広島市周辺の高射砲陣地
2006.11.13 大幅更新
2021.8.27 大幅更新(航空写真、変遷、その他)
2022.1.5 元宇品を更新
2022.3.6 元宇品を更新
はじめに

 広島市は古くから軍都として栄えており、比較的早くから高射砲が配備されていた。しかし昭和19年後半に米軍による空襲が本格化してからは、相対的な重要度が低下し、他の地域に部隊が転用されたため、在広の高射砲部隊が殆ど居なくなってしまった時期もあった。昭和20年7月後半になり、広島に対する米軍の偵察活動が活発化したことから慌てて増強が行われ、これまでで最大規模の高射砲部隊が広島に集結したものの、原爆と言う新兵器には手も足も出なかった。

 戦後、広島でも開発が進み、戦争中の痕跡が多く消えてしまったものの、山がちな地形が幸いし、現在でも幾つかの遺構が残っている。そうした遺構の探索記録や各種資料により、軍都広島の防空体制についてまとめてみたい。



目次

1.広島市周辺の高射砲・照空陣地


2.広島市周辺に配備された高射砲部隊と、その変遷
 (1)日中戦争期
 (2)対米開戦直前から昭和19年前半
 (3)本土空襲前期(昭和19年後半〜昭和20年5月頃)
 (4)本土空襲後期(昭和20年6月〜8月)
 (5)原爆投下時
 (6)暁部隊の高射砲部隊、その他の高射砲部隊



4.参考資料


1.広島市周辺の高射砲・照空陣地

図表1:広島市周辺の高射砲陣地・照空陣地
種別 地名
高射砲部隊 高射砲中隊:
 元宇品二葉山*向洋*観音江波山*海田市*打越
 *東雲
照空分隊:
 尾長山新山(浅野山)茶臼山田方(行者山)海老山
 江波*矢野金輪島観音崎似島*船越*宇品北

防空監視所:
 +似島 、弥山、西能美
暁部隊
(船舶砲兵)
 鯛尾似島*吉島飛行場*宇品(砲兵教導隊)
 *観音*東雲比治山+弁天島
その他  *新庄可部寺山
備考  *:完全消滅、+:未探索
2.広島市周辺に配備された高射砲部隊と、その変遷

(1)日中戦争期

 昭和13年5月末、中華民国軍のマーチン爆撃機が九州に侵入したことへの対処と思われるが、昭和13年11月30日に、広島、宇品付近の防衛を行う陣地高射砲部隊を、野砲兵第5連隊補充隊から仮編成する命令が出されている。この臨時防空部隊は1年後には解隊された。[1][2][3]
 臨時編成された陣地高射砲部隊の規模、装備、配置については不明である。



(2)対米開戦直前から昭和19年前半

 対米開戦が迫る昭和16年7月に、再び防空部隊の臨時招集が行われている。資料[4][5][8]で一致しない部分もあるが、おおよそ以下のような編成だったようである。

  広島防空隊
   長 広島防空隊司令官 陸軍中佐 五十嵐勝吉(29期)
     広島防空隊独立高射砲第1大隊(2個高射砲中隊、7p高射砲8門)
     広島防空隊独立照空第1大隊(2個照空中隊)
     独立高射砲第15中隊(7cm高射砲4門)
     独立高射砲第16中隊(7cm高射砲4門)
     広島防空隊防衛通信隊

 また資料[6][7]によると、広島防空隊独立高射砲第1大隊用として当初受領していた7p高射砲8門の内6門は固定式であり、速やかに全て移動式に交換される予定だったとある。


 そして昭和16年11月には、小倉防空隊や広島防空隊をまとめて西部防空旅団が設立され、広島防空隊はそのまま防空第25連隊となった。[9][10][11]

昭和16年12月時点:
西部防空旅団
 防空第25連隊(広島) 広島防空隊
  連隊本部
  高射砲4個中隊
  照空2個中隊
 更に昭和18年8月には、防空旅団が防空集団へと変更され、西部防空集団隷下となる。[14]


 広島市周辺の高射砲陣地と照空陣地の築城がいつ頃行われたかについては資料も記録も残っていないが、資料[13]によれば、昭和17年から18年頃に行われたようである。
 昭和18年頃の4個中隊分の高射砲陣地4ヶ所については、機銃陣地の有無から以下の4ヶ所、また2個中隊分の照空陣地12ヶ所については、遺構や航空写真から明確に確認できる11ヶ所+1ヶ所と推測する。

高射砲陣地:二葉山、向洋、元宇品、観音
照空陣地:海老山、行者山(田方)、茶臼山、新山(浅野山)、尾長山、
     船越、矢野、観音崎、金輪島、江波、宇品橋もしくは比治山?


 昭和19年6月には更なる組織改編が行われ、防空集団は高射砲集団に、また防空連隊は高射砲連隊へと名称を変更する。[16]

昭和19年6月時点:[17]
西部高射砲集団
 高射砲第135連隊 連隊本部:比治山
  第1中隊 7p高射砲 向宇品
  第2中隊 7p高射砲 江波公園
  第3中隊 7p高射砲 二葉山
  第4中隊 7p高射砲 向洋
  第5中隊 照空 五日市(海老山)
  第6中隊 照空 似島


 資料[17]では新たに江波公園が出てきているが、備砲は7p高射砲のままになっている。8p高射砲が配備された時点で江波に新たに陣地を築城したのではないかと見ているが、それを裏付ける資料はまだ出てきていない。
(3)本土空襲前期(昭和19年後半〜昭和20年5月頃)

 昭和19年6月16日。成都を飛び立ったB29により北九州が初めて空襲される。この際の戦訓により、北九州西部の遠賀川河口付近の防備を補強する為、6月末頃に広島の高射砲第135連隊の戦力の殆ど(高射砲3個中隊、照空2個中隊)が引き抜かれた。[19]
(春日市史[15][18]によると昭和19年4月には北九州に移動したとあり、また独立高射砲第22大隊長だった加藤恒太氏の回想[29]によると昭和20年1月頃に北九州に移動したとあり、それぞれで移動時期が異なっているが、初空襲を切っ掛けとした移動である方が可能性が高いと思われる)


 そして昭和19年10月14日に高射砲135連隊は解隊され、独立高射砲第22大隊(高射砲4個中隊)と独立照空第21大隊(照空3個中隊)が編成される。[20][21]

 昭和19年11月15日現在、独立高射砲第22大隊と独立照空第21大隊は以下のように配置されいた。[22]
 6月末からの間に、高射砲1個中隊が北九州から岩国へと移動していたことになる。

独立高射砲第22大隊(大隊本部:芦屋)
 7高1中(6門)広島(恐らく第1中隊)
 7高1中(6門)岩国(恐らく第2中隊)
 第3中隊 狩尾
 第4中隊 柏原

独立照空第21大隊(大隊本部:海老津)
 第1中隊 田野(4個分隊)
 第2中隊 吉木(4個分隊)
 第3中隊 福崎(4個分隊)
   (2個中隊12個分隊を3個中隊に分割)


 昭和20年2月6日に、独立高射砲第22大隊は西部高射砲集団から中部高射砲集団の隷下となり、昭和20年4月8日に第15方面軍が編成されると、中部高射砲集団と共にこの指揮下に入った。そして昭和20年4月28日には、中部高射砲集団は高射砲第3師団へと改編され、昭和20年5月6日に独立高射砲第22大隊は高射砲第3師団の隷下となった。[23]

 そして昭和20年5月10日には、独立高射砲第22大隊第2中隊が配備されていた岩国陸軍燃料処がB29による爆撃を受け、第2中隊の第2分隊が全滅している。[24]
 昭和20年5月28日現在における独立高射砲第22大隊の状況は以下のようになっている。[25]

独立高射砲第22大隊(炸8077)
 7高3個中隊(内1個中隊は97式算定具、7高有脚8門)
 8高1個中隊

 主力(7高1個中隊、8高1個中隊)は宇品港
 7高1個中隊は高梁川鉄橋
 7高1個中隊は境港

また同じ資料[25]によると、高射砲第122連隊の照空1個中隊が宇品港とある。


 資料[26]等によると、昭和20年7月末時点で高射砲1個中隊がまだ岩国にあり、それを広島に戻すと書かれている。しかし資料[25]では既に岩国から他に移動済である。
 ここで資料の性質を考えてみると、資料[25]は当時作成されたものであり、一方の資料[26]は戦後にまとめられたものである。更に5月10日の時点で爆撃で価値を失った岩国陸軍燃料処に貴重な戦力を貼り付け続けることは、可能性として低い。恐らく空襲の後、高梁川鉄橋(倉敷)もしくは境港(米子)に移動されたのではないかと思われる。
 高射砲第122連隊の照空1個中隊についても、資料[26]では7月下旬に広島に派遣されたことになっているが、こちらについても5月末時点で既に移動済だったのではないかと思われる。

 資料[25]にある宇品港の高射砲2個中隊だが、7p高射砲の中隊については元宇品、8p高射砲の中隊については江波であると推定する。
(元宇品については、資料[22]から広島に留まっていた7p高射砲の中隊の砲数は6門であること、7月下旬の増強前に既に元宇品の陣地の砲座が6基になっていたこと、砲座6基の海田市の高射砲陣地は4月末時点で存在しなかったこと、観音の6基の陣地も7月末時点には存在しなかったこと、他に砲座6基の陣地が確認できない事から推測した。また江波については、複数の資料で8p高射砲の陣地は江波のみであることから推測した)

 ともかく、昭和20年6月時点において、広島の防空は高射砲2個中隊と照空1個中隊のみであった。
(4)本土空襲後期(昭和20年6月〜8月)

 昭和20年7月に、満州と朝鮮北部から大量の大豆を日本海沿岸の山陰の港に輸送することになり、掩護の為に萩・仙崎に高射砲部隊が派遣された。大阪北地区(高射砲第122連隊の守備地域)から高射砲3個中隊、米子飛行場から1個小隊が送られている。輸送作戦が無事に完了した後、防府に送られた高射砲1個中隊を除く2個中隊半が、広島へと派遣されることになる。[26]

 昭和20年7月下旬に、広島市に対する米軍の偵察活動が活発化するに至り、広島に対する空襲が目前に迫っていると判断され、広島市に高射砲・照空部隊が増援されることになった。これらの増援部隊は7月末から8月上旬にかけて逐次広島に入り、陣地を占領したが、8月6日の原爆投下により、宇品・海田市付近の部隊と展開未了の部隊以外は大きな損害を受けた。

 資料[26]によれば、増援部隊は次の通りである:
  ・山陰諸港に在る高射砲部隊の主力(高射砲2個中隊+1個小隊)
  ・加古川の高射砲第123連隊第1中隊
  ・下津の機動高射砲中隊(独立高射砲第57中隊)※1
  ・南地区隊(高射砲第121連隊担当)の高射砲1個中隊、照空1個中隊
  ・北地区隊(高射砲第122連隊担当)の照空1個中隊※2
  ・岩国の独立高射砲第22大隊第2中隊(広島に復帰)※3

      増援合計:高射砲5個中隊、高射砲1個小隊、照空1個中隊
   広島防空隊合計:高射砲7個中隊、高射砲1個小隊、照空2個中隊


※1:機動高射砲中隊について
 資料[25][26]によると、この機動高射砲中隊は高射砲を貨車に搭載して列車で牽引する、機動力を持たせた特別な高射砲中隊である。ドイツ軍のように貨車に搭載したまま射撃可能かどうかについては記録は無い。

※2:高射砲第122連隊の照空1個中隊について
 資料[25]によると、昭和20年5月28日の時点で既に宇品港に所在している。派遣された時期が誤っていたのではないかと思われる。

※3:岩国の高射砲中隊について
 前述のように、5月10日の岩国燃料処の空襲の後、米子に派遣されていたと推測している。この米子に派遣された中隊の1個小隊が萩・仙崎に派遣され、それがまた広島に派遣されていることから、混乱があったのではないかと思われる。岩国に派遣されていた高射砲中隊については、1個小隊のみが広島に復帰したと推測する。
(5)原爆投下時

 原爆投下時、もしくは終戦時の在広の高射砲部隊についての資料が幾つか存在するが[27][28][29][30][31][32][33][34][35]、それぞれで内容が異なっている。記録の誤りやカウントの方法の違い(計画と実際、原爆による被害を考慮するか否か、等)、暁部隊の高射砲部隊の有無等によって差異が発生したものと思われる。資料間の差異を埋めるべく考えてみたものの結論を出すに至らず、仕方ないので資料の信頼性や矛盾の無さから、戦後に米軍がまとめた日本の地上防空についての資料[28]の記録を中心にして推定を行った。


独立高射砲第22大隊(4個高射砲中隊)の部隊の所在:
 1個中隊(7高6門)元宇品
 1個中隊(8高6門)江波
 1個小隊(7高2門)広島のどこか?
 1個中隊(7高6門)宇野(岡山県)
 1個小隊(7高2門)米子(鳥取県)

他の在広の高射砲部隊:
 第121高射砲連隊:1個中隊(7高6門)、1個照空中隊
 第122高射砲連隊:1個照空中隊
 第123高射砲連隊:1個中隊(7高4門)
 独立高射砲第45大隊:1個中隊(7高6門)
 独立高射砲第57中隊(7高6門)


部隊が存在したと思われる高射砲陣地:
 元宇品 独高22大1個中隊 7高6門
 江波  独高22大1個中隊 8高6門
 観音  部隊不明 7高6門
 海田市 部隊不明 7高4門
 海田市 独高57中(推定) 7高6門
 打越  部隊不明 7高4門


照空陣地:
 海老山、行者山(田方)、茶臼山、新山(浅野山)、尾長山、
 船越、矢野、観音崎、金輪島、江波、宇品橋もしくは比治山?
(6)暁部隊の高射砲部隊、その他の高射砲部隊

 宇品港周辺は暁部隊(陸軍船舶部隊)の根拠地の1つでもあり、暁部隊所属の高射砲部隊も多く展開していたらしいのだが、詳細な情報はほとんど残っていない。
 資料[27]によると、広島市周辺には10p高射砲の陣地も1ヶ所存在していたようであり、恐らくは暁部隊所属の高射砲ではないかと思われる。

・鯛尾山
6ヶ所の高射砲砲座が残っている。現地での聞き取りによると終戦時には砲座は3基だけ(配備された高射砲が3門だけ、の証言の間違いかもしれない)とある。

・吉島飛行場
資料[40]によると機関砲陣地が存在していたようである。

・観音グラウンド
資料[41]によると、観音グラウンドに船舶砲兵部隊が居たとある。高射砲部隊なのか機関砲部隊なのか、それ以外なのかについては不明。

・似島(間小屋)
機関砲陣地跡が残る

・似島(サルババ)
資料[42]によると、機関砲陣地跡が残っている。

・東雲
資料[37]によると、広島師範学校附属国民学校の校舎を、昭和20年6月頃から陸軍高射砲部隊(ほぼ1個中隊)が使用していたとある。広島師範学校の項目には暁部隊(高射砲隊)とあること、また時期を考慮すると、この国民学校に駐留していた部隊は暁部隊所属の高射砲部隊かと思われる。

・比治山
航空写真を見ると、比治山山頂付近に砲座らしいものが写っている。記録に出てこないことから、暁部隊の高射砲陣地があったのではないかと推測する。

・弁天島(カクマ島)
漁師の体験談か何かで「カクマ島に高射砲が3、4門あったが撃ったのは見たことが無い」とある。もしあったとすれば暁部隊のもので、備砲も機関砲かと思われる。


 詳細は不明だが、資料[43]によると、中国軍管区砲兵補充隊(中国第111部隊)の高射砲陣地が新庄町にあったとしている。航空写真にもそれらしい物が写っているので、何かしらあったのだろうが、詳細は不明である。
4.参考資料

[1] 大陸命 第240号
アジア歴史資料センター:C14060918600
昭和13年11月30日
「広島、宇品付近防空の為配備すべき陣地高射砲隊、野砲兵第5連隊補充隊をして仮編成せしむ。」



[2] 支那事変動員部隊調査表  1/8部中 昭和12〜16年 砲兵(高射砲)隊
アジア歴史資料センター:C12121078500
「広島、宇品防衛高射砲隊 下令年月日:13年11月30日 管理:野砲5補」



[3] 86.防解第2号 昭和14年11月13日 防衛解除の件
アジア歴史資料センター:C12121523600
昭和14年11月13日
「応急防空を昭和14年11月25日正午を以て解除」



[4] 広電第140号
アジア歴史資料センター:C04123071900
昭和16年7月7日
「陸支機密第73号により臨時招集すべき部隊(広島防空司令部、同独立高射砲第1大隊、同独立照空第1大隊、同防衛通信隊、独立照空第12中隊)用戦時諸条規諸勤務令至急送付せられ度。」



[5] 要塞高射砲隊演習用弾薬支給の件
アジア歴史資料センター:C04123076200
昭和16年7月8日

広島防空隊 独立高射砲第1大隊 7cm高射砲8門

  独立高射砲第15中隊 7cm高射砲4門(交付場所広島)
  独立高射砲第16中隊 7cm高射砲4門(交付場所広島)
[6] 広師兵電第41号
アジア歴史資料センター:C04123164000
昭和16年7月12日
「広島防空隊用として受領している高射砲は移動式が2門、固定式が6門」



[7] 陸文密電178号
アジア歴史資料センター:C04123164000
昭和16年7月28日 
「広島防空隊用火砲全数を近く7p高射砲(移動式)を以て交換すべきに付、承知せられ度。」


[8] 西部軍の展開配置
戦史叢書 本土防空作戦 朝雲新聞社
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=019#

昭和16年8月中旬

 広島地区
  広島防空隊
   長 広島防空隊司令官 陸軍中佐 五十嵐勝吉(29期)
     広島防空隊独立高射砲第1大隊
     広島防空隊独立照空第1大隊
     独立高射砲第12中隊
     独立高射砲第13中隊
     広島防空隊防衛通信隊



[9] 高射第4師団 編成資料
アジア歴史資料センター:C12120990300
昭和16年11月8日

防空第25連隊の編成?(他の連隊の編成日より推定)
[10] 地上防空部隊の改編(軍令陸甲第80号16、11、8)
高射戦史 下志津(高射学校)修親会
昭和16年11月

 西部防空旅団(小倉)
高射砲連隊→防空連隊(照空、聴測隊を編入)
    中隊門数を6門に

防空第25連隊(広島) 長 五十嵐勝吉 16門



[11] 西部防空旅団展開位置表
本土地上防空作戦記録 西部地区
国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8815698

1941年12月時点:
防空第25連隊(広島) 広島防空隊
 連隊本部
 高射砲4個中隊
 照空2個中隊



[12] 戦争決意に伴う本土防空措置
高射戦史 P.298 下志津(高射学校)修親会

昭和16年12月
広島は交通要点として高射砲を配備



[13]
本土地上防空作戦 中部地区
国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8815697

展開当初各陣地は略々野戦築城に依り構築せられ在りしも時日の余裕を得ると共に外地線上における戦訓に基づき逐次陣地を強化し、8高及び12高は砲座掩体砲側待機施設等凡てベトン製の永久築城とす。電測機の掩体また然り。
[14] 組織改編
高射戦史 下志津(高射学校)修親会

昭和18年8月15日
防空旅団→防空集団



[15] 春日市史

昭和19年4月
防空第25連隊 芦屋飛行場援護の為に移駐
連隊本部 芦屋海水浴場
各中隊を飛行場周辺に配備



[16] 組織改編
高射戦史 下志津(高射学校)修親会

昭和19年6月1日
防空集団→高射砲集団 
防空第25連隊→高射砲第135連隊



[17] 西部高射砲集団(昭和19年6月頃)
本土地上防空作戦記録 西部地区
国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8815698

昭和19年6月頃
高射砲第135連隊 比治山 (元資料では134連隊)
大隊本部 宇品?
第1中隊 7cm 向宇品
第2中隊 7cm 江波公園
第3中隊 7cm 二葉山
第4中隊 7cm 向洋
第5中隊 AQ 五日市
第6中隊 AQ 似島
[18] 春日市史

昭和19年6月

防空第25連隊は高射砲第135連隊と改称
高射砲大隊(4個中隊)、照空大隊(3個中隊)
高射砲大隊本部 芦屋の連隊本部と同居
照空大隊 海老津
第5中隊(照空)が一時期博多港付近に



[19]
本土地上防空作戦記録 西部地区
国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8815698

昭和19年6月末頃

 西部軍は今次の戦闘に鑑み6月末在広島高射砲第135連隊の大隊長加藤大尉以下高射砲3中隊7高照空2中隊を北九州に転用せしめたり。依って前述の教訓に基づき転用部隊の高射砲部隊は柏原付近に集結配置して敵の侵攻を遠賀川河口付近に於いて扼せしめ又照空部隊は遠賀川以西の地区に展開し主として飛行団の夜間戦闘に協力せしめたり。



[20] 高射第3師団 編成資料
アジア歴史資料センター:C12120988300

昭和19年10月14日
令甲137号により高射砲第135連隊の大部を基幹として独立高射砲第22大隊(西8077)を編成(669名)
編成管理は西部軍

昭和19年11月3日
西機密604号により各高射砲中隊に下士官2名、兵19名を増加(753名)
[21] 高射第4師団 編成資料
アジア歴史資料センター:C12120990300

昭和19年10月14日
令甲137号により高射砲第135連隊を基幹として独立照空第21大隊(西8079)を編成(596名)
編成管理は西部軍

昭和19年11月3日
西機密604号により各照空中隊に兵14名を増加(638名)



[22] 北九州防空隊配備要図
防衛省防衛研究所:本土 配備図 87

昭和19年11月15日

独立高射砲第22大隊(大隊本部:芦屋)
 7高1中(6門)広島
 7高1中(6門)岩国
 第3中隊 狩尾
 第4中隊 柏原

独立照空第21大隊(大隊本部:海老津)
 第1中隊 田野
 第2中隊 吉木
 第3中隊 福崎



[23] 単一部隊概見表 昭和19年8月以降/分割02
アジア歴史資料センター:C12121069800

昭和20年2月6日
 独立高射砲第22大隊 中部高射砲集団

昭和20年4月8日
 独立高射砲第22大隊 15HAへ

昭和20年4月28日
 高射砲師団への改編
 中部高射砲集団→高射砲第3師団

昭和20年5月6日
 独立高射砲第22大隊 高射砲第3師団(15HA)へ



[24] 岩国陸軍燃料処
高射戦史 P.587 下志津(高射学校)修親会

昭和20年5月10日
 独立高射砲第22大隊第2中隊
 爆撃で第2分隊全滅。



[25] 高射砲部隊の概況 昭和20年
防衛省防衛研究所:本土 全般 061

昭和20年5月28日

独立高射砲第22大隊(炸8077)
 7高3中(内1個中は97式算定具、7高有脚8門)
 8高1中
 主力(7高1中、8高1中)は宇品港、7高1中は高梁川鉄橋、7高1中は境港

高射砲第122連隊の照空1個中は宇品港

弾薬装備の現況:7高400発、8高90発


独立高射砲第57中隊
 7高
 列車機動高射砲として使用の予定、編成中
[26]
本土地上防空作戦記録 中部地区
国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8815697

昭和20年7月〜8月

日本海沿岸山陰諸港への兵力派遣
 7月、満州より北鮮を経由し大量の大豆、日本海沿岸山陰諸港に入港することとなる。当時国内食糧事情は逼迫し、辛うじて保持し在りし大陸−裏日本航路も日本海への敵潜水艦の侵入と、敵機の本土制空により危機に瀕し、満鮮に依存する食料充足も今後を期待し難き状況なり。方面軍は本輸送を決戦輸送と称し、頗る重視せり。
 師団はこれが揚陸を掩護する為、先に米子飛行場掩護の為同地に派遣し在りし高射砲1個小隊を急派し、更に掩護地域の焼失により比較的重要度の低下せる大阪北地区より高射砲3個中隊を抽出し、これをその揚陸港たる仙崎、萩付近に派遣し師管区部隊長の指揮に入らしむ。
 本揚陸作業は敵機の妨害を受けることも無く完了せり。これ等派遣部隊主力は7月末より8月初旬にいたり逐次広島市に、1個中隊は防府市に転進せり。

広島市への兵力派遣と同市に対する原爆攻撃
 7月下旬に至り広島市に対する敵機の偵察活発となり其の空襲愈々目前に迫るを思わしむ。
 広島は第2総軍司令部の所在地にして第2総軍本土決戦の為の策源なり。(高射砲第3)師団は方面軍命令により、山陰諸港に在りし高射砲部隊の主力、加古川に在りし高射砲第123連隊第1中隊、下津に在りし機動高射砲中隊、南地区隊の高射砲及び照空各1個中隊、北地区隊の照空1個中隊を抽出してこれを広島に派遣し、独立高射砲第22大隊長の指揮に入らしめると共に、先に岩国に在りし同大隊の高射砲1個中隊を広島に至りその直接指揮に復帰せしむるに決し、これら部隊は8月初頭より逐次広島市に到着、陣地を占領し在りしが、これが完了に先立ち、8月6日早朝広島市は原子爆弾の攻撃を受けその大半壊滅す。宇品及び海田市付近に在りし部隊並びに展開未了の部隊は被害なかりしも広島市内に在りし部隊は人員の被害大にして一事戦闘力を喪失せり。

(機動高射砲中隊についての抜粋)
 6月上旬高射砲第121連隊の高射砲1中隊を和歌山に派遣す。之より先師団は機動高射砲1中隊を臨時編成し敵の企図を察知して随時之を列車に搭載して要地に派遣し機動防空に任ぜしむる如く計画し在りしが、6月中旬先ず之を和歌山に派遣す。
[27] 米軍第10軍団 G-2 Periodic Report NO.11
国会図書館
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4009616 P.71

1945/10/18
 日本陸軍の将校が、歩兵第41師団に25000分の1の広島地区の高射砲配置図を提出した。
 この配置図には、70o高射砲陣地8か所と80o高射砲陣地1か所、そして100o高射砲陣地1か所が記入されていた。重高射砲の数は合計40門である。全ての火砲は撤去され、中央補給廠?(central ordnance dumps)に保管されている。この配置図には、9か所の照空陣地も記入されていた。

7p高射砲陣地8
8p高射砲陣地1
10p高射砲陣地1
照空陣地9
重高射砲の数は合計で40門



[28] Survey of Japanese Antiaircraft Artillery
GHQ USAFPAC AAA Research Board
1946.2.1

http://cgsc.contentdm.oclc.org/cdm/ref/collection/p4013coll8/id/4349

7cm 30
8cm 6
S/L 12

独立高射砲第22大隊
広島:2個中隊(6門x2)、1個小隊(2門)
宇野:1個中隊(7高6門)
米子:1個小隊(7高2門)

在広の高射砲部隊
第121高射砲連隊 1個中隊(6門)、1個照空中隊
第122高射砲連隊 1個照空中隊
第123高射砲連隊 1個中隊(4門)
独立高射砲第45大隊 1個中隊(6門)
独立高射砲第57中隊(6門)

20年8月15日頃の配備図を加工


高射砲部隊:
 元宇品、観音、海田市、江波(8高)、打越、東雲

照空部隊
 海老山、行者山、茶臼山、新山、尾長山、船越、
 矢野、観音崎、金輪島、似島、江波、比治山?(宇品橋)



[29] 広島地区防空について 独立高射砲第22大隊長 加藤恒太少佐
高射戦史 P.580 下志津(高射学校)修親会

20年8月6日被爆当時のの配備図より

 大隊本部 向宇品

 第1中隊 宇品 6門
 第2中隊 二葉山 6門
 第3中隊 江波山 6門
 第4中隊 海田市 6門

 1中隊 観音 大阪より 6門
 1中隊 東雲 大阪より 4門
 1中隊 打越 大阪より 4門

 探照灯
  行者山、茶臼山、新山、尾長山、向洋北、矢野、金輪島、江波

昭和18年8月27日 高射砲第22連隊(?)の大隊長
昭和19年11月1日 独立高射砲第22大隊長

 独立高射砲第22大隊は昭和20年1月頃、芦屋飛行場に派遣されたが、約2か月で再び広島に復帰、20年8月に入っても、広島より小さい都市が爆撃されたにもかかわらず、B29の偵察以外の来襲はなく、いささか不思議におもわれた(まさか原爆予定都市とは考えてもいなかった)。
 当時、大阪からの支援の3個中隊を含めて7個中隊編成であったが、1個中隊が8p高射砲だけで他はすべて7高であったため、高高度を侵入するB29にはなんの役にも立たなかった。これら7個中隊で広島防空隊が編成され、独高22大隊長が防空隊長に命じられた。
 広島地方の地形の特性から考えて攻撃方向は南方以外にないという状況判断から、大隊長の意見具申によって大隊本部は比治山から向宇品へ陣地転換。
[30] 広島市及び周辺防空部隊配備要図(昭和20年8月6日原爆投下時)
広島師団史

高射砲中隊:
 元宇品(7高6門、7高)、観音(7高6門)、海田市(7高6門)、
 江波1(8高6門)、打越(7高4門)、東雲(7高4門)

照空部隊
 海老山、行者山(田方)、茶臼山、新山、尾長山、船越、
 矢野、観音崎、金輪島、似島、江波、宇品橋
[31] 付図第8 本土(台湾を除く)高射部隊配置要図
戦史叢書 本土防空作戦 付録
http://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=019#

広島防空隊(独立高射砲第22大隊主力、その他)
高射砲7個中隊(40門)、照空2中隊(12分隊)

米子 1個小隊(独立高射砲第22大隊)
倉敷 1個中隊(独立高射砲第22大隊)



[32] 第138図 在広主要部隊配置図
広島市史

10+2個中隊? 高射山砲?



[33] 高射第3師団運用要図
砲兵沿革史 第4巻(下の2) 偕行社

独立高射砲第22大隊
1個中隊(8高6門)広島
1個小隊(7高2門)広島
1個小隊(7高2門)米子

在広の高射砲部隊
第121高射砲連隊 1個照空中隊
第122高射砲連隊 1個照空中隊
独立高射砲第45大隊 1個中隊(7高6門)
独立高射砲第57中隊



[34] 高射砲第3師団の防空隊の配備
高射砲第1連隊外史 高射砲第1連隊史編纂委員会

広島:
7高34門
8高6門
照空灯12基

高射砲7個中隊
照空2個中隊

独立高射砲第22大隊第1中隊:倉敷
[35] 広島市内の部隊配置(高射砲に関係しそうなもののみ)
広島原爆戦災史
http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai4.pdf

元町地区:中国軍管区
砲兵補充隊 中国第111部隊(通称六部隊 旧野砲兵第5連隊)城跡西側
独立混成第124旅団砲兵隊 鬼城28368(中国第104部隊)
第154師団砲兵隊 護路28356(中国第111部隊内)
二葉白島地区:高射砲部隊(二葉山)
戸坂地区:砲兵陣地(未駐留)字中島、現市営住宅地
尾長地区:高射砲部隊(二葉山山頂)
 防空部隊(尾長山山頂)
 不明(天満宮境内)
 不明(瑞川寺境内)
段原地区:比治山公園東南斜面に船舶砲兵団1500、横穴兵舎
 南峯山頂には船舶砲兵団司令部
青崎地区:暁部隊(金輪島裏海岸)
 高射砲部隊(不明)向洋あみだ山
宇品地区:独立高射砲第22大隊(向宇品)
 陸軍船舶砲兵教導連隊(暁19777) 大和紡績(株)内
似島地区:高射砲部隊 字中原
吉島地区:飛行場内 暁部隊航空隊
江波地区:高射砲陣地(不明)江波公園
 照空隊陣地(不明)皿山公園及び江波公園
観音地区:総合グラウンドに高射砲部隊
三篠地区:高射砲部隊 新庄町
 高射砲部隊 安芸女学校南西
己斐地区:茶臼山に高射砲陣地(不明)
草津地区:高射砲隊幹部候補生教育隊 隊長:長島千訓大尉 草津海蔵寺の山
 (庚午地区内にあったが、17年の水害後に移設された)

 高射砲第三師団からの応援部隊
高射砲第121連隊(炸7650) 第4中隊 舟木恒雄中尉
高射砲第122連隊(炸7651) ?
高射砲第123連隊(炸4168) 第1中隊 辻芳郎大尉

 独立高射砲第22大隊本部(炸8077) 内山恒太少佐

 第35航空情報隊(師弟7437) 尾長町(尾長国民学校)畑中正毅中尉
[36] 軍の被害建物状況(高射砲部隊に関係しそうなもののみ)広島財務局報告より

被害種類 棟数
西部8065部隊 比治山 全 32
宇品山 中 36
江波町 全 17
江波山 中 34
二葉山東 全 7
二葉山西 全 23
仁保町 小 22
草津町 小 22
   (西部8065部隊→高射砲第135連隊のこと)



[37] 広島県立広島師範学校男子部付属国民学校
広島原爆戦災史
http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai4.pdf

現在・広島大学付属東雲実小学校、広島市東雲町1946番地
「昭和20年6月頃から、陸軍高射砲部隊(ほぼ1個中隊)が南校舎の1階全部(6教室)を使用していた。この部隊は9月7日午後5時に退去した。」

県立広島師範学校の項目には「暁部隊(高射砲隊)」とある



[38] 安芸高等女学校
広島原爆戦災史
http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai4.pdf

広島市打越町633番地
「運動場には高射砲隊がおり、高射砲6門を据えつけていた。もっともそのうち5門は木製で擬装用、他の1門は本物とはいえ旧式の練習用のものであった。」
[39] 広島管区気象台
広島原爆戦災史
http://a-bombdb2.pcf.city.hiroshima.jp/PDB/PDF/sensai4.pdf

庁内に駐留していた江波山高射砲隊の兵士の中には、吹き飛ばされたガラスで手首を切断された者がいた。



[40]
http://www.town.uchiko.ehime.jp/life/pdf/kh2005/20050815_04.pdf
(リンク切れ)

西川忠一
昭和20年1月、暁2953部隊に配属。船舶の護衛任務。
吉島飛行場の警備へ移動、被爆時には機関砲の手入れをしている。



[41]
陸軍船舶特別幹部候補生第三期生会『船舶特幹第三期生の記録』編集委員会編『若潮三期の絆』
観音グラウンドに船舶砲兵部隊



[42] 広島市似島臨海少年自然の家
http://www.cf.city.hiroshima.jp/rinkai/heiwa/heiwa011/heiwa011.html



[43] 被爆体験 篠山益治(ささやまえきじ)さん
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0303/exh03032.html

篠山益治さん(当時26歳)は広島師団111部隊(中国軍管区砲兵補充隊、旧野砲兵第5連隊)に所属で、新庄町の高射砲陣地に派遣されていました。