興居島(釣島) 海面砲台





米軍の航空写真(M220-58、国土地理院)



2008.3.9 探索


瀬戸内海に入ってくる米軍の潜水艦対策として、松山の沖の興居島に海面砲台が造られた。何でこんな中途半端な場所にと思われる人も多いだろが、興居島と中島の間の釣島海峡が主要な航路になっていたためらしい。






左:砲台平面を南西下から、右:北西下から



左:東側の砲座、右:同左



左:中央の砲座、右:砲台平面部の現状



左:西側の砲座、右:砲台平面から南下を望む



左:釣島海峡、砲台の北西側、右:釣島海峡、北側







興居島の北東端、馬磯集落の北西側にある高台の上に砲座らしい円形窪地が3基ある。ただ、円形窪地の直径は3m弱であり、8cm砲の砲座としても小さ過ぎるように思えるが、配置はそれっぽいのでここではないかと推定しておく。窪地の中央を探ってみたが、基礎らしいものは見つからなかった。
砲座のある平坦面周辺には、3基の砲座らしい窪地以外に砲台らしい設備跡が見当たらない。探索が甘いのか、林道の建設の際に削られてしまったのかは不明である。

探照灯が1基あったのだが、場所はわからない。
航空写真を見ると、81m高地の北西下に探照灯らしい施設が写っている。現在は車道建設で削られてしまった可能性が高い。






左:砲台平面脇の道路から兵舎のあった谷を望む、右:水槽のある辺り



左:コンクリート製の水槽等、右:水槽、真中に段差がある



左:水槽の南側の平面部、右:同左にある小さな水槽?



左:コンクリート製水槽、右:水槽の北側の平面部



左:井戸のある平面部を南下から、右:井戸



左:井戸内部、右:井戸の北側





砲台の南側にある谷に、兵舎があったらしい。現在は蜜柑畑になっているが、水槽と井戸は残っている。元々馬磯の集落付近まで海で、その為に海軍が造ったこの井戸は戦後に重宝したそうである。

水槽は他の施設でもよく見られる形状をしており、確認できたのは1基だけである。北上と南下にそれぞれコンクリートで平面部が造られているが、何があったのかは不明である。発電機でも置いていたのだろうか。水槽はツタに覆われており、その奥に何があるかは確認できなかった。
水槽からもう少し下には井戸がある。井戸の北側に多少複雑な石垣があるので、この近くに兵舎があったのではないかと推測してみるが、確認するすべは無い。




日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和16年3月31日 呉鎮第451号
昭和16年12月 機密呉鎮守府命令第451号(呉鎮) 41式40口径8cm砲3、シ式75cm探照灯1
27KW探照灯用発電機(6気筒ガソリン機械90馬力)1、武式1m測距儀1
指揮所、兵舎、弾薬庫、発電所等兵力にて建設するものとする  
昭和17年1月 建設着手
昭和17年2月 竣工
2/22工事完成、配員完了
昭和17年3月 海面砲台、興居島  
昭和17年4月 41式40口径8cm砲3門、斯式75cm探照灯1
AEGディーゼル発電機1
配員 下士(臨14)、兵(臨30)
昭和17年8月 41式40口径8cm砲3、75cm探照灯1、7倍稜鏡2
17.2竣工(仮設砲台)、機密呉鎮守府命令第451号
TM式無線通信
仮設海面砲台、興居島砲台
昭和18年1月 海面砲台(第1砲台群)  
昭和18年6月 機密呉警備隊命令第41号(18.6.25)、警戒隊派遣、准士官2、下士官兵10  
昭和18年8月 機密呉警備隊命令55号、41号による警戒隊員を撤退すべし  
昭和19年10月 8cm砲3門 呉鎮命令第405号により撤収工事中
昭和19年11月 8cm砲水上砲3門 呉鎮命令第405号に依り撤去完了(下士官2、兵1)







ここから以下のページへいけます。