畑高地 応急防空砲台





畑高地 応急防空砲台(2006.5.12)






左:米軍の航空写真(1945年4月)、中:米軍の航空写真(M283-93、国土地理院)、右:地図(北を上に)





(注:いい加減なので背景の等高線は無視してください)



左:窪地A、右:同左の石垣



左:窪地B、右:同左



左:砲座?らしき窪地Cの石垣、右:砲座?らしき窪地C



左:砲座?らしき窪地D、右:同左内部の藪



左:砲座E、右:砲座Eの中心部に散乱する石



左:砲座E南端部の石垣、右:砲座E縁部



左:砲座F、右:砲座Fの外周の石垣



左:砲座F内部、右:砲座F内部にある謎の石垣



(注:いい加減なので背景の等高線は無視してください)



左:G部の北側、石垣と石橋、右:G部の北西部の石垣



左:G部の内部の北側凹部、右:G部の西側中央北側の石垣



左:G部の内部の南側凹部、右:G部の南西部の石垣



左:G部西下の石垣、右:G部南側の円形窪地



左:砲座H、右:砲座Hの外周部の石垣



左:砲座H、右:砲座H・I間西下の石垣



左:砲座I、右:砲座Iの内部



左:砲座I、右:平坦地Jの西側土塁



左:平坦地J東側の土塁、右:平坦地Jの南側土塁



左:平坦地J南下の平坦地、右:入り口



(注:いい加減なので背景の等高線は無視してください)


畑高地防空砲台は、呉市市史の防空砲台一覧には載っていないものの、戦時日誌の昭和19年11月分の記事と引渡目録に出てくる。

南北に延びる尾根上に遺構が並んでいる。北側の平坦地にある砲座CとDは羊歯が繁茂していて全体が確認できていないが、恐らく砲座だと思われる。窪地AとBは測距儀や管制器のものだろうか。砲座Eは非円形だが、これも砲座だと思われる。Fは内部に石垣と偏心部に一段低い円形窪地があった。砲座に使われていたかどうかは判らない。
G部は変わっている。全体が不連続ながら高い石垣に覆われている。北側には石の置かれた土橋があり、まるで中世の山城である。西側の下は補強の為に石垣が二重になっている。内部は南北に窪地があるが、何に使われていたのかは見当がつかない。また石垣には黒っぽい塗料のようなものが付着しているが、対空用の迷彩なのかもしれないし、ただの苔の可能性もある。(雨が降りそうだったのでゆっくりと確認する余裕が無かった)
砲座Hも偏心部に円形窪地がある。平坦地Jは周りを土塁で囲まれている。航空写真を見るとJの位置にも砲座らしきものが写っているので、戦後に埋め立てられてしまったのかもしれない。
Kには小屋の残骸と炭焼窯があるが戦後の物だろう。

1945年4月に撮影された航空写真を見ると、作りかけで半分くらいしか出来ていない。戦後のものを見ると必要数以上の砲座が写っているので、終戦までにはどうにか完成したものと思われる。


全体的に石垣が多用されており、見応えが良い。
ただ残念な事に北側は羊歯が繁茂しており、一部で遺構を確認できなくなってしまっている。登山道の一部として整備されているのかあちこちにピンク色のテープが巻かれており、何とか端から端まで探索できたが、このままでは藪に埋もれてしまうかもしれない。場所も良く、新しく道路も整備されているのだから、整備して展望公園か何かにしてくれても良いのではないかと思う。あれだけ立派な石垣は、なかなか見ることが出来ない。




日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和19年11月 8cm高角砲6門 呉鎮命令第426号に依り烏帽子高烏の砲6門を装備工事中
昭和20年1月 機密呉鎮守府命令第23号 昭和19年機密呉鎮守府命令第425号中左の通改正す
項1号中「切串」の次に「畑高地」を加う(呉鎮)
昭和20年8月31日 引渡:
12cm高角砲6門
ステレオ式2m高角測距儀付属品補用品共 1組
96式管制器 1組 (仮設)、12cm双眼望遠鏡 1個

用地:20455m2、建物:38m2



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