第7章 1943年、絶え間ない空襲




 1943年1月は、第三帝国にとってもドイツ空軍にとっても運命的な月となった。年の始めには北アフリカを失い、またスターリングラードでは包囲された第6軍が瀕死の状態であり、空と陸とで強くなりつつある連合軍の圧力の前に、ドイツの侵略の勢いも衰えつつあった。1月14日から25日までの間に、アメリカ合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは連合軍合同参謀本部(Combined Chiefs of Staff)と一緒にモナコのカサブランカで、枢軸国との戦争における将来の方向性について会談を行った。1月21日には、合同参謀本部(CCS)は一般に「カサブランカ指針(Directive)」と呼ばれている指針を出した。この指針では、「ドイツの軍隊、工業、そして経済システムの積極的な破壊と混乱、そしてドイツ国民のモラル侵食による彼らの軍事的反抗能力の決定的な弱化」を目的とした、連合軍による合同航空攻撃の基礎が示されている。
 表現の上では、この指針は連合軍の空軍指導者の要望が完全に反映されていた。既に1942年の夏には、後にUSAAFの戦略爆撃部隊のヨーロッパ方面司令官になるアメリカ軍のCarl "Tooey" Spaatz大将は、アメリカ軍の爆撃機を使った「昼間精密爆撃により、ドイツの軍事用・工業用機械から選別した致命的要素をシステム的に破壊」し、それと同時にRAFは、モラル低下を狙った工業地域への夜間大規模空襲を実施するという、戦略爆撃構想を考えていた。連合軍の戦略爆撃の全体的な概略設定に加えて、カサブランカ指針では次のような目標の優先度も設けている。(1)ドイツ軍の潜水艦建造所(submarine construction yards)、(2)ドイツ航空工業、(3)輸送機関、(4)石油プラント、(5)ドイツの軍事産業に関連するその他の目標。
 1943年6月まで新しい戦略を補助する詳細な計画が出てこなかった為に、カサブランカで合意に至った航空戦に関する決定も、しばらくの間は全く象徴的なものに過ぎなかった。実際に、第8航空軍が一貫して100機以上の作戦を実施できるようになったのは、3月になってからであった。そしてドイツの潜水艦造船所(submarine yards)の優先度が高く設定された事によって、第8航空軍の作戦の殆どは大西洋、北海、そしてバルト海沿岸にある鉄筋コンクリート製シェルター内のドイツの潜水艦を攻撃するという、困難な任務に充てられる事となった。1月27日に、53機の第8航空軍の爆撃機がWilhemshavenの潜水艦建造所(yard)の攻撃に向かったが、悪天候の為に目標が変更され、ブレーメン近くのVegesackにある造船所(shipyards)へと向かった。ドイツ本土に対する最初のアメリカ軍の攻撃は、厚い雲に覆われていた為に物理的効果は制限され、更にドイツ空軍の戦闘機によって3機の爆撃機が撃墜された。このアメリカ軍による空襲によって連合軍の士気も上ったが、しかしRAFの指揮官達は、更なるアメリカ軍の爆撃機と乗員がイギリスに到着するまでは、自分たちが矢面に立たされる事を認識して狼狽していた。


1943年初めの高射砲の成果の評価

 連合軍は北アフリカで勝利を収めたが、RAFはヨーロッパ大陸上空で大きな損害を受け続けていた。1943年初めには、爆撃機軍団の乗員で30回の作戦任務を実施できたのは全体のたった17%だけであり、爆撃機の寿命も僅か40飛行時間でしかなかった。爆撃機軍団の司令長官であったHarrisは戦後の回想録の中で、1942年から1943年初めにかけてドイツ軍のレーダーを装備した夜間戦闘機と高射砲は、特に高い効果を挙げていたと書いている。表7.1は1943年第1四半期のヨーロッパでの夜間空襲における爆撃機軍団の損害を、原因別に比較したものである。


表7.1
1943年 損失(戦闘機) 損失(高射砲) 損傷(戦闘機) 損傷(高射砲)
1月 10 21 23 160
2月 22 23 22 179
3月 64 46 36 385
合計 96 90 81 724


この期間のRAFの損害から判るのは、悪天候の多い時期には戦闘機部隊よりも高射砲部隊の方が優位を保っているということである。特に航空機の損傷数においては、高射砲によるものは約9対1の割合で優位にある。
 1943年初めも、ヒトラーはドイツの高射砲部隊の更なる強化を擁護し続けていた。日記の2月22日の項目で、ゲッベルスはヒトラーの望みが「壮大な範囲まで高射砲を増大」し、この総統の計画によって「1943年秋までにそれだけ多量の高射砲を第三帝国に配備し、高射砲地帯を突破する事が不可能とまで言えないにしても、有り得ない領域となるようにする事」であったと記している。この後者の発言は、1939年の防空地帯(Air defence Zone)に託した初期の希望の追憶であり、ドイツ空軍の高射砲部隊に対するヒトラーの信頼が続いていた事を明確に示している。
 1943年初頭の時点では、開戦から3年間の地上防空の効果は、ヒトラーのドイツ高射砲部隊に対する信頼を正当化しているように見える。しかし幾つかの面で、この時点でのドイツ防空の成功は、幾つもの要因によって何らかの誤解を与えてしまいかねない状態にあった。まず、連合軍の空襲は比較的穏やかなままであった。実際に連合軍の爆撃機はそれまでに、最終的にドイツへ投下する爆弾の総量の約6.5%しか投下していなかった。2つ目として、アメリカ軍の爆撃機はヨーロッパ大陸への空襲を行っていたものの、まだドイツ本土の目標に対する作戦は行っていなかった。3つ目として、ドイツ空軍は1942年末にかけて、スターリングラード付近の東部戦線と北アフリカ戦線において、相当の量の航空機を失っていた。そして最後に、1年を通して地上防空部隊の人員不足と資源制限は、慢性的でしつこい問題であり続けていた。第三帝国が新年を迎えた時、ドイツ人は連合軍の空襲がまだ93%も残っているということを知ることはできなかったが、しかし連合軍の空襲がすぐに酷くなり、国防軍の全ての部門に対して圧力となって行くことは明白であった。


ナチス党による総動員(levee en masse)

 国防軍が北アフリカとソビエト連邦とで撤退を余儀なくされた時、折しも高射砲部隊に対する圧力も大きくなりつつあった。ドイツ軍での人員不足を緩和する為に、ドイツ空軍の指導者達は1942年秋に議論されていた10代の男女の動員を、ついに要求することになった。1943年1月13日、ヒトラーは「帝国防衛への男女の包括的動員」と題された指令を出した。ヒトラーの指令は次のように宣言していた。「ドイツ帝国の防衛任務への兵力の必要性から、労働能力が全く無いか、もしくは完全に役立てられていない全ての男女を拘束し、彼らの能力を集中しなければならない。」指令の掲げる目標は、肉体的に健康な男を解放し、前線の戦闘任務へと送りだすことであった。補充兵を探す際に国防軍は対象者の網を16歳から65歳までの全ての男性と、17歳から50歳までの全ての女性にまでと、大きく広げていた。これはナチス党による総動員である。ただし指令では、幼児の母親や公共サービスに携わる男女、そして専業農家に従事する男女といった幾つかの例外を設けていた。ヒトラーの指令は、直ぐに、そして長く続く衝撃を全ての年代の若い男女に与え、「高射予備兵(flak auxiliaries、Flakheifer)」という言葉は戦後も記憶され続けることになる。
 この老若男女の動員は、拡大し続ける死傷者による軍務に就く男の不足が、国防軍において如何に厳しかったかの劇的な証拠であえるといえる。ドイツ空軍は、直ぐにでも軍務に就くことが可能な男女をすぐに確保した。2月には、空軍は1926年生まれの少年から構成される、最初の集団を高射予備兵の任務に就けた。Krefeld市の約150名の15歳から16歳の少年達が、2月15日に親に伴われながら市の公会堂へと行進していった。「You are wood of our wood, flesh of our flesh(翻訳不能、聖書か何かの文句らしいが)」といった類の一連の愛国的演説の後、集合した高校生達は「忠誠と従順(loyal and obedient)」、そして「勇敢と覚悟(courageous and prepared)」であるように宣誓を行った。5月の終わりまでに、38,000名を越す少年が公会堂へと行進し、同様な宣誓を行ってドイツ空軍の高射砲兵としての任務の準備に就いた。
 1943年には、少年の動員に加えて少女(young women、若い女性の方が良いのか?)の動員も増加し、ドイツ本土と占領諸国の対空監視哨や固定式レーダーに配属されていた。ドイツ空軍は少女を阻塞気球部隊や照空部隊、更には高射砲部隊での任務に配員した。夏にはドイツ少女連盟(Bund Deutscher Madel)から来た少女の集団を照空部隊の常備の空軍兵と置き換え、常備兵を前線の戦闘任務へと送った。1943年だけで約116,000名の少女達が防空任務に従事する空軍兵と交代した。砲火を前にして「信頼性が殆ど無い」とか「神経過敏になる」といった非難もあがったが、こうした少女達は自分達の任務を本職のように有能にこなしていたという報告が数多く寄せられている。実際に、Milchは彼女達が居なければ、ドイツ空軍はドイツ本土の防空ネットワークを維持できないだろうと主張している。
 しかしある面において、年長の男性の指揮の下にある空軍部隊へ少女達を入れる事には、幾つもの問題があった。1942年9月18日にゲーリングが空軍の指揮官に対して警告を行った命令の中で、しかるべき監督者は、将校であれ兵員であれ、「色恋沙汰を考慮するように」注意すべきだとしている。ゲーリングはまた、監督者は自身の女性部下の名誉を守り、また彼女達を自身の妹のように扱うことを期待していると言っている。最後にゲーリングは、この女性関係におけるいかなる権力の濫用も、「法の下で厳正に」処罰されるだろうと脅している。同様にゲッベルスも日記の3月7日の項目の中で、空軍の女性予備兵の動員に対して、市民はとても強い感傷を抱いていると記述している。この動きに対して様々な問題や市民の反対があったものの、前線での兵士不足に直面していた為に動員は必要であった。通信部隊と照空中隊への少女の動員は、戦争の4年目を迎えた地上防空ネットワークの全体に、圧力が強くなりつつあることを示している。
 こうした男女の予備兵の採用による、防空の即応力と効果に対する全体的な影響を判別するのは困難である。部隊へ配属された多くの少年少女が、非常な情熱と献身とでもって任務に当たっていたのは間違いない。しかし訓練は省略されることが多く、また状況の許容する範囲で部分的に行われていた。ある元高射予備兵は、2週間から2か月の長さの特別な「短縮集中」訓練であったと記述している。実際に時間的都合からたった1週間の訓練で高射砲に配員された少年兵も居た。こうして経験豊富な防空部隊員が引き抜かれ、それを急速訓練された予備兵で置き換えた結果、防空部隊の効果が質的に低下してしまった。国民兵中隊での例と同様に、未経験で訓練中の高校生は、自分たちの任務に対して情熱的でかつ献身的ではあったが、専門の兵士の代わりを充分に果たす事は出来なかったのである。
 実際に1943年に訓練時間の短縮に悩まされていたのは、動員された高射予備兵だけではなかった。高射学校での常備兵に対して行われる教育のレベルもまた、1943年から低下して行った。von Axthelmによると、訓練が徐々に悪化していったのには、いくつかの要因があった。まず、空軍が訓練学校の使用可能なシステムを前線に引き抜いて行ったために、学校は射撃指揮装置から高射砲に至るまで教育用機材に不足をきたすようになっていた。2つ目に、人員不足から教育担当者を戦闘部隊へ割り当ててしまった為に、教育可能な人員が減り、訓練の質の低下につながってしまった。そして最後に、燃料の不足から航空機を目標に使った訓練が制限され、また移動式訓練部隊も射撃場での実弾訓練の回数を制限されていた。1943年の初めの数ヶ月間に航空燃料の不足から新人パイロットの訓練が遅れ、それもまたドイツ本土の防空に間接的に影響を与えていた。そしてMilchは1943年2月24日の会議でゲーリングに対し、週に72時間だったパイロットの訓練時間を52時間に削減する決断をした事を伝えているが、この決断の原因は主に航空燃料の不足によるものであった。
 そして人手が足りないのは防空部隊だけではなかった。例えば1943年1月18日に開かれた会議で成された協定では、工場労働者の動員によって高射砲開発は「危機的状態」にあり、生産に「耐えがたい遅れ」を生じることになると指摘している。他の工業分野では、特に電子機器の製造においてもまた、熟練した男女の不足によって問題を抱えていた。1月21日のゲーリングとの会議で、Martiniは研究開発の継続とレーダー計画の達成のためには、より多くの技能工が必要であると不平を述べている。Martiniはゲーリングに対して、前線に送られている1,000名のレーダー技術者の解放と、レーダー産業に関連した約17,000名の専門工を将来的に動員免除とするよう要求した。こうした事が重要である証拠に、ゲーリングはその同じ日にヒトラーと連絡を取り、ヒトラーから計画を守るために必要な手段を採る許可を受けている。ヒトラーとゲーリングの、この問題に対する注目は望むべき結果をもたらし、4月末にはレーダー計画は順調に進むようになった。


資源の分配

 連合軍による空襲の強化に対応して、ドイツ空軍は資源の分配と既存の資材の保護に関係した幾つかの手段を追求していた。3月12日の高射砲調達委員会の会議で、Milchは、移動式を1門生産する毎に、ある割合で据え付け型(ortsfest)の88mm高射砲を生産するよう命令し、少ない資源からより多くの砲を生産しようと試みた。この手法によって砲の生産量は引き上げられたが、しかしそれは兵器生産分野から工業建設分野へ、資源の要求を移動したに過ぎなかった。また改良したロシアの火砲を防空任務に使用るするというものもあった。射撃指揮装置の分野においては結果は混在していた。射撃指揮装置の生産の見積もりは月産180台を越し、1943年型のMalsi予備射撃指揮装置も月産250台に上っていた一方で、ドイツ空軍は高射砲中隊の中隊数の増大に対して十分な数の4m光学測距儀を未だに確保できていなかった。更に1943年を通して行われていた、全ての重照空中隊をレーダー管制へと転換する作業によっても、射撃指揮装置が制限を受けることになった。不足し続ける射撃指揮装置への組織的な対応手段の1つである集合中隊(super batteries)の増設は1年を通して行われていたが、特に秋から加速された。前に触れた通り、高射砲を集合中隊に集中する手法は、利用可能な火力の増強と、人員と射撃指揮装置の必要数の削減という2つの利点を持っていた。
 高射砲は多大な人員と資材とを必要としており、ドイツの軍需産業はドイツ空軍の必要とする高射砲と機器とを十分に提供できないところまで疲弊していた。ドイツ空軍が目指していた規模への高射砲の増強と、戦闘での消耗と破壊による損失の補完の為に、膨大な量の資源が必要であった。3月にMilchの部局によって作られた報告書では、「現在ドイツ空軍が要求している全ての機器の生産は、利用可能な原材料の範囲内で、質と量の大きな破綻も無く実施可能である」と見ていた。しかし一方で報告書は、現在の計画を完全に実行するには、「転換手法(SparmaSnahmen)の最も極端な強化」しかないとも警告している。
 報告書の警告にもかかわらず、ヒトラーは更に多くの高射砲中隊を望み続けた。1943年4月11日、ヒトラーはドイツ海軍司令長官のカール・デーニッツ提督と会談した。ヒトラーはデーニッツによる艦隊増強計画の要求に対して、陸軍の戦車と対戦車砲、そして空軍の高射砲の方が必要であると答えた。更にヒトラーは、航空戦における損失を穴埋めする為に、空軍の資源を相当に拡大する必要性がある事にも触れた。この回答から、ヒトラーは航空戦の重要性を忘れていなかったことが明らかであったが、しかし空軍に利用可能な資源の全てを与えても良いのかという疑問は残っていた。
 4月19日には、Milchは不本意ながらも、必要な資源が手に入らず固定式砲架の高射砲1門に対して移動式砲架の高射砲1門という生産数の割合を維持できない場合には、この比率を3対1とすることに同意した。地上防空兵器において人員と機材の数を抑える手法が必要になってきたことから、ゲーリングは遂に、移動式高射砲の代わりに固定式高射砲の生産に集中する命令を出さざるを得なくなった。移動式の高射砲中隊と比較すると、固定式中隊で必要な人員数は約半分であった。こうした資源節約にもかかわらず、ゲーリングの決定は、ドイツ空軍の将来の能力をドイツ中の地上防空へと移行させることになるという、大きな含みを持っていた。同様に、ドイツ空軍の作戦計画者達は、この決定の潜在的な影響を理解し、資源を鉄道高射砲中隊の生産へと向け続けていた。1943年の末には、エリート隊員によって編成された重高射砲鉄道中隊100個と軽高射砲鉄道中隊20個が、ドイツ本土に配備されていた。これらの鉄道中隊は、機動性が高かっただけでなく、その機動力が貴重になりつつあった石油備蓄ではなく、利用しやすかった石炭に大きく依存していた。
 将来の高射砲部隊の拡張によって、人員や機材以外にも、弾薬が不足してくることが予測されていた。4月19日の高射砲開発委員会(Flak Development Committee)の会議においてMilchは、現在の資源配分のままでは、将来の必要な弾薬のたった30%しか賄えないという報告書を取り上げた。この報告書に対してMilchは、補給総監(General Quartermaster)の代理人に対して、空軍全体の計画において資源を節約する追加の手法を探すよう命令した。1943年の春には、Milchは将来の問題に頭を悩まされるだけでなく、弾薬不足に関する幾つかの問題にも直面していた。例えば、高射砲では20mm機関砲の高性能炸薬弾、88mm高射砲の薬莢、そして128mm高射砲弾が不足していた。それに加えて、訓練用の砲弾、特に128mm高射砲のものが十分に確保できず、それによって空軍全体の高射砲兵の訓練に遅れが出ていた。しかし9月の中旬の時点では、国防軍の兵器計画者(armaments planners)は、37mm機関砲以外の全ての高射砲用砲弾の生産割り当て数は、年末までに達成できると見積もっていた。


防空のコスト

 ドイツ空軍の高射砲部隊への投資は、1943年の第1四半期の間も底強いものであった。例えば1943年1月の国防軍で武器弾薬の生産にかかった費用は、全部で1億3,200万RM(5,280万米ドル)で、その内訳は陸軍が6,400万RM、海軍が2,000万RM、空軍の航空隊が900万RM、そして3,900万RMが高射砲部隊であった。1月だけで、高射砲部隊は国防軍全体の兵器予算の殆ど30%を消費していたのである。表7.2は、国防軍の年間の武器弾薬に対する支出に占める割合の概要を示したものである。


表7.2
1943年 高射砲 高射砲弾
1-3月 29% 14%
4-6月 29% 14%
7-9月 29% 20%
10-12月 26% 19%


この支出に関する一覧表は、幾つかの面で重要である。まず、1943年を通じて一定の割合の兵器支出があったことがわかる。次に、第1と第2四半期の弾薬の予算は、特に1941年の第3及び第4四半期における高射砲用弾薬向けの支出額が国防軍全体の弾薬予算のそれぞれ34%と35%であったことを考慮すると、比較的少ないといえる。


地上防空部隊の拡張

 1943年後半に弾薬の支出が増加したのは、連合軍による電波妨害(electronic countermeasures)の増加が原因である。後ほど詳細に触れるが、1943年7月のハンブルグに対するRAFの空襲時にレーダー妨害が使用された事によりドイツ空軍の射撃用レーダーが一時的に使えなくなり、短時間ではあるものの光学や音響による追尾や、弾薬消費量の大きい弾幕射撃に頼らざるを得なくなった。それに加えて1943年末には、500を越す国民兵高射砲中隊と200以上の弾幕射撃中隊とが存在していた。実際にイギリスの軍事情報部は、1943年3月時点で125,000人の国民兵部隊員が、281個の重高射砲中隊と393個の軽高射砲中隊、そして20個の阻塞気球部隊を構成していると評価していた。国民兵中隊は射撃指揮装置が不足し、訓練の状態も悪く、そして一般的に弾幕射撃手法に頼っていたが、こうした要因が弾薬の消費量を大幅に引き上げていたのである。
 高射砲の人員問題がしつこく残っていたにもかかわらず、1943年にはドイツ本土とドイツへの進路に当たる西部地域での高射砲の数が更に増加したが、中でも特に探照灯中隊数の増加が著しかった。1943年1月13日時点でドイツ本土には重高射砲中隊が659個中隊、軽高射砲中隊が558個あったが、それからたった5か月後の6月中旬には、その数は1,089個と738個に増加していた。この増強を支える為に、重高射砲の砲身の生産数は1941年から1943年の間に約3倍の6,864本にまで増加した。1943年に、ドイツは4,416門の88mm高射砲(その内122門は41型)と、1,220門の105mm高射砲、282門の128mm高射砲、そして8基の128mm連装高射砲を生産した。31,503門の20mm機関砲と4,077門の37mm機関砲が製造され、軽高射砲の数も同じく劇的に増加したが、1942年の生産数と比べると、それぞれ9,132門と1,941門も増加していた。ドイツ空軍は高射砲の新規生産に加えて、鹵獲した敵の高射砲と弾薬を改良して防空ネットワークで利用していた。1月だけで285門のロシア製火砲を回収、改良してドイツ軍の高射砲中隊に配備した。それに加えてアルバート・シュペーアの指示によって1943年1月中旬までに、124個の弾幕射撃中隊の88mm高射砲を、口径を改修して88mm高射砲用の砲弾を射撃可能にしたロシア製高射砲に交換した。この交換によってドイツ空軍は、より洗練された射撃指揮装置を持つ部隊へ、より多くの利用可能な高射砲を移す事が出来た。1939年から1944年の間にドイツ空軍の鹵獲部門は、全部で9,504門の高射砲と約1,400万発の高射砲弾を回収した。
 1943年末時点での、ドイツ本土の防衛に就いている重高射砲中隊と軽高射砲中隊の中隊数は、それぞれ1,234個と693個とになっていた。それに加えてドイツ国内にある照空中隊の数は、1942年に174個だったものが1943年末には350個にまで増加していた。200cm探照灯の場合では、当初はこうした機器には膨大な量の銅が必要だと言われていたにもかかわらず、工場の生産合理化と兵器資源の探照灯への移管によって、1943年の月当たりの生産量は1942年末の4倍にも拡大した。表7.3は、国防軍の各戦線における、高射砲中隊と照空中隊の中隊数の、1942年から1943年の間の変化の割合を比較したものである。


表7.3
方面 重高射砲中隊 軽高射砲中隊 照空中隊
ドイツ本土 1,234(+65%) 693(+58%) 350(+100%)
西部方面(仏蘭べ) 205(+68%) 295(+61%) 33(-66%)
北部方面(ノ、フィ) 92(+109%) 69(+92%) 1(42年は0)
南東方面(露ギハ) 61(+2%) 39(-17%) 8(-11%)
東部方面(露) 148(0%) 162(0%) 0(0%)
南部方面(伊アフリカ) 278(+4,500%) 80(+1,500%) 20(42年は0)
合計 2,132(+86%) 1,460(+64%) 455(+61%)
(カッコ内の割合増減は、1942年の部隊数との比較)


 表7.3の数値から、1943年のドイツの地上防空の発展における幾つかの面白い洞察を得ることができる。まず、この期間中にも明確に高射砲と探照灯の数が増加し続けていることがわかる。次に、ドイツ本土地域の防御拡張が継続されていたことから、西部方面の照空中隊の数が減少している。この傾向は1943年にかけて続くが、これはナチスの地方長官である大管区長(Gauleiter)が自分達の担当地域により多くの防空部隊を配備するよう強く要求していたからである。3番目として、南部地域で劇的な防空部隊の増加が見られるが、これは北アフリカ、後にイタリアに駐在していた、アメリカの第15航空軍の爆撃機への対策の為である。1943年の秋に第15航空軍の爆撃機部隊がヨーロッパに第二の航空戦線を形成したことにより、ドイツ本土の防空を再配分しなければならなくなったのである。4番目として、1943年の初めの東部戦線での敗北にもかかわらず、東部方面での高射砲部隊の規模に変化が無い。そして最後に、全ての重高射砲中隊の58%、軽高射砲中隊の47%、そして照空中隊においては何と78%もの中隊が、ドイツ本土に配備されていた。


爆撃機軍団での改善

 第三帝国の地上防空は引き続き拡張して行ったが、これは連合軍による爆撃作戦の拡大、特にRAFによるルール地方への春の攻勢に対応する為には必要な事であった。3月までに、Harrisと爆撃機軍団はルール渓谷のドイツの都市を標的とした大規模な空襲作戦の準備を行っていた。そしてこのルールに対する作戦は、RAFの採用した「爆撃先導(pathfinder)」機による目標への誘導とマーキングを、OBOEとH2Sという2つの改良された航行補助機器を使用して行うという、戦術と技術での革新の合体の成果を証明することになった。そしてこのOBOEとH2Sとは、どちらも全くの新技術というわけではなかった。
 1940年の夏、当時の爆撃機軍団の司令官だったPortalは、照明弾機によって目的物を認識し、焼夷弾でマーキングされた目標を追わせるという手法の実験を行ったが、結果は満足のいくものではなかった。1941年11月には、爆撃作戦の副指揮官で飛行群長(Group Captain)のSydney Buffenは、この考えを見直して、選別された乗員で構成された「目標探索部隊(Target Finding Force)」の創設を提案した。この部隊の乗員は、ドイツ国内の特定地域の地形を熟知し、地域内の目標に対する空襲を先導可能であることが要求されていた。1942年初めにPeirseが追い出された後、BuftonはHarrisにこの提案を行ったが、Harrisはこの提案を即座に拒否した。戦後の回想録の中でHarrisは、「自分は各飛行団から最良の人間を選抜するという考えには全く反対であった。何故なら、全体のレベルを彼らの経験と教訓によって引き上げる為に必要な、正にその当人達であったからである。そして軍団のエリートだけによる編成という考えは多くのトラブルの元になり、またモラルにとっても全く悪い結果になると思われた。」と言っている。
 Harrisからは反対されたが、BuftonはPortal個人から強い支援を受けていた。実際にPortalの爆撃先導機コンセプトへの支援が重要である事が判ると、1942年夏にHarrisはBuftonの計画を、乗員を個々に選別するのではなく飛行中隊毎に選別するという事も含めた幾つかの修正を入れつつも、受け入れざるを得なくなった。こうして1942年8月11日に、「爆撃先導部隊(Pathfinder Force)」(PFF)がRAFにおいて任務を開始した。新しい形の作戦を行う部隊の訓練にありがちな問題に加えて、装備の不足や北アフリカ上陸の支援、そして悪天候によって、その年の終わりまでPFFとしての作戦はまともに実行できなかったが、1943年に入ると調子が出始めるようになった。
 1943年の初めに、盲目爆撃装置のOBOEとレーダー航行装置のH2Sの導入という、2つの大きな技術革新がPFFでなされた。OBOEは基本的に、送信された電波上のカーブを含むコースに沿って飛行しつつ、2か所の地上送信所で航空機のコースと速度を監視するというものである(??今ひとつ原理が良く分からない)。地上送信所で航空機が目標の上空を通過したと判断すると、特殊な信号を航空機に送信する事で爆弾の投下を指示するのである。このシステムの主な欠点は目標に到着するまで、決まったコース上を逸脱も許されずに長距離、飛行しなければならないことである。更に乗員はルール地方ででも信号を受信可能なように、高度26,000フィート以上で飛行しなければならなかった。最初の実用試験はオランダとルールとで1942年12月に行われたが、爆撃誤差は600ヤードから1マイルと、決定的なものとにはならなかった。OBOEに加えて、RAFは、初歩的な地上地形のレーダーマッピングを航空機の飛行経路に提供する装置であるH2Sを導入した。H2S装置は、特にOBOEの圏外地域では航行の補助として役に立ったが、しかし地形の凹凸の少ないルールや北ドイツ平原では充分に機能しなかった。どちらの機器も制限があったものの、PFFがOBOEとH2Sを導入したことにより、1943年春に爆撃精度が向上することとなった。


ルールでの戦い

 爆撃先導部隊と爆撃機軍団とが、ドイツ工業コンビナートの中心の、最も大きな都市であるエッセンに対して1943年3月5日夜に実施した442機の爆撃機による空襲が、最初の大規模なテストとなった。Harrisによると:

「とうとう我々は準備万端となった。爆撃機軍団の本格的な攻撃は、今この瞬間から始まるのである。OBOEによるドイツ国内の目標に対する最初の本格的な攻撃が今ここから始まるのだ。1943年の3月5日から6日にかけての夜、1年と少し前に私がこの爆撃機軍団に来て以来、託され続けていた任務であるルールの主要都市の破壊が成功すると、心底希望を持つことができる。」

のであった。
Harrisは「ルールでの戦い」での彼の初手の段階から、決定的な成功を達成した。OBOEを装備したRAFの爆撃先導部隊のモスキートは、高度28,000フィートから30,000フィートの間を飛行し、エッセンの街に赤色の目標識別マーカーを投下した。続いて爆撃先導部隊のスターリング爆撃機とハリフォックス爆撃機が赤色の目標識別マーカーの周辺に緑色の目標識別マーカーを雨のようにばらまき、空襲の間中、目標地点が視認可能なようにしておいた。そして何波もの爆撃機が飛来し、全体搭載量の3分の1の高性能爆弾と、3分の2の焼夷弾とによって、約40分の間に街を吹き飛ばしてしまった。
 エッセンへの空襲によって、街の160エーカー(1エーカー=約4,000平方メートル)と3,000棟の建物が廃墟と化し、他の450エーカーの範囲も酷い損害を受けた。空襲の建前上の目的である巨大なクルップ社の工場コンビナートは幾つかの建物が損害を受けたものの、工場の大型機器が破壊されたり、生産ラインが完全に停止するまでには至らなかった。一方、爆撃機軍団の損害は全体の3.2%にあたる14機を失っていた。作戦後のメッセージの中で、Harrisは乗員達に以下のような祝いの言葉を述べている:

エッセンに対する攻撃により、今まさに敵に対して相当な損害を与えることが出来たが、これが全ての前線における最も偉大な勝利としての、歴史的先例となることを請け合う事ができる。君たちはドイツの腹に火を着けたが、これによりナチズムの黒い心臓を焼き尽くし、貪欲な枝を根元から枯らす事になるだろう。そしてこれから数ヵ月の内に、彼らにとっての失望が上空を覆い、彼らの抵抗の可能性を破壊し、彼らの心を砕くのである。

Harrisの記述は誇張気味ではあるが、エッセンに対する空襲はドイツ上空の制空権をかけた戦いが新しい段階に入ったという印でもあった。
 この空襲のドイツの地上防空に対する最も重要な面は、攻撃部隊の規模だけでなく、比較的短時間に目標上空に爆撃機が集中していたことが、より重要であった。その前の1942年5月のケルンに対する空襲においても示された通り、高密度での爆撃機の流入は、西部にあったドイツ軍の夜間戦闘機の防御空域を飽和させてしまっただけでなく、高射砲部隊も時間不足から敵の捕捉と交戦とが上手くいかなかった。爆撃機の集中はある面で、海軍の輸送システムにおいて船団の護衛を増やすとともに、1隻の潜水艦の能力では対応しきれない程に離れ離れに個々の輸送船を配置するという手法に似ている。結局、爆撃機軍団による物理的かつ時間的な爆撃機の集中強化という戦術は、ドイツ空軍の防空の前に苦しい問題として立ちふさがったのであった。


爆撃作戦による本土への打撃

 RAFの攻撃の裏の意味に、ナチスの指導者の中の何人かはすぐに気づいた。3月6日の日記に、ゲッベルスは一連の航空戦について以下のように記述している:

幾つかのドイツの都市に対して、毎晩のように大規模な空襲が行われている。こうした空襲によって、我々は資材やモラルの面で大きなダメージを受けている。例えばラインラント(Rhineland)から私に為された報告は、あちこちの街の住人が次第に屈伏させられつつある事を指摘しているが、これは有り得る話である。何ヶ月もの間、そうした街の労働者達は毎晩のように防空壕へと駆け込まされ、そこから出てきた時に自分達の街の一部が炎と煙に包まれているのを見れば、そうもなるであろう。東部戦線で我々はヨーロッパの重要な局面で制空権を失ったが、ここにおいても、イギリスの為すがままになっているのだ。

かなり皮肉なことに、全てのドイツ人が空襲によって気落ちさせられているわけではなかった。例えば、Hans Rosenthalという若いユダヤ系ドイツ人は、年配の婦人によってベルリンの「ガーデンコロニー(??garden colony、ユダヤ人を匿う隠れ家の事か?)」に隠されていたが、彼は爆撃機軍団の空襲を、今自分が隠れ住むボロボロの庭小屋から救い出される機会であるかのように待ち望んでいた。この少年にとっては、落下してくる爆弾は希望を与えてくれるものであり、危害を加えるものではなかったのである。しかしHarrisが自身の担当地域の爆撃を強化し、また空襲に参加する第8航空軍の爆撃機の数が、ゆっくりであるが確実に増えて行くに従って、ゲッベルスの心配は多くのドイツ国民の態度の変化に明確にあらわれてくるのである。エッセンへの空襲について、ゲッベルスは「もしもイギリスがこうしたやり方で航空戦を遂行し続けるとすれば、我々にとって特に大きな脅威となるだろう」と強調している。ゲッベルスは、ドイツに十分な高射砲がまだ無く、そして夜間戦闘機が未だ大きな活躍をしておらず、その為にRAFの空襲を妨害できていない事を嘆いている。
 RAFの刷新された攻撃の矢面に立たされたのは、ルール地方の諸都市だけではなかった。H2Sレーダー装置の支援を受けて、300機を越す爆撃機が、ミュンヘン、ニュルンベルグ、そしてシュタットガルトをそれぞれ空襲した。それに加えてH2Sレーダーを使った爆撃先導機が3月1日夜にベルリンを空襲して大きな被害を与えた。ゲッベルスはこの空襲を1942年3月のケルン空襲に匹敵する深刻な空襲であるとし、「ドイツの首都がこれまで経験したことがない、最も酷い空襲である」と書いている。このベルリン空襲で500名を越す市民が犠牲となったが、一方でドイツ空軍の防空部隊も19機を撃墜した。爆撃機軍団は3月27日夜と29日夜にも、再びベルリン空襲を行った。27日夜の空襲では、PFFが投下した目標識別マーカーが、本隊が到着するまでに燃え尽きてたか消化されてた為に、400機以上の爆撃機部隊は街の数マイル手前で爆弾を投下してしまった。ゲッベルスは自身の日記の中で次のように皮肉っぽく書いている。「今回の空襲では、防空部隊よりも天候に助けられた」。それから2日後の2回目の空襲は329機の爆撃機によって実施されたが、空襲の効果が少なかったにもかかわらず、出撃した爆撃機の6.4%に当たる21機を失った。この空襲に対するゲッベルスのドイツ防空部隊に対する評価は、より楽天的である。彼は「今夜の高射砲火は一段と強力で、効果的だった」と記述している。実際に、ドイツの高射砲部隊はこの夜の空襲で、合計25機を撃墜したと主張している。
 Harrisの爆撃機軍団は4月と5月にも、フランス沿岸のドイツ潜水艦基地と共に、ドイツ国内の目標を攻撃し続けた。4月末にはRAFは遥かStettinとRostockまで遠征し、それに加えて500機以上の大編隊でキール、フランクフルト、そしてスタットガルトを空襲した。しかし4月16日夜のチェコスロバキアのPilsenにあるスコダの兵器工場に対する空襲では、Harrisは無理をし過ぎた。327機の爆撃機が出撃したが、全体の11%に当たる36機が未帰還となった。このPilsenへの空襲は、爆撃機軍団の戦果が向上しつつあったといっても、ドイツ本土に奥深く侵入した空襲に対しては、ドイツ空軍の防空部隊がまだ高い迎撃能力を維持していたことを示している。それとは対照的に、「ドイツの鍛冶場」と呼ばれていたドルトムントに対してRAFが5月4日夜と23日夜に、それぞれ596機と826機の航空機で実施した空襲では、多大な被害を与えていた。この2回の空襲で3,000を越す建物が破壊され、戦時捕虜200名を含む約1,300名が死亡した。5月29日夜に719機の爆撃機によって行われたブレーメンに対する空襲では、更に大きな戦果を挙げた。この空襲では約4,000棟の家が破壊され、200以上の工場が損害を受け、そして3,400名以上が死亡した。これら3月から5月にかけての空襲によって、合わせて13,100名が死亡し、26,000棟の建物が破壊されたのである。
 破壊の激化を目の当たりにして、ドイツ国民は物理的、精神的反応を連合軍の空襲に対して示すようになった。親衛隊情報部(Sicherheitsdienst、SD)はそうしたドイツ国内の世論を調査して諜報報告書をまとめている。6月17日の報告書によると、連合軍の空襲作戦がドイツ国内で最も人気のあるトピックになりつつあった。この報告書では興味深い例として、5月29日夜にRAFによって空襲され廃墟と化したEuppertal-Barmen市の市民の反応を挙げている。

空襲を受けるまでは、Wuppertalの市民は街がこの時点においても大きな空襲から取り残されていた事から、空襲に対して明らかに無関心であった。高射砲による防御兵力も、この街全体で幾つかの軽高射砲中隊が居るだけであり、市民は敵の空襲は受けないものと信じていた。何故なら、強力な対空砲火は敵機を惹きつけるだけだと思い込んでいたからである。多くの戦友(Volksgenossen、高射砲部隊の事?)ですらWuppertalから高射砲を撤退させる事を喜んでいた。しかし空襲を受けてからは、自分達が高射砲無しでやっていけると信じていた事すら、誰も思い出したくなくなってしまった。それよりもむしろ今日では、もしもWuppertalの街に高射砲があれば敵機も街をここまで破壊できなかったと信じるようになり、Wuppertalの街に高射砲が無かった事は間違であったと指摘するようにすらなっている。

このWuppertal-Barmenの例は、ドイツ本土全体に広がりつつある航空戦において、ドイツ空軍の防空部隊の作戦計画者が直面したジレンマである。全ての目標候補地を防御する能力が無く、脅威の高い地域の中で高射砲を移動して間に合わせなければならないということは、当然にある一定期間、防御されていない地域が出てくる事になる。その為、空襲が酷くなるに従って、市民の側からの防御増強の要求が大きくなっていくことになったのである。


偽施設と偽装、第4幕

 欺瞞と偽装手法を引き続いて使用することで、ドイツの防空部隊は状況を改善しようとしていた。2月1日から4月18日までの爆撃作戦の再調査から、O.R.S.はドイツの目標に対して実施された29回の主要な爆撃作戦において、「完全な成功はたった3回のみで、8回は部分的成功に留まり、そしてその一方で完全な失敗に終わったものは15回にも上った」としている。O.R.S.は、その殆どの失敗がOBOEかH2Sの機器に関する問題によるものとしているものの、しかし5回はドイツの地上防空部隊の活動が失敗の決定的な原因だったとしている。報告書は、「少なくとも詳細な調査を行った10回の内の5回は、敵の偽装や煙幕の使用が作戦の失敗に直接貢献した可能性が高い」と指摘している。
 1943年6月のO.R.S.の報告書でも、「空中マーキング照明弾」を使用した形跡があると指摘している。例えば5月のBochumへの空襲の際、実際にはPFFの航空機が予定時刻に識別マーキングを行う事に失敗していたにもかかわらず、爆撃機軍団の航空機から赤色の識別マーカーを見たという報告があげられていた。ドイツ空軍による偽識別マーカーの使用は、RAFの爆撃作戦にとって特に重要な事項であった。爆撃機軍団がPFFで赤色の目標識別マーカーを初めて使用したのは、1月16日夜のベルリンへの空襲であり、それによってドイツ空軍のそれまでの偽装火事施設(fire site)の効果は大幅に減少してしまった。しかしドイツ空軍は直ぐに環境の変化に対応し、3月には既存の火事施設の近くに偽装ロケット発射場を建設していた。発射場は約20名の空軍兵によって24時間体制で運営されていた。空襲が間近に迫ると、ドイツ空軍の地上兵は大体の火事施設の方向に偽装ロケットを打ち上げる。この偽装ロケットはPFFの赤色の目標識別マーカーに極めて似せて作られており、そしてこれが火事施設を照らすことで、爆撃機軍団の乗員を更に騙す効果をあげた。そして偽装ロケットに加えて、発射場では様々な色の偽装地上マーカーも準備していた。発射場そのものは隠蔽しやすく、かつ、極めて質素に造られており、ロケットの発射台は木枠と数平方メートルの広さのコンクリート板によって構成されていた。偽装ロケットは、爆撃機の乗員が目標識別マーカーか地上の火災を発見すると直ぐに爆弾を投下するという傾向を上手く利用していた。この、なるべく早く搭載している爆弾を投下して目標から退避するという習慣は、爆撃機の乗員としては全く自然な反応であったが、しかしこれは同時に、本来の照準点から爆弾痕が「後退り(?creep back、何らかの専門用語があると思うが…)」してしまうことを頻発させた。このような兆候が増加していたにもかかわらず、RAFはドイツ空軍が偽の目標識別マーカーを使用しているという報告を、頑なに信じなかった。そして実際に、軍事情報機関が偽目標識別マーカーの使用事実を確認するのは、1944年9月になってからである。
 偽目標指示マーカー施設を使った作戦は、いくつかの面で重要である。まず、既存の火事施設と合わせて偽装ロケット施設を建設したことは、ドイツ空軍が地上防空の分野で創意に富んでいた事の更なる証である。2つ目として、こうした施設は維持が楽であり、また空から識別し難く、最小の投資で高い効果を発揮していた。例え攻撃部隊の一部だけを逸らす事に成功したとしても、それで目的を十分に果たしたといえた。3つ目に、本来そうした意図は持っていなかったが、こうした施設が、戦争を通じて多くの爆撃機軍団による空襲の中で「後退り(creep back)」現象を誘発させる大きな役割を果たしたということである。そして最後に、こうした施設はドイツ上空の航空戦において、ある行動への対抗手段というイタチごっこ(cat and mouse game)が双方で繰り広げられていた事を示している。
 偽物の識別マーカーの他に、ドイツ空軍は既存の偽装や欺瞞手法も引き続き実施していた。例えばイギリスの情報機関は、「街や工場目標の近くに本物のように建てられた偽の電灯や工場、操車場」という書き方をする事で、ベルリン北西の「偽都市」の存在を認識していた事を示している。他の例では、RAFはハンブルグの近くにあるWedelに、有名な港湾都市AuSen Alsterに似せて造られた偽装湖があることを認識していた。この例では、この欺瞞によって3月3日夜の空襲で大部分の航空機が騙されたと信じられている。そして実際にO.R.S.の報告書では「Wedelの村全体がハンブルグの街の偽物として造られていたようで、形状もどことなく似ているが、こうした偽装が他のドイツの都市にもある可能性を見過ごさないようにしなければらない」と指摘している。こうした手法に対して、当のWedelの住民がどのような意見を持っていたかは不明だが、しかしハンブルグ郊外に住む彼らは、これがRAFの空襲からハンブルグ住民が一時的にでも逃れられるように考えられた手段であったことを、明確に認識していた。こうした欺瞞は何度か成功した事もあったものの、爆撃機軍団が地形探知レーダーの使用を拡大して行くに従って、ドイツ西部のこうした偽装都市の一般的な効果も減少して行き、1943年末には使われなくなった。結局、受動的な偽装手法はそれ自身、長期的には決定的なものにはなり得なかった。こうした手法は、1941年から43年にかけて連合軍の空襲の効果を下げるための、重要ではあるものの補助的な手段であったと言えるだろう。


防空におけるジレンマ:高射砲か、それとも戦闘機か?

 3月中頃には、日増しに酷くなる連合軍の空襲に対するヒトラーの不満が顕著になっていた。3月9日にゲッベルスは、ウクライナのVinnitsaにあったヒトラーの野戦司令部へと出向いた。ゲッベルスによれば、ヒトラーは航空戦の経過とドイツ空軍でのゲーリングのリーダーシップに、相当な不快感を顕わしていた。ヒトラーはそれと一緒に、ドイツ空軍の爆撃機部隊と高射砲の両方をさらに増大させるべきだと主張していた。しかしヒトラーは、イタリアに高射砲部隊の人員と装備の多くを移送しなければならない事から、それが困難である事も認めていた。そしてヒトラーは夜間戦闘機部隊に「特別な注意」を払う必要があることも認識していた。この、ヒトラーによるゲーリングへの話は、戦争のこの時点におけるドイツの防空に関する2つの重要な洞察を与えてくれる。まず1つ目は、ヒトラーは未だ高射砲部隊の効果を信じ続けていたが、夜間戦闘機による防御の必要性も認識していたということである。そして2つ目は、ヒトラーのゲーリングに対する信頼が失われた事により、1943年春には、航空戦に関係する全ての重要な決定についての事実上の権限を、ヒトラーが持つことになっていたことである。
 ゲーリングのスター性が無くなる事で、ドイツ航空隊でより強い権威を持つ地位へと、他の空軍将校が上がる機会が大きくなっていった。夜間戦闘機部隊の司令官(?the General of the Night fighter)であるKammhuberのスター性は、1942年から1943年にかけてのドイツ空軍の夜間戦闘機部隊の活躍によって明確に高まっていた。1943年3月にKammhuberは、ドイツ本土の防空を強化する計画を発表した。まず1つ目として、中央航空管区と第3航空管区とを合体し、西に備えようとした。Kammhuberは航空管区を合体して、これを1人の司令官が指揮を行う事により、ドイツ本土の防空の効果をより良くできると感じていた。2つ目として、この合体した航空管区内の昼間戦闘機、夜間戦闘機、そして高射砲の全ての防空部隊も、1人の司令官によって指揮できるようにした。そして最後に3つ目として、高射砲と戦闘機部隊の両方を強化すべきだとした。戦闘機部隊については、Kammhuberは、3個戦闘機師団で構成された軍団を更に3個合わせた、2,000機の夜間戦闘機を配下に持つ戦闘機航空艦隊(Fighter Air Fleet)の創設を考えていた。
 本質的には、Kammhuberの計画は夜間戦闘機の数を4倍以上に増やし、ドイツ本土と西部占領地域の防御を可能にしようというものだった。Kammhuberは増加し続けるイギリスとアメリカの爆撃機による脅威を明確に認識しており、この挑戦に対抗可能なようにドイツ本土の戦闘機防御力を拡大しようとしていた。1943年2月の時点で、535機の単発戦闘機と430機の夜間戦闘機がドイツ本土と西部占領地域を防御していた。しかし1943年3月には、単発戦闘機の数は507機に減少しており、一方で夜間戦闘機は433機と増加はしていたものの、増加数はたった3機だけであった。Kammhuberは、強化されつつあるアメリカ軍とイギリス軍による空襲に対抗するには、余りにも戦闘機が少ない事を認識していた。彼は、JeschonnekとWeise、そしてゲーリングに対して、自分の計画で航空戦のバランスを変えることができると説得した。しかし、決定権を持っていたのは結局はヒトラーだった。Kammhuberは総統司令部に出向いて自身の計画をヒトラーに説明したが、ヒトラーは連合軍の爆撃機部隊に必要となる戦闘機の生産量に関するKammhuberの見積もりを信じようとはせず、彼の計画を怒りながら廃棄させた。
 先のヒトラーの、「特別な注意」を夜間戦闘機部隊に払いたいという発言にもかかわらず、ヒトラーはKammhuberの提案する戦闘機航空艦隊の規模までの資源は、移そうとは考えていなかった。しかしヒトラーはルールの防衛を強化する必要性については忘れていなかった。ヒトラーはこのドイツ工業の心臓部に追加の高射砲中隊を送ると共に、幾つかの工場を安全な地域に移動するよう命令した。ヒトラーとの会談の後、Kammhuberは程なくして没落した。Kammhuberと総統の不一致と、更にKammhuberの考えたヒンメルベットシステムの効果が無くなっていたにもかかわらず、このシステムの改良を彼が頑固に拒否していた事とにより、彼のドイツ空軍における専門家としての名声も傷つき、彼の地位は失墜した。Kammhuberが栄光から没落したのと同時に、他の若い空軍パイロットが夜間戦闘機部隊の能力を向上させる提案と共に、表舞台へと現れてきた。


「野生のイノシシ(Wild Boars)」の誕生

 1943年3月に、ドイツ空軍参謀本部に勤めていた1人の若い爆撃機パイロットであるHajo Herrmann少佐(Major)は、加速する連合軍爆撃機の生産量に対して、ドイツ軍の戦闘機が不足することになるという報告書をまとめた。HerrmannはKammhuberと同じように、ドイツの夜間戦闘機部隊の増強が必要であると考えていたが、しかしHerrmannは夜間戦闘機の生産数の増加を要求しただけではなかった。生産数の増加に加えて、「1944年にかけて発生する夜間戦闘機の膨大な不足は、可能な限りの技術的、組織的、そして訓練に関する支援により、昼間戦闘機を夜間に使用することで補うことが可能である」と、彼は書いている。本質的にHerrmannの計画は、西部占領地域に探照灯地帯を設け、そこで夜間戦闘機が迎撃を行うという以前の手法(helle Nachtjagd)の部分的な焼き直しである。これらの探照灯の殆どは今ではドイツ本土へと撤去され、ドイツの諸都市上空の照明の中で夜間戦闘機がかつての西部地域と同様な機会を得られるようになっている。Herrmannの計画の革新的な所は、単発の昼間戦闘機によって、夜間にRAFの爆撃機と交戦するという事であった。
 KammhuberがHerrmannの計画に反対していたにもかかわらず、HerrmannはBerlin-Staakenにある飛行場から夜間に単発の昼間戦闘機で飛行する許可を秘密裏に得ていた。そして第1高射砲師団の司令官から照空中隊の協力の許可を得て、照射状況下において目標を模した空軍の爆撃機を迎撃できるかどうかの実地テストを行った。何度かの訓練作戦の後、Herrmannは1943年4月にベルリン上空において彼の技術を実際に試してみる事にした。そして彼はベルリンの高射砲部隊に対して射撃高度を19,500フィート以下に制限するよう要求したが、Weise大将は総統命令の存在を根拠にして、この提案をにべもなく拒否し、Herrmannは「飛行するのは自由だが、我々は何でも撃墜する」と言い渡されていた。Weiseが射撃高度の制限の要求を拒否したにもかかわらず、Herrmannは自身の理論をベルリン上空で試すことにした。最初の作戦で彼は、30,000フィート上空を探照灯と高射砲弾の炸裂にとらわれながら飛行する、RAFのモスキート戦闘機を撃墜することに成功した。しかしHerrmannは爆撃機の撃墜は出来ず、着陸した時には彼の操縦席の数フィート後ろに高射砲弾の破片で出来た穴が開いていた。
 捕捉し難く最も憎たらしいモスキートを迎撃したというHerrmannの言葉は、直ぐに空軍参謀の中に味方を作ることになった。Milchとの会談でHerrmannは、Brandenburg-Briestにある飛行学校で、パイロットを教育する為の少数の幹部を訓練する許可を得た。数十名のパイロットによる集団が5月から6月の間に訓練を受けたが、戦闘で交戦する機会は7月の初めまで訪れなかった。Herrmannの手法はWilde Sau、直訳で野生のイノシシとして知られているが、これは見境を無くして暴れる様を比喩したものであった。実際に、多くのドイツ空軍と高射砲部隊の将校は、Herrmannと彼の部下達がベルリン上空の夜間空襲の中、何トンもの高射砲弾の破片をくぐって飛行するには、どこか狂っていなければならないと感じていた。Herrmannの部隊は決定的に小さかったが、これをMilchが認可していたことは、1943年の春を通して日増しに高まる連合軍の空襲による脅威に対抗する為に、ドイツ空軍の指導者が次第に異端的な解決法を採る傾向になりつつあったことを暗示していた。


爆撃作戦の効果と、防空の効果

 5月末には、Harrisの作戦は相当な破壊をドイツ工業の中心地にもたらし、第三帝国の指導者達もRAFの攻撃による危険性を明確に認識させられることになった。5月31日のデーニッツとの会談の中で、ヒトラーは「我々は非常に強力でシステム的な攻撃を、我々の工業の中心に受けたが、防御手段のみでこの攻撃を長期間持ちこたえる事は不可能である」と自身の意見を述べている。実際にヒトラーは、爆撃機軍団の作戦に対抗して、イギリス本土への新たな空襲か、もしくは連合軍船舶に対する攻撃の拡大を計画していた。それからほんの2週間後にデーニッツがより多くの人員の要求を行った際には、ヒトラーは「そんな人員の余裕はない。ドイツの諸都市を守るべく、高射砲部隊と夜間戦闘機部隊の拡張が必要なのだ」と答えている。更にその数日後にはゲーリングが、その地域の夜間戦闘機の増加を含んだ、中部ドイツの工業地域の「特別防御」を命令している。
 RAFのルールに対する作戦は間違いなく、6月の中旬にはドイツの防空に対する圧力を増していた。しかし、ドイツ空軍の防空部隊も、同じ時期に爆撃機軍団に対して高い代償を払わせていた。表7.4は1943年の第2四半期における、昼夜、戦闘機、高射砲別のRAFの航空機の損失数の一覧である。


表7.4
1943年 戦闘機(夜) 高射砲(夜) 戦闘機(昼) 高射砲(昼)
4月 75 79 10 -
5月 131 76 11 4
6月 142 70 - -
合計 348 225 21 4


この期間の爆撃機軍団の損害から、1943年夏の航空戦に関する幾つかの洞察が得ることができる。まず最初に、この時期に爆撃機軍団は約600機の損害を被っているが、この事実はドイツの防空が成功していた事を示している一方で、RAFの爆撃機部隊の規模と戦力が増加している事も示している。ほんの1年前に同規模の損害を受けていたら、Harrisの部隊は壊滅していただろう。2つ目として、4月には高射砲による撃墜数が、夜間戦闘機による撃墜数を辛うじて上回っていたが、5月と6月においては、夜間戦闘機は高射砲の約2倍の撃墜数を記録している。戦争のこれまでの数年間と同様に、夜が短く、また天候が良い時期である事が、戦闘機が優勢になる重要な要素であった。3つ目に、高射砲部隊は1,496機に損害を与え、更に22機に修理不可能な損害を与えたが、一方で戦闘機は122機に損害を与え、更に8機に修理不可能な損害を与えている。そして最後に爆撃機軍団は、この時期に夜間作戦に出撃した全ての航空機の、4月に2.76%、5月に4.03%、6月に3.64%を失っている。この期間全体にドイツ国内の目標に対する空襲での損害の割合は、事故や原因不明も含めて、出撃回数に対して5.3%である。ただしこれらの割合は、目標を攻撃した航空機だけでなく、沿岸への機雷の投下や陽動作戦、そして離陸後に技術的もしくは機械的問題によって引き返した航空機の出撃回数も含まれている。


高射砲の隠れた効果:回避行動と爆撃精度

 ある面において多くの連合軍爆撃機乗組員は、目標への最終照準飛行の際に非常に似た傾向を示していた。1943年4月23日の会議でHarrisは、最近の爆撃作戦における戦術面での議論を行うべく、彼の部下の指揮官を招集した。その会議の中でHarrisは、南ドイツやイタリア、そして「偶にだがデンマーク半島を横断する場合」での攻撃時に、1,000フィート以下の低高度で侵入することの可否について議論した。しかし委員会は航行の困難さとドイツ空軍の軽高射砲から、ドイツの殆どの地域上空では不可能であるとした。またHarriseは目標上空において、「激しい回避行動」を行う航空機についての報告書が幾つも上げられている事に対する懸念を表明した。会議の出席者の1人であるDickens博士は、「防備の固い区域上空で高射砲の集中射撃が激しい場合には、却って何の回避行動も取らない方が、乱暴ではあるが助かる可能性がある事が確認されている」と言っている。このDickensの提案は、単に真っ直ぐに最高速度で飛行することで、高射砲空域に機体を曝す時間を最短にしろと言っているだけである。Harrisはこの議題を、乗員に激しい回避行動を回避する必要がある事を伝える為に、O.R.S.に報告書としてまとめるよう要求した。
 激しい回避運動は、例え目標が都市の中心部全体といった広さであったとしても、目標上空における操縦士の過剰な運動により爆撃精度が相当に落ちる可能性がある為に、極めて重要な問題であった。実際に3月における爆撃機軍団の経験では、目標点から3マイル以内まで爆撃照準飛行を維持できた操縦士は、全体の48%でしかなかった。確かに、突然に致命的な高射砲弾の炸裂に何の警告も無く出くわした時に、自らの運命を制御する為にある程度の回避行動は認められている。3月24日に出された爆撃機軍団の戦術的覚書は、目標上空での回避運動について記述されている。それは乗組員に対して次のように忠告している:

敵の対空防御が激しくなる中、我々も猛烈な砲火を浴びせられている。ほとんどの回避行動はこうした砲火の効果を最小にしようとして取られるのが普通だが、それによって爆撃の照準は大幅に不正確になり、多くの爆弾が無駄になっている。こうして敵は、その目的をかなりの部分で達成するのである。

この覚書は乗組員に対して、「現在、爆撃機の乗員によって行われている回避行動の殆どは、いかなる種類の対空砲火に対しても全く無意味である」と警告し、「回避行動によって爆撃の正確性が犠牲になっている」と強調している。
 爆撃機軍団の同僚である第8航空隊でもまた、アメリカの行う爆撃作戦の第1年目において、既にこの事象について触れている。Curtis E. Lemay(ルメイ)大佐は、第3師団を引き継いだ後に部下の飛行集団の指揮官達を集め、目標上空における回避運動について議論を行った。理論上、爆撃手は照準開始点(initial point、IP)から目標に向けての最終照準飛行の間、ノルデン照準器を使って航空機の操縦を行う。この時、照準器は自動操縦装置に接続され、爆撃手の位置から航空機を操縦可能なようになっている。しかし実際には、操縦士が最終照準飛行中も自動操縦装置の上から操縦を続けていると、ルメイは指摘している。ルメイは「あまりにも多く、作戦を指導すべき指揮官操縦士(?command pilot)が、作戦失敗の原因となっているのだ。高射砲の炸裂を見る度に、操縦桿を倒して爆撃機を目標から逸らせてしまうのだ。」と部下の指揮官を叱責した。更に「爆撃照準飛行で重要な事はただ1つ、回避行動を行わない事だ」と続けている。自身の回想録の中でルメイは、第8航空軍の初めての爆撃を「酔っ払いの行為」だと書いている。そして「目標上空での回避行動は、まるで標準作戦手続(?SOP、standard operating procedure)だ。誰もが皆これをする。そして誰もが皆、爆弾をあらぬ方向へまき散らすのだ」とルメイは続けている。
 こうして高射砲陣地は、爆撃機軍団とアメリカ陸軍航空隊の乗員の回避行動を増やす事により、その爆撃精度を減じていたのである。第8航空軍の場合は、個別目標の「精密爆撃」というアメリカのドクトリンからすれば、高射砲を回避する運動の影響は、より一層重大であった。この面においては爆撃機軍団の絨毯爆撃主義は爆弾の散布幅がより広くても許容されるだろうが、しかし第8航空軍の場合には、回避運動を行いながら個別目標に命中させる見込みは、ほとんど零に近いのである。


対空防御の改善:ドクトリンからのアプローチ

 Herrmannの「野生の猪」のような非正規手法の採用に加えて、ドイツ空軍はまた、ドイツ本土の防空を改善する、より通常的な手法も追及していた。例えば、1943年3月にドイツ軍は戦闘機と高射砲の協調問題をも広く扱ったマニュアルを出している。このマニュアルには、次に挙げるような高射砲と戦闘機との間での協調に関連した一般的な考察が書かれていた。:

高射砲による防御を強化するには、昼間戦闘機と夜間戦闘機の利用が最も重要である。戦闘機と高射砲のどちらもを運用する区域では、戦闘機が前方防御を行う。
防空を成功させるには、昼夜間戦闘機、高射砲、そして早期警戒システムの指揮官の間に綿密な連絡が必要である。特に戦闘機師団と高射砲師団の指揮官の間には、直接の連絡が必要である。もしも司令部が共に近い位置に存在しなければ、連絡将校を派遣して電話による通信手段を確保するべきである。

ドイツ空軍による戦闘機と高射砲の間の協調作業の記述は、幾つかの面で重要である。まず1つ目に、戦闘機と高射砲の活動区域を物理的に分離する方針を重視していることが明確であることである。2つ目に、戦闘機と高射砲、そして航空情報隊の間の密接な協調と連絡の重要性を認識している事である。そして最後に、高射砲部隊と航空部隊との間で、連絡将校に師団レベルで権限を与えていた事である。この3つ目の手法は、その年の終わりに「高射砲作戦指揮官(flak mission commander, Flakeinsatzfuhrer)」という地位を、各戦闘機師団に作ることによって正式なものとなった。この高射砲作戦指揮官は優秀な(?proven)高射砲連隊長から選ばれ、師団長と同等の地位にあった。そして、高射砲作戦指揮官の新設と、この役職に就く高射砲将校に高い能力が要求されていた事とは、戦闘機と高射砲との間の協調の重要性が増していた事を表しているといえる。
 このマニュアルではまた、昼間と夜間とでの、高射砲と戦闘機との間の連絡に関する追加説明がなされている。昼間の作戦においては、マニュアルは6個の追加ルールを提示している。:

(1)敵機に対しては、高射砲と戦闘機の両方でもって交戦する。
(2)戦闘機指揮官は、警戒部隊と高射砲師団もしくはその場の高射砲部隊の指揮官に対して、戦闘機の離陸、位置、高度、着陸の各情報を通知すべきである。高射砲師団もしくはその場の高射砲部隊の指揮官は、戦闘機指揮官に対して肉眼もしくはレーダーによって認識している敵機の数と高度とを通知すべきである。
(3)ルールとして、いかなる敵攻撃部隊の先導機も、高射砲が交戦する。
(4)戦闘機指揮官は、敵機を攻撃する際に、どの範囲まで高射砲区域に侵入するかを決断すべきである。高射砲の射撃を瞬時に中止する事は常に可能とは限らないので、戦闘機指揮官は高射砲火の危険性を受け入れなければならない。地上部隊も交戦区域に戦闘機を視認したならば、直ちに射撃を中止すべきである。
(5)戦闘区域に敵機が単機で侵入してきた場合に戦闘機指揮官からの要求があれば、高射砲指揮官は交戦中止を命令すること。
(6)戦闘機は、軽高射砲の交戦区域への侵入を避けること。

昼間作戦でのこのような追加の指針が出されているという事は、軍事作戦計画者が戦闘機と高射砲とを物理的に分離しようとしていたものの、この分離が常に可能なものでもないとも認識していたことを表している。そして戦闘機パイロットには、高射砲空域へ侵入するか否かの決定に関して、かなりの裁量が与えられていたのである。
 編隊先導機への集中砲火の指示は、アメリカの航空隊では編隊機に爆弾投下地点を指示する編隊の先頭機に、最も優秀な乗員と先導爆撃手とを配置するという習慣があることに対応したものである。ドイツ空軍の高射砲部隊がこの手法によってかなりの成功を収めた事を、ルメイは戦後の回想録の中で述べている。「こうして、敵の高射砲は先導機の撃墜に集中した。」そして、「漠然とながら、我々が育成するよりも多くの先導機乗員を失っている事が判明してきた。そして遂にそれに気づくと、我々は先導機乗員の訓練計画に相当な数の乗員を送り込んだのである」と書いている。先導機への集中砲火は、アメリカの爆撃作戦の独特な特徴に対して、高射砲部隊が教義的、戦術的に特化する能力を持っていたことを示している。
 またこのマニュアルは高射砲の夜間戦闘機との協調にも触れているが、無論の事(?as well by that)、高射砲と夜間戦闘機との協調は、「高射砲が自国の戦闘機と交戦する事を防ぎ、そして最大の火力を敵機に振り向ける」為に「特に重要」であるとしている。そしてこのマニュアルでは、夜間戦闘機司令部は高射砲師団司令部に隣接するよう指示している。更にマニュアルでは、高射砲と夜間戦闘機の作戦の為に以下のような5つのルールも決めている。:

(1)その場の高射砲指揮官のみが、目標区域そのものの防御の権限(responsibility)を持つ。夜間戦闘機はその範囲外の防衛を受け持ち、特定の目標物の防御については権限を持たない。
(2)夜間戦闘機区域においては、特別な状態でない限り、高射砲は全ての高度において発砲する権利と、最大高度まで阻塞気球を上げる権利も持つ。
(3)軽高射砲の集中射撃区域においては、夜間戦闘機は高度1,000m以上を飛行し、高射砲もその高度まで射撃を行う。ただし、夜間戦闘機は1,000m以上にも高射砲弾が飛来する危険性を考慮しなければならない。
(4)区域を敵機が単機で飛行している場合か、もしくは夜間戦闘機隊が困難を覚えるか、もしくは夜間戦闘機と地上管制が取れなくなった場合には、夜間戦闘機指揮官は高射砲指揮官に対して、射撃中止を求めることができる。
(5)夜間戦闘機司令部には、高射砲連絡将校を置くこと。

夜間作戦におけるルールも高射砲部隊に対して明らかに有利なものとなっているが、夜間戦闘機が独立して活動可能な空域が幾らか設定されている。それに加えて、連絡将校を重要視していることから、高射砲部隊と夜間戦闘機との作戦を協調させることに引き続き努力していることもわかる。


対空防御の改善:技術面からのアプローチ

 6月中旬は、ドイツ空軍高射砲開発委員会(Flak Development Comittee)は高射砲部隊の効果を向上させる幾つかの技術開発を行っている真っ最中であった。その中の1つは、55mm中型高射砲の開発であった。ドイツ空軍は55mm高射砲を、高度約15,000フィートまでの敵機に対する自動火器として位置付けていた。初期の計画では、この55mm高射砲と共に特別な火器管制装置を製作し、完全に統合された兵器システムとなるはずであった。Milchは計画の優先度を上げ、追加の技術者と特殊作業者の手配も行ったが、大量生産を行うにはまだ1年以上かかる見通しであった。それに加えてクルップ社とラインメタル社は150mm高射砲の新しい試作品製作も続行していたが、こちらは9月に計画そのものが中止されてしまった。ドイツ空軍はまた、2,000門の88mm高射砲18型と36型の能力向上の為の改造も開始していた。
 1943年の夏には、円盤状の弾頭(disk-shaped projectile、DiskusgeschoS)と焼夷榴散弾(incendiary shrapnel)を含む、実験的な弾薬に対しても研究の重点が置かれるようになった。前者は当初の予想程の性能が出ず研究は中止されてしまったが、後者は潜在的な能力も表れ、1944年にはある程度の成功を収めている。炸薬が爆発すると、焼夷弾は航空機の外皮を突き破って電線や燃料システムに損害を与えることが可能な72個の子弾に分裂するのである。ドイツ空軍は1943年に「空中地雷(Luftminen)」も採用している。この空中地雷は靴箱(?shoebox)程の大きさの飛翔体で、高射砲部隊によって爆撃機の編隊の上空まで打ち上げられると爆発してバラシュート付の幾つもの小型爆弾を放出し、爆撃機の編隊の中へと落下させるというものである。それに加えて、88mm高射砲弾の信管を時限信管と触発信管とを兼ね備えたものへと改良する提案もなされた。von Renz大将によると、シュペーアの軍需省のある局長が、このタイプの弾薬は運搬中に危険性が高くなる事を根拠にして、このアイデアを拒否したとのことである。後に1945年になって承認されると、このアイデアは高射砲兵にとって相当に決定的な効果を持つことが判明し、この時限・触発信管は戦争の最後の数ヶ月間に試験運用されると、劇的な成果を挙げることになった。


高射砲とV-1、V-2ミサイル

 皮肉にも、1943年6月にドイツ空軍の上級高射砲将校(?senior flak officer)であるvon Axthelm大将の頭の中を占めていたのは、高射砲でも弾薬でもなく、ドイツの飛行爆弾(V-1)計画であった。実際に、連合軍の爆撃が強化されていく中で、第三帝国の指導者達が考えていたのは爆撃への防御手段ではなく報復手段であった。3月9日の私的な会議の中で、ヒトラーはゲッベルスに対して「イギリスのテロ行為に対しては、こちらもテロ攻撃で応えるべきである」と打ち明けている。ヒトラーがイギリスとアメリカによる空襲に対する報復を決定したのは、ドイツ市民に対する空襲、中でも爆撃機軍団の無差別空襲への反発からであった。
 イギリス国民を戦争に引きずり戻す為の手段がV-1とV-2のミサイル計画であった。シュペーアの支援の下、「長距離爆撃委員会(Long Range Bombardment Commission)」は1943年3月26日に2種類のミサイルの比較を行ったが、差はきわどいものであった。V-1側に2つの失敗があったにもかかわらず、委員会は双方の計画を推進することにした。6月頭にヒトラーは、連合軍の爆撃作戦への報復の為の、完全兵器としての2種類のミサイルを閲覧した。6月18日の会議でvon Axthelmはゲーリングに会い、V-1計画の進行状況とミサイルの作戦運用の為の高射砲部隊の計画について議論を行った。Axthelmはゲーリングに対して、予定されている96基の発射場と、司令部と補充施設の建設準備の提案について説明を行った。ゲーリングはvon Axthelmによって提案された施設の建設を「可能な限り至急に」行うよう命令した。それに加えてゲーリングは、シュペーアと第三帝国の捕虜労働者の責任者であるFritz Sauckelと連絡を取り、開発と生産を行う為の追加の労働者と資源とを要求することにも同意した。そして最後にゲーリングは、開発段階の終了時までに何と50,000基ものミサイルの生産を行い、それによってミサイル運用計画をヒトラーに説明するつもりであると言った。
 既に人材不足が酷くなっていた高射砲部隊から、更に多くの将校と人とを引き抜いてしまう事から、V-1の開発と試験は高射砲兵にとって影響が大きかった。高射砲将校だったOberst Max Wachtelは、他の特殊な計画での経験を買われてV-1部隊の指揮官に選ばれたが、高射砲部隊が選択されたのは秘密兵器の特性を偽装するためであった。1943年8月3日にドイツ空軍は飛行爆弾の作戦運用の為の準備試験を実施する為に、第155高射連隊(W)を創設した。この連隊の人員は空軍中から集められたが、多くは高射砲部隊からで、人数は7,000名弱であった。1年後の1944年6月にV-1が実用段階に至ると、Wachtelは更なる人員をヒトラーに求めた。ヒトラーはWachtelの要求に応え、第255高射連隊(W)を追加し、第155高射連隊(W)と合わせて第5高射師団を創設した。従来の防空任務とは全く無関係な計画で優秀な高射砲部隊が編成される事になったが、これは戦争中盤において高射砲部隊に負わされ続けていた幾つもの要求の内の1つでしかなかった。
 しかし高射砲部隊とミサイル計画との連携は、幾つかの潜在的な利益をもたらした。V-1とV-2の主要な目的は復讐兵器であったが、空軍の指導者はV-2を改良して対空ミサイルの役割を担わそうと意図していた。Milchは1942年12月には既に、高射砲連絡将校を陸軍のV-2計画に付属させるよう命令していた。Milchはvon Renzを対空ミサイル開発計画の指揮官に任命していた。そしてドイツ空軍の高射砲将校は、陸軍においてV-2が成功すれば、対空ミサイルもその5年以内に可能となるとの予測を立てている。
 1943年1月16日にvon Axthelmは、Walter Dornberger大将、Werner von Braun、von Renzといったミサイル計画での指導者的役割を担っている技術専門家や、ドイツ工業界の代表者数名と会談を行った。その中で2つの計画について議論を交わした。1つ目は、ラインメタル社の技術者の提案した固体燃料を用いた対空ロケット(Pulverflakrakete)で、高度約19,700フィートまで届き、光学装置で誘導を行うというものであった。2つ目は、陸軍の液体燃料式地対地ミサイルA-4(V-2)を対空ミサイルに改良し(コードネーム、滝、Waterfall)、レーダーからの情報をリンクして遠隔誘導を行うというものであった。von Braunから、2つ目の計画は技術的に困難な為に留保が付けられたにもかかわらず、1944年の終わりまでにミサイルの飛行試験を行うという目標が立てられた。
 1943年の夏、計画の成功に対する高い期待から、将来、月産10,000基のミサイルを生産するという予測すら出された。この面においてvon Renzは、対空ミサイルと既存の高射砲との間で効果の予測を比較した資料を作成しており、計画への期待を高める中心的な役割を担っていた。表7.5はvon Renzの資料を要約したものである。:


表7.5
兵器 撃墜に必要な弾数 炸薬(t) 推進薬(t)
88mm36型 3,000 2.7 9.0
88mm41型 3,000 3.0 15
105mm39型 3,000 4.5 18
対空ミサイル(滝) 2 0.2 4.0


航空機1機の撃墜に2基のロケットで充分だという異常な予測にもかかわらず、von Renzは対空ミサイルと戦闘機の併用だけが「密に組まれた防御(tightly knit defense、geschlossene Abwehr)」を実現し得るものだと指摘している。いったい何がvon Renzを、対空ミサイル計画に関する、信じられないほど楽観的で、幻想的でな予測へと駆り立てたのかは判らない。一方でvon Renzが高射砲への言及を行わず、高射砲と戦闘機のバランスを取ることが必要であると述べていたということは、彼が高射砲に対する信頼を失っていた事を示しているようである。またその一方では、ドイツ空軍の官僚機構における彼の地位を強化する試みに対して、Milchが賛意を与えてくれると確信していたという事を、実際には示そうとしていたのではないか。少なくともこの場合、von Renzの非現実的な予想は、彼のやる気がどんなものであったとしても、先輩格の高射砲技術将校としての専門的技術を良く反映していない事は明確である。
 結局、ミサイルの管制と誘導が抱える多大な技術的問題を解決するには、研究への多くの投資と相当な量の資源とを必要とする事が、すぐに明白になったのである。実際に、ある報告書での見積では、14,000名の労働者による月産5,000基の生産ラインを準備、教育するには、110万人時間を少し超える程の労力が必要になるとしている。更に競合相手であるV-1とV-2のミサイル計画による労働者と資材の要求によって、対空ミサイル計画を加速させることは不可能になってしまった。実際に1943年6月に、ドイツ化学工業界の公式の代表者の1人であるCarl Krauch博士が、V-1とV-2の計画の前に対空ミサイルの開発を行うべきであると提案を行っているが、ヒトラーによって即座に拒否されている。こうした問題にもかかわらず、1943年10月の報告書で高射砲開発部(Flak Development Group, Amtsgruppe Flakentwicklung)はMilchに対して、主に対空ミサイルによってドイツ本土を防衛するとした、高射砲と対空ミサイルとを統合したドイツ防衛区域の計画を提案している。1943年12月には、高射砲開発部はミサイルの運用に関する「包括的な勧告」を出し、ミサイル作戦を支援する地上部隊の概略を述べるまでに至った。しかし結局は、高射砲部隊で少数の非誘導固体燃料式ロケットが採用されたものの、殆ど効果を上げることもなく、ドイツ空軍による誘導式対空ミサイルは幻に終わったのである。


「野生の猪」の実戦参加

 1943年の夏には、毎夜のようにドイツ本土に対して行われるRAFの爆撃機による大規模な空襲に対して、ドイツ空軍はまだ見ぬ「超兵器(wonder weapons)」の出現を待つ余裕も無くなり、どんな手段でも使わざるを得ない状況になっていた。7月の初めには、Hajo Herrmannの「野生の猪」は、初の実戦参加への準備を終えていた。7月3日の夜、Herrmannは9人の部下と共にMonchengladbachにある飛行場で戦闘機に乗り込み、航空情報隊からもたらされる敵爆撃機の位置情報を待っていた。戦闘機部隊はルール地方に対する空襲を見越して緊急発進を行った。戦闘機部隊は20,000から23,000フィート上空を、自軍の高射砲火の心配も無く飛行していたが、これはエッセン、Duisburg、Bochum、そしてDusseldorfといった都市を含む、ルール地方の大部分の防空を担当する高射砲部隊の指揮官であるJohannes Hintz大将の同意を取っていたからである。Herrmannの部隊は、西部占領地域で行われているヒンメルベッド手法によって夜間戦闘機の迎撃を受けた後の敵爆撃機が、水平線の向こうからどっと現れるのを凝視していた。しかし驚くべきことに、爆撃機の編隊はRuhrへは向かわず、ケルンへと向かっていったのである。
 Herrmannは戦後の回想録の中で、その時の状況を以下のように書いている。:

我々はHintz大将の高射砲部隊でなく、(事前に同意を取っていない)第7高射砲師団の管轄であるケルン-Mulheim上を飛行していたが、ここでは爆撃機と戦闘機とが見境なく照射されていた。高射砲部隊は、我々の戦闘機の胴体のフラッシュライトや航行灯に注意を払う事も無く、我々を射撃した。探照灯の照射が我々の周りに集中し、目の前で味方の高射砲の雷のような炸裂音を聞かされた。あの夏の夜の戦闘は無我夢中で、無数の高射砲弾の炸裂片や目前の危険も忘れ、我々は怒りと共に魔女の湯だった大鍋(witch's cauldron hot)の中に突っ込んで行き、夢中で駆け抜けた。文字通り、野生の猪(Wilde Sau)そのものだった。

夜の終わりまでに、ケルン上空で12機の爆撃機が撃墜された。Herrmannは12機全てを自分達戦闘機隊の手柄だと主張したが、この主張によってHerrmannと第7高射師団との間がぎくしゃくした。結局、Herrmannの航空隊と高射師団とで6機づつを分け合う形で収められた。誰が爆撃機を撃墜したのかについての争いは、幾つかの面で興味深いところがある。まず、Herrmann本人にとって全てを撃墜したと主張した方が、彼の新しい夜間迎撃手法の結果として、明らかに都合が良かったということである。2つ目に、空中戦においてドイツ空軍の戦闘機パイロット達は(相手である連合軍パイロットもだが)、例え正直であったとしても、撃墜数を多めに数えてしまう事で知られている。例えば、バトルオブブリテンのある時点において、それまでの空中戦で申告された撃墜数を基に計算を行うと、イギリス全土で既にRAFの戦闘機は存在していないことになっていた。3つ目として、確認された高射砲の撃墜数を受け入れた厳格な指針により、その後のHerrmannの撃墜申告数の信頼性は低くなってしまった。そして最後に、高射砲の支援が無かったとしても、Herrmannの部隊の成功の多くの部分を、地上防空に負っていたということである。実際に野生の猪の手法は、会敵の為の照射と、そして戦闘機の攻撃を有利なものとする為に、探照灯や高射砲に完全に依存していたのである。
 ケルン上空での野生の猪の成功は、注目されないわけには行かなかった。Herrmannの言葉で言うならば、「戦闘機と高射砲の共同作戦は、全ての航空管区(Air District, Luftgau)の興味の対象となった」のである。WeiseはHerrmannに対して、高射砲の弾幕のど真ん中で作戦を無事遂行したことを称えた。そして、まずはJeschonnek、次にゲーリングが、Herrmannに対して個人的に、野生の猪の手法について説明を求めた。最初の会談で、JeschonnekはHerrmannを、3個の別々の飛行団(wing、Gruppen)から集められた昼間戦闘機によって構成された、夜間戦闘機飛行群(group、Geschwader)の指揮官に任命した。それから後の7月6日にMilchと会談した際に、Herrmannは彼の目的を次のように説明している。:

ルールの高射砲師団の受け持ち地域は照明の状況がかなり良く、平均して80から140機の空襲へ向かう途中の敵機を探照灯で捕捉する事が、それも2分以上も連続して可能である。私は部下に、2分以上探照灯に捕捉された敵機は必ず撃墜しろと要求している。十分な数の戦闘機さえ確保できれば、更に80機の爆撃機を撃墜できるだろう。

 昇進した後、Herrmannは自身の夜間戦闘機部隊と、空軍の高射砲と照空部隊との間の協調方法の改善にも乗り出した。その1つとして、ドイツ上空を旋回して待機している夜間戦闘機に、イギリスの攻撃の方向を高射砲部隊から打ち上げた照明弾によって指示、誘導するという手法が導入された。実は第一次世界大戦時にも、この戦術と同じように攻撃してきた航空機の大体の位置を高射砲が射撃を行って戦闘機に指示していた事がある。それに加えてHerrmannの夜間戦闘機部隊は、自身の位置確認にも探照灯に頼っていた。地上には2基から4基の探照灯で構成された部隊がある特定の間隔で配置され、ドイツ国内の特定の都市を指示したり、ドイツ中の飛行場と重要な都市との間に垂直に向けられた照明で通路を作っていた。実際に、Herrmannの戦闘機部隊を目標へと誘導する主要な手法は、こうした探照灯による案内や高射砲陣地から打ち上げられる照明弾であった。
 地上防空部隊との協調に努力を払っても、高射砲地域での爆撃機の迎撃は、戦闘機パイロットにとって相当な危険を伴う事であった。Herrmannはベルリンを空襲する爆撃機軍団の中での一般的な混乱の状況を、次のように的確に書き記している。:

R/T(無線通信、radio transmitter)は雑音しかしなかった。悪態は乱舞し、それらはお互いに向けられ、味方に砲弾を浴びせかける高射砲やパイロットの目を眩ませる探照灯に向けられ、そして撃墜されずに飛行する敵機に向けられ、そして自身の間抜けさと運の悪さについても悪態をついた。高射砲部隊側の悪態が溢れていたのは別の周波数帯だったために、我々の耳には入らなかった。全てが赤く見えた。

ある交戦で、Herrmannは既に高射砲火を浴びている航空機に近づいた。地上の高射砲部隊に照明弾を発射して離れろと合図したが、信号弾を見ていないのか無視したのか、射撃は止まなかった。Herrmannは高射砲手には嫌気がさしていたが、一方で探照灯手の能力については「優秀」だと評価していた。彼は照空部隊の能力について、「一度でも爆撃機を捉えたら、撃墜されるまで決して離さなかった」と述べている。結局のところ、ベルリン上空はイギリスの爆撃機とドイツの戦闘機のどちらにも危険であり、そして双方で込み合っていたのである。


高射砲と誤射(Fratricide、味方撃ち)

 Herrmannの記述から推測すると、数多くのドイツ軍戦闘機が味方の高射砲の犠牲となっているようである。実際に味方の射撃による墜落が発生しており、ドイツ空軍もこれを明確に認識していたが大きな問題ではなかった。1943年に失われた航空機の内の229機については操縦士はドイツ領まで生還し、肉体的な傷が無ければ例え精神的障害があっても任務に復帰させられた。その一方で、ドイツ空軍は同じ年の初めの8ヶ月間だけで、1,788名の戦闘機パイロットを各種の原因で失っている。表7.6は、1943年にドイツ上空で、味方の高射砲によって失った戦闘機の数を月別にまとめたものである。


表7.6
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月 合計
24 18 12 11 23 12 29 35 21 10 14 20 229


この味方撃ちによる損失数によって、1943年の高射砲の能力についての2つの考察を得ることができる。まず1つに、冬季に比較的損失が多いのは、一般に悪天候の時期である為に弾幕射撃かレーダー射撃を行わなければならなかった事が主な原因であると推測できる。もう1つの7月と8月の損害数については、次の3つの原因が挙げられる。第1に、RAFの夜間空襲の出撃延べ回数は7月に6170回、8月に7807回と、その年の中でも最も多く、それに次いで6月の5816回となっている。第2に、野生の猪手法を始めた事から、より多くのドイツ空軍の戦闘機パイロットが、自軍の高射砲部隊の危険にさらされる事になっていた。そして最後に、爆撃機軍団は7月24日夜のハンブルグへの大規模な空襲において、ドイツ軍のレーダーネットワークへの新しい対抗手段を導入したことが挙げられる。この対抗手段によって、ドイツ空軍は一時期、弾幕射撃を多用しなければならなくなったのである。


「ウィンドウ(Window)」の導入とハンブルグの破壊

 爆撃機軍団は古いハンザ同盟の都市であるハンブルグに対して、1940年5月から1943年7月の間に100回近くも空襲を行っていた。しかし、7月24日の午後から始まったゴモラ作戦と名付けられた一連の空襲は、それまでの空襲が比較にならない程の効果をあげることになった。約800機の航空機がイギリスを離陸したが、搭載した爆弾の量は、1平方キロメートル当たりで徹甲爆弾が7発、高性能爆弾が147発、白燐爆弾が469発、ナパーム弾が29発、そして焼夷弾が17,580発であった。このイギリス軍部隊に対して、ドイツ本土や西部占領地域でドイツ空軍の夜間戦闘機部隊と、ハンブルグ周辺で54個重高射砲中隊、26個軽高射砲中隊、22個照空中隊、そして3個の煙幕中隊とが迎え撃った。しかしRAFは、ハンブルグへ行く途中とハンブルグを空襲する際とに、防空力を中和してしまう新手法を登場させたのである。
 ドイツの海岸からまだ80マイルも離れた場所で、PFFと主力部隊の航空機は、コードネーム「ウィンドウ(Window)」と呼ばれる、長さ12インチのアルミ箔の帯を2,200本を1つに束ねたものを、1分間に1束の間隔で何百束と投下した。Peirseが数年前に要求していた手法を、RAFは遂に実行したのである。箔片の束は落下するにつれて広がり、レーダーの反射材で出来た雲は大きくなり、それによって地上のウルツブルグレーダーだけでなく夜間戦闘機の機上迎撃レーダー(Lichtenstein)が盲目状態にされてしまった。この状況下にあった人の言葉で表すならば、ある地上レーダーの操作員は「反射点がまるで巨大な虫の群れのように無数に出て解読不能となり、何が起こっているのか全く分からない」状況に直面していた。同様に、あるドイツ空軍の夜間戦闘機パイロットは、「暗闇で釣りをしている」のと同じ状況だったと記述している。射撃用レーダーが使用不能となった事から、照空部隊の探照灯も狙いも定まらず空を照らして右往左往するだけで、高射砲部隊も一か八か弾幕射撃を行うしか無かったが、少なくとも爆撃機の幾らかを追い散らしただけに終わった。
 この作戦で、RAFは12機の航空機を失ったが、これは離陸した全ての航空機の1.5%と、かなり低い割合であった。一方でゴモラ作戦の第1段でのドイツ側の損害は、市民の死者が1,500人で、家を失った人が20万人にも上った。ゲッベルスは、この空襲によってハンブルグ市民だけでなくハンブルグの兵器産業にも「多大な影響」が出た事を嘆き悲しんだ。ゲッベルスは、「この空襲によって、これまで多くの人が抱いていた敵の航空作戦が今後も激化し続けることは無いという幻想は、遂に打ち砕かれてしまうことになるだろう。(?文脈が通るように意訳)」と厳しく指摘している。彼はまた、ドイツ軍による爆撃機の撃墜数が少なかった事を批判し、その原因の1つを、空襲のたった2日前にハンブルグにあった幾つかの重高射砲中隊を南のイタリアへと移動させたWeiseの決断に帰している。高射砲中隊を南方へと移送するというWeiseの一見不可解な決定は、丁度同じ時期に地中海で起きていた出来事に対応するためのものであった。7月10日に連合軍がシシリー島へ侵攻を開始し、また同時にイタリア人が戦争の続行を望まない兆候が広まりつつあり、その為にドイツ軍は1943年夏の時点でイタリアへの大規模な軍事的増援を必要としており、ハンブルグの重高射砲中隊の転用もその1つであった。
 シシリー島への連合軍の侵攻は、島のドイツ軍にとっては奇襲であったが、RAFによる「ウィンドウ」の使用は、ドイツ空軍によって長い間予想されていた事であった。実際にドイツ軍は1942年の冬にバルト海において、良く似た装置についての一連の試験を行っていた。この試験によって、仮に連合軍がレーダーの周波数の半分の長さの帯状の箔片(チャフ)を用いた時に、地上レーダーに「悪影響を及ぼす」事が判明した。実際に、1人の技術者はMilchに対して、「もしも連合軍がこうした箔片を大都市上空に雲のように撒き散らしたら、空中に20分から30分の間漂い、我々のウルツブルグレーダーは一時的に無効化されてしまう事になる」と警告している。ドイツ軍はこれらの試験を完全に秘密とし、遂にはこれらの手法が連合軍に漏れて妨害手法を使われることを恐れて、対抗手段に関する作業を禁止してしまった。その為にドイツ空軍が対抗手段の追及を始めたのは、ハンブルグへの大空襲の後になってからであった。
 ハンブルグへの攻撃は、7月24日の夜だけでは終わらなかった。7月25日の日中にも、街の上空をまだ分厚い煙が覆っていたにもかかわらず、68機のアメリカの爆撃機がハンブルグの潜水艦の造船所を、67機がキールの潜水艦基地を爆撃した。しかし損害は大きく19機が未帰還であり、その内の5機は報告によると「何度となく、強力で正確な」と表現された高射砲によるものであった。その翌日には、約200機のアメリカ軍爆撃機がドイツ北西部のハノーバー、ハンブルグ、そしてその他機会に応じた目標に対して攻撃を行った。この一連の空襲で24機を失い、その内の13機は戦闘機、7機は高射砲によって撃墜され、そして4機は原因不明であった。この2日間で第8航空軍は10%を越す損害を被った。アメリカ軍によるこうした日中の空襲から、昼間で天気が良ければ、ドイツ空軍の戦闘機部隊も高射砲部隊も、レーダーの有無にかかわらず、変わらずに高い損害を与えることが出来ていたことがわかる。実際に、射撃指揮装置を使用した光学機器による照準手法は、戦争を通じて最も効果的な航空機の照準手法でありつづけた。ある評価では、光学照準による射撃による効果がレーダーを使用した射撃の効果の5倍以上であったとしている。それに加えて、RAFのチャフの使用によって当初は混乱が増していたにもかかわらず、ドイツの防空部隊は素早く状況に対応して、探照灯によって最初に目標を捕捉するか、もしくはチャフがバラけるまで待つようになった。
 7月27日に開かれた軍備委員会(armaments conference)において、その前の2日間でドイツ空軍の防空が成功していたにもかかわらず、Milchは「我々は既に攻勢に立っていない。1年半もしくは2年間、我々は守勢であり続けた。ドイツ空軍の指揮が最高水準にあるにもかかわらず、この事実は、今また明確に認識されている。」と不平を述べている。Milchは沈痛な面持ちで、それまでの3ヶ月間、ドイツ本土の防空に就く戦闘機の数を増加しようと努力していたが、成功しなかった事を指摘した。彼はまた戦闘機を増加する事で、ハンブルグとハノーバーに対するアメリカ軍の空襲を「不可能にする」事が出来ると見ていた。その日の晩、RAFは700機以上の爆撃機と2,300トンを超す高性能爆弾と焼夷弾により、ハンブルグを再び空襲した。爆撃を集中した結果、非常に良い結果となった。天気が乾燥しており、また先の空襲での損害がそのままで水道がほとんど使えない状態で、それによって発生した火事嵐(firestorm)が街を飲み込んだ。その大火は黙示録さながらで、大通りのアスファルトが溶け、直径1mもある木々が根ごと引き抜かれ、街の運河の水面下にあった太い木製の杭ですら焼けてしまった。この1回の空襲で約4万人が死亡したが、その多くは、火事が街中の地下や防空壕から文字通りに酸素を奪ってしまったことによる、窒息死であった。
 ハンブルグの破壊を完全なものとする為に、RAFは7月29日の昼と、更に8月2日の夜と、2回の空襲を継続して行った。一連の「ハンブルグの戦い」で、爆撃機軍団は延べ3,000機以上出撃し、8,500トン以上の爆弾‐その殆どが焼夷弾を、750年の歴史を持つ街に投下したのである。それだけの大規模な攻撃であったにもかかわらず損害は特に少なく、損失は全体でたった87機で、全ての出撃回数における割合は2.5%であった。この空襲までにハンブルグに対して行われた空襲全体での損失は6%であり、その半分以下の損害率であった。チャフの使用による混乱があったものの、1回目の空襲でのRAFの損害率は1.5%、2回目の空襲では2.2%、3回目は3.6%、そして8月2日夜の4回目の空襲では4.1%であった。そしてこれらの損害の内の約25%が高射砲部隊による戦果で、残りは、探照灯の支援を受けたものも含め、夜間戦闘機によるものであった。


ドイツ本土の防空の強化

 イギリスとアメリカによるルールとハンブルグに対する空襲の精神的効果は、ドイツ中の民衆の間に波紋を立てた。空襲の後、親衛隊情報部(Security Service)はハンブルグ空襲が「ドイツ全体の民衆」に「衝撃的な影響」を与えたと報告している。またドイツ西部の工業地帯では、政府(Berlin)がラインラントを「見限った」という噂も広まっていた。その上、ある親衛隊情報部の報告書では、多くの人がゲーリングの大失敗を非難し、何故ドイツ空軍はこうした大規模な空襲を防ぐだけの十分な防御力を持っていなかったのか疑問に思っていると指摘している。また、ドイツ空軍がイギリスに対して報復攻撃を実施しようとしない事に我慢ならない人の数が増加しつつあるとも報告している。こうした市民の不満と、ドイツ第2の大都市が受けた物理的な大破壊の衝撃から、ドイツの防空を改善する為の手段探しが、大急ぎで実施されることになった。
 ハンブルグへの2度目の空襲の後の7月28日に、ゲーリングはMilchにドイツ空軍の今後の生産の重点を、ドイツ本土の防空を考慮したものに置くよう命令した。それによってMilchは、ドイツ空軍の夜間戦闘機用の、イギリスの電子妨害に耐性を持つ空中迎撃用レーダーの開発と生産を急ぐよう命令した。ハンブルグの破壊による大きな衝撃はまた、ドイツの防空の改善についての追加の提案をもたらした。7月29日、参謀本部の爆撃機パイロットであるVictor von Lossberg大佐は、1機の夜間戦闘機を敵の爆撃機編隊列の中に潜り込ませ、仲間の夜間戦闘機に対する電波ビーコンの役割を担わせるという新しい迎撃手法を提案したが、これはzahme Sauもしくは「飼いならした猪」として知られることになる。von Lossbergの計画によると、無数の夜間戦闘機を爆撃機編隊列に入れ、各自の判断で個々に爆撃機と交戦を行えば、レーダー管制の必要が無くなるというものであった。翌日、Milch、Weise、Calland、そして第1夜間戦闘機飛行団(Wing)の指揮官であるStreib少佐(Major)は、Herrmannの野生の猪部隊の規模を拡大するという提案と共に、この計画に賛意を示した。それとは対照的に、von Lossbergの計画に対するKammhuberの反対は、聞く耳を持たれなかった。今ではヨーロッパ大陸中で実施されているイギリスの爆撃機による大規模な空襲に対して、Kammhuberの愛するHimmelbettシステムが、ドイツを防衛する効果を既に持っていない事は明白であった。8月27日の開かれたゲーリングと防空指揮官達との会談において、ゲーリングはKammhuberのシステムは非効率で支援要員も数多く必要とすると非難した。それからすぐ後、ゲーリングはKammhuberを昇進させてノルウェーの第5航空管区(Air Region 5)の司令官としたが、この昇進は実際にはKammhuberを夜間戦闘機部隊の指揮官の地位から外す為のものであった。8月1日にゲーリングは、von Lossbergによる提案の実行と、Herrmannの部隊を将来拡張する事とを命令し、これによってドイツにおける夜間戦闘機による防衛の新しい段階が始まることになった。
 ドイツ空軍はまた、前線から部隊をドイツへと戻す事によりドイツ本土の昼間戦闘機部隊の強化を開始した。例えば、ドイツ空軍は東部戦線から2個飛行群(group)、西部戦線と地中海から1個飛行群、それに加えてノルウェーとロシア、地中海から幾つかの戦闘機飛行団(wing)と戦闘爆撃機(Zerstorer)飛行団を引き抜いた。これによってドイツ本土の防衛は強化されたが、東部戦線や地中海から部隊を引き抜いた事によって、そうした地域のドイツ地上部隊はドイツ空軍の防空の傘の喪失による影響が出る事が予想された。8月末の時点で、ドイツ本土の戦闘機による防空戦力は、1,102機の昼間戦闘機、夜間戦闘機、戦闘爆撃機によって構成される5個戦闘機師団であり、これはドイツ空軍の戦闘機部隊全体の45.5%にも及んだ。そして本土の航空機に加えて、北フランスには2個戦闘機飛行団224機が置かれていた。こうして2ヶ月の間に、ドイツ本土の戦闘機部隊の戦力は2倍となったのである。
 イギリスとアメリカの空襲により、ドイツ本土の戦闘機組織の変更に加えて、ドイツ本土の地上防空部隊の規模を大きくする為の幾つもの手段が考え出された。8月の初めには、ドイツ空軍は生産される機器の数が、それを操作する人員を上回るという状態に陥っていた。航空機においては、ドイツ空軍のパイロット訓練計画はドイツの航空機生産のペースに追い付けない状態であり、戦闘機部隊の指揮官であるAdolf Galland大将は、このままの状態だと1943年秋には「悲惨な規模」に達すると記述している。一方で高射砲においても、ドイツ空軍は地上防空部隊兵員の確保で混乱し続けていた。実際にドイツ本土における6月の重高射砲の数は4,800門だったが、これが8月の終わりには6,041門に増加しており、ドイツ空軍の持つ重高射砲の57%が本土に配備されていた。重高射砲に加えて、ドイツ空軍はドイツに配備している340個照空中隊に73個阻塞気球中隊、そして19個煙幕小隊の人員も確保しなければならなかった。
 ゲーリングが郵便局員を一時的に国民兵高射砲中隊として動員したように、ある公務員の集団に空襲時に余った対空装備を与えることにより、一時的な効果を持たせることができた(?意訳)。他の例では、第7航空管区の主計局(Quartermaster)は、充分な数のドイツ民族(Volksdeutsche)を確保できず、ドイツ南西地域の国民兵高射砲中隊の増設ができなくなっていると報告している。全般的な人員不足による危機から、第7航空管区の指導者は、市民予備兵(civilian auxiliaries、Luftwaffe-Wehrmanner)やロシア人戦時捕虜、郷土予備兵(indigenous auxiliaries, landeseigene Hilfskrafte)、そして女性航空隊予備兵の採用を行うことにしたが、煙幕小隊の増設へ優先的に配員された。この場合では、航空管区は「必要最低限」として、内側の防衛線はドイツ人の予備兵でまかなう必要があると警告している。
 7月31日の、「高射砲兵科(Flak Artillery)の特別作戦経験」と題した報告書で、von Axthelmはイギリスとアメリカによるハンブルグ空襲の後のドイツ空軍の高射砲部隊(flak arm)の状況について触れている。Axthelmは空襲によってドイツの地上防空に関して以下の2つの教訓が得られたとしている。:

(1)敵の大規模攻撃に対しては、高射砲兵は真の防御を実行することが不可能になってしまった以上、「撃墜か、妨害か」の問題の明確化などに構っていられない。この時点での可能な手段の下では、撃墜することによってのみ、長い戦いの内に敵を弱める事が可能となるのである。
(2)電子(レーダー)照準だけによる撃墜率は、探照灯によって照射された目標と比較して相当に低い値である事が判明した。しかしこの原因は、射撃の向上にとっては第二義的(in the second place)な事である。そもそも(In the first place)、照射された目標には多くの中隊からの射撃が集中するから撃墜率が高いのである。

Axthelmが高射砲の目的は妨害ではなく撃墜であると表明していることは、当然に高射砲部隊の効率の指標として航空機の撃墜数を彼が支持していた事を示している。実際にこのような態度が戦争を通じてドイツ空軍の指導層の思考を支配し続けていた。
 Axthelmはまた、射撃の集中の必要性から集合中隊(super battery)を作るべきであるが、しかし多くの作戦地域では4門編成中隊による二重中隊があるくらいで(集合中隊は4門編成中隊が3個)、集合中隊まで持っているところはまだ無かったとも述べている。それからvon Axthelmは、集合中隊を作れない主な理由は人員不足であると見ていた。Axthelmは自身の議論を、3つの戦術的提案で締めくくっている。第1の提案は、爆撃機の編隊の中の先導機に全ての中隊の射撃を集中するというものである。第2は、編隊の中の最も低く飛んでいる航空機のみを射撃するように制限するというものである。そして最後の提案は、分散しつつも指揮された弾幕射撃中隊に、目標地域への知られている主要な接近通路を狙わせるというものであった。von Axthelmの言葉から、彼は与えられた目標の周辺に十分な高射砲を集中するだけで、高射砲は効果を発揮し得ると信じていたことがわかる。これは頑固な高射砲の支援者の1人であるヒトラーと同じ考え方でもあった。
 それまでにも示したように、連合軍による空襲の激化へのヒトラーの即座の対応は、ドイツ本土の防空部隊の強化と拡大に関するものであった。海軍の指導者との会談の中で、ヒトラーは楽観的に今後の予想している:

新手法による空襲の危機は、高射砲部隊と戦闘機部隊を拡大する事で克服する事が可能だ。我々はこれを成さなければならない。何故なら、空襲の脅威は国民にとって特に大きな負担となるからである。我々は増強計画に成功する。そして新技術による進歩した防御兵器は、敵による空襲に高い代償を与え、奴らは空襲の継続を諦めざるを得なくなるだろう。

ヒトラーはロケット計画が有望であることと、ドイツ本土の防空部隊が将来拡張されることを明らかに信じていた。後者の目的を達成する為、8月16日にドイツ空軍は、ドイツの高等学校(secondary school)から青年の一団を追加徴兵した。高射砲部隊の人員を増やす為の追加の手段として、ヒトラーは8月20日に国家労働奉仕団(Reich Labor Service)の団員から250個の高射砲中隊を作るよう命令を出した。国家労働奉仕団から集められた団員は、3ヶ月の基本的軍事訓練と、追加で3ヶ月の特別な防空訓練とを受け、ドイツ空軍、ドイツ海軍、もしくは武装親衛隊の高射砲部隊の任務に就いた。1943年9月から1944年2月には、国家労働奉仕団からの兵員のみで構成された高射砲中隊の数は300にも上り、戦争末期には400個中隊にまで増加した。それに加えて国家労働奉仕団による部隊は、肉体的にも精神的にも熟達した同年代の仲間の集まりであり、モラルも高く、そして訓練での摂生のレベルも高く、相当な熟練度を達成していた。戦後、イギリスの軍事情報部は国家労働奉仕団による中隊について、「高射砲部隊に用いる人材の試みとして、最も成功したものの1つ」であると記述している。


ルールでの戦いにおける効果の評価

 ハンブルグに対する一連の空襲は、Harrisの「ルールでの戦い」の最終章となったが、しかしそれと同時に、1945年5月に至るまでにドイツの何百という都市を廃墟と化した空襲作戦の幕開けでもあった。「ルールでの戦い」は3月初めから7月末まで行われ、その間の爆撃機軍団の延べ出撃機数は14,177機で、ルールとライン渓谷の都市を対象とし、673名の乗員が死亡したが、これは攻撃部隊の4.7%に相当していた。RAFはこの5ヶ月間のヨーロッパでの夜間空襲の際に、493機を戦闘機に、322機を高射砲に撃墜されたが、比率では1.5対1で戦闘機によるものが優勢であった。そしてアメリカのハンブルグやキール、ハノーバーへの昼間空襲における高射砲による損害は、全体の28から37%であった。そしてこの間に高い損害を被ったのは連合軍の乗員だけでなく、ドイツ市民にも多くの犠牲者が出た。連合軍の空襲による死者は約67,200人、破壊された建物は101,800棟、そして数十万人が家を失ったのであった。
 1943年の前半にはドイツ空軍の地上防空は成功していたが、ハンブルグでの戦いはドイツ上空の航空戦の一大転機となった。爆撃機軍団の「ウィンドウ」の運用は、RAFに明確な、されど一時的な戦術的優位を与えたことは間違いない。ウィンドウを適切に使用すれば、対象地域のドイツのウルツブルグレーダーシステムを効果的に無効化することができた。しかし状況によっては、連合軍によるこの対抗手段の使用も完全に効果的であるとは限らなかった。連合軍管理委員会(Allied Control Commision)の戦後のある報告書では、「多くの場合では、ウィンドウが間違った方法で撒かれるか、もしくは強い風でウィンドウの雲がすぐに散ってしまい、レーダーが直ぐに復旧してしまっている。その結果、GDA(ドイツの防御地域)のあるレーダーは実質上使えないものの、他のレーダーは、妨害を受けている地域の陣地が弾幕射撃用に必要な情報を生成することが可能であった。」と記述している。同様に、一部のアメリカ航空隊の乗員も、単に手で撒くか箱ごと撒いてしまい、箔片をもつれ合った状態で機外へと出していた。こうした問題もあってUSAAF(アメリカ陸軍航空隊)はウィンドウやチャフと、アクティブレーダージャミング(CARPET)を併用することを好んだ。この装置は編隊の先導機に搭載し、地上レーダーを圧倒する強力な電磁波信号を送信することで、ドイツのレーダーを妨害するものであった。ウィンドウの効果的運用に関して実際には困難が伴っていたが、O.R.S.は1943年8月19日付の報告書で、ウィンドウはRAFの高射砲による損害数と被った損傷の全体的なレベルの低減において、「相当な効果」があるとしている。実際にO.R.S.の報告書では、爆撃機軍団のドイツ領内への空襲での損失率が3分の1に、そして延べ出撃機数における高射砲による損害数も以前の半分に減ったとまとめている。ゲッベルスは1943年8月5日付の日記の中で、不安そうに「航空戦は我々の頭の上にぶら下がっているダモクレスの剣(栄華の中にも身に迫る危険)だ」と書いている。ゲッベルスの言葉は後に実現してしまい、1943年の晩夏から秋にかけてドイツの地上防空が底をつく事になってしまったが、しかしそれからの数ヶ月間での出来事により、まだ捨てたものではない事をも証明することになる。


USAAFとドイツ空軍の防空

 イギリスと違いアメリカは、1943年秋までレーダーの対抗手段を使用しなかった。この遅れの為に、夏の終わりまでのUSAAFの爆撃作戦では、ドイツ空軍のレーダーは迎撃機の誘導と高射砲の照準とを引き続き実施した。それによって8月は、USAAFの爆撃機乗組員にとって相当に血なまぐさい月となってしまった。8月1日、ドイツの高射砲部隊は、北アフリカを離陸してルーマニアのPloestiにある石油精製施設を低高度で奇襲爆撃を実施しようとした176機のB-24のアメリカの部隊に対して、圧倒的な損害を与えたのである。目標に向かうまでに航行の失敗により混乱を生じ、ドイツの防空部隊を充分に警戒させることとなった。その結果、Ploestiの製油と貯油のコンビナート地帯を守備していた15個の重高射砲中隊と12個の軽高射砲中隊は、施設を攻撃してきた166機の爆撃機に高い代償を負わせ、41機を撃墜した。またそれに加えて13機が未帰還となった。たった1日で、第9航空軍は攻撃に向かった部隊の33%にも上る、54機の爆撃機を失ったのである。その後、同じ月の12日に第8航空軍の243機の重爆撃機によって行われた、厳重な防御にあるルールへの最初の攻撃でも25機を失い、損失率は10%となった。この空襲は、1943年中に厳重に防御されたルール渓谷に対して実施されたアメリカ軍によるたった1度の作戦となった。この地域の対空防御の固さは、第9航空軍の中型爆撃機によるルールへの攻撃を防ぐことになったが、これは高射砲の脅威だけによるものであった。8月17日には、今度はドイツの昼間戦闘機がRegensburgとSchweinfurtへの二面攻撃を行ってきた第8航空軍を血祭りにあげた。この2つの空襲への航路上で、ドイツ空軍は310機の攻撃部隊の内の爆撃機60機を撃墜したが、この損失率は19%だった。撃墜数の内訳は、戦闘機によるものが46機、高射砲によるものが5機、そして8機は高射砲による損害を受けた爆撃機を後に戦闘機が仕留めたものであった。ドイツ空軍の戦闘機部隊が一番美味しい部分を取ったことになったが、帰還した第1爆撃機飛行団(Bombardment Wing)の203機の約3分の1が、高射砲による損害を受けていた。


更に隠れた統計:高射砲と戦闘機との連携撃墜と、遅延された効果

 高射砲から損傷を被った航空機の割合が高い事を考慮すると、高射砲による損傷により戦闘機に対してより攻撃されやすくなるという仮定も、十分に有り得る。RegensburgとSchweinfurtへの空襲から、少なくとも8機の、もしくは2つの作戦で失われたUSAAFの爆撃機の13%は、まず高射砲によって損傷した後になって戦闘機の犠牲となっていたことがわかる。実際に、高射砲による損傷後に戦闘機によって撃墜された航空機の数は、航空戦における大きな隠れた統計的数値である。そして個々の航空機の本当の墜落原因を確認することが非常に困難である為に、この数値の多くは埋もれたままになっている。しかし、高射砲が航空機に損害を与える大きな役割を担い、そしてそれによって戦闘機がより攻撃しやすくなっている事は確かである。表7.7は、1943年の3月5日から7月23日までの間に、高射砲と戦闘機との連携によって撃墜された事が判明している、爆撃機軍団の航空機の数を分類したものである。


表7.7
高射砲による損傷後、戦闘機によって撃墜: 14
戦闘機による損傷後、高射砲によって撃墜: 1
詳細不明だが高射砲と戦闘機による連携で撃墜: 6


この約5ヶ月間における統計上の値から、夜間では、高射砲部隊が相棒である夜間戦闘機による敵機の撃墜を支援する割合は、逆の場合よりもかなり高いという確度の高い推測をする事が可能である。3月から5月までの期間において、戦闘機が損傷を与えた航空機数が183機で、それに加えて10機を使用不能にした一方で、高射砲が損傷を与えた航空機数は2,155機で、その他に37機を使用不能な重大な損傷を与えていた事から、上の結果はある程度予想されていた。この5ヶ月間での損傷原因の比率は、高射砲と戦闘機で22.5対1であった。
 1943年の初めの5ヶ月間での、昼間爆撃中に撃墜されたアメリカの爆撃機でも、高射砲が結果的に撃墜の支援を果たした割合は高かった。アメリカ陸軍航空隊の公式戦史は、1月から5月までの間に失われた全てのアメリカの爆撃機の内、高射砲だけで撃墜されたものはたった14%しかなかったとしている。しかしこの戦史の著者は、「高射砲による損傷により、敵の戦闘機がこの爆撃機を撃墜する機会が断然多くなる事は間違いない。このように、高射砲は爆撃機の直接の喪失原因としては比較的重要性が低いとしても損傷原因では大きな割合を占めており、損傷によって容易に編隊から落伍することなどからも、高射砲は間接的な喪失原因として重要な役割を果たしているのである。」と付け加えている。相棒であるRAFと同じく、アメリカの爆撃機も、通常、目標を攻撃した内の20%以上が高射砲による損傷を受け、また特にドイツ領内や大西洋沿岸の防衛が強化された目標に対する作戦では、その値は30%を越えていた。具体的な数を挙げると、4月にブレーメンを空襲した際に、第1爆撃機飛行団(Bombardment Wing)で高射砲の損害を受けたのは、109機中43機で、39%であった。同様に、6月22日のHulsへの空襲での第4爆撃機飛行団では、49機中29機で59%であり、その内訳は3機が墜落、2機が甚大な損害、そして24機が軽微な損傷であった。
 高射砲による損傷が原因で戦闘機に撃墜された航空機数が不明であることに加えて、ドイツ空軍が自身の高射砲部隊の能力を過小評価していた事に関連する、別の隠れた統計的事象がある。以前にも触れたように、航空機の燃料やエンジンシステムへの高射砲が与えた損傷によっては、交戦と実際に墜落するまでの間に遅延が生じることが多く、その間に航空機は数百マイルも飛行することになる。4月20日から7月14日の間に、少なくとも12機の爆撃機軍団の航空機が、高射砲のみによる損傷が原因で帰途に墜落しており、中にはイギリス本土で力尽きたものすらあった。同様に、アメリカの爆撃機の乗員もまた、高射砲による損傷の遅延効果を経験している。ドイツ空軍の、確実な撃墜のみを賞する厳密な指針では、実際には高射砲が原因であっても、墜落した物理的証拠が無ければ高射砲兵は戦果を得ることが殆ど出来ないという矛盾が生じているのである。実際にこの統計的事象によって、戦争中におけるRAFとUSAAF、そしてドイツ空軍の評価の間での、高射砲の効果についての見解の相違と撃墜数総計の矛盾とを、部分的に説明する事ができるだろう。


高射砲の信頼の喪失

 ルールの戦いにおけるRAFのドイツ諸都市への空襲や、ドイツを攻撃するアメリカの爆撃機の戦力の増加から、それから数ヶ月後にはドイツの工業や市民が危機に直面する事がそれとなく感じられつつあった。ルールへの作戦後の3ヶ月間に、ドイツ空軍の指導者の多くは高射砲に幻滅し、戦闘機による防空に望みを託すようになっていた。防空体制を向上させる為にドイツ空軍に必要なのは高射砲中隊の数を増加することだけだと表明していたヒトラーやvon Axthelmとは対照的に、Milchはドイツの高射砲部隊について、一層の悲観的な評価をしていた。ハンブルグ空襲の結果から、高射砲部隊はヒトラーやゲーリング、そしてJeschonnek達による高い期待を果たす事は、もう決して無いとMilchは見ていた。ゲーリングですら、夜間における高射砲の効果についての疑問によって揺らぎはじめ、夜間射撃を「全く取るに足らない」と記述する有様であった。
 8月20日の航空兵器局(Air Armaments Office)の会議の中でMilchは、「ドイツの空軍は航空部隊ではなく高射砲部隊が主役となっている.....空軍を頑強にするのは航空部隊であることは言うまでも無いのだが」と不平を述べている。このMilchの発言は明らかな誇張であるが、彼自身の高射砲の見方をよく表している。また、ハンブルグ空襲をドイツ空軍が防ぐ事が出来なかった事と、それに続くPeenemundeの秘密ミサイル試験場への爆撃機軍団の空襲での防空の失敗から、ドイツ空軍の防空能力に関しての非難のやり返し(?原文ではcriminationでなくrecriminationとある)の重圧に耐えかねて、Jeschonnekはその前任者のUdetと同様に自殺してしまう。そしてこのJeschonnekの自殺は、Milchの地位を更に高めることになった。
 8月25日に開催された航空機生産に関する会議の中で、Milchは航空戦に対する彼自身の戦略の概要を説明した。彼は「もしも防空に失敗し、敵機の撃墜率が7月前半の値のままであれば、我々は滅亡してしまうことになる」と警告する。さらに「ただし唯一の治療法がある。それは戦闘機によって昼となく夜となく敵を叩き、我々の兵器生産を破壊しようとする彼らのポリシーを破綻させるというものである」と続けた。彼の計画は、昼間、夜間戦闘機を共に大増産し、「大量の戦闘機」でドイツを防衛するというもだった。この戦略を実行する事でドイツ空軍は、連合軍の爆撃機部隊に対して25%から30%という天文学的な損失率を負わせることが可能であるとMilchは見ていた。このMilchによるドイツ空軍の高射砲部隊に対する評価は、楽観的なものとは程遠かった。彼は、高射砲による連合軍の撃墜率は「1%を越す程度」であり、それに対して戦闘機による撃墜率は3から5%であると主張していた。そして「高射砲部隊を5倍に増やす事が出来ても、撃墜率は1から2%も変わらないだろう。しかし戦闘機の数を2倍に増やせば、撃墜率は少なくとも2倍になる。4倍に増やせば、撃墜率も4倍以上になるだろう」と言っている。更にMilchは、夜間戦闘機部隊も同様に拡大すればドイツに対する夜間空襲を終結させることができ、「それこそがドイツの勝利への第1歩となるだろう」と断言しているのである。
 Milchによるドイツ空軍の防空の評価から幾つかの事がわかる。まず、彼は明らかにドイツ国内に駐屯する大規模な戦闘機部隊を作ろうとしていたということである。この点については、彼がドイツ空軍の戦闘機部隊を拡大すべきだと論じている事は、全く持って正しく、実際にその作業が開始されていた。2つ目は、彼は高射砲部隊による成果を明らかに過小評価しており、高射砲が戦闘機による爆撃機の撃墜を支援しているという二次的効果を考慮していない、ということである。そして最後に、高射砲を5倍に増やしても殆ど効果が無いが、戦闘機を2倍に増やせば連合軍の損失も2倍に増加するという彼の単純な計算はどちらも誤解を招くものであり、そして明らかに間違いであるということである。高射砲を2倍に増加するよりも戦闘機を2倍に増加した方が、より大きな効果を期待できるという事は確かに正しいが、しかしMilchの論理にある、高射砲の増加率に対して航空機の撃墜数に変化が無いとしている事は、基本的に想像上のものである。
 ドイツの防空の評価において、Milchは幾つかの戦略的、計算的間違いを犯している。まず、戦闘機だけでも高射砲だけでもない、双方のバランスが取れた防空ネットワークの必要性を、Milchは理解できていない。実際に、Milchによるドイツ空軍の地上防空への誹謗中傷は、ヒトラーによる高射砲礼賛の対極であるともいえる。2つ目に、Milchの評価では航空機生産とパイロット育成とを単純にしか見ていない。Milchは、航空隊の規模を2倍、4倍にした場合に、ドイツ空軍が必要なパイロットや航空機燃料をどこから探してくるのか、という問題を完全に見落としているのである。そして3つ目に、彼の主張ではドイツの地上防空の、偽施設から実際の高射砲中隊に至る、システム全体の環境を評価していない。4つ目に、Milchが使った高射砲による撃墜率は、恐らく自ら認識していた筈だが、間違った数値である。実際にドイツ空軍の主計局(Quartermaster's Office)の計算によると、1943年に戦闘機が撃墜したアメリカの爆撃機数は676機であり、一方の高射砲は233機で、比率はたった2.9対1である。更に主計局は、1943年における高射砲によるアメリカの爆撃機の損傷機数は8,847機で、戦闘機によるものの9.3倍であるとしている。5つ目に、航空機の損失数は単純に正比例するわけではなく、高射砲の種類や射撃指揮装置の使いやすさや種類、中隊の配置等の幾つもの変数が関係しているのである。そして最後に、Milchがしていない議論こそが、最も興味深いということである。彼は他の人のように、高射砲の生産によって戦闘機の生産に利用可能な資源が影響を受けるという議論を行っていない。そして、少なくとも戦争のこの時点において、度々引き合いに出される資源論争が普段と比べて殆ど行われていないということは、合理的であるように見える(?意訳)。


ドイツ空軍の回復への試み

 1943年夏の空襲で受けた被害にもかかわらず、ゲーリングは9月2日と3日の2日間に渡って行われた会議の中で、現在の状況を楽観的に評価していた。彼は、ドイツ空軍は引き続きドイツ本土の防空力の強化を優先させるべきであると指摘しているが、しかし一方で彼は、RegensburgとPloestiでのドイツ空軍によって為された成功によって「見張るべき進歩」が成し遂げられたとも強く主張している。ゲーリングの楽天的な予測にもかかわらず、ゲーリングがドイツ本土の防空の強化において高射砲ではなく、昼間戦闘機と、特に夜間戦闘機の両方による能力の向上を主として期待していた事は明白である。実際に、地上の射撃用レーダーの生産を犠牲にしても戦闘機の作戦を支援するレーダー装置の生産を優先させるという決定をゲーリングが行った事は、彼の好みが戦闘機部隊へと移った事をはっきりと示している。その月の終わりに、ゲーリングが最近の功績について昼夜間戦闘機部隊を祝賀しに行った事からも、彼の楽天さがよくわかる。そしてvon LossbergとHerrmannの2人共の提案を合わせて夜間戦闘機戦術を変更した結果が出始めていた。8月と9月に、夜間戦闘機部隊はRAFの爆撃機をそれぞれ141機と48機撃墜し、そして更に13機に修復不能な損傷を負わせている。それとは対照的に、高射砲はヨーロッパで夜間空襲を実施した爆撃機軍団に対して、8月に55機、9月に32機を撃墜し、9機に修復不能な損害を与えているだけであった。
 ゲーリングが自身のボロボロになった政治的地位を支えようとしていた事は疑いないが、彼は1943年の秋に、ドイツの防空ネットワークの戦術的・作戦的な面に新たな興味を示していた。9月25日に開かれた会議でゲーリングは、Milch、Weise、Martini、Galland、Kammhuber、von Losseberg、Herrmann、そしてJeschonnekの後釜としてドイツ空軍参謀長になったGunther Korten大将を含む、ドイツの防空における全ての指導者を招集した。会議は防空に関する幅広い議題を扱ったが、中にはGallandとKamhuberによる、戦闘機作戦を容易にする為に航空情報隊を彼らの指揮下に置くという提案も含まれていた。ゲーリングはこの提案は退けたが、戦闘機が航空情報隊から必要とするものの優先度付けだけでなく、両者の間の協調をより良くするよう要求した。しかしこの会議の中で最も注目を集めたものは、ゲーリングが議論に対して明確に興味を持ち、進んで参加していたことであった。彼はまたKortenに対して、ドイツ本土での昼間と夜間の防空実施を試験する為の、兵棋演習の準備を命令した。更に彼はまた、個人的にこの演習を監督する意図がある事も表明した。さらにゲーリングは、戦闘機と高射砲との協調を増進する手法だけでなく、ドイツ国内の探照灯地帯を拡張して夜間戦闘機の作戦を容易にする事にも触れた。夜間戦闘機部隊に関しては、ゲーリングはHimmelbett手法を完全に活用するだけでなく、探照灯地帯の中で敵爆撃機編隊の中に入り込ませるという、目標上空での作戦実施を命令した。最後に彼は、2度目の迎撃の為に燃料と弾薬を補給可能な、昼間戦闘機用復旧基地(recovery base)の配置を指示した。
 10月7日と8日にObersalzbergにあるヒトラーのババリアの別荘で開かれた2日間の会議では、普段の習慣とは真反対に、ゲーリングは防空に関する議題に集中し、ドイツの高射砲部隊と戦闘機部隊の全体についての議題を主導していた。この会議の主題は「本土防衛計画」であり、会議の結果をまとめた議定書は200ページを越したものになった。この会議では、ドイツ空軍の防空に関するあらゆる面に渡る議題に触れており、ゲーリングの空軍の現状についてのありのままの姿を映し出していた。ゲーリングは防空指揮官達に対して、「ドイツ空軍は今、最も重大なの危機に、そして最低の位置に立っている」と、警告を込めて責任を問い始めた(?begin the proceedings、訴訟をするなどの意)。そして彼は、ドイツ空軍は国民からも兵士からも信用を失っていると、厳しく主張した。続けてゲーリングは、ドイツ空軍に関しての一般からの印象についての記述を読み上げた。:

危機は、全て戦闘機、特に昼間戦闘機に集中している。何故なら、市民は戦闘機の戦術など知らないからだ。市民はこう言っている:味方の戦闘機は逃げ去って、なかなか戻ってこない;敵の大編隊は何時間も何の邪魔も無く、まるで展覧飛行(Nurnberger Formation)のように飛んでおり、我々の街の上空でスローガンを誇示している。
.....
それから高射砲。以前も当たらなかったが、今も当たらない。彼らは、偶に何かを撃って、周りを驚かせているだけだ。.....高射砲に関しては、まさしくそうだが、何もできない、単に不可能なだけで、敵機が余りにも高く飛んでいるときは、敵機を撃墜できないだけだ。結局、高射砲には危機は無い。高射砲は、地上戦における強さと明らかな成功により、市民や戦闘部隊からとても高い敬意を集めているからだ。
..........
夜間戦闘機の評判は、特に高くなっている。市民が夜間戦闘機の能力を絶対的に優れていると見ている事は間違いない。しかしここで指導者は言う:夜間戦闘機の活動に対するあらゆる高い評価によって、我々は今に夜間戦闘機がほとんど活躍できなくなる悪天候の季節を迎えなければならないという事実に甘んじなければならないのだ。

 いかにもゲーリングらしいのだが、この出だしの長口上は、この夏のドイツ空軍の防空の効果に対する非難を、自分だけでなく他の皆にも分散させようとしたものである(?意訳)。しかしゲーリングは、戦闘機パイロットの育成の状態の悪さや、新兵器導入の遅延や、レーダー機器の開発や生産の困難さといった、ドイツ空軍における本当の弱点の幾つかを認識していた。確かにゲーリングが、前の会議でヒトラーから為された非難を、そのまま鸚鵡返しに批難している事も確かである。しかしこの帝国元帥(Reich Marshal)は彼自身の高射砲への幻滅を、幾つもの侮辱的発言によって繰り返し表現しているとも言えるのである。例えば、ゲーリングはフランクフルトの管区長(Gauleiter)から為された、フランクフルトへの空襲における戦闘機の能力に関する不満に触れた事がある。その時に彼は、管区長の不満において、高射砲の能力は「高射砲には、射撃を行うという事以外に何も期待していない」とし、問題にすらされていないと痛烈に指摘している。
 会議が進んで行くと、ゲーリングは、高射砲が敵の爆撃機の高度を押し上げて任務を妨害しているという事を後に渋々認めたものの、ゲーリングは部下に対して「撃墜こそ」が重要であり、その他の結果は総統から子供に至るまで誰も興味など持っていないとも注意を促している。しかしゲーリングの見解としては、航空戦の態勢を逆転できるのは高射砲ではなくて、対空ミサイルであった。ゲーリングはvon Axthelmに対して、ミサイルの作戦運用開始の予定時期を質問している。Axthelmは少なくとも12ヶ月で、18ヶ月を越す場合もあると回答したが、ゲーリングは「余程の馬鹿を念入りに集めて開発させているのか?」と皮肉を交えてあざけっている。Axthelmはこれに対して、開発チームは高射砲兵科の中でも最も優秀な500名でもって構成されていると答えている。この時von Axthelmは、対空ミサイルに関する技術的問題はA-4(V-2)ミサイルよりも「相当に困難」であるという、ある意味有り得ない方面であるMilchからの不意の助け舟により、助けられているのである。場が幾分か落ち着くと、ゲーリングは自分が望んでいるのはアメリカの爆撃機の大編隊の中に撃ち込む事の出来る、音響的起爆装置を持った飛翔体だけだと強く主張した。この最後の言及からは、ゲーリングが最新兵器システムに関する技術面への理解が無かった事と、ドイツを空襲から防御する為の即効薬(quick fix)を探していた事とが良くわかる。
 10月8日に、連合軍の使ったチャフ(ウィンドウ)への対抗手段も含めたドイツ空軍の防空の現状についての議論を行うべく、会議が再び開かれた。Kammhuberは「対ウィンドウ用の対抗手段(Entduppelung)は100%効果的である」と自信を持って報告し、また改良したレーダーを使用した実用試験を3日前の夜から実施しているが、完璧に機能しているとも主張した。それとは対照的に、von Axthelmはゲーリングに対して、ウィンドウは確かに現在の高射砲にとっての大きな困難であるが、最大限の努力をもって効果的な対抗手段を開発中であることを述べた。それからAxthelmは「今現在、我々の高射砲部隊は戦闘機の補助部隊(Hilfswaffe)となっている」とも打ち明けた。ゲーリングはこれに対して、高射砲は「味方のの戦闘機を追い払う」為の補助部隊だと皮肉をこめて言い返すと、von Axthelmはゲーリングに対して探照灯や高射砲による照明弾の射撃によって夜間戦闘機を支援することの重要性を説き、Weiseもこの点に関して賛意を示した。このvon Axthelmによる告白は、ウィンドウの登場によってドイツ空軍の地上防空に発生した問題を判り易く表現している。


高射砲の能力の評価

 von Axthelmの発言から、ウィンドウが高射砲の能力を低減させることに成功していたことが明らかである。しかし不思議な事に、この会議中のいかなる場合にも、誰一人として高射砲と戦闘機による現実の撃墜数を触れることがなかったのである。ハンブルグ空襲の後のRAFの航空機の撃墜数が増加したことをドイツ空軍が発表したのは「たった一度切りだけだ」とゲーリングが告白した時のそれが、引用された殆ど唯一の具体的数値であった。誰しも、ゲーリングがドイツ空軍の現状を印象的に表現したものを提供することを期待していたが、しかし驚くべきことに、Weiseもvon Axthelmもドイツの防空能力に関しての幅広い統計学的分析結果を提供しようとしなかった。結局、RAFによる統計値に頼らざるを得ないのだが、この1943年の最後の3ヶ月の統計値が、ドイツ空軍の防空能力の低下を良く示しているのである。表7.8は、その3ヶ月間に行われた夜間空襲で、ドイツの高射砲と戦闘機によって撃墜された爆撃機軍団の航空機の評価数を挙げたものである。


表7.8
戦闘機 高射砲
10月 83 32
11月 72 32
12月 95 30
合計 250 94


この損失数に加えて、高射砲による損傷を受けた航空機の数は794機、航空機によるものは192機で、比率は4対1になっている。
 1年を通じての高射砲の能力の評価では、1943年の第1四半期におけるドイツ空軍の高射砲部隊は夜間空襲を行った延べ12,760機中何とか90機を撃墜したが、これと比較して第4四半期には延べ13,969機中92機を撃墜しただけである。この能力の低減に、この1943年でドイツの高射砲部隊の規模が、重高射砲中隊で628個から1,300個に、軽高射砲中隊で535個から708個、照空中隊で277個から395個へと増加しているという事実を合わせると、更に多くの事が判明する。言い換えるならば、ドイツ本土の重高射砲中隊の数が2倍に増加したにもかかわらず、夜間の延べ出撃数当たりの撃墜数は減少し、撃墜数当たりの高射砲数の割合は増加しているのである。


第8航空軍の血塗られた教訓

 夜間における高射砲の能力減少が際立っていたにもかかわらず、第8航空軍は、日中の、特に天気が良く、またドイツの中心部における空襲では、ドイツ空軍の高射砲と戦闘機の双方が大きな脅威であることを教育させられていた。皮肉にも、ゲーリングがドイツ空軍の防空の指導者達を嘲笑していた、まさに同日に、357機のアメリカの爆撃機がブレーメンとその周辺を攻撃していた。B-17の乗組員だったJohn Comerは、10月8日にブレーメンへと彼の乗った爆撃機が近づくにつれての感覚を、次のように言っている。「目標に到着すると、目の前一帯が無数の高射砲(?の炸裂)で溢れていて、信じられなかった。怖かった。その時は『神様!、ここを無事に通り抜けさせて!』としか考えられなかった。」しかし、数機の爆撃機にとっては、その答えは否、だった。目標を攻撃した162機の第1爆撃機師団(Bombardment Division)の航空機の内、116機(71.60%)が高射砲による損傷を受け、また7機(4.32%)が高射砲によって撃墜された。そして第3爆撃機師団の155機の内、110機(71.0%)が高射砲による損傷を受け、5機が高射砲によって撃墜された。第8航空軍は合わせて30機を高射砲のみによって失ったが、これは損失全体の40%にも上った。このブレーメンに対する作戦が示すのは、厳重に防備された目標で視界状態が良ければ、ドイツ空軍の高射砲防御もまだ充分に脅威であり続けていた、ということである。
 ブレーメンでの損失にもかかわらず、答礼の訪問として、第8航空軍は10月14日にSchweinfurtのボールベアリング工場へ、その年における最も大胆な空襲の実行を決定したのであった。Schweinfurtはドイツの奥深くにある困難な目標であり、約23個の重高射砲中隊と5個軽高射砲中隊、6個照空中隊に、1個煙幕小隊が配備され、面積当たりではドイツで最も重防御された都市でもあった。USAAFはこの作戦の為に291機もの爆撃機を準備し、その内の229機が目標に到着できた。かなりの晴天で着弾パターン(?bomb pattern)も優秀な結果が出せたが、その晴天の為に攻撃部隊もドイツ空軍の戦闘機と高射砲によって壊滅的な打撃を負わせられた。作戦において迎撃した戦闘機は、目標までも、目標からも、そして爆撃照準時にも爆撃機の編隊により添っていた。その日の終わりまでに、第8航空軍は60機の航空機を失ったが、これは空襲に出撃した航空機の約17%にも上った。Schweinfurtまでの航程でドイツの高射砲によって1機が撃墜され、街の上空では更に11機が高射砲によって撃墜された。そして帰途においても、Karlsruhe近郊の高射砲部隊がもう1機を大破させ、スイスへ不時着させた。それに加えて17機が修理不可能な損傷を、121機が修理可能な損傷を、それぞれ高射砲によって与えられた。まとめると、作戦中に撃墜された航空機の内の約22%がドイツ空軍の高射砲によるものであった。
 アメリカ陸軍航空隊の公式戦史では、10月の中頃に第8航空軍は、その月の甚大な被害の為に「壊滅状態」に陥っていたと書いている。Schweinfurtへの空襲の結果、アメリカの爆撃機部隊には、その年の終わりまでドイツ本国深くへの空襲ができる程の物理的、精神的資源が無くなってしまった。ドイツの防空の強さと例年の悪天候から、遂にはUSSAFの指揮官であるHenry "Hap" Arnold大将は、1943年の11月は第8航空軍に対して盲目爆撃(?blind bombing、絨毯爆撃とどちらが良いか)もしくはレーダー爆撃(?原文ではinstrument bombing)を実施させることになった。この盲目爆撃への切り替えの結果は乗員達にとっては良好で、ある月例の高射砲報告では、完全な曇天での爆撃中の高射砲による損害は、目視爆撃の時の半分だったと書かれている。その年の終わりからは、空襲に参加し始めた時のように、フランスの大西洋岸の防御の低い目標に集中するようになっていた。ドイツ空軍と第8航空軍との第1回戦では、ドイツの防空はまだ対戦可能なプレイヤーだったものの、しかし戦いはまだ始まったばかりだった。


目標 ベルリン

 同僚であるアメリカとは対照的に、爆撃機軍団はその年の終わりをドイツ中で最も厳重に要塞化された目標である、ベルリンへの作戦で締めようとしていた。ハンブルグでの成功で持ち直すと、Harrisはヒトラーの第三帝国の首都へと再び注目した。1943年11月にチャーチルへと宛てた手紙の中で、Harrisは「もしもUSAAFが参加してくれるならば、我々はベルリンを端から端まで廃墟とすることが可能だ。その為には400から500機が必要だ。それによってドイツは戦争の代償を受けることになるだろう」と見通しを語っている。しかしHarrisの熱意とは裏腹に、USAAFはベルリンを空襲する術も無く、爆撃機軍団だけで行わなければならなかった。ベルリンは本当に恐るべき目標であり、700門を越す重高射砲によって守られていたが、特に連装128mm高射砲を備えた巨大なコンクリート製高射砲塔が3基も含まれていた。8月の始めにはWeiseは早くも、ベルリンの高射砲と戦闘機の増強を始めており、9月の終わりには、ドイツ空軍はイタリアに配備されていたドイツとイタリアの高射砲部隊を、ドイツ本土防衛のために引き抜いていた。高射砲は首都の周辺40マイルの広さに渡って配置され、また探照灯の帯は更に60マイル先にまで及んでいた。あるRAFの爆撃手はベルリンに対する作戦中の感想を次のように記述している。:

ランカスターの先端に寝そべりながらベルリン上空で目視の爆撃照準を行っていた時が、恐らくこの人生の中で最も恐ろしい体験だった。目標に到着すると、ベルリンは探照灯の輪に囲まれ、高射砲は常に強力だった。目標への飛行は永遠に続くようで、(爆撃照準の為の)「等高度直線」飛行は何時間もの長さに感じられ、その間の瞬間、瞬間で、木っ端みじんに吹き飛ばされるのではないかとばかり考えていた。

そして来る敵の攻勢の準備のために、ドイツ空軍はまた夜間戦闘機をベルリンの近郊に集中させていた。
 ベルリンの戦いにおける1943年の最後の2ヶ月は、Harrisのそれまでで最も野心的な冒険であった。8回にも渡る空襲で、爆撃機軍団の延べ3,656機の航空機が14,074トンの爆弾をベルリンに投下し、爆撃機軍団は180機を失った。この空襲によるベルリン市民の死者は約6,000名で、47万人を超す人々が家を失った。それとは対照的に、爆撃機軍団の損害は空襲に参加した内の約5%だった。しかし1942年の時とは違い、RAFはこの規模の損害でも今では余裕で耐えることが可能であり、一方のドイツ空軍は状況が悪化して限界に至っていた。8月にゲッベルスは次のように叫んだ。「航空戦は、我々にとって開いた傷口だ。どんどん血を失っている」。12月の終わりには、この出血も一時的に止められていた。しかし翌年には連合軍の航空作戦も新しい凶悪な段階へと至り、ドイツ全土に爆弾が文字通り雨のように降り注ぐことになるのである。


1943年の総括

 1943年を通じてドイツ空軍の地上防空は、爆撃連合による攻勢の増大や連合軍によるウィンドウやカーペット(ジャミング装置)といったレーダー妨害装置の使用にも関わらず、たわみこそすれ折れてはいなかった。そして青年男女の防空部隊への大規模な動員や、郵便局員や工場動労者の動員、そして外国人の利用は、高射砲部隊と照空部隊の質を明らかに低下させることになった。実際に、ポーランド人やロシア人、チェコ人、そしてハンガリー人達が防空部隊に動員されたことについて、ゲーリングは「私の対空部隊は、まるで国際連盟の会議のようだ」と皮肉っている。引き続き多くの財政資源が高射砲部隊に注がれていたが、特にドイツ本土の地上防空の多岐にわたる拡大を考慮すると、敵の延べ出撃数当たりの撃墜数は下がり続けていた。それに加えてドイツ空軍は、対空ミサイル等の技術革新の達成も出来ず、88mm高射砲41型や128mm高射砲といった高性能な重高射砲の生産も遅れたままであった。
 こうした苦悩の連続にもかかわらず、地上防空は探照灯や高射砲による照明弾の射撃によって夜間戦闘機を影から支援し、偽施設は目をみはる程の成功ではなかったものの限定的にでも機能し、RAFの爆撃機を目標から逸らせていた。それに加え、高射砲中隊100個の強力な砲火によってMessina海峡の上空に作られた「射撃の天蓋(fire canopy)」は、連合軍による攻撃を効果的に防ぎ、8月に実施された国防軍による10万人の兵員と1万両の車両のシシリー島からの撤退を成功させた。実際に連合軍パイロットは、これをルール地方の高射砲に例えていた。ある連合軍将校は、Messinaでの対空射撃を「地中海で最も激しいものだった」と書いている。特殊な環境下ではあったものの、シシリーからの撤退における高射砲の役割は、点目標周辺に高射砲を極度に集中させる事により、潜在的な効果が得られる事を暗示している。同様に、夏の終わりから秋にかけての高射砲の戦果を見れば、高射砲の効果が低くなっていたにも関わらず、連合軍爆撃機が低高度で攻撃を仕掛けた場合(Ploesti)や、晴天の場合(ブレーメンとSchweinfurt)、重防御された目標(ルールとベルリン)などの場合には、高射砲部隊も大きな損害を与える事が可能であった事が判るのである。1943年末の時点で、ドイツ空軍の戦闘機も高射砲も、翌年にはより高い要求がなされる事は明白であった。そして、このどちらが追加の負担に堪え得るか、ということが唯一の問題なのであった。



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