第8章 本土上空での護衛、1944年1月-5月




 1944年の兵士や水兵、空軍兵への年初の挨拶の中で、ヒトラーは昨年の国防軍の活躍を賞賛した。ヒトラーはまた、攻勢を強める連合軍の空襲からドイツを守るためには、新しく改良された手法が必要であるとも認めた。そして将来を見据え、「ドイツ空軍は、陸軍のように、全ての戦線において果たすべき数多くの任務を担っている。そしてこれに加え、新たにドイツの正面を守るという任務も追加されることになる。この空軍の英雄的行動は他の何よりも称えられるべきである。」と語っている。しかし1944年の初めの時点では、こうした英雄的行為だけでは、既にドイツの心臓部へと侵入しようと群がってくる連合軍の爆撃機と戦闘機を追い返すことができなくなりつつあったのである。
 爆撃機軍団はドイツ国民に対して、すぐさま新年の挨拶を行った。1月1日の夜、421機の爆撃機がベルリンを目指して離陸した。爆撃機がオランダへ差し掛かると、ドイツ空軍の夜間戦闘機が爆撃機の編隊に合流して多くを撃墜したが、ドイツ空軍パイロットの中には1機で6機を撃墜した者もいた。ベルリン上空では厚い雲の為にオランダでの迎撃の戦果には遠く及ばず、街の周辺の高射砲部隊に防衛の負担をかけることになった。しかし悪天候はまた爆撃の精度も悪化させ、ベルリンに対して軽い損害しか与える事が出来なかった。この空襲で79名のベルリン市民が犠牲となった。一方のRAFも28機の爆撃機を失い、168名の乗員が死亡し34名が捕虜となったが、これは爆撃機軍団にとって分の悪い結果だった。
 翌日にも悪天候の中、383機の爆撃機が再びベルリンに対して空襲を行った。広く分散した編隊はバラバラにベルリンへと到着してしまい、再び軽微な被害しか与えられなかった。それとは対照的にHerrmannの野生の猪部隊は探照灯の支援の下で多くの爆撃機を撃墜し、RAFは26機を失った。この空襲では、高射砲部隊はほとんど戦果を挙げる事が出来なかったが、これはHerrmannの戦闘機部隊の自由交戦空域を首都上空に確保する為に16,500フィート以上への射撃を制限していた為であった。この射撃制限の為に高射砲部隊は爆撃機部隊の殆どと交戦ができなかったが、このことから、ドイツ空軍が高射砲部隊を犠牲にしてでも夜間戦闘機による作戦へと重心を移しつつあった事が明確に判るのである。


ドイツ空軍の防空の拡張

 爆撃機軍団はこの2回に渡るベルリンへの空襲で54機を失い、また得られた戦果も乏しかった。そしてこの空襲から、ドイツ空軍が1943年後半の頓挫から回復しつつあった事がわかる。連合軍の電子妨害や空襲の強化にもかかわらず、ドイツの防空は年の初めにはイギリスとアメリカによる爆撃を、効果的に鈍化させていた。この時期におけるドイツ空軍の戦力の向上は、幾つもの攻撃、防御手段の採用も含めた、多くの要因から成り立っている。ドイツ空軍は、連合軍の能動的及び受動的妨害手段による最悪の影響の無効化、もしくは最低でも緩和に、相当に成功していた。ドイツ空軍の技術部門は、既存の射撃用レーダーの改良で妨害効果に対抗し、また射程が伸び、目標の表示装置を改良した新型の射撃用レーダーの開発と試験を開始していた。更に、夜間戦闘機部門も、野生の猪・飼いならされた猪の両手法の採用により、Harrisが実施していた「ベルリンの戦い」において、爆撃機軍団に対してより大きな出血を強いるようになっていた。ドイツ空軍の地上防空部隊は、2月には重高射砲13,500門、軽高射砲21,000門、探照灯7,000基、そして阻塞気球2,400個と、戦争中で最大規模にまで増加していた。表8.1は、1944年におけるドイツ空軍の高射砲中隊と照空中隊の、地域別の数を示している。


表8.1
地域 重高(43年変化率) 軽高(同左) 照空中隊(同左)
ドイツ本土 1,508(+22%) 623(-10%) 375(+7%)
西部戦線(仏べ蘭) 412(+101%) 425(+44%) 32(-3%)
北部戦線(ノフィ) 126(+37%) 80(+16%) 3(+200%)
南東戦線(露ギ) 122(+100%) 70(+79%) 3(-62%)
東部戦線(露) 311(110%) 328(+102%) 43(43年は0)
南部戦線(伊) 176(-37%) 86(+7%) 14(-30%)
合計 2,655(+25%) 1,612(+10%) 470(+3%)


この部隊配分については幾つかの傾向がある。ドイツ本土の重高射砲中隊の数は引き続き増加しているが、軽高射砲中隊の数はわずかに減少している。そしてドイツ空軍は、連合軍による上陸に備えて、フランスやベルギー、オランダ、ノルウェーといった地域に高射砲を移動している。東部戦線では国防軍の敗北によって、締め付けの厳しくなったソ連軍の包囲を支える為に、空軍の高射砲による対空ならびに地上での支援を望む声が陸軍指揮官の間で高まっていた。そして1940年から1944年までの間に、ドイツへの圧力の増加と相まって、重高射砲中隊の数は3倍以上、軽高射砲中隊と照空中隊は2倍以上に増加しているのである。


航空戦の再構成

 1944年の1月はまた、ドイツの防空ネットワークにおいて重要な組織的変更がなされた月でもあった。1943年12月の最後の週に、Hans-Jurgen Stumpff大将がWeiseに代わって中央航空管区(Air Region, Center)の司令官になった。Stumpffは第一次世界大戦には陸軍で任務に就き、戦後は共和国軍(Reichswehr)の兵務局(Truppenamt、共和国軍における事実上の参謀本部)のメンバーであった。彼はまた1937年6月から1939年1月までドイツ空軍の参謀長を務めていた。このドイツ本土の防空指揮官に選ばれる前は、1940年5月から1943年11月まで、ノルウェーとフィンランドを含む第5航空管区を指揮していた。Stumpffは飛行機屋ではなかったが、武功を多くあげた(highly decorated)戦闘将校であり、また組織管理が得意である(?expert administrator)と認識されていた。彼は高射砲と戦闘機との合同部隊を提唱する一方で、戦闘機作戦に高い比重を置いていた。ベルリン上空における上限16,500フィートの高射砲の射撃制限は、彼の考えの1つの現れである。この面における彼の戦略的見地は、1943年後半での高射砲部隊の戦果の全般的な低減による、ゲーリングの高射砲に対する幻滅を補足していた。ドイツのどんな防空指揮官にとっても重要な考慮対象である、ナチス党の大管区長達(District Leaders)とも上手くやっていく手腕を持っていた。大管区長は管区の国防政治委員(Defense Commissars、Reichsverteidigungskommissare)も兼ねており、管区内の防空手段を軍人と調整する責任者であった。そして最後に、Kammhuberが(組織を無視して)Weiseに直接取り入ったような事が起きないように、Stumpffは専門家としての名声によって、部下の戦闘機指揮官を上手く管理していた。
 Stumpffが中央航空管区の司令官に任命された直後の1944年1月27日に、中央航空管区は帝国航空管区(Air Region, Reich、Luftflotte Reich)が改編された。帝国航空管区の司令官として、Stumpffはドイツとハンガリー、そしてデンマークを防衛する全ての戦闘機と高射砲部隊とを統括することになった。Stumpffの配下の兵力は、10個高射砲師団と6個高射砲旅団の軽高射砲9,359門、重高射砲5,325門、5,000基を越す探照灯に、5個戦闘機師団の昼間戦闘機774機と夜間戦闘機381機であった。本土の戦闘機部隊の戦力を更に向上させる為に、ゲーリングは先の1943年秋に戦闘機指揮官達によって為されていた要求を受けて、2月に航空情報隊を戦闘機部隊の指揮下に置いた。これによって戦闘機師団の戦闘指揮所が、航空戦の状態報告を収集し、その情報を高射砲部隊や市民防空警報センターへと送る中心組織となった。このドイツ本土の防空の再構築によって、高射砲と戦闘機の指揮と管理の単純化が進められることとなり、またこのStumpffの任命と本土防衛の再構築によって、戦闘機と高射砲のより良い統合と防空手法のスマート化という他の試みも実施されることになった。


資源の争奪

 矛盾しているが、ドイツ国内の人員と資材が不足しつつあったにもかかわらず、ドイツ空軍の防空部隊は1944年の前半で大幅に増強された。戦闘機生産は1944年3月に初めて月産2,000機を突破した。ドイツ空軍によると、3月の終わりの時点でドイツ国内だけで昼間夜間合わせて1,517機の戦闘機が任務に就いていると報告している。更に重高射砲の生産数(全ての口径)も1943年に6,864門だったものが1944年には8,402門へ、軽高射砲の生産数も1943年に35,580門だったものが1944年には50,917門へと増加している。それとは対照的に、使用による損耗や戦闘による喪失での88mm高射砲の損失数は1944年で月当たり380門と、1943年の2倍以上に増加している。そして重高射砲と軽高射砲の生産数が全体的に増加していても、最新式で高性能な37mm機関砲43型、88mm高射砲41型、そして128mm高射砲40型といった高射砲の生産は遅れ、生産目標に遥かに及ばない状態であった。実際にイギリスの情報機関は、1944年の初めに作戦部隊に配備された128mm高射砲と88mm高射砲41型の数を、月当たり、それぞれたった13門と14門と見積もっていたが、この見積もりは正確であった。これら2種類の高射砲の生産での遅延と問題によって、ドイツ空軍は連合軍との戦いにおいて最も効果的な高射砲兵器を得られないでいた。特にアメリカ軍による昼間爆撃作戦では、B-17は一般的に高度25,000フィートを飛行しており、旧式の88mm高射砲と105mm高射砲では能力に限界が生じていた。
 高射砲の生産数の増加に加えて、150cmと200cmの探照灯の生産数も、1943年に3,180基だったものが1944年には5,757基にまで増加していた。200cm探照灯の場合では、1月では月産数が152基だったが、7月には240基に増加していた。同様に150cm探照灯も、1月で241基が7月で338基へと増えていた。ドイツ空軍の計画では、最終的に1946年3月までに10,990基の150cm探照灯と6,900基の200cm探照灯とを生産する事になっていたが、これはドイツ空軍が照空中隊の作戦に比重を置き続けていたことの明確な証拠である。そして1943年から44年にかけて探照灯が大幅に増産された事は、高射砲と戦闘機の両方の作戦への支援において、探照灯が効果的であり続けたことも示している。
 探照灯や高射砲とは対照的に、充分な数の射撃用レーダーと航空機追尾レーダーの生産については、ドイツ空軍は1944年を通して問題を抱え続けていた。1月1日にヒトラーの司令部で開かれた、シュペーア、Milch、そしてデーニッツが参加した会議の中で、ゲーリングはレーダーシステムが不足している罪を、Martini大将と航空情報隊に堂々となすり付けた。この会議にはドイツ海軍の司令官も出席していたが、これはゲーリングが空軍と海軍のレーダーの研究開発分野を統合する事への同意を、デーニッツから取ろうとしていたからである。この会議では、現在のレーダーの不足状態を改善すべく、今後国防軍のレーダー問題を合理化して行くことが確認された。それに続けて2月11日に開かれた研究開発会議で、Milchはセンチメーター波のレーダーシステムの開発分野において、空軍と海軍のレーダー開発計画を統合する決定を公表した。センチメーター波のレーダーシステムはレーダー波を鋭く集中させることが可能であり、探知距離が長く、そして探知精度が高かった。レーダー開発と生産の合理化は、基本的に資源を統合し、最新の技術を追求し、そしてレーダー装置への高い要求を持続し続ける事を目的としていた。1944年のレーダーと通信機器の生産の50%から55%を空軍が握っていた為、ドイツ海軍としても共同作業に明らかなメリットを見出せた。
 阻塞気球もまた、1944年の初めに資材不足で悩まされていた。1944年にドイツ空軍は、200立法メートルの容量で6,000から8,000フィートの高度で浮遊させるの気球と、77立方メートルの容量で3,000フィート以下の高度で浮遊させる小型気球の、主に2種類の水素式の阻塞気球を使用していた。1944年2月には、阻塞気球部隊の補助装置の生産上の問題から、部隊の作戦が実施できなくなる事態に陥った。この問題は、気球のガスを詰める鉄製のガスタンクと、気球を係留するワイヤーのウインチの製造に関するものであった。こうした生産の滞りから、鹵獲したフランスやイタリアの阻塞気球をドイツ製の気球と交換可能か調査が行われた。1944年には阻塞気球の効果も失われ始めていたが、ヒトラーは終戦まで運用の継続を強要していた。ヒトラーは気球の間にワイヤーを繋いで機雷を取り付け、爆発する空中フェンスを作るという提案すら行っていた。1944年の初めに約2,400基あった阻塞気球も減少して行き、終戦の年にはこの約半分になっていた。
 阻塞気球の他に、ドイツ空軍は低高度からの攻撃を防ぐために、渓谷の端から端まで鉄製ワイヤーを張った空中バリアー(Talsperren)を作っていた。ドイツ上空に現れる連合軍の戦術機(戦闘機や戦闘爆撃機)の数が増加した事から、工場や発電所やその他重要な施設を防御する手段として、ドイツ空軍はケーブルや機雷、更には防雷網までを使って、渓谷バリアーを造り上げた。適用可能な地形に制限があったものの、こうしたバリアー防御は継続して設置可能で、維持も楽であり、阻塞気球に比べて人も資材もわずかで済んだ。
 そして1944年の前半における高射砲用弾薬の生産不足が、最悪の不足であったことは間違いないだろう。第1四半期と第2四半期のそれぞれの高射砲用弾薬生産量の国防軍全体の支出に占める割合は、17%と16%であった。この値は1943年の第3と第4四半期における20%と19%から減少していた。しかし高射砲数は、弾薬の生産量を遥かに超える勢いで増大し続けていた。5月8日の高射砲開発会議で、弾薬の供給は「極度に好ましくない状態」であり、他から資材を転用しなければ6ヶ月間この状態が続くと報告されている。更に報告書では、炸薬の生産が増産の主要な障害となっていると主張している。1944年5月からは弾薬不足は迫り来る嵐のように常に不気味に存在し続け、そして1944年の秋には、遂にこの嵐が高射砲部隊に全力で襲いかかって来る事になるのである。
 1944年の前半に、ドイツの兵器産業において増大していた資源不足の恐るべき前兆にもかかわらず、ドイツの戦闘機部隊と地上防空部隊は上手くやって行けているように見えた。何人かの歴史家は、高射砲への資源の転用が航空機生産の余地を減少させる大きな要因になったと指摘している。しかし、この議論で良く見落とされているのは、V-1とV-2ミサイル計画が防空機器の生産に与えた効果であり、更に規模こそ小さいものの、V-3とV-4計画も資源を浪費していた。V-2の生産計画だけでも、電子産業や精密機械産業からの労働者も含めた延べ2億人もの技能労働者と、毎月1,000トンのアルミニウム、そして何万トンもの無水アルコールや過酸化水素、そして液体酸素を必要としていた。V-2計画によって航空機生産から貴重な資源が奪い去られただけでなく、1944年1月の時点でMilchは、対空ミサイル(Waterfall)の開発に必要な多くの資源が浪費されている事も認識していた。


人材の争奪

 1944年にも地上防空を更に拡張した結果、1944年を通して高射砲部隊として任務に就いている男女は25万人近くに膨張していた。それまでの2年間は、この増加分の多くを予備兵で賄っていた。1月の時点でドイツには244個の国民兵重高射砲中隊と328個の国民兵軽高射砲中隊とがあり、年末にはこの数はそれぞれ247個と273個になっていた。国民兵高射砲中隊に加えて、国家労働奉仕団(Reich Labor Service)からの2回目の動員が実施され、1943年12月から1944年6月までの間に約31,000名の国家労働奉仕団員が高射砲任務の訓練を受けていた。
 高射砲部隊の増大に伴い、防空ネットワーク内における若い女性の数も多くなっていった。例えば1944年3月には、女性の為の「高射砲指揮官」と題された、新しい役職が創設された。女性の為の高射砲指揮官の主な任務(responsibility)は、若い女性の防空任務の訓練や、政治的指導、レクリエーション活動の手配などであった。1944年の春には、ドイツ本国の防空ネットワーク内で約111,000人の若い女性が任務に就いていた。年末には、照空中隊の任務は殆どを女性予備兵が独占し、増え続けていた女性達は阻塞気球部隊にも配員された。更に射撃指揮装置や通信システム、そして重高射砲中隊付の聴音機の操作を行う若い女性も増加していた。防空任務への女性の動員は、何かしら気持の良いものではなかったが、ナチスの指導者達は女性予備兵の活動を、必要でかつ気高い犠牲であると位置づけていた。そしてこうした若い少女達から「女性らしさ」を失わせない為に、訓練中に「木造兵舎は家であり、そこに女性が住めば、暗がりも角の汚れも無い」とか「女性は、兵士であっても、女性である」といったスローガンを唱えさせていた。
 1944年5月22日のドイツ空軍へメッセージの中で、ゲーリングは高射予備兵の若い男女共が重要な役割を果たしている事に触れている。ゲーリングはメッセージの最初を、予備兵の能力の評価で始めている:

高射砲中隊における空軍予備兵の活用は成功している。こうした若人達は、軍務に就く年齢に達していないものの、ドイツの勝利に自ら貢献しようとしている。自らの任務への熱烈さ(begeisterte Einsatzfreudigkeit)、勇気、早い理解、そして真面目な訓練によって、与えられた任務に完全に追いつける事を、そして戦いの為に前線へと出て行った兵士の代役を充分に果たせる事を示してる。

このゲーリングの賞賛は間違いではなく、戦争の最後の年にドイツ中の街が廃墟となっても、多くの高射砲予備兵達は自身の任務を果たし続けたのである。ある若者向け出版物は予備兵達に、1812年に軍事思想家のカール・フォン・クライゼヴィッツによって作られた、次のような宣誓を繰り返させるべきだと提案している:「自由を守るため、そして祖国の為に栄光ある死を喜んで迎える事を、この世界と、これからの世界に対して宣誓する」
 未成年の若いドイツ人がナチスの下で祖国の防衛の為に集まっていた事は驚くに値しない。そして更に外国人義勇兵や戦争捕虜の動員が増加している事から、高射砲部隊が決して終わることのない人材探索によって負担が増加し、自暴自棄になっていることがわかるだろう。外国人義勇兵で最も多かったのは、クロアチア人とイタリア人である。イタリア人の場合、1943年に政権から追われたムッソリーニに未だに忠誠を誓っているイタリア軍部隊も含まれていた。そしてこうした義勇兵に加えて、1944年8月の時点で約51,000名のソビエト軍の戦争捕虜が高射砲部隊で任務に就いていた。1944年10月の第14高射砲師団での人員構成の調査から、戦争のこの段階におけるドイツの高射砲の人員が、多彩な状況であったことが明確になる。この第14高射砲師団はLeunaの合成石油精油所の防御を行っており、以下のような構成になっていた:


常備の空軍兵 28,000
国家労働奉仕団 18,000
男性空軍予備兵 6,000
女性空軍予備兵 3,050
ハンガリー人とイタリア人義勇兵 900
ソビエト兵捕虜 3,600
その他 3,000
合計 62,550


 この第14高射砲師団の多彩な人員構成は、1944年における本土全体の高射砲兵の人員構成そのものであった。例えばベルリンのある重高射砲中隊では、1944年春の時点で90人の若い男性予備兵と20人のソビエト兵捕虜が任務についており、常備の空軍兵は36人しかいなかった。非戦闘員の使用に加えて、高射砲兵として任務に就いている常備もしくは予備の空軍兵員も、老兵や、前線に出られない負傷兵の割合が多くなっていった。終戦時に、高射砲兵として任務に就いていた空軍の兵員の内の35%が、49歳以上かもしくは医療的事情から国防軍での任務に不適格であった者であった。このような予備兵や外国人義勇兵、戦時捕虜の大量流入、そして本来の空軍兵においても老兵や負傷兵の割合が高かった事は、高射砲部隊が国防軍の「失われた師団(lost divisions)」であったという議論が間違いである事の、重要な証拠であるといえる(?意訳)。1944年には高射砲部隊は戦争開始時のようなエリートの集団ではなくなり、前線の戦闘部隊の主要な予備部隊と見る事もできなくなっていた。しかし、市民や外国人、そして高校生の割合が高かったにもかかわらず、1944年の第1四半期の時点では高射砲兵は有能にその任務を果たし続けていたのである。


ベルリンの戦いでの爆撃機軍団の失敗

 年の初めにベルリンを空襲してからも、爆撃機軍団は1月に4回以上もドイツの首都を空襲していた。これらの空襲に加えて、爆撃機軍団はBrunswickとMadeburgの都市も、2回に分けて空襲を行った。1月でのベルリンに対する空襲で、爆撃機軍団は出撃数の5.8%にあたる147機の損害を、またBrunswickとMadeburgへの空襲で出撃数の8.3%にあたる95機の損害を被った。2月には、爆撃機軍団はベルリンに対して最大規模の空襲を行った。2月15日の夜、891機がベルリンに向けて離陸した。75機が途中で抜けたが、残りの爆撃機は密集した編隊で攻撃を行い、目標上空での滞空時間はたった22分だった。爆撃陣形を小さくして、ベルリン上空で高射砲や、夜間戦闘機を支援する探照灯に爆撃機がさらされる時間を最小にしたものの、それでも部隊は全体の4.8%にあたる43機を失った。RAF側から見るとこの作戦は明らかな成功であり、ベルリン市民の700人が死亡し、60,000人が家を失った。
 空襲の直後、Erich KreSmann大将がベルリンの高射砲部隊の指揮を執ることになった。ゲッベルスは、BreSmannの任命でベルリンから敵機が速やかに一掃される事(Hoffentlich bringt er die Berliner Flak endlich auf Draht)を希望していると伝える事で、航空戦での彼自身の不満を表現した。またゲッベルスは、3月3日に次のように記述している。「ドイツ国民、特にこの1週間の間に空襲を受けた都市の住人から、航空戦に対する希望が失われつつある」。実際に、ベルリンの高射砲部隊はこの時期に戦果が無かった事から、強く責められていた。高射砲の射撃範囲を高度16,500フィート以下に制限するという命令は、首都の高射砲部隊にとって厳しいものであったが、ヒトラーがゲーリングにこの命令を撤回させると約束をした後ですら、この制限は効果を保っていた。ヒトラーが射撃制限を支持していた事は、ヒトラーが普段から無制限下の高射砲作戦を支援をしていた事を考慮すると有り得ない事であるが、これはHerrmannの夜間戦闘機部隊の戦闘域を明確にしようするゲーリングの個人的な努力によってもたらされたもののようであった。この射撃制限により、ベルリンの地上防空部隊が2月と3月のRAFの空襲の中で貢献可能だった事は、野生の猪部隊の為に探照灯と照明弾で上空を照らすことくらいだった。
 爆撃機軍団の乗員とHarrisのベルリン破壊計画にとって、3月は運命的な月であった。3月24日夜、RAFは811機の爆撃機を出撃させた。2月の空襲の時とは違い、強い風によって爆撃機の編隊は目標への往復路において広範囲に散らばってしまった。ベルリン上空には雲が低くたれ込んでいたが、これは探照灯とリン照明弾によって目標を雲に照らし出して使うには理想的な条件であり、この為にイギリスの爆撃機は、上空で円を描いて旋回するHerrmannの戦闘機部隊に対して、テレビの画面上の画像のように照らし出されてしまった。しかし最も成功を収めたのは、探照灯の照射圏外の範囲に配備されていたSN-2機上迎撃レーダーを装備していた夜間戦闘機であった。何故ならば、爆撃機は帰還時に約125m.p.h.もの強烈な向かい風に相対しなければならなかったからである。予想していなかった猛烈な風により、帰還中の爆撃機はMagdeburg、Munsterそしてルール地方といったドイツ空軍の中でも最強の高射砲部隊の餌食となり、ほうほうの体でイギリスへと逃げ帰った。
 ある乗員は、Magdeburgの南部を通過していた際の経験を次のように回想している。:

航海士と爆撃手が機首で意見を交換していた。我々は高射砲と探照灯の激しい、恐らくはMagdeburgの街へと一直線に進んでいた。航海士は強い風の為に、Magdeburg南部の、明らかに街の防空区域を通過しなければならないだろうと言っていた。
その瞬間だった。高射砲弾が命中して、バン!バン!バン!と金属が裂ける音がした。機体に致命的な損傷を受けた事が判ったので、スイッチをインターコムに切り替えた(?I switched back to intercom)。操縦士のStan Wickが言った。「これまでだ。脱出するぞ」

高射砲の防御力の高い空域に入り込むと、いかに直ぐにやられてしまうかを、この記述は示している。同じ作戦での別の記述では、ランカスター爆撃機のパイロットが、ルール地方の防空地帯を飛行中に何機もの僚機が高射砲弾の命中によって爆発する様を目撃している。彼自身の爆撃機も2度も照射されたので、彼は機体を大きく蛇行させて、炸裂する高射砲弾を避けなければならなかった。このパイロットは前述のMagdeburg上空の乗員達よりも幸運で、何とかイギリス本土まで無事に帰り着けたが、しかし探照灯に2度捉えられてしまったら、撃墜されてしまうのが普通であった(?相当に意訳)。
 この3月24日のベルリン空襲作戦で爆撃機軍団は合計で72機を失ったが、その内訳は9機が往路で、6機がベルリン上空で、そして57機がイギリスへの帰路であった。ある航空戦の歴史家は、高射砲の戦果を12機、合計撃墜数の約17%であると見積もっている。しかし別の歴史家は、この空襲において「爆撃機軍団の損失の多くは、コースから外れた爆撃機が強力な防空地域に迷い込んだ結果であることから、戦闘機よりもむしろ高射砲によるもの」ではないかとしている。どちらにしても、高射砲は射撃制限をされているベルリン上空よりも遥かに高い戦果を挙げており、これによって射撃制限が高射砲が目標上空で戦果を挙げる機会を大きく損なっている事がわかる。
 この血塗られた空襲は、爆撃機軍団のベルリンへの一連の空襲の最後のものとなった。Harrisは敵首都から転じて、来るべきフランスへの上陸作戦計画の支援をしぶしぶ行わなければならなかった。1944年初めの8回にも渡る首都ベルリンへの空襲で、RAFは合計で351機の航空機と1,787名の乗員を失い、506名の乗員が捕虜となった。イギリスで墜落した航空機や、修理不可能な航空機を加えると損失数は606機にまで膨らむが、これは24個飛行中隊(squadrons)に相当する。その一方で、ベルリンに対する空襲で3,589人の市民が死亡し、23万人以上が家を失った。Harrisは戦後の回想録の中で、首都への空襲作戦を以下のように評価している:

ベルリンの戦いで我々は300機もの航空機を失ったが、これは割合で言うと6.4%である。この結果は、この地域への長期間の攻撃では多すぎるとまで言えるものでもなく、また最も困難なものでも、最も強力に防御された目標であったとも言えない。しかし、敵が防御を再構築し、新しい戦術を見つけ出す事に成功したことを示していると言える。

王立空軍の公式戦史ではこの作戦について、「作戦的視点から見れば、これは失敗などというものではなく、敗北である」と、相当に厳しい評価を行っている。皮肉にも、(米軍が)石油やボールベアリングといった「万能な目標(panacea targets)」を探す事を馬鹿にしていた当人が、同様に第三帝国の主要都市の物理的破壊に執着してしまうという罪を犯してしまったのである。


RAFに対する高射砲の効率の評価

 1944年の第1四半期におけるドイツの地上防空部隊の戦果は、ドイツ空軍の高射砲部隊を幾分か楽観化させたようであった。RAFは、1月の夜間空襲で合計79機がドイツ空軍の高射砲部隊によって撃墜されたとしているが、1943年4月以前でこの数に匹敵する戦果は1度しかない。表8.2は1944年1月から3月までの間の、ドイツ空軍の高射砲と戦闘機による損失数と損傷数を比較したものである。


表8.2
損失戦闘機 損失高射砲 損傷戦闘機 損傷高射砲
1月 136 79 95 179
2月 70 50 44 120
3月 115 50 106 163
合計 321 179 245 462


上の表から、爆撃機軍団の損失数の戦闘機と高射砲との間の比率は、1月に1.72対1だったものが、2月に1.4対1にまで落ち、3月には2.3対1にまで上がっていることがわかる。それとは対照的に、損傷数の高射砲と戦闘機との間の比率は、1月に1.88対1だったものが2月に2.7対1にまで上がり、3月には1.5対1にまで落ちている。期間全体では、爆撃機の撃墜数は戦闘機と高射砲で1.79対1、損傷数は高射砲と戦闘機とで1.88対1となっている。損傷数の統計値は、それ以前と比べて高射砲による航空機の損傷数が大幅に落ちている事が判るが、この低下の理由は、RAFのベルリンでの集中強襲と、首都上空での高射砲の射撃制限によって説明可能である。ベルリンの高射砲防御の能力を向上させる為、KreSmann大将は首都周辺の高射砲部隊の再編成を行い、陣地をベルリンの中心部から遠ざけて高射砲地帯を拡大した。
 1944年初めにドイツ空軍の高射砲部隊が様々な問題を抱えていたにもかかわらず、爆撃機軍団はこの時期に、ドイツの高射砲の能力が向上している事実に気づいていた。爆撃機軍団の春の夜間空襲における損失を調査したO.R.S.のある研究は、「ドイツの高射砲弾の射撃と炸裂における技術的進歩という観点と、損傷した機体を臨時に調査した結果から、敵の高射砲の効果はここ数ヶ月で向上していると思われる」と見ていた。高射砲が効果を上げていた一方で、野生の猪の戦果は低下してゆき、3月には幾つかの野生の猪部隊が解散された。それまでの数ヶ月間、Herrmannの部隊は悪天候や経験豊富なパイロットの喪失、そして不十分な訓練しか受けていない補充兵の充当などによって、効率を大きく下げていた。重要な事は、ドイツ空軍は、夜間の迎撃作戦における昼間戦闘機の高い損失を押し止めようとしていたのである。この損失率は、例えそれによって燃料切れになって機体を失う事になっても、爆撃機を撃墜できる機会がある限り空に留まれ、というHerrmannによる部下への指令によって悪化するのである。この姿勢によって、何人かの通常の夜間戦闘機の乗員達に、Herrmannのパイロットは「撃墜数よりも多くの回数パラシュート降下している」と皮肉られる結果となった。
 探照灯の支援の下で昼間戦闘機を使用する事により、ドイツ空軍は短期間の戦術的優位を得る事が出来た。しかし、冬の悪天候や激しすぎる戦術に、更に爆撃機乗員の耐性向上が合わさり、野生の猪の効果は減少する一方であった。それに加えて対空射撃の制限は、目標上空におけるRAF爆撃機を攻撃する高射砲部隊の戦力を大きく制限していた。しかしこうした問題がありながらも、Herrmannの部隊は1943年7月の野生の猪戦術の導入から1944年3月の事実上の部隊の解散までの間に、330機を撃墜していた。


防空の均衡を変えた、昼間爆撃の護衛機の導入

 1944年の初めにはUSAAFは攻撃を効果的に実施可能なまでに戦力を回復し、ドイツ中心部への出撃回数を増やしていた。しかしドイツ空軍の防空にとっての最大の脅威は爆撃機数の増加ではなく、むしろ遠距離護衛戦闘機の導入であり、これによって昼間の航空戦の戦力バランスが根本的に崩壊してしまうことになった。1943年9月には、すでにアメリカのP-47サンダーボルト戦闘機がEmdenを空襲した第8航空軍の爆撃機を護衛しており、ドイツ空軍の戦闘機の攻撃から無事に爆撃機を護衛している。最初、ゲーリングはドイツ上空で数機のP-47が撃墜されたという事実を知らされても、アメリカの戦闘機がドイツ本土にまで飛来することが可能である事を信じようとはしなかった。ゲーリングはいつもの技術的無知を披露して、これらのドイツで撃墜されたアメリカ軍戦闘機を、西部占領諸国上空で損害を受けたものがドイツ本土まで「滑空」して来た物に違いないと断言していた。しかし1944年の初めには、ゲーリングですらアメリカの護衛戦闘機の存在を否定できなくなっていた。空軍元帥閣下とは対照的に、ドイツ空軍の戦闘機部隊の指揮官は、アメリカの爆撃機相手の戦闘における護衛戦闘機の威力を直ぐに認識した。ドイツ空軍の戦闘機部隊のトップであるAdolf Galland大将は、ドイツ空軍は護衛機が付く前でも敵の爆撃機1機を撃墜する毎に1機の戦闘機を失っていたが、 昼間護衛戦闘機の登場によって戦闘機の損失が2機もしくは3機に増加するだろうと指摘している。
 2月20日から25日までの間に、USAAFはドイツ上空における護衛機の効果についての厳密な試験となる作戦を実施した。「大週間(Big Week)」として知られるこの一連の作戦では、ドイツの航空機産業の心臓部を集中的に攻撃した。この1週間で、第8航空軍からの延べ3,300機と、他に第5航空軍からの延べ500機が、約10,000トンの爆弾を投下した。これは1942年の1年間にドイツに投下された爆弾の量の約4分の1に相当している。RAFは一連の夜間空襲を行う事でこの作戦を支援し、9,198トンの爆弾を投下している。両国の爆撃機部隊の損害は大きかったものの、途方も無いというものでもなかった。この作戦でUSAAFは226機の爆撃機と28機の戦闘機を、RAFは157機の重爆撃機を失っていた。一連の空襲で、この作戦の建前の目標であるドイツの航空機生産の阻止は実現されたが、この作戦による本当の大きな効果は、むしろドイツ空軍の戦闘機部隊の損耗であった。アメリカ陸軍航空隊の公式戦史の著者は、「この2月の6日間の大規模で激しい航空戦によって、連合軍作戦計画者が工場の爆撃よりも多くの期待をかけていた制空権(air superiority)の確立に、より大きな効果が得られた事は間違いない」と記述している。
 多くの面からこの「大週間」作戦は、これ以後ドイツ空軍の戦闘機が昼間のドイツ上空で一方的な狩を楽しめなくなったことから、ドイツ空軍の戦闘機部隊にとっての転機であった。そして同様に、ドイツ空軍の戦闘機部隊の効果が減少することで、ドイツの地上防空部隊も大きな影響を受ける事になった。戦闘機による防空の効果が減少した事で、その分だけドイツ本国の高射砲による防空の負担が高くなったのである。戦争のこの時点で、ドイツ空軍の指導者の多くは高射砲部隊に対して幻滅しつつあったのだが、皮肉にも高射砲部隊の重要性は1944年を通して、ますます大きくなっていくのである。確かに、ドイツ空軍の地上防空は1939年から1940年にかけては美味しい獲物にありつけられたが、しかし1944年の航空戦の状況と激しさは、戦争初期のRAFの爆撃機部隊がまだ小さく貧弱だった頃の脅威と比べて、桁違いに大きなものとなっていたのである。


ベルリンの戦いへのUSAAFの参戦

 初期の護衛機による作戦で成功をあげていたにもかかわらず、1944年春には、P-47では航続距離に制限があり、USAAFとしては更にドイツの奥深くまで護衛可能な戦闘機が必要である事が明らかになってきた。そして落下式増装タンクを装備したP-51ムスタング戦闘機は、第8航空軍が望んでいたベルリンを往復する爆撃機を護衛可能な戦闘機の、1つの回答であった。3月4日にP-51は第8航空軍の爆撃機と共にベルリンまでの往復を成し遂げたが、これは第8航空軍の爆撃機にとっても戦闘機にとっても、初の敵首都への訪問だった。この空襲はアメリカ軍にとって幸先の良いものとはならず、悪天候から238機の航空機が引き返すか代替目標を攻撃する事となった。しかし1個飛行団(wing)の30機の爆撃機がベルリンにたどり着き、効果こそ小さかったものの約67トンの爆弾をベルリンの郊外に投下した。それから月末までに5回にわたる作戦が実行され、延べ2,826機が6,379トンの爆弾をベルリンに投下し、それによって187機の航空機を失い、1,870名の乗員が死亡するか捕虜となった。それに対して、この空襲で774人のベルリン市民が死亡し、43,000人が家を失った。
 アメリカ軍によるベルリンへの作戦中、ドイツ空軍が護衛された爆撃機の編隊と交戦を渋るか、もしくは交戦が不可能になっていることが、すぐに明らかになった。4月に、Gallandはドイツ空軍の戦闘機の損失に関する報告書の中で、「これまでの4ヶ月間に1,000機以上の昼間戦闘機を失ったが、その中には我々の最も優秀な将校も入っていた。この損失は埋める事が不可能である。…我々戦闘機部隊が消滅してしまう所まで、事態は悪化してしまったのである。」と書いている。別のドイツ空軍の戦闘機パイロットであるAnton Hackl大尉(Captain)は、「年長のパイロットはとても優秀だったが、訓練学校から来たばかりの新米パイロットは、離陸と着陸とがどうにかできるような者ばかりだ」と言っている。3月末にはドイツ空軍の指導者層も、戦闘機部隊での大きな損害と、不十分な訓練しか終えていない補充兵とにより、航空機部隊の質的戦力が大幅に低減していることを認識するようになっていた。
 ドイツ空軍の戦闘機部隊が問題に直面していたものの、ベルリン周辺の高射砲部隊は、アメリカの爆撃機を相手にし得ていた。B-24のパイロットのPhilip Arderyは、1944年春のベルリンへの空襲について、次のように書いている:

我々は進んでいた。ベルリンが世界で最大の都市に見えた。とてつもなく長い数分間を飛行して、ようやく幾つかの大きな建物を通過したが、それは街の中心部だった。編隊は全く混乱していた。高射砲弾の炸裂が余りにも激しくて、砲弾の幾つかは互いにぶつかり合っているんじゃないかとすら思えた。見える範囲では、2機の爆撃機が既に大きく損傷していた。

Arderyは更に続ける:

我々の周りは高射砲弾だらけで、無数の高射砲弾の炸裂せん光が、まるで炎の敷物のように見えた。嵐のスペリオル湖に浮いているカヌーのように、機体は空中で跳ね飛ばされていた。…高射砲地帯を抜けると、どんな状況だったのかと辺りを見回した。多くの爆撃機の機体に穴が開き、またエンジンが止まった為にプロペラをフェザーにしているものも多かった。何機かは今に炎に包まれそうなくらいに煙をあげ、そして2機が墜落して行った。


高射砲の効果の向上

 1944年春にアメリカの爆撃機に常に護衛機が付くようになると、防空の負担はドイツ空軍の戦闘機部隊から地上防空部隊へと次第に移って行った。4月の初めに、ドイツ空軍は6,387門の重高射砲と9,333門の軽高射砲、5,360基の探照灯をドイツ国内に配備していた。しかし高射砲の門数を増加させると共に、連合軍の電子妨害への対抗策も行わなければ効果の改善は達成できない。そしてドイツ空軍は、ドイツ中で集合中隊(super battery、GroSbatterien)を更に増加させる事で、高射砲の砲数を増加させた。実際に、集合中隊は6月にはドイツ空軍の標準の戦術的高射砲陣形となっていた。ある第8航空軍の高射砲報告(flak report)には、集合中隊の陣形を「ここ最近でフン族(ドイツ人の蔑称)が考えた中で最も知能的なものである、.....フン族自身もそう考えているのか、この'GrossKampfbatterien'(sic、まま)はあちこちで見られるようになった」と記述している。それと同時に、比較的穏やかな技術開発がドイツ空軍に集中対空射撃の可能性を更に大きくした。
 1944年にドイツ空軍は「中央変換装置44型(central conversion device 44、Zug 44)」を導入した。このZug44はそれまでのMalsi変換装置と似ており、1基の射撃用レーダーから得られた射撃諸元を他の高射砲陣地の目標計算にも利用できるようにしたものである。しかしZug44の、Malsiからの大きな変更点は、同時に32か所の陣地に情報を提供可能になっているところであった。それに加えてこの装置により、多くの高射砲陣地に必要な射撃用レーダーの台数を1基から2基にまで減らす事が可能となった。そして仮に1基のレーダーが電子妨害を受けたとしても、他の妨害を受けていない運用中のレーダーから情報を受け取り、電子妨害を受けている地域の陣地へこの情報を転送することが可能となったのである。特に後者の機能から、アメリカ軍の作戦計画者(planner)は航空機の乗員に対して、「レーダー情報を無効化する為に、目標地域全体のレーダーに対して妨害を行わなければならない」と指示している。こうした優れた機能から、このZug44は集合中隊の数を飛躍的に拡大させ、それにより高射砲の砲数を増加させた、申し分のない補助機器であったといえる。
 この時期に集合中隊の拡大で成功すると、高射砲部隊は集合中隊の砲数を24門もしくは36門に拡張した場合の評価を行う試験を開始した。von Axthelmによると、前者の場合ですらも、「全ての高射砲兵員」に対して最上等の訓練が必要であった。また後者の場合は、この36門中隊は「巨大中隊(manmmoth battery、Mammutbatterien)」として知られているが、射撃指揮装置と同期する高射砲36門との間に電気情報結合を施す事は実際には複雑であり、この構想の実用化は難しかった。しかしこうした試行は失敗したものの、ドイツ空軍は1944年の中頃には、ドイツ国内の石油合成施設を含む特に重要な施設の周辺に、88mm高射砲41型や更には128mm高射砲による集合中隊を配置していた。
 このZug44の導入と、集合中隊の火力の集中による信頼性向上とは、1944年春に高射砲部隊によって実施された効果の改善の、二大重要要素であった。戦後の研究でAxthelmは、1943年末から1944年を通して集合中隊によってあげられた成果は「著しいものである」と記述している。同じくアメリカ陸軍航空隊の公式戦史でも、「3月に昼間爆撃部隊は、高射砲の火力の著しい拡大を経験したが、更にその多くは精度の向上も指摘されている...そして1944年の春の終わりには、陸軍航空隊の爆撃機部隊が被った損害数においても、ドイツの戦闘機部隊によるものよりも高射砲によるものが上回るようになった。」と書かれている。そしてそれに加えて、高射砲弾の炸裂によって作り出される破片の数を増加させる為に、溝を付けた砲弾の採用も行われた(注、別資料では破片の数でなく破片の大きさを増加させる為とあった)。
 Zug44変換装置と、射撃用レーダー用の効果的な対妨害装置の導入は、1944年の前半における高射砲兵の戦力の増大を担った、2つの技術的革新であった。この技術革新と、組織的、作戦的な独創性の発揮の組み合わせにより、高射砲部隊は1943年後半の作戦的失敗からほぼ回復する事が出来たのであった。更にアメリカ軍の空襲への護衛機の参加により、ドイツ本土の地上防空部隊がゆっくりとではあったが、連合軍による空襲に対する第一線となりつつあった。


昼間空襲での高射砲の効果の評価

 1944年の初めには、高射砲部隊は6ヶ月前の衰弱から既に回復していた。第8航空軍の情報将校による1944年第1四半期の月例報告書は、ドイツの対空防御の能力向上を指摘している。第1爆撃機師団の高射砲連絡将校(Flak Liasion officer)であったE.R.T. Holms大尉は、2月の時点では「高射砲全般においてはわずかな改善(遅れ気味であるが)が見られるが、我々に幸運なことにフン族は依然として最悪の状態にあり、質でなく数に頼る傾向のままである。」と主張しつつも、「しかし、そう遠くない時期には本当に回復するだろうし、そうなれば昼間における編隊爆撃では、とても大きな被害を被ることになるだろう」と続けている。そしてその1ヶ月後には、Holmsは「我々のチャフにもかかわらず、フン族の高射砲はゆっくりではあるが、月毎に改善されつつある。」と報告し、それから不承不承、次のように認めている。「損害結果だけから結果を導き出すとすれば、チャフの使用は時間の無駄以外の何物でもないと言えるだろう」。これが4月になると、Holmsはドイツ空軍の高射砲兵の戦力の向上の証拠を無視できなくなる。彼は次のように言っている。「チャフや、他の各種の対抗手段(まま、sic)の使用にもかかわらず、この2ヶ月間で高射砲の精度が大幅に向上した事は間違いない」。このHolmesの一連の発言から、ドイツの防空力が向上している事を、嫌々ながらも認識して行く過程を見てとることができる。そしてこれはまた、1944年の始めには高射砲部隊がウィンドウとカーペットによる電子妨害による最悪の効果を克服していた事の、大きな証拠でもある。
 第8航空軍と第15航空軍の被った航空機の損失数を分析することにより、Holmsがこの時期に高射砲の効果が向上しているとした判断を確認する事が可能である。表8.3は1944年の最初の4ヶ月間に、第8航空軍と第15航空軍とで高射砲により損失、もしくは損傷させられたと評価された航空機の数をまとめたものである。


表8.3
1944年 損失 損傷
1月 17 1,291
2月 62 2,294
3月 72.5 2,840
4月 163 4,138
合計 314.5 10,563


1943年の第4四半期における第8航空軍と第15航空軍の高射砲による損失数が61機だったことと比較すると、1944年の初めのこの状況は、春に高射砲の効率が向上していた明白な証拠となるが、これは技術革新と天候の回復とが高射砲部隊に対して優位に働いたからであるといえる。


1944年3月6日のベルリン空襲

 ある1つの作戦も、以上のような傾向を示している。1944年の春に、第8航空軍はその強力な高射砲防御で名高い都市であるベルリンへと注意を向けた。そして3月における第2爆撃機師団の高射砲による損害の半分が、ベルリンでの作戦で発生した。ベルリンの高射砲防御は、実際には504門の重高射砲と220門の軽高射砲、そして420基の探照灯とを、24個の集合中隊に編成することで実施されていた。また首都の防御には、ベルリンに配備されていた3基の、重厚なコンクリート製高射砲塔の屋根上の巨大な連装128mm重高射砲12基も含まれていた。第8航空軍による3月6日のベルリンへの作戦は、ドイツ空軍の防空能力と戦争のこの時期におけるドイツの防御への高射砲部隊の貢献とを知らしめる結果になった。
3月6日のベルリン空襲では730機の爆撃機が参加し、その内の672機が目標にたどり着いた。1944年におけるUSAAFでの作戦では、首都に対するこれ以上の数の爆撃機による空襲は、他に1度きりである。この空襲では他にも、ベルリン南部にあるErknerのボールベアリング工場、Boschの電子機器工場、そしてダイムラーベンツの航空機用モーター(motor、エンジンではなくモーターか)も含まれていた。視界良好状態(visual condition)であったにもかかわらず、爆撃機の編隊は目標上空で広く分散してしまい、その結果1,626トンの爆弾も広範囲にばらまかれてしまい、意図した目標近くに着弾した爆弾はわずかであった。
 この失敗が、ドイツの防空部隊による酷い撃墜数の原因となった。第8航空軍は、戦闘による損傷が原因でスウェーデンに不時着した4機を含む、71機の爆撃機を失った。そして21機はイギリスの基地までたどり着いたものの損傷が酷くて修理が不可能であった。表8.4は損失の内訳を、航空機と高射砲、そしてそれらの組み合わせまで含めて仕分けたものである。


表8.4
戦闘機 高射砲 高射砲で損傷、後戦闘機 戦闘機で損傷、後高射砲
50 14 5 2


以上に加えて、戦闘機は4機を、また高射砲は5機、そして共同で3機を修理不能とした。そして他にも、イギリスの基地に帰還した爆撃機の内の48%にも上る318機が、高射砲による何らかの損傷を受けていたことからも、首都の地上防空の効果がわかるだろう。


高射砲の「隠れた貢献」

 3月6日の第8航空軍の爆撃機の損害から、ドイツ空軍の防空能力に関する幾つかの洞察を得る事ができる。まず、戦闘機による撃墜数と高射砲による撃墜数との比率は3.6対1である。次に、戦闘機による撃墜数の10%が、高射砲によって損傷した爆撃機であった。同様に、高射砲による撃墜数の14%が、戦闘機によって損傷した後に撃墜されたものであったが、しかし忘れてはならないのは、この時期における高射砲による損傷数が、戦闘機による損傷数よりも10倍以上も多かったということである。前にベルリンへの空襲を記述したPhilip Arderyは、高射砲によって損傷を受けた航空機が、敵戦闘機によって危険に曝されている様子に触れている。Arderyは回想する:

私は全力を尽くして編隊をまとめ、損傷を受けた機体でも追いつけるように飛行した。損傷した機体の多くは何とかして我々に着いて来ていたが、2機が落伍したと報告があった。.....落伍した2機から、何度も攻撃された旨の報告を受け続けていたが、終には何も聞こえなくなった。聞き取れたものの内、最後に近かった報告にはこうあった:「火に包まれた。脱出する」

Arderyの記述のようなことは、戦争を通して多くの爆撃機の乗員により何百となく記述されている。高射砲が後に続く戦闘機による撃墜を容易にしたことは、多くの戦闘機の勝利に対空部隊が隠れて貢献していた事を、またも示しているのである。
 航空機の撃墜数とほとんど同じくらいに重要な別の要素は、高射砲によって敵爆撃機の意図目標への攻撃を防ぐ事である。平均爆撃高度21,000フィートで視界良好状態(visual condition)であったにもかかわらず、爆撃機の多くが意図した工業施設に爆弾を当てる事ができなかった。空襲後、ゲッベルスは日記に次のように記述している。「工場はほとんど完全に無事だった。そして我々の兵器生産への損害の言及も、全く必要無かった」。更にゲッベルスは高射砲と戦闘機の協調を賞賛し、ベルリンの高射砲部隊が20機を撃墜したことにも触れている。この最初に申告された高射砲による撃墜数は、損傷を受けた航空機が後に戦闘機によって撃墜されたり、また原因不明による墜落が7機もあった事を考慮すると、考慮の範囲内であるといえる。結局のところ、ベルリンの高射砲部隊は高い撃墜数を達成し、また爆撃機による目標の攻撃を防ぐという重要な役割を果たしたのである。
 この空襲から3日後にもベルリンの高射砲部隊は、戦闘機部隊よりも地上防空部隊が勝っている別の要因を示す事になった。3月9日に、第8航空軍の339機の爆撃機が再びベルリンを空襲した。しかし上空の天候が余りにも悪く、戦闘機は1機も迎撃に上がれなかった。そしてベルリンの高射砲部隊はレーダー射撃と弾幕射撃に頼っていたものの、9機を撃墜したのである。ベルリンと同じように、フランクフルトやミュンヘンでもまた同じ時期に、戦闘機部隊は地上に止まったままという屈辱を受ける事になった。ある航空戦の歴史家はこの事について、「悪天候時の空襲でドイツは、アメリカの昼間空襲に対して迎撃が出来ない事が多かったが、これは事故率が高くなり、それによってかけがえのない技能を持ったパイロットを失う事を恐れたからである」と、要点を突いた記述をしている。戦闘機が飛び立てないと、都市の防御任務は完全に高射砲に頼らざるを得なくなる。戦争の極初期から、悪天候の時期においては、高射砲部隊はドイツ空軍の唯一の防衛線であり続けたのである。


偽施設、終幕

 1944年を通してドイツ空軍は、偽施設と欺瞞手法を高射砲防御に次ぐ重要なものとして認識していた。悪天候の時期に連合軍がレーダーによる爆撃に頼る事が多くなると、レーダー波を反射する浮きを用いた単純な対抗手段を導入した。連合軍のH2S及びH2X測地レーダーの初期の物は、地形を区別する能力に制限があったが、ただ大きな水面は他の地上地形とは明確に違った反応が出た為に、航法の際にこの特徴を自機の位置修正の重要な情報に利用していた。連合軍の主要な目標であるベルリンは周囲を幾つもの湖に囲まれており、ベルリンが雲で覆われた際には、この湖の為に航法がかなり容易になっていたのである。この連合軍の航法を混乱させる為に、ドイツ空軍は十字型の浮きを作り、ベルリンの西側の湖の湖面を横切るように配置した。この浮きによって連合軍の航空機に戻ったレーダーの反射波は、1つの湖が2つもしくはそれ以上の水面のような画像を作り出した。戦後にアメリカ軍の調査団はこの欺瞞手法を「相当に成功した」と記述している。
 1944年を通してドイツ空軍はまた、爆撃機軍団の航空機を目標から逸らす為に、偽装した目標指示マーカー(target indicator marker、T.I.マーカー)の運用を続けていた。1944年4月14日のある作戦研究部(O.R.S.)のレポートは、「敵が我々の攻撃を都市から逸らす為に、偽装したT.I.マーカーを使用している疑いがある事を示す証拠が、数多く出ている」と警告している。またこの報告書では、ドイツの火事施設(fire site)の効果は低くなっているものの、「偽装したT.I.マーカーや、煙幕装置等と共に使用されると、効果的な欺瞞システムとなる可能性があり、…そして将来、敵がこうした欺瞞活動の急速な拡大を計画をしている可能性がある」と警告している。そして最後にO.R.S.の報告書は、ドイツの欺瞞に対抗する為に容易に複製のできない新しい目標マーカーの開発を提案している。
 レーダー反射浮きや偽装した目標指示マーカーといった欺瞞手法に加えて、ドイツ空軍は偽高射砲陣地や偽飛行場を、重要な都市や工業目標の近くに建設した。偽飛行場には、損傷した航空機や布や木で作った張りぼてが置かれ、欺瞞効果を出していた。それと同様に、ドイツ空軍は偽高射砲陣地を作る事で、特定地域からの高射砲部隊の移動を隠蔽しようとした。偽高射砲陣地の場合、ある第8航空軍の高射砲報告は「敵は、高射砲陣地を放棄したり、もしくは一時的に空ける場合でも、偽装備を残す事により、ある程度我々を欺いている可能性がある」と見ていた。更にこの報告書は続けて、「この事例として可能性のある例として、Bielefeldでは航空写真によって10門の重高射砲が今でも確認されるのだが、過去1ヶ月間に視界良好状態においてすら1門の高射砲も交戦していない。同様にルール地方にある幾つかの高射砲も、既に移動している可能性がある」と記述している。高射砲の特定の場所からの撤去を隠匿することで、ドイツ空軍は戦争の末期、連合軍の高射砲情報将校に高射砲中隊を二次的な目標から優先度の高い地域の防衛へと移動したことを知られることを、防いでいた。
 1944年を通して、ドイツ空軍は連合軍爆撃機を意図した目標から逸らす為に、偽飛行場と偽高射砲陣地と共に、偽施設を多用していた。連合軍による石油施設の空襲の為に悪化する石油危機から、ドイツ空軍は石油精製施設やドイツの生命線たる合成石油施設の近くに、偽施設の建設を集中して行った。例えばドイツ空軍は、連合軍の爆撃機を騙す為にPloestiの近くに2ヶ所の別々の偽施設を建設したが、それぞれ本物の石油施設から約8マイル北西と7マイル東に配置されていた。他の例では、Leunaにある合成石油施設の周辺の偽施設は、合計4,550発の爆弾を実際の施設から逸らす事に成功している。事実、この施設への最初の8回の空襲の内、7回は本物の施設よりも偽施設の方により多くの爆弾が命中している。そしてMeerbeckの合成石油施設を調査したアメリカ軍戦略爆撃調査団は、そこから3マイル近く離れた場所にある偽施設が「1944年5月まで相当に効果的であった」と指摘している。Meerbeckの場合、RAFは23,926発の高性能爆弾と103,743発の焼夷弾を延べ41回の空襲で投下していたが、しかし戦後の調査で工場の施設内で確認できた爆弾クレーターの数は、たったの328ヵ所であった。焼夷弾はクレーターを成さないものの、それでも投下した高性能爆弾の1%以下しか施設内に落下しなかった事実は、RAFの夜間空襲における点目標に対する精度に問題があった事を示し、またそれによって近くにあった偽施設の効果が高かったことが推測可能である。
 1944年中旬にはドイツの工業を守るために、偽装の広範囲に渡る使用による工場施設の隠ぺいや、もしくは工場施設を地下への移設が試みられた。空襲が激しくなると、政府は1944年3月に最重要工場をより脅威の低い地域へ分散するよう命令した。同様に、1943年8月のイギリス軍によるPeenemundeへの空襲によって、V-2ミサイルの生産施設の地下への移設が開始された。1944年には、悪名高いBuchenwaldの衛星収容所(?satellite camp)であるDoraでは、何千人もの強制労働者と戦時捕虜が、酷い状態の下、地下で働き、そして生活していた。そして米軍によるドイツの航空機産業への空襲が激しくなるに及んで、ヒトラーはトード機関(Organization Todt)に地下航空機工場の建設を命令している。偽装、分散、そして最重要工場の地下への移設は重要な受動的防御手段であり、偽施設の効果を補助していた。最後にまとめるならば、戦争を通してドイツ空軍の地上防空部隊によって導入された革新的な欺瞞や誘惑手段は、適用しやすく、そして精巧なものであり続けていた。こうした部隊の成功は、防空努力による主要な成果の1つであるだろう。


空を曇らせる

 1944年を通して、ドイツ空軍の地上防空部隊は人工の霧、もしくは煙幕の使用を拡大していた。煙幕は、航法の精度を下げ、実際の視界を隠すことで、偽施設へ爆撃機を誘導する目的で使用されていた。ドイツ空軍の防空に関する1944年の研究では、「人工霧は、昼間においても夜間においても、目標物の防御に役立つ補助的手法である」と指摘している。実際に地上防空部隊が運用する煙幕装置の数は約75台と、1年間に2倍に増加していた。この煙幕部隊の拡大は主として、5月の初めにヒトラーとゲーリングと会談した際のデーニッツからの要求によるものである。会談の中でデーニッツは、ハンブルグとダンチヒ、そしてブレーメンの各都市への防空と煙幕防御の増加を要求した。ゲーリングは「防空と煙幕防御を拡大したからと言って、都市が完全に守られるわけではない」と反応したが、デーニッツはそれに対して「煙幕防御は無いよりも増しである」と返した。この場合はヒトラーがデーニッツに同意し、ゲーリングに対して各都市の防空と煙幕防御の強化を行う為の適切な手段を採るよう命令した。
 ヒトラーの決定は、煙幕部隊の大幅な拡大を促した。港湾都市での煙幕部隊の新設に加えて、ドイツ空軍はドイツ国中の合成石油施設にも煙幕部隊を駐留させた。1944年の秋には、Leunaにある合成石油施設だけでも約500台の化学煙幕装置と約600台の煙幕発生用の窯が配置されていた。化学煙幕装置は、三酸化硫黄(sulfur trioxide)とクロロスルホン酸(chlorosulfonic asic)を混合した際に発生する煙を利用するもので、円筒容器内に薬品を入れ、遠隔操作で放出させた。また窯の方は、石油精製プロセスでの残滓物のタールの混合物を燃焼させることで自然の煙を発生させた。それに加えてドイツ空軍は、主要な都市の周辺に「煙幕ポット(smoke pots)」を配置するという原始的な手法も採っていた。この煙幕ポットは、基本的に柑橘類の果樹園で凍てつく天気の際に使用する「霜よけ用のいぶし器(smudge pot)」に似たものであった。1944年の5月末に、Ploestiの防空部隊の指揮官は、第5航空軍の爆撃機による空襲を妨害する為に、約2,000個のこうした煙幕ポットを石油精製施設の周辺に配置した。
 煙幕部隊の作戦の指揮をとり、煙幕発生に関する命令を出すのは、在地の高射砲指揮官であった。煙幕生成の決断は、幾つかの変化しやすい要素を基にして行われた。最も重要だったのは、煙幕生成を開始してから煙幕が地域を覆い終わるまでに時間がかかったことであり、この遅延時間は約40分であった。この遅延時間の存在から、煙幕作戦は基本的にドイツ国内の地域に制限されることになった。それに加えて上手く煙幕を張るには、風速や湿度、そして温度といった幾つかの気候上の要素が揃わなければならなかった。風速は4から8m.p.h.、そして湿度と温度は高い方が、より好条件であった。在地の高射砲指揮官は、煙幕作戦の開始を決定する際に、幾つかの変化条件を重視しなければならなかった。まず、受け持ちの地域が敵の目標であるか、そして受け持ち地域を覆いつくすまでの充分な時間があるかを、判断しなければならない。次に、気候条件が煙幕に適しているかどうかを判断する。もしそうで無ければ、煙はただ垂直に柱のように登ってしまうか、煙幕発生機の周辺に固まって小さな雲にしかならず、施設の位置が敵に見つかってしまう事になる。
 恐らく戦争中で最も有名な事件は、Schweinfurtの煙幕防御の指揮官が、1943年の秋の第8航空軍の空襲中に、天気が煙幕に適していなかった為に煙幕作戦を実施しなかった事件である。この決定に激怒したゲーリングは、この指揮官を軍法会議にかけるよう命令した。状況はこの煙幕部隊の指揮官にとって悪く、裁判長の判決が届き「今日中に有罪となる(Today heads must roll)」と伝えられた時は特にそうであったが、ゲーリングにとって残念なことにその後の調査によって、この指揮官が煙幕作戦を中止した際の根拠が空襲時の気象条件だった事が判明したのである。煙幕作戦を開始の可否に関する変化条件としては他にも、煙幕によって施設周辺の高射砲中隊の照準が不明瞭になってしまうという問題がある。この問題の1つの解決方法は、防御する施設から高射砲中隊を遠ざけてしまうというものがあるが、しかし多くの施設では、煙幕の使用を決定する際に、高射砲射撃の精度と有視界爆撃からの施設の防御との間のトレードオフ関係を考慮しなければならなかった。
 煙幕の発生に困難も伴ったものの、こうした煙幕部隊は、天候条件さえ良ければ重要施設の防御に効果のある補助的手法であった。例えばUSAAFの爆撃機部隊は1944年1月にWiener Neustadtにある目標を空襲したものの、ドイツの煙幕作戦によって失敗している。他の例として、B-17の航法士だったHarry Crosbyは1944年春のBremenへの作戦について次のように記述している。「我々はFlensburgとブレーメンの間からドイツの海岸を突破した。以前も来た航路だ(?my old nemesis)。ブレーメンから数マイル離れていたが、敵の高射砲は我々を狙い、そして街の上空には煙幕を張っていた。周辺数マイルの範囲の空が黒く染まっていた」。同じように、B-24の爆撃手であるLeroy NewbyによるPloestiへの空襲についての記述では、偽装された火事から立ち昇る煙の柱に彼自身も含めた幾つもの爆撃機飛行群(group)が「騙され」、「白い煙の海の中へ」何千トンもの爆弾を捨ててしまっている。この空襲では、煙幕によって目標上空の視界が悪くなった事で、幾つかの飛行群は第二目標に変更せざるを得なくなっていた。
 1945年には約5万人が100個煙幕小隊を構成し、それによってドイツ空軍の人的資源は更に苦しくなっていた。しかし戦争の残りの期間を通して煙幕部隊の作戦を制限していた主要因は人的要因では無く、煙幕用の酸の生産に必要な化学薬品の決定的な不足であった。ある見積もりによると、ドイツ空軍は通常の作戦を支援する為に月当たり17,000トンもの煙幕用の酸を必要としていたが、生産量が8,000トンを超える事は決して無く、終戦時には生産量は月産4,000トンにまで下落していた。こうした状況の為に、煙幕用酸が無く発煙装置が待機状態のままという状態にすら陥っていた。しかし資源の不足や、煙幕部隊に関する問題や制限にも関わらず、ドイツ空軍の煙幕防御は、最重要施設での既存の受動的、能動的防空ネットワークの重要な補助手段であった。


連合軍を待ち受ける(Awaiting the Allies)

 1943年11月3日に、ヒトラーは「総統指令」を発令して、西方占領諸国での防御拠点の増強と、同地域での国防軍兵力の強化を命令した。1ヶ月後には、ヒトラーはエルウィン・ロンメル陸軍元帥(?Field Marshal)に、デンマークからスペインに至る「大西洋の壁」の査察旅行の実施と、防御状態の報告を求めた。この査察旅行において、ロンメルはこうした拠点の多くが未完成か、もしくは準備不足であることを知った。そしてこの結果、連合軍の上陸を見越して、無数の要塞化された拠点の建設や、北フランスの砂浜への数百万個にも及ぶ地雷や障害物の配置を含む、大西洋沿岸の防御要塞の改良という大仕事が開始されることになった。こうした作業に加えて、国防軍は西部の地上兵力も増強した。1944年6月の始めには、合計58個のドイツ軍師団が、西部におけるドイツ軍の司令官であるGerd von Rundstedt陸軍元帥(Field Marshal)の指揮の下、上陸部隊を待ち受けていた。1944年の春には、イギリス中の基地や港に、連合軍の陸軍と海軍の大部隊が集結いしていたが、それでもドイツの防御を突破するのは簡単ではないことは明らかであった。しかし「ヨーロッパ要塞」を突破する作業は、連合軍爆撃機が空襲対象をドイツ本国からフランスへと変更したことで、既に開始されていたのであった。



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