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2006.11.15 新規作成
2021.8.26 全面リニューアル
 都市開発等で消滅してしまったり、場所が辺鄙で探索できない高射砲陣地や機銃陣地、照空陣地について、ここでまとめてみました。



向洋 高射砲陣地
海田市 高射砲陣地
観音 高射砲陣地
東雲 高射砲陣地?
船舶砲兵教導隊
打越 高射砲陣地
新庄 高射砲陣地?
弁天島(大カクマ島) 機銃陣地?
吉島飛行場 機銃陣地?

宇品北 照空陣地
船越 照空陣地
矢野 照空陣地
向洋 高射砲陣地



原爆投下前後の航空写真(左:国会図書館、USBだが番号不明、
            右:国土地理院、5M223-24N(5M223-9244))


 現在は光洋台団地となり、山ごと消滅している。
4基の砲座と複数の建物、そして砲座の北に機銃座
らしきものが4基見える。

 資料[17]によると昭和19年6月までには築城されて
いたようであるが、機銃陣地が付属していること
から、元宇品や二葉山、観音と同じく昭和17年
から18年の比較的早い時期に築かれたのでは
ないかと思われる。
 また広島原爆戦災誌2巻[35]の青崎地区の部隊配備には、「向洋のあみだ山
に高射部隊(部隊不明)」とあるものの、それ以外の資料を総合的に判断すると、原爆投下時には高射砲部隊は配置されていなかったと思われる。

海田市 高射砲陣地



右:原爆投下直後の航空写真(国土地理院、5M223-22S(5M223-9223))


右:1945年4月13日の航空写真(国会図書館、USB-13 R304_1252-1297)
 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8821491
 「Damage reports on the city. Report No. 60h(8), USSBS Index Section 2」

 原爆投下直後の航空写真を見ると、瀬野川の南岸、明神町の辺りに砲座4基と砲座6基の2ヶ所の高射砲陣地が写っている。昭和20年4月13日に撮影された航空写真(下段右)では高射砲陣地はどちらも写っておらず、7月末に増援された部隊がこの場所に陣地を構築したことが分かる。また資料[29]と資料[30]の両方共、海田市に高射砲中隊が居た事が書かれていることから、終戦直前にここに高射砲中隊が配備されていたことは確かなようであるが、どちらも言及されているのは7p高射砲6門の1個中隊のみである。もう一方の4門編成の高射砲陣地だが、偽陣地ということも考えられないことは無いものの、大慌てて6個中隊の増援を行っている最中に、新たに別の偽陣地を構築しているような余裕があったとは思えない。ここでは、原爆投下時にまだ広島に入っていなかった部隊が市内に入れず、被害が少なくアクセスの容易なこの場所に仮の陣地を構築したか、もしくは暁部隊の高射砲部隊がここに陣地を作ったのではないかと推測してみる。
 
前頁の航空写真を拡大したもの、矢印に貨車が並んでいる

 また、原爆投下直後の航空写真を見ると、南側の6門編成の陣地の南の鉄道の引き込み線の上に、6両の貨車が写っている。一方、資料[26]と資料[28]によると、広島への増援部隊の中に、列車を利用した機動高射砲中隊である独立高射砲第57中隊が居ることから、この海田市の南側の6門編成の高射砲陣地には、この独立高射砲第57中隊が配備されていたのではないかと思われる。

観音 高射砲陣地



左:7月25日の航空写真(国土地理院、5M335-31S(5M335-9313))
        右:8月11日の航空写真(国土地理院、5M223-31S(5M223-9313))


左:7月25日の航空写真(国土地理院、5M335-31S(5M335-9313)
        右:8月11日の航空写真(国土地理院、5M223-31S(5M223-9313))
 原爆投下前後の航空写真を見ると、観音の広島県総合グラウンドの野球場と陸上競技場に高射砲陣地が写っている。野球場の方は4基の砲座と4基の銃座で構成されており、昭和20年7月25日の時点で既に存在しているが、陸上競技場の方は6基の砲座で構成されており、7月25日の時点には存在せず、8月11日の方にだけ存在している。

 野球場の方は、機銃陣地を併設していることから、向洋や二葉山、元宇品と同じく、昭和17年から18年にかけての比較的早い時期に構築されたのではないかと思われるのだが、資料[17]によれば昭和19年6月時点での広島の高射砲陣地は向宇品(元宇品)と江波公園(江波山)、二葉山、向洋の4ヶ所であり、8p高射砲を配備する際に観音から江波山に陣地転換がされたのかのかもしれない。

 陸上競技場の方は、7月25日から8月11日までの間に構築されたことから、7月末に増援が決定された部隊が原爆投下前に広島に入り、ここに陣地を構築したのではないかと思われる。資料[29]、そして資料[30]では、どちらも観音の部隊は7p高射砲6門編成であり、陸上競技場の陣地の砲座の数とも合っている。

 一方で、資料[41]によれば、船舶砲兵部隊(暁部隊)も観音グラウンドに居たとしている。船舶砲兵部隊が空になっていた野球場の陣地を利用していたのか、それとも別の形で駐留していたのかについては、今のところ判断ができない。
東雲 高射砲陣地?


右:7月25日の航空写真(国土地理院、5M335-53S(5M335-9533))


左:8月8日の航空写真(国土地理院、5M220-113E(5M220-1131))
        右:8月11日の航空写真(国土地理院、5M223-25N(5M223-9254))

 資料[28]と資料[29]、そして資料[30]では、終戦時に東雲付近に高射砲中隊が居たとしている。また資料[32]では、高射砲部隊なのか照空部隊なのか不明だが、関連した部隊が居た事がわかる。
 一方、資料[37]では、県立師範学校附属国民学校(現在の広島大学付属小・中学校)に高射砲部隊が校舎の1階を使用していたとあるものの、それは昭和20年6月頃からであり(広島への増援が決定したのは7月末である為、6月頃からだと早すぎる)、また別の箇所では、国民学校に駐留していたのは暁部隊の高射砲隊と書かれている。

 この食い違いだけでも頭が痛いのだが、困ったことに航空写真を色々と探してみても、東雲付近で明確な高射砲陣地が見当たらないのである。どうにか、8月11日の航空写真にそれらしいものが写っているのを見つけたのだが、割り出した寸法から見ると高射砲陣地としては小さく(円形窪地も内径が5m前後しかない)、更に原爆投下後の8月8日から8月11日までの3日間で工事が進んでいるのである。
 仮に、原爆投下後でも東雲は被害が少なかった為に陣地構築が継続されたと考えるのであれば、7月25日時点で何も無いことから、この航空写真の高射砲陣地は6月から県立師範学校附属国民学校に寄宿していた暁部隊ではなく、7月末に増援が決まった高射砲部隊の陣地であり、8月11日時点でも陣地は完成していなかったと考えることができるかもしれない。ただそれだと、国民学校の暁部隊の高射砲隊は何をしていたのかということになる。

 もう一つの仮定として、この航空写真が暁部隊の機銃陣地もしくは工事中の高射砲陣地であったとするならば、増援部隊の1個中隊が東雲に配備予定だったものの、原爆投下によって広島に入ることが出来ず、予定されていた東雲に陣地を構築できなかったと考えることができるかもしれない。

 更なる資料調査が必要である。


船舶砲兵教導隊 高射砲陣地?



原爆投下直後の航空写真(国土地理院、どちらも5M220-110E(5M220-1101))

 広島原爆戦災誌2巻[35]の宇品地区の部隊配備には、「大和繊維(株)内に陸軍砲兵教導連隊」とある。恐らくは船舶砲兵団の船舶砲兵教導隊の訓練用の陣地かと思われる。この陣地に備砲がされていたかどうかは不明である。

広島大学原爆放射線医科学研究所 原爆・被ばく関連資料データベース
   7-HG-131c.jpgを加工

打越 高射砲陣地


右:9月1日の航空写真(Japan Air Raids.org)、手前は安芸高等女学校


左:7月25日の航空写真(国土地理院、5M335-29N(5M335-9294))
        右:8月11日の航空写真(国土地理院、5M223-30N(5M223-9304))

 9月1日に低高度で撮影された米軍の航空写真を見ると、安芸高等女学校の敷地付近に4基の砲座と指揮所が見える。7月25日に撮影された航空写真には写っておらず、8月8日に撮影された航空写真に陣地が写っていることから、7月25日以降に高射砲陣地が構築されたことがわかる。

 資料[28]と資料[29]、そして資料[30]では、打越に高射砲中隊が配置されたと書かれている。また資料[29][30]では、7p高射砲4門とある。

 広島原爆戦災誌2巻資料[35]の三篠地区の部隊配備には「打越町の安芸女学校の南西に高射砲隊」とある。また同じく広島原爆戦災誌4巻の安芸高等女学校の記述[38]では、「運動場には高射砲隊がおり、高射砲6門を据えつけていた。もっともそのうち5門は木製で偽装用、他の1門は本物とはいえ旧式の練習用のものであった。」との記述がある。しかし9月1日の航空写真を見ると砲座は4基だけであり、また陣地も学校の横の畑に造られており、証言内容の精度が多少怪しくなっている。
しかし、「5門(?)は木製で偽装用」は、装備の輸送が遅れ兵員だけ先に広島に入って陣地を構築し、先に完成した砲座に高射砲が届くまで木製の偽装砲を仮設していた可能性も考えられ、また「他の1門は本物とはいえ旧式の練習用のものであった」という部分も38式野砲を使用した臨時高射砲が1門だけ練習用(?)に配置されていた可能性が考えられる。あながち間違ってはいないのかもしれない。


 9月1日に撮影された航空写真を見ると、手前にある安芸高等女学校の校舎は完全に崩壊しているのがわかる。また女学校の校庭に丸いテントが2棟張られているが、これは陸軍で用いられているテントと同じ形である。


 安芸高等女学校のあった場所は現在は太田川放水路となり跡形もない。
新庄 高射砲陣地?



右:原爆投下前の航空写真(国土地理院、5M335-26N(5M335-9264))

 高射砲第3師団や独立高射砲第22大隊等の高射砲部隊の記録には記述が無い。広島原爆戦災誌2巻[35]の三篠地区の部隊配備には、「新庄町に高射砲隊」とある。また個人の被爆体験記[43]には、広島師団111部隊(中国軍管区砲兵補充隊、旧野砲兵第5連隊)に所属の当時26歳のSさんが新庄町の高射砲陣地に派遣されたという記述がある。資料[1]、[2]によれば、日中戦争時に野砲兵第5連隊の補充隊が広島地区の防空を行う高射砲隊を臨時編成している。しかし昭和17年以降、7p高射砲以上の重高射砲は専門化された高射砲部隊が取り扱っており、高射砲専門部隊とは別系統で高射砲部隊が編制・配備される可能性は低いのではないかと思うものの、戦争末期であることを考えると無いとも言えない。また機銃陣地だった可能性もある。

 原爆投下前の航空写真を見ると、山本川と太田川放水路の合流点の北東の現在は団地になっている辺りに、不規則な配置の4基の砲座(赤矢印)と、4棟の建物が写っている。航空写真から寸法を計算すると、4基の砲座の内径は平均約6m。7p高射砲の砲座の内径は標準で7mなので誤差の範囲ではあるが、多少小さい。
弁天島(大カクマ島) 機銃陣地?



 広島市似島臨海少年自然の家のHPによると、似島の西方約2q沖に浮かぶ弁天島(大カクマ島)には、船舶司令部(暁部隊)の施設があり、海上挺進戦隊のマルレ艇の部隊が訓練を行っていたそうである。

 この弁天島だが、五日市辺りの漁師の戦時中の体験談かなにかに「カクマ島に高射砲が3、4門あったが撃ったのは見たことが無い」とあるので、何かあったのかもしれない。ただ釣り舟でしか渡れない為に未探索である。
吉島飛行場 機銃陣地?



原爆投下前後の航空写真(国土地理院、
 左:5M335-47S(5M335-9473)、右:5M220-110W(5M220-1102))


左:、原爆投下前後の航空写真(国土地理院、5M223-30S(5M223-9303))

 広島原爆戦災誌2巻[35]の吉島地区の部隊配備には「飛行場内に暁部隊航空隊」とある。また個人の被爆体験記[40]に「昭和20年1月に暁2953部隊(船舶砲兵第1連隊)に配属となり、吉島飛行場の警備へ移動、被爆時には機関砲の手入れをしていた」とある。
 航空写真を見ると、吉島飛行場の北西隅、北東隅、中央部付近にそれぞれ機銃陣地のようなものが写っている。
宇品北 照空陣地



左:7月25日の航空写真(国土地理院、5M335-50S(5M335-9503))


左:8月8日の航空写真(国土地理院、5M220-110W(5M220-1102))、
     右:8月11日の航空写真(国土地理院、5M223-28S(5M223-9283))

 資料[28]では皆実町の辺りに照空陣地マークが描かれている。一方で資料[30]では宇品橋の辺りに照空陣地が描かれている。そこで航空写真を調べてみたのだが、宇品西公園の北西付近に照空陣地らしきものが写っているのを見つけた。
 昭和20年7月25日の航空写真には何も写っていないのだが、8月8日の航空写真には2つの円形窪地らしいものが、また8月11日の航空写真には追加でもう1つの円形窪地が出来ている。原爆投下後にも工事が進んでいるということにもなるので、可能性としては多少の怪しさがある。仮に、ここが照空陣地であった場合、7月末の増援派遣後に新たに築かれた照空陣地であるということになる。
船越 照空陣地



原爆投下直後の航空写真(国土地理院、5M223-24N(5M223-24N))


1960年代の航空写真(国土地理院、MCG628-C16B-5)

 資料[28][30]で、船越付近に照空陣地のマークが描かれている。そこで航空写真を調べると、船越峠の西に延びる尾根上に、照空陣地が写っている。東の大きな円形地形が聴音機座で、西の小さな円形地形が照空灯座でないかと思われる。
 現在は山ごと削られてしまい、何も残っていない。

矢野 照空陣地



航空写真(国土地理院、5M223-22S(5M223-9223))

 資料[30]によると、細越岬の東側に照空陣地が描かれている。また資料[28]と資料[29]でも矢野付近に照空陣地が描かれている。航空写真を調べると、円形窪地が2ヶ所(赤矢印)と兵舎が3棟(黄色矢印)が写っている。

 矢野町史によると、昭和19年1月に矢野の狐ヶ城に高射砲台が造られたとある。

 現在は山ごと削られてしまい、跡形も無い。