結言(Conclusion)




 大戦間に、現役並びに退役軍人、そして市民の理論家達が、爆撃機時代における防空の存在可能性について議論していた。こうした分析においては、高射砲と戦闘機の関係による利点にについての議論も含まれていることが多かった。戦闘機だけに信頼を置く人がいる一方で、高射砲の集中を主張する人もいたが、しかし大多数は高射砲と戦闘機の協調こそが、ドイツ工業とドイツ国民とを防御する為に最も効果的で有用な手法であるとしていた。ナチス党の台頭とヒトラーの壮大な第三帝国の再軍備によって、ドイツ軍の全ての部門は1933年から1939年の間に劇的に増大、増強された。ドイツ空軍に関しては、国防軍の攻撃重視の偏向から野戦における地上軍の支援に最も適した空軍となり、この事は1940年夏のバトルオブブリテンで証明された。
 1940年6月に英仏海峡の東岸でドイツ軍の戦車による侵攻が止まると、RAFによる驚異というよりも妨害に近いささやかな反撃が実施されたが、しかしこの爆撃機軍団による空襲は、現代航空戦においてはドイツ本土ですら戦場であることを知らしめたのである。戦争開始時において、ドイツ本土防衛の主要な責任はドイツ空軍の高射砲部隊が堂々と担っていた。ヒトラーの高射砲部隊の効率に対する揺るぎない信頼と、ゲーリングによる保護とによって、1939年9月には世界で最も大きく、そして最も装備の充実した地上防空部隊となっていた。しかし、戦争前の数年間に高射砲部隊につぎ込んだ総計にもかかわらず、ドイツ空軍の期待は高射砲部隊の能力を超えてしまっていたのである。
 戦争が始まって1年半後にRAFが夜間空襲に集中する決定を下した為に、高射砲部隊は文字通り闇の中で射撃を行う事になった。イギリス軍の爆撃機の数が増大し、後にはアメリカ軍爆撃機までがドイツ上空に出現する中、戦闘を通じてドイツ空軍は戦術的、ドクトリン(教条)的、そして技術的解決法を探索していった。しかし人員が大幅に増大し、機器が相当に改良されたにもかかわらず、高射砲部隊はドイツ空軍の指導者が戦争前に思い描いていた成功のレベルには決して到達することはなかった。しかし、高射砲火による連合軍機の損害数と損傷数と、そして他の地上防衛での戦果を合わせたものは、ドイツ空軍の高射砲部隊の効果を究極的に表しているといえるのである。


結果的な撃墜数

 ドイツの地上防空部隊によって撃墜されるか、もしくは損傷を与えられた連合軍機の数は、戦争におけるドイツ空軍高射砲部隊の成果を評価する最も判り易い指標の1つである。1942年7月から1945年4月までの間に、ドイツ空軍の高射砲は爆撃機軍団の航空機を1,345機撃墜し、一方でドイツ空軍の戦闘機は2,278機を撃墜した。この数値から、ドイツ空軍の戦闘機は1.69対1で高射砲よりも良い成績を収めていたと言える。もしくは、爆撃機軍団の損害の内の59%が戦闘機によるもの、残りの41%が高射砲によるものであると言える。更に1942年2月から1945年4月の間に、ドイツ空軍の戦闘機は163機に、一方で高射砲は151機に修理不能な損傷を与えたが、この比率は1.08対1で戦闘機が優勢であった。そして同じ時期に、ドイツの高射砲部隊は8,842機の爆撃機に損害を与え、一方で戦闘機は1,731機に損害を与えたが、この比率は5.1対1で高射砲が優勢であった。この結果を、この時期における全ての夜間の出撃数における比率で表現すると、高射砲部隊は全ての出撃した爆撃機の3.5%に損傷を与えた事になる。そして作戦を中止したり目標に到達できなかった航空機数を考慮すれば、実際の比率はもっと高くなる事を忘れてはならない。
 イギリスのライバルと比較してみると、USAAFが高射砲部隊によって撃墜された約5,400機はヨーロッパ戦線での戦闘による損失の半分以上であり、一方でドイツ空軍の戦闘機によって撃墜された航空機は4,300機であった。第8航空軍は戦争中に1,798機を高射砲によって失った。この数は、第8航空軍が戦争中に、天候や事故、機器不良、そして戦闘機による攻撃といった全ての損失理由によって失った爆撃機数の約31%にもなる。第8航空軍と比較して、地中海連合軍航空隊(MAAF)では高射砲による損失数の割合がこの戦線では特に高い。1944年1月から1945年2月までの間、戦闘機、中型爆撃機、そして重爆撃機の全ての機種において、MAAFは2,076機を高射砲に、また807機を敵戦闘機に撃墜されており、比率は2.6対1で高射砲が優勢である。特に第15航空軍は1943年11月から最後の爆撃作戦のあった1945年5月までの間に1,046機の重爆撃機を高射砲に撃墜されている。これはこの期間中に第15航空軍の失った重爆撃機の44%にも上っている。そしてこの損失の約10%が、「爆撃機の墓場」と呼ばれたPloesti近郊にある石油施設への攻撃だけで発生しており、その殆どが高射砲によるものであった。戦略航空隊の重爆撃機の損害に加えて、ドイツ空軍の高射砲部隊は第9航空軍と第12航空軍の航空機を合わせて2,415機も撃墜している。
 連合軍側の評価と比較して、1942年8月から1944年6月までの間のヨーロッパ上空における、ドイツ側の公式なアメリカ軍航空機の戦闘機と高射砲によるそれぞれの撃墜数は、1,682機と905機である。比率で表すと、撃墜数の65%が戦闘機、35%が高射砲によるものである。不幸にもドイツ空軍の数値は、戦争の最後の9ヶ月間のものが利用できないが、1944年夏から先は爆撃機の主要な脅威が対空射撃となるため、戦闘機の優位性が低下するのは確かである。そして最後に、戦争中のアメリカ軍重爆撃機の戦闘による損害の約50%が高射砲によるものであったが、しかしこれでもUSAAFの全ての航空機の高射砲による損害数とは比較にはならなかった。
 1942年12月から1945年4月までの間に、第8航空軍での高射砲による航空機の損傷数の合計は、何と54,539機にも上り、これは全ての出撃数の20%を少し越している。一方で第15航空軍の重爆撃機では、高射砲による損傷数の合計は11,954機で、出撃総数の8.5%である。こうした損傷の殆どが軽いもので、金属板片を穴に被せる事で修理できてしまうようなものであった。しかし高射砲による「致命的な損傷」を負わされた航空機の割合から見たとき、高射砲による防御の効果がより容易に明らかとなる。例えば1944年5月から1945年3月までの間に、第1爆撃機師団(後の第1航空師団)は高射砲によって合計15,042機が損傷を受けたが、その内の4,115機が「致命的な損傷」であった。言いかえるならば、高射砲による損傷の内の27%を少し超えるたものが、致命的な損傷であった。この致命的な損傷の割合を航空軍全体で適用するものを仮定すると、1942年12月から1945年3月までの間での致命的な損傷の航空機の合計数は、驚くことに14,889機になるのである。更に、この致命的な損傷の航空機の内の5%のみが修理不可能な損傷であると仮定すると、高射砲による撃墜数は744機追加されることになり、この機数は第8航空軍での高射砲による損失機数のほぼ半数にあたるのである。ドイツによる高射砲による損害の評価の面では、ドイツ側の資料では1942年8月から1944年6月までの間にヨーロッパ上空で20,455機のアメリカ軍の航空機に損害を与えたとしている点が重要である。この合計数は、高射砲だけによる損傷を受けた第8航空軍の、中型爆撃機や戦闘機を除いた重爆撃機の実数よりも5,852機も実際に少ないが、これによってドイツ空軍が、アメリカの爆撃機部隊へ高射砲部隊が与えていた損害を一般的に過小評価していたことが明らかになるのである。
 そして最後に、イギリスやアメリカに加えて東部戦線におけるソビエト軍航空部隊も、ドイツの対空射撃によって何千機もの損害を受けている。ロシア侵攻開始からの6ヶ月間に、ドイツ空軍の高射砲部隊は1,891機を撃墜したと主張している。同様に、1944年1月から1945年2月の間だけでも、2,000機以上のソ連の航空機が東部戦線で高射砲によって撃墜されたと評価している。戦争を通して、ソビエトは東部戦線において、ドイツ空軍や陸軍、親衛隊の高射砲部隊によって17,000機の航空機を失ったとしている。ソビエトの損失の殆どは、戦闘のあった前線に極めて近い場所で発生したものであるが、しかしソビエトの長距離爆撃機は、1941年から1945年までの間に7,000回以上もドイツや枢軸国内にある目標に対して攻撃を行っているのである。


全体論による視点での、地上防空の評価

 高射砲中隊がドイツ空軍の地上防空ネットワークに必須であることは間違いない。しかし高射砲のみに注目すると間違いを犯すことになる。ゲーリングやMilch、そしてvon Axthelmといった、ドイツ空軍の指導者の上の方の階層の多くは、ドイツの地上防空の幅広い構造や効果を限定的にしか理解できなかった。こうした人々は、高射砲の効果対戦闘機の効果の比較という単純な二項等式を使うことで、ドイツ空軍の防空能力の評価で間違いを繰り返し犯していた。戦闘機対高射砲という、この近視眼的視点によって、ドイツ空軍の指導者は首尾一貫して地上防空における他の要素の構成を、無視もしくは相当に過小評価していたのである。ドイツ空軍に公平を期すると、イギリスとアメリカの情報将校達もまたドイツの地上防空の能力を過小評価するという罪を犯しており、作戦分析部(Operations Analysis Section)のみが戦争終了までにこうした視点を訂正しただけだった。そして多くのドイツ空軍の指導者達は、偽装や欺瞞手法によってイギリスやアメリカの多くの爆撃機が、幾度ともなく欺瞞施設に爆弾を投下していたにも関わらず、比較的低いレベルの投資によってもたらされた偽装や欺瞞手法の卓越した効果を、戦争を通じて認識することができなかった。他の例として、戦闘の違う場面での、探照灯による戦闘機部隊への支援の重要性がある。実際にドイツ空軍の照空部隊が居なければ、Herrmannの「野生の猪」手法は役に立たなかったであろうし、高射砲部隊の夜間戦闘における戦果も大幅に減少していたであろう。それに加えて阻塞気球部隊と発煙部隊も、ドイツ空軍の能動的な防御において幾度ともなく効果を発揮した。1944年末には阻塞気球部隊は急速に効果を失い、発煙部隊もまた煙の発生に必要な化学薬品の供給が途絶えてしまった。
 最後に、ドイツ空軍の地上防空の効果のいかなる計算においても、幾つもの変数が関係し、そしてその変数は戦争を通じて変化していた。こうした変数を「高射砲対戦闘機」の等式に含ませる事により、ドイツ空軍の地上防空の効果に対して、既存の解釈よりも精度高い評価を与える事が可能になるだろう。そしてドイツ空軍の指導者はまた、発煙部隊から探照灯に至るまでの地上防空の範囲全体の貢献の考慮に失敗していた事に加えて、自分達の高射砲防御の隠れた効果も無視もしくは過小評価していた。


高射砲の隠れた効果

 ドイツ空軍の高射砲防御の効果に大きく落胆してしまう人の多くは、対空射撃の実際の重要な隠れた効果を考慮していない。こうした貢献の中で断然に重要なものは、爆撃の精度に与える高射砲の影響である。まず、対空砲火は爆撃機をより上空へと押し上げることで爆撃精度を低下させる。そしてまた目標上空の対空射撃は、イギリス軍やアメリカ軍のパイロットに急激な回避行動を強要させ、それによって点目標の爆撃の場合には爆撃そのものが実施不可能となり、絨毯爆撃の場合でも精度が著しく低下してしまう。第8航空軍の初期の作戦の間に、カーチス・ルメイ大将は、目標への最終照準飛行中の回避行動によってアメリカ軍爆撃機が「毎度爆弾を捨てに行っている」と嘆いている。同様に、1945年3月後半に開かれたある会議において、アメリカ軍戦略航空隊の司令官である、Carl "Tooey" Spaatz大将も、高射砲こそが爆撃の精度に関連する「最大の要素」だと強調している。戦後の陸軍航空隊の研究では、アメリカ軍の爆撃機の爆撃半径誤差(?radial error)の39.7%は、高射砲によって神経質になったり、回避行動を取らされたり、また効率を削減された事による結果であると結論付けている。それに加えて、この研究では21.7%の半径誤差(?radial error)が、高射砲を避けようとして爆撃高度を上げた事によるものだとしているのである。つまり、アメリカ軍の半径爆撃誤差(?radial bombing error)の61.4%もが、ドイツ空軍の高射砲防御に直接貢献し得るものとなっている。爆撃機軍団の場合では、高射砲防御はパイロットに急激な回避行動を取らせるだけでなく、「後退り(?creep back)」として知られる現象を強要し、爆撃機軍団のパイロットにおけるこの傾向は、1944年3月頃まで続いたのである。
 高射砲による爆撃精度への効果に加えて、高射砲による航空機の損傷が2つの追加効果を生む事が多い。まず1つ目に、高射砲による損傷を受けた航空機は、爆撃機の編隊について行けなくなることが多い。他の爆撃機からの支援射撃を受けられなくなると、こうした「落伍機(?stragglers)」は、ドイツ空軍の戦闘機パイロットにとっての撃墜記録を増やす格好の餌食となる。この例の1つとして、1943年3月の第1爆撃機師団の月例高射砲報告で師団は5機を高射砲によって失ったが、それに加えて5機が高射砲による損傷の後に戦闘機によって撃墜されたと指摘している。USAAFの作戦分析部(Operations Analysis section)は、第1爆撃機師団の爆撃機の経験から爆撃機の孤立は起きにくいとしていた。しかし戦後の報告書で作戦分析部は、「損失機の乗員数が積み重なることで初めて、高射砲による落伍機が結果的に敵の戦闘機攻撃への弱点となっていることが判明し、それによって高射砲の本当の重要性が明らかになった」と指摘している。それに加えて、落伍機になるという恐怖が、アメリカ軍の乗員の記憶における最も主要なテーマの1つを構成するようになっていた。「爆撃流(?bomber streams)」方式を採る爆撃機軍団に落伍機の考え方を適用するのは簡単ではないが、それでも高射砲による損傷の後に戦闘機の餌食となった航空機が無数にあったことは同じである。この場合、高射砲による損傷で発生した炎や煙によって爆撃機の位置が夜間戦闘機に判り易くなったり、もしくは高射砲による損傷で速度が低下する事で、昼間の落伍機と同様な結果をもたらす事になる。
 2つ目の大きな隠れた効果は、高射砲の損傷が遅延して効果を発揮するものである。高射砲弾の破片は比較的小型で、それによる損傷も小さいものが殆どだが、中には燃料やオイルラインを傷つけるものもある。航空機のエンジンからオイルの冷却水がゆっくりと漏れたり、もしくは燃料がゆっくりと失われてゆく場合には、墜落するまでに基地にたどり着く事が可能である。しかしそれとは対照的に多くの損傷した爆撃機は、墜落するまでにたった10から20マイル、良くて100マイルも飛行できなかった。多くの場合、被弾した爆撃機はスウェーデンとスイスを目指す事で、枢軸国の占領下に不時着する危険性よりも確実に拘束される方を選択した。実際に、1944年の終わりまでにこれらの中立国で拘束された乗員は約200名もいた。同様に、損傷した爆撃機を海上へと向け、イギリス海軍もしくは航空海上救助部隊(Air Sea Rescue Service)による救助に望みをかけて北海に不時着水を選択するパイロットも多かった。戦争中にRAFの航空もしくは海上救助部隊によって救助されたのは航空機の乗員だけでも5,721名にも上り、これはB-17で572機分、ランカスターなら817機分の乗員数であった。
 航空機が高射砲の効果が遅延して現れた結果墜落したり、中立国に着陸したり、海上に不時着水したような場合には、物理的遺物が残らなかったり、航空機を撃墜した高射砲中隊の特定が不可能であったりする為に、こうして失われた航空機の数は、ドイツ軍側によって高射砲による撃墜数として申告もしくは勘定されないことになる。こうした損失数の存在や規模は、高射砲による隠れた撃墜数が大きな数であった事を示しており、またドイツ空軍による高射砲による撃墜数の集計方法における大きな問題を提示している。ドイツ側の撃墜数確認手法が厳しかったことは、RAFとドイツの報告の間で高射砲の効果に大きな差異が存在する事の1つの原因であるといえる。「確認」された撃墜を主張するためには、高射砲中隊はドイツ空軍の「撃墜確認委員会(Shootdown Verification Commision)」の要求する幾つもの資料を提出して認められなければならなかった。この資料には、高射砲中隊による撃墜の申告、少なくとも1人以上の信頼のおける目撃証人の宣誓証書、証人と中隊による予想墜落地点のスケッチ、そして墜落した機体の物理的残骸などがあった。こうした指針によって主張された撃墜数が実際よりも膨れ上がってしまう事を防ぐことにはなるが、しかしこれにより、ドイツ空軍の高射砲中隊の指揮官にとって撃墜の証明が大きな重荷となったのである。第11航空管区のような幾つかの航空管区では、この指針による不均衡の影響を受ける事になり、特に苦情が多かった。例えば、ドイツ空軍は海上に墜落した航空機の撃墜申告を殆ど認定しなかったが、ハンブルグを範囲に含み、ドイツの北の海岸線にある第11航空管区も例外は認められなかった。撃墜に対するこの厳しい指針により、この航空管区では1944年7月までの合計541機もの高射砲による戦果が、充分な証拠が無かった事から「未確認」として報告されている。
 地上防空の隠れた効果の最後のものは、ドイツに対して毎昼、毎夜、空襲を行う中で、爆撃機の乗員達が高射砲や探照灯に直面した時の精神的反応に関するものである。ドイツで最も強固に防御された地域を、真正面から毎日のように飛行していた結果、爆撃機軍団とアメリカ陸軍航空隊のどちらもの乗員達は、肉体的にも精神的にも損害を被ることになった。高射砲による脅威と探照灯の照射とは、イギリス軍航空兵の感情的ストレスの2つの主要な原因であったし、同様にアメリカ軍の乗員達にっても高射砲はストレスの主要な原因であった。B-17の機上機関士で機銃手のJohn Comerは、次のように強く主張している。「高射砲は、戦闘機ほど危険性は無かったが、これほど恐ろしいものは無かった(?scare the hell out of me)。周りで高射砲弾が炸裂し始めると、私は銃座の中ですくんで震えていた。」別のアメリカ軍のB-17の球状機銃手も、彼自身の高射砲に対する反応を次のように書いている。「時たま、撃ち上げられた高射砲弾が"ブーン!(whooooomp)"という音と共に飛んで行き、そしてそいつが炸裂すると座席から逃げ出したくなる。時には我慢できなくなり、銃座を下方に向けると"バンバン(原文ではboom, boom)"と言いながら、地上の高射砲手達に向けて機銃を数発射撃する。もちろん、こんな事に何の意味も無いけど、そうすることで多少とも気が休まった。」連合軍の乗員として精神的、肉体的圧力の効果を体験したある歴史家は、「統計データからは、イギリス軍とアメリカ軍の航空機の乗員にとって、実際にはドイツの戦闘機が最も危険性が高かったとする傾向が出ているが、多くの連合軍の熟練した乗員達は、目標上空での高射砲を最も恐れていた」と指摘している。
 精神的ストレスは、ドイツの防空に長く、繰り返し曝されることによって発生する事は疑いのない事であるが、それによって一般的なものから一般的でないものまで、幅広い精神的反応が示される。1943年だけでも、約1,000名の爆撃機軍団の乗員が神経症と診断され、更に100名が「モラル欠落症状(lack of moral fibre、LMF)」が出ていると分類された。RAFと同様にアメリカ軍の航空兵も、戦闘機の攻撃や高射砲の弾幕によるものを含む同様な肉体的、精神的ストレスの多くを受けていた。アメリカ軍の航空兵は夜間作戦に関連する独特なストレスを免れてはいたものの、USAAFの採る高高度爆撃手法では時には30,000フィートを越す高度で飛行する為、特殊な精神的要求を強いられることになった。1942年7月から1943年7月までの間のアメリカ軍航空兵の症状についての精神医学のある研究は、「1943年の春には、より奥地へと侵入するようになり、ドイツ本土への空襲も開始された。そしてここに至って航空兵達は自身の任務の厳しい現実を目の当たりにすることとなり、それによってより多くの精神病患者が出現し始めている。」と指摘している。この報告書ではまた、「常に迫りくる敵戦闘機の攻撃を目の当たりにし、高射砲による堅固な防壁を突破し、僚機が錐揉みして墜落したり時には空中で爆発するのを見て、戦死者や重傷者と共に基地へと帰還するといった経験から、酷いストレスを繰り返し受ける事となり、これに耐えるにはかなり高い心身の「強さ」が要求されている」と書いている。確かに、異常な精神的反応を示す航空兵の数は少なかったが、しかし、単純な奇行を示したりちょっとした間違いをする人達を「高射砲酔い(?flak happy)」や「フォッケウルフ神経症(jitter)」といった言葉で表現するようになり始めていたのである。まとめるなら、ヨーロッパ上空で空襲を行う連合軍の航空兵にとって高射砲は、それ単独ではないとしても、ストレスの大きな原因の1つであったといえるのである。


撃墜のコスト計算

 高射砲部隊を維持する経済的、資源的コストは、多くの戦後の書物の中で、高射砲が効果が比較的に小さい割に相当に多くの資源を消費するという事を正当化する為に利用されている。高射砲の非効率性の例として最も首尾一貫して挙げられるものの1つは、1944年に88mm高射砲36/37型で1機撃墜する為に平均して16,000発の砲弾を使用したというものである。砲弾1発のコストを80RMとして、航空機を1機撃墜するのに1,280,000RMもしくは512,000ドルかかった事になる。この1944年の数値は技術上正確であるとしても、これを高射砲の効率の指標に使用するという事は、1920年代の株式市場の能力を示す指標として大暴落の翌日に当たる1929年10月25日のダウ値(Dow Jones)の株価を使用するようなものである。1944年における88mm高射砲弾の消耗数が増加した事に関連する多くの要因を詳細に分析して行くと、この1機撃墜当たり88mm高射砲弾16,000発という数値が、多くの面で統計的に逸脱していることが判るのである。
 この16,000発/1機の値は幾つかの要素において歪められている。まず第1に、1944年におけるドイツの重高射砲の圧倒的多数が88mm高射砲36/37型であった。この高射砲の有効最大射高は26,000フィートであり、B-24の平均的な爆撃高度を上回っているものの、B-17の通常の爆撃高度である24,000から27,000フィートではその下限に近くなっている。この為に第8航空軍は、1944年にドイツ本土の目標に対する攻撃の殆どにB-17を使用するようにし、それによってドイツ空軍の高射砲中隊の殆どが、有効射高のギリギリかその射程外となってしまったのである。2番目として、多くの高射砲中隊では通常の使用耐久回数を越えた砲身を使用し続けなければならなくなっており、これによって効果が減少していた。この砲身内面(?barrel wear)の摩耗により射撃精度が下がり、また砲の腔発やそれに伴う砲手の死傷の危険性が出てきていた。1944年を通して、毎月380門の88mm高射砲が消耗や破壊によって失われたが、この消費の速度は1943年の2倍、更に1942年の9倍以上にもなっていた。そして最大射高や砲身の摩耗の問題に加えて、ドイツ国内には1944年を通して平均262個もの国民兵高射砲中隊が運用されていたことを忘れてはならない。こうした部隊は高性能な射撃指揮装置を欠き、88mm高射砲36/37型もしくは88mm砲弾を射撃可能なように改造された75mm高射砲だけが装備されていた。その為にこうした部隊では一般的に弾幕射撃手法を使用せざるを得なかった。国民兵高射砲中隊の数の多さと更にその比較的古い装備は、1944年における砲弾の消耗数が高かった事の一因であるといえる。他にも、連合軍が改良された電子妨害装置を運用したことも挙げられる。その中の1つである「チャフ散布部隊(?Chaff Screening Force)」は、特別なチャフ投下装置を装備した数機の爆撃機によって構成されたもので、チャフの散布を改良してドイツの射撃レーダーの照準をより困難にしようとしていた。そして最後に、1943年と1944年に高射砲部隊に多量の予備兵が動員され、古い兵器や装備の使用も多くなり、これによって88mm高射砲中隊の質的能力が低下し、1機当たりに必要な砲弾数を増加させることになったのである。
 この最後の点を最も良く表している例は、128mm高射砲と88mm高射砲36/37型との能力の比較である。1944年を通じて、128mm高射砲の1機撃墜当たりの使用砲弾数は3,000発であり、88mm高射砲の5分の1以下である。この2つの高射砲の撃墜必要弾数の大きな開きは、主に2つの原因によるものである。1つ目は、128mm高射砲の有効射高は35,000フィートであり、連合軍爆撃機の作戦高度の遥か上を行っていた。2つ目に、最も重要な事として、全ての128mm高射砲の高射砲中隊はドイツ空軍の常備兵によって構成されており、彼らはドイツ空軍の高射砲部隊の中の「最精鋭(cleam)」であった。128mm高射砲の砲手の能力から、訓練の行き届いた砲手と高品質の装備によって得られる結果がどのようなものかがわかるだろう。不幸にしてドイツ空軍は、たった31基の128mm連装高射砲と525門の128mm高射砲しか持っておらず、それは1944年末時点で使用可能な重高射砲の合計数の5%でしかなかったのである。(訳者注:128mm高射砲と88m高射砲とでは弾頭の炸薬量が2倍以上違い、これも必要砲弾数の大きな開きの原因である筈だが、ここでは触れられていない)
 1944年における1機撃墜当たりの消費砲弾数とは対照的に、戦争開始後の12ヶ月間における必要砲弾数は、重高射砲で2,805発、軽高射砲で5,354発である。1943年の11月から12月の間では、重高射砲で4,000発、軽高射砲で6,500発だが、この時期は高射砲部隊が戦闘機部隊との協調をこなし、連合軍の電子妨害を克服し、更に天候不順であったからである。戦争全体を通じての1機撃墜当たりの必要砲弾数の値は、ある資料では軽高射砲で平均4,940発、重高射砲で平均3,343発としている。この値を使用すると、1機を撃墜するのに必要なコストは、重高射砲で267,440RMもしくは106,976ドル、一方で軽高射砲は37,050RMもしくは14,820ドルとなる。そしてこの1機撃墜当たりの必要砲弾数は、航空機を撃墜するのに必要な全コストの概数でしかない事も確かである。この評価値は兵器や機器の生産に使用される各種資源や、砲手の訓練に関連するコストを無視しているからである。また、戦闘機と高射砲による撃墜のコストを直接比較する事も、航空機の設計や生産、運用に関係する無数の隠れたコストが存在している為に困難である。戦闘機の場合には、飛行場の建設や維持、航空機の整備や修理、燃料、そして特別な訓練や何百時間という飛行時間等のパイロットの訓練に必要な支出という基本的コストも考慮しなければならないのである。
 1つの手法として、高射砲による個々の撃墜にかかるコストを、幾つかの爆撃機の生産コストと比較するというものがある。例えば1942年時点で、完全装備のB-17の価格は約292,000ドル、また完全装備のB-24は327,000ドルであった。重爆撃機と比較として、1942年でのノースアメリカンB-25中型爆撃機とマーチンB-26中型爆撃機のユニットコスト(?unit cost、部隊への引き渡し時の価格?)はそれぞれ153,396ドルと239,655ドルであった。これらの中型爆撃機のユニット生産コストには、整備や補給、燃料、そして乗員の訓練コストは含まれていない。ともかく、重高射砲で1機当たり107,000ドル、軽高射砲で15,000ドルという値が、こうした航空機の生産に関するコストと比較して高すぎないということは明白である。しかしアメリカの参戦によって、その膨大な経済的資源と巨大な生産能力とが、枢軸国軍との財政消耗戦において様々な面で連合軍を助ける事となったが、ドイツ空軍はこうした消耗戦への準備は乏しかったのである。


ドイツの「失われた師団」?

 高射砲のコスト効果の問題に加えて、高射砲部隊が多くの人材を必要としていた事が非難されている。von Axthelm大将は、戦争終結時に約120万が地上防空部隊で任務に就いていたとしている。高射砲部隊と照空部隊とが多くの人材を吸い取っていた事は確かであるが、しかしこうした人材によって別に何百もの国防軍師団を作り出す事が可能だったとする議論は、幾つかの点において破たんしている。まず1945年4月の時点で、地上防空部隊に勤務している要員の44%は市民や予備兵であり、中には工場労働者や戦時捕虜、外国人や高校生も含まれていたのである。更に高射砲部隊で任務に就いている常備兵も、その21%は39歳から48歳までの老兵であり、更に35%は48歳以上か病気や怪我で戦闘任務を免除された兵士であった。次にこの「失われた師団」の議論は、ドイツ空軍の高射砲部隊の多くが実際に前線で戦闘行為に加わっていたという事実を考慮していない。1940年のフランスと低地諸国における作戦での、第1高射砲軍団と第2高射砲軍団が1つの例である。そして最後に、ドイツの地勢的位置と連合軍爆撃機の規模の大きさから、軍事的、そして政治的理由を考慮すると、例えそれがどれだけ多くの人員を必要としていたとしても、ドイツ空軍は強力な地上防空部隊をドイツ国内に必要としていたのである。空軍は単純にドイツの工業施設と中心都市を守らなければならず、そしてその為に地上防空部隊の規模が大きくなってしまったのである。同様に、高射砲防御を要求する一般の意見に対する政治的考慮についても、高射砲部隊が引き抜かれたり、もしくは不十分であるように見えた際のナチスの大管区長達による不平の多さを見れば明白である。
 他の「失われた師団」の議論の1つとして、高射砲兵器と装備の生産の為に約25万から30万人を高射砲部隊が吸い取っていたといするものがある。しかしこの議論も、整理して見ていかなければならない(?must be placed in context)。1944年8月の時点で、ドイツには750万人以上の強制労働者が存在し、農業から工業生産に至るまでの幅広い作業を行っていた。そして25%を越す強制労働者が特に工場で兵器の生産に携わっていた。高射砲の生産に従事していた強制労働者の中に外国人や戦時捕虜が実際にどれだけ含まれていたのかは判らないが、しかし合計で何万人の規模である。更に、幅広い女性の工業生産への動員と、医療的に軍事任務に不適切な男性の使用とにより、強制労働者という人員のプールの中から戦闘任務に就くことが可能な男性の数は、更に少なくなることだろう。最後に、終戦時において、ナチス指導者が国防軍の補充兵を工業労働者の中から何度もかき集めようとしたが、肉体的に軍務に就ける労働者はほんの僅かでしかなかった上に、その僅かな適応者も重要な分野での労働者だったのである。


機会費用(opportunity costs、経済用語は難しい…)その1:高射砲対野戦砲

 もしも高射砲部隊が国防軍から膨大な人材を奪っていなければ、何千もの高射砲中隊を作る労力と高射砲の生産の為の資源とを利用して、ドイツ軍の野戦部隊が使用する野戦砲を生産することが出来た。アルバート・シュペーアは戦後の回想録で次のように書いている:

実際に我々の最大の支出は手の込んだ防御手段であった。戦争の時にドイツ本土や西部地域には、1万門もの高射砲が空に向けられていた。それと同数の大砲をロシアで戦車や他の地上目標に向けることも可能だったわけである。この新しい戦線、ドイツ上空の戦線が無ければ、少なくとも装備に関しては戦車を防御し得る兵力が二倍になっていたのである。

これは、1944年の8月にシュペーアが戦闘機部隊の参謀に対して、火砲生産計画での生産数は「記録的なもの」を達成し、それは1941年の生産量の8倍から10倍になった、という話をしている点から見ると、彼の論点は奇妙である。ただ、確かに高射砲を生産しなければ、より多くの火砲を生産する事が可能であった。実際にある米軍戦略爆撃調査団(USSBS)の報告書では、「高射砲の生産には1門当たりで他の火砲の2倍の労働者が必要である。...もしも重高射砲の生産が不要であれば、火砲の砲数は約2倍になっていたであろう。」と評価している。
 高射砲と野戦砲との生産量の比較をより詳細に行っていくと、1943年1月に国防軍が陸軍の火砲に使用した予算は6,400万RM(2,560万ドル)で、一方の高射砲の予算は3,900万RM(1,560万ドル)で、比率は1.64対1だった。1944年12月には陸軍の火砲が18,000万RM(7,200万ドル)、一方の高射砲は8,700万RM(3,480万ドル)で比率は2.07対1である。生産された砲数に関しては、1943年12月にドイツで生産された75mmから210mmに至るまでの野砲並びに野戦重砲は1,020門で、その一方で88mmから128mmまでの高射砲の生産数は570門であった。それに加えて同じ月に1,300門を少し超えるだけの戦車と、対戦車砲、そして自走砲が生産されている。1944年12月には、野砲と重砲の生産数は1,360門まで増加し、一方で高射砲は700門になる。そしてこの他に2,200門の戦車、対戦車砲、そして自走砲が1944年12月に生産されている。これに対して1年前の1943年12月には、陸軍は2,320門の野戦砲と戦車砲を受領し、また重高射砲の生産数は570門であり、比率は4対1だった。この12ヶ月後(1944年12月)には陸軍は約3,560門の野戦砲と戦車砲を受領し、ドイツ空軍は700門の重高射砲を得ていたから、比率は5対1である。
 以上の詳細な比較は、高射砲の生産で必要だった資源を流用すれば、国防軍はより多くの火砲を生産できたという事実を変える事は出来ないが、しかしこれらの数値から、1944年12月という戦争末期においてさえ、高射砲部隊の規模が拡大されていたにもかかわらず、陸軍の野戦砲や戦車砲の生産数が明らかに多かった事が判る。実際に米軍戦略爆撃調査団のある報告書は、国防軍の地上部隊は、戦車砲と自走砲を含まない野戦砲のみではわずかに減少しているものの、対ソ戦が開始された時点よりも1944年の初めの方がより高い火力を有していたとしている。更に1944年11月の時点で、ドイツ空軍の88mm高射砲の45%が、西部占領諸国やイタリア、東部戦線に配備され、その多くが防空の代わりに地上戦闘の支援のために使用されていた。同じように、1944年12月にドイツ空軍は重高射砲中隊100個をアルデンヌ攻勢を支援する為に、更に1945年の1月と2月には300個を越す重高射砲中隊を東部戦線に、それぞれ対戦車砲と野戦砲として使用する為に移送している。この面においては、野戦砲は地上戦闘のみにしか使えないが高射砲は対空と地上戦闘のどちらもに使用可能であることから、高射砲の生産は追加の利益ももたらしていたのである。
 生産数に加えて、国防軍のドクトリンでは火砲を犠牲にしても戦車を好んでいた事を指摘しておく必要がある。実際に、ドイツの陸上部隊を勝利へと推進させようとしていたのは、火力ではなく機動性であった。野戦砲を犠牲にしても戦車を好むというドクトリン的(教条的)偏向は、野戦砲と高射砲に対する国防軍の優先度を部分的に説明する、前後関係を繋ぐ重要な要素である。結局のところ、高射砲と野戦砲の生産では、国防軍が競合する優先度を調整しなければならなかった。そして陸軍と空軍の間の火砲の生産配分は、前線で戦う陸軍と拡大しつつある連合軍爆撃機部隊からの防御を担う空軍との間の、利害の相反する要求を、適切に調整したものであったといえるのである。


機会費用(Opportunity Costs)その2:高射砲弾と野戦砲弾

 戦争の最後の1年で、国防軍の指導者が最も関心を持っていたのは火砲そのもの(?artillery tubes)ではなく弾薬であった。米軍戦略爆撃調査団のある報告書によると、連合軍が合成石油施設と水素プラントを攻撃したのは、それがドイツの燃料施設であったからだけではなく、「ドイツの火薬と爆発物の生産に重大な影響を持っていたから」であった。1945年2月には弾薬の生産量は1944年10月の3分の1にまで低下し、高射砲弾と野戦砲弾にも重大な不足が生じた。この時、高射砲弾を1発生産する分だけ、ドイツ陸軍の為の野戦砲弾の生産量が少なくなるということが明らかであった。しかし戦争開始から4年目までは、高射砲弾の生産が他の弾薬の生産を阻害する事は無かった。1943年と1944年での重高射砲用の弾薬の生産コストは、弾薬の生産全体のたった9%でしかなかった。同様に1942年から44年の間、88mm高射砲の生産数が250%も増加したにもかかわらず、88mm高射砲用の弾薬の生産数は基本的に一定のままであった。更に1944年に生産された70mm以上の口径の全ての弾薬の20%だけが高射砲部隊用のものであった。
 米軍戦略爆撃調査団の経済効果部門によると、1943年までは高射砲と高射砲弾の生産は、他の火砲と機器の生産を犠牲にしてはいなかったとしている。確かに、この状態は1945年には変化し、野戦砲を犠牲にして高射砲弾の弾頭の生産が行われるようになった。戦争の最後の6ヶ月間での高射砲弾の生産への集中によって、陸軍が利用可能な弾薬の量が減少する事になったのは明らかであるが、しかし2つの点を考慮しなければならない。まず1つに、1945年の初めのヨーロッパ上空の連合軍機の出撃回数と機数の増加から、野戦部隊を犠牲にしてでも高射砲部隊を支援しなければならなかったという事である。もう1つは、ドイツ空軍の高射砲部隊自身が、地上作戦の支援に呼び出される機会が多くなり、自ら保持する弾薬を使用して戦車や進撃してくる連合国陸軍と交戦しなければならなかったということである。高射砲と野戦砲とのトレードオフの関係から、戦争の最後の数ヶ月間の高射砲弾の生産に関する機会費用が実際にどのようなものであったかを決定するのは困難である。しかし1944年末の時点で、経済崩壊の縁で動揺するシステムの中、生産という強力な制限(?iron rules of production)によって選択肢は狭められ、国防軍自身がジレンマに陥っていたのである(between rock and a hard place)。


高いコストと満たされない期待(the high costs of unfulfilled expectations)

 第二次世界大戦が始まった時、ドイツ空軍の政治的・軍事的指導者は高射砲部隊に大きな期待を抱いていた。第1次世界大戦の最後の1年間での高射砲の能力と、大戦間での技術的進歩、そして1930年代後半での急速な高射砲部隊の成長から、第二次世界大戦勃発時には高射砲部隊は精鋭部隊となっていた。高射砲部隊の成長と精鋭部隊としての意識は、共にヒトラーの高射砲に対する熱烈な支援と、高射砲部隊こそがドイツ空軍の防空の主要な要素であるという確信によるものが大きい。戦争の最初の数ヶ月間の高射砲と戦闘機による防御は、ドイツ空軍の防空の構想を立証することとなり、これによってRAFとフランス軍の航空隊がヨーロッパ上空を昼間に飛行することは不可能となった。しかし爆撃機軍団が夜間空襲へと手法を変更したことにより、戦争初期の段階でドイツ空軍に夜間戦闘を効果的に遂行可能な戦闘機部隊が存在していなかった事が判明し、ドイツの防空部隊にとってありがたいようなありがたくないような(mixed blessing)結果を生んだ。それに加えて夜間における高射砲中隊の射撃能力もかなり悪く、これは戦争の1年目を通して変わらなかった。そして高射砲部隊が技術開発と戦術研究を行うだけの充分な時間を得て、1941年の終わりに高射砲中隊の能力が大幅に上昇させることが可能であったのは、実は1939年から40年におけるRAFの爆撃部隊の規模が単に小さかった為だけであった。
 1942年1月から1943年7月までの期間、高射砲部隊は順調にその能力を伸ばし、有能な部隊となっていたものの、規模を3倍に拡大した事から問題が発生し、人材危機の兆候が現れ始めていた。戦争のこの時点において、ドイツ空軍が高射砲部隊を防空の主力として依存していたことは、もしもこれが原因で強力な戦闘機部隊が得られなくなったとすれば、高い代償であった。そして拡張される爆撃機軍団と、イギリスに続々と到着するアメリカ軍爆撃機、そして受動的、能動的な電子妨害装置の使用などによって、1943年の夏にドイツ空軍の高射砲部隊は殆ど致命的な一撃を受ける事になるのである。1943年後半での高射砲の急激な能力の低下によって、ドイツ空軍の指導者の間の高射砲部隊への信頼が大きく失われた。Milchはこの高射砲の能力の低下を、彼が地上防空部隊の効果に関して長い間抱いて来た懐疑を正当化するものであると見た。同様にゲーリングは、それまでの高射砲部隊に対して示していた支持を突然に翻し、航空部隊の指揮官達との長ったらしい会議の間に高射砲に対しての非難や落胆を表明する事が多くなっていった。1943年の10月には、高射砲部隊の先任大将(senior general)ですら自身の指揮下にある部隊の効果に疑問を抱くようになってしまった。1943年末でのドイツ空軍の指導者のこうした言動は、それまでの高い期待の裏返しであり、期待が満たされなかった事ですっかり落胆していたのである。
 高射砲の戦果が最低であった1943年後半でも、ヒトラーだけはドイツ空軍の高射砲部隊に揺るぎない支援を与え続けていた。1944年夏にアメリカ軍が昼間戦闘機を投入してベルリンへ往復する爆撃機の護衛が可能となり、そしてドイツ空軍が効果的な対電子妨害手法を導入したことは、結果的に総統の信念の正しさが示されたようなものであった。アメリカ軍の戦闘機がヨーロッパ上空からドイツ軍戦闘機を次第に掃討してゆき、更にドイツの燃料事情が悪くなると、高射砲部隊にかかる防空の負担は戦争の第1年目時のように大きくなっていった。しかし1944年の中頃には、イギリス軍とアメリカ軍の空襲は、1940年時点と変化のない(?as late as 1940)ドイツ空軍の指導者達の想像を絶する規模にまで拡大していた。天候条件が良く高射砲部隊を集中した場合には攻撃部隊に大きな損害を与える事もまだ可能ではあったが、しかし高射砲部隊だけでは強力なイギリス軍とアメリカ軍の無敵航空部隊や、東部戦線と西部戦線からドイツの包囲の鉄輪を絞め続ける連合軍地上部隊を、押し返す事は不可能であった。


成功の指標(measures of success)

 高射砲部隊へのドイツ帝国の政治的、軍事的指導者の期待を満たすことを阻んだ最も大きな要因の1つは、ドイツ空軍の地上防空の戦果を決定する為に使用された、標準に関するものであった。戦争が始まった時、ドイツ空軍は高射砲部隊の戦果の評価を、主に航空機の撃墜数に置いていた。戦果を量るには明確で定量化可能な標準ではあったが、ドイツの防衛に対する地上防空部隊の全体的な貢献の度合を量る定規としては、撃墜数は不適切な指標であった。それに対して高射砲の効果を判別する最も適切な手法は、爆撃機が意図した目標の攻撃の精度を悪化させる、地上防空としての能力である。しかしこの標準は、より曖昧であり、無数の変数や二次的効果(?second order effects)を考慮しなければならない。しかしMilchやvon Axthelmといった人達にとって全体での効果はどうでも良く、撃墜数こそが第一であった。戦争を通して、この鉄の標準は地上防空の成果を覆い隠し、またこうした人達や、他の高射砲部隊の戦果に関係するドイツ空軍の指導者達の意見を形作っていったのである。


地上防空:最後の評価

 第2次世界大戦前のドイツ空軍のドクトリンでは、高射砲と戦闘機はいずれも調整された防空ネットワークに必須な要素として認識されていた。しかしこうしたドクトリンが存在していたにもかかわらず、戦争が開始されると、高射砲部隊はドイツ空軍の本土防空の主要兵器(primary instrument, Haupttrager)とされた。多くの航空戦体験者や戦後の歴史家が、ドイツ上空の制空権における戦いの転機であった1941年に、ドイツ空軍が戦闘機部隊の規模を拡大しなかった事が失敗であったと認識するのも無理はない。振り返ってみると、他の事情が同じならば(ceteris paribus)、1941年に戦闘機生産とパイロットの訓練を拡大していたならば、その後数年のドイツ空軍の状況が良くなっていたことは確かである。しかしドイツ空軍は、そうではなく地上防空に依存する方を選択してしまった。戦争の最後の2年間に連合軍の空からの攻勢が強化されるようになると、高射砲部隊はドイツ空軍の指導者の高い期待に応えられなくなって行く。しかし歴史の記録から、高射砲部隊はその能力を遥かに超える高い期待に応じられなかったことで、批判されている事がわかる。そして戦闘機部隊の利点のみに目を奪われ、高射砲部隊の、多くの隠れた、そして定量化の難しい効果を考慮しない文章が書かれてきた。更に、高射砲中隊だけに注目する傾向によって、ドイツ空軍の地上防空のその他の要素の持つ、多くの重要な貢献を覆い隠してしまった。結果的にヒトラーの立てた、全てのドイツの町や村を高射砲中隊で防御するという未来像も、千年帝国の樹立と同様に不合理なものであることが判明した。ドイツ空軍の地上防空も、自分達だけでは空からのドイツの破壊を防ぐ事は不可能であった。しかしこの失敗によって、1939年から1945年の間の地上防空によってなされた大きな貢献を消してしまうべきではない。1939年から1945年の間の出来事は、航空戦は地上防空だけでは勝利できるものではないことを、そしてそれと同時に、地上防空が無ければドイツの都市や工場は爆撃であっという間に廃墟となっていたということを明確に示しているのである。結果的に、高射砲部隊はドイツの運命を変える事も、ドイツの都市や工業を破壊から守る事も出来なかった。しかしドイツ空軍の地上防空に対する今の評価が、低過ぎる事も確かなのである。





以上



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