第9章 空の黙示録(?GOTTERDAMMERUNG)、1944年6月から1945年5月




 来るべきヨーロッパへの侵攻の準備において、Sir Trafford Leigh-Mallory空軍大将(?Air Chief Marshal)とSir Arthur Tedder空軍大将(?Air Chief Marshal)は、ヨーロッパにおける連合軍の総司令官であるDwight D.Eisechower(アイゼンハワー)大将に対して、大西洋沿岸のドイツ軍部隊を補給線から孤立させる為の空襲作戦の計画を提示した。しかしこの計画には、連合軍の戦術・戦略航空部隊の双方の参加が必要であった。ドイツ国内の目標から攻撃の重点を移す事を好ましく思っていなかったHarrisと、その同僚たるアメリカ軍のSpaatzとは、戦略爆撃機部隊の転用の提案に抵抗した。アイゼンハワーからの辞職の脅迫という政治的圧力を受け、HarrisとSpaatzはしぶしぶながらも、輸送機関を目標とした作戦の為に、重爆撃機部隊を一時的に総司令官の指揮下に置くことを承知したのである。
 爆撃機軍団の乗員にとっては、輸送機関攻撃計画(?Transportation Plan)への目標の変更は、夜間のドイツ本土の防衛網の突破という困難から解放されることによるモラルが上がり、また飛行距離も激減する為に好ましい事であった。4月17日から6月6日までの期間、爆撃機軍団が主力部隊としてドイツを空襲したのはたった13回だけだったが、一方でフランスや低地諸国の鉄道や飛行場、沿岸防御施設に対して行われた攻撃は約100回にも上った。フランスや低地諸国の、より防御の薄い目標に変更した為に、爆撃機軍団は4月と5月に上陸作戦前の支援で延べ12,920機を出撃させたが、その1.8%である241機の損害しか出なかった。これによって爆撃機軍団は何よりも必要としていた休息を取ることができたが、ドイツ国外の目標へのシフトによって「ドイツの心臓部」に対する圧力も低くなり、ドイツ空軍の防空とドイツの諸都市に「息を吹き返させる」ことにもなった。RAFの公式な戦略爆撃戦史によれば、爆撃の重点を変更した事により、「ドイツの防空が彼らの本国上空での夜間戦闘において最も偉大な成功を収めている、まさにその時」に、Harrisは彼の部隊に対して精神的、物理的資源を回復させることができたとしている。この一文から、1944年前半に爆撃機軍団が辛い状態にあり、またドイツ空軍の防空が前の年の夏の低さから復活していた事とを認識することができる。
 同僚の爆撃機軍団と同じくアメリカ軍の爆撃機も、4月から5月にかけてフランスや低地諸国内の幾つもの目標を攻撃していた。第8航空軍と第9航空軍の爆撃機は、上陸前の作戦期間中にフランスにあるドイツ空軍の飛行場を猛爆し、約6,000トンもの爆弾を投下した。この期間、アメリカ軍の爆撃機は大西洋沿岸の要塞施設だけでなく、西部にあるドイツ空軍のレーダーシステムに対しても攻撃を集中した。こうした西部での作戦に加えて、第8航空軍の爆撃機部隊は、3月22日から5月24日まで6回、ベルリンを空襲している。3月22日のベルリンへの空襲では、悪天候からドイツ空軍の戦闘機は離陸できなかったものの、それでも第8航空軍は対空射撃によって12機の爆撃機を失った。5月にも3回の空襲が行われたが、ベルリンの高射砲部隊は11機を撃墜し、第1爆撃機師団938機の58%にも上る553機に損傷を与えた。しかもこの高射砲に損傷させられた553機の内の114機の程度は「重大な損傷」であった。この上陸前のベルリンへの6回の空襲で、合わせて157機が撃墜された。このドイツの防空部隊による成功は、戦闘機と高射砲との統合作戦が有効なものである事を示しているといえる。また爆撃機の損失数と損傷数から、高射砲を集中した地域での対空射撃が、効果を出し続けている事がわかる。
 4月と5月には、ドイツの石油工業もまたアメリカ軍の爆撃機の目標となり、繰り返し攻撃されることになった。4月5日から4月19日の間、第15航空軍は有効延べ機数5,479機でPloestiにある石油施設を攻撃したが、その過程で223機の爆撃機を失っている。この4月の一連の空襲で、高射砲は131機、戦闘機は56機を撃墜しているが、比率は2.3対1で高射砲の方が多かった。5月12日から5月29日の間には第8航空軍が作戦に参加し、3回にわたってドイツ国内の合成石油製造施設を攻撃した。ドイツ空軍の戦闘機部隊は総力を挙げて爆撃機と護衛機を迎え撃った。この5月の空襲で、第8航空軍は部隊全体の延べ出撃機数の2,858機の3.9%にあたる112機を失っている。ドイツ空軍の高射砲部隊は、この損失の内の10%程しか撃墜できなかったが、しかし第8航空軍全体の20%以上に損傷を与えていた。例えば、5月12日のMerseburg(Leuna)にある石油プラントへの攻撃では、高射砲部隊は第1爆撃機師団316機の66%にも上る208機に損傷を与えており、しかもその内の26機は「重大な損傷」であった。ベルリンや合成石油施設の高射砲部隊の能力から判る大きな教訓は、充分に戦力を集中し、また特に戦闘機部隊の補助的なものとして運用すれば、攻撃部隊への対空射撃は高い戦果を得る事ができるということであった。


西部の連合軍上陸による高射砲への影

 1943年末には、国防軍の作戦計画者達にとって、連合軍が1943年冬から1944年の春までのどこかの時点で、海峡を越えて侵攻をかけてくる事が明白であった。1943年12月12日に、ドイツ空軍は「西部における差し迫った危機(Drohende Gefahr West)」と題した、緊急時対応計画(contingency plan)を作成した。この緊急時対応計画は、予想される侵攻を撃退する為の戦闘部隊の再配置に関するドイツ空軍の詳細な計画(blueprint)であった。この計画では、戦闘機部隊や爆撃機部隊の再編成に関する詳細に加えて、西部の防空を強化する為にドイツ本土からフランスと低地諸国へ移動隊形の高射砲部隊(?mobile flak formation)の移送に関する付加書類が含まれていた。
 1944年2月末には、航空参謀によって元々の計画が改訂されているが、それには「敵が1944年の春に西部に上陸を企図している兆候が増加している」という的確な指摘が加えられていた。計画では連合軍が侵攻を開始した場合、それぞれ3個重高射砲中隊と2個軽高射砲中隊で編成された鉄道高射砲連隊を2個、侵攻された地域に派遣するよう求めている。鉄道高射砲連隊の移送に加えて計画では、帝国航空管区から第3航空管区へ、1個高射砲連隊の参謀部、13個重高射砲大隊の参謀部、5個軽高射砲大隊の参謀部、43個重高射砲中隊、23個軽高射砲中隊、そして12個高射砲戦闘隊形(?12 flak combat formation)を再配置するよう指令している。もしもデンマークやノルウェイへも同時に侵攻があった場合には、この増援部隊は2分割し、それぞれを西と北へと派遣することになっていた。これらの高射砲の増援部隊は、鉄道高射砲連隊や本国から西部占領地域へ運搬を行う自動車化支援部隊を別として、約11,000人もの高射砲兵が含まれていた。緊急時対応計画では、移送する高射砲中隊は主として若い男性の予備兵で構成するものとし、またその為、こうした部隊は自己防衛の時のみ地上戦に参加可能という制限が設けられていた。
 西部における侵攻を目前にして、更に高射砲部隊を増強する為、ドイツ空軍は1944年2月22日に第3高射砲軍団を編成し、この軍団を占領下の低地諸国を担当する第3航空管区の指揮官の下に付属させた。第3高射砲軍団の設立は、西部や東部での初期の作戦における第1高射砲軍団と第2高射砲軍団の果たした重要な役割を認識していた事を示している。これら前任者達のように、第3航空軍団が敵の航空機だけでなく、地上部隊に対する作戦も支援可能な機動戦闘部隊となる事をドイツ空軍は期待していた。第3高射砲軍団の編成によって、約3,500門の軽高射砲と中高射砲とが海峡沿岸の陣地に移動された。


侵攻

 6月6日に連合軍がノルマンディに上陸した時、ドイツ空軍は直ぐに該当地域、特に上陸を支援する強力な連合軍の戦術・戦略空軍の攻撃に直面する地域の、防空を強化する必要性を認識した。また以前の緊急時対応計画での初期増援部隊では、西部に配置されているドイツ軍部隊からの要求には不十分であることが判明した。その結果、ドイツ空軍は合計で重高射砲中隊140個と軽高射砲中隊50個をフランスへと移送した。しかしこの高射砲部隊の移送は不吉な先例となり、戦争の最後の10ヶ月間には、ドイツ本土から前線への高射砲部隊の抽出が一般化されてしまい、これによって本土正面の地上防空部隊の出血は段々と酷くなっていくのである。
 1944年の夏、連合軍の陸上部隊はフランス内を進撃し、一方でアメリカとイギリスの戦術・戦略空軍は、西部のドイツの高射砲部隊と陸上部隊を粉砕した。敵の上陸後、第3高射砲軍団はノルマンディ海岸付近のドイツ軍部隊を支援する為に前進した。初期の作戦で軍団は25機の連合軍機を撃墜したが、一方で「相当な」資材的、人的損害を被った。実際に、地上戦の状況から軍団は多くの高射砲中隊を、迫りくる連合軍機械化部隊に対する火砲の防壁として使用させられることとなり、約100台の装甲車両を破壊している。しかしそれは、ドイツ空軍の高射砲部隊が、連合軍の空と地上の攻撃に対する一時的な障害でしかなかったということでもあった。イギリスの軍事情報部の作成したある報告書では、「最近の報告から、戦闘地域における高射砲部隊の損害は人的、特に装備的に、相当なものとなっている事は明白である」と指摘している。
 8月の終わりには、ドイツ空軍は西部で高射砲部隊、主に軽高射砲に膨大な損害を出しており、中でも第3高射砲軍団の第1と第4高射砲突撃連隊は「ほぼ完全に破壊された」と報告されていた。こうした損害は、「特に激しい(地上)戦闘」と「言語に絶する酷い空襲」の組合せの他に、連合軍の地上部隊の進撃を前にして退却する際に、利用可能な輸送手段の不足によって移動できなかった高射砲や装備、人員も含まれていた。例えば、装備やトラックを大量に失っていたにもかかわらず、国防軍はSeine川で身動きの取れなくなっていた高射砲部隊の兵員の多くを撤退させることに成功していたが、しかしこの部隊は、渡河する輸送手段の制限から、1,000門もの砲を放棄しているのである(?多少意訳的に修正)。
 1944年夏の連合軍によるフランスの席巻は、ドイツの防空ネットワークの終焉の始まりでもあった。ドイツ空軍は侵攻部隊との戦いで膨大な量の装備と資材とを失い、更にはヨーロッパに連合軍の戦術空軍の基地ができる事から、ドイツ中をイギリスやアメリカの戦闘機や中型爆撃機が飛び回ることが可能となり、ドイツの防空ネットワークに新たな負荷が加わることになったのである。それに加えて連合軍による西部の占領は、ドイツ空軍の前線の早期警戒レーダー施設を失うということでもあり、この状況は夜間戦闘機部隊が生き残れるかどうかについても大きな含みを持っていた。そして1944年の夏以降、ドイツは猛烈な規模の空襲を受ける事になる。


ドイツ空軍のガソリン不足

 連合軍によるフランスへの上陸が成功するか明確になる前であったが、Spaatzは第8航空軍と第15航空軍の戦略爆撃機を再びドイツの石油施設への攻撃へ戻そうとしていた。既に5月24日には、ゲーリングは「敵が後方の水素生成プラントを攻撃し続けているのに、前線を強化することが一体何の得になるというのか?。それによって航空作戦が完全に不可能になるようなことになれば、戦闘機参謀を解散することになる。」と警告している。同様にMilchも、合成石油プラントへの連合軍の大規模な攻撃の実施は、戦争における「重大な瞬間」であると書いている。実際に、ドイツの石油施設を巡る戦いは、増大する連合軍空軍に抵抗するドイツ空軍の死生を握っていた。2つの意味から、石油施設がドイツ空軍の運命を決める重要な戦場となっていたのは確かである。
 予想される石油施設への攻撃に対抗する為に、ゲーリングはドイツ本国の防空ネットワークにメリハリを付けるよう命令した。5月29日のPolitzにある石油施設への第8航空軍の空襲への対応として、ドイツ空軍はベルリンの防衛部隊から高射砲中隊を移送し、プラントの防御を強化した。それに加えてゲーリングは、ドイツ中央部にある石油施設の防衛を第14高射砲師団の任務とし、そしてMilchとSpeerが直々に師団司令部を訪れ、この施設を防御することの重要性を強調した。この時点で約374門の重高射砲が施設を防御し、Leuna付近の施設の周辺にも104門の高射砲が、更にHalle-Leipzig地域にも174門の高射砲が配備されていた。しかしドイツ空軍は直ぐに、これだけの防備では来るべき空襲を阻むには不十分であることを認識することになる。その結果、ドイツ空軍はこうした施設の周辺の高射砲の増強を、年末に至るまで続けることになる。
 6月8日に、Spaatzはアメリカ戦略空軍(USSTAF)に対して、ドイツ軍への石油供給の遮断を重爆撃機部隊の主要な任務とする命令を出した。Spaatzは、イタリアに基地を持つ第15航空軍の爆撃機によってヨーロッパ南東とポーランドにあるドイツの石油施設を攻撃し、一方で第8航空軍の爆撃機でドイツ本土の石油施設を攻撃するという二正面作戦を思い描いていた。それからの3ヶ月間、アメリカの戦略爆撃部隊は、多少の爆撃機軍団の支援も受けながら、ノルマンディから突破しようとする連合軍の支援だけでなく、ヨーロッパ中のドイツの石油生産及び貯蔵施設の破壊に集中することになる。6月15日に、第8航空軍の第3爆撃機師団の215機によるMisburgへの攻撃によって、上陸後の石油作戦の幕を切った。6月20日には、第8航空軍は1,361機の重爆撃機と729機の護衛戦闘機という記録的な大部隊で、ハンブルグ、Harburg、Ostermoor、Misburg、Politz、そしてMagdeburgの各都市の石油目標を攻撃した。この空襲で、高射砲防御の強力なPolitzでは、267機の爆撃機の3.7%に当たる10機を撃墜し、更に部隊の42%にも上る112機に損害を与えた。ハンブルグへの空襲では、第1爆撃機師団が出撃した451機の内の7機を失い、66%に当たる300機が高射砲による損害を受け、しかもその内の86機は「重大な損傷」であった。どちらの空襲も視界が良好な状態であり、光学照準による対空砲火の効果は衰えていなかった事と、高射砲部隊を集中することで効果が増加する事とがわかる。しかしそれと同時に、爆撃機の数でドイツ空軍の防空を圧倒し始めた連合軍に対抗するには、高射砲と戦闘機による統合された防御システムが必要である事も示している。
 6月の終わりには、第三帝国の軍事・政治指導者達は、ドイツの石油生産に対する空襲作戦が、国防軍の戦争遂行能力に対して重大な脅威となることを認識するようになっていた。6月21日にゲーリングは12ヶ所の最も重要な合成石油と水素生産プラントの周辺の高射砲部隊の更なる増強を命令している。同じく、シュペーアも6月30日にヒトラーに私信を出し、最近の連合軍による合成石油プラントへの空襲の効果の詳細を告げている。シュペーアはヒトラーに、攻撃の「破滅的な」状況を伝え、「航空機の魂たるガソリン生産は、この時点で全く不十分である」事を強調している。実際に日産量は5月1日に最大5,845トンだったものが、6月30日には1,212トンまで下落していた。シュペーアはプラントの防御を強化する為に、より多くの戦闘機をこうした地域に送るよう求めている。それからシュペーアは、プラントの周辺の地上防空を増強する為に、以下のような2つの新たな手段を要求している。:

(1)他の重要な機器を犠牲にしてでも、煙幕部隊の大増強を行う。また、より良い偽装を行うために、あたかも本物プラントのような白い煙を上げさせると共に、実際のプラントと同様な煙幕を張った偽プラントを設置する。
(2)最近の高射砲の増強でも強化は不十分であり、ドイツ国内の都市の防御を犠牲にしてでも、更なる増強を行う。

シュペーアの手紙から、ドイツの戦争遂行のためにいかに合成石油が重要かがわかる。更に彼のこうした防備強化の提案は、彼が空襲からこれらの施設を防御する為には能動的並びに受動的地上防空が重要であると考えていることをも示している。
 シュペーアの手紙を受け取ってからしばらく後の7月9日に、ヒトラーはデーニッツ提督と自身の司令部で会談した。これにはヒトラーの上級軍事相談役のWilhelm Keitel陸軍元帥(Field Marshal)も同席していた。シュペーアの主張に応じて、Keitelはデーニッツに対して石油施設の防衛に海軍部隊を配属できないか尋ねた。Keitelは、「この時点で、これ以上のプラントの破壊が続くようならば、今後の戦争遂行に重大な問題になりかねない」と主張している。彼はまたデーニッツに対して、ドイツ空軍がプラントでの煙幕防御を倍増しようとしているものの、空軍の資源だけでは充分な強化ができない事も伝え、そして海軍に割り当てられている128mm高射砲の生産枠と共に、海軍独自の煙幕部隊の一部を、石油施設の防衛に提供するよう要求した。デーニッツはこの提案を考慮すると答えている。
 シュペーアとKeitelの努力が石油施設周辺の防空の強化への刺激となって、ドイツ空軍も夏の間に、高射砲部隊をこうした施設の防御へとシフトして行った。1944年を通して、Leunaの合成石油プラントの防御は、ドイツ空軍ご自慢の128mm高射砲150門を含む、重高射砲500門以上にまで増強されていた。それに対して、PolitzとBohlenの水素製造プラントの防御は、3月の時点でそれぞれ重高射砲が26門と24門だったものが、12月にはそれぞれ352門と203門と、飛躍的に増加していた。しかし合成石油施設周辺への高射砲部隊の集中の強化には代償も必要だった。新しく生産する高射砲だけでは石油施設周辺の高射砲部隊の増強に必要な数が賄えなくなって来ると、ドイツ空軍はベルリンやルール地方の高射砲部隊を抜き取り始めるようになり、EisenachやWeimar、Chemnitz、そしてDresdenといった都市に至っては街を守る高射砲部隊が全て引き抜かれてしまった。
 1944年秋にアメリカ軍の情報部は、ドイツ空軍が高射砲部隊をドイツの都市から石油施設へと配置変更する傾向が強まっていると報告している。この報告書では、「この方針によって、全ての優先度の昼間攻撃目標に膨大な数の高射砲が移動されている」と強調している。更に同じ報告書はこの状況の実例を、Bruxの石油施設周辺とケルン市の防御とを比較することで示している。:

Brux(まま、sic、uにウムラウトが付くものが付いていない為)の石油施設は、現在約300門の重高射砲によって防御されているが、ケルン市の重高射砲の数は200門を少し超えたくらいである。今年の3月の時点では、ケルン市の重高射砲の数は約300門で、一方のBrux(まま、sic)はたった24門の高射砲しか無かった。第8、第15航空軍の攻撃目標の防御密度がこのように高まった結果、高射砲による損害と損失が急激に拡大しつつある。

 高射砲部隊の石油施設への移動は、効果のある投資だった。1つには、こうした施設の周辺への高射砲の集中により、連合軍の爆撃機に大きな損害を与える事が出来たのである。Leunaへの一連の空襲での撃墜数は、原因のあきらかになっているものだけで82機にも上っており、この内高射砲によるものが59機、戦闘機によるものが13機、そして事故による墜落が7機であった。言いかえるなら、原因のわかっている損害の72%が高射砲によるものであり、これは戦闘機の撃墜数の4.5倍にもなっている。もう1つの効果としてアメリカ軍戦略爆撃調査団は、Leuna周辺の高射砲防御が「目標に対する爆撃の不正確さに明らかに貢献していた」としている。実際に、調査によれば、757エーカーものプラントの敷地内に着弾した爆弾の割合は、目標に向けて投下されたものの内のたった10%だった。シシリー島からの撤退におけるドイツ軍の高射砲の能力の事例と同じく、Leunaの防御の事例も、比較的狭い範囲に大量の高射砲を集中させることで、高射砲の能力を最も効果的なものにする事が可能なことを強く示している。こうした状態においては、大量の対空射撃は大きな損害を与え、そして最も重要な事として爆撃の精度を下げる事が可能なのである。
 石油施設周辺の高射砲防御の致命性の向上は、操縦席からも確認できた。第8航空軍の航法士(navigator)のHarry Crosbyは、7月20日の空襲の際のLuena周辺の高射砲防御について、「これまで経験した中で最悪の高射砲弾幕」の1つだったと書いている。また第8航空軍の航法士のBill Duane中尉(Lieutenant)は、9月28日のLeunaへの作戦を次のように回想している:

爆撃照準飛行の長さは13マイルだった。投下の約2分半前に、強力で正確な対空射撃を受けた。それから1分後に、機上機関士(flight engineer)のKingの両足に弾が当たった。彼は通路の上に転がり落ちてきた。…私は防弾チョッキ(?flak suit)を脱ぐと、5層にもなっている飛行服を切り開き、止血を施した。こうしている間にも、とても強力で狙った対空射撃が続いており、私もヘルメットを脱いでいた(? --and me without my helmet)。目標の上空で、3機が衝突して墜落して行った。こんな光景はもう二度と見たくない。

Duaneのこの回想から高射砲の物理的効果について2つの事がわかる。1つは、高射砲弾は航空機を破壊していなくても、中の乗員を負傷させることがあるということである。もう1つは、高射砲による損傷によって機体を操縦できなくなり、それによって編隊の他の航空機と衝突してしまう場合もあるということである。
 第15航空軍の乗員達もまた、Ploesti周辺の石油施設の攻撃の際に、高射砲に関して同僚の第8航空軍とほとんど同じ感覚を経験していた。第15航空軍の爆撃手であるLeroy Newbyは、Ploesti周辺の高射砲が増強された為にB-24の爆撃高度を22,000フィートから24,000フィートに上げなければならず、そしてこの高度に上昇する為に搭載した爆弾の幾らかを放棄しなければならないことが良くあった事を書いている。NewbyはPloestiへの空襲を次のように劇的に記述している:

爆弾の投下地点まで、後30秒を切った。私が酸素マスクの喉の部分から汗を振り落とした時、機首の直ぐ外で大きな爆発があった。大きな高射砲弾の欠片が右側から我々が居る機内を横切って、爆撃照準器の接眼レンズの真上を通って反対方向へと抜けて行った。この離れた場所に開いた2ヶ所の穴の位置から、そうでなかった時のことをありありと想像できる。もしも私が接眼レンズから頭を上げていなかったら、高射砲弾の破片は私の頭を貫通していただろうし、少なくともヘルメットには当たっていた筈だ。

私は自分の仕事に戻り、照準器の十字線を、我々の高度に向かって渦巻きながら立ち昇っている黒い煙の根元の部分に合わせた。照準器が爆弾を投下すると、私は「投下」と叫び、爆弾倉の扉を閉め、自分の仕事の結果を見る為に接眼レンズ越しに凝視した。高射砲は更に酷くなった。大きな炸裂音の頻度が多くなり、砂利をトタン屋根の上にバラ舞うような音は止まることが無かった。僚機の別の1機が片翼を上にしながら編隊から離れて行き、死へとダイブして行った。

Newbyの記述は、炸裂する高射砲弾の突然で気まぐれな様子を表現している。そしてまたこの記述から、爆撃の照準の為に等速直線飛行を維持しなければならない重要な数分間における、高射砲の危険性も理解する事が出来る。
 石油施設周辺での高射砲防御の増強による成功には、代償が伴っていた。ドイツの都市から高射砲部隊を引き抜いた結果、そうした地域の市民を守るための高射砲の数は大幅に減少するか、場所によっては全く無くなってしまった。ナチス党の大管区長達はヒトラーに対して自分達の都市から高射砲部隊を引き揚げた事に激しく抗議した。しかし、こうした苦情も、本土と前線の急速に悪化する状況の前には意味を成さなかった。夏の終わりには、こうした状況から高射砲部隊は余程の(原文ではdirest、塗炭という意味があるらしいが良く分からない)緊急時にだけ対応すればよくなっていた。ここに至ってゲッベルスは、Hanover近郊への空襲でのドイツ空軍戦闘機部隊の「完全な失敗」を厳しく非難した。ゲッベルスはまた、「しかしもちろんのこと、もはや新しい事は何も無い(?)」と自身の不満も付け加えている。更に彼は、ドイツ国民が「落胆」しているのは確かであり、ゲーリングと彼の空軍への信頼を完全に失っていると指摘している。
 7月には、ドイツ空軍の高射砲部隊は対空防御を更に集中して、最重要地域周辺だけを重点的(Schwerpunkte)に防御するという要求を優先しなければならなくなっていた。これと同じ時、ある空軍参謀作戦計画者は、戦闘機と高射砲の緊密な協調が「至上命令」となりつつある、と楽観的に主張している。実際に、戦闘機と高射砲による緊密な協調が、1944年の夏には理論的な理想の1つであった事は確かである。しかし現実には、高射砲部隊は爆撃機を射撃する際にドイツ空軍の戦闘機を考慮しなくなりつつあった。7月15日付の戦術的覚書の中で、ドイツ空軍上級司令部作戦課(High Command Operations Branch)は目標地域上空での戦闘機と高射砲による協調について触れている。この覚書は、「対空射撃の効果を最大限に引き出す唯一の方法は、全ての兵器の射撃に対して一切の制限をかけないということである。全ての高度において、自軍の戦闘機を考慮することなく、昼夜関係なく、『自由に射撃』させるべきである」と主張している。またこの覚書は、「全ての防空兵器を集中して運用する」だけでなく、「空襲によって破壊、もしくは重要性が低くなった目標から」高射砲を直ぐに移動させる事の必要性についても強調している。
 西と南からイギリス軍とアメリカ軍部隊が、東からはソ連軍が迫って来るに至って、ドイツ国内での高射砲の移動が、ドイツの地上防空における重大な弱点である事が明らかになってきた。ゲーリングが1943年に出した高射砲の固定砲座の建設に集中するという命令によって資源を節約することは出来たが、しかし車載式もしくは移動式の高射砲中隊の不足によって、前線がドイツの国境線へと押し狭められて行く中で、高射砲の素早い移動を不可能にしていた。その上、悪化しつつあった輸送機関の問題により、破壊されるかもしくは戦争にとっての重要性を失った地域から、今まさに必要な地域へと、固定された高射砲を輸送する事そのものも困難になっていた。固定式高射砲の分解と輸送に関する問題から、その機動性と質の高い兵員と装備によって鉄道高射砲中隊がより一層重要な予備兵力となっていった。実際にイギリスの軍事情報部は、「西部戦線の再開以来の前線の敵が受けた大きな損害という観点から、これら鉄道部隊は今では、主に残存している質の高い機動高射砲という予備兵力ということで、更に高い価値を獲得している」と主張している。しかし、鉄道部隊の数は十分ではなく、ドイツ国内の防空において拡大しつつある隙間には対処できなかった。固定砲座の高射砲に重点を置いたことによって、その当時の短い期間は成果があげられたが、しかし戦争の最後の10ヶ月においては、この決定によってドイツ空軍の高射砲部隊は利用可能な兵力という面で高い代償を払わされることになった。
 7月28日に、シュペーアは別の緊急な私信をヒトラーに出し、今月における連合軍の合成石油プラントへの空襲による「悲惨な結果」を強調した。シュペーアはヒトラーに対し、「もしも、今後も合成石油プラントに対する空襲が継続されたとしたら、9月か10月には、航空機の計画的な使用が不可能になってしまう」と警告している。更に彼は、「高射砲や人工霧部隊による合成石油プラントの防衛強化では、ここ数日の空襲をもはや防ぐことができず、敵に最も大きな成功を与えてしまうことになった。」と主張している。そしてシュペーアは、「唯一の決定的な防御力となり得る戦闘機」が、こうした施設においてこの時期に減少していると不満を述べている。実際に合成石油施設に配備されていた戦闘機の数は、6月1日に495機だったものが、7月の終わりには255機にまで減少している。そしてシュペーアは再びプラントを防衛する戦闘機と高射砲、そして煙幕部隊の数を増大するよう要請して、この手紙を終らせている。最後に、シュペーアは現在貯蔵している航空機燃料を節約する為に、全ての航空作戦を必要最低限な物に制限するよう要求している。またこのシュペーアの手紙では、燃料とパイロットの供給が次第に減少している事からドイツ中に放置されている何千機もの新品の航空機によって、ドイツの防空が直面している危機の全てを表現している。


石油作戦のコスト

 1944年の夏の終わりにドイツ空軍の防空が悲惨な状態に直面していたものの、強化されつつある連合軍の空襲作戦に対して、地上防空は断固とした抵抗を継続していた。ヨーロッパに侵攻を始めてからの3ヶ月間に、爆撃機軍団と第8、第15航空軍は、地上作戦の支援の為の戦術目標だけでなく、ドイツ国内の戦略目標にも攻撃を行っていた。第8航空軍の重爆撃機だけでも、6月に60,000トン、7月に45,000トン、そして8月には49,000トンの爆弾を投下していた。矛盾していることに、この期間における重爆撃機の損害の多くは、戦術目標への攻撃ではなく、むしろ戦略目標への爆撃中に被ったものであった。例えば、第3爆撃機師団の7月の高射砲報告(flak report)は、「比較的低高度からの攻撃では、かなりの数の目標において、高射砲による反撃が少ないか、もしくはゼロであった。しかし強力に防御された戦略目標への攻撃の際の作戦高度は、高射砲の為に24,000から25,000フィートという高さに設定されていた」と書いている。同じく第2爆撃機師団の7月の高射砲報告でも、「今月の戦術目標への攻撃中に被った被害は、非常に小さかった」と指摘している。それとは対照的に、8月の南フランスへの侵攻の支援と、9月に行われたドイツ本土への入り口を開けようとして失敗した、ライン川下流に掛る橋を占領する作戦(マーケットガーデン作戦)においては、ドイツの高射砲防御は低高度爆撃と機銃掃射を行う連合軍の戦闘機や爆撃機に対してかなりの損害を与えている。
 ドイツの石油施設へのアメリカ軍の作戦によって、国防軍の燃料供給を効果的に締め付けて行ってはいたものの、爆撃機の損害という面では攻撃には大きなコストがかかっていた。USAAFの公式戦史は、「ドイツ空軍を弱体化させたにもかかわらず、損害の割合もそれに応じて高いものであった。これは高射砲がより強烈になっていることと、そして1年前には飛行不可能とされていた状況下においても爆撃機が出撃が強制されていることが原因である」と指摘している。表9.1は、第8と第15航空軍が6月の初めから8月の終わりまでの間に高射砲によって被った航空機の損失数と損傷数をまとめたものである。


表9.1
1944年 第8軍損失 第8軍損傷 第15軍損失 第15軍損傷
6月 104.5 2,642 75 904
7月 93 3,881 150 1,813
8月 144 4,449 88 640
合計 341.5 10,972 313 3,357


上に挙げた合計数の他に、第15航空軍がこの時期に高射砲によって受けた「損害の大きい」航空機の数が、損傷数の16%に当たる536機であった事も重要である。それに対して、第8軍の第1爆撃機師団の記録によれば、この期間における高射砲による「重大な損傷」を受けた航空機は1,215機で、師団の高射砲による損傷数の22%であった。損傷の大きい航空機は、重要なシステムの大がかりな修理や交換のために、数日から数週間、さらには永久に戦闘から外れる事になるのである。「重大な損傷」を受けた、もしくは高射砲によって「大きな損害」を被ったと認識された航空機の数は、高射砲防御に関するもう一つの「隠れた統計値」であるといえる。
 1944年の夏の高射砲の効果を幅広く評価する為には、アメリカ軍の爆撃機の損失数全体に対しての高射砲による損失数を考慮すべきである。あるアメリカ陸軍航空隊の航空機の損失に関する作戦分析によると、1944年6月のアメリカ軍爆撃機の損失における主要な原因は、ドイツ空軍の高射砲によるものであった。更に戦争のこの時点において、高射砲部隊は戦闘機による攻撃の10倍以上の損害を敵に与えていたのである。そして少しづつではあるが、ドイツの政治・軍事指導者達も、高射砲の能力が向上していることを認識し始めるようになっていた。8月1日に、ドイツ空軍の航空参謀に対して行った演説の中で、シュペーアは高射砲部隊の能力を賞賛している:

過去数ヵ月間に高射砲は都市に対する大規模な空襲で、これまでに信じられなかった程の多くの敵航空機を撃墜できることを示した。これはこれまでにないくらい大きな重要性を持っている。予想される航空燃料の不足を考慮すると、ドイツ本土と前線の双方においての防御は不可能な事であった。しかし高射砲は、少なくとも敵航空機をより高い高度へと追い上げ、そしてそれによって敵の攻撃の精度を落とす事ができるだろう。

シュペーアの評価は、ドイツ空軍の防空ネットワークの当時の状況を正確に反映しており、次第に地上防空のみに頼りつつあった傾向を上手く表現している。


戦闘機部隊を放棄すべきか?

 8月の中旬、Gallandはベルリンのオフィスに居るシュペーアに電話をかけた。Gallandは、ドイツ本国の戦闘機を西部戦線へ移動するという「総統命令」を撤回させようとしているが、シュペーアにその援助をして欲しいと言った。Gallandは西へ移動した部隊内の、若く、未経験なパイロット達が、技能に合った任務も無い西部戦線で全滅してしまう事を恐れていた。Gallandによると、シュペーアは彼の話を聞くと、2人ですぐに東プロシアにあるヒトラーの司令部まで飛ぼうと提案してきた。ヒトラーは2人を迎え入れ、初めは静かに聞いていたが、不意に怒って叫んだ。「作戦に関する事は私の所掌だ!君は自分の部隊の事だけを考えろ!君が口を挟む事じゃない!」そしてヒトラーは「君に割く時間は無い」と言うと会議を中断した。
 そしてその日の午後に、ヒトラーは翌日もう一度2人と話がしたいと伝えてきた。シュペーアによるとこの会議で、ヒトラーは突然激昂して次のように叫んだという:

もう金輪際、飛行機なんて作らなくてもいい。航空兵器では何の解決にもならんのだ。飛行機の生産を止めろ!直ぐに止めろ!判ったか?君は常に熟練労働者が足らないと文句を言っていたのではないのか?熟練労働者を直ぐに高射砲の生産に回せ。全ての労働者に高射砲を生産させるのだ。全ての資材もだ。もう、これは命令だ。....高射砲の生産計画を作れ。今の5倍にしろ。何十万という労働者を高射砲生産に移すのだ。毎日読んでいる外国の新聞には、高射砲がいかに危険かと書いていある。奴らは高射砲には考慮を払っても、戦闘機には考慮を払っていないではないか。

Gallandによるこの会議の様子は、シュペーアによる会議の様子とは多少とも違いがあるものの、ここでもヒトラーはイライラしながら叫んでいる:

戦闘機部隊を解散する。幾つかの精鋭戦闘機飛行群(Group)を除いて、防空を高射砲部隊だけに移行する。シュペーア、君に新しい計画を直ぐに提出するよう命令する。戦闘機から高射砲に生産を切り替え、生産量を大幅に増加する。

どちらの話からも、ヒトラーがドイツでの高射砲防御の拡大を決意していた事と、戦争の経過に苛立ちを募らせていたことがわかる。しかしヒトラーの要求が実行不可能であることが明白になると、ヒトラーは高射砲の生産量を半分に引き下げ、代わりに1945年12月までに弾薬の生産量を2倍にするよう求めた。
 シュペーアとGallandによるヒトラーとの会議は、多くの面で1944年の晩夏にドイツ空軍が直面していた板挟みを象徴している。統合された防空ネットワークにおいて、戦闘機が重要な要素である事は疑いない事であるが、充分な量の燃料と充分に訓練されたパイロットが無ければ、航空機部隊は大きな効果を発揮する事ができない。ある歴史家は、1944年9月のドイツ空軍の状態を、次のように書いている:「燃料を奪われ、夏の消耗戦で部隊は壊滅し、ドイツ空軍は航空作戦でも地上作戦でも、影響力を及ぼす事ができなくなっていた」。多少に悲観的ではあるが、この評価は1944年の夏の終わりに戦闘機部隊が直面していた困難を明確に示している。1944年の末にかけて、ドイツ空軍は連合軍の爆撃機に対し、百機単位の戦闘機で何度か迎撃する能力を未だ保ってはいたが、しかしそれは何週間かに1度の頻度のみであった。
 戦闘機が断末魔にあえいでいた時、ドイツ空軍の高射砲はドイツの防空において大きな役割を担っていた。高射砲への比重の高まりを示すものとして、西部の国防軍部隊によって未だ保たれている地域にある第3航空管区の司令官に、高射砲兵科のOtto DeSloch大将が任命された事があげられる。DeSlochは戦争を通して航空管区を高射砲兵将校を選んで指揮させるという差別をした。しかし夏の終わりには、高射砲の訓練を受けた指揮官と高射砲部隊だけでは、ドイツの都市と工業を連合軍の爆撃機から守る望みが保てなくなっていた。高射砲部隊は、深刻化する燃料危機の影響を戦闘機部隊ほど受け難く、そして最も重要な拠点にある部隊を運用するに足るだけの練度の高い兵員も確保していたということが強みであった。しかし連合軍が水素生産プラントを攻撃していた為に、石油だけでなく国防軍全体の弾薬生産に影響を及ぼす窒素の供給もまた、大幅に減少していたのである。それによる火薬の不足から、不活性な充填物として岩塩が広く使われるようになっていた。ここに至って、既に航空戦に勝てるかどうかではなく、差し迫った破滅を目前にして、どれだけ長い間耐える事が出来るかという状態になっていたのである。


爆撃機軍団の夜間戦闘

 連合軍が上陸してから3ヶ月間、爆撃機軍団はフランスのイギリスとアメリカの地上部隊の戦術的支援に集中していた。夏の間、Harrisの爆撃機は交通網の攻撃やフランスの港湾に停泊しているドイツ軍艦艇への攻撃、そして野戦軍との密接な支援作戦すらも実施していた。それに加えて、爆撃機軍団は同僚である第8航空軍とは違い、北フランスにあるV-1ミサイルの発射場に対する空襲を盛んに行っていた。西部戦線における戦術的目標に対象を集中したために、6月から9月にかけて高射砲によって失った爆撃機の数は減少し続けた。表9.2はこの期間におけるRAFの爆撃機の、戦闘機と高射砲による損失数をまとめたものである。


表9.2
1944年 戦闘機 高射砲
6月 128 55
7月 92 40
8月 65 39
9月 27 14
合計 312 148


夜間におけるドイツの防空能力が目立って低下しているが、これには幾つかの原因がある。まず、連合軍のフランスと低地諸国への侵攻によって早期警戒レーダーを失い、その為に警報から空襲までの時間が数分の単位にまで減少し、航空情報隊が盲目同然になってしまったことがあげられる。次に、爆撃機軍団が西部地域の戦術目標に集中した為に、RAFの爆撃機が夜間戦闘機と高射砲とに曝される時間が大きく減少したことがある。そして3つ目として、連合軍の戦闘機と爆撃機とが、ドイツ空軍の前線の飛行場を攻撃することで多くのドイツ軍航空機が地上で破壊されてしまい、夜間戦闘機もドイツ国内の基地へと撤退せざるを得なくなったことが挙げられる。そして最後に、RAFは7月にドイツ空軍のSN-2機上迎撃レーダーの最新型を鹵獲していた。この時まで、ドイツ空軍の新型のSN-2レーダーは連合軍の電子妨害に対して影響を受けなかったが、RAFはこの鹵獲した機器を使い、レーダー妨害装置をこのドイツの新型機上レーダーに対応可能にするべく、改良を行った。
 1944年の夏を通して、ドイツ空軍の夜間防空には問題が山積していたものの、爆撃機軍団がドイツ国内の戦略目標に対して攻撃を行うと、ドイツ空軍の防空部隊はこれに対して大きな損害を与える事がまだ可能であった。例えば6月12日の夜、爆撃機軍団がGelsenkirchenにあった合成石油生産プラントを空襲した際に、攻撃部隊の6%に当たる17機のランカスター爆撃機を失った。それから3回に渡るドイツ国内の石油施設への空襲での損害率は、それぞれ10%、6.5%、そして3回目は何と27.8%であった。この3回目の空襲は6月21日にケルンの南にあるWesselingの石油施設に対して実施され、爆撃機軍団は38機を失ったが、その損失の殆どは夜間戦闘機によるものであった。ゴモラ作戦の開始から一周年の日から4日後の7月28日夜、爆撃機軍団は部隊を2つに分けて、ハンブルグとスタットガルトをそれぞれ空襲したが、ハンブルグでは22機、スタットガルトでは32機の爆撃機を失った。スタットガルトの場合では、コードネーム「狩猟小屋(JagdschloS)」と呼ばれる新型の地上レーダーがスタットガルトの近郊に配備され、このレーダーによって管制された夜間戦闘機が、街の西部で爆撃機の編隊に浸透して大きな成果を挙げている。
 ドイツ国内での目標の防御には成功していたが、ドイツ空軍の防空は1944年の初秋に壁に突き当たる。Harrisは戦後の回想録の中で、ドイツの防空は1944年9月に「バラバラに砕け散った」と指摘している。RAFの戦略爆撃部隊の指揮官は、夜間の防空に対してほとんど考慮を払わなくなっていた。1944年の最後の3ヶ月間に、ドイツ空軍の高射砲部隊がRAFの夜間空襲で撃墜した航空機の機数は、月平均でたったの18機でしかなかく、夜間戦闘機による撃墜数も月平均で31機に過ぎなかった。夜間戦闘機の場合には、ドイツ空軍は実際には全部で980機の夜間戦闘機を持っていたものの、航空燃料の不足からその年の終わりには、1夜平均でたった15機の戦闘機しか迎撃に上げる事ができなかった。それに加えてドイツ空軍は1944年に1,295名の夜間戦闘機パイロットを失っていたが、これは前年の2倍にも上っていた。1944年12月には、度重なるベテランパイロットの喪失と航空燃料の不足により、遂に夜間の制空権はドイツ空軍からRAFへと渡る事になったのである。


高射砲部隊の状況

 1944年の秋に、地上防空部隊は1,110,900名になっていたが、その内の40%に当たる448,700名がドイツ空軍以外の人員であった。非ドイツ空軍人員の内訳は、220,000名が国民兵、国家労働奉仕団、そして男子高校生による予備兵であり、128,000名が女性予備兵、そして98,000名が外国人義勇兵と戦争捕虜であった。ドイツ空軍の高射砲部隊の40%もが予備兵で構成されていたという事実は、戦争の最終年にドイツ軍部隊が直面していた人材危機の大きさを良く示している。1940年8月の時点で、ドイツ空軍の高射砲部隊は重高射砲中隊791個、軽高射砲中隊686個、そして照空中隊221個で構成され、合わせて528,000名のドイツ空軍常備兵及び予備役兵で運用されていた。それから4年後、高射砲部隊の規模は重高射砲中隊2,655個、軽高射砲中隊1,612個、そして照空中隊470個と約3倍の規模にまで拡大していたが、部隊の兵員の数は134,000名しか増えておらず、残りの増分は市民や高校生、外国人に戦争捕虜が補い、連合軍爆撃機との戦いを支えていたのである。実際に戦争末期のドイツ本土に配置されていた高射砲部隊の内、全員が正規の軍人だけで構成された部隊の割合は、たった10%でしかなった。
 空襲と増大する人員不足にもかかわらず、1944年後半の対空兵器と機器の生産量は、1944年前半と比較して1つの項目以外の全てで増大している。表9.3は1944年の四半期毎の各種高射砲と探照灯の生産数をまとめたものである。


表9.3
種類 第1四半期 第2四半期 第3四半期 第4四半期
20mm 6,437 9,051 12,881 11,669
37mm 1,112 1,763 2,708 2,646
88mm(全種類) 1,245 1,452 1,512 1,724
88mm41型 36 46 94 114
105mm 311 318 310 192
128mm 124 151 187 202
150cmS/L 756 785 1,024 743(12月を除く)
200cmS/L 502 626 681 640


この表の数値から、1944年を通して地上防空作戦に必要な高射砲と探照灯が供給され続けていた事が確かである。105mm高射砲の生産数が落ちているのは、これよりも能力の高い88mm高射砲41型と128mm高射砲とにドイツ空軍が資源を移したからである。しかし生産数こそ維持され続けたものの輸送が問題となり始め、完成した高射砲や装備、弾薬を前線やドイツ国内の部隊へと輸送する事が次第に困難になっていったのである。
 矛盾した事に、生産量が増加しても高射砲部隊への資源の配分の割合は比較的一定であった。表9.4は1944年の国防軍全体の支出の内の、高射砲兵器と弾薬への分配の割合をまとめたものである。


表9.4
1944年 高射砲 弾薬
第1四半期 25% 17%
第2四半期 25% 16%
第3四半期 27% 18%
第4四半期 25% 20%


この表から、この期間における国防軍の資源の高射砲部隊への配分率に関する、幾つかの重要な点がわかる。まず第1に、高射砲兵器生産の割合は基本的に一定で、第3四半期に2%だけ増加しているだけである。そしてこれらの支出が一定であるにもかかわらず、1944年の後半に高射砲も探照灯も生産量が大きく増加しているのである。第2に、高射砲向けの弾薬生産の割合は、前半は基本的に一定であるが、後半にかけて2%づつ増加している。この増産は拡大する高射砲弾の不足に直接に反応したものである。
 兵器の生産数こそ拡大したが、11月になると高射砲部隊は幾つかの深刻な問題に直面する事になる。その中の最も大きな問題は弾薬不足である。1944年の秋にはドイツ空軍の高射砲弾の消費量はピークに達し、月当たり重高射砲で350万発以上、軽高射砲で1,250万発以上になっていた。高射砲弾の不足は、幾つかの要素によって発生していた。まず初めに、連合軍によるドイツの化学工場への攻撃により、火薬、特に窒素の生産全体に影響を受け、その為に弾薬を生産する際に不活性充填物の割合を多くしなければならなくなった。そして火薬の減少によって砲弾1発当たりの効果も減少し、1944年に1機撃墜に必要な砲弾数が増加する一因となった。2つ目に、連合軍の戦術並びに戦略航空部隊が輸送機関を目標に攻撃を行った為、使用可能な弾薬の作戦部隊への移送に問題が起こった。そして鉄道や運河といった重要な輸送機関の経路を防御する必要性から、高射砲部隊を工業目標から兵站線(lines-of-communication)へ再配置したことによって、この問題は一層悪化した。例えばドイツ空軍は、500門の重高射砲を兵器工場の防衛から輸送経路の防衛に移し、更に11月に生産したものの内の別の350門も、輸送経路の防衛に使用した。それに加えて、ドイツ空軍は重要な運河や水路での出荷を防御する為にライン地方の輸送路に沿って「高射砲地帯」を作ったが、これには運河バージを20mmと37mm機関砲の移動式プラットフォームに使ったものも含まれていた。そして最後に、ドイツ上空に飛来する連合軍航空機の数が増加したということは目標の数も多くなるということになり、それによって射撃の規模も増大し、必要な弾薬も増加した。この面では、ドイツ空軍の戦闘機部隊が壊滅したことにより、高射砲の防空の負担の割合が2倍になり、この重みによって高射砲部隊はより混乱して行くことになった。
 弾薬の不足に加えて、高射砲部隊は1944年10月には光学用並びにレーダー用の射撃指揮装置も不足していた。この状態によって1個中隊当たりの重高射砲の数を押し上げる結果となっが、これによってドイツ空軍は火力を増加させ、かつ射撃指揮装置の必要性を低減させることが出来た。ただ、この射撃指揮装置の不足は装置そのものの生産量の低減が原因ではなく、増加する高射砲の生産数に追いつかなかっただけであった。より多くの射撃指揮装置の必要性を認識したヒトラーは、射撃用レーダーと光学射撃指揮装置の増産を、11月初めに出していた高射砲、弾薬、装備品の生産を加速させる計画の一部とするよう命令した。
 11月4日の「総統命令」で、重高射砲の生産数を3倍に、そして軽高射砲の生産数を数倍にし、更にそれらをドイツ本土に集中配備させるよう要求したことで、ヒトラーがゆるぐこともなく、引き続きドイツの高射砲防御に傾倒していたことがわかる。ヒトラーの命令は、次のような宣言から始まっていた。「敵の恐るべきドイツへの空襲においてすら、奴らはドイツの高射砲を罵っているのだ。高射砲による防御を集中することによって、彼らの作戦の多くを妨害する事が可能だ。」さらに続けている。「この精神的、戦術的な勢いを全て活かし切る為にも、想像可能な限りの手段をもって、高射砲防御の火力の強化を行う必要がある。」ヒトラーはまた、高射砲弾薬の増産と、高射砲と高射砲弾の改良に関する研究の加速も命令していた。この11月の総統命令は2通りに解釈可能だ。1つは、非合理でないとしても、ヒトラーが未だに高射砲防御に熱烈に傾倒し続けている事の更なる証とみることができる。そしてもう1つは、実用主義的な手法であるとも解釈可能でる。実際に、ドイツの戦闘機部隊の殆どがヨーロッパ中で粉砕されるか、燃料不足からドイツ中の飛行場で飛べない状態あったその時点においては、高射砲部隊こそが唯一の代替手段であった。確かに、ヒトラーが初期の段階で高射砲部隊を防空の主力とした事が間違いであったことは、かなりの部分において事実であるが、しかし1944年の晩秋には、他に選択の余地が無かったのである。ドイツ上空の夜間の制空権は既に失われており、後は「千年帝国」の早期の瓦解を防ぐために、どれだけ長く、どれだけ効率的に、ドイツ空軍の高射砲部隊が昼間の防空を遂行可能かが、問題となっていたのである。


昼間制空権の喪失

 1944年の最後の4ヶ月間で、ドイツの高射砲防御の効果は大きく減少していった。9月中は、それでもまだアメリカの重爆撃機を妨害する事が可能ではあった。第8航空軍の9月の高射砲報告書は、高射砲による損害と損傷とが「顕著に増加」していると強調している。こうした報告書において効果が増大しているとされているのは、その多くがドイツ空軍による高射砲部隊の重要目標周辺への集中によるものである。第2爆撃機師団の月例報告書は、「将来、高射砲による反撃がより厳しいものとなることは、ほぼ間違いない」と警告している。しかし10月末になると、高射砲による損害数が「急激に減少」していった事から、こうした心配は誇張されたものであった事が判明するのである。高射砲の効果が減少して行った事についての幾つかの要因として、悪天候や弾薬不足、そして射撃用レーダーの効果の減少が挙げられる。第1爆撃機師団によって作成された報告書の一つが、ドイツ空軍の高射砲部隊が抱えていた問題を的確に要約している。:

ドイツ野郎(Hun、フン族、ドイツの蔑称)が相手できるのは視認された目標であり、10/10度の雲量の上を飛行する目標に対しては、交戦すら不可能である事が度々であったことが、次第に明らかになっている。彼らがこうした状態に陥った原因は、恐らく、我々の爆撃機部隊による多種多様多数の対レーダー手段により、交戦の困難な目視できない目標を効率的に対応することが不可能になっている事を彼らはすっかり自認し、そして弾薬や機器の節約の必要性も相まって(これらは現地の交通機関の状態の悪化によってより一層強調され)、その結果、成功の見込みが無い状態では目標との交戦を制限するという、比較的切迫した交戦規定を作るに至ったと推測される。

 「目視不能」な目標との交戦では困難をきたしていたが、10月7日に第8航空軍の行ったPolitzへの空襲では、視認条件下での多数の高射砲の効果を、改めて見せつけられる事になった。この空襲で第1爆撃機師団は、143機の爆撃機を町の近くの石油施設に向けて送り込んだが、高射砲部隊はこの内の16機を撃墜し、43機に大きな損害を与え、更に62機に軽傷を負わせた。言いかえるならば、爆撃機部隊は11%以上の損害と、73%にも上る損傷を被ったのである。ただこのPolitzでの高射砲による戦果は例外であり、第8航空軍に対するドイツ空軍の高射砲防御の効果は、年末にかけて減少の一途を辿った。表9.5は、1944年の最後の4ヶ月間に高射砲によって撃墜もしくは損傷した第8航空軍の爆撃機の機数をまとめたものである。:


表9.5
1944年 撃墜数 損傷数
9月 162 4,552
10月 66 2,630
11月 90 3,339
12月 44 1,987
合計 362 12,508


この表から、この期間においてドイツ軍の高射砲防御の効果が、全体的に減少していることが明確にわかる。11月分の撃墜数と損傷数の増加は例外で、Merseburg(Leuna)にある石油施設への3回に渡る空襲で、44機の爆撃機を撃墜され、1,212機が損傷を負っている。同様に12月における急激な減少も、悪天候と、それからアルデンヌにおけるドイツ軍における攻勢を食い止める為に、年末の最後の1週間に連合軍の爆撃機が地上部隊の支援を行った事が、原因の一部であるようだ。
 同僚の第8航空軍とは対照的に、第15航空軍は1944年の最後の4ヶ月間も引き続き高射砲による抵抗に直面していた。表9.6は9月から12月までの、第15航空軍の高射砲による撃墜数と損傷数をまとめたものである:


表9.6
1944年 撃墜数 損傷数
9月 50 490
10月 89 606
11月 54 597
12月 92 551
合計 285 2,244


ドイツの高射砲防御が第15航空軍に対して引き続き戦果を挙げることが可能であったのには、2つの理由がある。1つは8月末から11月初めにかけて第15航空軍が、ロシアによるバルカン半島への侵攻に対して大規模な支援を行っていたことがあげられる。この支援作戦では、飛行場や橋梁、交通の要衝に対する攻撃が含まれていたが、橋梁等の点目標に対する攻撃の精度を上げるために低高度で飛行をせざるを得ず、これが高い損害の原因となった。特にB-24の部隊の損害数は高く、この期間中に撃墜された重爆撃機の内の83%もがB-24であった。もう1つは、第15航空軍は引き続き、オーストリアを含むドイツ本国にある重防御されていた石油施設や工業施設への攻撃を行っていた事が挙げられる。こうした目標の多くはViennaの近郊に配置されていたが、Viennaには何と418門もの重高射砲と383門もの軽高射砲が配備されていた。Bruxの石油施設やViennaやミュンヘン周辺の目標に対する作戦によって、特に視認条件下においては、集中配備された高射砲が依然として大きな損害を与え得る存在であったことがわかる。
 1944年末には、連合軍はヨーロッパの制空権をドイツ空軍から奪い取る事に成功していた。作戦後の操縦士報告書(post-mission pilot reports)の中に出てくる「空中における敵の抵抗無し」という簡単な一文が増加している事実こそが、ドイツ空軍の崩壊を究極的に表現しているといえる。逆に、信頼のおける持続した戦闘機による脅威の消滅によって、高射砲部隊は防空においてより多くの負担をかけられることになった。そしてドイツの諸都市からの高射砲部隊の引き抜きや、弾薬不足の増大、そして訓練が不十分な予備部隊への依存度の拡大によって、ドイツ空軍の地上防空は回復する事が不可能な不利な状態へと追い込まれていったのである。「年末の3ヶ月間に、予想に反して、敵の高射砲部隊は精度と火力が共に、急速に悪化しており、雲量10度の条件下では、例えルール地方においてすらも敵高射砲の射撃は稀である」という第2爆撃機師団の12月の月例高射砲報告書内の一文は、ドイツ空軍の防空の衰退の証拠そのものである。かつてルール地方の高射砲部隊は、連合軍パイロット達にとって恐怖の的であったが、今では爆撃機の編隊が上空を通過するのを静かに見あげるだけの無気力な歩哨になり下がってしまったのである。12月にはドイツ全土が昼間・夜間空襲に晒され、荒廃していった。戦争の終盤で、連合軍の地上部隊が東と西からドイツの包囲網を小さくし、兵力をドイツに対する最後の攻勢に集結させて行く中で、高射砲部隊の戦闘は、Thermopylae(テルモピレーの戦い、ペルシャ帝国)というよりもむしろCannae(カンネの戦い、ハンニバル)をしのばせるようになっていた(??比喩元は未調査)。


1944年の総括

 1944年の初めには、ドイツ空軍は1943年夏の衝撃から立ち直っていた。その年の前半は、戦闘機部隊も高射砲部隊も、それまでで最大の規模に拡大していた。そしてドイツ空軍は焼夷弾の雨の下、ベルリンを破壊しようとする爆撃機軍団を防ぎ、そしてHarrisに作戦的敗北という不名誉を与えたのである。しかし爆撃機軍団は18ヶ月前までとは違って損害を穴埋めする事が可能になっており、「ベルリンの戦い」はドイツ空軍にとっては多大な犠牲を負わされたピュロス王の勝利(Pyrrhic victory)でしかなかった。更に第8航空軍と第15航空軍とが昼間戦略爆撃を実施可能な戦力として新たに登場し、ドイツを防御する戦闘機部隊と高射砲部隊に対して圧力を加えてきたのである。更にフランスへの上陸とドイツの合成石油プラントに対する攻撃作戦は、熟練パイロットの消耗と航空燃料の不足によってドイツ空軍の昼間・夜間戦闘機部隊を追い込み、戦争における決定的な転回点(turnning point)となったのである。
 1944年夏の「ドイツ空軍の敗北」によって、工業設備や第三帝国国民の防御における、ドイツ空軍の地上防空部隊の負担が増大していった。こうした目的の追及において、欺瞞や偽装手法といった受動的防御が引き続きかなりの成果を上げ続けたが、中でも煙幕部隊が活躍していた。しかし結局のところ、ドイツ空軍の地上防空活動において究極的な成功を決定付けるのは、そうした受動的防御部隊ではなく、能動的な高射砲部隊なのである。ドイツ空軍にとって不運にも、1944年の後半には高射砲部隊は兵器の数こそ増加していたものの、慢性的な諸問題に悩まされていた。1つには、常備部隊を予備兵や外国人義勇兵、そして戦時捕虜によって補填し続けた結果、高射砲部隊の質的能力を低下させていた。そしてもう1つには、増大する射撃用機器の不足と、そして特に弾薬の不足により、高射砲部隊は痛々しい板挟みに遭っていたのである。同様に、連合軍の侵攻への反撃による損害の他に、ヒトラーの仕掛けた12月のアルデンヌでのギャンブルにより、更に重高射砲中隊100個、軽高射砲中隊110個、そして照空中隊16個を失い、その分だけドイツ本土を防衛する兵器数が減少する事になった。こうした損害は、一般的な消耗とドイツ国内の固定砲の移動が困難である事と合わさる事で、高射砲部隊の崩壊の前兆となった。1944年末には、ドイツ空軍の高射砲中隊が全く射撃できなくなる状況が増加していたが、しかし射撃に好条件な状況下においてすらも弾薬が節約されることが多く、ドイツの工業と都市の破壊を加速させていった。
 1944年に、ドイツ空軍の戦闘機部隊は強烈なブロー(blow)を喰らって死んでしまったが、高射砲部隊は無数のカット(cut)を受けて死んだと言える。しかしドイツ本土と西部占領諸国の地上防空部隊は、増え続ける重大な問題に苦しめられながらも、その年を通して6,385機の連合軍の航空機を撃墜し、更に27,000機に損傷を与えているのである。12月の終わりに、von Axthelmは高射砲部隊の男女に対して、次のような新年の挨拶を準備していた。:

高射砲部隊の諸君、
1944年は我々国民にとって(unser Volk)、大きな打撃と試練の年であったが、我々は見事それを克服した。
高射砲兵の諸君!、来るべき年は、日々夜々敵機に射撃を行う毎に、我々の殺された婦女子や、破壊された町や村、爆破された文化財を思い出してほしい。そして味方の戦闘機との緊密な協力や、卓越した熱意、決して諦めない活力と義務に対しる献身的な意思によって、我々の目標である、敵の空からのテロ行為の粉砕を実行するのである。

高射砲部隊の諸君方は、このvon Axthelmの言葉をある程度の懐疑と皮肉をもって読んだに違いない。存在しもしない戦闘機部隊と熱意とで、巨大な連合軍爆撃機部隊を撃破することが可能であろうか。実際に、von Axthelmの挨拶は激励というよりも、破壊的な年を終わらせるに相応しい墓碑銘のようであった。


終幕

 1945年の初めには、連合軍地上部隊はドイツ本土の手前まで来ていた。東方では、ソビエト軍が、究極的な目標であるベルリンを占領すべく計画された二段攻勢の為に集結しつつあった。西方でも、アメリカ軍とイギリス軍がアルデンヌでのドイツ軍の攻勢による突出部を解消しただけでなく、反対にドイツ国防軍をライン川の対岸にまで押し下げていた。USAAFとRAFの戦力は、10,000機以上の爆撃機と、13,000機以上の戦闘機にまで拡大し、ドイツ上空を思うがままに飛び回り、また猛烈な破壊を行う事が可能になっていた。ドイツ本土における最後の戦いで、ドイツ国防軍はドイツ本土を頑強に防御すると連合軍は見ていたが、しかしそれは、ヒトラーと彼の帝国が、自ら撒いた種によって間もなく酷い報復を受けるだけの事であることも、明白であった。
 戦争の最後の4ヶ月間は、連合軍地上部隊のドイツ包囲網が縮められた事から、ドイツ空軍の高射砲部隊は皮肉にも爆撃機でなく戦車と交戦することが多くなっていた。高射砲の役割の変化を良く示しているものの1つに、特に地上戦闘を考慮した高射砲突撃中隊(Flak-Sturm-Batterien)の編成がある。高射砲部隊は新年を、1944年の終わりと同じくドイツ本国の高射砲中隊の前線への移送によって迎える事になったが、今回は東部戦線のみへの移送であり、西部戦線への移送は無かった。1月の最後の1週間で、ドイツ空軍は重高射砲中隊110個に中及び軽高射砲中隊58個を、ベルリンへ迫るソビエト軍の攻勢を遅延させようとしている国防軍守備部隊の支援の為に移送した。こうした補強によって人員と機器の損害は拡大し続け、ソビエト軍の侵攻に対する抵抗の行われた1月12日から31日までの間に、第1高射砲軍団と第2高射砲軍団だけでも575門の88mm高射砲と512門の20mm機関砲が失われた。2月6日に、酷くなる損害に対応して、ドイツ空軍は東部戦線へ移送する重及び中、軽高射砲中隊の数を拡大し、合計でそれぞれ327個中隊と110個中隊にまでなった。ここで移送された中隊だけでも、ドイツ本土を防御していた重高射砲の21%、軽高射砲の16%以上を占めていた。こうして、戦争の最後の8ヶ月間にドイツ空軍が前線へと移送した部隊の合計は、重高射砲中隊で555個、中及び軽高射砲中隊で175個に上った。戦争の終幕にかけて大量の高射砲中隊を前線へと送りだした結果、ドイツ本土での防空網は丸裸になり、もはやこうした地域で空襲を防ぐ事は不可能となった。


高射砲兵の断末魔

 地上戦に投入される高射砲部隊の数が多くなると、ドイツ空軍は急速にしぼみつつあるドイツ本土の重要目標の防御の維持に必死になった。1944年を通して、ドイツ空軍は幾つものドイツの都市から高射砲部隊を引きはがし、合成石油施設や少数の選らばれた都市の防衛の補強に使用した。そして1945年の初めの数か月には、借金で借金を返すことを実践するかのように、ベルリンとハンブルグの高射砲防御にまで手を広げた。1月23日に、ドイツ空軍は重高射砲中隊30個と軽高射砲中隊13個をベルリン周辺から移動する命令を出した。同じく1月の最後の1週間に、ドイツ空軍はハンブルグを防衛している高射砲中隊を、地元の党幹部の強固な反対にもかかわらず前線任務の為に引き抜いた。2月中旬になると、ソビエト軍はオーデル川を越えて来襲し、例え重要な合成石油プラント周辺の高射砲防御が弱化しようとも、火力支援が必要となった。
 東部戦線への高射砲中隊の移送にもかかわらず、ドイツ空軍の高射砲中隊は日中の視認条件下においては、第8航空軍の爆撃機に対して良い戦果を挙げていた。第2爆撃機師団の1月の高射砲報告では、「最も戦略的に重要な目標の高射砲は、少数の例外を除き、視認条件下においては強力で正確である」と強調している。第3爆撃機師団の月例報告でも、この評価を次のような考察によって追認している。「よく防御された目標の高射砲は、視認条件下では引き続き効果的である」。それに加えてドイツ空軍の夜間戦闘機部隊は一時的な復活を遂げ、1月で117機の航空機を撃墜している。しかしそれとは対照的に、ドイツ空軍の昼間戦闘機部隊は、メッサーシュミット262(Me262)ジェット戦闘機の増加にもかかわらず、益々弱化していた。アメリカの爆撃機に対して昼間戦闘機が殆ど出撃できなかったのは、ドイツ空軍がその航空機を東部戦線のソビエト軍部隊に対して集中していた為であった。実際にB-17のパイロットだったWilliam Smithは、会う爆撃機パイロットが全て、戦争の最後の数ヶ月間の爆撃行で、単発戦闘機を一度も見なかったと話しているのを聞いて不思議がっている。
 2月には、高射砲は最後の大きな対空戦の勝利と、そして最悪の敗北を経験した。2月3日に第8航空軍は晴天の中、ベルリンに対して1,003機の爆撃機を送り出した。ドイツ空軍の戦闘機が、爆撃機とその護衛機を迎撃する事も無く、ベルリンの高射砲部隊が独り首都の防空任務を負わされることになった。しかし、この防御部隊は「殺人的な」射撃を行い、攻撃をかけた爆撃機の内の21機から25機を撃墜した。同様に、2月7日に第15航空軍によって晴天下で実施されたVienna近郊の石油施設への空襲では、Viennaのいまだ強力な高射砲防御によって第15航空軍は19機から25機の爆撃機を失った。ベルリンとViennaへの空襲から、戦争のこの段階においても、重防御された目標で視認条件下においては、高射砲部隊はアメリカ軍爆撃機の攻撃に対して高い戦果を挙げる事が可能であったことを証明している。そしてベルリンとViennaでの成功とは対照的に、2月13日夜の爆撃機軍団と、それに続く2月14日の第8航空軍によるドレスデンへの空襲では、ハンブルグ空襲を思わせる火事嵐によって町は破壊され、死者は25,000名にも上った。イギリス軍爆撃機が投弾を密に集中する事が出来たのは、ある面でドイツ空軍が他のより重要な目標の為にドレスデンの街の高射砲部隊を事前に引き抜いてしまった事が原因であるともいえる。高射砲部隊が居たとしても古風なバロック都市での大火の発生を防ぐ事が出来なかったであろうが、それでも対空射撃があれば、結果的に町を飲み込んだ破壊的な火事嵐を発生させるに至った、RAFによる焼夷弾の大量集中投下を防ぐ事ができたのではないかと想像できる。結果として、高射砲防御を欠く事により、都市の住民は究極的に高い代償を、ドイツ空軍の高射砲に関連する砲弾ゲームに対して払わされることになったのである。
 3月に連合国地上軍が東西からドイツ深く侵攻するようになると、ドイツ空軍の地上防空部隊への圧力は破壊点を迎えた。3月11日には高射砲部隊も含む国防軍全体は極度の砲弾不足に陥っていた。3月21日の日付の日記で、ゲッベルスはベルリンの高射砲部隊の大部分が前線に送られ、そして残った部隊もわずかな砲弾しか持っていない事を書いている。実際に戦争の最後の1か月に、高射砲部隊は要求した3分の1の砲弾しか受け取る事が出来なかった。
 弾薬の不足に加えて、燃料と輸送手段の不足からドイツ空軍は、牛乳運搬トラックと消防自動車を徴発し、ベルリン市内の高射砲部隊で使用していた。燃料不足は戦闘機部隊も同様で、発進位置までのタクシングの燃料を節約する為に、Me262ジェット戦闘機を雄牛によって滑走路に引していた。その他のドイツ空軍での自暴自棄状態を示すものとして、連合軍爆撃機の編隊への特攻作戦を行うパイロットの訓練が挙げられる。ヒトラーとの会談の詳細について書かれた3月22日付のゲッベルスの日記は、ドイツ帝国の当時の状況を的確にまとめている。:

会議は、同じ点に戻り続けていた。我々の軍事的苦境は、全て敵が制空権を握っている事に帰していた。実際にドイツでは、調整された戦争の遂行は不可能になっている。輸送機関も通信も管理できなくなっている。ドイツの都市だけでなく、ドイツの工業も、ほとんどが破壊されてしまった。もう終わったも同然である(?It is shortly before twelve, if the hands of the clock have not already passed midnight.)

既に終わりが間近になっていた事を物語る事として、3月における爆撃機軍団の空襲は、戦争開始後の数ヶ月間と同じく、夜間の出撃回数を昼間が上回るようになっていた。3月末には、雄牛や牛乳運搬トラックの利用によってドイツ空軍の防空も全くの茶番(opera bouffe)になりつつあったが、しかしそれでもまだ終幕が残っていた。
 4月には、東プロシアで包囲された3,000名の高射砲部隊が、兵器の再装備が出来るまで地上戦闘を停止されたり、戦闘訓練された女性だけで構成された高射砲中隊が50個も編成されるなど、高射砲部隊は滑稽から不条理へと変化していた。こうした女性だけによる高射砲中隊では、その内のたった10個中隊のみしか完全な教育課程を修了するだけの十分な時間が取れず、またこの女性だけによる高射砲中隊は、後にベルリンの防衛にも用いられることになる。この女性による部隊の編成は、国防軍における人員不足が厳しいものであった事の全くの証拠である。そしてこの女性中隊は、ナチス政権が自ら作りだした黙示録(Gotterdammerung)における、女性の役割に関するイデオロギー的信念の、生け贄でもあった(?)。
 戦争終了前の数週間は、高射砲部隊における弾薬不足が特に深刻化していた。こうした状態から、ドイツ空軍は触発時限信管(二重信管、Droppelzunder)を装着した砲弾の試験を実施したが、この砲弾は、1944年にSpeerの軍需省が運搬時の安全性の問題から開発支援を拒否したものと同じ物であった。4月9日にミュンヘンで実施された戦闘試験で、この砲弾を使用した重高射砲中隊は、13機の敵機を1機当たりたった370発で撃墜したが、それまでの平均値が1機当たり4,500発もかかっていた事を考慮すると、相当に好ましい命中率であった。しかしこの二重信管の性能を評価するには更に時間と試験が必要であり、ドイツ空軍に残された時間は存在しなかった。また同様に、試験中のKulmbachレーダーを射撃指揮用途に使用することで、撃墜1機当たりの砲弾数を300発以下に劇的に低減させていた。好成績ではあったものの、ドイツ空軍が戦争が終わるまでに生産できた試験用Kulmbachレーダーは、たった2基だけであった。
 連合軍航空部隊がドイツの高射砲部隊に対して関心を示し続けていた事の一つとして、第15航空軍が1945年4月1日と19日に2度に渡って実施した、ドイツ空軍の高射砲陣地に対する試験攻撃が挙げられる。この2回の攻撃では、B-24が24,000フィート以上の高度から260ポンドの破片爆弾を投下した。この攻撃は、「高射砲部隊の士気と精度」を低下させ、また射撃指揮装置を破壊する事が目的であった。実は、こうした「高射砲破壊」作戦は戦争の初期から試みられていた。1943年7月のハンブルグへの空襲の際に、爆撃機軍団は対人爆弾を高射砲陣地へ投下することで、この戦術を試みた。同様に、アメリカ軍の戦術航空部隊も、連合軍がヨーロッパに橋頭堡を築いた後に、戦闘爆撃機や中型爆撃機による高射砲陣地への低高度攻撃を実施している。しかし殆どのパイロットは高射砲陣地への攻撃を好まず、第9航空軍の司令官であるElwood "Pete" Quesada大将も、「高射砲陣地への攻撃は、まるで人が犬に噛み付くようなものだ」と言っている。連合軍パイロットにとって幸運にも戦争の終結が早まった事により、こうした作戦は例外に止まり、定常化しなかった。
 ヨーロッパ戦線も残り1ヶ月を切った4月14日、ドイツ空軍は配下の高射砲部隊の指揮権を巡って陸軍と論争を始めていた。ドイツ空軍の高射砲部隊を速やかに陸軍高級司令部(OKH)の指揮下に入れるべしという陸軍からの要求に対して空軍参謀は、高射砲の用途は空の脅威を主眼とする必要があるにもかかわらず、陸軍の指揮下に置かれてしまえば高射砲は地上戦闘作戦にしか使われなくなるとして、激しく反対した。しかし実際に戦争の最後の数週間における高射砲部隊の主な任務は、対空戦闘でなく地上戦闘であった。4月25日以降、第8航空軍はドイツ上空で爆弾を投下する代わりにオランダ上空で食料投下を開始し、ベルリンの高射砲塔の128mm連装高射砲はソ連陸軍に対して射撃を行っていた。皮肉にもソ連軍がベルリンの入り口に迫った時に高射砲部隊が関わっていた最も激しい戦いは、ドイツ陸軍とドイツ空軍の指導者間で行われていた。ドイツ帝国の終焉の幕が下ろされようとしていた時に、高射砲の管理を巡る官僚的闘争の幕が開こうとしていたのである。


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