第5章 1941年の勝利




 1941年1月末の時点で防空部隊に問題があったにもかかわらず、ゲーリングは得意の大口を止めていなかった。「本土と占領諸国の防空は鉄壁である。敵の空襲は我々に何の軍事的損害も与えられておらず、他の損害も考慮するまでもない軽微なものである。」このようにゲーリングは楽観的な現状評価をしていたものの、それまでに実施していた夜間戦闘機の増強は止めなかった。新年の第1週に、ゲーリングは航空指揮区域と飛行軍団(?air corp)の指揮官に対して、「爆撃機と偵察機の最も優秀な乗員を、夜間戦闘機による帝国の防衛に回すよう」指令を出した。実際に、1940年を通しての夜間戦闘機部隊の活躍は目立ったものではなかった。特にドイツ空軍の夜間戦闘機によるイギリス軍爆撃機の撃墜数は42機だけだった。夜間戦闘機を強化する試みとして、ドイツ空軍は1940年9月に射撃用レーダーを探照灯と組み合わせた運用を行った。このように射撃用レーダーが高射砲と夜間戦闘機のどちらもの能力向上の要であることが、次第に明らかになってきた。しかしレーダーの生産の遅れから、夜間作戦は1941年前半を通じて足踏みを続けていたのである。


効率の改善と教訓の共有化

 航空機追尾システムに技術的不足があったものの、防空部隊は高射砲部隊の効率増大の為に、幾つかの組織的手法や訓練を導入した。例えば、第8航空指揮区域(Silesia/Protectorate)で出された指針では、新しい部隊をゼロから作ることによって引き起こされる問題を回避する為に、新しい高射砲連隊や中隊を既存の部隊から編成することを命じている。新しい部隊の中核となる中心的な幹部を維持することによって、部隊全体における専門的知識の度合を維持し、防空兵器全般での熟達レベルを増加させることを狙っていた。各種の常備並びに予備部隊での射撃訓練のレベルの違いを考慮して、ドイツ空軍は、第8将校補充年次集団(the 8th Officer Replacement Year Group、補充システムの一つらしいが詳細不明)の射撃訓練を、RerikとStolpemundeにある高射砲学校でも実施するようにした。それに加えて、ゲーリングは前線と本土との間での防空要員の交代を標準的なものとするよう命令した。要員の交代を行う事により、本土へ帰還する機会を提供するだけでなく、より活動的な西部戦線で戦闘経験を積んだ多くの将兵を供給することになったのである。
 更なる効率改善のために、高射砲兵総監局(office of the Inspector of the Flak Artillery)は1941年1月から高射砲通信(Flak Newsletter、Flak Nachrichtenblatt)の発行を開始した。ドイツ空軍はこの高射砲通信によって、全ての将校と先任下士官に対して高射砲に関する情報を広めようとした。高射砲通信では重要な命令や指令、状況報告、指針、そして法令の抜粋を掲載していた。更に防空全般に関係する事象について、作戦部隊からのフィードバックを提供する公開討論会を開いた。高射砲兵科の上級指導者も、実戦の準備での理論的教育の重要性を重視し続けていた。例えば高射砲部隊は、射撃手法だけでなく、射撃操作への射撃用レーダーの組み込みといった事に焦点を置いた兵棋演習を実施した。


聴音機対レーダー

 防空部隊の指導者は実用的な指導改善も重視していた。レーダーの不足から、防空部隊は探索や訓練、そして運用に聴音機を使用し続けなければならなかった。そこでドイツ空軍は、イギリスの爆撃機を探知する3種類の手法を評価する事で、最も効果的な音響手法を決定しようとしていた。1つ目の手法は、以前から行われていた2基の聴音機を離れた場所で使用し、双方から傍受した音響情報(aural intercept)をプロットするというものである。2つ目の手法は、聴音機をなるべく高射砲から離れた場所に設置し、大気中のノイズレベルを低減するというものである。そして3つ目の手法は2つ目とは対照的で、高射砲陣地内で何人かの聴音機操作員によって聴音機を操作し、高射砲の間近であっても良い結果が得られるかどうかを決定するというものである。高射砲開発局(Flak Development Office)の有名な局長であるWilhelm von Renz大将は、3番目の手法が最も成功を収めたとしている。それに加えてvon Renzは、「部隊が新しい射撃位置へ移動した時や、敵の部隊が決まったコースを誘導電波に従って飛行している時には、特に不意打ち射撃が成功した」と断言している。聴音機などによる探照灯の照射という事前警告の無い突然の射撃は、驚くほどの良い成績を収め、以後繰り返されることになる。
 音による探知手法における主要な欠点は、爆撃機のエンジンで生成された音が聴音機操作員の耳に届くまでにかかる時間に、その航空機はある距離を移動してしまっているという「音速ラグ」にあった。そして更に気象条件が、航空機の位置探知と射撃諸元計算を複雑にした。それに加えて、RAFの密集編隊攻撃の採用とイギリスの爆撃機の速度の上昇は、こうした問題は更に悪化させて聴音機の効果を薄くしてしまった。しかし以上のような音響探知を煩わせる問題が多くあったにもかかわらず、1944年8月時点でも、ドイツ空軍では5500基を越す聴音機を使っていたのである。
 1941年の初めには、非光学照準射撃に関する問題への解決策が具体化しつつあった。レーダー機器が次第に増強されるに従って、高射砲部隊に希望が広がっていった。ある顕著な例としては、射撃用レーダーからのRAFの爆撃機の正確な位置情報が繰り返し第25高射砲連隊の高射砲陣地にもたらされたことにより、2月10日夜に1機を未確認ながらも撃墜した、というものがある。一方で、結果が期待に添わなかった事が2月末に書かれた報告書に次のように表れている:

高射砲中隊は多大な熱望と楽観によって射撃用レーダー装置の配備を待ちわびていた。しかし操作員の訓練が不十分で、機器も度々技術的問題を引き起こした為に、最初は何事も上手くゆかず、ムードは次第に失望へと変わりつつあった。しかし2月の後半に入るとこうした困難も克服されて行き、、使用可能な目標の画像が次第に出現するようになったことで、2月後半には高射砲中隊と射撃用レーダー装置を上手く使いこなし、レーダーの性能を活かした良い結果を出せるようになった。

この報告書は、「結果として、防空部隊は夜間射撃を可能とする機器を持つことができ、非常に感謝している」という所見で締めくくられている。射撃用レーダーの配備によって、高射砲中隊は文字通り夜でも見える目を得たのであった。


高射砲と弾薬

 1941年春のレーダーによる戦力の上昇は、他の理由からも重要な事であった。ドイツ空軍は弾幕射撃手法を用いることで、RAFの爆撃機の攻撃を妨害し、爆撃精度を下げることには成功していたものの、その結果として弾薬の消耗量が大きくなっていた。3月にゲーリングは高射砲弾の不足に対して、88mm高射砲弾の生産を加速させるよう命令を出した。1月には既に、37mm高射機関砲弾の不足から、指揮照準射撃(?directed-fire、Vernichtungsfeuer)に制限するよう、軽高射砲中隊に対して通達が出されていた。しかし実際には、弾薬の不足による問題は主としてドイツ空軍が自ら招いたものであった。1940年6月にフランスが降伏した後、国防軍の作戦計画者が資材を潜水艦や航空機、そして戦車の製造へと振り向けたため、88mm高射砲の砲弾の目標生産数は100,000発を下回るようになっていたのである。
 ドイツ空軍の作戦計画者は、すぐに高射砲弾の増産が必要だと認識し、月産数の割り当てを初めは400,000発から後に1,000,000発、そして段階的に2,000,000発まで増加した。そしてゲーリングは、兵器と弾薬大臣(?Reich Ministry for Armaments and Ammunition)であると同時に、帝国防衛評議会(Reich Defence Council)の議長である地位を利用して、兵器調達の為の2つの新しい特別な優先度を1941年2月に制定した。「S」と、更にその上の「SS」という優先度は、資源の割り当てと生産に関して最優先されることになる。高射砲とその弾薬はどちらも優先度は「SS」とされたが、限定された資源経済の閉鎖的なシステム内での生産において、割当量まで増産してゆくことはそれ程簡単なものではなかった。例えば、生産工程の中での幾つかの障害要素として、薬莢(shell casing)、発射薬、炸薬、そして時限信管があった。薬莢の場合では、ドイツ空軍は新しく製造する他に使用済みの砲弾の再利用を行っていた。しかし再利用した薬莢は再利用する前に清掃行程を経る必要があったものの、清掃行程の能力は限られていた。発射薬と炸薬の障害は、占領地域で接収した施設と工場の利用と、代用火薬の使用で部分的にではあるが緩和された。そして時限信管の製作は、精密な工作機械と高い技術を持つ作業者とが必要な複雑な工程であった。その為に増産の努力にもかかわらず、ドイツ空軍と海軍向けの時限信管の生産量の合計数は、1941年4月の初めの時点で月産600,000個であった。
 88mm高射砲弾の製造に関する障害にもかかわらず、生産数は1941年の第2四半期で月産890,000発から第3四半期で1,260,000発、そして第4四半期で1,300,000発へと飛躍的に増大した。これは、9ヶ月間に88mm高射砲弾の生産数は月産で710,000発も増大したことになる。しかし月産200万発という目標はドイツの弾薬工業の能力を大幅に上回っており、1943年の第4四半期に88mm高射砲弾を月産1,440,000発生産したのが限界であった。
 弾薬生産に関する障害は、防空部隊の設立と維持に必要な複雑で多大な労力に関する、幾つかの洞察をもたらした。しかしその一方で、弾薬消費量の増大からくる別の障害と問題が待っていた。弾薬の消費が増えることで高射砲の砲身の交換時期が早くなってしまったが、それ以前に高射砲は初速が大きかった為に一般の火砲よりも砲身寿命が短かく、問題はより悪化していた。1941年を通して、戦闘での破損や過度の使用による国防軍での88mm高射砲の月当たりの損耗数は41門であり、これは1940年の4倍であった。88mm高射砲の交換砲身と弾薬の不足に関連する問題によって、2月には「敵の攻撃機と認識された」航空機にのみ射撃を行うよう命令を出さざるを得なくなった。それに加えて高射砲陣地付近を飛行する航空機であっても、「射撃状況が良好なもの」のみ交戦を許可するという命令も出される始末であった。しかしその2週間後には交戦を制限した命令は撤回され、代わりに「いつ、どこにいようとも、敵機とは常に交戦すべし」という命令が出し直された。
 高射砲部隊が直面している問題は、砲身寿命の短さや弾薬の大量消費だけではなかった。それに加えて高射砲部隊では、1941年春に砲身を破壊する腔発が多く発生していた。腔発は砲身を破壊するだけでなく砲手を危険にさらすことから深刻な問題であった。この事故の原因は2つある。まず砲弾そのものの、薬莢への弾頭の挿入に関しての組立作業が粗く(??砲弾の薬室への装填の仕方が悪く)、それが腔発(?premature detonation)を引き起こす原因の多くを占めていた。そして2つ目として、幾つかの例では弾薬の製造不良そのものが原因であった。そして前者では、高射砲部隊そのもので訓練不足や操作時の不注意が存在した兆候も示しているが、この不足は、より良い監督と詳細に至る深い注意によって修正する事は可能である。それとは対照的に後者の場合は、戦争における機会と摩擦の役割(??role of chance and friction in warfare)についての例であり、戦争遂行における固有の要因の1つである(?? an inherent element in the prosecution of armed conflict)。
 1941年2月20日の状況報告で、高射砲兵総監のKurt Steudemann大将は、現在の高射砲に関する問題について次のように悲観的な記述をしている。「近い将来、機器、兵器、そして弾薬のいずれもが、任務の遂行に不足することになり得る。」同様に、高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)であるRudelも、発射速度を増やそうとするあまり、砲手が標準の射撃操作を守らなくなっていると不平を述べている。そしてRudelは高射砲の指揮官に対して「訓練と操作の標準化は、作戦準備の必須事項である」と強調している。彼はまた、直下の指揮官に対して「高射砲の能力を完全に発揮させる為には、高射砲を正しく使用させる事が絶対に必要である。」と注意した。


対空ミサイルという新しい選択肢

 1941年2月、夜間の対空射撃に関する問題で高まる不満に対応するために、主計総監局(Quartermaster General's office)の軍事技術者であるDr. Friederich Halder大佐は、遠隔操作の対空ミサイルの開発計画を提案した。その後の5月7日には、第一次世界大戦の砲兵部門のベテランで、第三帝国のロケットとミサイル計画の中心人物の一人であるWalter Dornbergerは、Peenemundeの科学者に対して高度50,000から60,000フィートまで届く液体燃料の対空ミサイルの製造の可能性についての研究を命令した。ヴェルナー・フォン・ブラウン(Wernher von Braun)は、ドイツの「復讐兵器(vengeance weapon)」もしくはVミサイルの開発計画を行っていたPeenemundeでの、研究と発射施設におけるドイツのミサイル研究の責任者であった。フォン・ブラウンは対空ミサイルの製作計画を検討したが、代替案の方がより良いことを確信した。対空ミサイルの製造にはかなりの資材が必要となることから、フォン・ブラウンは地対空ミサイル(SAM)の代わりに、ロケット推進による迎撃機の構想に熱心になった。1941年6月、技術局の技術主任だったRoluf Luchtは、Peenemundeの複合研究施設を訪れた際にフォン・ブラウンとそのスタッフと話をし、自ら高射砲兵科からの代表者としての来ていたにもかかわらず、ロケット推進の迎撃機というロケット技術者達の提案を受け入れてしまった。6月に、Rudelはもう一度、イギリスの爆撃機と戦う為の遠隔操縦ミサイルの開発を主題とした提案を行ったが、彼の提案はドイツ空軍の上級指導者達から余り支持されなかった。結局、ドイツ空軍が対空ミサイルの開発計画に賛同するようになるまでに数年の歳月が要したが、この遅れは高射砲部隊の希望でもあった地対空ミサイル開発に大きな代償を与える事になった。


対空兵器の評価

 防空部隊における技術的困難や、訓練の問題、そして資材の不足にもかかわらず、高射砲部隊と探照灯部隊は、1941年の始めの4か月の間にはほどほどの戦果を出す事ができた。表5.1は1941年1月から4月までの間にドイツ空軍の高射砲部隊が撃墜した航空機の数と、撃墜に費やした砲弾数をまとめたものである。


表5.1
撃墜数 重高射砲弾 軽高射砲弾 重1機当たり 軽1機当たり
1月 13 154,456 499,607 11,881 38,431
2月 38 234,550 391,106 6,339 10,570
3月 31 317,759 476,907 10,250 15,384
4月 62 282,270 529,842 4,533 8,546
合計 144 989,035 1,897,462 8,250 18,232


明らかなのは、1月の成績が重高射砲も軽高射砲も特に悪いということだが、これは1年でこの時期は、厚い雲が広がる期間が多かった事と、日照時間が短かった事が原因であると思われる。それと比較して、4月の重高射砲と軽高射砲による1機撃墜当たりの発射弾数は、1月よりもそれぞれ6,200発、29,800発も少なく、特に成績が良い。消費した弾数は1月分から重高射砲では83%の増加、軽高射砲でも6%の増加をしているにもかかわらず、1機当たりに必要な弾数は減少しているのである。この高射砲部隊での射撃精度の向上は、3つの要因によって成し遂げられた。まず1つ目として、射撃訓練の増大と、砲兵操典(?gunnery procedures)で通常の運用での無駄を省き、これを再び重視したことが挙げられる。2つ目として、天候が射撃指揮装置を使用した光学照準にとって良い条件だったことがある。そして最後に、ゆっくりではあったものの射撃用レーダーの数が増えて行った事で、レーダーを装備した部隊が本土から西部占領諸国まで広がって行き、防空兵器全体の射撃精度を向上させていったことが挙げられる。実際に1941年の中頃の時点で、防空部隊には改良されたウルツブルグレーダーが約300基ほど配備されていた。
 1月から4月までの間の高射砲部隊の戦果の殆どは、西部占領諸国においてのものであった。ノルウェーを含めた占領諸国における撃墜数は144機の内の115機であり、割合にして79%を占めていた。西部占領諸国に配置された防空部隊の成績が良かった理由は2つある。1つは、西部に探照灯や高射砲陣地、そして夜間戦闘機が集中的に配備され、またイギリスの爆撃機部隊がドイツへの空襲の際に往復で通過する為に交戦の機会が多かった事が挙げられる。2つ目は、ドイツの戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが1941年3月にブレスト港に到着し、RAFがこの2隻に対してその後11か月間にも渡って連続的に空襲を行ったからである。実際に、Peirse(RAFの爆撃司令官)はPortalに次のように不平を述べている。「この戦艦を沈める必要性について考えてみたが、戦略的にこれ以上爆撃機部隊を送り込むのは割に合わないと思われる。大西洋で戦った方がより効果的であり、それに爆撃機部隊もドイツ国内の目標を攻撃した方が良い。」ヒトラーもこの2隻の主力艦がイギリスの爆撃機を引き付けるという重要な役割を理解していた。ドイツ海軍の司令長官であるデーニッツ提督との会合の中で、総統は「ブレスト港のドイツ艦隊(Geschwader)は敵の航空部隊を釘付けにし、それによってドイツ本土に対する空襲を妨害するという、歓迎すべき効果を生んでいる。」と指摘している。
 西部での撃墜数の優位にもかかわらず、ドイツ本土の高射砲中隊も、4月でのドイツ空軍の防空部隊の全ての撃墜数の40%を占め、その存在を誇示していた。また高射砲部隊の昼と夜の成績を比較すると、昼間に35%、夜間に65%を撃墜している。1月の夜間の撃墜数は13機の内のたった5機で、割合にして38%だったが、4月には62機の内の44機と、71%を占めている。そしてこの4か月間の指揮射撃(directed fire)による撃墜数は圧倒的で、144機中の121機、率にして84%を占めていた。
 撃墜数の合計は、幾つかの面で興味深い。まず、西部の前進陣地での防空が高い効果を維持し続けることによって、劇的な結果が出ているということである。次に、ドイツ本土の高射砲部隊も可能な限り良い装備に改善されつつあり、そしてRAFも帝国の奥深くまで頻繁に侵入してくるようになっていた。イギリスの空襲が強化された例としては、2月11日夜にブレーメンに対して79機、4月9日夜にベルリンに対して80機で、計画的な空襲が実行されたことがあげられる。そして最後に、夜間射撃の成功は指揮射撃の運用の改善と関係していたが、これは射撃用レーダーが高射砲や探照灯中隊と共に使用されるようになり、その存在感が示されるようになったからである。しかし夜間での撃墜数の割合が高い主な原因は、RAFによる異常なほどの夜間作戦の多さにある。夜間作戦の頻度の高さは、夜間の撃墜数の増加を成す重要な要素である。例えばあるドイツ空軍の研究によると、1941年の第1四半期のRAFの夜間と昼間の飛行回数の比率は40対1であるとしている。
 夜間空襲の割合が高かったにもかかわらず、指揮射撃に重点を置いて精度の向上と撃墜に必要な砲弾数の減少を成し遂げたことから、ドイツ空軍の地上防空部隊が夜間戦闘の効率的化を学びつつあった事がわかる。RAFの指導者も、この時期にドイツの防空が強化されていたことに気づいていた。4月の初めに、Peirseは爆撃が困難になりつつあることについて「濃密で正確な対空射撃から、ドイツ人共はかなりのレベルまで向上していることがわかる」と指摘している。またPortalは、4月22日付の最近の爆撃機軍団の損害に関する手紙の中で、Peirseによる損害増大についての意見を取り上げ、「我々の最近の損害の多さが、ドイツ上空を飛行する我々の航空機の飛行高度の低さによるものかどうか」質問をしている。翌日、PeirseはPortalに対して「空襲で損害を回避するには、高度を上げなければならない。対空射撃による最大の危険を回避し、戦闘機と連動した探照灯群に捉えられる事を防ぐために、16,000フィートより高空を飛行する必要がある」と回答している。
 Peirseの爆撃高度と、戦闘機と探照灯の協調に対する指摘は、2つの面で重要である。1つは、PeirseはPortalに回答をした同じ日に、爆撃作戦の指揮官であるJ.W.Baker准将(Air Commodore)から報告を受けているが、この中でBakerは、ドイツ軍の軽高射砲の有効射高は最低でも12,000フィートから最大で16,000フィートまでであるとし、それよりも高く飛行することで高射砲による損害を軽減することができると提言している。そしてこれは爆撃機軍団の高射砲連絡将校(Anti-Aircraft Liaison Officer)による、9,000フィートから11,000フィートの高度が爆撃にとって最も安全であるという報告と食い違っている。この場合では、その後の作戦報告書によってドイツの軽高射砲の効果的な高度が、37mm機関砲の初期モデルの最大射高である16,000フィートまでであるということが示され、連絡将校でなくBakerの方が正しいと証明された。2つ目として、Peirseが、探照灯が戦闘機の援護に使用されている事について議論しているということは、戦闘機の運用にはこのような地上防空システムが重要であることを示している。


高射砲と戦闘機の比較

 結局、1941年の第1四半期には、探照灯は高射砲と戦闘機のどちらもの運用を援助していた。表5.2は、1941年1月から3月までの各月毎の、ドイツ空軍の確認した撃墜数である:


表5.2
高射砲 戦闘機
1月 13 22
2月 38 95
3月 31 84
合計 84 201


期間を通して、戦闘機は高射砲の2.4倍以上の割合で撃墜している。1月は非常な悪天候で戦闘機の作戦が大きく制限されてしまい、高射砲に対する撃墜数の比率は1.69でしかない。しかしこの1月の撃墜数の比較は、とても重要な点を浮かび上がらせてくれる。戦争の初期、ドイツ空軍の戦闘機パイロットは計器飛行の訓練を受けておらず、その為に天候が悪い場合には地上で待機せざるを得なかったが、この状態は戦争を通じて継続することになった。そしてそれとは対照的に霧や雲が厚い期間は、防空部隊の効率は落ちることになるが、RAFの爆撃機との交戦が全く不可能となるわけではなかった。
 天候の悪い時期は、ドイツ空軍とRAFのどちらもの作戦に同じように影響を及ぼした。2月28日の手紙の中でPeirseはPortalに、当時RAFの主要な目標であったドイツの石油施設の攻撃が悪天候によってできなかった事を伝えている。Peirseは、1月1日から2月27日までの期間に「我々が石油施設まで辿りつけたのはたったの3回だけだった。他は6回ほど工業都市を空襲しただけであり、天気の為に年初から私の選択肢はかなり制限されたものとなってしまった。そしてこれはハノーバーに対しても同じだった。海峡沿いの港を5回しか空襲できなかったのも、全く天気の気まぐれの所為だった。」と書いている。つまりは、電波もしくはレーダー航行機器がRAF側に無く、一方で充分な数の射撃用レーダーがドイツ空軍側に無かった為に、天候の悪い期間は、攻撃側も防御側もほとんど同じ影響を受けていたと言える。


防空での組織的教育

 1941年春にドイツ空軍の上級司令部は、本土防空の効率改善のための幾つかの組織改革を実行していた。防空部隊の戦力向上の為の大きな組織的再構築は、1941年3月に行われた。1月の終わりに、第3並びに第4航空指揮区域の司令官だったHubert Weise大将は、本土防空を改良する為の航空指揮区域の組織再編に関する研究を完了した。デンマーク、ノルウェイ、そして西部における作戦が無事に終了した後、拡大した地域を吸収する為に、ドイツ空軍はノルウェイを含む第5航空管区を新たに追加した。そして第2並びに第3航空管区の拡張によって、ドイツ本土の航空指揮区域を1つの指揮下にまとめようとする動きとなった。Weiseは自らの研究の中で、本土防空の再構築のための3つの可能性について検討を行っている。まず1つ目は、ドイツ本土の全ての空軍部隊を指揮する本土航空管区(Air Region Homeland、Luftflotte Heimat)を創設するというものである。2つ目は、ドイツ本土の全ての航空指揮区域を、中間の航空管区を経由せず、ゲーリングの直接の管理下に移すというものである。3つ目は、本土防空軍(Air Defence Homeland、Luftverteidigung Heimat)という、ドイツ本土の迎撃機と地上防空のみの任務を受け持つ新しい司令部を組織するというものである。
 ドイツ空軍は2番目の、独立した航空指揮区域の指揮官をゲーリングに直属させる案を拒否したが、これは独立した防空区域を幾つも作ってしまうと、ネットワークが分散化、異質化してしまうからである。それに加えてゲーリング自身、毎日の管理業務といった平凡な仕事を嫌っており、また帝国元帥閣下の大きな負担にもなってしまうために、この計画はもとから死文化していた。3番目の案は、ドイツ本土の防空任務を受け持っている全ての部隊を特にまとめようというものであるが、航空指揮区域に補給や管理上の補助を頼っているにもかかわらず、管理上航空指揮区域を飛ばしてしまう事になってしまう。そこで、最初の案が本土防空をまとめるのに最も良い解決方法のようであったので、ドイツ空軍は「空軍中央司令部(Air Force Commander, Center、Luftwaffenbefehlshaber mitte)」を1941年3月24日に創設した。
 新しいシステムでは、本土の航空指揮区域にある全ての空軍の資産を、1つの司令部の下で集中管理することになり、これによって防空の手続(?procedure)の標準化や指揮系統の能率化が可能となった。特に、ゲーリングが高射砲兵科部門の将校だったWeiseを、新しい司令部の司令官に任命した。Weiseは西部戦線では第1高射砲軍団を指揮し、その後は第3並びに第4航空指揮区域の防空部隊を指揮していた。この「中央空軍司令官」という地位によって、Weiseは第3航空指揮区域(ベルリン)、第4航空指揮区域(ドレスデン)、第6航空指揮区域(ミュンスター)、第7航空指揮区域(ミュンヘン)、第11航空指揮区域(ハンブルグ)、第12並びに第13航空指揮区域(Wiesbaden)、そして第1夜間戦闘機師団(ユトレヒト近郊のZeist)の、全ての空軍部隊を指揮することになった。こうして空軍中央司令部の司令官として、Weiseはドイツ空軍の組織の中で変わった地位を占めることになったのである。実際に、空軍中央司令部は、航空指揮区域と主要な航空管区の間の特別な地位にあり、Weiseはドイツ空軍内の作戦用高射砲指揮官のトップとなった。
 しかしこの再構築には幾つかの問題があり、完遂できなかった。ベルリンから何百マイルも離れたオランダにあるKammhuber指揮下の夜間戦闘機師団の位置は、Weiseにとって問題の一つであった。パイロット出身者以外に指揮権を渡す事を伝統的に嫌うパイロット気質から、Kammhuberは夜間戦闘機部隊の指揮権の独り占めを望み、空軍中央司令部から独立したまま存続できるように数々の努力をした。第3航空管区の指揮官だったSperrle空軍大将も、同様の問題をWeiseに負わせた。再構築されたにもかかわらず、ほとんどの迎撃機部隊とかなりの数の地上防空部隊とが西部占領諸国に残っており、Sperrleの管理下にあった。Kammhuberと同様に、Sperrleも自分の管区の高射砲部隊の指揮権を失う事を恐れ、またWeiseの新しい司令部に自分の作戦が統合されてしまう事を嫌がっていた。そしてSperrleは、第7、第12、第13航空指揮区域での管理と人事の両方の指揮権を、実際にはそれらの部隊がWeiseの作戦指揮下にあったにもかかわらず、強引に維持することに成功するのである。
 一方で高射砲部隊の再編成によって良くなった面として、既存の防空司令部(Luftverteidigungskommandos)とほぼ同様に(?much like the existing air defence commands)、色々な航空指揮区域にある防空の重要性の高い地点(center of gravity)での編成における高射砲中隊の物理的配置が変更となった。その結果として、空港などの「カテゴリー1」の地域では、軽高射砲小隊が追加配備されることになった。更にドイツ空軍は、脅威の高い地域へ緊急に展開可能な機動予備部隊の必要性を重視し続けていた。


陸軍と高射砲

 ドイツ国内の防空の集中化は、1941年に始まったドイツ空軍の組織的戦いだけでは済まなかった。1月初めのドイツ空軍参謀総長への手紙の中で、Rudelは陸軍が空軍のレーダー計画に興味を持っている事を書いている。Rudelは、西部戦線における地上戦闘での第1高射砲軍団の成功に刺激された陸軍が、明らかに陸軍自身の高射砲部隊を作ろうと意図していることを指摘している。Rudelは、陸軍に独立した高射砲部隊の編成を許せば、空軍の高射砲部隊の隊員に実際的かつモラル的な影響が出ると、警告している(?多分に意訳)。彼は、空軍の高射砲と陸軍の高射砲の間の開発と協調とは、「完全にバラバラになる」だろうと強調し、また一方で、「これによって陸軍は良好で効果的な任務を負う事になり、空軍の高射砲部隊は[潜在的な募兵にとって]望ましくない事になる」と見ていた。Rudelはさらに続けて「高射砲部隊の尊敬とモラルは大きく損なわれるだろう」と言っている。しかし陸軍の指導者から言い逃れる事は、そんなに簡単なことではなかった。1941年の春の初めには、国防軍はソビエト連邦への侵攻作戦、バルバロッサの最終的な準備を行っていた。陸軍の指導者は、バルバロッサ作戦の規模の大きさを理解しており、これを独立した陸軍の高射砲を求める口実の一部として利用した。
 4月に、Steudemann大将はRudelに対して、独立高射砲旅団に関する陸軍の提案への彼自身の評価をまとめた報告書を提出した。当然のことながら、この18ページの報告書においてSteudemannは陸軍の提案に対する強力な言い分を述べ、また幾つかの主張を行っている。まず彼は「この点における全ての可能な経験を考慮すると、陸軍の高射砲大隊の訓練レベルが充分な域にまで達することは決して無い。また陸軍の高射砲大隊は、例えば陸軍砲兵などの他の兵器兵科に所属している限り、訓練が熟達することもないだろう」と言っている。それからSteudemannは「集中管理されることによって、前線と本土における防空は信頼の足る機能となる。…たった1つの決定のみが成功を約束するのであり、それは陸軍か空軍かの選択であり、陸軍と空軍による妥協ではないのである」と主張している。Steudenmannは報告書を、防空部隊の開発、訓練、そして装備といったことだけでなく、防空の作戦運用の任務についても引き続き空軍が行うべきである、という結論でまとめている。しかし彼は、フランスや低地諸国との作戦において行われたように、空軍部隊が陸軍作戦の支援に使われる事には同意している。少し経った後で空軍の主張が認められた。5月8日にMilchはヒトラーに対して陸軍の提案について説明を行い、その後、ヒトラーは陸軍の独立高射砲大隊の創設に反対している。
 高射砲における官僚的混乱の中で、陸軍は戦いにこそ負けたものの、戦争には勝っていたのである。実際には開戦以降、陸軍は少数ではあるものの高射砲部隊を管轄下に置いていたのである。1941年2月には、陸軍は陸軍部隊の防空を行う為に、20mm機関砲と37mm機関砲の自走砲を主として、それに若干の88mm高射砲中隊を加えた事実上の高射砲大隊を持っていた。それに加えてRerikにある空軍の高射砲学校で何人もの陸軍将兵が防空任務について学んでいた。陸軍はまたソビエト侵攻までに、司令部付中隊1個、88mm高射砲中隊2個、そして20mm高射機関砲中隊1個で構成される陸軍の機械化高射砲大隊を約6個作っている。ただこの部隊は、射撃指揮装置と高性能な航空機追尾システムの不足から対空戦闘での機能に支障があり、もっぱら地上戦闘作戦に使われることになったが、この状況は陸軍指導者の望むべきものであった。それでも陸軍の独自の高射砲部隊を持ちたいという欲求は留まる事を知らず、遂には1941年の秋に陸軍の機械化砲兵連隊に、2個重高射砲中隊と1個軽高射砲中隊で構成された第4大隊を追加するという形で、この望みが叶えられるのである。


1941年の高射砲と地上戦闘

 陸軍の高射砲に対する執念は、いくつかの面において完全に理解が可能である。北アフリカ、南東ヨーロッパ、そしてソビエト連邦での軍事作戦において、地上作戦を支援する高射砲部隊の効果が、再度知らしめられることとなったからである。例えばゲーリングに対する報告書の中で、陸軍に付属していた空軍大将(General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber des Heeres)は、北アフリカの砂漠をめぐる戦いにおいて、高射砲部隊が「必要不可欠な対戦車兵器」となっていることを指摘している。事実、1941年の終わりまでに、アフリカ軍団の2個の空軍高射砲大隊は、264台もの戦車と、たった42機の航空機を破壊している。それに加えて6個混成高射砲大隊と9個軽高射砲大隊は、13機の航空機と7台の戦車、30ヶ所のトーチカ、そして1ヶ所の戦車工場を南東ヨーロッパ戦線で破壊している。しかし、空軍の高射砲部隊が最も印象的な成功を収めたのは、東部のロシア戦線においてであった。1941年の終わりまでに、30個空軍混成高射砲大隊と11個軽高射砲大隊はソビエト連邦との作戦において、1,891機の航空機に926台の戦車、583ヶ所のトーチカという驚くような数の目標を破壊しているのである。ただし、高射砲部隊が活躍したこうした作戦におけるドイツ空軍の損害も大きく、合計で385名の将校と7,238名の兵が戦死している。
 1942年2月28日のゲーリングに対する報告書で、陸軍に居た空軍の連絡将校はロシア戦線における高射砲部隊の効果についての評価を次のように行っている:

ロシア戦線においては防空戦闘ではなく、ロシアの戦車や地上目標に対する陸上戦闘での運用が日増しに大きくなり、全ての種類の高射砲の主要な任務となりつつある。一時的に防空任務に使われるだけで、ほとんどの高射砲部隊は陸軍司令部によって対戦車防御やトーチカの破壊、歩兵攻撃などに使用されている。高射砲部隊は防御線における決定的な地位を成すことも多く、陸軍の防御での主力となっている。

高射砲部隊の成功は、ヒトラーと彼の軍事計画者によって期待されていた早急な勝利を国防軍が達成できなくなった時に、逆効果(mixed blessing)となってしまった。東部戦線が消耗戦となった為に、陸軍は自分たちで促成した高射砲部隊だけでなく空軍の高射砲部隊に段々と頼り始めるようになったが、親衛隊ですら1940年8月に高射砲大隊を創設することとなった。そして、本土防衛から転換された高射砲部隊や高射砲兵器の相当な数が、ロシア平原で消えて行ったのである。事実、東部戦線で余りに人員と機材とを消耗してしまった為に、空軍の地上要員や設営要員、通信部隊、そして高射砲部隊によって構成された防空部隊を、急速に育成しなければならなくなってしまったのである。


主導的高射砲理論家の喪失

 国防軍がロシア戦線に深く浸かっていた1941年の夏に、ゲーリング、Rudel、そして空軍参謀総長だったHans Jeschonnek大将との間で行われた官僚的権力闘争も、終末を迎えようとしていた。5月の終わりに、RudelはJeschonnekに対して、対空兵器の試験と開発に関する問題が自分の部局を素通りしてしまっていると不平を述べている。Rudelは空軍の参謀本部が彼と相談なしに高射砲兵総監局と直接作業していることを責めていた。更にRudelはJeschonnekにその事をゲーリングに話し、ゲーリングの支援を得る約束を取り付けた事も知らせた。実際にRudelの参謀本部に対する非難は正しかったが、しかしRudelの空軍内での影響力は6月から実質的に失われていた。それよりも早い時期である1月5日の手紙の中でRudelはJeschonnekに対して、1940年9月のベルリンに対するイギリスの空襲と、それ以前の夜間作戦における防空部隊の失敗の責任とを、ゲーリングが自分に押しつけようとしていると、苦々しく指摘している。Rudelは自分と参謀本部との関係は「確立され良好」であるにもかかわらず、例え防空兵器の将来にとって「かなり重要な」な問題ですら、ゲーリングはその決定プロセスから自分を排除しようとしていると言っている。そしてRudelは現在の環境下における自身の部局の必要性を問い、彼自身の任務の解任を提案したもののゲーリングに拒否された事をJeschonnekに伝えた。
 6月28日に、Rudelがヒトラーの司令部の高射砲に関する助言者(?flak advisor)に任命されたという噂が流れた。それから3日後にRudelは、参謀本部に要求されていた航空大臣とドイツ空軍司令官(?ゲーリングの事?)に属している高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)としての彼の地位の、公的な解任請求を受け入れた。7月7日に、ゲーリングは空軍の兵器システムの開発と調達に関する全ての仕事を、技術局(Technical Office、Generalluftzeugmeister)の局長だったErnst Udet大将に移管した。Rudelは1942年9月までは人気が残っていたが、Udetとの戦いに負けてしまった。こうして、Rudelの対空兵器開発に関する決定への影響力は、実質的に無くなってしまった。その結果としてゲーリングの参謀からも辞めざるを得なかった。このRudelの栄光からの転落によって、その主要な防空理論家であり戦術家、そして地上防空の問題で防空の指導者を変革するに十分な個性を持った人間を、ドイツ空軍は失うことになったのである。数年先を行っていたRudelの先見性と技術的能力も、同じく失われてしまった。
 Rudelが居ても居なくてもドイツへの空襲は続き、1941年の夏には空襲の頻度と激しさが大きく増し始めた。4月以来、イギリスの航空参謀部と爆撃機軍団の指導者は「空襲の激しさを耐えられない頻度まで上げる」為に、より多くの航空機を空襲に参加させるべく議論を行っていた。その結果としてRAFは、必要な中爆撃機と重爆撃機の戦力の拡張計画を、3月までに388機、7月までに449機、そして年末までに569機へと引き上げた。すでに5月には、ドイツの都市はRAFによる攻撃強化の影響を受け始めており、5月3日夜にはケルンが100機を越す空襲を、また特に5月8日夜には、ハンブルグが188機、ブレーメンが133機の爆撃機によって空襲されていた。
 日増しに増加するRAFの空襲に対して、ドイツ空軍の地上防空部隊は夜間作戦での効率の向上を実施し続けていた。空軍は約2,400機にも上るドイツの各種軍用機を使用した聴音機部隊の大規模な試験の結果を、5月に公表した。その報告書によると、「探照灯が分散配置された」場合には、全体の21%の時間、航空機の充分な情報を聴音機が提供できていたが、複数の探照灯に位置を指示した場合には、たった2%の時間しか目標に正しく指示することができていなかった。それに加えて試験では、聴音機の操作員の60%が目標の高度を低めに、56%が目標の距離を遠めに捉えていた。分析では、こうした状態下で目標を補足する見込みは、「明確な探知手法の実行が無ければ」、「かなり低い」ものにならざるを得ないとしていた。そして最後に、航空機の位置を実際の高度よりも低く探知する傾向に基づいて、探照灯は照射作業を、聴音機からの報告よりも大きめの高度から始めるべきであると結んでいる。聴音機は夜間射撃の問題の解決策としては充分ではなかったものの、射撃用レーダーの数が不足していた為に、機能が制限されていたにもかかわらず絶対に必要なものであった。
 1941年にドイツ空軍は探照灯中隊に関する幾つかの結論も出している。1941年1月の報告書では、「経験から、正面幅間隔(horizontal)が4km、奥行間隔(vertical)が8kmを越す探照灯の配置では上手くゆかない」としている。この報告書では、正面幅間隔は最大で3km、奥行間隔は最大で4kmを推奨している。また空軍中央司令部の司令官であるWeise大将も、この研究の推奨と同じく、照空中隊の要員の訓練の強化と共に探照灯陣地の間隔を3から4km以内に制限するよう指示している。こうした手法により効率は明らかに上昇し、Weiseは1941年4月の日課命令(?daily order)の中で探照灯要員の行動を賞賛している。
 以前に触れた通り、探照灯中隊は高射砲だけでなく、夜間戦闘機の活動にも1941年を通じて重要な役割を担っていた。9月までに、夜間戦闘機が探照灯と共同で撃墜した航空機の数は325機だったが、夜間戦闘機がレーダーの指示による非照射状態下での撃墜数はたった50機だけであり、6.5対1で探照灯による支援下の方が優勢であった。この探照灯と非探照灯の撃墜数の合計は、ドイツ空軍の夜間迎撃における2つの戦略の並立を反映している。ドイツ空軍は西部占領諸国に夜間戦闘機区域を設定し、ここでは探照灯の照射を行わずにレーダーによる捕捉のみで迎撃を行い、一方で本土西部の第二線地域と首都ベルリンの周辺に夜間戦闘機区域を設定し、ここでは探照灯によって幅5〜12マイルの照射地帯を設け、空軍の戦闘機がRAFの爆撃機を識別、攻撃可能にしていた。
 1941年の中旬でのレーダー管制による夜間戦闘機の運用は、多くがヒンメルベット(Himmelbett)手法に依存していた。この手法は、1機の夜間戦闘機がある特定の区域を飛行しており、レーダー管制機は離れた場所にあるレーダーから目標と戦闘機の位置の情報を受け取り、それによって迎撃の調整を行うというものである。大きな欠点は、このシステムでは設定区域内に常時1機の迎撃機しか配置できないというものである。RAFは早速この欠点を逆手に取り、同一空域に爆撃機を短い間隔で大量に送りこみ、ドイツ側の防御能力を飽和させた。地上のレーダーによる迎撃に加えて、ドイツ空軍は赤外線追尾装置(Spanner)を夜間戦闘機に搭載し、それによってイギリス軍の爆撃機のエンジンの排気熱を探知しようとしたが、この装置の探知距離は極端に制限されたものであった。そしてついに、航空部隊の技術者は、航空機に搭載した3基のディスプレイで爆撃機の位置を測定する、機上レーダー(Lichtenstein)を開発した。この装置は複雑ではあったものの、1941年8月にはは幾つかの最初の成功を収め、生産が拡大されることになった。地上レーダーや機上レーダーによる非照射状態における迎撃態勢が整えられつつあったものの、探照灯も引き続き夜間迎撃において重要な役割を担い続けた。そして後に戦争が進展して主要都市や工業地帯の防御にも照射による夜間戦闘機の運用が拡大することになると、ドイツ本土は探照灯による防御の集中化が拡大する地域となった。
 1941年夏にドイツ空軍の地上防空部隊は、前線と本土全面の両方において、もう一度その実力を示した。表5.3は1941年5月から8月までの高射砲による撃墜数の一覧である。


表5.3
月(1941年) 昼間 夜間 昼夜合計
5月 6 29 35
6月合計※1 184 22 206
6月西部※2 36以上 15以上 58
7、8月合計※1 1,707 98 1,805
7、8月西部※2 89 32 121
8月西部※2 100 44 144
総合計 2,122以上 242以上 2,369
(※1with USSR losses/※2without USSR losses)


この表で明らかなのは、ソビエト連邦での作戦における侵攻の初めの3か月間に、ドイツ空軍の高射砲部隊が劇的な結果を出しているということである。しかしそれと同じくドイツ本土や西部の部隊も撃墜数を増やしているのである。例えば、空軍中央司令部(Air Commander, Center)下の部隊では、5月に6機、6月に10機、7月に22機、そして8月に33機を撃墜している。同様に、ベルギー、オランダ、そしてフランスでは、5月に13機、6月に45機、7月に80機、8月に70機を撃墜している。それに加えて、ベルギーと北フランスの探照灯部隊は、照射によるパイロットの混乱によって事故を誘発させて、2機を撃墜している。
 ドイツの防空部隊が成果を増加させていた7月と8月に、RAFの爆撃対象の重点も変更がなされていた。7月9日の指令で、爆撃機軍団は将来の空襲目標を「ドイツの輸送システムの混乱と、市民全体と特に労働者のモラル破壊」と指示し直した。RAFが攻撃の目標を市民のモラル低下を決断した理由の一つは、爆撃機乗員達の惨憺たる結果を認識していたからである。1941年8月、D.M.Buttは、6月2日から7月25日までの期間に実施された幾つかのRAFによる100機以上の空襲の結果を徹底的に評価した。目標の爆撃後の航空写真を調査したところ、正しい目標から5マイル以内に爆弾を投下できたのは、派遣された全ての航空機の乗員の5人に1人にも満たなかったことがわかった。更に、建物が密集し、霧に覆われていたルール地方においては、この結果は更に悪くなって10人に1人となってしまうのである。
 夏の最初の2か月間のイギリス軍の爆撃の精度の悪さには、幾つかの原因がある。まず、イギリス軍は目標の位置を正確に測定可能な航行システムを持っていなかった。次に、RAFの損害数が増加している事から判るように、ドイツの戦闘機と防空部隊がより効果的になりつつあった。高射砲の効果の面については、Buttは報告書の中で、「強力な」対空射撃が行われている地域では、目標の5マイル以内で投弾できた爆撃機はたった20%でしかないと指摘している。1941年3月末までの爆撃機の損害の合計はたった181機だったが、これが6月の終わりには541機に増加し、9月末にはは1,170機にまで増加するのである。当然にこの損害数の中には戦闘外の事故やトラブルといったものも含まれていたが、この時期のRAFの損害の多くが、ドイツの防空の直接的もしくは間接的な原因に依っているのは明白である。


偽施設、第2幕

 イギリスの爆撃機部隊の成績の悪さのもう一つの原因が、ドイツ空軍が運用を続けていた偽施設によるものであり、これによってRAFの乗員を本来の目標から遠ざけたのである。例えば、7月にStuttgartとKarlsruheの近郊の偽施設に対して、RAFは全体の55%の高性能爆弾と69%の焼夷弾を投下している。8月には、第7航空指揮区域の域内において、38%の高性能爆弾と31%の焼夷弾を偽施設で無駄にしている。他の顕著な例では、1941年のベルリンに対する空襲において、RAFは街そのものに対する投弾量の、43倍の高性能爆弾と47倍の焼夷弾とを偽施設に投下している。このベルリンの例では、偽装作業者によって街の通りやランドマークを隠蔽して、街の中心部の空からの景色を離れた場所に移した為に、灯火管制の状況の中で爆撃機の乗員の視覚による判別を極めて困難にしたのである。
 欺瞞と偽装の手法の面において、RAFはドイツ空軍の活動を確実に捉えてはいなかった。実際に、Portalはチャーチル首相へ10月にベルリンの防空の状況についての報告書を送っている。Portalはこの中で、「ベルリンの多数の探照灯が強烈に眩しく照らし、そしてドイツ人は継続して手の込んだ欺瞞と偽装のシステムを改良している。これらの理由から、乗員は自らの正確な位置と、目標への最適なコースとを決定するのに時間をとられている。」と言っている。1941年の秋にかけては、偽施設は比較的少ないコストでかなりの配当を出し続けた。その結果、9月の初めに、第7航空指揮区域の空軍の建設員は、2か所の新しい偽施設の建設にとりかかった。表5.4は、9月から11月にかけて第7航空指揮区域内の偽施設に投下された爆弾の総数をまとめたものである。


表5.4
月(1941) 高性能爆弾の率 焼夷弾の率
9月 53% 41%
10月 37% 28%
11月 28% 11%


1941年の秋を通して偽施設への投弾の割合が減少していることから、RAFの乗員が偽施設の識別により適応し始めたことがわかる。ドイツ空軍の11月の作戦報告書(?after-action report)ではこの傾向について「パラシュート付き照明弾を相当数使用することが再び顕著になってきたが、これは敵が偽施設を考慮するようになり、偽施設を認識しようとしていると見ることができる」と主張している。
 1941年の夏には、RAFは爆撃精度を向上させる為に電波誘導システムの開発をほぼ終えていた。しかしこうした努力にもかかわらず、爆撃機軍団はエッセン付近のクルップ社の工場を模して作った偽施設を1943年まで正しく識別できず、その間に64%の高性能爆弾と75%の焼夷弾をこの偽工場に投下していた。それに加えて、ベルリンはこの新型の電波誘導装置の圏外にあり、ベルリンの周辺に造られた16ヶ所もの偽施設は戦争を通じて大なり小なり効果を上げたのである。またベルリンの近郊には、沼や湖に滑走路の照明を浮かべた偽空港も造られていた。大体において、この偽施設は戦争の末期までイギリスの夜間作戦を悩まし続けたのである。宣伝大臣のJosef Goebbelsは1941年7月の日記に偽施設の成功について痛烈に指摘している「RAFが専ら偽施設と関係している為、彼らによる大げさな勝利宣言を我々は否定できない。イギリスによる統計は総合すると奇妙なものになってしまっている。しかし恐らく彼ら自身はそれを信じている。彼らは我々に一息入れる暇を与えてくれている」9月7日にGoebbelsは再び、「イギリスが主に偽施設を攻撃している為に
」宣伝省がイギリスによるドイツの西部と北西部にでの爆撃成果の主張を否定できないことを書いている。あるドイツ空軍の報告書は、ドイツの夜間防空の建設の中での偽施設の果たした役割を「決定的であった」とまで書いている。


高射砲と一般的な意見

 RAFが市民のモラルの急所を攻撃しようとしていたにもかかわらず、1941年8月くらいまではイギリスの空襲はドイツ市民にとってやっかい程度のものでしかなかった。8月21日にアウグスブルグの警察署長は、市民がイギリスの空襲に対して平気であると指摘している。警察署長は「人々は空襲に無関心である。ほとんどの人は空襲警報が昼間に鳴るかもしれない事を信じていないし、昼間の空襲の可能性は言うまでもない。」と見ていた。仮にアウグスブルグの市民が空襲から孤立していた為に無感動であるのであれば、爆撃機軍団に何度となく空襲されているベルリンやハンブルグの市民には同じ事が言えない筈である。しかし1943年一杯までは、ベルリンでは郊外に集まった群衆が空襲を見物し、中には爆撃機が爆弾を投下している横でダンスをしていることもあった。実は、外に集まって高射砲と爆撃機の戦いを見物するのは危険なことであり、炸裂した高射砲弾の破片が、文字通り「甲高いオルガンのコンサート」のようにドイツの都市の上空を音を立てながら落下してくるのである。こうした高射砲弾の破片はドイツの小学生の人気の的となったが、空襲の間にヘルメットや防護服も着けずに野外に出るという馬鹿な事をすれば、簡単に怪我をすることになり、もしくは致命的な傷を負わせられることにすらなるのである。
 空襲の妨害や防空効果の改善などで防空部隊は概して成功を収めていたものの、高射砲兵の指導者は市民からの不平に極度に敏感であった。高射砲通信(Flak Newsletter)の11月号に掲載された記事では、市民の高射砲部隊に対する憤りに触れている。記事の著者は「たとえそれが不当なものであっても、市民はドイツ中の、敵の攻撃による全ての損害は高射砲の責任であるとしていることが多い。」と不平を言っている。著者はこうした市民の態度が、新兵を防空部門へ配員する際の障害になりうると警告している。その結果、効果を強調した話や「高射砲兵の本当の成果」を伝えることにより、市民が高射砲に対して抱いている悪い印象を解消するプロパガンダキャンペーンを開始することになった。1941年4月に高射砲兵総監のSteudemann大将もまた、高射砲兵をもの笑い(Volkswitz)の的とする感情が存在している事を強調している。Steudemannは更に、こうした種類の人々のユーモアによって、高射砲兵が公的な場で制服を着ることに困惑を感じる原因にすらなっていると、強く主張している。
 確かに、高射砲部隊に関するジョークは戦争中流れていた。その中の最も辛辣で、だからこそ最も人気があったものは、死刑の宣告を受けた兵士が死刑の方法を選択するという話であった。そのジョークの中で、(捕えられた)ゲリラ兵(apocryphal soldier)は対空射撃での死刑を選択する。兵士は、3ヶ所の高射砲陣地の中心に建てられた塔の上で、3ヶ月間射撃を受け続けた。3ヶ月後、果たしてその兵士は死んでいたが、それは高射砲によるものではなく餓死によるものだった、というものである。しかし、戦争中の人々のブラックユーモア(?gallows humor、非常に深刻な事態をネタにしたユーモア、訳語無し)の中にある重要性を誇張しすぎないようにしなければならない。米軍戦略爆撃調査団の調査によると、戦争が終わりドイツが降伏して都市が瓦礫になった後でも、15%の市民が防空を「充分」、34%が「戦争初期のみ充分」と見ていたのである。千年帝国の廃墟に立ってすら、戦争の初期に地上防空を充分と見ていた人の割合が49%もあった事実は、人々が防空部隊の初期の能力にある程度満足していた事を示しているといえる。


弾幕射撃の賛否両論(the pros and cons)

 1941年秋にも防空部隊は急速に拡大しつつあった。この時点で高射砲戦力は、重高射砲中隊967個と軽高射砲中隊752個であった。それでもヒトラーは、9月に更なる地上防空の規模の拡大を命令した。例えば1941年9月15日から10月15日の間に、防空部隊は105mm重高射砲中隊が5個、37mm軽高射砲中隊が4個、20mm軽高射砲中隊が5個、そして鹵獲した40mm高射砲中隊が2個、そして150cm探照灯中隊が1個増加していた。そして同じ期間に、ドイツ空軍は49個の「弾幕射撃」中隊(barrier fire batteries、Sperrfeuerbatterien)を追加していた。この弾幕射撃中隊は、質的向上が量的拡大に追いついていない事を全く現わしている。こうした中隊では最も基本的な光学測距儀ですらほとんど欠けており、質より量の明確な例となっている。そして、こうした部隊の賛否両論についての綿密な分析によって、弾幕射撃の手法や究極的な効果の評価をより丁寧に行うことが可能となる。
 弾幕射撃中隊創設の動きは、高射砲部隊の効果を測る為の標準に関しての、広い議論を反映している。撃墜数のみが防空部門の効果を構成するのか、それとも単に爆撃機の正確な攻撃を妨害する能力こそ高射砲の効果を測る手段となるのか?。1941年の終わりまでのRAFの空襲に対する防御での経験では、弾幕射撃の実際の唯一の利点が空襲の妨害と、それにより爆撃機の高度を上げさせ攻撃意図を消失させるという効果のみにある事が、明らかであった。実際にドイツ空軍から反対されていたものの、ヒトラーはこのような役割での高射砲の利用の提唱者であった。それに対して弾幕射撃手法の大きな欠点は、弾薬の消耗量の高さにあった。Milch達は、弾幕射撃の運用を非効果的で限られた資源を無駄にするものとして批判していた。Milchは実際に戦争を通して、高射砲については頑固な悲観主義者であり、高射砲指揮官をいびったり地上高射砲部隊の効果を誹謗することを大目に見ることもあった。そしてMilchは戦争中、一貫して高射砲よりも戦闘機を生産すべきだとしていた。Milchの高射砲に関する態度の原因を見つけるのは難しい。しかしMilchの高射砲嫌いは単純に、元砲兵将校としての、高射砲は一般的な大砲の「私生児」であるという軽蔑と、第一次世界大戦時に空中観測を経験した彼の、飛行機への強い贔屓からきたもののようである。
 最終的な分析から、弾幕射撃に関係する議論で取り上げられる長短は、どちらも部分的には正しいといえる。弾幕射撃では膨大な弾薬を消費するが、しかし時間という面と、その役割と優勢な状況とを考慮して見なければならない。まず、弾幕射撃中隊のほとんどが、フランスやロシア、チェコ等で鹵獲した高射砲と機器を装備していた。この面において、鹵獲砲はドイツの弾薬に適応させる為に改造するか、もしくは鹵獲した弾薬の貯蔵品を使用する事ができたので、鹵獲兵器の使用は資源の大きな転換を要求しないのである。他の手法を採れば、それでも幾らかの資源の割り当てが必要となる事から、新しいドイツの高射砲を数百門、いや数千門製造するよりも、投資は比較的に少なく済むのである。その上、鹵獲した高射砲の品質が高い事も判明した。1941年7月に、ドイツ空軍はロシアの高射砲装備を調査し、国防軍で使用可能か評価する為の特殊部隊、空軍高射砲参謀(東部)(?Luftwaffe Flak Staff)を編成した。そしてドイツ空軍の予想に反して、鹵獲された兵器は例え単純な設計であっても高品質である事がわかったのである。次に、弾幕射撃中隊の殆どは、ドイツ本土にある偽施設での作戦に従事していた。偽施設は、イギリスの爆撃機軍団を上手く引き寄せる為に高射砲陣地を見せつけなければならなかった。その為に弾幕射撃中隊は、この作戦で短い時間に濃厚な射撃を行わなければならなかった。それに加えてこうした中隊は、未熟な高射砲兵が戦闘状況下で高射砲の運用の基本を学ぶための場でもあったのである。そして最後に、射撃指揮装置や射撃用レーダーを含めた、光学照準システムの不足は、大きな地方都市も防御する必要性が高まってきたこととも合わせて、弾幕射撃中隊を既存の部隊の補助として運用せざるを得なくした。以上の事から、こうした中隊が都市の防御に効果があったと見ることが可能であり、そして爆撃機の乗員に対する効果に加えて、空襲の間、住民にとってのある意味、精神的な満足と防御とになっていたのである。
 弾幕射撃の例は、地上防空システムの特殊部分の評価に関連した多くの面を、上手く表している。探照灯中隊が高射砲と夜間戦闘機の両方を支援していたように、弾幕射撃中隊の運用も、特に偽施設の効果向上といった防空の他の部分に直接影響を及ぼしているのである。更にドイツ空軍は、鹵獲した高射砲を偽施設で使用することにより、高性能な機器や高射砲を他の場所に分配し、ドイツ本土の他の地域に防御範囲を広げる事が可能となったのである。最後に弾幕射撃中隊は、イギリス軍の空襲の際に、ある意味精神的満足をドイツ国民に与えているが、これは重要な、定量化できない効果である。


防空の改良のための技術的独創

 1941年秋に高射砲部隊の指導者は、地上防空の効率向上のための手段を探し続けていた。その回答の1つが、既存の機器と兵器の能力向上である。1939年に、より高度を上げつつある爆撃機への対策とドイツ空軍のより高性能の移動式重高射砲をという要求から、88mm高射砲の改良型の開発契約がラインメタル社と結ばれた。そしてラインメタル社は1941年に88mm41型(88mm/41)の試作品を開発した。この41型は幾つかの新しい設計を取り入れることで効率が向上されていた。例えば、ターンテーブル架台を採用することによって(仰角の)軸を後方と下方に移動させ、対地上戦闘の際に砲のシルエットを極度に低くすることが可能となった。また砲身を3つの内装砲身(Seelenrohr)に分割し、均質でない損耗による砲身部品の個別交換を可能とした。砲身全体を交換することと比べて、砲身の必要な部分のみを交換する事により、資源を節約することが可能になっていた。
 この新しい高射砲の最も重要な改良点は、最大射高48,500フィート、最大有効射高33,000フィートという、その群を抜いた弾道性能であった。更に41型の射撃速度は毎分20から25発、砲弾の初速は3,315フィート/sになっていた。新しい高射砲は、最大有効射高と初速とで既存の88mm高射砲の性能から20%も向上しており、更にはより大口径の105mm高射砲の弾道性能よりも優れていた。高射砲開発局(Flak Development Office)の元局長だったvon Renz大将は、この41型の性能を「128mmや150mm高射砲に匹敵する」とまで言っている。しかしRenzは、この砲の生産が1942年まで遅延したことから、Albert Speerの軍需省で先見の明の無い技術専門家として非難されることになるが、この生産遅延の原因は、既存の88mm砲と比べて1門当たり220ポンドも余分に資材を必要としていたからであった。こうした開発初期の困難や生産の遅延による苦しみにもかかわらず、41型は後に戦争中の無差別級(pound-for-pound)最優秀高射砲となるのである。


防空ドクトリンの評価

 兵器や機器の性能向上に加えて、防空部局(air defence branch)は重高射砲中隊の砲数の増加を含めた、戦術レベルの組織再編成の試みを開始していた。ある歴史家によると、中隊の砲数を6門、8門、さらには10門にまで増加することを最初に提案したのは、ゲーリングだった。1941年の秋にドイツ空軍は、標準の中隊が4門編成であるのに対して、8門で構成した実験部隊を組織した。この部隊では、砲は7門が円周上に、そして8門目が円の中心部に配置されていた。Walther von Axthelm高射砲兵大将(General of the Flak Artillery)によると、こうした「二倍中隊(double batteries、Doppelbarrerien)」が「航空機の撃墜において一定の能力向上があった」としているが、空軍の指導者の期待したレベルにまでは達しなかった。これと似た手法として、ドイツ空軍は1941年末に、多くの重高射砲中隊にそれぞれ2門の高射砲を増加した。この際の陣地での砲の配置だが、追加された2門を伝統的な正方形の配置の対角(opposite corners)に置くか、もしくは5門を円周上になるようにして6門目をその円の中心に配置するかのどちらかであった。この例の1つとして、ドイツ空軍は1941年12月にミュンヘンの周辺の防衛に、幾つかの6門編成の重高射砲中隊を編成している。
 1941年の時点で、ドイツ空軍は高射砲と迎撃機の協調運用を重視し続けていた規定第16号(Regulation 16)の訓告を出したままであった。1941年12月に行われた兵棋演習では1944年の状況設定がされており、連合軍による西部での地上からの反攻も含まれていた。演習中の興味深い事象の1つは、どのような状況下でも、戦闘機と高射砲部隊による共同手段(?procedure)を重視していたことである。しかしこの報告書の最も重要な事は、この演習が地上防空側によって準備されたものではなく、むしろ航空部隊によって共同して作られたシナリオだということである。この演習は、ドクトリンでの高射砲と戦闘機の協調重視が双方の感情をなだめるように作られた、ただの見せかけ(window dressing)ではなく、むしろこの協調のコンセプトが双方の計画や任務遂行に不可欠なものである事を示している。そしてこの演習はまた、現在の防空が戦闘機かそれとも高射砲かという二者択一なものとしようとしている事が、誤った二分法(dichotomy)であることを表している。このように、Milchのような人が防空に関する議論を高射砲と戦闘機のどちらか一方という型にはめようとしていたものの、高射砲部隊の上級指導者は両者協調の必要性を明らかに認識していたのである。
 しかし1941年末の時点では、ドイツ本土の防空の中心は明らかに地上の高射砲と探照灯部隊か、もしくは迎撃機かという状態のままであった。そしてドイツ空軍の昼間戦闘機部隊は東部戦線に集中しており、1941年の終わりまでドイツ本土に配備されていたのは1個飛行団だけであった。それとは対照的に、ドイツへ侵入する敵機を防御する、もしくはドイツ上空を守る夜間戦闘機の数は250機を越していた。ドイツ本土における空軍が昼間戦闘機よりも夜間戦闘機に重点を置いていたのは、その時期におけるRAFの空襲が夜間に集中していたからである。1941年の7月から10月までの間にドイツ本土と西部諸国に対して実施された夜間空襲の数は、昼間空襲の2倍であった。11月と12月になっても比率は変わらず、夜間が2,589回、昼間が1,243回であった。イギリス軍の空襲に加えて、8月と9月にはソビエト軍の爆撃機と雷撃機とが不意を突いてベルリンを70回以上空襲し、宣伝ビラと高性能爆弾を投下した。ソ連軍の空襲による被害は軽微であったが、しかしその結果、ドイツ空軍は幾らかの防空機材を短期間ではあるもののベルリン東部へと振り向けなければならなくなった。


高射砲の効率の評価

 1941年末までの1年間に、地上防空部隊が大幅に進化した事は確かである。表5.5はドイツ本土と西部諸国における、1941年9月から12月までの高射砲による撃墜数をまとめたものである。


表5.5
月(1941) 昼間 夜間 合計
9月 115 45 160
10月 52 47 99
11月 33 41 74
12月 16 33 49
合計 216 166 382


この表から、夜間においても高射砲による撃墜数が比較的一定を保っていることがわかる。更にこの事は、RAFの夜間作戦に参加した航空機の、3.76%が9月に、2.51%が10月、4.01%が11月、そして2.47%が12月に高射砲によって撃墜されたという事を裏付けている。41年の後半の半年間に、ドイツ本土と占領下の西部諸国において、昼間に405機、夜間に242機の合計647機が高射砲に撃墜されている。それと対照的に、ドイツ空軍の夜間戦闘機が1941年に撃墜した合計数は421機である。しかも、これらの合計数には、東部戦線における、特に10月から12月までの空軍の高射砲部隊による1,325機の撃墜数は含まれていない。
 ドイツの地上防空は、イギリスの爆撃機軍団の成長の切欠となった。1941年9月23日の手紙の中で、PeirseはPortalに対して「日増しに脅威の度合を増している敵の探照灯と高射砲への対抗策に関する実験を、敵の領空で実施する自由裁量権を与えられているかどうか、昨日の午後に君に尋ねた」と書いている。そしてPeirseは、高射砲と探照灯陣地への指示に使われているドイツ軍の射撃用レーダーを混乱させる「金属物」の投下に関する試験を、開始させてくれるよう要求している。それに対してPortalは9月30日の手紙の中で、作戦研究局(Operational Research Section)のSir Henry Tizardにその研究を依頼していると答えている。しかしPortalは、「Tizardは、そうした実験を実行するかどうか決定する前に、敵の探照灯が本当にR.D.F.(radio direction finding、電波方向探知)手法を利用して精度を向上させているかどうかの証明を行うべきだと考えている。Tizardはまた、その実験を実行することが、そのまま敵が我々自身の防御を打ち破る手助けとなりうることを考慮すべきだと考えている。」と警告している。
 1941年秋にPortalとPeirseとの間で交わされた手紙から、後に「ウィンドウ(Window)」として知られる事になる、新しいレーダーの対抗手段が存在していたことがわかる。ウィンドウの原理は、長細いアルミニウム片の束を使う事で、この破片からの反射波が雲のようになり、これによって個々の航空機の位置を判らなくしてしまうというブランケット効果により、ドイツのレーダーを妨害するというものである。Peirseの手紙からはまた、1941年末までのドイツの地上防空の効果が向上している事と、作戦の損害を少なくする為に新しい対抗手段が必要だとPeirseが考えていた事とがわかる。結局、この簡単だが効果の高い対抗手段をドイツ軍も使用するようになる事への恐怖が、作戦の損害を軽くする事よりも優先され、RAFの指導者はこの時点でのウィンドウの導入を我慢する事を決断する。
 1941年に高射砲部隊が概して成功を収めていたことと、イギリス軍による空襲が軽微であったことが、ゲーリングが元戦闘機パイロットでありながらドイツ本土の戦闘機部隊の拡大に熱心でなかったという矛盾を説明できるだろう。既に8月に、戦闘機部隊(?Fighter Arm)のトップであるWerner Molders大将と、夜間戦闘機部隊のトップであるJosef Kammhuber大将、そしてJeschonnekがゲーリングに対して、特に東部戦線での航空機の損害の増加に対応して、戦闘機部隊の規模を拡大する提案を行っていた。しかし楽天家のゲーリングはこれに対して、「ロシアはすぐに降伏する。そうなれば戦闘機を西部へ戻す。これでいいではないか」と答えていた。10月に再びMoldersとKammhuber、そして戦闘機エースのAdolf Gallandが、ゲーリングに対してドイツ本土を防御する為に昼間戦闘機を増産するよう申し入れている。しかしまたゲーリングは異議を唱え、「ドイツ空軍は攻撃すべきで防御すべきではない。総統から命令された報復空襲に同意して実行し給え」と声高に言った。しかしこの会合から1ヶ月後、ゲーリングの防空に対する信頼は厳しい試練にさらされることになる。


ベルリン上空の惨事

 1941年11月7日、Peirseはベルリンとドイツ国内の目標に対して最大の兵力で攻撃をかけた。ドイツの首都を目指して悪天候の中、169機が離陸したが、22機、全体の約13%の航空機が帰還しなかった。それに加えて55機がマンハイム、43機がルール地方の目標を目指したが、こちらもそれぞれ7機もしくは13%、9機もしくは21%を失った。その日の夜全体では、爆撃機軍団はドイツ国内の3ヵ所の目標への攻撃で37機の爆撃機を失ったが、これは14%という災害的な損害率であった。確かに、ウェリントン爆撃機とホィットリー爆撃機の行動半径の制限ぎりぎりでの作戦だった事が、損害の高さの理由の1つであった。しかしこの空襲の損害は、ドイツの防空効果の向上も示しているといえる。夜間戦闘機が、探照灯やレーダーに支援された高射砲と共同で作戦を行った事が、ドイツ奥部の目標に対する空襲を行ったイギリスに高い代償を払わせることになったのである。
 11月7日の大惨事の最も直接的な影響は、11月中旬の爆撃機軍団の命令が沿岸部の目標と時折のルール地方への爆撃に攻撃が制限されたことである。災害的な被害を受けた空襲の後、Peirseは12月2日に、ベルリン空襲作戦で爆撃機軍団の被った大損害に対する非難に応じた手紙をPortalへ書いている。:

「ベルリンでの損害を考慮するのに、私は明らかにこの損害を自己満足としてはならないし、あるがままの事実として扱わなければならない。そして我々の現在の装備と訓練標準で攻撃をかければ、平均で約10%の損害を受けることになるのは確実である。過去の合理的とされている個々の攻撃では、損害は5%から13%であり、最近の大規模な攻撃だった9月7日夜の空襲での損害は9%であった。

11月7日から8日にかけての夜間空襲での敵の戦闘機の活動は、遭遇報告の数から推測すると普段よりも若干少なく、そして「ジークハイル(Sieg Heils、撃墜もしくは非撃墜の際の文句?)」が全く聞かれなかったにもかかわらず、かなりの量の無線通信(R/T traffic)が傍受された。…更に、ベルリン上空でかなり正確な対空射撃が報告された。それゆえ、少なくとも10%の損害を被ると考慮するのが普通だろう。」

PortalへのPeirseの手紙から明らかなのは、戦争のこの段階においてのドイツの奥深くへの攻撃、特にドイツで最も厳重に防御された目標を対象とした場合には、爆撃機軍団の乗員の命という大きなリスクとコストとが必要とされていたということである。そして連合軍の爆撃機がベルリンを次に空襲するのは、それから14ヶ月後となる。ドイツ奥部への作戦を制限していたにもかかわらず、その年の最後の6週間に行われたハンブルグ、キール、エムデン、そしてエッセンへの爆撃で、主にドイツの防空によってRAFは更に141機の航空機を失った。イギリスにドイツを爆撃させないというゲーリングの予言は、まだ空ろに響いていた。しかし、これは1941年の時点でドイツ空軍の防空がRAFよりも多少高かったに過ぎなかったのである。次第に地上防空はゲーリングの高い期待に答えられなくなり、イギリスの爆撃の前に大きく鈍って行くのである。


防空の経済コスト

 高射砲部隊(flak arm)の効果の評価に加えて、防空の組織や保守に関連する経済的コストも見て行かなければならない。表5.6は1941年の陸軍全体の兵器と弾薬に関する予算の内の、高射砲システムと高射砲の弾薬が占める割合の表である:


表5.6
四半期 高射砲兵器 高射砲弾薬
第1四半期 15% 18%
第2四半期 17% 27%
第3四半期 19% 34%
第4四半期 24% 35%


 1941年の後半、国防軍全体の弾薬支出の3分の1以上を高射砲の弾薬が占めているが、これはヒトラーが本土の地上防空の強化を指示した為である。何人もの歴史家が、高射砲とその弾薬に資源の多くを割り当て過ぎたのではないかという疑問を持っている。そして多くの人が、その資源で戦闘機を生産していた方が良かったのではないかと言っている。しかし重要な事は、米国戦略爆撃調査団によれば「初期の支出の制限(limitation)は主に計画的に制限された(restricted)要求の結果によるものであるから、1943年までの高射砲への投資が、他の兵器や弾薬にとっての損失(cost)となるということは言えない。」ということである。言い換えるならば、戦争の最初の3年間における高射砲の拡張に関する機会コストは、1943年までのドイツの戦争経済全体に悪影響を及ぼさなかったということである。更に、戦闘機を増産したとしても、それに伴ってパイロットの教育や、消費する燃料の増加、より多くの空港や修理施設、航空機を補助する施設が必要になるなどの、膨大な隠れた資源コストが必要となるのである。まとめるなら、防空の問題を簡単な二項式問題(binomial equation)に単純化して考える事はできないのである。


1941年の総括

 ドイツ空軍の地上防空部隊にとっての1941年は、自他共にかなり満足できるものであったといえる。空軍の機動高射砲部隊(mobile flak force)は、北アフリカ、バルカン、そしてロシアの各戦線で大きな活躍を収めた。ドイツ中に配置された偽施設も、RAFの攻撃の相当な部分を、本来の目標から逸らせ続けていた。探照灯部隊も、夜間戦闘機と高射砲の活躍に際して重要な役割を演じていた。そして射撃用レーダーとより高性能な高射砲による能力の向上を通じて、ドイツ本土と西部諸国での高射砲部隊の戦力が、着実に上がりつつあった。ドイツの防空は、戦闘機部隊と地上部隊のどちらもが、1941年を通して大きな進歩を成し遂げたのである。予算と資源の配分も増加し、それによって高射砲部門の能力は拡張と進化を続けることが出来た。
 以上のような前向きな要素にもかかわらず、全体的なドイツの防空は全くの良好状態ではなかった。11月のベルリン空襲でRAFは大きなコストを払わされたが、しかしこの空襲は、爆撃機軍団がドイツ本土に対するより大規模な作戦の遂行能力を得つつあるという傾向の、氷山の一角に過ぎない。同様に12月にはまた、ドイツの戦争遂行にとって重大な出来事が起こった。アメリカの参戦は、イギリスへの援助と補助の増大によるRAFの拡大を意味するだけではなく、より重要な事として米陸軍航空隊が参戦するという事を意味しており、実際に現代戦での勝利のカギとなる昼間精密爆撃を担当する事となった。
 米英による共同の爆撃作戦の強化を目前にして、ドイツ空軍は戦闘機や高射砲機器、そして人員を増加しなければならなかった。しかし人員の増加については、Goebbelsは1941年のクリスマスの日記に「今我々に最も足らないのは人である。東部戦線と本土とで失われてしまった」と書いている。1942年に入りドイツ上空での戦いが酷くなると、高射砲や探照灯、そしてレーダーの操作を行う能力を持った人員の不足が厄介な問題となり、そして次第にドイツ本土の防空壁の決定的な弱点となって行くのである。
 結局、爆撃作戦が拡大するものと読み、地上防空の増強をする事をドイツ空軍は選択したが、その決定が正しかったかどうかが判るまで、その後数年に渡って紆余曲折を重ねることになる。実際にその年のその時点では、連合軍航空隊の大増強は、まだUSAAFとRAFの司令官の胸の内と航空作戦計画者の計画書の中にしかなかった。しかしドイツの政治と軍事の指導者達は、「計画書に書かれた航空機(paper airplane)」がアルミや鉄の加工によって製品となるまでの時間の早さを過小評価する余裕はなかった(?連合軍側があれ程早く航空機を生産してくるとは考えられなかった、という意味か?)。ドイツ空軍にとって、次の12ヶ月の間に何を決定し何を実行に移すか、もしくは何を決定しないで何を実行しないかは、戦争の終末においてのドイツの防空の運命を決定することになるのである。翌年にドイツ防衛という賞金の高いゲームの賭け金が引き上げられたが、ヒトラーは引き続き高射砲に賭けていた。



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