日本陸海軍の探照灯と空中聴音機
2007.6.9 新設
2020.9.1 色々誤った情報もあった為、全面リニューアル
はじめに:

 陸海軍共に、探照灯と空中聴音機については、マイナーな兵器だったこともあり上手くまとめられた本やサイトが存在しない。そこで10年以上前に入手できていた資料を基にまとめていたのだが、誤った情報が幾つか含まれており、また資料のオンライン化が進んだことで新たに入手することが出来た情報もまとまってきたので、全面リニューアルすることにした。ただ、今時点でも情報は不十分であり、情報の新規獲得や問題解決出来次第、随時更新してゆきたいと考えている。


目次:

探照灯(照空灯)
 探照灯の仕組み
 探照灯の操縦方法
 日本における探照灯の開発の流れ
 陸軍の照空灯(探照灯)
   陸軍の沿岸砲台用探照灯
 海軍の探照灯

空中聴音機
 陸軍の空中聴音機
 海軍の空中聴音機
   
探照灯と空中聴音機の配置、陣地

参考文献・リンク


(高射砲陣地と防空砲台のホームページに戻る)

注意:印刷はChromeを推奨。Firefoxは印刷がおかしくなります。
探照灯

 20世紀中頃に射撃用レーダーが実用化されるまでは、射撃を行うための諸元の取得は殆どが光学機器を用いて行れていたが、夜間は光量が足らなくなりそれが不可能であった。その為、照明によって目標を直接照らし出し、光学機器を利用可能にする探照灯や照明弾といった兵器が発明された。探照灯が初めて軍事利用されたのは1870年の普仏戦争であり、1882年には英国海軍がアレキサンドリアで砲兵陣地の防御に使用している。日露戦争では日露両国で盛んに利用された。
 時代が進むと、軍艦や沿岸砲台、堡塁等に大型の探照灯が装備された他、前線で利用可能な小型の探照灯も装備されていた。飛行機が実用化され夜間空襲が行われるようになると、対空兵器の重要な装備の一つとなった。

 対空射撃においては、第1次世界大戦で空中聴音機が発明されると、夜間でも目標の位置を把握できるようになったが、射撃を行うには精度が荒すぎた為、空中聴音機の測定諸元を用いて探照灯を目標に指向し、照射された目標を別途光学機器によって照準していた。レーダーが発明された後でも、精度の高いセンチ波レーダーが登場するまでは精度が不十分であったことから、空中聴音機と同じく探照灯を目標に指向させる為の諸元収集に用いられた。
     図1 夜間射撃での聴音機による測的から高射砲の射撃まで


探照灯の仕組み

 探照灯の発光は、炭素棒電極間のアーク放電によるものである。アーク放電(電弧放電)は、Wiki[1]によると「電極に電位差が生じることにより、電極間にある気体に持続的に発生する絶縁破壊(放電)の一種。負極・正極間の気体分子が電離しイオン化が起こり、プラズマを生み出しその中を電流が流れる。結果的に、普段は伝導性のない気体中を電流が流れることになる。この途中の空間では気体が励起状態になり高温と閃光を伴う」とある。電気溶接もアーク放電によるものであり、電気溶接の強烈な発光を直接見たことがある人なら、アーク放電を想像しやすいだろう。

 ごく初期の探照灯を除いて、探照灯は円筒形の外殻を備えている。円筒の後面(光が放出される逆側)に反射鏡があり、光源からの光を反射する。円筒軸上の前面側に陽極炭素棒が配置され、それと対となる陰極炭素棒は、@同一円筒軸上、A円筒軸と90度をなす軸上、B円筒軸と約30度をなす軸上、に配置されていることが多い。AとBのように同一軸線上に陰極炭素棒を配置しないことで、発生した光をなるべく無駄なく反射鏡に当てるようにしている。
 陰陽電極間で発生したアーク光は全周囲に光を放つが、発光点のすぐ前に小型の反射鏡を配置しておくことで、殆どの光は後部の大型の反射鏡に入り、そこで光は円筒とほぼ平行な光として探照灯前面へと反射される。


     図2 探照灯の構成と、陽極炭素棒と陰極炭素棒の位置関係

 アークを発生させるには、陰陽両極を軽くタッチさせて一度電流を流し、両極間に電流が流れ始めたらアーク放電が発生する適切な隙間を開けなければならない。また炭素棒は陰陽どちらとも放電により消耗する為、炭素棒をそのままにしていると間隔が広がってアーク放電が止まってしまう為、消耗した分だけ炭素棒を移動し、アーク放電を継続させる給炭機構が必須となる。更に均等に炭素棒を消耗させる為に棒を軸周りに回転させたり、冷却しなければならない。こうした両極炭素棒周りの機構について各探照灯メーカーは特許を押さえてしまっており、後発だった日本の探照灯メーカーは特許回避に苦労させられることになる。

 アークの発生に手間がかかることから、実際に目標に対して照射を行う前に予め点灯しておき、円筒前面に設けた遮光扉の開閉で照射のオンオフをコントロールしていた。遮光扉には、垂直に短冊状に複数並べられたものと、フィルムカメラの絞り機構と同じものと2通りのものがある。



急速孤光発生装置

 日本独自の工夫である。燃焼する陽極炭素棒と陰極炭素棒の他に、補助陽極棒を準備し、先に陰極炭素棒と補助陽極の間で通電を行ってアークを発生させ、その後で補助陽極を陽極炭素棒へと移動させ、発生したアークを陽極炭素棒と陰極炭素棒の間へと橋渡しする機構である。海軍の92式3型探照灯とそれ以降の海軍の探照灯、そして陸軍の1式照空灯(固定)に採用されている。

          図3 急速孤光発生装置の仕組み
探照灯の光力について

 光の単位としてルーメン(光束)、カンデラ(光度)、ルクス(照度)などがあるが、探照灯の光力の単位にはカンデラ(光度、cd)が用いられる。Wiki[2]によるとカンデラは光源からの光束を立体角で微分したもの、とある。
 ややこしいことに、このカンデラという単位が設定されたのが戦後である。つまり戦時中に使用された探照灯の光量はカンデラではなく、それまでカンデラの代わりに用いられていた「燭(燭光、candle power、cp)」という単位で表されているということである。幸いなことに、カンデラと燭は近い値であり、以下のような関係になっている。

  1cp = 0.981 cd
  1.02 cp = 1 cd

 また、探照灯の光力を表す際に、光源光力と反射光力の2つが用いられているようである。光源光力はアーク放電の光力そのもの、反射光力は反射鏡から反射される時点での光力のことだろうと思われるが、厳密な定義は不明である。探照灯に関する資料を見ると、そのどちらかのみが数値だけ書かれていることが多く、非常に混乱させられる。

 更に複雑なことに、日本海軍の探照灯においては他の探照灯の光力から大きく外れた値となっている。米軍の翻訳資料[30]や台湾での引渡資料[7]では、96式150p陸用探照灯の光力は「13600cp(燭光)」となっている。台湾の引渡資料[7]では「光源光力」となっているのだが、アーク電力・電流が共に劣る陸軍の93式でも光源光力は10万燭光であり、桁が1つ少ない(表1)。RIKUGUN2[24]だと、単純にこの値を10万倍して反射光力としているが、それだと出力に劣る96式150p陸用の光力が1式150pを越えてしまうことになる。更にRIKUGUN2の元ネタと思われる米軍まとめ資料[29]だと、96式150p陸用探照灯について「光源光力13億燭光、反射光力8億燭光」という有り得ない値を書いている。恐らく、光源光力はmillionとthousandを間違えており、正しくは「光源光力13万燭光、反射光力8億燭光」なのではないかと思われる。反射光力が8億燭光なら、辻褄が合いそうである。

 そこで、米軍の翻訳資料[30]や台湾での引渡資料[7]での海軍探照灯の光力は「光源光力」で、値は「1桁不足している」と仮定しておくことにする。
表1:主要な探照灯の性能 [3][4][5][6][7][29][30]
名称 直径 電圧 電流 光源光力 反射光力
陸軍 93式150p 150cm 78V 150A 10万燭光 5〜6億燭光
陸軍 1式150p 150cm 90V 250A 20万燭光 10億燭光
独陸軍 SW34 150cm 78V 200A - 9.9億燭光
米陸軍 スペリー M1942 150cm 78V 150A - 8億燭光
海軍 96式150p陸用 150cm 85V 200A 13.6万燭光 8億燭光
海軍 92式110p 110cm 76-82V 200A 12.8万燭光 -
海軍 須式150p 150cm 70-80V 150A 9万燭光 -
探照灯の操縦方式

 探照灯の操縦は、最初は手動で行われていた。直接胴体を動かすか、もしくはハンドルで探照灯の向きを操作し、肉眼で目標へと合わせていた。また対空用の探照灯でハンドルの柄の長さを3〜5m近くとり、旋回はこのハンドルの柄(操縦桿)で探照灯そのものを動かすという機構も作られていたが、テコの原理で操作が楽だったのと、探照灯に近い場所では探照灯の光で幻惑されてしまう為ではないかと推測される。

左:ドイツ軍のSW34(写真の出所不明)、右:英軍の型式不明探照灯[8]

 探照灯の光力が向上し、より遠方の目標を相手にしなければならなくなると望遠鏡が必要となり、また探照灯の近くでは光芒に幻惑されてしまうため、探照灯から離れた場所からの操作が要望された。そこで、望遠鏡を用いた遠隔操縦装置が発明される。この装置は日本陸軍では「離隔操縦機」、日本海軍では「管制器」、米軍では「control station」と呼ばれている。遠隔操作の機構には、機械的なものや電気的なものが色々と考案されたが、電気的な機構が主流となる。この探照灯用遠隔操縦装置は、望遠鏡の向いている方向に、探照灯が自動的に向くシステムとなっており、特に日本海軍ではこれに対応した探照灯を「従動式」と呼んだ。

左:英陸軍の遠隔操縦装置[9]、右:英海軍の遠隔操縦装置[10]
 更に、空中聴音機やレーダーから得られた目標の大まかな位置を遠隔操縦装置に入力して探照灯をその位置に向け、必要ならば望遠鏡越しに微調整を行うシステムも開発された。
 このシステムは対空用探照灯のみで、水上用探照灯では用いられなかったが、その理由は水上目標を聴音機や初期のレーダーであるメートル波レーダーで捕捉できなかったためであろうと思われる。その為だと思われるが、艦艇用がデフォルトであった日本海軍の探照灯管制器には、外部からの目標情報の入力インターフェースが付属していなかった。そこで海軍は陸上配備した管制器を聴音機等と接続する99式連動装置を開発することになった。

米陸軍の遠隔操縦装置:両側の2人で旋回・俯仰の各指針(右写真)が中央に来るようハンドルを操作することで聴音機からの目標諸元が遠隔操縦装置に入力される[11]


電動連動機構

 探照灯と管制器、管制器と空中聴音機を連動させる際、速度と精度を両立させることは技術的に難しかった。日本海軍の96式110p探照灯の開発で、富士電機はレオナード制御の直流電動機と強力なセルシン電動機とを組み合わせた同期駆動方式を発明し、以降の陸海両軍の各種探照灯や、機銃射撃装置等に応用されることになった。レオナード制御やセルシン電動機の仕組みがどうなっているかについては理解しようと努力したものの無理だった。この辺[12][13]に色々と書かれている。


日本における探照灯の開発の流れ


日本における探照灯メーカー

 大正から昭和初期にかけての日本における主要な探照灯メーカーは、ドイツのシーメンス社とアメリカのスペリー社の2社であった。大正12年に古河電機がシーメンス社と提携して富士電機を設立し、シーメンス社の技術を基に探照灯を開発、生産した。また東京計器は大正10年にスペリー社と探照灯とジャイロコンパスに関する独占契約を結び、探照灯の開発と生産を行っていた。両社共に全くのライセンス生産というわけではなかったものの、設計や部品をシーメンス社とスペリー社に頼り切った状態であった。
 しかしドイツの再軍備等に伴いシーメンス社からの技術供与が止められたことや、特許料等の問題から、国産化が進められることになった。これに際して、陸海両軍を通じて機器や技術が両社間で交換されるようになる。陸軍の93式150p照空灯と海軍の92式110p探照灯を富士電機が開発してからは、陸海軍共に富士電機が中心になって開発が進められるようになったようである。[14][15][16]
 生産に関しては、富士電機と東京計器以外にも、東芝で生産されていた他、日本光学(ニコン)が反射鏡を生産している。[17]



日本における探照灯の開発の流れ

 輸入品や海外製品のライセンス生産から始めて、そこで得られた技術を基に、国産化を行っているのは他の兵器と同様である。探照灯の場合、陸海軍で共通の製品を開発したり、陸海軍間で製品を供与するといったことは行われていないが、開発を同じ会社で行っていたこともあり、陸海軍の製品間で技術を流用したり、開発ベースにしていたようである。



      図4 陸海軍の主要な大型探照灯の開発の流れ(推定)
陸軍の照空灯(探照灯)


呼称について

 陸軍では、対空用の物を「照空灯」、水平砲台や陣地用の物を「探照灯」と呼んでいるが、厳密ではなかったようで、対空用の物であっても偶に「探照灯」という記述も出て来る。また探照灯本体そのものの事を「射光機」と呼ぶこともある。時代が古いと「電燈」という呼び名もあった。
表2:陸軍の照空灯一覧 [3][4][18][24][29]
名称 直径 電圧 電流 光源光力 反射光力 照射距離 重量
ス式150p 150cm 78V 150A 6.3万燭光 - - -
シ式150p 150cm 78V 150A - - - -
93式150p 150cm 78V 150A 10万燭光 5〜6億燭光 6〜8km 1.0t
1式150p(固定式) 150cm 90V 250A 20万燭光 10億燭光 10q 1.5t
1式150p(移動式) 150cm 90V 250A 20万燭光 10億燭光 - -
3式200p 200cm 90V 300A 25万燭光 20億燭光 12km 3.2t
ス式開放型照空灯

 電極が露出した開放型の探照灯。構造が簡単で軽量であり、前面ガラスが無い為に光のロスが少ないが、風に影響を受けることが大きく、また大迎角で炭素棒の供給が困難であった。操作は手動で、操縦桿(約3m)を用いた。
  口径150p、電流150A、電圧78V、光源光力63000燭光[18]


ス式軽胴型照空灯(ス式150p照空灯)

 米国のスペリー社製の60インチ(約150p)探照灯を東京計器製作所が製造したもの。93式150p照空灯が採用される以前に、後述のシ式150p照空灯と共に部隊に多数配備されていた。基本的な性能は93式150p照空灯と同じだが、離隔操縦機は備えていない。前面ガラスと遮光扉は放射状形状をしており、排気ファンを備えている。大迎角で陰極炭素棒が反射鏡上に落下する事例が多く発生したことから、後にその部分が改良された。トラックに搭載して移動を行う。
  口径150p、電流150A、電圧78V、光源光力63000燭光[18]
改修軽胴型照空灯

 ス式開放型照空灯に胴を追加したものであり、風の影響を受けにくくなった。炭素棒の供給方法も変更されたが、手動で点灯時間も短く、胴を追加したことで炭素棒交換作業が困難になった。部隊に配備されたものは少ない。
  口径150p、電流150A、電圧78V、光源光力63000燭光[18]


左:スペリー社の開放型照空灯[19]、右:下関要塞のス式150p照空灯[20]
左:マキン島のス式150p照空灯[21]、右:演習中のス式150p照空灯[23]
シ式軽胴型照空灯(シ式150p照空灯)

 ドイツのシーメンス社が開発し、富士電機が製造したもの。ス式150p照空灯と同様に、93式150p照空灯が採用されるまで、部隊に多数配備されていた。資料[18]では離隔操縦機を持たないと書かれているが、絵葉書を見ると離隔操縦機らしきものも描かれている。ス式と異なり排気ファンを持たず、自然通気による排気を行う為、ス式よりも静かで便利であった。遮光扉は垂直多扉式である。
  口径150p、電流150A、電圧78V[18]

 防空探照灯は従来米国スペリー社及びその製造権を有する東京計器製作所が指名を受けて供給していた。昭和3年からは当社(富士電機)も指名されて、防空用シーメンス式150p移動型探照灯を受注するようになった。この探照灯は移動、照射、撤収を敏速にするために発電自動車を備えて、移動する場合に射光機、離隔操縦機、電続等の一式を搭載して運行し、照射の場合には直流発電機(110V160A)を運転し、弧光電力、駆動電力等を供給し得るようになっていた。[15]

            絵葉書のシ式150p照空灯
            絵葉書のシ式150p照空灯
93式150p照空灯
左:93式150p照空灯[24]、右:発電トラックと射光機と離隔操縦機[16]

 陸軍の最もポピュラーな防空用照空灯であり、1式照空灯の生産が開始されてからも、終戦時まで生産されていたようである[17]。終戦時には約1300基の93式150p照空灯が存在していた[24]。生産期間中、幾つかの改良が行われていたようで、細かい外見が異なるものも存在する。

 ス式照空灯とシ式照空灯が制式とならない内に部隊に多数配備されてしまい、2種類の装備が混在することで取扱や教育で問題が生じた。また、どちらも製造に多額の特許料を徴収されていた。その為、国産照空灯の開発が進められ、昭和7年頃に完成したのが93式150p照空灯である。主な開発項目は、@ス式・シ式何れの特許にも抵触しないこと、A大迎角で陽極炭素棒が反射鏡面上に落下しない構造であること、B離隔操縦機を備えており、また離隔操縦機と聴音機との間で電気的連動装置を備えていること、の3点であった。[18]

 昭和7年からは前述の電圧分離器をを用いた同期運転方式が採用され、更に翌年にはこの型の改良機を試作した。改良の要点は離隔操縦機と空中聴音機とを連携したことであり、これによって暗夜でも射光機を容易に目標に振り向けることが出来、照射によって直ちに光芒中に目標を捕捉し得るようになった。更に目標補足を便にするために光芒開角を調整可能にした。また炭素棒の保持とその送り方法に著しき改良を施した。 この試作品は直ちに陸軍制式として採用され、93式150p探照灯と称せられた。同時に他の製作者も本制式によって製作することとなった。
 この93式は昭和13年頃から急速に需要を増し、当社は毎月5〜10台を納入し、合計数百台に上った。なお本機に装備する電源発電機はすべて当社が一手に引き受けて、他の探照灯製作会社にも供給したが、その製作数量は当社用を含めて1000台を超えた。[15]

 昭和8年に開発、制式化されたが、本格的な生産が始まったのは昭和15年になってからである。93式は、スペリー製探照灯と2点のみ異なっている。1つは、排気ファンが無い事、そして2つ目は、垂直遮光扉を前面レンズのすぐ後ろに組み込み、照空灯本体からの手動と、離隔操縦機からと、どちらからからも操作可能になっていることである。この2点は、素早いブラックアウトもしくは信号発信に用いることが可能であった。アーク制御は半自動式で、燃焼速度調整が可能だったが、陽極炭素棒の位置調整を行うためのサーモスタット等の機構が無かった。旋回、俯仰、シャッターの開閉、ビーム幅の変更といったことは、全て離隔操縦機から可能だった。
 探照灯には小さな車輪がついており、発電トラックの荷台に引き上げて搭載された。使用の際には、トラックから引き下ろし、発電トラックから電源ケーブルの長さである200m以内に場所で使用可能だった。離隔操縦機は、ケーブルの長さが100mで、探照灯からその範囲内で使用可能だった。95式大聴音機を使用した場合には、70mのケーブルによって情報を離隔操縦機に直接送信することが可能だったが、それ以外場合は聴音機から電話線を引き、音声で情報伝達を行った。電源はトラックから供給されたが、水冷式の39馬力のガソリンエンジンによって発電された。[24]

左:離隔操縦機[25]、中:正面[26]、右:左側面、円弧型読取窓?[27]

 93式離隔操縦機は、左右1組の接眼レンズを持っており、それは10倍の双眼鏡としても使用できた。左側の接眼レンズは、90度左に曲がった視線を持っており、円弧型読み取り窓を通して、望遠鏡(と探照灯)の相対位置と、聴音機からの情報を示した2つのポインターが一致するかどうかを確認することができた(右側の接眼レンズのみが望遠鏡として機能)。1組の円形ハンドルは、双眼鏡と探照灯の俯仰角を操作した。操縦機の三脚の上部分は自由に旋回できるようになっており、電気的に探照灯へと送られた。また探照灯の遮光扉の開閉や、光芒開角(ビーム幅)(0〜6度)の変更も可能だった。
 操作に際して、まず最初に聴音機から送られてくる俯仰角と旋回角のデータの方向に操縦機と探照灯を向け、双眼鏡で見ながら探索を行う。光芒が目標を捉えたら、双眼鏡によって目標を追尾し、捕捉し続ける。2つのポインターによって、双眼鏡の動きに照空灯の灯火が追随しているかどうかを確認することができた。[24]


93式150p照空灯 主要諸元:[3][4]
 全備重量:7400kg
  射光機:重量1000s、長さ2.03m、幅1.58m、高さ2.40m
  離隔操縦機:115kg
  発電自動車:5800s、長さ6.45m、幅2.10m、高さ3.45m
 光源光力:10万燭光  反射光力:5億燭光  照明距離:約8q
 孤光電圧・電流:78V、150A
 発電電圧・電流:110V、163A


資料[24]での諸元:
重量:700s 光源光力:17万燭光、反射光力:6億燭光、照射距離6q、78V、150A
陽極棒16x560mm、陰極棒11x305mm。消耗速度 陽極280mm/h、陰極120mm/h
発電機重量3t、18kw、105V、150A
離隔操縦機重量150kg、最大俯仰速度10秒/90度、最大旋回速度140秒/360度

1式150p照空灯


1式150p照空灯についてのややこしい話

 陸軍の作成した一次資料や、戦後に防空担当者によってまとめられた砲兵沿革[18]史や高射戦史[28]を含めても、1式150p探照灯は1種類しか言及されていない。しかし米軍の資料[24][29]だと「固定式」と「移動式」の2種類が存在し、また写真も2種類の1式150p探照灯が存在する。
 米軍資料で「固定式」と呼ばれている1式150p探照灯は、本体も離隔操縦機も、海軍の96式150p陸用探照灯と見た目が良く似ている。一方の「移動式」と呼ばれている方は、93式150p探照灯を進化させたような形状である。外見だけでなく内部機構も異なっており、「固定式」は海軍系の探照灯と同じ急速孤光発生装置を備えたもので、炭素棒の微調整を行うサーモスタット等の自動調整機能は持っていない。一方の「移動式」はスペリー社の照空灯のようにサーモスタットとレンズを用いた炭素棒の自動調整機能を持っている。

 推測なのだが、本来は「移動式」と呼ばれている方が陸軍の正統な1式150p探照灯だったのではないかと思われる。しかし複雑な機構を組み込もうとして開発が遅れてしまったことから、比較的成功していた海軍の96式150p陸用探照灯をベースに、電圧と電流を拡大して当初の要求仕様を満たす「固定式」をでっち上げたのではないだろうか。結局、「移動式」はまともに量産を開始できないまま終戦を迎えてしまい、米軍の調査員は開発段階の「移動式」の存在を知ることになったものの、運用側は2つ目の「移動式」1式150p探照灯が配備されていなかったことから、1式150p探照灯と言えば少数でも配備が済んでいた「固定式」の1種類のみであるという認識になったのではないだろうか。実際にどうだったかは不明だが、今後直接の開発者の書いた資料が出てくることがあれば、こうした裏事情が判明することになるのかもしれない。



1式150p照空灯(固定式)

 陸軍の一次資料や戦後にまとめられた関係者による資料に出てくる1式150p照空灯は、固定式のことを指しているようである。射光機や離隔操縦機の重量が海軍の96式150p陸用探照灯と近い[3][4][30]。 高射戦史[28]によると、昭和20年6月頃の東京の高射第1師団での1式照空灯の配備数は14基で、高射連隊毎に1〜2基づつ分散配備されている。一方で北九州の高射第4師団では、配備された1式照空灯6基を集中的に配備している[18]
左:1式150p照空灯(固定式)トレーラー搭載タイプ[15]、右:直接固定タイプ[29]

 1式150p照空灯は陸軍の標準モデルとして開発された。しかし、生産の制限から、前線で93式150p照空灯と置き換えられたのは少数だけだった。固定式の方が移動式よりも生産数が多かった。(海軍系の探照灯と同じ)急速孤光発生装置を備えており、アーク電流・電圧はそれぞれ250A、90Vで、炭素棒の燃焼速度を制御できるだけだった。サーモスタット等の装備は無く、陽極炭素棒の送りは手動で行っていた。旋回角は360度、俯仰角は-10から100度で、旋回・俯仰のデータは探照灯に表示されない。探照灯の旋回と俯仰の動作はセルシン式モーターによって行われた。光芒開角は0度から6度で、照空灯本体から手動で設定した。手動の遮光扉開閉装置も装着可能だった。[29]

 1式探照灯は、開発の遅れと生産工数の増加(1250人日→1377人日)のため、93式に代わって本格的に生産が開始されたのは1944年の後半になってからだった。本来なら、全ての照空灯を1式で置き換える予定だったが、前線で使用されたのは40基のみで、それ以外の1300基は93式のままだった。
 照空灯は重量が増加してトップヘビーになった為、空気入りタイヤのトレーラーに搭載され、トラックの後ろに牽引されることになった。[24]

左:胴体横のアーク操作装置、右:内部のアーク発生部、左が陰極で右が陽極[29]
左:離隔操縦機 直接固定タイプ[24]、右:発電機とコントロールパネル[29]

離隔操縦機(固定式)

 見た目が海軍の96式管制器2型と良く似ているが、細かいディテールが異なっている。

 この操縦機はセルシン式モーターによって駆動され、操縦機の動きを探照灯に伝えている。操縦手は装置のシートに座り操縦した。操縦機のコントローラーを上下左右に動かすと、照空灯も上下左右に動いた。聴音機等の外部ソースから目標データを表示する手段はこの操縦機には存在しておらず、音声で操縦手に伝えられた。視覚による点的と追跡を行うために、15倍率10p双眼鏡が装着されている。[29]


発電機(固定式)

 93式までは運搬トラックが発電車を兼ねていたが、出力向上に伴い1式からは発電機が独立した。この発電機は6気筒空冷ディーゼルエンジンによって32KWの直流発電機を駆動した。267A、120Vまで発電可能だった。また付属の220Vの交流発電機も駆動され、セルシン式モーターに電力が供給された。1式照空灯(固定式)の発電機は移動を考慮されておらず、少数が小車輪の台車に搭載されていた。この台車付き発電機は、トラックの荷台に引き上げて陣地間の運搬を行った。[24][29]


1式150p照空灯(固定式) 主要諸元:[3][4]
 全備重量:5500kg
  射光機:重量1500s、長さ1.5m、幅1.7m、高さ2.3m
  離隔操縦機:500kg
  発電機:3500s、長さ2.3m、幅1.1m、高さ1.5m
 光源光力:20万燭光 反射光力:10億燭光
 照明距離:約10q
 弧光電圧・電流:90V、250A
 発電電圧・電流:120V、305A


資料[24]での諸元:
 陽極棒17x800mm、陰極棒16x420mm。消耗速度 陽極900mm/h、陰極90mm/h
 発電機重量3t、32kw、115V、267A
 離隔操縦機重量500kg、最大俯仰速度5秒/90度、最大旋回速度20秒/360度
1式150p照空灯(移動式)

 射光機の見た目は、シ式150p照空灯と93式150p照空灯に良く似ている。ただ架台は海軍の92式探照灯や96式150p陸用探照灯の架台と似た肉太な形状になっている。小車輪の台車に載せてあることから、陣地間の移動はトラックに搭載していたと思われるが、資料[24][29]にはその記述がない。離隔操縦機の上半分は、海軍の96式管制器1型と似た雰囲気を持っている。

左:1式150p照空灯(移動式)、右:同左の離隔操縦機[31]

左:離隔操縦機の右面、右:牽引式発電車とコントロールパネル[29]
 この照空灯は、日本の150p照空灯の中で最新式の物である。サーモスタットとレンズを組み合わせることで、自動アーク生成と陽極炭素棒の自動位置調整を行っているが、これはスペリー社のシステムに極めてよく似ている。93式照空灯よりも炭素棒が太くなり、電流は250A、電圧も90Vに向上し、10億燭光の光を出すことができた。光芒開角(0-6度)は照空灯からも離隔操縦機からも制御可能だった。遮光扉も装着可能で、照空灯からも離隔操縦機からも制御可能だった。旋回角は360度、俯仰は-10〜100度で、手動でも、離隔操縦機からセルシン式モーターを使用した遠隔操作からでも制御可能だった。 データ表示機能はない。[29]


離隔操縦機(移動式)

 三脚式で、聴音機やレーダー等からのデータをセルシン式モーターを介して受信可能である。目盛りの付けられたダイヤルの下にある半円球体の指示器にデータが表示された。指示器の上の同心円リングによって偏差の合計が表示された。操縦機を動かして十字の下の同心円リングの中心を合わせることで、離隔操縦機と照空灯をデータの示す方向に合わせるのである。 2つのハンドルの内の1本はデータに合わせるために使用し、もう1本は、機械的に接続されているが、これは目標が跳ね飛んでしまった場合、操縦手は双眼鏡で目標を追いつつ、このハンドルを動かして目標を追尾することができた。この離隔操縦機には15倍10p双眼鏡が装着されており操縦手が使用した。光芒開角と遮光扉は離隔操縦機から操作可能だった。[29]
 1式照空灯の開発において、新型の離隔操縦機の開発に手間取ってしまった。操縦機も重たくなった為、移動式では専用のトレーラーに搭載された(?)。[24]


発電機(移動式)

 空冷式8気筒ディーゼルエンジンによって、35KWの直流発電機と、220Vの交流発電機を駆動した。直流発電機は267A,115Vの性能だった。これらは手の込んだトレーラーに搭載され、見た目も流線形っぽいものだった。[29]


主要諸元:[29]
 反射光力:10億燭光
 弧光電圧・電流:90V、250A

200p3式照空灯

 1式150p照空灯(固定式・移動式の記述が無いが、おそらく固定式)の拡大版であった。4基のみ製造され、1基だけ([24]では4基とある)使用されていた。1式150p照空灯の離隔操縦機と発電機を改良したものが使用されていた。[24][29]
左中右:3式200p照空灯[29]
左と中:離隔操縦機、運搬用トレーラー付、右:発電機[29]


主要諸元:[24][29]
 射光機重量:3175s 
 発電機重量:3t、35kw
 離隔操縦機重量:500kg、最大俯仰速度6秒/90度、最大旋回速度23秒/360度

 陽極棒17x800mm、陰極棒16x420mm。消耗速度 陽極1400mm/h、陰極100mm/h
 光源光力:25万燭光、反射光力:20億燭光、照射距離12q、
 弧光電圧・電流:90V、300A
 発電電圧・電流:115V、305A

陸軍の沿岸砲台用探照灯

 米軍資料や社史で、対空用の照空灯と沿岸砲台用の探照灯がゴッチャに書かれていることもあり、範囲外ではあるものの、陸軍の沿岸砲台用の探照灯について、ここにまとめておくことにしたのだが、沿岸砲台用の探照灯についての資料が殆どない。どういう種類が存在したのかと色々な資料を調べてみたものの、、資料毎に言葉がブレていて識別が難しい。例えば「96型」というものと「96式」というものが出てくるのだが、どうも書く人によって「型」と「式」が変わっているような様子である。また「探照灯」と呼んだり「射光機」と呼んだり「電燈」と呼んだりしてややこしい。そして形態タイプに関する言葉も「固定式」「可搬式」「遊動式」と3種類出てくるのだが、「固定式」が文字通り、また「遊動式」も小車輪で陣地内移動可能という意味であると推測できるが、「可搬式」は分解搬送可能という意味なのか、それとも小車輪付きで陣地内の移動が可能なのか、今一つ明確でない。書かれている資料によって、分解搬送と小車輪付きと意味が変わっているように見える。

 そこで資料[33][34][35]辺りを基にして、昭和16年前後に存在していたと思われる、沿岸砲台用の探照灯の型式をまとめてみた。「数字+式」は「数字+型」に統一している:

 ス式150p/110p/90p固定式
 ス式90p可搬式
 ス式150p自動車式
 シ式200p固定式

 93型150p/90p可搬式
 93型150p自動車式
 94型150p/110p/90p可搬式
 96型150p可搬式/固定式

   固定式:ある位置に固定、もしくはエレベーター式
   可搬式:小車輪の台車を持ち、陣地内を移動可能
   自動車式:トラックの荷台に搭載されている?


以上のような仮定の下で話を進める。
シ式200p探照灯

 大正15年に富士200p探照灯第1号を完成した。その大部分はシーメンス社の設計によったもので、反射鏡、6p双眼鏡、灯器、離隔操縦機の接触盤などの部分はドイツから輸入し、そのほかは当社で制作したものだった。孤光電流200A、陽極炭素棒径16o、陰極炭素棒径12oの組み合わせで、反射光力は34億燭光以上であった。 その後製作した数台は輸入部品を減じて自社製に置き換えるようにしたが、昭和6年ころからシーメンス社はドイツ軍部の圧力によって、部品の輸出に応じないばかりか、技術供与さえも拒絶するに至ったので、以後はすべて自社独自の研究と工夫とにより、漸次改良を加えた。[15]
左:93型150p可搬式?[36]、中:94型150p可搬式?[32]、右:96型150p可搬式?[15]


93型150p探照灯

 日本築城史[36]に「150p可搬式射光機」として上左の写真が掲載されている。初期の93式150p照空灯(絵葉書として写真が幾つか存在するが未入手)と似たシンプルな造りであることから、恐らくはこれが93型150p探照灯で、93式150p照空灯をほぼそのまま沿岸砲台用に流用したのではないかと思われる。

 それまでの探照灯は、操縦の途中に眼鏡の旋回よりも光芒の方が遅れて目標を逸することがあったが、昭和7年には電圧分割器(ポテンシャルディバイダ)と同期電動機との組み合わせによる同期運転方式を開発して、探照灯と離隔操縦機との完全同期運転を可能にしたので、この欠点は除去された。また反射鏡の大きさは200pから150pとなった。[15]
94型150p探照灯

 資料[29][32]に「Type 96 Searchlight」として出ている写真(前ページ中央)の探照灯は、形状を見るに、94型ではないかと思われる(93型よりも外見が複雑で、後述の96型としてしまうと説明内容と矛盾する)。資料[29][32]の文章も、流れからして94型の説明であるように思えるので、下ではそのように修正して引用している。間違っているかもしれない。

 この探照灯は93型のアークシステムの炭素棒供給メカニズムに改良を加えたものである。離隔操縦機と発電機は93型の物を使用した。[29]

 (沿岸砲台で)最も多く使用されていたのが、陸軍の94型150p探照灯だった。この150p探照灯は電流150A、電圧78Vで光力が6億燭光だった。この探照灯のアーク発生システムは、サーモスタット等の陽極炭素棒の位置制御を行う仕組みが存在しておらず、手動で行ったこと以外、スペリー社製探照灯と良く似ていた。遮光扉の操作は、離隔操縦機からでも探照灯からでも行えた。旋回角は離隔操縦機から駆動モーターを用いて操作することが可能だった。俯仰角用の駆動モーターも装備されていたが、それを制御する手段は存在しなかった(沿岸砲台用の探照灯には俯仰角の遠隔操作機構は不要であるが、それがあるということは照空灯を流用していたから?)。[32]


96型150cm探照灯

 10年以上前にこの探照灯のまとめを作成した際、富士電機社史[15]の「96式150p探照灯」の写真(前ページの右の写真)を海軍の物だとしていたが、現時点では陸軍の沿岸砲台用の96型150p探照灯であると仮定しておく。この写真の形状を見るに、架台(ハンドル含)と台車は93式150p照空灯のものとほぼ同じであり、胴体上部の排気系部品や前面部の形状も、海軍の96式150p陸用探照灯や追尾式150p探照灯とは異なっていることから、陸軍系の探照灯であるとした方がおさまりが良いだろう。また下記の富士電機社史からの引用文では、おそらく93型から96型までを一気に説明してしまっていたようなので、都合の良い部分で切り取ってある。また式を型に修正している。

 孤光電流200A、陽、陰炭素棒の径はそれぞれ14o、11oに、光源光力は一層強大となった。昭和13年には艦載用探照灯の操縦方式を取り入れた96型150p探照灯を完成した。なおこれら(93型から96型まで?)の製品中には孤島の山頂などに据え付けられる場合もあって、その目的に応じて各部を個々に分解できる可搬式あるいは遊動式のものを製作した。[15]
海軍の探照灯

表3:海軍の探照灯一覧 [7][29][30][37][39]
名称 直径 電圧 電流 光源光力 反射光力 照射距離 重量
須式90p 90cm 72-75V 150A 9万燭光 4億 4000m 1.0t
須式110p 110cm 75V 150A 9万燭光 - 6000m 1.2t
須式150p 150cm 70-80V 150A 9万燭光 - 7000m 1.4t
斯式110cm 110cm 73-75V 150A - - - -
92式90p 90cm 76-82V 200A 12.8万燭光 - - 1.6t
92式110p 110cm 76-82V 200A 12.8万燭光 - 6000m 1.6t
96式90p 90cm 85V 200A 13.6万燭光 - 4000m 1.1t
96式110p 110cm 85V 200A 13.6万燭光 - 6000m 1.3t
96式150p(艦載用) 150cm 200V? 300A - - - -
96式150p陸用 150cm 85V 200A 13.6万燭光 8億燭光 8000m 1.5+0.26t
追尾式150p 150cm 85V 200A 13.6万燭光 8億燭光 8000m 1.5t
注:光源光力は資料の値[30]を10倍したものを用いている
須式探照灯

左:キスカ島の須式75p探照灯[23]、右:恐らく左と同じ探照灯[26]
左:米海軍の須式90p[39]、中:日中戦争時、上海[40]、右:ニューブリテン島の須式75p[41]

 92式探照灯が出てくる前は、艦載用探照灯の多くがスペリー社製だった。口径は75p、90p、110p、150pとあったようである。後にアーク発生システムを92式や96式と同じものに改造して出力向上を図ると共に、92式や96式と同じ炭素棒を使えるようにした。旧式化して艦艇から撤去されたものを、地上の防空砲台や水平砲台で使用した。[15][37][38]

資料[37]から幾つか特徴を拾ってみると以下のようになる:
 ・昭和8年当時、須式110p探照灯は主力艦や妙高級・高雄級重巡に、また須式90p探照灯は加古級重巡や軽巡、特型駆逐艦、須式75p探照灯は一等駆逐艦に搭載されていた。
 ・機構は論理的だが、複雑で微妙な箇所が多く取扱いに注意が必要
 ・須式110p探照灯:電圧75〜78V、電流150A、有効照射距離7500m(水平)
 ・電動式の管制器を持っていたものの望遠鏡が無かった為に、一旦照射を行わないと探照灯を指向できない

 管制器については、オリジナルから造兵廠式望遠鏡付縦動管制器、同U型、方位盤式(13式)管制器といった内製の物に置き換えられていたようである。[37]



斯式探照灯

左:山城昭和7年4月20日[42]、中:日中戦争時[40]、右:90p探照灯[43]

 須式以前は、シーメンス社製の探照灯が主流だったようだが、詳細は不明である。上の3枚の写真も、須式とは異なった古い探照灯ということで集めているだけで、本当に斯式探照灯なのかどうかはわからない。

 資料[37]によれば:
 ・構造が簡単で取扱いが容易、作動も確実でアークも安定するが、光力が低い
 ・斯式110p探照灯:電圧73〜75V、150A、有効照射距離5000m(水平)
 ・管制器は斯式望遠鏡付縦動管制器、斯式追尾管制器というシーメンス社製のものが付いていたようだが、詳細は不明。
92式探照灯

 海軍初の国産化探照灯だが、富士電気社史[15]の記述を見ると、オランダのネダロ社製の探照灯をベースにでっち上げたような感じである。何とかネダロ社製探照灯をネットから探したかったのだが見つからない。92式がそれまでの他の探照灯と異なるのは、胴体がアルミ合金製で肉厚(鋳造?)であり、全面カバーに大きな蝶番が付けられていることである。耐爆と耐水、狭い場所での整備性を考慮してのことだと思われるが、あまりに突然に出現する為、どこかに参照元となった製品があるのではと思っていたのだけど、まだ確認できていない。
 色々な92式探照灯らしい写真を見てみると、少なくとも2つのバージョンがあるようだが、どれがどういう名称なのかまでは不明である。そもそも、こうした写真の探照灯が92式であるという明確な資料は存在しておらず、状況証拠から推測しているものに過ぎないことをお断りしておかなければならない(96式としている本もあるようだが、本の題名が判らないので判断ソースを確認できない)。口径は110pと90pとがある。

正式な名称は、以下の通り:[50]
 92式従動110p探照灯2型及び92式従動探照灯管制器2型 昭和8年 内令兵17
 92式従動110p探照灯3型及び92式従動探照灯管制器3型 昭和9年 内令兵31

左:昭和8年6月献納絵葉書、中:終戦時伊勢[44]、右:昭和12年11月蒼龍公試[45]

 上3枚は同じ形状の探照灯のように見える。左の写真は昭和8年6月に将校婦人会によって行われた献納品の絵葉書であるが、この探照灯は他の多くの92式探照灯と形状が色々と異なっている。もしかすると、これがネダロ社製探照灯なのかもしれないし、92式の初期バージョン(1型?2型?)かもしれない。よくわからない。
左:終戦時青葉[44]、右:昭和13年6月鳥海[46]
左:ボルネオ島バリックパパン[47]、右:サイパン島[26]
左:ボルネオ島バリックパパン[48]、右:ボルネオ島バリックパパン[49]

 初期型?とは異なる他の多くの探照灯は、ほぼ同じ形状をしている。陸上の防空砲台でよく見かけることを考慮すると、艦載探照灯としては最新の96式ではなく、96式の登場によって旧式化した92式探照灯なのではないかと思われる。

 本機は海軍艦政本部関係の発注品であった。艦載用としては従来もっぱらスペリー式90p探照灯以下が採用されていたが、昭和6年に初めてオランダのネダロ会社(ned-aero、シーメンス傍系)製の艦載用110p探照灯及び管制器1組を当社から納入した。それは軽合金板張りの弧光電流200Aのもので、管制器はスタンド型、管制方式は従動式と称するものであった。海軍では従来のものに比して著しく高性能を有する点を認め、以後艦載用110p探照灯は全量を当社に発注することになった。
 昭和7年にこの探照灯および管制器30組を受注したが、そのころはすでに兵器に関するシーメンス社の技術提供が途を絶たれていたので、これが製作は純国産化の良い機会でもあった。製作に際しては上記輸入品に比して著しく改良され、各種の性能は数段向上した。本機は92式110p探照灯及び管制器と称された。同期駆動方式は電圧分割器と同期電動機とを組み合わせたもので、極微速の制御に於いて両者を円滑に運転することが困難であった。[15]

資料[37]から幾つか特徴を拾ってみると以下のようになる:
 ・機構極めて簡単にして取り扱い容易なり
 ・堅牢にして爆風に耐える
 ・重量大なるに反し旋回俯仰極めて軽易なり
 ・水密完全なり
 ・換気装置:電動機により強制換気
 ・110pでの 炭素棒の直径(陽極、陰極):14o、12o
           点灯時間(陽極、陰極):40分、1時間30分
 ・孤光安定度:稍安定
 ・孤光電圧、電流、孤光長:76〜82V、200A、30o
 ・110pでの 固有拡散角(度、1/1000単位):1度30秒、26
       照明圏直径:157m(6000m)、210m(8000m)
       有効照射距離:9000m(水平)

また同資料から[37]、92式3型の92式2型に比べて改善された点:
・重量軽減
・孤光の発生は陰極炭素棒は30度傾斜のまま固定
・補助炭素棒が孤光発生の際陽陰炭素棒間の仲介をなす(急速孤光発生装置)
・灯扉を止めて遮光器にした(?)


重量については:
 110p:1.75t[30]、1810s[7]
 90p:1.6t[30]

92式探照灯管制器

 写真は確認できていない。艦艇模型のページ[51]で艦艇図面に描かれていた管制器の絵等を基に3Dモデルが作成されており、これによって形状を想像することができる。トキメック社史[16]に「92式は2人座乗式で、旋回と俯仰を別々に操作した」とある。

資料[37]から、管制器3型の2型に比べて改善された点は以下の通り:
 ・単眼望遠鏡が双眼に変わった(見張能力大となりし)
 ・修正角の修正は探照灯が動いて修正角を取る
 ・重量軽減(200s)


94式探照灯管制器

 資料[37]によると、92式110p、90p探照灯用に使用されていた。92式管制器と同じく、艦艇模型のページ[51]で艦艇図面に描かれていた管制器の絵等を基に3Dモデルが作成されている。

正式な名称は以下の通り:[50]
 94式探照灯管制器1型及び94式探照灯管制器2型 昭和10年 内令兵49




96式110p、90p探照灯

 明確に「これが96式110p(90p)探照灯だ」という写真が見つかっていない。そこで手に入る多数の探照灯写真を仕分けして、他のどれにも分類でき無さそうなものを、とりあえず96式110p(90p)探照灯としてみた。いずれもトラックの荷台に直接搭載されたもののみであり、もしかすると資料に出ていないだけで、トラック搭載用に開発された別の種類の探照灯かもしれない。

 96式150p陸用探照灯と多少似ているが、胴体構造がしっかりしており、正面と背面の蓋に大きな蝶番が付けられている。耐爆や耐水、狭い場所でのメンテナンス性を考慮した構造であると推測できることから、艦載用の探照灯なのではないかと思われる。しかし92式110p(90p)探照灯や後述の96式150p探照灯の蝶番は上側に付いており、そういう意味では純粋に艦艇用として開発されたものではないのかもしれない。

正式名称は、以下の通り:[50]
 96式探照灯管制器、96式110p探照灯及び96式90p探照灯 昭和13年 内令兵20

左:小キスカ島、小銃の長さから110pくらい[23]、右:サイパン島[52]

 資料[26]等では、これらトラック搭載の探照灯の口径を98pとしている。前面カバーの開口部の内径が胴体内径よりも小さくなっており、開口部内径で98p、胴体内径で110pなのではないかと思うのだが、本当のところはわからない。
 1枚目の小キスカ島の探照灯は前面カバーの縁と架台の形状が他の物とは異なっているように見える。また別の種類の探照灯なのだろうか。
左:ニューギニア[53]、右:ニューギニア[54]
左:タラワ、ベシオ島[26]、右:サイパン島[55]

 96式探照灯及び同管制器においては、ワードレオナード方式による速度制御、セルシン方式による同期整合をなす方式を採用し、充分なる性能を付し得たが、管制器重量容積の関係上小艦艇には搭載不能且つ多量生産に適さなかった。[38]

 種々研究を重ねた結果、レオナード制御の直流電動機と強力なセルシン電動機とを組み合わせた同期駆動方式を発明したのである。このレオナード発電機の界磁を振動接点制御器で制御することにより、速度比1:300の広範囲において、多数の同調電動機(直流電動機と強力セルシンを直結したもの)の完全同期運転が可能となった。本方式は探照灯に限らず、後記の機銃射撃式装置や74砲架などにも広く応用されるようになった。 昭和11年には上記の新方式を採り入れた96式110p探照灯及び96式探照灯管制機の製作を完成した。その試験成績が優秀であったので、従来スペリー式を採っていた90p探照灯も96式に改めることになり、これに従って昭和12年以降、当社発明による同調電動機、振動接点制御器、レオナード電動発電機などは当社が独占的に供給するようになった。[15]


96式110p[30]:(光力は元資料のまま)
 電圧:85V, 電流:200A、アーク長30o、光力:13600CP、重量1.3t

96式90p[30]:(光力は元資料のまま)
 電圧:85V, 電流:200A、アーク長30o、光力:13600CP、重量1.1t



96式150p探照灯(艦載用)

左:武蔵[56]、右:武蔵[57]

左:海底に沈む大和の探照灯[58]

 96式探照灯の内、口径が150pのものは大和型にだけ搭載された。96式110pと比べて孤光電圧・電流共に強化されている。同じ96式150pでも96式150p陸用探照灯と異なり、胴体は恐らくはアルミ合金製で、防水と耐爆を考慮して頑丈に造られており、正面と背面の蓋の上部にヒンジが設けられている。
 改造の際に大和・武蔵から陸揚げされた探照灯の一部が呉と佐世保の防空砲台に配備されたらしいのだが[38]、どこに配備されたかは明確ではない。徳山警備隊の太華山防空砲台の96式150p探照灯は電圧が220Vと書かれていることから[59](通常の96式150p陸用探照灯の電圧は85V)、これが艦載用だったのではないかと思われる。

 昭和20年になると艦船用探照灯予備品はほとんど不要となってきたので、これらが管制機付きであることを利用して陸上用150p探照灯の不足を補って陸上に装備することとなり、90p、110pは一部照空隊に供給進出せしめた他、内地の要地に装備せられた。特に大和、武蔵用150pは佐世保及び呉付近に装備せられ威力を発揮した。[38]

 昭和16年、17年には、巨艦武蔵、大和に搭載する96式探照灯、同管制器及び選択切断器を納入した。探照灯の弧光電流は300Aで、この2基に選択切断器1基を組み合わせて管制器で制御するもので、1艦に8基を備えた。[15]
追尾式150p探照灯

左:舞鶴の空山防空砲台[60]、右:トラック諸島モエン島[62]

左:トラック諸島エテン島[61]、右:トラック諸島モエン島[62]

 追尾式150p探照灯は、資料に名前が出てくるものの、自分の中では長らく正体不明の探照灯だったが:
 ・トラック島の調査資料[62]に、モエン島の20p水平砲台の付属探照灯として
  写真と名前が挙げられていたこと
 ・それとほぼ同じ形状の探照灯写真のある舞鶴の空山防空砲台も、多少記述が
  怪しいものの資料[63]には追尾式150p探照灯と書かれていること

 この2つの点から、この探照灯を追尾式150p探照灯であると推定しておく。
 外見は、後述の96式150p陸用探照灯と良く似ているが、以下の点が異なっている:
  @排気ファンが胴体下部ではなく上部に付いている
  A前面の梁が十文字ではなく横一文字である
  B架台の形状がトラック搭載の96式110p探照灯や陸軍の96型150p探照灯に似て華奢な感じである
  C架台にハンドルが左右それぞれ1つずつ付いている(エテン島の写真)

 特にCについては、日本の他のほとんど全ての探照灯・照空灯の架台に付いているハンドルが1つ(俯仰用のみ)であることを考えると変わっている。探照灯を完全手動で操作する場合、旋回角は長く伸びた操縦桿を押して行うか架台を直接動かすかであり、また俯仰角は架台に付いたハンドルか操縦桿のハンドルで行う。完全自動で操作する場合、管制器や離隔操縦機によるリモートコントロールである為、探照灯側では何もしない。その為、架台に付いているハンドル(修正角用の小ハンドルは除く)は1つのみである。
 このことについて資料[29]では「96式150p探照灯との違いはコントロールシステムだけだった。追尾式はポインターを合わせることで操縦された」と書かれている。このポインターについてだが、同じシステムを用いていたドイツの200p探照灯SW40の例を挙げる。この大型探照灯は、手動での操作は行わず全てをリモートコントロールで操作するが、日本の主要な探照灯のように直接的なリモートコントロールではなく、探照灯に対して入力された信号は架台横にある俯仰・旋回の2か所のメーター表示板に表示され、俯仰・旋回の各操作員がハンドルを回して入力信号の針に追針を合わせることで、探照灯が信号の通りの方向へと指向するという仕組みになっている。[64]
 左右:ドイツ軍SW40探照灯[64]、旋回・俯仰にそれぞれ人が付く

 日本でも、海軍の方位盤式(13式)管制器はこれと同じ仕組みを採用しており、探照灯側に2名の操縦者を配置した。この時、ハンドルを回して追針を合わせる操作を「追尾」、またこうした仕組みの管制器を「追尾式(人力仲介式)」と呼んでいる。[37]
 左:空山防空砲台[60]、右:エテン島[61]

 ここで空山防空砲台の追尾式150p探照灯の写真をもう一度良く見てみると、ハンドルの上にあるのはカバーがかかっているメーターのようであり、エテン島の写真では逆側(写真右側)のハンドルにもメーターがセットになっているように見える。つまりこの追尾式150p探照灯は、管制器から直接リモートコントロールできるわけではなく、信号をハンドルの上にあるメーターに表示し、それを見ながら操縦者がハンドルを回して追針を追尾することで、間接的にリモートコントロールを行うタイプであり、その為名前に「追尾式」と付けられたのではないかと思われる。

 しかし疑問点も残る。92式探照灯で既に管制器から完全なリモートコントロールが可能なシステムを完成させているのに、何故ひと昔前のシステムに戻してしまったのか?ということである。光力性能は96式150p陸用探照灯と同じことから、少なくとも96式110p探照灯以降の製品である。
 一つ考えられるのは、軽量化ということである。胴体の造りから、陸上用として開発されたのは間違いなく、陸上での移動や設置の為、軽量でなければならない。信号の受信システムを追尾式にすることにより幾つかの電動機やその付属機器が不要となる為、幾らか軽量化が進むと思われる。実際、資料[30]によれば、本体そのものの重量は96式150p陸用探照灯と同じ1.5tであるが、96式150p陸用探照灯にある付属機器0.26t分が追尾式には含まれていない。
 左:「追尾=Mobile Type」としている[30]

 追尾式150p探照灯に関して混乱を招いた情報として、資料[30]に「追尾式」を「Mobile Type(=移動式)」と解釈した箇所がある(上図)。10年前はこの箇所に引きずられ、富士電気社史[15]の小車輪付きの「96式150p探照灯」という写真の探照灯を追尾式の事だと早合点してしまうことになった。
 確かにトラック諸島モエン島の追尾式150p探照灯の写真では、レールを利用した移動式の陣地となっていることから、何かしらの誤解をしていたのか?とも想像できるのだが、それだけではないかもしれない。
 もしかすると、追尾式150p探照灯も、陸軍の96型150p探照灯のように分解搬送も可能であり、その意味を込めて「Mobile Type」と翻訳していた可能性もある。


 また、97式空中聴測装置とセットで運用されていた形跡がある。97式空中聴測装置が配備されていたことが判明している本土の防空砲台は、大平山(呉)、高島番岳(佐世保)、そして空山(舞鶴)の3か所あるが、いずれも追尾式150p探照灯を配備している。ただその逆に関して、追尾式150p探照灯がある防空砲台に97式空中聴測装置は必ずしも存在しない。


96式150p陸用探照灯

 海軍の純粋な陸上用防空用探照灯。正式な名称は資料が無くて不明。引渡目録等を調べてみると、以下のようにバラエティに富んでいる:

  96式150p探照灯一型陸上用
  96式150p探照灯一型改一
  96式150p探照灯一型改一甲自動車付
  96式150cm探照灯一型改一自動車付
  96式150cm探照灯100V陸上用
  96式150cm探照灯陸上用二型(?一型の誤記?)
  96式150p一型陸用探照灯

 「一型」と言うのが陸上用を示すのか、そうではないのか不明であること、また文字数を少なくしたいことから、ここでは一般名称を「96式150p陸用探照灯」としておく。
 左:場所不明[65]、右:タラワ、ベシオ島[66]

 海軍が陸上防衛専用に開発した防空用探照灯であり、生産数は海軍の中では恐らく最も多い。アーク発生システムや管制器は96式110pのものをそのまま転用したようだが、胴体は薄い鋼板製で、ヒンジも無い。後に資源不足で簡易化が進められ、遮光扉が廃止された。「改一」がこれに当たるのかどうかは不明である。
 左:クェゼリン[67]、右:クェゼリン[68]

 左:バリックパパン[69]、右:場所不明[24](資料だと陸軍1式とあるが陸用)

 前線用としてトラック搭載型も製造されたが、これはトラックの荷台に直接搭載するのではなく、4輪トレーラーの上に探照灯を搭載したものをトラックがけん引するものであった。その際、トラックの荷台には管制器が搭載されていたらしいのだが、管制器付のトラックの写真をまだ見つけられていない。

 防空探照灯は、12p双眼鏡付き管制機により管制せらる96式150p200A固定装備を制式とした。一方、戦線の急速な前進移動に対処する為、陸軍同様車両搭載の移動式のものが要望せられたので、固定式の探照灯をトレーラーに装備し、管制機をトラックに搭載、トラックエンジンにより発電点灯するごとく計画、月産20台程度の整備に着手したが、トラック入手の関係で最初の物を完成するには発注後半年以上を要した。爾後実際整備数も月産10台に達せぬ貧弱さであった。[38]

 96式探照灯の200Aが基準であった。大和型搭載の150pでは300Aであった。 陸上防空用探照灯能力の増加の要望に対しては、艦船用同様150p300Aとすることとし、準備を進めたが、実現するに至らずして終戦となった。[38]

 構造資材の転換節約と多量生産上の見地より、呉工廠を主体とし、製造会社と数次に渡り、研究会を開き機構の簡易化を計った。主として生産数増加を要した陸上用150p、艦用75p、40p探照灯につき実施した。
イ)部品数が余りにも多い点で多少の性能の低下、操作上の不便は忍ぶこととし、出来得る限り部品減少を計った。遮光扉の廃止等がその大きな例である。
ロ)ボールベアリング入手難に対しては、支障なきものは極力スリーブベアリングに転換すると共にボールベアリング使用種類を極限した。
ハ)歯車製造能力特にベベルギヤ−の製造能力不足したので歯車機構をスパーギヤーを主とする如く簡易化した。[38]

 海軍基地防空用としては、同上の96式150p陸上用探照灯を昭和16年から終戦まで引き続き数百組を納入した。[15]


 スペックについては、[7]に詳しい記載がある(原文では照空灯になっていたが探照灯に直した。光力は原文のまま):

96式150p探照灯(陸用)一型
 全重:1520s、光源強度:13600燭光、反射光有効照程:12000m、
 反射光有効照径:300m、焦点距離:650o
 孤光電圧:直流83〜87V、孤光電流:直流200A、孤光長度:約30o
 陽極岸棒:30分、陰極岸棒:90分

96式150p探照灯一型改一
 全重:1480s、光源強度:13600燭光、反射光有効照程:12000m、
 反射光有効照径:300m、焦点距離:650o
 孤光電圧:直流85±2V、孤光電流:直流200±10A、孤光長度:約30o
 陽極岸棒:30分、陰極岸棒:90分

96式150p探照灯一型改一甲自動車付
 全重:3150s、光源強度:13600燭光、反射光有効照程:12000m、
 反射光有効照径:300m、焦点距離:650o
 孤光電圧:直流83〜87V、孤光電流:直流200A、孤光長度:約30o
 陽極岸棒:30分、陰極岸棒:90分

99式連動装置

 海軍の探照灯管制器には外部からの入力インターフェースが存在しなかった為、聴音機で得られた目標の情報は、管制器の操縦者に対して電話を介して口頭で伝えられていたようである(資料[29]による陸軍1式照空灯固定式の離隔操縦機の仕様からの推測)。97式空中聴測装置では入力インターフェース付きの管制器もセットで開発・生産が行われたが、取扱が難しく性能も悪かった為、仮称ヱ式聴音機に取って代わられることになった。そこで仮称ヱ式空中聴音機用に、既存の管制器と聴音機とを接続するインターフェースとして99式連動装置を開発した。陸軍の離隔操縦機と同様に、聴音機の探知した目標方向に管制器と探照灯を同期させ、かつ管制器の双眼鏡から微調整を行う仕組みだったようである。


 対空防御が大きな問題となり、空中聴音機で敵機を探知し、探照灯でこれを照射し得る装置の要望があった。これに対し、我々は照空連動装置と名づけた次のような装置を試作し、呉の付近の陸上砲台に装備された。この装置では、探照灯、およびその管制器は、機銃射撃装置と同様に一体として連動させ、空中聴音機は、これとは別にその旋回俯仰発信器を設け両者間の角差を、差動受信器(セルシン型)で求め、この角差が零となるように、探照灯のレオナード発電機を制御するようにした。制御方式は機銃射撃装置と同様に、一個の把手で操作する方法を採った。聴音機の精度は、余りよくないので、聴音機の指示する方向の周辺を照射探索する方法をこれに付加した。このために旋回、俯仰夫々に差動発信器(探索角度を発信するもの)を付加した。この装置は良好に作動したが、間も無く電探が登場し、聴音機が使われなくなったので無用のものに帰した。[14]

 ドイツ製の空中聴音機と、探照灯との連動装置を完成して、その実用実験が行われた。部内各科からも応援を得て、警固屋の高烏砲台跡で行ったが、当夜は星の綺麗な夏の夜で、その夜のさまは未だに脳裏に焼きついている。種々の型をした飛行機に飛んで貰い、先ず空中聴音機でその位置を捕捉し、これに自動的に探照灯を追従させて、時折探照灯を照射しながら、索的の度合を確認する実験だった。私は探照灯の管制器を操作する配置だったが、12cm望遠鏡で見る星空や、視界に入った飛行機の美しさは忘れ得られない。真夏の作業だったため昼間は肌が焼け、汗の流れる激しい実験だったが、夜に入っての爽やかさのために元がとれる様に思われた。この実験が完了して、辛労加給とかで特別の報奨金も支給された。又、「99式連動機」と正式に命名もされて、技術有功章も受領した次第である。[14]
電波探信儀の装着

左:第二海保の4号電波探信儀3型改一(L2電探)、右:管制器[70]

 電探が実用化されると、探照灯の管制器に送信アンテナを、探照灯に受信アンテナを直接取り付けられたものが開発された。


 探照灯を電波探信儀に追従せしめ目標補足をなす方式に関してはセルシン通信器により方向を受信追尾するものは従来の聴音機との間に使用せる99式連動装置をそのまま採用した。一方探照灯専用電波探信儀としては96式探照灯器に直接受信空中線を同管制機に発信空中線並びに受信機を装備する方式を完成、L装置と称した。本装置は電波探信儀電気部分のみを新製すれば足り、装備比較的容易であったので、終戦時までには相当数を整備し得た。[38]


96式管制器

 96式探照灯の管制器には、形が全く異なる1型と2型の2種類が存在した。1型の写真は殆ど残っておらず、唯一手許にある物もシルエットが辛うじて読み取れるくらいのものである。艦艇模型のページ[51]で艦艇図面に描かれていた管制器の絵等を基に3Dモデルが作成されている。2型の形状は非常に独特で、何か元ネタがあるのではと思うのだが、現時点では見つけられていない。
 左:灰ヶ峯防空砲台の96式管制器1型[71]、右:室蘭の96式管制器2型[25]

 左:佐世保の96式管制器2型[25]、右:上海の96式管制器2型[72]

 左:バリックパパンの96式管制器2型[73]、右:五老山の96式管制器2型[60]

 操作性が好評だったのか、陸軍の1式照空灯固定式と3式照空灯に、似た物が採用されている。しかし重量が0.5tもある為、3式照空灯では移動用に専用の2輪トレーラーを付属させている。

資料[30]によると:
 96式管制器1型 俯仰角-10〜90度、重量580s
 96式管制器2型 俯仰角-10〜100度、重量465s
  最大旋回速度はどちらも16度/秒
空中聴音機



 空中聴音機は、夜間に飛行する目標を探知する道具として発明された。その基本的な仕組は単純である。人間は左右の耳での音量差と時間差によって音源の方向を感じとっているが、空中聴音機はこれを利用している。上下左右に大きなラッパ状の集音器を配置し、上下担当と左右担当の操縦者が、自分の両耳で目標が正面に来るように、それぞれ俯仰角と旋回角を操作することで、目標の位置を計測するのである。この時、方向感を上げて方向判定の精度を上げるために集音ラッパの間隔を広げ、また音を拡大しつつ、正面の音だけを拾いとるために集音ラッパを大きくしている。

 目標の速度が大きくなると、目標が音を発してから聴音機が音を拾うまでの時間に、目標が移動する距離が大きくなり、精度が大きく落ちてしまう。また音は風速や温度によって進路が曲がってしまう。その為、連続して測定した方向情報等を基に、目標位置を修正する機構が考え出された。また、離れた場所に配置した2基の聴音機から得られた情報を合成することで、より精度を上げる仕組みも考え出された。
 しかし目標の速さが次第に音速に近くなると、こうした修正も意味がほぼ無くなってしまい、レーダーへとその座を明け渡すことになる。一方で、レーダー等に比べて安価で取扱いも容易であったため、位置精度がそれほど必要でない見張目的として、終戦時まで生産・使用され続けた。

 目標の速度が小さくても、1度近い誤差が発生する為、高射砲の諸元を取得するには、探照灯による目標の照射と光学機器による測的が必要であり、セットで運用されていた。また、防空範囲外縁での見張目的で、聴音機単独か、探照灯とのセットで運用されていた。
(以上、主に[74]より)
トキメック社史[16]によると、開発初期の頃は以下のような苦労があったらしい:
 大正15年9月頃、技師坪井真男が主となり、研究所において部分的に聴音機修正装置の試作設計を開始したのが、聴音機製造に関与した最初であった。翌昭和2年、聴音機による探照灯の管制装置の開発及び製造を行い、昭和4年にはラッパ、本体および修正装置完備の、探照灯と連動する完全な聴音機を他社に先んじて完成させた。
 聴音機の機構内には直径1mくらいの歯車のほか、多数の歯車があり、モータやシンクロ電機が取り付いていて、これらから発生する雑音を数デシベルに軽減する為に非常に苦労した。防音室内で、雑音を騒音計で測定しながら調整したが、室内は全くの無音のため、長く居ると気分がおかしくなる人もいたほどであった。[16]



陸軍の空中聴音機

表4:陸軍の主要な空中聴音機の性能 [30]
名称 水平間隔 垂直間隔 最大距離 水平誤差 垂直誤差 重量 人数
90式小空中聴音機 1.3m 1.7m 6000m 290kg 4
90式大空中聴音機 - - - - - - -
95式大空中聴音機 - - - - - - -
90式小空中聴音機

 左:長崎、終戦時[65]、右:場所不明、昭和17年4月[75]
余切(余接、コタンジェント)線図とプロット板[29]

 高射戦記[28]の記事によると、組み立て三脚式。大型に比べて多少の性能は落ちるものの、移動が容易だった為に野戦照空隊で使用された。探知性能は6〜7km、B29だと10数kmとある。生産に関する資料[77]によると、細々とではあったが生産は終戦まで続けられた。

 組立三脚式で移動を容易にし、当時の自動貨車により、人員と共に積載行動し得る大きさである。構造の原理は大型と略同様であり人員及び其受持区分並びに訓練様式等は同じく、音の濾過性や聴音能力は大型に劣るけども分解組立調整等は著しく容易であるので主として野戦照空隊の聴測兵器として使用された。その構造の簡単なると取扱容易且つ訓練の強化によっては許し得る精度を出すことが出来るのと構成聴測網に配備せる数箇の聴音機の連携により総合精度を期待し、要地に於いても相当数を使用されたが戦闘の推移に伴い音源が複雑となり、訓練は低下し而も組織的多数使用の配備構成は漸次崩れ其の能力を十分に発揮し得ないことが多くなった。然し照空灯に協力するためには大戦中常に某程度の精度を保持し簡易に重用使用された。[18]

 膨大な数の聴音機が必要であったため、性能は劣ったが90式小空中聴音機に生産を集中した。三脚に支えられたテーブルの上に俯仰方向に動く4つのラッパが装着されている。テーブルには、集音ラッパとテーブルに機械的に接続した余切線図があり、音源情報から、目標の現在位置データを計算してくれる。計算されたデータを直接外部ソースに出力する機構は備えておらず、計算された結果は、聴音機のすぐ近くにある指揮所に口頭で伝えられた。聴音機は分解して運搬用の箱に収納することが可能である。聴音距離は約6000mであった。[29]

 日本陸軍の標準的な聴音機だった。ラッパの開口部の直径は50pで、逆側の管に接続している部分の直径は3pだった。俯仰角を測定するラッパの間隔は垂直方向に1.7m、旋回角を測定するラッパの間隔は水平方向に1.8mだった。重量は260sで、4名で操作した。旋回角は360度の全周、俯仰角は-5度〜90度だった。マニュアル書によると、好天時での探知距離は7qで、誤差角は1度とある。ただ、別のソースだと、誤差角は俯仰角で1度、旋回角で4度だとしている。プロット板と余切線図によって、音速によるタイムラグを修正する。出力すべきデータは目標の対地速度だが、これについては通常は推定値だった。データ転送システムが無かったため、データは余切線図から読み取り、口頭で照空灯部隊に伝えられた。[24]



90式大空中聴音機

 左:大阪市の防空演習[75]、右:トキメック社史より[16]

 高射戦記[28]の記事によると、4輪台車式で、ラッパは30分程で分解可能だった。ただしラッパが大きかったので風雨の影響を受けやすく、野戦には向かなかった。
 使用方法は、目標の移動方向を仮定して設定すると、方向用・高低用の受音ラッパと機械的に連動した指針が動き、余切線図上で音源の現在位置や一定時間後に存在すべき未来位置等を簡単に計測できた。ただしこの計算機能は目標が等高度、等速度という仮定のものでないと使えなかった。
 
 4輪台車式であってラッパ型受音機は分解して自動貨車に搭載し、良好道路に於いては移動することが出来た。組立、分解には約30分、精度はなお満足出来なかったが当時の航空機の実状と聴測手訓練の強行に依り概ね実用に供し得るものであった。然しラッパ型の受音器は能力上其開口部の中径を或る程度大きくしたが、聴感音を良好にするため管体の内部形状にはエクスポーネンシャルを採用し、自然長大となり各俯角に於ける機体の平衡又は操作に際して円滑無音特に旋回時の慣性が小なることを要し形態の大なるに比し軽量で丈夫でなければならないなど構造上難しい条件が伴い取扱上にも種々の配慮が必要であり、使用保存共に風雨の障害を受け易く其特異形状と比較的大型のため大要地用として使用するものとされていた。
 使用に先立ち予め某方向に機の方向分画を標定緊定すれば、爾後は受音ラッパの方向角、高低角は機械的に連動する機上の分画(余切線図)上に現われ之を看読することが出来、此の線図上に於いて測手が音源の現在位置又は其少時後に存在すべき位置等を簡単に計測し得るものであった。地形地物又は雲層等による音の反響、籠り、風によるラッパの共鳴り、周囲の雑音による障害又は長時の聴音探索による測手の疲労、寒暑の交感等は聴測精度を大いに低下するので用法上にも仲々困難なものがあった。[18]
 また東京計器の他に富士電機も製造をしていたようで、富士電機社史[15]によると昭和13年から14年にかけて陸軍用の大空中聴音機、小空中聴音機を製作したとある。



95式大空中聴音機

 左:場所不明[76]、右:参考になった?スペリー社の聴音機[22]

 名称について、砲兵沿革史[18]や高射戦史[28]といった高射砲部隊のOBのまとめた資料では「93式大空中聴音機」と書かれているのだが、当時の一次資料には「95式大空中聴音機」とある。なぜ2つともが揃って93式としていたのかがわからない。

 形状などを見るに、米軍の聴音機が元になっているようである。諸元データを離隔操縦機に直接送信可能な機能を持つなど高性能であったが生産数は多くなかった。資料[29]によると廃棄されたものも幾つかあり、廃棄後の台車を電波標定機の台車に転用していた。

 自動車による4輪被牽引式であって車台上にラッパ型受音機及び計算装置を有し道路を利用して迅速に移動展開可能である。受音の能力は90式大聴音機に略等しく受音機の方向、高低角は計算装置上の余切線図に電気的に投光され、之を基礎として計測すべき目標の現在位置は1名の簡単な操作により照射諸元として連続照空灯の離隔操縦機に連動せられる結果、諸元算定に際し又跡点描画のため連続発唱等の要なく機側は著しく静粛となった。又計算装置には風及び気温による偏差を自動修正する装置を有し標示する現在位置に自動的に修正せられる。なおラッパ口に装着すべき防風網を付属し直接風の障害特に共鳴りに対し若干の効果を期待した。[18]

 聴音機の聴音方向、高低角は機械的に四輪トレーラの上の修正機に伝えられた。修正には光線を利用し、光線の上に載せた余切板とよばれるガラス平板上に投影された光点で目標の位置を表示した。この余切板上の光点の移動から、目標の方向と速度を知り、修正手が手動で追従した。これによって目標の現在方向、高低角はシンクロ発信機から93式探照灯の遠隔操縦機に伝達された。[16]

 95式は最新式だったが非常に容積が大きく複雑であった。大量の聴音機が必要な陸軍は、より軽くて生産も容易な90式に生産を集中した。幾つかの95式は廃棄され、その台車はレーダーに流用された。[29]

 調査に際して実物が残っていなかった。日本軍将校からの聞き取りによると、95式は大型で、トレーラーに搭載され、4つのラッパを持つ聴音機であった。目標の現在位置はガラス製の余接プロット板上に光のビームで投射された。投射された点をセルシン転送装置に機械的に接続されたポインターで拾うことで、目標の位置データは93式もしくは1式照空灯の離隔操縦機に電気的に転送された。[29]




75式大空中聴音機

 高射戦史[28]「昭和2年11月完成、有効30km、光電」とある。
研究用の試作品、しかも電気式の聴音機かと思われるが、他に見当たらず、詳細不明。
海軍の空中聴音機


 艦艇で空中聴音機が使用されることは無かったが、国内外の海軍基地や要港の防空に必要となった。当初は陸軍の90式小空中聴音機をコピーしたり譲り受けたりしていたが、後に海軍独自の97式空中聴測装置を開発する。しかし複雑で性能も悪かった為、直ぐドイツの空中聴音機をコピーして大量生産を行い、それが海軍の主要な空中聴音機となる。しかし空中聴音機そのものの性能の壁が大きく、昭和17年頃に照射用電探の開発の目途が付くと、ヱ式聴音機の生産も早々に中止された。

表5:海軍の主要な聴音機の性能 [30]
名称 水平間隔 垂直間隔 最大距離 水平誤差 垂直誤差 重量 人数
90式空中聴音機 1.3m 1.7m 6000m 290kg 4
97式空中聴測装置 2.0m 1.35m 6000m 0.3° 0.5° 3.0t 2
仮称ヱ式空中聴音機 1.33m 1.33m 10000m 0.4° 0.4° 1.4t 3


90式空中聴音機

「日本海軍音響兵器整備経過の概要」[78]の記述によれば、陸軍のもの(90式小空中聴音機)を参考に技研電気研究部(音響研究部)で開発され、昭和4年〜12年にかけて東京計器で製作された。またこれとは別に、東京計器、日本計器(蒲田)および島津製作所(京都)で製造された90式小空中聴音機約30台が、陸軍から委譲された。

 幾つかの国内の防空砲台では、終戦時においても、この90式空中聴音機が配備されていた。

97式空中聴測装置

 左:聴音機(献納絵葉書)、右:高島番岳防空砲台の照空指導装置[25]

 海軍が開発した空中聴音機システムである。2組の聴音機と修正器、それらのデータを統合する的速高度測定器1台によって構成されている。このシステム全体で、高精度な聴音機1台の役割を果たすことになる。
 まず2台の離れた場所に置かれた聴音機で測定を行うことで計測精度を上げ、更に速度修正や、2つのデータの結合を、人手をかけることなく電気信号等を用いて行うことで、タイムラグを抑えることが可能となるのである。また、照空指導装置という名前の管制器を介して、聴測装置が測定した敵位置に探照灯をリアルタイムで指向させることも可能だったようだ。

 しかし、聴音機そのものの性能が悪かったこと、システムが複雑すぎて運用が難しかったことから、あまり使われることないまま、仮称ヱ式空中聴音機へとその道を譲ることになった。
「日本海軍音響兵器整備経過の概要」[78]の記述によれば、技研電気研究部(音響研究部)で開発され、東京計器と富士電機で昭和12年〜17年にかけて製造した。90式空中聴音機を基にして探照灯との連動を主眼として改造し、聴測照射装置と称した。聴音機2台と修正器2台、的速高度測定器1台で1組であり、それぞれの特徴は以下の通りである。

・聴音機:
鉄板製六角型木板張集音器を持ち、旋回方向は1.5m間隔(2.0mの方が正解?)、俯角方向は1.35m間隔で、三脚架台に装着された。音の拡大率は約20デシベル、指向性は1000サイクルで約30度、セルシン電動機による角度通報をもっていた。

・修正器:
的速を仮定することにより聴音方向と実際照準角度の修正を行うもので、半球形ガラス上に写される赤と白の光点から照射角を計算した。対応できる的速は80m/s(約300km/h)まで。

・的速高度測定器:
直径約1mの円筒上にガラス板があり、第一、第二修正器からの光点を一致させて高度(5000mまで)および的速(80m/sまで)を判定した。別に斜距離尺で目標までの距離も測定する。

 製作にあたって多数の小歯車のかみ合わせと精度の向上、セルシン電動機によって発生する騒音の除去に苦心した。主に内地の防空砲台に固定装備された。また製造された全部が献納兵器として取り扱われた。一組45000円で約30組が製作された。[78]
 97式は音速修正した目標の現在位置を、光学的に立体的半球上に投影させるのが特徴だった。聴音機の音速修正装置を通して、目標の現在位置の方向、高低角が角差修正器に送られる。角差修正器は聴音機と砲の位置の距離による視差を、簡単に図式で修正し、聴音機の探索した目標の方向、高低角を砲から見た角度に換算して伝達する装置であった。[16]


 空中聴音機は当初97式を用い照空指導装置ある場合はこれと連動せしめて用いられたが、同装置の取扱簡便ならざることと聴音機の性能が良好でないことに依って使用に堪えぬものとせられ昭和15年ヱ式空中聴測装置が完成されてからは殆どこれに置換せられた。[38]





照空指導装置

 97式空中聴測装置とセットで開発されたと思われる管制器。胴体以下の部分は米陸軍の遠隔操縦装置と良く似ている。写真を見ると、双眼鏡を覗く操縦者用に小ハンドルが2つ、左右の追尾作業者用に大ハンドルが1つずつ付いている(写真の米兵は、誤って大ハンドルの方を握っているが)。操作も米陸軍の遠隔操縦装置と同じだったのではと思われる。(探照灯の操縦方法を参照)
 聴音機本体も三脚式、照空指導装置も三脚式であることから、陸軍と同じように野戦での使用を念頭に開発されたのではないかと思われる。


 引渡目録に「照空指導装置」という名前ではなく別の名前で上がっているようで、どこに幾つくらい配備されていたのか、正確な数字は良くわからない。
 大平山防空砲台:追尾式150p探照灯の管制器として?
 高島番岳防空砲台:単に管制機、もしくは管制盤として


正式な名称は以下の通り:[50]
 照空指導装置 昭和12年 内令兵57
仮称ヱ式空中聴音機

 左右:長崎の長浦特設見張所のヱ式聴音機、移動台車?[65]

 左:コンクリート基礎、バリックパパン[81]、右:国民党軍のRRH聴音機(出所不明)

 左:元になったドイツ軍のRRH聴音機[64]、右:移動状態[64]

 ドイツ軍の空中聴音機「Ringtrichter Richtungshorer Horchgerat(RRH)」をコピーしたもの。聴音機としての出来は良かったらしいが(米軍資料[29]だと信頼性が低かったとの記述もある)、聴音機そのものの壁の為、あまり活躍できなかったようである。


 どういう経緯でコピー元であるドイツ製聴音機を入手できたのかという疑問について、直接説明してくれる資料は無い。米軍の報告書[79]によると黒島番岳特設見張所のヱ式聴音機の本体には「Electra Custic-Kiel 1937」のネームプレートが張られていたとある。銘板までコピーすることはあり得ないことから、ドイツ製のオリジナルも配備されていたようである。銘板に書かれた1937年は昭和12年、第二次上海事変の時であるが、この時国民党軍はドイツ製装備の部隊を展開していた。日本陸軍は高射砲を始めとするドイツ製兵器を鹵獲し、後にその内の幾つかをコピーしたのは有名な話であるが、国民党軍兵士がドイツ製のRRH聴音機を操作している写真(前ページ中段右)もあることから、その際にRRH聴音機も何台か鹵獲していた可能性もある。前記の黒島番岳のオリジナルは、その際に鹵獲したものであったかもしれない。

 どこまでコピーしたのか、という疑問についても直接説明してくれる資料も無い。国内の遺構で多く見かけるのは、コンクリート製基礎に直接聴音機を固定する装備方法である。前線や陸軍のように陣地移動が多いわけでもなく、この場合はオリジナルの持つ移動用トレーラーは不要となる。ただでさえ資源不足に悩む日本で、必要度の低いトレーラーまでコピーするとは思えない。南方戦線の拡大によって移動性が重視される昭和18年には、ヱ式聴音機の生産は終了してしまっている。
 一方で、米軍による接収時の写真(前ページ上の段の左右)を見ると、分割型移動台車(Sonderanhanger 104、Sd. Ah. 104)の一部まで含まれていること、また米軍の報告書[80]によると猫山防空砲台(ヱ式聴音機1基)に聴音機用の台車が2台あったと書かれていること、更には秋月防空砲台の聴音機壕のように固定用のコンクリート基礎が無く、かつトレーラーが入れる出入口が存在している場所が幾つかあること等から推測するに、幾つかの移動用トレーラーが配備されていたことも確かなようである。
 中国戦線での鹵獲が入手方法だったにしても、正規にドイツから輸入したにしても、入手されたドイツオリジナルの聴音機の数がわからないと断定は難しいが、入手したドイツ製聴音機の数が比較的多いようなら、ドイツ製を配置した防空砲台についてはトレーラー前提で聴音機壕を設計し、コピーしたヱ式聴音機についてはコンクリート基礎での固定を前提に、聴音機の本体部分しか製造しなかったのではないかと推測してみる。もしドイツ製がせいぜい数台も無いようなら、トレーラーまでコピーしていたものがそれなりの量存在した、ということになるだろう。


 「日本海軍音響兵器整備経過の概要」」[78]の記述によると、このヱ式空中聴音機はドイツのエレクトロ・アコースチック社製聴音機のコピーに電気的角度通報装置を付加したもので、呉工廠電気実験部で開発され、東京計器と富士電機、それから芝浦製作所(現在の東芝)が昭和14年から18年まで製造を行った。聴音機、修正器、そして角度通報装置が、全て1つの架台に取り付けられている構造をしている。

・聴音機:
円周を四分割しエキスポネンシャル類似形を角型に曲げた集音機で、旋回俯仰方向のラッパの間隔は共に1.3mである。音の拡大率は1000サイクルで約30デシベル、旋回手俯仰手は互いに向き合って座った。

修正器:
簡単な構造だが極めて巧妙な装置で、的速100m/s(約360km/h)までの目標速度を修正する。修正手も架台上に座る。

・角度通報器:
最初はセルシンモーターを用いていたが、後に呉工廠電気部考案の分割式角度通報機(探照灯に連動する(99式連動装置?))を使用した。

 昭和16年1月呉工廠電気部にて設計試作を行い、その後呉工廠から東京計器、芝浦製作所、富士電機の3社に各50台づつ発注された。1台の価格は約30000円。完成したのは約120台程度で、昭和18年には製造が打ち切られた。三社共に検査用として防音壁を特設するなどして、音響検査法が発達することになった。そして製品の精度は次第に向上して遂にはドイツ製品に劣らない製品が出来るようにまでなった。このヱ式は、主に前進基地用として固定、または移動用に装備された。実用的に設計され堅牢で作動円滑、兵器としては申し分なかった。また初期の電波探信儀の実験では、本機の架台をそのまま流用した。[78]


 空中聴音機は当初97式を用い照空指導装置ある場合はこれと連動せしめて用いられたが、同装置の取扱簡便ならざることと聴音機の性能が良好でないことに依って使用に堪えぬものとせられ昭和15年ヱ式空中聴測装置が完成されてからは殆どこれに置換せられた。  ヱ式空中聴測装置は97式に比すれば音響的には大差ないと思われたが、自体の中に簡単な敵の進行方向並びに敵針路速度計算機構を具えていたので呉海軍工廠に於て99式連動機なる名称の下にこのヱ式聴測装置と探照灯管制器及び探照灯を自動的に同期運転せしむるものを創案し之を用うることに依り探照灯の目標指向の費消時を減少することが出来たので照空能力上に大なる進歩をなさしめた。然し空中聴音機としての性能には本質的に限度があり実戦上なお充分な戦果を得られなかったので、昭和17年に至り照射用電波探信儀の出現を前提としてヱ式空中聴測装置の製造を中止せられた。但し地務の関係上之を用いて照空指揮可能なりとする論も多数存在した。[38]


 殆どの聴音機がヱ式だったが、機器の信頼性が乏しく、めったに使用されることは無かった。[29]





移動式軽便空中聴音機

 「日本海軍音響兵器整備経過の概要」[78]の記述によると、三脚台上にパラボラ型ラッパ2個を1.3m間隔に配置し、その中央に7cm7倍双眼鏡を装備してラッパと連動させるもので、前進根拠地や停泊中の艦艇の甲板上での哨戒に利用された。 沖電気で約30台が生産された。
探照灯と聴音機の配置、陣地

いずれ。
参考文献・リンク

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