熊野 防空砲台





熊野 防空砲台


2006.4.28:土岐城山南峰を探索
2006.5.22:熊野神社裏を探索
2006.12.1:土岐城山南峰を再探索
2006.2.12:石獄山北麓と熊野神社裏、金ヶ灯篭山の支峰を探索



呉海軍警備隊戦時日誌の中で、熊野防空砲台の築城が終わったものの備砲は中止したという記事を見つけた。
そこで熊野町役場で防空砲台の事を聞いてみると、2ヶ所もあると返答をえた(後に熊野町史を調べたら3ヶ所)。しかもその内の1ヶ所は工事が中断したと言われており、戦時日誌の記述にも合う。早速場所を聞いて行って見たが、この時に行った土岐城山南峰では大きな円形窪地と兵舎跡を2ヶ所見つけただけで終わった。結果としてここは探照灯台であり、肝心の砲座は見つけられなかったのである。
そこで後日、郷原砲台を攻めた際にもう1ヶ所の熊野神社裏を探索し円形のコンクリート遺構を2基発見したが、これが砲座であるという決め手には欠けるものであった。
更に後日、土岐城山南峰を再探索したものの、1回目に探索した時に見つけた遺構以外に存在しないと言うことを確認しただけに終わってしまった。
そして年が明けて2月、漸く見つけた同業者の方と一緒に探索する機会を得て、熊野町史にある3ヶ所目の石獄山北麓を探索。3時間も山中を彷徨った挙句、ここには何も無い事を確認した。熊野町史の誤記に憤りながら、再度熊野神社裏を探索したところ、2基のコンクリート基礎の周りの草が刈られており、これが砲座である事を確認。更に学校のテニスコート近くで近所の方に話を伺うことが出来、テニスコートの位置に兵舎があった事、墓場の中に兵舎用の水槽が2基残っている事、そして金ヶ灯篭山の支峰に兵舎の残骸らしきものが残っている事が判明した。そこで大急ぎで支峰に登り、3ヶ所目の遺構を漸く発見したのである。
ただ、米軍の航空写真を見る限り、金ヶ灯篭山灯台の東下に兵舎らしきものや、また砲座の北側にある尾根上にも何か施設らしきものが写っているようなので、もう1回は熊野入りする必要があるようである。





3ヶ所の遺構の位置(青丸)、バツ印は町史の誤記位置





熊野神社裏手、砲座





米軍の航空写真(M850-A-36、国土地理院)



国土地理院の航空写真(MCG628-C19-12、1960年頃)



左:全体図、右:砲座付近





左:南側の砲座B、右:剥き出しの砲側弾薬置き場



左:南側の砲座B、右:南側の砲座Bを北側から



左:東側の砲座A、右:東側の砲座A



左:東側の砲座Aの内部、穴は砲側弾薬置き場、右:同左



左:砲側弾薬置き場の内部、右:同左



左:砲座の外縁上部、何かが設置されていたっぽい、右:同左



左:西側の砲座があっておかしくない辺りCを東側から望む、右:同左を西側から





山の西側に回ると、上水場へ通じる道があるのでこれを登り、フェンス沿いに回りこむと藪漕ぎをしなくて済む。

件の円形のコンクリート構造だが、メジャーで測ってみたところ内径は7mあり、操作半径3300mm(直径で6.6m)の89式12.7cm連装高角砲を装備可能である。また内部壁面に弾薬置き場が作られている事から、これが砲座であると断定してみる(値は原書房「高角砲と防空艦」より。横須賀海軍砲術学校の防空砲台設営参考書だと操作直径は8mなので、本当にそれでいいのかどうかはわからない)。外縁上部はレールでも載せられていたような複雑な形状をしており、またそれぞれの砲座の位置が近いことから、この砲座では覆が付けられていたのではないだろうかと想像してみるがどうだろうか(ただ、裏づけとなる記録や写真があると聞いたことが無いので怪しいものである)。現在は土で埋め立てられているが、砲側弾薬置き場の深さから考慮するに、内部の深さは1m以上はあるようである。

給水タンクDの南と東側に1基づつ砲座が残っている。西側にも連絡通路が残っているので、Cの部分にも砲座があったものと思われるが、埋まっているだけなのか撤去されてしまったのかは不明である。
現在残っているFとGも探索してみたが、はっきりとした平坦面ではなく、またこれといった遺構も残っていなかった。
また地元の人の話によると、上水場へ登る道は後から付けられたもので、当時はトンネル通路を通って砲座へ出るようになっていたとの事である。




兵舎用の水槽



左:北上の水槽、右:同左、上部は開いている



左:北上の水槽、蓋用のアンカーボルトが残る、右:同左



左:南下の水槽、内部を埋められて墓所の土台になっている、右同左:



左:南下の水槽、右:墓場の南側の学校のテニスコート



左:トンネルの入口があった付近、右:全景(右端が熊野中学)





熊野中学校(L)のテニスコートJの北側にある墓地内に、兵舎用の水槽が2基残っている。余りに見事に溶け込んでいるので、地元の方の話を聞くまで気が付かなかった。北側の水槽Hはそのまま残っているが、南側の水槽Iは内部を埋めたてられて墓が建てられている。上手い利用方法である。
地元の方の話では、テニスコートJの辺りに兵舎があり、またテニスコートの東側にある作業所Kの辺りから砲座付近までトンネルが掘られていたそうである。米軍の航空写真を調べた際に、この兵舎に気が付かなかった為、もう一度写真を見直さなければならない。






金ヶ灯篭山支峰の左翼聴音探照所





米軍の航空写真(M850-A-36、国土地理院)




全体図


金ヶ灯篭山の東側の支峰の尾根上に、熊野砲台付属の聴音探照所が設けられている。北西の高い位置に探照灯が、南東の低い位置に聴音機が設置されていたようである。米軍の航空写真の影とほぼ一致するのだが、聴音機の北東下Fに兵舎か何かの施設が写っており、次回訪れる際には調査しなければならない。
またこの聴音探照所は工事中のもので、機器のコンクリート基礎がアンカーボルトを取り付ける前の状態のままで残っている。



北西部:





左:探照灯と思われるコンクリート基礎A、右:同左



左:基礎Aの北側の土塁、右:基礎A(右)と土塁(左)



左:直流発電所らしき平坦地B、右:Bに散乱する瓦礫



左:平坦地Bの東壁、右:平坦地Bの南西隅



左:鉄塔C、右:鉄塔の南側の尾根





北西端の一番高い部分に、探照灯のものと思われるコンクリート基礎が残っている。直径140cmで1辺15cm程の正方形の穴が6ヶ所開いている。恐らくアンカーボルトを植える直前で工事が中止とあり、この状態のまま残ったのかと思われる。平坦面が狭かった為か、土塁は北半分しか造られていない。もしくは南側が崩落してしまったのかもしれない。
探照灯の南東下には、交流→直流変換用の発電機を設置してあったと思われる平坦地Bがある。一面レンガやコンクリートなどの瓦礫が散乱している。
南東に尾根を下ると、中国電力の鉄塔Cが建っている。プレートを見ると昭和17年建設と書かれているのだが、いくら電力が必要だからといって鉄塔の直ぐ脇に軍事施設を造るものだろうか。鉄塔の南側にはなだらかな斜面が下っているが、草が多くて地形の確認は出来なかった。
探照灯の管制機(指揮装置)の遺構が見当たらないが、恐らくは指揮所の屋上に造られる予定だったのではないかと思われる。。




南東部:





左:Dの中央にある聴音機と思われるコンクリート基礎、右:基礎と土塁



左:基礎付近から土塁、右:D北側の出入口



左:出入口に続く通路、右:出入口を外から



左:うねって北へ下がる連絡路E、右:Dの土塁北側を走る通路



左:平坦地Gの東端、右:平坦地Gに散乱する瓦礫



左:平坦地Gの中央部、右:平坦地Gの北端



左:平坦地Gの西端と鉄塔道、右:鉄塔道から平坦地Gを望む



左:熊野町と石獄山、右:砲座の山(右手前)と土岐城山探照灯台の山(左奥)




Dは内径15mの円形窪地で、中央にコンクリート基礎がある。基礎の直径は約90cmで、8ヶ所の方形窪みがつけられており、恐らくアンカーボルトを植える前の聴音機の基礎かと思われる。Dの北側には出入口が設けられており、そこからは北下へと連絡路EがS字に付けられている。ぱっと見た感じだと何も見えなかったが、航空写真によるとF辺りに何かが写っているので、兵舎か何かがあったのかもしれない。
Dの北西側は平坦面Gがある。指揮所が建っていたらしく、一面レンガとコンクリートの瓦礫で覆われている。北東・北西の端は綺麗に切ってある。鉄塔道から見るとただの草地にしか見えない。
DへはGの東側からDの土塁の北側を通り、北側の出入口から入ると入りやすい。Dの東側、南側は未探索である。









土岐城山南峰の右翼聴音探照所


右:米軍の航空写真(M850-A-36)






左:東端の平坦地F、右:平坦地Fの西下の平坦地



左:尾根上の円形窪地E、右:兵舎跡Dの東側の切岸



左:兵舎跡D、右:同左にあるコンクリート片



左:円形窪地C(写真右側)と連絡路、右:同左の連絡路



左:円形窪地Cの中央部、右:水槽跡B



左:兵舎跡A、右:同左北側の切岸







町の北東にある土岐城山の南側のピークにある。役場で聞いた話だと土岐城山の少し下と言われていたので比高150mの山を登ったのだが、頂上は城跡だけで砲台関連の遺構は一切無し。
南側を下る山道を蜿蜒と進んで、やっと南端の尾根の平地でレンガ片を発見する。ここなら別の登山道から登れば良かった。
(西側にある団地の貯水槽付近に遊歩道の入口があるらしい)

350mピークに平坦地Fがあり、そこから南西に延びる尾根上に、掘削された平坦地が幾つかある。
草に埋もれているが、よく見るとレンガ片やコンクリート片が転がっている。役場の人の話だと一応兵舎等は完成したものの、戦後に周辺住民が建築資材として崩して持っていってしまったそうである。
円形窪地Cは直径が約15mで、形状からして聴音機を設置した場所かと思われるが、中央に基礎は残っていなかった。南東側に出入口が付けられ、そこから南側に連絡路が下っていっている。どこに通じているかは調べていない。
DとAはどちらも建物跡だが、Aが兵舎でDが指揮所ではないかと思われる。Bは水槽関連の遺構かと思われるが不明。平坦地Fは何も無いので不明だが、全体的な配置と予定装備から推測すると、探照灯をここに設置する予定だったものが工事途中で放置されてしまったものだろうか。そうなるとFの西下の平坦面は交流→直流変換用発電機の設置場所になるだろう。全て勝手な推測である。
土岐城山へ続く遊歩道上にも少し広くなった部分があるが、何があったかはもう判るすべも無い。







石獄山北麓




グレーの丸が熊野町史の3ヶ所目の場所


3時間かけて這いずり回る。所々に土止めの石垣があったりするが、全体に尾根が痩せていて施設を造るのには適していない。標柱設置の為の道が辛うじて残っていたが、藪漕ぎをしながらの行軍で泣きそうになる。
しかしここでの3時間が無ければ別の候補地を聞こうとは思わなかっただろうから、必要な3時間だったということにしておこう。

町史編纂の際に、何を根拠にこの位置に丸が書かれていたのか知りたかったが、担当者が既に亡くなられてしまったそうなので、謎のままで終わりそうだ。




日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和17年1月27日 官房機密第1152号にて建設
昭和17年2月 調査中
昭和17年3月 将来砲台建設要望  
昭和17年8月 89式12.7cm連装高角砲3基 工事未着工
96式150cm1型陸用探照灯及管制器2型2 未装備
95式高射装置1、94式高角測距儀2 未装備
仮称ヱ式空中聴音装置2、12cm高角双眼望遠鏡4 未装備
官房機密1152(17.1.27)
昭和17年9月 工事施工内報
昭和17年11月 防空砲台工事中  
昭和17年12月 竣工予定S18.3.31
昭和18年1月 防空砲台(第2砲台群)工事中  
昭和18年2月 防空砲台工事中  
昭和18年3月 防空砲台工事中  
昭和18年4月 防空砲台工事中  
昭和18年5月 土木工事6月完了予定、兵器取付6月下旬
昭和18年6月 8月下旬完成予定
昭和18年7月 土木建築工事中、砲座据付完了
昭和18年9月 防空砲台工事中  
昭和18年10月 防空砲台工事中  
昭和18年11月 防空砲台工事中  
昭和19年3月 12.7cm連装高角砲2基 装備工事中
昭和19年6月 12.7cm連装高角砲3基、官房機密第12092号、兵器未装備、工事中止の状態
昭和19年7月 官房機密第12092号に依り新設工事中止の状態にあり、兵器未装備  
昭和19年8月 12.7cm連装高角砲3基 官房機密第12092号に依り工事中 全量射撃可
昭和19年9月 12.7cm連装高角砲3基 官房艦機密第12092号に依り工事中
昭和19年10月 12.7cm連装高角砲3基 官房艦機密第12092号に依り工事中  
昭和19年11月 (高烏の記事:12.7cm連装高角砲3基 官房艦機密第12092号に依り工事中、熊野に装備すべきを同所に変更)  
昭和20年8月31日 引渡:
建築物 兵舎3、其ノ他付属施設10

用地:28199m2、建物:332m2



ここから以下のページへいけます。