Sperry社の指揮装置






このページは、以下の論文を和訳したものです。
This page is translation of the documentation listed under.

Anti-Aircraft Fire Control and the Development of Integrated Svstems at Sperry, 1925-1940
Writed by: David A. Mindell







電子時代の幕開けと共に、新しいタイプのコントロールシステムが出てきた。遠隔装置間のデータの転送を可能にしたことによって、フィードバックシステムだけではなく、各階層において人間もコントロールループに近くなっていった。ところで、フィードバックと安定性の理論は工業的に現実的なものになってきた1930年代、遠隔ならびに自動操作技術の型は、中央情報集中プロセッサーによる分配式コントロールシステムを作り上げた。この2つの技術の標準、コントロール理論とコントロールシステムは、第二次世界大戦とその後に、大規模な統合システムを生み出すことになる。

Elmer Ambrose Sperry(1860-1930)と彼の作った会社であるスペリージャイロスコープ社は1910年から40年にかけてコントロールシステムの技術をリードした。スペリーと彼の技術者達は現在の指揮管理システムの基となった分配式データ通信システムを作った。スペリーの火器管制システムは調整器や安定装置以上のものであり、分配センサー、データ通信器、中央集中プロセッサー、そして機械的に成される出力とから構成される。

この論文では、スペリーが大戦間にどのように対空火器管制装置と関わって行ったか、そしてコントロール理論が一般的になる以前に、工業界がコントロールシステムをどのように捉えていたかについて書いていきたい。1930年代、火器管制の仕事はより自動化し、スペリー社の技術者は徐々に人間のオペレーターを自動化していった。フィードバック、ヒューマンインターフェイス、そしてシステムインテグレーションは、この時期、火器管制の技術者に対して、挑戦状を叩きつけた。1930年の終わりには、来るべき戦争の要求に応じる技術を作り上げる過程で国が混乱してしまい、こういった問題は特に重要となった。


対空火器管制:

第一次世界大戦以前、船の設計、大砲、そして装甲の発展に伴って、艦艇での火器管制の改良が必要となってきた。1920年までに、同様な力は航空機においても働いた。戦時中の経験と戦後の爆撃機開発は対空火器に対して高性能の火器管制システムの必要性を増大させた。空中を飛ぶ飛行機を撃つには、基本的に目標への見越角を取らなければならないという問題がある。航空機開発が20年のうちに急速に進み、飛行速度も飛行高度も大きくなった為に、人間による反応や計算では対応することが出来なくなってしまった。高射砲の火器管制は、人間のオペレーターが本来の能力以上の仕事を実行する為の、技術的補助の一つの手法である。
第一次世界大戦の間、対空火器管制システムは幾つかの準備段階が進行していた。海軍のコンサルタント局(Naval Consulting Board)の航空委員会の議長だったエルマースペリーは、この航空委員会で2つの機器を開発していた。一つはgoniometerという測距儀と、preilemeterという火器管制装置もしくは計算機である。しかしどちらとも実戦では広く使われる事は無かった。
1918年に第一次世界大戦が終了すると、陸軍は5年から7年の間、事実上対空火器管制に関して一切の開発を中止する。しかし1920年の中頃になってから、陸軍は対空兵器の為の、ステレオスコープや高度測定器、探照灯や聴音機などの独立した器材の開発を開始する。スペリー社は探照灯と聴音機でこれに関係していた。同じ頃、フィラデルフィアのフランクフォード工廠にいたトーマスウィルソン少佐は、海軍造兵廠(gunnery)で開発されていた指揮射撃に関するシステムを大まかな土台にした、火器管制データの為の中央計算機の開発を始めた。ウィルソンの計算機は、センサー機器からデータを入力し、それを基にして目標の未来位置を計算し、計算した射撃情報を火砲に送るという、初期の火器管制計算機に似たものだった。


統合とデータの転送:

それまでは、高射砲陣地はそれぞれ独立しており、電話線で繋がっているだけであった。技師長で後にスペリー社の社長になったプレストンRバセットは振り返る。「(高射砲陣地の)構成要素がそれ自身で満足の行く機能を持つのと同時に、それらの要素に対して確実に情報を伝達しなければならないという問題が、最重要項目になっていた」。戦略や地形を考慮するために、火器管制システムの要素同士が数百フィートも離れてしまう場合が良くある。観測者が電話で観測データを指揮官に連絡し、指揮官が手動で中央計算機に入力し、さらに計算結果を読み取って高射砲へと電話で伝えるという従来の連絡システムでは、時間遅延と共に人的エラーの機会をも含むことになってしまう。その為に要素は密に統合され、そしてそういったデータのやりとりは自動化される必要があるのである。

1920年代、スペリー社はデータ通信の分野での製品においてリードしていた。その経験は、エルマースペリーの最大の成功発明である、艦船用の羅針儀ジャイロから来ている。スペリー社のジャイロの注目すべきところは、中央のジャイロの方向データを艦船のあちこちに配置された子機(repeater)に転送する機能があったことである。この子機は基本的に追従サーボ(follow-up servo)で、他のジャイロ接続して、ジャイロの動きに妨害を受けることなく同調している。このデータ通信装置は、独自の火器管制問題で安定した方向参照機能とデータ通信システムを必要としていた海軍の興味を引くことになる。1916年にスペリー社は海軍向けの火器管制システムを作ったが、このシステムは自動計算に対しては配慮が払われなかったものの、洗練されたデータ分配システムであった。1920年までにスペリー社はこのシステムを何隻かの米海軍の戦艦に搭載した。
スペリー社の海軍での火器管制システムでの経験から、エルマースペリーの初期製品であるgoniometerやpretelemeterと同様に、陸軍も対空火器管制システムでのデータ通信についてスペリー社に援助を求めた。エルマースペリーにとってそれは簡単な問題のように見えた。計算機は海軍のそれと似ていたが、物理的なプラットフォームは海の上の艦船のものとは違い、陸上に固定されている。スペリー社の技術者は1925年にフランクフォード工廠のウィルソンの許を訪ね、またエルマースペリーも手紙で作業状況を確認しつつ、この問題への興味を一層引き立てていった。エルマースペリーは海軍の問題において、少し前に開発した爆撃照準器と同様に、スペリー社のそういった分野での経験を強調した。「提案の一方の端から仕事を始める」のだと。爆撃照準器は風速や対地速度、空中速度、弾道といった多くのパラメータを盛り込まなければならないので、高射砲指揮装置は幾つかの計算手法において、爆撃照準器と相互関係にあるのである。実際、対空火器管制機器が完全にその機能を発揮するには、攻撃してくる爆撃機が直線コースの一定高度で編隊を組んで飛行してこなければならないし、逆に爆撃照準器が完全に機能を発揮するにも同様なのである(訳者注:つまりは爆撃を成功させるためには直線コース、一定高度で編隊を組んで飛行しなければならないのだから、それを迎え撃つ対空火器管制機器側は、目標が直線コース、一定高度で編隊を組んで飛行してくるものに限定しても構わないという思想かと思われる)。エルマースペリーの興味は暖かく受け止められ、1925年と26年とにスペリー社は陸軍の指揮装置向けの2つのデータ通信システムを作った。
フランクフォード工廠で作られた初めての指揮装置は、T-1、もしくはウィルソンの指揮装置と呼ばれるものである。陸軍は英国で製作されたビッカーズ社の指揮装置を購入していたが、自国でも生産可能なようにウィルソンにも設計させたのである。スペリー社の2つのデータ転送プロジェクトは、ウィルソンとビッカーズ社の指揮装置の両方共に自動通信機能を付加した(ビッカーズのものは、結局スペリーシステムを製品内に内臓することになった)。ウィルソンが1927年に亡くなると、スペリー社はウィルソンとビッカーズのシステムの良い所取りをした指揮装置の製造契約を結び、フランクフォード工廠から指揮装置開発の全てを引き継いだ。
1927年から35年にかけて、スペリー社は対空システムにおいて、規模こそ小さいものの徹底的な開発プログラムを実行した。スペリー社は内部技術を保証するために、殆どは評価という名目で、実際の生産コストにしかならなかったが、陸軍に対して少量の指揮装置を販売しつづけた。この時期、10種類近いモデルが開発されたが、それぞれのモデルの生産数は12台を超えることはなく、平均は5台にとどまった。スペリー社は、陸軍の承諾の許、特にロシアといった外国政府への販売によって開発コストをまかなうことも行った。


T-6指揮装置:

ウィルソンの指揮装置をスペリー社で改良したバージョンは、T-4として開発された。このモデルは、空気密度、スーパーエレベーション(弾が重力の関係上放物線に近い形を描くので、少し上向きに取る必要のある角度のこと)、そして風速による補正を行う事ができた。1928年の秋にフランクフォード工廠でテストが行われ、指揮装置の機構内での反動(?backlash)と信頼性に問題があることが判った。しかし陸軍はT-4に見込みがあるものとして、テスト後にスペリー社に返還して改良させた。スペリー社は生産性を向上させるための機構の単純化や、オペレーターを2人減少させる改良を行い、信頼性を向上させた。1930年、スペリー社は改良したT-6を陸軍に戻し、テストも良好に終わった。1931年の終わりまでに陸軍は12セットを発注し、T-6は陸軍によってM-2指揮装置として制式化されたのである。
T-6は生産される初めての高射指揮装置であると共に陸軍にとっても初めて公式に調達するものであったので、その操作を詳細に至るまで検査するように指導された。1930年の技術覚書で、T-6の計算原理と、システムがどのように方程式を解いていくのかが説明されている。この覚書には著者の名が書かれていないが、恐らくスペリー社の火器管制システムの技術者であったEarl W. Chafeeによって書かれたものかと思われる。この指揮装置は複雑な機械式アナログ計算機で、3基の3インチ高射砲と、高度測定器とでシステムが組まれていた(図1参照)。スペリー社の海軍向け火器管制システムと同じように、機器同士の接続はデータ接続であり、艦艇でのジャイロコンパスと甲板上の子機とを接続するものと似たものであった。
指揮装置には3つの主要入力項目がある。目標高度はステレオ式測距儀から入力する。この測距儀の基線は12フィートで、1人のオペレーターが2つの画像を一致させることによって距離を測る。この時の仰角か、もしくは目標までの直線距離から、目標の高度を計算する。2人の追加オペレーターが別の双眼鏡で目標を追尾し、2人のうちのの1人が方位角を、もう1人が仰角を操作する(この2つの双眼鏡は測距儀に固定されれいる)。それぞれの観測装置にはそれぞれデータ通信装置が付属しており、角度や距離を測定して計算機へと転送する。計算機はこれらのデータを受け取り、風速、風向き、砲弾の初速、空気密度、その他の要素を手動で入力、調整してゆく。そして計算機は方向角、仰角、そして信管設定の3つのデータを計算し、出力する。信管測合データは、発射後何秒で爆発させるかかというもので、弾を装填する前に手動で設定される(目標の予想未来位置に近い場所になるように設定する)。弾は直接目標に当てるのではなく、むしろ近くで爆発させ、飛び散った破片でもって目標を破壊するのである。
指揮装置は2つの大きな計算を行う。一つは目標の未来位置予測であり、目標の動きをモデル化して目標が一定の速度、コース、高度で飛行するという仮定のもとで、ある時間における未来位置を推定するのである。未来位置予測は目標への見越角(?leading)と一致する。もう一つが弾道計算であり、ある時間にある空間内へ砲弾を飛ばして破裂させる為に必要な方位角、仰角、そして信管測合時間を計算して出力する。この計算は、それまで砲兵によって行われていた射表(fireing table)からデータを読み取り、それに従って砲のパラメーターを設定していたことと同じことである。弾道計算の方が未来位置計算よりも単純なので、まずこれから見てゆきたい。

T-6射撃装置は弾道の計算問題を、”機械式射表”を使った伝統的方法によって直接に機械的に解く。伝統的な射表は、紙の上に与えられた目標の角度高さや水平距離に対する答えと、幾つもの他の変数とが印刷されている。T-6では、この射表の代わりに「スペリー式弾道カム」を用いている。三次元的に加工された円錐型の機械である弾道カム、もしくは「追従ピン(pin follower)」によって予め解かれている値を求めるのである。2つの独立した変数がカムの回転角とカムの表面に当てられた追従ピンの縦位置(longitudial position)によって入力される。カムの形状や回転角によってピンが上下し、このピンの高さが2つの変数での弾道計算の計算結果(もしくは結果の一部)となるのである。T-6指揮装置は8個の弾道カムを内蔵し、それぞれのカムは、スーパーエレベーションや飛行時間、風修正、初速、空気密度修正が異なった場合の計算を解くようになっている。弾道カムは、本質的には機械式計算機における保存されたデータを表現している。後に指揮装置を別の型の高射砲に対応させる際には、別の射表によって加工された新しい弾道カムに交換するだけで良かった。この弾道カムは、スペリー社の機械式計算機テクノロジーの中心的なものであった。しかし弾道カムの加工の難しさは、操作しやすかったスペリー式指揮装置の生産を制限する大きな要因となってしまった。
T-6指揮装置のもう一つの計算機能である未来位置予測も同様に革新的であった。目標のデータは局座標系(方位角、仰角、距離)で入力されるものの、一般的に目標は一定の弾道(仮定であるが)、つまり直行座標系でいうところの直線、同一高度で飛行している。つまり、未来位置を計算するには局座標系で行うよりも直交座標系で計算するほうが簡単なのである。その為、スペリー式指揮装置では目標の動きを水平平面に投影し、位置の移動分から速度を割り出し、修正した時間に速度を掛けて未来位置を求め、そして答えをまた局座標系に戻して出力する。この方式は「平面予測手法(plan prediction method)」と呼ばれるが、これはデータを平らな平面上に映像として落とし込むためであり、第二次世界大戦を通じて共通に使われた。平面予測手法は、計算機内に小さなスケールで目標の実際の動きを表現し、これらの要素の動きから直接に必要な角度や速度を割り出すというものである。
弾道計算も未来位置計算も、共にフィードバックループをなしている。目標の追尾を開始した時に、オペレーターが概算の弾の飛行時間を入力する。未来位置計算機はこの概算時間を初期計算に使用し、この結果を利用して弾道計算ステージに入る。弾道計算の結果出力される値は弾の飛行時間の概算に反映され、初期概算値をより良くするのである。「補正と再補正のサイクルが累積する事によって、計算される目標の未来位置が、実際の弾の飛行時間で示される場所に近づいて行くのである。」
T-6は一辺が4フィートの正方形をしており、台の上に載って回転できるようになっている。3人のオペレーターは椅子に座り、他の1人か2人は機械に取り付けられたステップに立ち、方位角方向に目標を追尾して装置を旋回させる。残りのオペレーターは地上に固定された台上に立つが、彼らは機器の回転と共に動かなければならなかった。しかしどんな対空戦闘においても旋回する角度は小さいので、これは恐らく問題にはならない。指揮装置の台はトレーラーに設置されているが、このトレーラーはデータ通信用のケーブルや測距儀を搭載できるようになっていた。
T-6は、仰角、方位角、高度(もしくは高度)というたった3つの情報の入力しかしないように見えるが、9人のオペレーターが必要である。これは測距儀や高射砲そのものに関わる人員とは別で、指揮装置の操作だけで9人が必要となるのである。とこでこの9人は一体何をするのであろうか。


人間による追従メカニズム

指揮装置の設計者にとって、オペレーターの機能は「手動サーボ機構」である。指揮装置に求められた一つの仕様として、「人的要素を極小にする」というものがある。スペリー社はこう説明している。「全ての操作は機械的で、可能な限りフールプルーフ(失敗しても安全なように設計する事)でなければならない。将来有りうる急速な動員という状態においても、訓練できるようにしなければならない」。第一次世界大戦の教訓は、この文章のような警鐘を鳴らした。例え孤立主義に立っていても、国家は大恐慌に見舞われてしまい、国家の非常時での大量動員とその訓練の困難さを設計者は理解していた。設計者は、システムは最小の訓練での高い人的適合性を考慮すべきと考えるだけでなく、戦闘下での強いストレスの中でさえオペレーターが作業をこなす事が可能かどうかも考慮しているのである。このために、殆ど全てのオペレーターの作業が「メーターの指針を合わせる」というものになっている。それぞれのオペレーターは、あるパラメーターの値の、一つは実際の値、もう一つは目標値を表している2つの指針から構成される機器に集中し、ハンドクランクを回して2つの指針が合うように調整するのである。
それにしても、このメーターを合わせるという作業を行うのに、これ程多くの人間をT-6が必要としているのか、興味が尽きないところである。外部の測距儀から計算機にデータが送られると、メーターの指針上に表示されるのでオペレーターはこの指針を合わせることにより、データを計算機に入力してやらなければならない。計算機は速度をはっきりとは計算できない。XとYを担当している2人のオペレーターが、自分達のメーターの指針が一定速度で回転するモーターに合うまで可変速度駆動器(drive)を調整する(駆動器を調整すると、それが速度と等しくなる)。未来位置予測計算が終了すると、オペレーターは結果を弾道計算機構に入力しなければならない。そしてついに、全ての計算サイクルが終了し、他のオペレーターは方位角と仰角を砲のオペレーターに通信する為に指針を合わせ、砲のオペレーターは送られたデータを表示した指針を合わせるように砲を動かすのである。
図3はT-6指揮装置のまわりのオペレーターの配員を示したものであるが、現在からみると何とも滑稽である。この操作形態はおかしく見えるが、これはスペリー社の技術者のコンセプトにおける、自動システムでの人間の役割が何か、ということを表しているのである。無数の「指針を合わせる」という操作は、電話によるデータ通信よりも明らかに望ましい。その意味では、このシステムは自動化されているといえる。スペリーの考えていたフィードバックは現在広く行われているものとはかなり違うにも関わらず、オペレーターは文字通りシステムを動かすフィードバックの役割をなしている。
「計算サイクルにおいて独立した要素から結果が得られる多くのケースでは、これらの結果をもう一度計算サイクルに戻すか、もしくは通信する必要がある。」
スペリーの記述は、このような操作を自動的に行うことの可能性を認めてはいるが、しかしそれがより望まれるオプションであることにまでは行き着かなかった。
「機械的手法が採用されれば、サーボモーターのようなものを使う必要があり、また電気式サーボモーターは計算機へデータを”フィードバック”するという限られた範囲で使われるだろう。
多くのケースで、サーボメーターとして作業を行う以外に機能を持たないオペレーターに頼る事が、より簡単であることが判明している。この操作は厳格な従軍中の作業状況下(under rigorous active service conditions)においても、オペレーターによって機械的に行う事が可能だ。」
人間のオペレーターは独立した要素を繋いでシステムへと統合する役割を担っている。ある意味では、人はインピーダンス(交流での電圧と電流の比)の増幅器であり、よって同じ時代の他の機械式計算機では、特にVannevar Bushの差分分析器(differential analyzer)のサーボ機構と極めて似ている。
「手動サーボメカニズム」という手法は、サーボメカニズムは自動であるという定義から考慮すると、明らかに自己矛盾している。まさしくその手法の使用は、結局は手動手法に取って代わるはずである自動化技術の存在を説明している。T-6においては、この手動から自動への移行が行われつつあったといえるだろう。T-6は9名のオペレーターを必要としたが、これは既に前の世代の機種であるT-4から2名も少なくなっている。仰角データをフィードバックさせる要員と、信管測合手の作業をサーボ化したのである。その上、この初期の機種(T-4)では、方程式の一つの変数を1人が担当しており、計算機が必要とするオペレーターは計算機の行う計算でのデータフローそのままだったのである。つまりT-6指揮装置を操作する要員は、計算機内部で組まれたアルゴリズムを正確に反映したものとなっていたのである。
ではT-6への改良の際に何故2つの変数しか自動化できなかったのか?
スペリー社の内部文章で人力によるフォローアップ作業について書かれている部分を見ても、辛うじて自動サーボについて説明しているだけであり、それですら電動ギアが使われていない場合に手動フォローアップのオプションが提供されるとあるだけである。
この部分的な、殆どためらわれたといっていい中途半端な自動化は、スペリー社が説明しようとしたよりも多くの、手動サーボモーターに関することを示している。「オペレーターの義務は純粋に機械的なものであり、高い技術や判断力をオペレーターに要求としない」とスペリー社がやたらと押し付けるように、例え不連続だとしても、今まで通りに人間は何らかの判定の実行を要求されているのみである。データにはノイズが含まれており、そして技能の低い人でも、誤ったり壊れたデータによって引き起こされる混乱を防ぐ事が可能である。ノイズを含んだデータは計算を誤らせてしまう以上の結果をもたらしてしまう。計算機の機構はデリケートで、特に物理的にありえない状態を示すような誤った入力データによって機械内部の機構が動かなくなったり、壊れてしまう可能性があるのである。オペレーターは、異なる要素をシステムに統合すると共に、また数学的な意味でノイズを低減させるローパスフィルターの役割をすることで、数学的な意味においてもシステムに統合するという、統合者的役割をになっているのである。


その後のスペリー社の指揮装置:

エルマースペリーが亡くなった1930年には、スペリー社の技術者達は新しい指揮装置であるT-8の設計を行っていた。この指揮装置はそれまでのものよりも軽く、そして運搬しやすく、かつ安くして、「非常時に十分な数を調達可能なように」した。会社の開発方針としては、まだ戦時での非熟練者でも操作可能なものという方向であり、オペレーターの役割はシステムの統合であった。オペレーターは装置間のリンク機構であり、それによって機械式もしくは電気式サーボモーターの使用によって引き起こされる機械的混乱を回避する事を可能にしていた。一方、T-6による陸軍の実用試験結果からサーボモーターはオペレーターの数を減らし信頼性を向上させる手段でることが判明していたので、T-8での要求仕様は電気式追従モーターを使用してオペレーターの数を極限まで少なくする事が盛り込まれた。こうしてT-8でも引き続き火器管制の自動化のプロセスが進行し、オペレーターの数も4名にまで減少した。2名が双眼鏡で目標を追尾し、そして残り2名が指針の追従作業を要求される事になった(2つの加速度)。その他の指針の追従作業は、追従を中止させる磁気ブレーキ(この磁気ブレーキは安定性の問題から初期のモデルでは使用が躊躇われていた。磁気クラッチのこと?)を使った追従式サーボによって置き換えられた。T-8の幾つかの試作品が作られ、1934年に陸軍によってM3として制式化された。
1930年代の後半を通じて、スペリー社と陸軍は指揮装置システムを改良してゆき、M3として纏め上げていった。M3の改良モデルでは、目標の速度の指針追従をボール&ディスク式積分器による速度追従装置に置き換えることによって、更なる自動化を進めていった。1939年に制式化されたM4シリーズはM3と似ていたが、降下する目標にも対応できるように、定高度という仮定を捨てて高度要素が追加された。1941年に制式化されたM7は基本的にはM4と似ていたが、高射砲の旋回と俯角における自動駆動機能が追加された。このような後期のシステムでは、信管測合手や装填手の技能の差によって変化する信管測合や装填にかかる時間という最大の不確実性をも克服したのである。しかし自動信管測合装置や自動装填装置は、その信頼性の問題から状況を改善するまでには至らなかった。またM7では、ラジオロケーター装置で観測した高度情報を入力することも可能となり、後にレーダーによる目標の測定へと発展していった。第二次世界大戦開戦時にはM7が陸軍の主力対空指揮装置だった。
スペリー社の15年間の製品の中ではM7が最も進化し、統合され、信頼性が最適化され、操作と保守が簡単だった。機械式計算機としてはM7はエレガントであり、複雑だとしても、装置の重量は850ポンドで、11000の部品で構成されていた。M7の設計は、高精度な機構、特に弾道カムの製造における、スペリー社の技術の高さをあてこんで設計されていた。しかし第二次世界大戦にアメリカが参戦した当時には、こうした高い生産能力を持つ会社は稀で、大量生産は難航した。M7の生産はスペリー社と、副契約社としてフォードモーター社の2社が行ったが生産数は伸びず、1942年になるまでペアを組む90mm高射砲の生産数に追いつかなかった。そこで陸軍は不足を補う為にイギリスのケリソン(Kerrison)指揮装置、もしくはM5と呼ばれるシステムも採用した。これはM7よりも計算精度は落ちるが製造は簡単だった。スペリー社は1940年にこのM5を大量生産向けに再設計したが、1941年に製造責任をシンガースィング機械社とデルコ社とに委譲した。1943年までにベル研究所によって開発された電気計算機によるM9指揮装置がM7に取って代わり、M7は製造を中止した。(ウエスタンエレクトリック社とベル研究所の砲戦指揮装置は、この論文のシリーズの別の項目で取り扱う予定である)


結論:システムの統合における人間の存在:

ここで調査したスペリー社の指揮装置は、過渡期の実験的なシステムである。しかし、実際にそうした理由から、正に自動化のプロセスが進行中であるところの、人間のオペレーターをサーボメカニズムへと置き換えて行く過程を調査する事ができ、それによって自動化のプロセスの内実を見ることができるたのである。データ通信においてスペリー社は熟練していたので、サブシステム間でのデータ通信の自動化においては、徐々に満足の行くものになっていくだけだった。スペリー社は機械のオペレーターに対して低い技能しか要求されないようにした事について(言い過ぎかもしれないが)自慢できるだろうが、しかし1930年になるとプロセスから人力を完全に削除することが難しくなった。人間はシステムを一つにまとめる接着剤の役割を果たしていた。
製品としては、スペリー社の高射砲指揮装置は部分的にしか成功しなかった。15年間に及ぶ開発によって生産した機械は、国家の非常時に負わされる、性能と生産のバランスを上手く取れなかったのだ。それにも関わらず、我々は技術開発プログラムを判定するのに、生産された製品だけによることなく、築き上げられた知識や、その知識が将来の進化にどのように寄与するかも考慮しなければならない。スペリー社の1930年代の対空指揮装置は、遠隔間のコントロールシステムの初期の例であり、当然にその技術はレーダーとデジタル計算機とが開発される次の10年間にとって極めて重要なものになった。後に更に複雑なシステムを作りる際に、ベル研究所やMIT等の技術者達は、フィードバックやコントロール、そして技術システムにおける人間の可能性に関する議論といった技術的困難と格闘しながら、スペリー社の経験の上に結合させ、作り上げていったのである。






ここから以下のページへいけます。