーは1928年にはすでに、ドイツでの内政において「最初に行うべきこと」はドイツ国民に「その国力に見合った軍隊」を提供する事であると言っている。ヒトラーの考えにおける強力な軍隊の創設には、ドイツ本土を敵の空襲から守る手段も含まれていた。実際にヒトラーはドイツの弱点は空からの攻撃であると指摘し、「現在のドイツ国境には、敵の航空機が1時間以内に飛来することが不可能な地域は、たったの数キロ平方メートルしか存在していない」と警告している。更に「今、この攻撃に対するドイツの軍事的対抗手段は、全く何もないのである」と続けている。1928年にはヒトラーはドイツの防空の状態を無力に書き記すしかできなかったが、1933年には彼は具体的な手段を執ることが可能な地位に居たのである。
 ヒトラーの新しい政府が、能動的防空と市民の防空手段に対して非常に大きな興味を抱いているのは明らかであった。そしてその後の12年間の帝国史の中で、強力な地上防空システムはヒトラーの頭の中の強迫観念(idee fixe)であり続けるのである。地上防空の重要性に対するヒトラーの信念は、恐らくは第一次世界大戦における彼自身の経験から来ている部分がほとんどである。これは「前線で空襲に遭った人ならば、空襲によるモラルへの影響がどれ程のものか判るだろう」というヒトラーの主張によっても補強されている。そしてその後の1933年から1939年の間に、ドイツの地上防空は急速に膨張して行ったのである。


「自動車分隊(?Driving Sections)」

 1933年に陸軍は、それまでに存在していた7個の自動車分隊(?Fahrabteilungen、英語に直訳するとDriving Section、運転部門)の再編成作業を開始した。この「自動車分隊」という用語は、これらの部隊が実際には機械化高射砲部隊であるという真実を偽装する為に作られたものである。この再編成は、共和国軍の指導者が陸軍の規模、中でも特に高射砲、通信、砲兵の各部隊を大きくする為に作成した、1932年11月の転化計画(Umbau-Plan)によって実施された。陸軍は、それまで様々な砲兵連隊下に配属されていた機械化分隊によって、高射砲部隊を編成した。1933年3月1日には自動車分隊は「監視部門(Observation Departments)」としてまとめられ、ケーニスベルグ、Juterborg、ミュンヘン、Landsberg am Lech、そしてBerlin-Lankwitzに配備された。部隊はそれぞれ4個中隊(Eskadronen)で構成されたが、Landsbergに配備された部隊の中の2個中隊は、山岳作戦を支援する為のものであった。
 陸軍を支援し、また帝国の防空を行う為の全部で7個の防空部隊は、戦争でドイツを防衛するには明らかに不十分であった。しかし他の主要国の努力と比較すると、共和国軍の努力はかなり良い方であった。イギリスでは、緊縮財政と「10年ルール」、それに加えて広範囲に渡る領土の保全の為に、防空は国防義勇軍(Territorial Army)に移管されていた。1925年に、新しい司令部として英国防空部(Air Defence of Great Britain(ADGB))が創設され、防空に関する7つの委員会が置かれたが、実際には殆ど進んでいなかった。ある歴史家の言葉を借りるならば、1929年から30年にかけての金融危機によって「装備の不足や、燃料、弾薬、費用の制限を受け、訓練が役にも立たない茶番になり下がってしまっていた」といえるだろう。そしてイギリスの地上防空の状態が謙虚なものだとすると、アメリカの状態は最悪と言えるだろう。後に陸軍総参謀長になるGeorge C.Marshall大佐は、1935年の演説の中で「我々の航空隊は、他の陸軍部隊と比べると装備も開発も良いとは言えない状態である。しかし我々の対空兵器、高射機銃や高射砲などの装備は、悲惨なまでに不足している。」と言っている。こうした状態と比べると、1933年までのドイツにおける努力は、全く十分であったと言えるだろう。
 自動車分隊(Fahrabteilungen)の組織と行動についての綿密な調査によって、1930年初めにはこうした部隊の効率評価の枠組みが出来上がっていた。1933年3月に、Berlin-Lankwitzの第3自動車分隊は医療、気象、そして通信の各部門を含めた本部要員(?staff)と、照空中隊1個と88mm高射砲4門の高射砲中隊1個によって構成されていた。本部要員(?staff)の内訳は、将校9名、文官(civil servants)3名、そして130名を超える下士官(non-commisioned officers:NCOs)と兵(enlisted members)であった。同様に、照空中隊は将校6名、士官候補生(officer candidates)3名、下士官31名、そして兵130名、また高射砲中隊は将校6、士官候補生3、下士官26、兵112だった。1933年10月には、軍は75mm高射砲4門の高射砲中隊と、88mm高射砲4門の高射砲中隊を各1個づつ追加して部隊の増強を図った。
 また1933年の初めには、防空関連の訓練活動の回数と規模が大きくなっていった。まだ存在が秘密であった高射砲訓練参謀は、個々の高射砲部隊の熟練度を向上させる為に相当な努力を払った。1933年3月にRudel大佐は「1933年の訓練についての批評」と題した包括的な報告書を作成した。この中でRudelは1933年の訓練計画について議論し、より一層の改善を要求する範囲を強く示している。その中でも特に光学測距儀要員(EntfernungsmeSleute)の訓練を挙げている。実際に光学照準機器を操作する測距員(range finder)は、恐らく高射砲操作員の中で最も重要なメンバーである。最初に計測される目標までの距離が、その後に続く全ての計算の土台となり、目標との交戦において重要な役割を演じるのである。Rudelは各部隊の熟練度がバラバラであることも指摘している。更に彼は経験上、例え質の高い操作員といえども、通常訓練が中止されてしまうかもしくは長期間中断されてしまえば、熟練度のレベルは瞬時に劇的に下がってしまう事を注意している。訓練と測距員の熟練度という項目は、1945年に至るまで、防空指揮官達の中で大きな関心事であり続けた。
 Rudelが示した2つ目の点は、中隊指揮官は常に部隊と通信連絡手段を持つ必要があるという事である。一見すると奇妙な指摘だが、機械化された高射砲部隊は前線の陸軍部隊を支援する為に移動中であることが多いという事実を考慮すれば、奇妙な話とは言えないだろう。それから、中隊指揮官は自分の部隊と高射砲器材の配置に適した場所を探す責任があるとしている。そして最後に、Rudelは射撃訓練の問題に注意を向けている。Rudelは実弾射撃に関する標準は、実際の戦場での状態にもっと近づける必要があるとしている。しかし彼はまた、全ての部隊が夜間射撃訓練に参加することは不可能であるとも言っている(?能力不足で参加すら不可能という意味か)。Rudelが最後に挙げた夜間射撃への指摘は、1933年における高射砲兵の大きな弱点であった。夜間射撃訓練の不足という問題は、第二次世界大戦の初めの数年間、再び空軍を悩ますこととなる。夜間射撃の(?低い)熟練度にもかかわらず、Rudelの報告書ではまだ、1933年の初めには、訓練と防空部隊の為の標準の改良へと重点を移してゆくべきだと強調している。これは1933年初めに、特定の部隊において訓練の摂生が見受けられたことから、このような視点が助長されたようである。


実戦訓練と理論的訓練

 第3自動車分隊の1933年3月から5月の間の活動を見ると、高射砲部隊の訓練頻度が上がっていることがわかる。3月には、部隊は週3回の探照灯と聴音機との合同野外訓練の命令を受けている。この野外訓練は、夏に計画されている実戦演習(?war game)の準備として企画されていた。4月には、部隊は毎週の訓練を行いつつも、戦場状態の体験も行うよう要求されていた。5月には戦闘訓練が引き続き行われつつ、Schilligの射撃場で2週間にもわたる長期の実弾射撃訓練と、1週間の探照灯訓練、そして新兵も含めた戦闘演習(?combat trial)も合わせて実施された。
 1933年の夏にはは、レベルの向上したこのような訓練の結果が、いくつかの能力評価として出始めていた。聴音機の場合では、1933年7月の国防省(?Reichswehr Ministry)への報告書は、都市や工場地帯、鉄道、高速道路に近い地域における聴覚測距に関する難問に触れられている。こうした地域での環境音の高さが、聴音手の任務を複雑にしてしまうのである。そして報告書では、環境騒音は戦時には更に悪化することから、こうした環境騒音のレベルの高い状況で訓練を引き続き行うべきであると書いている。報告書ではまた、中短距離で相当に正確に追尾可能であるよりも、長距離において平均的に最も熟練している方が、聴音手として優れているでとも指摘している。実際に報告書は、聴音機の限界の距離で訓練を実施する事が、教育課程の中で最も重要な任務であると断言すらしている。報告書ではまた、夜間に爆撃機と交戦する訓練を、聴音機手と探照灯手と共同で実施する事の重要性も挙げている。総合すれば、報告書は音による探知に関しての限界を現実的に評価し、なおかつ将来の訓練へ現実主義的に対応していると言える。
 重要な実践経験は、探照灯の運用に関してもまた得られた。大戦間、探照灯の効率に対する認識は全く悲観的であり、探照灯の開発も芳しくない状態であった。1930年代初めの野外演習によって楽観的な評価も現れるようになり、ある指揮官は110cm探照灯と、それから特に150cm探照灯の実際の照射距離は、常に過小評価され続けていると主張している。続いて作戦演習によって幾つもの明確な戦術的勧告も出てくるようになった。1933年夏に、第3自動車分隊のHubert Weise中佐(後の中央航空管区司令官、Commander Air Region、Center)は、国防省(?Reichswehr Ministry)の防空局(office)に提出した報告書において3つの勧告を行っている。1つ目として、Weiseは平時における探照灯2基編成の小隊3個だけの場合には、防御目標周辺の特定区域のみの照射を許可するべきであると主張している。こうする事によって、敵機の乗員は探照灯に対して上手く交戦する為に、敵機は決まったコース付近を飛行せざるをえなくなると指摘している(?)。更に各小隊を探照灯4基に再編成すべきで、これは緊急で当然の要求であるとしている。2つ目として、機械化通信分隊を各小隊に付属せしめ、反応時間を少なくし、機動作戦を実施可能にすべきであるとしている。最後に、照空中隊には実物並みの訓練目標が、高射砲中隊以上に必要であるという主張で締めくくっている。これに関してWeiseは、爆撃機よりも遅く、低空でしか飛行できない単発のスポーツ機を使う事は問題であるとしている。彼は、実物に近い訓練目標を使わない限り、現在のレベルを超える完全な訓練の実施は、不可能であると見ていた。
 実際に高射砲の訓練を実施してみると、考慮した程の成果が出ないことが何度もあったが、理論的訓練への努力と注意に関しては別であった。1933年秋に第3自動車分隊は、1933年12月と1934年2月に実施予定の、大規模な作戦立案訓練を準備した。前者はベルリン市を中心とした本土防空訓練であり、後者は陸軍の機動作戦を支援する高射砲部隊の運用を目的としたものであった。他の理論的訓練としては、高射砲と探照灯の装備、航空戦術、そしてエンジン音で種類を区別するエンジン認識といった科目が、40時間にも渡って防空士官に対して教育された。それに加えて個々の将校は、12にも及ぶ口頭による発表が要求されていた。この発表の題目には、「最新航空兵器の運用について」、「急降下爆撃機による低空からの攻撃に対する防御」、「高射砲中隊における高射砲と探照灯の最小装備数は?」、「防空における煙幕生成」、「高射砲の測定機器とその射撃操作における重要性」、「日中戦争における航空隊と防空部隊の活動」といった、ドクトリンや作戦手法から戦術手続きに至る、印象的なものが提供されていた。実際、防空部隊における徹底的な理論的訓練は、この分野におけるプロシア陸軍とドイツ陸軍によって作り上げられた、卓越した伝統が脈々と受け継がれていたことを考慮すると、驚くには値しない事であった。
それにもかかわらず、幅広く徹底的に理論的教育が実施された為に、前線からは不満の声も上がってきた。ある将校は、自身の活動報告書(After Action Report)の中で、実弾演習の最中の理論的訓練は、やることが多すぎる割に時間が余りにも少なすぎると不満を述べている。後の高射砲兵准将(Lieutenant General of the Flak Artillery)のEugen WeiSmann大尉も「発表に参加しなければならない理論的訓練を、実弾射撃期間に行うのは不可能である」と書いている。彼はまた「発表や宿題、そして射撃任務への参加は非常に重荷となっており、訓練コースでの目的の多さは限界に来ている(?)」と主張している。物事が余りにも早く動き過ぎていると信じていたのはWeiSmannだけでないのは確かであり、この現象は自動車分隊の組織的再編成にも当てはまった。
 1933年10月現在の高射砲と探照灯の部隊は第3自動車分隊(Berlin-Lankwitz)の他に、第1自動車分隊(ケーニスベルグ)、第2自動車分隊(Stettin)、第4自動車分隊(ドレスデン)、第5自動車分隊(Ludwigsburg)、第6自動車分隊(Wolfenbuttel)、そして第7自動車分隊(Furth)であった。部隊は広範囲に分散配置されたが、この配置地域は既存の陸軍方面担当域(Wehrkreise)と一致していた。この分散配置はまた、他のヨーロッパ諸国からドイツの防空活動を隠すのにも役に立った。このように隠匿しようとしていた事は、防空総監(Inspector of Air Defence Force)に昇進したRudelが、1933年10月7日に出した「訓練や兵器、装備に関係する全ての情報や写真を公表することを禁止する」という命令によってもわかる。
 兵器と装備に関する情報の公開禁止は、1933年末に防空部隊において、その分野における開発が進んでいる事を示していた。1920年代の終わりに、ラインメタル社とクルップ社は何種類もの重・軽高射砲の開発を行っており、1933年12月にこの内の幾つかが生産ラインに乗ることになった。例えば第3自動車分隊の隊員は12月に、37mm高射機関砲18型、88mm高射砲18型、そして150cm探照灯を見学する為に集められた。新しい37mm機関砲は幾分か期待外れで更なる改良が必要だったが、それとは対照的に88mm高射砲と150cm探照灯は、それまでの装備とは大幅に性能が高くなっていた。特に88mm高射砲は、75mm高射砲から格段に性能が上がっており、最大射高が33000フィート、最大有効射高が26000フィートであった。この最大射高とは、砲弾が理論上届き得る最大高さであり、また最大有効射高とは、物理力や気象状態が砲弾の弾道に影響を及ぼし始めるない範囲内での、交戦が可能な最大高さ、である(訳者注:砲弾の弾道が予想範囲内のものでなければ、まともな交戦は不可能になる為)。また、この新しい88mm高射砲は、射撃指揮装置からの射撃データを砲に直接伝達する機能が無く、射撃速度がかなり低いという特徴もあった。そして再び探照灯に注目した事により、第一次世界大戦時の夜間空襲による教訓でもあった夜間の航空攻撃の危険性を、防空部隊の指導者達に改めて認識させることになった。
 1933年の終わりには、防空部隊に対する訓練や装備への投資は、かなりの配当を生みだし始めた。1934年に新しく4個の自動車分隊が増えることにより、自動車分隊全体で15%も拡大することになった。それに加えてDoberitzに防空部隊を増設し、同時に防空訓練学校を設立した。しかしこの拡張によって自動車分隊は、深刻な人員不足に陥ることになる。新しい部隊を創設する際に、陸軍は単純に既存部隊の中隊を引き抜き、再編成することで新しい自動車分隊を作ろうとした。1934年8月には特に将校の不足が緊急なものとなり、防空部隊に対して150名、気象部隊に対して70名の士官候補生の枠を作成した。防空部隊の急激な拡大によって発生した問題にもかかわらず、1934年の終わりにかけて成長は順調に進んで行った。


Rudelの攻勢

 1934年10月1日、Rudel大将は「高射砲兵総監並びに防空局局長(Inspector of the Flak Artillery and Head of the Air Difence Office)」という肩書を得た。これによってRudelは、急速に拡大していた防空部隊の訓練、組織、装備における上級首席将校の地位を得た事となり、この状況は1939年2月まで続く。1934年11月に作成された「1934年の訓練における観察」と題された報告書で、Rudelは防空部隊によって達成された進歩を手放しで賞賛している。彼はこの報告書を、高射砲兵の射撃熟達度を「完全に良い(durchweg gut)」とした評価から始めており、そしてこの成功における測距員の努力を強調した。しかしRudelは、より現実的な戦闘状態での射撃訓練を、将来実施することの必要性には触れなかった。急速に進化する航空機技術から、Rudelは「航空機の速度が、高射砲の有効射撃範囲をすぐに横断してしまうまでに上昇している」と見ていた。こうした開発の観点から、Rudelは「最高レベルの精度に加えて、各作業のスピードも最高のレベルまで引き上げて行かなければならない」と命令している。彼はまた、高射砲による防御の「モラルの効果」を増大させる為に、全ての砲による短時間の集中射撃についても議論している。この面について、引き続き射撃指揮装置を使用した指揮射撃もしくは照準射撃に重点を置き続けていたものの、悪天候や夜間において、聴音機での敵機探知に信頼性が無い場合での、「便利な」弾幕射撃についても強調している。最後にRudelは、探照灯要員の任務効率において「大きな進歩」があったと言っているが、探照灯要員の訓練にはより現実的な戦闘状態が必要であると再度警告している。
 Rudelの分析は、幾つかの面で重要である。まず1934年末には防空部隊が明確に進歩していた事を示している。そして2つ目に、防空作戦において航空技術の進歩が大きな衝撃となっている事を、Rudel自身が認識していた事を示している。そしてこの最新の航空機によってもたらされた危機に対する彼の反応は、基本的に作業速度、熟練度、そして知識を向上を目指した訓練の改良に集中していた。そして最後に、Rudelの弾幕防壁に関する主張は、図らずしも、雲の上もしくは中を飛行する航空機に対しては、高射砲は聴音機に完全依存してしまという事実を指摘しているのである。音響による手法に頼らざるを得ないという事は、次の戦争の初頭において防空部隊の大きな弱点となるのである。
 Rudelの報告書の結論として、防空部隊の指揮官は、自らのシステムに関する規則だけでなく、戦闘機のそれも身につけなければならないとしている。実際に、Rudelはこうした航空機についての戦術と兵器の可能性を詳細に理解することだけでなく、作戦立案練習や野外演習の場で戦闘機と任務を共にする機会を持つ必要性を挙げている。Rudelが高射砲部隊の年評価を、航空隊との協調を増す必要性があるという議論で終えた事は、偶然の一致とは言えない。まず、彼は前線での防空における陸空の合同作戦の重要性を認識していた。彼の主張は、防空とは高射砲と戦闘機のどちらか一方だけのものではなく、どちらも重要な役割を果たしているという、彼自身の考えを反映していた。そしてもう一方で彼は、翌年にかけて防空部隊に関する幾つもの大きな組織改編が待っている事に、明確に気付いていたのである。


高射砲部隊の所属に関する官僚的戦い

 1930年から、陸軍は自らの指揮下から防空部隊が外される事に抵抗していた。ワイマール時代には、航空機と防空部隊の両方を管理する独立した空軍を創設しようという提唱がなされても、常に戦いに勝ち続けていた。これは、航空部隊の再武装の秘密を保たなければならなかった事と、創設から間もないドイツ航空隊と高射砲部隊とが、どちらもまだ小規模であったことから、こうした部隊を陸軍の管理下で保つことができた。しかし1933年の政権交代と第三帝国というヒトラーの壮大な計画によって陸軍の規模が拡大したことから、航空隊と防空部隊の両方に関する幾つもの組織的改編が起ころうとしていた。組織的改編の主導者はヘルマンゲーリングだった。ゲーリングは第一次世界大戦の戦闘機エースで、かつ有名なリヒトホーヘンの空中サーカスの最後の指揮官であり、そしてまた政治的権力慾の突出した野心的で政治的な日和見主義者だった。自らをヒトラーの「本当の聖騎士」と公言するように、ゲーリングの政治的成功は総統のそれとややこしく結びついていた。
 ヒトラーがドイツの首相になった1933年1月、ヒトラーはゲーリングを自らの内閣の無任所大臣に任命した。ヒトラーはまた、ドイツ軍と民間航空界の拡大の主導的役割に立ちたいとするゲーリングの要望を受け入れ、1933年2月3日にゲーリングを帝国航空協会の会長に任命した。1933年4月27日には、帝国大統領ヒンデンブルグによって協会の名前は帝国航空省(Reichsluftfahrtministerium)と改名され、組織も省へと昇格した。航空省は今や、国防軍(Wehrmacht)の司令官であるWerner von Blomberg大将(General)と国防省(Defence Minister)の直下に位置することになった。5月1日には、von Blombergは防空局(Air Defence Office)を航空省の下に移管し、ゲーリングと彼の副官(second-in-command)であり航空大臣(?State Secretary for Aviation)のErhard Milchの管理下に移管するよう命令し、この移管によってゲーリングは国防大臣と同等の地位になった。続いて1933年9月16日にはvon Blombergは「防空総監(Inspector of Air Defence Forces)」という官職を作ったが、これによって今度は、防空部隊の組織や訓練や拡張、そして装備に関連する事象について権限が、ゲーリングのものとなった。総監の主な任務は「前線並びに本土における防空に関する軍事と民間の準備手段全ての調整の標準化だけでなく、防空戦術と技術関連事項のシステム的な継続開発」であった。ゲーリングの明らかな勝利にもかかわらず、陸軍は総監と防空部隊の作戦活動に対して影響力を残し、抵抗したが、これも無駄な抵抗でしか無く、陸軍がこの地位を公的に維持できたのは1935年4月1日までであった。
 ゲーリングは地上防空部隊を公的に我が物とする前から、高射砲部隊の人員的・資材的拡張を推進する中心的役割を果たしていた。1934年8月にはゲーリングの部局(?防空総監局)は、1938年には重高射砲2,000門、中高射砲510門、軽高射砲3,560門、150cm探照灯1500基、聴音機1,000基、そして射撃指揮装置510基を調達する秘密計画を立てた。それに加えて計画では、640万発の重高射砲の砲弾と、430万発の37mm機関砲弾、そして610万発の20mm機関砲弾の調達も要求していた。ゲーリングの提案は防空部隊による拡張計画の青焼きによって構成されていたが、すぐに彼自身がこの拡張を推進する地位を得ることになるのである。
 1935年春には、ヒトラーとナチス党はドイツの政治と社会とを支配することになった。これと同様にゲーリングも、それまでの軍事航空と防空部隊に対する事実上の権力を、正当な権力とする地位に就任することになる。1935年3月はドイツ軍にとって2つの面で重要な1ヶ月となった。1つは1935年3月1日に、ヒトラーは帝国空軍(Reichsluftwaffe)を創設して陸海軍と同列の独立したものとし、ゲーリングを司令官に任命した。次に1935年3月16日にヒトラーの政府は、ベルサイユ条約の破棄に繋がる徴兵制の再導入を宣言した。空軍の独立により防空部隊を完全な管理下に置くこととなり、一方で徴兵制の導入により、軍隊の規模の大々的な拡張に必要な人材源を確保することができるようになったのである。空軍の独立後、ゲーリングはすぐに高射砲部隊を自分の指揮下に入れた。1935年4月1日の指令の中で、ゲーリングは自分の指揮下に入った高射砲部隊に対して次のような言葉で挨拶をしている。

「戦闘試験部隊(combat-tested force)の諸君、ドイツ空軍(Luftwaffe)の序列への編入を歓迎する。こうして、航空部隊と通信部隊と共に協力して重要な任務を遂行することとなった。多くの国の強力な航空部隊が、将来の戦いにおいて敵となるであろう。そして国防軍とドイツ国民とは自らを守るために、常に戦闘可能であるように平時から良く訓練され、最適な技術を持った強力な高射砲部隊を必要としているのである。」

 確かにゲーリングは、第三帝国の期間を通じて大げさな宣言で有名だった。ここでは「1933年から45年までの間に地上防空の機能と効果を、ゲーリングがどのように評価していたか?」という問題を考えなければならない。空襲を防御する第一線として高射砲や探照灯、聴音機に重点を置く事で、第三帝国の防空を遂行するというヒトラーの指導に、ゲーリングは従っていた。ゲーリングはヒトラーと同様に、重要な郊外地域や工業中心地域の周辺や第三帝国の国境線に沿いに、地上防空部隊によって見えない貫通不可能な防壁を作り上げることが可能だと信じていた。ヒトラーとゲーリングの高射砲部隊に対する大きな期待の表れは、1935年のニュルンベルグの党大会において、選別した高射砲部隊員によってツェッペリン広場において射撃操典通りの防空演習を実演させたことからも伺うことができる。しかし注意しなければならないのは、この点を過信しないことである。確かに2人とも高射砲部隊に対して大きな比重を置いていたが、しかし空軍そのものは、Helmth FelmyやErnst Udet、Karl Bodenschatzといったゲーリングと同様な戦闘機パイロット出身者という狭い集団によって運営されており、防空における戦闘機の役割の必要性を全く無視する事は無かったし、実際にそうしなかった。


防空ドクトリン

 第二次世界大戦が始まる前の時期におけるドイツ空軍のドクトリンは、地上防空部隊の任務だけで本土防衛ができるとは見ていなかった。「航空戦の遂行(the Conduct of Aerial Warfare)」と題されたドイツ空軍の規定第16号(Regulation 16)は1935年に作られ、ドイツ空軍の主要な青写真として戦争の終わりまで使われ続けた。規定第16号は文章の始めの部分に、以下のような基本的なドクトリンの事項を挙げている。

1.空での戦争は、それが攻撃であろうと防御であろうとも、ドイツ空軍によって実施される。ドイツ空軍は爆撃機や偵察機、そして戦闘機といった航空部隊と、高射砲、そして航空通信部隊によって構成される。

2.戦争開始と共に航空部隊は敵と交戦を開始する…

高射砲は本土を直接防衛する。高射砲の主要な任務は戦闘機部隊と協調しつつ本土を防衛する事である…

航空情報隊(air report services)は防衛における指揮と戦闘とを支援する。航空警戒隊(air warning service)と共同することで、市民防空の迅速な動員を可能とする。

市民防空は空襲に対する防御を遂行する。市民防空の対象は、市民とその家屋に対して実施される敵の空襲に限定される。

3.ドイツ空軍の指揮と戦闘は、技術によって決定的な影響を受ける。航空機の種類、武器、弾薬、電波機器等は常に開発し続けなければならない。攻撃手段は、常に防御手段と競合関係にある。戦争を通じて、機材における発見や改良は、敵の状態に対して相当に大きな影響を持ち得るのである…

以上の序説から、ドイツ空軍の空の戦いに対する幾つかの重要な知見がわかる。まず1つ目に、ドイツ空軍は自らを攻撃と防御の要素を併せ持った軍隊であると規定している。2つ目として、ドイツ空軍は攻撃作戦に明らかな比重を置いているという事である。3つ目として高射砲部隊の主要な任務は本土防衛であるが、これは「戦闘機部隊と協調して」任務を遂行するものとしている。4つ目として、線上に配置された監視哨(後にレーダーサイトになる)と通信所とで構成された航空情報隊が、空中の状況の概要を提供するだけでなく、その情報を軍と民間の防衛関係部署にも提供するという、重要な役割を担っているということである。そして最後に規定第16号は、攻撃と防御の弁証法による討論において、技術の重要性に焦点を置いているということである。
 規定第16号の中の、「防御」と題された章では、戦闘機部隊と高射砲部隊を統一した指揮の下に置いた組織構造や、夜間戦闘機と高射砲・探照灯部隊との密接な協調の仕方といった、いくつかのより明確なガイドラインを示している。協調作戦への更なる傾倒は第273節に良く表れているが、それは以下のように書かれている:

戦闘機と高射砲との協調には、完全な連絡が必要である。同じ敵編隊を高射砲と戦闘機とが同時に攻撃するという事は、普通は戦闘機が危険に晒されるため、実施されない。

戦闘機は敵が高射砲エリアに入る前に攻撃を行うべきである。正しい瞬間にかけた攻撃は爆撃編隊を分散することができ、また高射砲にとっても好ましい状態を作ることが可能である。

第273節はまた、戦闘機が危険を伴う高射砲区域での戦闘を控えるようにも警告している。規定は更に夜間作戦での戦闘機と高射砲の協調が相当に困難であることにも触れ、交戦区域を分離するよう主張している。以上のような規定第16号の教条的な訓示から、ドイツ空軍の最優秀な将校達が何を考えていたかが判明し、更にそれによって、戦闘機、高射砲、探照灯、聴音機、そして阻塞気球による共同防空作戦への航空部隊の傾倒が明確に表れているのである。


ウォーゲーム(兵棋演習)

 ドイツ空軍のドクトリン的な教義は、ページ上だけで終わらされることは無かった。ドイツ空軍は幾つかの兵棋演習(War Game)を実施することによって、理論を実際に試してみたのである。ドイツ空軍参謀本部(Luftwaffe General Staff)は1934年から35年の冬を想定した演習を、1934年の11月と12月に実施した。演習の想定シナリオは、ドイツの再軍備に反応したフランスによる奇襲であり、そこではドイツ領内に対する激しい空爆を伴って、フランス地上軍がドイツへと侵攻を行うというものであった。このシナリオではまた、フランスの高射砲部隊は国境に沿った2本の線上に配置され、またLorraineやBriey、Diedenhofen、ナンシーそしてパリといった主要な工業都市と地方都市には防備のために重高射砲と探照灯が集中配置されているという特徴があった。更にパリに対して行われたドイツ側の空襲は、高射砲と戦闘機とによる非常に強力な防御に遭遇し、目標上空が雲で覆われていない場合を除いて大きな損害を出すことになった。このフランス側の防空体制の記述には2つの興味深い点がある。1つは、フランス側の防空はドイツ空軍が自らがドイツ防衛の視点として持っているものの、鏡像となっているというものである。これは軍隊が自らの戦争計画を立てる際に作る共通の仮想ともいえるものである。もう1つは、フランスの防空が戦闘機と高射砲の協調によるものであり、また高射砲においては工業都市や近郊都市を防御するだけでなく、ドイツ軍の攻撃による突出を防ぐのに効果的な道具であると見ていることである。
 1934年と35年の兵棋演習のシナリオはまた、高射砲部隊が空軍や陸軍、そして海軍にとっても、ドイツの重要な防空力であることを当然としているのである。防空ドクトリンによると、軍事計画者は高射砲と探照灯の部隊を陸軍と航空分野とで分割している。計画では4門から8門編成の88mm高射砲中隊27個と6門編成の37mm高射機関砲中隊9個、それに照空中隊2個を、野戦における陸軍の機動作戦の支援に用いている。それとは対照的に、計画ではフランス軍の主要な攻撃目標であるルール地方の防御の為に、1個飛行連隊と高射砲中隊30個、高射機銃中隊3個の配備を計画していた。それに加えて計画では、部隊の集合地域の防御のために、1個飛行連隊と高射砲中隊12個、そして高射機銃中隊2個を割り当てている。更には海軍の高射砲部隊が、重要な商業港湾施設であるハンブルグ等の沿岸都市の防御を担当していた。
 この1934年と35年の冬の演習で、強力な防空部隊が必要な事が確認されたが、この教訓は前年に行われた国防軍の演習によってもたらされたものであった。この演習ではまた、1934年と35年にドイツの防空部隊を運用する為の基本的な青写真となるものを作り出したが、これは本土の高射砲部隊が重要な工業地域や郊外地域を防備する際に戦闘機部隊と協調する一方で、機械化された高射砲部隊が前進する陸軍部隊の移動する盾となる、というものであった。「1935年の訓練と演習に関する航空部隊司令官による観察」と題された報告書ではこの点を補強しており、高射砲部隊と戦闘機部隊とで密接な協調が必要であるのと同様に、高射砲手と陸軍指揮官の間でも密接な連絡を行うことの重要性が挙げられている。報告書ではまた、第一次世界大戦時に行われた、戦闘機に対して目標の位置を高射砲の斉射で指示するという戦術的用法が再度紹介されている。最後に報告書は「素早い迎撃と利用可能な弾薬の使用が、航空機の編隊に対して高射砲部隊の優位性を確保する為の最適な手法」と言っている。これは簡単に言い換えるならば、敵の航空機を一早く発見し、そして時間当りの射撃回数を向上させることが成功の可能性を最大にする、という事である。


防空にかかるコスト

 1935年の終わりにはドイツ空軍は理論と実践のどちらもを経験する事が出来た。しかし近代軍隊において予算は軍隊の究極的な優先項目であり、これは国防軍も例外ではなかった。ドイツ空軍は再軍備分野で、ナチス政府から多大な援助を受けていた。ドイツ空軍の再軍備の研究においてアメリカの歴史学者であるEdward Homzeは「航空産業は他の何よりもナチス党の子供であり…航空産業は、他の産業と比べ物にならないくらいに政府から直接に、そして資金面でコントロールされていた」と指摘している。この航空産業と同じく防空部隊も、1930年代に増大する歳出の割り当てによる恩恵を受けていた。
 1934年10月にドイツ空軍の技術局(LCV)は、防空用の兵器や弾薬、機器の開発と試験を継続する為に必要な予算に関する最初の試算を完了した。Rudelによって認可を受けたこの試算は全体で3,362,200RMであり、その内1935年の開発と試験費用として1,344,880RMを計上していた。主要な分野別の投資計画では、1,542,200RMが測距儀と射撃指揮装置に、575,000RMがレーダーと通信機器、496,000RMが火薬と弾道研究に、そして225,000RMが高射砲、200,000RMが20mm高射機関砲、そして51,000RMが探照灯であった。これらの合計金額の他に、陸軍による火薬と弾道、高射砲、そして測距儀といった分野に対する投資が別途加わることになる。単品の開発資金でも最も高いものは、410,000RMの射撃指揮装置で、それに続いて200,000RMのレーダー、170,000RMの高射砲用自動照準装置、165,000RMの測距儀、138,000RMの対空ロケット、120,000RMが重高射砲である。それとは対照的に、探照灯の開発と試験にはたった51,000RMしか予算を割いていない。この計画の予算の傾斜傾向から、いくつかの事がわかる。まず射撃指揮装置や射撃用レーダー、測距儀といったものへの予算の集中は、高射砲部隊において敵の照準と射撃諸元計算といった、当時の最も技術レベルの高い機器の改良の必要性が認識されていた事を表している。次に対空ロケットに対する支出が存在するということも、防空手段の中に幾つかの発明的アイデアが含まれていた事を示している。実際に、対空ロケットの利用には2つの使い方がある。1つは、火薬の炸裂で約23,000フィート上空の敵機を撃墜するロケットの開発が提案されている。もう1つはロケットで鉄のワイヤーを空に打ち上げ、それによって敵の爆撃機が攻撃を掛ける際に上空に防壁を形成するというものである。最後に、探照灯に対してほどんど予算が割り当てられていないということから、既存の150cm探照灯のシステムでも十分な効果を得られていたということがわかるのである。
 全体としてシステム開発とそのテストへの配分の総計は、恐らく微々たるものである。それとは対照的に、1935年の財政における生産準備のための初期提案予算はかなり大きく、全体で152,600,000RM(61,040,000米ドル)に上った。生産品目別の予算は以下の通りである:爆薬に40,000,000RM、砲身と砲基部に27,000,000RM、信管と信管調定器に27,000,000RM、薬莢(shell casing)に21,600,000RM、弾頭(projectiles)に8,500,000RM、射撃指揮装置と光学測距儀に8,000,000RM、探照灯と聴音機、それに牽引トラックに7,000,000RM。1935年を通じて技術局に持ち込まれた予算の増額要望は、20mm機関砲の生産コストに3,000,000RM、88mm高射砲の調達に9,000,000RM、そして射撃指揮装置の追加に3,000,000RMだった。最後に挙げられた要望はツァイス社から寄せられたもので、1936年夏までに月間生産数を18台まで引き上げる計画に関する超過分であった。1935年3月にMilchによって「財政状態による圧力」からそれ以上の追加の予算は望めないと警告されていたにもかかわらず、1935年8月に防空部隊は50,000,000RMもの棚ぼた的予算を受け取った。この追加予算によって、1935年の防空部隊の最終的な支出の総計は、261,050,200RM(105,416,080米ドル)にも上ったが、これには88mm高射砲の要求による9,000,000RMと、その弾薬による40,000,000RMを超す予算が含まれていた。このドイツ空軍による防空部隊への投資は、初期の航空機の開発、試験、そして生産の為の投資よりも多くなっている。例えば1933年の技術局の見積もりによるこの分野における当初予算は87,600,000RM(26,280,000米ドル)だったが、しかし実際の要求額は膨れ上がって7月には150,900,000RM(45,270,000米ドル)になっている。


ドイツ空軍の地上防空部隊の拡張

 予算が膨大なものになれば、当然に防空部隊の規模も格段に大きくなっていく。1935年11月には、航空大臣(the State Secretary of Aviation)で空軍省(Air Ministry)の副官(second-in-command)であるErhard Milchは、1936年から1939年の期間の防空部隊の拡張計画を作成している。Milchは元々は砲兵士官で、第一次世界大戦時には空中観測員の職に就き、戦後はドイツの民間航空会社であるルフトハンザ社の取締役(director)となった。ゲーリングは管理業務には熱心でなかった為に、空軍省での管理に関する日々の平凡な仕事はMilchの下に集まって来た。第三帝国の期間を通して、Milchは戦争に向けてドイツ空軍の組織化と準備とを実施した中心人物であった。Guilio Douhetの戦略爆撃理論の信奉者であったMilchは、ドイツ空軍の航空部隊の作成だけでなく、防空や市民防空の計画の実行にも参加していた(WW1の教訓から生み出されたイタリア人のGuilio Douhet大将の理論は、大編隊の爆撃機での焼夷弾や高性能爆弾(high explosive bomb、高性能炸裂弾、高性能炸薬弾等の訳があるが、面倒なので高性能爆弾に統一。おかしな訳語ではあるが)、毒ガスによる都市への攻撃によって、市民のモラルが急速に低下し、政府が降伏に至るというものである)。1933年の夏には既に、ベルリンで大規模な空襲用シェルターの建設の開始を指令している。1934年には、ルール渓谷にある重要防御地域に煙幕を使用するアイデアを研究し、「高い防弾性を持ち、都市の上端から上空に100フィートの高さを有し、低高度での攻撃を防御する、特殊な高射砲塔」というヒトラーの要求の実行可能性について調査させている。
 1935年11月11日にMilchに承認された組織改編実施計画案では、防空部隊の常備兵(regular)だけでなく予備兵(reserve)も大規模に拡張することが想定されていた。例えば1935年から38年の間に、高射砲連隊の参謀の人数は9から28に、常備の88mm高射砲中隊の総数は40から114に、そして常備の37mm高射機関砲中隊の数は10から38へと増えている。実施計画ではまた、3個の鉄道高射砲大隊を組織し、空軍の常備兵で運用を行う計画も含まれていた。それに加えて、実施計画では常備の150cm探照灯中隊の数を12から38に、そして増加率が控え目な60cm探照灯の総数も、1936年に8個中隊だったものが1938年に19個中隊となっている。最後に、計画では司令部直属中隊(?staff battery)に通信部隊、そして射撃演習場(firing range)の数の増加も入っていた。「高射砲大隊」(Flakabteilung)は高射砲部隊の編成の中核単位であり、3個もしくは4個の常備高射砲中隊と聴音機を装備した探照灯中隊1個、そして設営中隊1個によって構成されていた。そして重高射砲大隊1個と軽高射砲大隊1個によって「高射砲連隊」が、重高射砲大隊2個によって「重高射砲連隊」が構成されていた。
 この時期の高射砲大隊を良く調べてみると数の面で増加しただけでなく、装備の質も向上している。例えば、重高射砲大隊は88m高射砲中隊3個と20mm高射機関砲中隊2個、そして6門編成の37mm高射機関砲中隊1個、150cm探照灯9基と聴音機6基編成の照空中隊1個、そして設営中隊1個で編成されていた。言い換えるならば、重高射砲連隊は全部で88mm高射砲が24門、37mm高射機関砲が12門、20mm高射機関砲が12門、150cm探照灯が18基、聴音機12基、そして設営中隊2個で構成されていたと言える。一方で軽高射砲連隊は、重高射砲大隊1個が、12門編成の20mm機関砲中隊3個、60cm探照灯12基編成の照空中隊1個、そして設営中隊1個で編成されている軽高射砲大隊に置き換わっており、全体で88mm高射砲12門、37mm高射機関砲6門、20mm高射機関砲18門、150cm探照灯9基、60cm探照灯12基、聴音機6基、そして設営中隊2個で構成されている。この新しい高射砲大隊は、その前任であった1933年当時の自動車分隊(Fahrabtelungen)と比べて、能力も火力も明確に向上している。
 1935年秋には、重高射砲大隊15個と軽高射砲大隊3個が帝国の防空区域に広く配置されていた。広さに対して数が少なすぎることは確かではあったが、集中して配置されていた。しかし1936年の秋には、防空部隊は混合高射砲大隊(重高射砲中隊と軽高射砲中隊の組み合わせ)29個と軽高射砲大隊8個と、それまでの約2倍になっていた。そしてこの時の地上防空部隊の兵力は、重高射砲中隊87個、軽及び中高射砲中隊53個、そして照空中隊29個であった。増大する中隊の数に対応する為に、必要な人員の要求も大きかった。例えば各重高射砲中隊と軽高射砲中隊の定員は、砲手から厨房員まで含めてそれぞれ143名と179名だったが、この急速な兵力拡張によって、任務に必要な現役部隊(?active-duty full-time unit)の組織ですら完了することができなかった。更に予備防空部隊の動員と訓練は深刻で、2倍の数の重高射砲中隊及び中高射砲中隊が計画され、数の増えない照空中隊を現役と予備部隊とで分割しなければならなかった。ドイツ空軍は非常時に予備部隊の動員を容易にする幾つかの手段をとっていた。1つ目は、募兵された人員を選択して動員地域の近くに配置するというものである。2つ目は動員地域内に特殊な集積所(Bestandelager)を設置し、そこに武器、装備、弾薬を集中しておくというものである。最後に機械化された予備防空部隊の組織に重点を置くというものであった。高射砲部隊の増設を継続していく中で、地上防空部隊の機動性は重点項目であり続けた。予備部隊の機械化は、国防軍に対して2つの大きな利点をもたらした。1つは、戦争の際に帝国中により早く配備することが可能であった。そしてもう1つは、ドイツ空軍が遂行している前線の地上部隊の防空任務には、攻撃作戦の際の部隊の前進速度に追いつく為に高い機動性が必要とされていたからである。
 1936年の7月には、空軍省の作戦部(?Command Section、LA)は高射砲兵科(flak artillery)の組織計画を改訂した。この改訂された計画は、基本的に1935年11月の計画の重要な幾つかの点を要約したものであるが、この計画では特に鉄道大隊の組織構造が詳細に示されている。またドイツ空軍の地上防空部隊への新しい要素の導入として、阻塞気球大隊の創設が計画されていた。1936年2月にRudelは、阻塞気球の防空における有効性を調査する為に阻塞気球の試験部隊を編成する指令を出し、陸軍兵器局(?army weapons office)が気球の試験を実施した。気球による防壁の目的は以下の4つであった:

A)気球の固定用ワイヤーで敵の航空機を破壊すること
B)敵の航空機に気球防壁を回避させることで、敵の爆撃を妨害すること
C)敵の航空機により高い高度を飛行させることで、爆撃精度を低下させること
D)気球防壁部隊を機動化することで、敵のパイロットに不安を与え、モラルを低下させること

1936年10月にドイツ空軍は初期試験の結果に満足して、更なる試験を指令した。1939年までは気球防壁は過剰な効果を発揮してドイツ空軍の航空機にとっても重大な危険物となり、何件かの事故を誘発した。そしてこのようなドイツ軍機の事故から、気球作戦の訓練高度が厳守するようになった。戦争が始まった際に実験気球防壁部隊は未だ作戦運用の準備が整っていなかったが、しかし気球部隊は変化する環境に急速に対応し、次第に低空攻撃から重要目標を防御するという重要な役割を担うようになっていくのである。
 1936年にドイツの航空工業界は、外貨の不足や浪費の増大(?increased domestic spending)、国防基金(?defence funds)の部門間での対立(?inter-service competition)によって瞬間的に危機におちていた。1937年の第4四半期(last quarter)には、厳しい財政によって事態は悪化し、原材料の制限から生産が低下していた。しかしそれとは対照的に、防空部隊の成長そのものは加速し続けていた。既に1935年の11月には、航空省の作戦部(?Command Section)は工業生産能力の増加に対応して、1936年10月1日から1937年4月1日までの期間での生産目標レベルを着実に引き上げて行った。表3.1は1936年と37年の予想調達目標を示している。



表3.1
1936年10/1の調達目標 1937年4/1の調達目標
20mm高射機関砲 1,200 1,950
37mm高射機関砲 450 550
88mm高射砲 1,110 1,400
射撃指揮装置 286 330
150cm探照灯 734 854
聴音機 556 702
60cm探照灯 530 480



調達目標の分析からわかるのは、1つの分野でしか生産数が減少していないということである。60cm探照灯の生産数が減少しているのは、60cm探照灯からより能力の高い150cm探照灯の生産に資材と設備(resources、資源と訳しても通じないような…)を移したためである。そして1936年9月には、技術局は24,000,000RM(9,600,000米ドル)の予算で361基の150cm探照灯の調達をしている。
 1930年代半ばでの急激な防空部隊の拡張によって、幾つかの空軍機関に問題が発生した。ドイツ空軍の補給部門のトップ(Chef des Nachschubamtes)であるKarl Kinzinger大将の1936年10月12日付の書簡では、防空部隊の幾つもの組織に十分な補給を行う事が困難になっていっていると、不平を言っている。彼は、1935年10月1日から36年10月1日までの12ヶ月間にドイツ空軍は規模において航空機が5000機増加し、また常備・予備含めて高射砲・照空中隊の数は1935年に86だったものから1936年には449にまで増加していたと書いている。そして高射砲の数が5倍になったにもかかわらず、Kitzingerは1937年4月1日には更に高射砲や弾薬の生産が上がっていくものと予想していた。
 高射砲兵器の生産目標を立ててはみたものの、結果はドイツ空軍が思い描いたような結果にはならなかった。目標そのものは現実的で達成可能なものであったが、財政と資材の制限から、工業生産は1937年を通して遅れがちであった。表3.2は1937年での予想目標と、1938年1月1日と1938年5月1日における実際の部隊の戦力との比較である。:



表3.2
兵器 1937年4/1での予想目標 1938年1/1の戦力 1938年5/1の戦力
20mm高射機関砲 1,950 2,117 2,284
37mm高射機関砲 550 517 668
88mm高射砲 1,400 1,900 1,984
射撃指揮装置 330 363 390
聴音機 702 764 927
150cm探照灯 854 998 1,070
60cm探照灯 480 244 267



1937年の財政危機にもかかわらず、主要な防空兵器システムと装備の調達は順調に増加し続けた。しかしこれとは対照的に弾薬の生産においては、材料の危機から1938年の春まで高射砲の弾薬は大幅に不足することになる。例えば1938年4月のドイツの兵器産業は270万発の88mm高射砲弾を生産したが、これは要求されていた生産目標の530万発の50%でしかなかった。同様に37mm機関砲弾の生産も、目標である570万発の43%の300万発しか生産できていなかった。更に悪い事に、ドイツ空軍の20mm機関砲弾の在庫数は3,350万発と、予想目標である7880万発の43%でしかなかった。こうした不足にもかかわらず、ドイツ空軍は88mm砲弾と37mm砲弾の貯蔵量を、それぞれ52日分と53日分と見積もっており、それに対して20mm機関砲弾は121日分を越しているとしていた(1日分:88mm砲弾25発、37m砲弾60発、20mm砲弾80発)。


1937年の開発計画

 幾つかの生産が遅れていたものの、ドイツの地上防空部隊は多方面に渡って拡張を続け、1932年から比較すると相当な進歩を遂げていた。1938年の時点で、ドイツ空軍の防空部隊は恐らく世界一だった。上級大将(?Major General)に昇進していたRudelは、ドイツの防空システムの開発において重要な役割を果たし続けていた。1937年8月にRudelは、1932年の開発計画を更新した「1937年版 高射砲兵科の開発計画」と題した報告書を作成した。この報告書の第2章において、Rudelは防空ドクトリンについての以下のような短い概要(synopsis、論文等の頭にある概略などの意味、映画等のあらすじ)を示している。:

高射砲兵科の任務は、単独もしくは友軍の戦闘機と協力して、国防軍や経済、都市、住民、更には陸海軍の戦闘部隊に至るまでの、国家の全ての重要な施設を、敵の空襲から防御することにある。この任務を遂行する為には、防空部隊は効果的に敵の航空機とパイロットと戦闘を行い、モラルや資材での効果を通して敵の意図を妨害しなければならない。

Rudelのドクトリンに関する短い論説では、地上防空部隊は作戦を単独もしくは空軍の戦闘機と協力して遂行することを認識している。彼の文章はまた直接的ではないものの、第一次世界大戦から続いている防空部隊に関する大きな議論にも触れている。Milchなどのドイツ空軍将校の何人かは、高射砲部隊の主要任務を攻撃してくる航空機の破壊であるとしている一方で、多くの高射砲指揮官は、攻撃をかけてきた航空機に対して投弾行為を諦めさせたり、投弾前の目標への照準を妨害する事こそが、一般的な成功であると信じていた。そしてRudelの1932年の高射砲兵開発計画では、前者の意見を強く支持しているようであったが、1937年の文章では後者の位置にある。この議論は高射砲に関する将来の予想をも含んだものだったが、しかし、敵機の撃墜数は評価基準となりうるのか?、敵の意図した目標を損害から守ることの成功という、より不確定な標準に評価基準は見いだせるのか?、といった問題は、解決されないまま残ることになるのである。
 戦争前に防空協会によって発行された、「防空:全ての人へのガイドライン」と題されたガイドブックにも、一般の人々にとっての評価基準について触れられている。協会のハンドブックでは、敵の攻撃における地上防空部隊の主要な3つの任務が挙げられている。まず第1の責任は、防空部隊は敵航空部隊をして高高度を維持させ、爆撃精度を落とすことである。第2の任務は、高射砲は可能ならば敵機を撃墜し、それが不可能ならば最低でも敵機の攻撃を阻止することである。第3の義務は、防空部隊は敵偵察機を可能な限り高空に上げることである。このハンドブックでは、評価基準を敵爆撃機の意図した目標に対する攻撃を妨害する事に、明確に結び付けている。そして敵機の破壊を、望ましいが次点の目標としているのである。それに加えてハンドブックの著者は、「最も優れた防空手段は、常に出撃可能にある戦闘機である」と断言することによって、地上防空に対して警告している。この意見と対照的に、1937年にWolfgang Pickert大佐(後の、ドイツ空軍最後の高射砲兵総監(Inspector of Flak Artillery))は、防空システムの要は高射砲と戦闘機だが、しかし将来の戦いにおいては戦闘機は基本的に高射砲の「支援」となってしまうだろうと主張している。この2つの思想の違いは、ドイツ空軍の戦争を通して高射砲と戦闘機での利点についてのドクトリンにおける討論に、壁を作っていたのである。
 1937年の開発計画は、来るべき戦争での防空部隊の準備を描いた青図であった。またこの計画は、攻撃作戦と防御作戦の双方の技術的衝撃についてのRudelの評価でもある。彼は航空技術の進歩のペースに、防空システムの開発も合わせる必要を主張している。そして新しい航空機の開発と生産は、高射砲やそれに関連する防御システムよりも短時間であることが特に重要であると指摘している。この面でRudelは、ドイツの防空システムを開発するにあたって考慮すべき5つの「明確な要素」を認識している。1つ目として、彼は高度33,000から39,000フィート上空を375m.p.h.で飛行する航空機と交戦可能な兵器を要求している。2つ目として、敵機が雲の中や上を飛行していたり、またエンジン音が小さい航空機である場合に、計器状態(instrument condition、不可視状態、計器飛行を意識してinstrumentを使用しているのか?)で交戦する効果的な手段を見つける必要性を挙げている。最後に、同時代の航空機の防御装甲が厚くなっていることを認識し、それによって航空機を撃墜しにくくなると書いている。
 Rudelは幾つかの面において、航空機の性能の向上と将来の防空の要求物とを予測する能力があったことを証明している。航空機の速度と飛行高度については、彼の計画書は第二次世界大戦を通じての連合国側の航空技術の限界を言い当てている。例えば、RAF(王立空軍)の最速の作戦機は、木製の「モスキート」で最高速度は380m.p.h.、作戦高度は34,500フィートに達し、このモスキートによるドイツ上空の夜間「偵察」飛行にドイツ空軍は手が出なかった。それとは対照的に、連合国側の主要攻撃手段であるアベロ・ランカスターやボーイングB-17「空飛ぶ要塞」、そしてコンソリデーティッドB-24「リベレータ」は、それぞれ最高速度は約290m.p.h.程度であった。またランカスターの作戦高度は24,500フィート、空飛ぶ要塞は35,000フィート、リベレータは28,000フィートである。しかしB-24とB-17は爆弾を最大まで搭載するとそれぞれ24,000フィートと30,000フィートまでしか上昇できなかった。更にアメリカ陸軍航空隊の爆撃機搭乗員は、生理学上の危険性と極寒による機器の異常の経験から、30,000フィート以上の作戦を殆ど行わなかった。
 Rudelの議論における、計器状態での航空機への照準と交戦が可能なシステムの、必要性の提起は、進化する脅威を予測する彼の能力のもう一つの証明である。同様に、より静かで消音したエンジンの登場により、聴音機の操作員は探知作業が困難となり、また一方で空飛ぶ要塞のように装甲が強化されたことで、いくらダメージを与えても撃墜が困難となっていった。実際に、1945年まで空飛ぶ要塞の打たれ強さは伝説的であった。例えばベルリン空襲の際にあるB-17に高射砲弾が命中したが、胴体の天井に直径3フィートの穴が開いただけで、そのまま乗員は投弾を行い、そして基地に無事帰投した。Rudelによる将来の需要の分析は、特殊なシステムの開発を提案していたことから、作戦計画者の一人としての彼自らの予言でもあった。しかし結局、予見には解決と資源の両方ともが必要であり、将来の開発を予想する能力は、まるでカサンドラのように聞き入れられず無視される運命にあった。
 この1937年の開発計画は、迫りくる空の脅威に充分に対抗可能な兵器と装備を調達することにより、将来の戦争の予想に対応しようという、野心的な計画であった。例えば、幾つかの高射砲の性能向上計画に、大きな重点が置かれている事が挙げられる。この計画の中には、全ての高射砲の初速を上げることによって砲弾の飛翔時間を短縮し、かつ交戦高度を上げるというものも含まれていた。この分野における主な動きの一つとして、ドイツの要地防御用の新型105mm高射砲の開発がある。105mm高射砲の開発は1933年に始まり、1938年の春に本格的な生産が開始された。この105mm高射砲の初速は2,891フィート/s、また有効射高は31,005フィートで、一方の88mm高射砲は初速2,690フィート/sと26,248フィートだった。この有効射高を考える時に忘れてはならないのは、少なくとも1939年の時点で、アメリカ陸軍航空隊の新型のB-17「空飛ぶ要塞」は、25000フィートを超えた高度で飛行する際にエンジンの同調機能に問題を抱えていたということである。帝国防空協会がその時期のアメリカの航空機開発を詳しく調査し続けており、YB-17試作機が1937年11月にSirenで製造された事を突き止めていたことも重要である。有効射高が30000フィートを越したことによって、105mm高射砲の開発は高射砲が航空技術の進歩の先を読み、防御の場において一歩先を進むことができた明確な例となった。


技術的進歩

 105mm高射砲によって高い性能を得ることが出来たにもかかわらず、地上防空の対応可能範囲の拡大への更なる努力として、ドイツ空軍は1936年に128mm高射砲と150mm高射砲の開発を開始した。1937年の後半には128mm高射砲の最初の試作品が完成し、試験の結果優秀な成績を収めた。128mm高射砲の有効射高は35,000フィートを少し超えており、最大射高は48,559フィートにも達した。しかし128mm高射砲と対照的に、150mm高射砲の開発は思うように進まなかった。1938年にはクルップ社とラインメタル社の両方で試作品が出来上がったが、相当な資材が必要な割に控え目な性能しか出ず、1940年の始めに開発はキャンセルされた。150mm高射砲の計画は「スーパーガン」の最初の一歩であり、これが最後にはならなかった。口径が105mmを越した砲が抱えた大きな問題は、その大きさと重量である。例えば128mm高射砲は長さ約26フィートで重量は26トンを越していた。こうした大型砲は生産の際に膨大な資材と設備を消費してしまうだけでなく、その大きさから用途が固定陣地か列車砲に限定されてしまった。そして結局、戦争開始までに作戦運用ができなかったのである。
 1937年の夏に、Rudelが高射砲の技術分野を広げていこうとしていたことは確かである。彼がそれまで第二優先項目としていた赤外線もしくはレーダー追尾システムを、「緊急で極めて重要」であると認識するようになっていた。実際にRudelは、非光学追尾手段の問題を「計器飛行の発展を考慮すると、この問題は高射砲兵科の生死に関わる重大な問題である」と書くようにまでなっていた。こうしたシステムによって高射砲部隊は夜間や雲の中の敵機を補足し交戦することが可能になる。ドイツ軍の中では海軍が最も早くレーダーの開発に着手し、1933年の夏に最初の試験を実施していた。陸軍もすぐにその可能性に興味を持ち、1934年にはレーダーと赤外線による追尾機器の開発を開始している。1936年の終わりには、Wolfgang Martini大佐(後のドイツ空軍の航空情報隊(Air Reporting Service)の司令官)は、レーダーの試験結果から、8km先までの航空機を認識することができるようになるだろうとしている。Martiniは試験でレーダーに感銘を受けたが、これは主に航空機の着陸支援という用途においてであり、侵入する敵機を認識するシステムにおいてではなかった。それから約2年後の1938年11月23日に、ゲーリングはレーダーと赤外線による追尾機器の試験を見学している。上級の指導層はレーダーの利点に明確に気付いていたが、しかしドイツ空軍はこの新技術の追及においては曖昧な態度を示しており、こうした防御的用途よりも攻撃的な兵器に偏重していた。
 1939年にはドイツの一般の工場が3種類の試作品を作った。「A-1」もしくは「Freya」レーダーはGema社が、「A-2」レーダーはLorenz社、「A-3」レーダーはTelefunken社
が開発した。「Freya」レーダーは標準的な索敵レーダーで、索敵距離は24から25マイルで、距離精度は±2,200〜4,400ヤード、角度精度は±5〜10度だった。ただし敵の高度は判別できなかった。「A-2」と「A-3」は最大索敵距離は6〜7.5マイルのみだったが、距離精度は±110ヤード、角度精度は±3〜4度で、特に「A-3」はたったの0.25度だった。「Freya」レーダーは敵機の最初の補足を行う一方で、「A-2」もしくは特に「A-3」レーダーは、高射砲や探照灯が必要とする敵機の正確な位置を提供することが可能である。しかしドイツ空軍が防空機器としてのレーダーシステムの重要性を認識するのは遅く、レーダー開発は中断する。その結果、レーダーはドイツ空軍が遅れた唯一の分野となってしまうのであった。
 1937年の開発計画はまた、200cm探照灯を固定陣地もしくは列車搭載で使用すべきだと要求している。重高射砲と探照灯の両方を列車に搭載して使用する事に重点を置くのは、防空部隊の機動性を重視していた事を示している。機動性に重点を置くことにより、前進する部隊を支援する要求に部分的に対応可能であると同時に、ドイツ国内の都市や工業地帯といった目標を柔軟に防御することが可能となるのである。そしてRudelの計画は、気球の高度と効果範囲を最大まで引き上げることで、阻塞気球中隊を完全なものにするよう要求して終わっている。Rudelは低空での空襲に対する防御手段としての阻塞気球中隊の運用に力を置いている。この阻塞気球の開発の必要性に関する議論は、Rudel自身が阻塞気球部隊に居た事による自己満足が、ある程度反映されている。


空軍の防空の指揮に関する議論

 1937年の開発計画は、ドイツ空軍の地上防空への明確な傾斜を示しているといえる。しかしこの傾斜はRudelだけの視点ではなかった。ドイツ空軍の参謀本部は、1936年から38年にかけての一連の研究と発表における、防空作戦に関する記事を調査している。1936年10月に参謀本部の将校のPaul Deichmann大尉(後に准将(Lieutenant General、General der Flieger))は、将来の戦争でのドイツ空軍の役割に関する発表資料を作成した。この発表資料のコピーは、全てのドイツ空軍の飛行隊指揮官や、高射砲連隊や大隊の指揮官、そして空軍の学校にまで配布された。しかもこの極秘研究を閲覧を許可されたのは、空軍の将校だけであった。Deichmannの「空の戦いでの作戦指揮の基本」と題したこの資料では、単純に敵の領土内の全ての工業中心地域を破壊し尽くせば戦争が終結するという、ドイツ空軍における共通の誤った認識について議論している。彼によるとこの認識は間違っており、航空機の組立工場、弾薬工場、そして物資集積地といった重要な軍事目標は、ドイツ国内だけでも2359か所存在していると指摘している。そして彼は、ドイツ空軍の任務において必要なのは、この中から更に「少数の決定的な」目標に破壊対象を絞ることであるとしているが、これはアメリカ陸軍航空軍団の戦術学校(U.S. Army Air Corps Tactical School)における「工業網(industrial web)」原理の視点と似ている。Deichmannはそれに続けて、ドイツ空軍は陸軍と共に作戦を行う事は良く教育されているにもかかわらず、独自に作戦を遂行する能力は殆ど開発されていないと指摘している。
 Deichmannによるドイツの攻撃的航空作戦に関する議論も重要ではあるが、この研究資料の最も興味深い面は、彼によるドイツの防空に関する議論であり、それは資料の残り半分を構成している、もう一つの主題でもある。研究資料における防空に関する議論は、一般にドイツ本土と、そして特にルール工業地帯の防衛に重点が置かれている。Deichmennは高射砲部隊、戦闘機部隊、もしくはその両方を特定の地域や場所の防衛に運用する際に、柔軟性が必要である事を強調している。彼はまた、幾つもの空域における防空部隊の指揮と管理に関して鋭く記述している。彼は、戦時の空域における飛行司令官(General der Flieger)に相当する「各空域における高射砲部隊の上級司令官」の設立を、ドイツ空軍が拒否していることを明確に指摘している。この点は、航空部隊の上位の司令官の位置にある高射砲兵科司令官の指揮下でのパイロットの運用を、拒否する傾向にドイツ空軍があったという議論を反映している。1935年にドイツ空軍の指導者達は、上級高射砲司令官に各空域における防空部隊の訓練と作戦の調整を行う事を許可するものの、しかしこの地位は高射砲部隊のみが管理可能であるように厳密に制限されていた。Deichmennは、戦時にこうした司令官の役割の定義、というよりも権限の一層の制限が更に行われることになるだろうとしている。彼はもう一度、飛行司令官(General der Flieger)が自分の担当地域にある全ての航空部隊と高射砲部隊の指揮を執ることによって、組織の集中化を行うことの重要性を説いている。彼は次のように言っている。「空軍の指導者は、攻撃部隊と防御部隊の協調というものを、我々の防空システムの戦力という片方の手段(訳者注:つまり防御側にしか有利にならない一方的な協調関係ということか?)としか見ようとしていない」と。
 防空部隊の指揮の集中化の重要性を主張した後に、Dechmannは戦時における防空の運用に議論を移している。彼はこんな奇妙な例え話で始めている。「賢い人は傘を持っておき、雨が降りそうになったら傘を開く。雨が降り出してから開くわけではない。」Deichmannは、これはドイツ空軍の持っている常備と予備の高射砲部隊の平時の組織についての原理であり、非常に重要な施設の防空カタログ(Luftschutzobjektkartei)を予め作っておくということであると言っている。このカタログは、戦時に防空部隊が必要もしくはなるべく必要である、全ての施設と構造物が完全にリスト化されていた。こうした施設には、非常に重要な(vital)軍事拠点や生産拠点、相当に重要(critical)な交通ハブや重要(important)な軍事施設が含まれている。Deichmannはこうした施設はあまりにも多すぎる為に全てを防御する事が出来ないとしている。そこで彼は、これらを優先度によって3つにまとめている。:

カテゴリー1:戦争の遂行に決定的に必要である政治的、軍事的、もしくは経済的施設で、全ての状況下において十分に防御されるべきもの。例外なく、こうした施設は、平時から施設の近くに高射砲陣地を作り、戦争が始まった時に遅延無く防御できるようにしなければならない。

カテゴリー2:戦争の遂行に基本的に重要である政治的、軍事的、もしくは経済的施設で、状況がそれらを必要としている場合に継続して防御されるべきもの。これらの施設は、ある特定の地域に配備された予備高射砲部隊と装備集積地から派遣された予備部隊で防御を受けることになる。

カテゴリー3:隣国の脅威が高まった場合か、陸軍もしくは海軍、空軍の計画作戦もしくは実際の作戦で必要な場合か、もしくは似たような施設が実際に破壊された場合などの、特定の状況において防御を要求される、全ての施設である。

この、防空優先度をまとめたこの3つの分類システムは、ドイツ空軍の地上防空の配置の為の重要な骨格となった。
 Deichmannの研究によって、急速に常備及び予備部隊の拡張が行われているにもかかわらず全ての潜在的な攻撃目標への対応が不可能であり、実際に彼が指摘した通り殆どの施設はカテゴリー3にせざるを得ない状況であることが明らかになった。1937年秋には、115個の重高射砲中隊と69個の軽高射砲中隊、そして14個の常備訓練中隊、そして37個の照空中隊が存在していたが、この常備高射砲部隊の規模が1936年から28%も増加している事実を考慮すると、それでもなお防空手段の不足が続いていることは皮肉であった。この面において、ドイツの地上防空は最も重大な矛盾に直面していたのである。戦争遂行の為には工業経済へのより多くの投資が必要であり、それによって着実に増加を続けるドイツ中の重要な工業及び軍事地点の防御の為に、より多くの防空が必要なのである。
 地上防空ドクトリンの面において、Deichmannは基本的に点防御(Objektschutz)の実施を重視して研究を行っており、これは第一次世界大戦の初期から重視されていた分野であった。実際にドイツ空軍が1936年を通じて実施した高射砲部隊を動員した演習では、点防御を用いている。1936年に防空部隊は3つの大きな地方訓練と、ヘッセンで行われた5日間の陸軍との共同演習に参加することによって、理論を十分に試すことができた。またドイツ空軍はドレスデンを含む大都市で、防空と市民による防御準備の試験を実施した。それに加えて各防空部門(flak sections)においては、例えば10月に第12高射連隊の1個照空中隊によって実施された2日間の野外演習のような、小さな規模の訓練も行われていた。1936年に、航空省は1936年の訓練を通じて得られた教訓の定例評価報告書を作成した。この「1936年の訓練に関連するドイツ空軍の司令官(?Commander-in-Chief)の所見」と題されたこの報告書の中で、航空参謀は防空に対して改善の必要な幾つかの分野があることを認識していた。報告書では、特定の施設もしくは地域(Schutz eines Objekts)の防御を行っている全ての地上防空部隊の管理を、集中化する必要がある事に重点を置いている。そしてこの時、訓練不足の予備部隊が多くを占めている場合には、常備部隊と比べてより強力な管理が必要とされる為、指揮の集中化が特に必要であるとしている。そして報告書では、高射砲と陸軍部隊との協調に改善が見られたという指摘が多く見受けられた。最後に、パイロットの空中での報告手法を徹底的に評価させる為に、航空情報隊の主催する訓練により多くの戦闘機を参加させるように要請している。
 大戦間では最大規模となった、1937年の一連の兵棋演習と、航空部隊と陸上部隊の参加した演習においても、ドイツ空軍は原理を試し続けていた。9月に実施された国防軍の演習はヒトラーと国防軍の指導者によって観閲され、三軍全てが参加して北ドイツ平野を横断するというものだった。ドイツ空軍からは62,000名の航空隊員と、1,337機の航空機、639門の高射砲、160基の探照灯、そして9,720台の車両が、この演習に参加した。参加した部隊は全体で17個爆撃群(bomber group)、7個飛行群、1個急降下爆撃群、航空偵察部隊、そして6個高射砲連隊であった。この演習の目的の一つは、ドイツの市民防衛システムの状態の試験であった。9月20日から25日にかけて、「赤軍」と「青軍」の2つの航空隊が主要な都市部を空襲した。9月20日には、赤軍航空隊がハンブルグへの昼間模擬爆撃とハノーバーへの夜間模擬爆撃を、一方で青軍航空隊はベルリンへの早朝模擬爆撃を実施した。また更にStettinにある貯油施設に対しても空襲が行われ、これに対して防御側は目標を覆う為に煙幕を張った。
 ドイツ空軍は、この秋季演習から多くの貴重な教訓を得た。例えば、防空ネットワーク上の命令伝達システムに関しては、「あまりに遅く、官僚的である」と評価された。演習後の評価においても、航空情報システム(air reporting system)の情報交換の速度を上げる必要性が指摘された。それに加えて、Stettin上空に張られた煙幕は、あまりに早く張り過ぎたために爆撃機が空域に入る前に煙は消えてしまっており、失敗と判定された。このように幾つかの分野において改善が要求されたが、演習全体での高射砲部隊と航空部隊への評価は、概ね良いものであった。


スペインでの空軍の戦争

 1930年代の終わりに、ドイツ空軍は野外演習だけでなく、実際の戦闘作戦においても実戦経験を積むことが出来た。スペイン内戦(1936年〜1939年)は、限られたドイツ空軍兵士のみの参加ではあったものの、彼らにとって戦争の技術と科学とを最初に習得できた最高の機会であった。そしてスペイン内戦はドイツ空軍の高射砲部隊にとっても、ドクトリンや装備、そして部隊自身を戦争という試練において試す、良い機会であった。1936年7月にヒトラーが、フランコと国家主義者による反乱を支援すると決定した時、ハンブルグを出港した最初のドイツ船団の一隻に、ドイツ「義勇軍」と12門の20mm機関砲を含む装備とが積み込まれていた。この時、高射砲兵科のある伍長はこの機関砲と同行し、スペイン軍部隊にこの武器を使った訓練を行うという任務を受けていた。しかしこの伍長はスペイン語が話せなかった為に、輸送機の操縦士で後にドイツ軍の夜間戦闘機の戦術を発明するHajo Herrmann准尉(Lieutenant)が、北アフリカとイベリア半島を結ぶ彼の日課の輸送飛行の後に、機関砲を使った午後の訓練をフランス語で開くことになった。Hermannの訓練は、Rio Guadalquivir上空を彼自身が飛行機で牽引する風船を使った実弾射撃を含んだものであった。そしてフランコ軍の部隊は、その場しのぎ(ad hoc)の訓練を終え、機関砲と共にスペイン中の幾つかの戦場へと送られていったのである。
 1936年10月にコンドル軍団が創設されると、ドイツの援助は膨らんでいった。コンドル軍団は約5,000名の空軍兵と100機の航空機、そして8個中隊で編成される1個高射砲分遣隊(flak section)を含んでいた。そしてこの中隊の内の一つがフランコ軍部隊の訓練用の部隊とされ、残りの88mm高射砲中隊5個と20mm機関砲と37mm機関砲による高射機関砲中隊2個が、コンドル軍団の地上防空部隊を構成していた。コンドル軍団の指揮官であるHugo Sperrle大将は、配下の機械化高射砲部隊を前線とドイツの飛行場周辺とに分割して配置した。戦争の初期の段階においては、共和国軍の航空脅威が弱かった事と、フランコ軍側の火砲不足から、重高射砲を地上火砲の役目に使う事になった。実際に、277日間に高射砲が交戦した回数は377回に達したが、この内の対空戦闘はたったの31回だった。コンドル軍団の参謀長だったWolfram von Richthofen男爵は、「ベルリンでは熟練者の恐怖の的になっている高射砲が、一貫して地上火砲の支援として用いられている」と、この真逆になった役割を日記に記述している。
 1938年には共和国軍(Republican)の航空脅威も増加してゆき、ドイツ側は、高射砲部隊が1回の交戦のたった36発の射撃によって2機の確実な撃墜と1機の不確実な撃墜を記録したような、幾つかの注目すべき成功をおさめた。この撃墜の主張は幾分嘘臭いものの、このような報告が高射砲部隊への将来の期待を大きくしていった。1939年の初めに内戦が終わるまで、コンドル軍団のドイツ空軍義勇兵は386機の共和国軍機を撃墜したが、その内の59機は高射砲が撃墜したものであり、全体の15%を上回っていた。内戦において高射砲が置かれた環境と部隊規模の小ささを考慮すると、コンドル軍団全体の15%の撃墜数は驚くべきものである。しかし一方で、共和国軍機がVinarozとBernicaloへ夜間空襲を行った際には、高射砲部隊は探照灯を持たなかった為に迎撃できなかった等の幾つかの問題も経験した。戦争の終わりまでコンドル軍団の高射砲部隊は戦闘で良く任務を果たし、このスペインで彼らが得た経験は、すぐ後にヨーロッパ中の戦場で活かされることになるのである。
 スペイン戦線における高射砲中隊の経験は、ドイツ空軍にとって将来の作戦に向けての幾つかの貴重な経験となった。その1つとして、88mm高射砲が地上戦闘作戦の支援に効果的であることを明白にした。スペイン戦線では、ドイツ空軍はそれまでの標準的な正方形配置を変更して菱形(diamond)配置とし、3個中隊で前線での敵と交戦しながら、残りの1個中隊で上空への対応を行うようになった。その一方で、探照灯が無かった為に夜間作戦で失敗しており、暗闇の中での高射砲の能力を改善する必要性が強調された。しかし、スペインにおける高射砲の全体的な能力は、防空から地上支援までの何でも屋(Madchen fur Alles)としての能力を高射砲が持つという信仰を、ドイツ空軍に与えたのである。
 また、ドイツ空軍だけでなく諸外国の観戦官も、この戦争から教訓を引き出し始めていた。フランスの上院の航空機委員会の委員長であるPaul Bebazetは、この戦争を新型高射砲の試験場と見ていた。Petit Parisienへのエッセイの中でBenazetは、スペインでの作戦から、速度と高度の増した新型爆撃機によって戦闘機の効果が小さくなったことが判明したとしている。更に彼は、フランスの市民防衛手段を改善するとともに、フランス中に配備している高射砲の数を増やす事を提案している。防空協会に記事を送っているドイツ人通信員のLutz Hubnerは、議論の余地はあるものの、Benazetの結論はドイツでも考慮するに値すると主張している。


1933年から1938年までの総括

 1933年から1938年にかけて、ドイツ空軍の高射砲部隊はこれまでになかった拡張を経験した。1933年の時点で、自動車分隊(Fahrabteilungen)としての兵力は、5,100を超すか越さないかだった。これが1937年10月1日には、防空部隊は1,013名の将校と46,500名の兵士を数えるようになり、1938年の終わりには70,000名を越す人員が、ドイツ空軍の高射砲や探照灯、阻塞気球の中隊に所属していた。1938年11月には防空中隊の数は372となり、この内の160が重高射砲中隊、140が軽高射砲中隊、72が照空中隊であった。そして大規模な演習や高射砲部隊と照空部隊を通しての訓練と教育の改良とが、5年間での12倍にも上る人員増加に貢献したのである。1936年には既に、高射砲数の増加によって陸軍と空軍との間で既存の射撃場の再配分が行われた。更に1937年には、ドイツ空軍はRerikにあった高射砲兵学校を作り直して「高射砲兵科訓練並びに実験大隊」とし、4月1日には重・軽高射砲大隊各1個と照空大隊1個から成る高射砲連隊1個をこれに付属させて、空軍訓練師団(Luftwaffen-Lehrdivision)としている。
 防空部隊における人員と資材の拡張に加えて、高射砲兵総監と陸軍兵器局の合同努力によって、砲身から測距儀に至るまでの大きな技術的進歩も成し得た。国防軍内の独立した各部隊(?service)間における進化論者の適者生存にも似た予算の取り合いという一般的な雰囲気とは対照的に、高射砲兵(flak arm)は陸軍の兵器局(?armament office)と歴史的で友好的な関係を持つことができていた。1930年代初めにRudelと、陸軍兵器局(?Armament Office、Weapon Officeとは違うのか?)の局長だったKarl Becker大将とは密接な人的・専門的関係を保ち、それによって高射砲と装備の開発を共同で効率的に実施できるようにしていた。この働きかけによって、防空部隊は様々な面において、無駄でコストのかかる組織間の資源の奪い合いを回避することができたのである。スペインにおける地上作戦の支援という高射砲部隊の行動はまた、高射砲の地上戦における価値を強調し、更に1940年のフランスと低地諸国との作戦の後に、陸軍の指導者はこの教訓を心に留めることになるのである。
 1938年11月にドイツ空軍は、それまでの6個に分けていた航空区域(Luftkreise、air district)を廃止し、これを4個の航空管区(Luftlotten、Air region)と、10個の新しい航空指揮区域(Luftgaukommandos、air district)とに置き換えた。この航空指揮区域には不連続で、ドイツ全土の陸軍地域と一致するローマ数字が割り当てられていた。またこの航空指揮区域にはオーストリアとスデーテンランドの併合された領土も含まれていた。航空管区の指揮下にあったものの、各航空指揮区域の指揮官は区域内にある全ての空軍の航空部隊と地上部隊の指揮権を持ち、防空戦における戦闘機隊と高射砲部隊の調整の責任者でもあった。それに加えてドイツ空軍は、特にハンブルグやベルリンといった都市、もしくはルール渓谷の工業地帯に対する空襲の脅威の高い地域をより防御して行くために、防空司令部(Luftverteidigungskommandos)を作った。そして航空指揮区域への組織の再編成によって、ドイツ国内の地形的境界線で定義された10か所の独立した防空区域が出来上がることになる。このシステムが新しい空の戦いに合ったものだったどうかは、その後の歴史が証明することになる。
 戦争前における軍隊の組み上げの中で、ヒトラーとゲーリングは世界で最も優秀な地上防空部隊を作る為に、相当な量の資源を惜しげなく投資した。そしてここに残るのは、以下の2つの疑問である。「地上防空部隊は怒って使われるか?(??Would these forces be used in anger?、手塩にかけて育てたものを使うので怒るのか?)」と、もしそうだとするならば、「地上防空部隊は効率的か?」である。1939年には、ヒトラーは自らの征服計画に思い焦がれており、ヨーロッパに戦争の脅威が出現し始めていた。仮にヨーロッパの政治的・軍事的指導者が、この嵐の前兆を見損ねたか、もしくは見ようとしなかったとしても、少なくとも次に起こる戦争において、航空兵器が勝利を得る為に大きな役割を担うことくらいは認識していた。イギリスの首相だったStanley Baldwinがしばしば主張していた「爆撃機はいつでも飛来する」という言葉は、空襲に対する防御の効率に対する彼の視点を表している。それとは対照的に、ゲーリングの「敵爆撃機がルールに到達できたならば、もう自分はヘルマン(貴族の尊称)ゲーリングではない。ミスター(一般人の尊称)と呼んでも構わない。」という宣言は、「3つ目の次元(空)」からの攻撃から、ドイツを無事に防御する防空能力への自信過剰を表している。そして1939年には、双方共に正しくなかった事が明白となるのである。戦争の過程で、戦略爆撃のアイデアと、ドイツの防空の効率性の試験が行われてゆくことになるが、これは両陣営にとって決定的に重要な試験であった。





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