その他(現存しないもの等)




広島 防空監視哨

広島原爆戦災誌には、市役所の屋上に2ヶ所あり、一つは警察本部の設置で南側庁舎の東端にあり、地域の警察官が2、3人づつ交替で勤務。もう一ヶ所は市役所自警団のもので西表側にあり、職員が交替で勤務していた、とある。
また同資料内にある「広島市永年防空計画」の中に
第三章 防空監視
第十二條 廣島市防空監視哨ノ位置ハ廣島市役所廳舎屋上トス

とあるので、いわゆる広島防空監視哨はこの広島市役所の屋上の、警察設置のものかと思われる。


広島原爆戦災誌には、他にも
・広島逓信局の屋上
・広島電鉄株式会社本社の屋上
・中国配電株式会社(中国電力)本店の屋上
・三菱重工広島機械製作所所内各所
・中国塗料株式会社正門前
・矢野町役場屋上
に防空監視所、もしくは防空監視哨が、

また軍部の物として
・陸軍船舶練習部内
・向洋駅前
に対空監視所があったと記述している。会社等のものは自主的な防空監視哨かと思われるが何ともいえない。

更には「広島市永年防空計画」の中に「警防分団防護監視所位置表」として広島市役所屋上を筆頭に市内26ヶ所のリストがあり、この防護監視所と防空監視哨との明確な定義分けもなく、わかりにくいことこの上ない。





福山 防空監視哨

福山戦災復興誌によると、昭和17年頃に福山警察署の屋上に設置され、7班(内2班は女子で編成)が毎朝交代する1昼夜勤務で常時立哨が行われていたとある。





吉田 防空監視哨

高田郡史によると、昭和12年8月に防空司令部の司令によって設置されたとある。吉田警察署構内の警鐘台を利用し、初めは町内の在郷軍人で哨長1名哨員6名の3交替で勤務していたが、すぐに10班60名の哨員に編成された。同年10月からの防空法施行によって県知事の管理下に置かれ、11月からは吉田、可愛、丹比、小田、甲立の5ヶ町村から哨員が任命された。昭和14年4月には警察署裏に独立した監視哨が建てらる。日中戦争の進展で応召が重なり在郷軍人と消防組員だけでは哨員をまかなえなくなり、昭和16年8月からは青年学校の生徒によって立哨された。昭和16年12月の開戦から翌年1月17日までは連日立哨したもののその後一時休止し、戦局の進展と共に再開、更には常時立哨になった。昭和18年秋から警察署の増築と合わせて警察署の3階に監視哨舎を造ることとなり、昭和19年1月に着工して資材不足の中、同年12月に漸く竣工した。
郡史に載っている写真を見ると、監視哨舎は木造の八角形の屋根つき建物である。





根野 防空監視哨

八千代町史によると、1945年の夏に上根峠付近の国道沿いに海軍航空隊の特攻基地の建設が行われた際、近くにあった上根の香川氏宅(商店)の屋上に6月末に4平方メートル程の防空監視哨を設置し、当時佐々井にあった根野刈田学校組合立青年学校生徒20名が交替で勤めたとある。室内には広島監視所と直通の電話が敷設され、哨員は3班に分かれて一昼夜交替だったそうである。
原爆投下の際には、B29とパラシュート付きで投下された測定器を観測している。





玖島 防空監視哨

湯来町史の中の「本土防衛」という項にて、「湯来南小学校沿革史」からの引用として昭和16年9月1日に防空監視員を編成したとある。
湯来町は玖島のすぐ北側であり、この記事における防空監視員が玖島の防空監視哨の要員のことかもしれない。





加計 防空監視哨

筒賀村史によると、昭和12年10月の防空法の施行により加計防空監視哨が県知事の管理下に置かれるとともに、加計町にある防空監視哨も加計警察署に引き継がれ、哨員は加計町、筒賀村、殿賀村、安野村、上殿村、戸河内町から選任されたとある。この事から加計防空監視哨は加計警察署内にあったのではないかと思われるのだが、加計町史には何の記述も無いので何とも言えない。また筒賀村史においても、昭和19年に設置されたはずの筒賀防空監視哨については何の記述も無かった。




その他:

向島 防空監視哨?

向島町史によると、「防空壕の設置」という項目の中で、
役場内の防空壕は、すでに1944年10月に向島西村防空本部防空壕および防空監視所として3ヶ所設置されていた(同年「決議書綴」)
とあり、向島西村の役場に防空監視哨があったものと思われる。ただこれが県警の管理下に置かれていた防空監視哨の一つなのか、自主的なものなのかは不明である。





篠尾山 防空監視哨

廿日市町史によると、昭和8年5月に作成された「戦時警備防空計画書」の中で、空襲の際に篠尾山(廿日市駅南東、廿日市天満宮のある小山)山頂に義勇防空監視哨を置いて軍の防空監視隊の指導を受けた防護団員が詰めることとされていた。実際に設置されたかどうかは不明である。





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