(4)本土空襲後期(昭和20年6月〜8月)
昭和20年7月に、満州と朝鮮北部から大量の大豆を日本海沿岸の山陰の港に輸送することになり、掩護の為に萩・仙崎に高射砲部隊が派遣された。大阪北地区(高射砲第122連隊の守備地域)から高射砲3個中隊、米子飛行場から1個小隊が送られている。輸送作戦が無事に完了した後、防府に送られた高射砲1個中隊を除く2個中隊半が、広島へと派遣されることになる。
[26]
昭和20年7月下旬に、広島市に対する米軍の偵察活動が活発化するに至り、広島に対する空襲が目前に迫っていると判断され、広島市に高射砲・照空部隊が増援されることになった。これらの増援部隊は7月末から8月上旬にかけて逐次広島に入り、陣地を占領したが、8月6日の原爆投下により、宇品・海田市付近の部隊と展開未了の部隊以外は大きな損害を受けた。
資料
[26]によれば、増援部隊は次の通りである:
・山陰諸港に在る高射砲部隊の主力(高射砲2個中隊+1個小隊)
・加古川の高射砲第123連隊第1中隊
・下津の機動高射砲中隊(独立高射砲第57中隊)※1
・南地区隊(高射砲第121連隊担当)の高射砲1個中隊、照空1個中隊
・北地区隊(高射砲第122連隊担当)の照空1個中隊※2
・岩国の独立高射砲第22大隊第2中隊(広島に復帰)※3
増援合計:高射砲5個中隊、高射砲1個小隊、照空1個中隊
広島防空隊合計:高射砲7個中隊、高射砲1個小隊、照空2個中隊
※1:機動高射砲中隊について
資料
[25][26]によると、この機動高射砲中隊は高射砲を貨車に搭載して列車で牽引する、機動力を持たせた特別な高射砲中隊である。ドイツ軍のように貨車に搭載したまま射撃可能かどうかについては記録は無い。
※2:高射砲第122連隊の照空1個中隊について
資料
[25]によると、昭和20年5月28日の時点で既に宇品港に所在している。派遣された時期が誤っていたのではないかと思われる。
※3:岩国の高射砲中隊について
前述のように、5月10日の岩国燃料処の空襲の後、米子に派遣されていたと推測している。この米子に派遣された中隊の1個小隊が萩・仙崎に派遣され、それがまた広島に派遣されていることから、混乱があったのではないかと思われる。岩国に派遣されていた高射砲中隊については、1個小隊のみが広島に復帰したと推測する。