中野 特設見張所(聴測照射所)
2006.12.1 探索
2022.2.4 2022.3.12 再探索
2022/7/18 大幅改定

オレンジ色が旧軍道

 山陽自動車道奥屋PAの南西にある標高514mの東中倉山(大谷山)の山頂付近に、中野特設見張所の遺構がある。この山の名前は、登山のHPなどを見ると東中倉山でほぼ統一されているのだが、奥屋集落の住人には大谷山もしくは海軍山と呼ばれているそうである[5]。2006年には奥屋集落側からの登山道は良くわからない状態だったが、2022年現在はよく整備されており、貯水池近くで多少戸惑うが、それ以外の道はわかりやすく、かつ歩きやすくなっている。

 資料[5]の著者である平原氏に伺ったところ、軍道は上図点線の方向に降りて行っており、物資をソリに載せて牛や馬に引かせて登っていたとのこと。確かに、旧軍道は軽トラ道のように広くなだらかな部分が多いものの、何ヶ所かで軽トラですら走破が難しい箇所があり、当時のトラックでは登坂は難しそうである。

 また、7q程北にある西志和馬宿の大山邸の酒蔵を海軍が借り上げて物資を補完する倉庫にしていたそうである[5]。地元で手に入らない軍需品や重油などは、直接呉からトラックで運ぶか、もしくは八本松駅まで列車輸送し、そこからトラックで運んでいたのではないかと思われる。
施設一覧


右下:米軍の航空写真(M907-A-12、国土地理院)

 探照灯の近くが東中倉山(大谷山)山頂になって
おり、そこから北に延びる尾根上に指揮所と聴音機
が、そしてこの尾根の南東下の段に兵舎がある。
また八世以山へと向かう東に延びる尾根の北東下に
発電所が、尾根を挟んで南西下に揚水所がある。

 上図の薄いオレンジ色の部分が軍道かと思われ
る。また同じく上図の緑点が確認できた3ヶ所の
海軍境界標柱である。


 聴音機
 指揮所
 探照灯
 兵舎
 発電所
 揚水所


 水源について
 その他の話

聴音機



右:円形窪地Aを南上から



左:円形窪地Aの北縁、右:南縁

 敷地の北端に、聴音機の円形窪地Aがある。直径は約13mで深さは2、3m。内側の所々に石垣も見える。中央にはコンクリート製の直径約90pの円形の基礎が残っており、9本のアンカーボルトが余り一定ではない間隔で植えられている。良く見られる仮称ヱ式聴音機の基礎である。
 2006年当時と比べて、きれいに整備されているので、その独特な擂鉢形状がわかりやすくなっている。


左:円形窪地Aの東縁、右:西淵


左:円形窪地Aの中央部、右:コンクリート基礎


左:円形窪地Aを北下から、右:平坦地Bの北下から南を

 円形窪地Aの北下には平坦地Bと、その更に北下にあまり明確でない平坦地がある。平坦地Bの西下には狭い平坦地Cがあり、その斜面に崩落した地下壕入り口のようなものがある。この平坦地Cに、乾電池やコイル、スイッチ盤などが露見していた。


左:平坦地C、右:発掘された乾電池やコイル類


左:コイルと巻芯、右:角型電池とその黒鉛芯、円形電池


左:円形電池と円形の缶、右:スイッチ盤

 丸形乾電池が1個、角型乾電池が1個とその黒鉛芯が3本、円形の缶、コイルの巻かれた陶器製の巻芯と巻芯のみ、割れたガラス、陶器製のスイッチ盤等である。
 2022年2月4日に行った際には気が付かなかったが、3月12日に行くとわかりやすく転がっていた。恐らくこの1ヶ月の間に猪が掘り出したのではないかと思われる。元々は崩落した地下壕らしきものの中に埋められていたのかもしれない。
(ここで掘り出した物は雨を避ける為に指揮所に移動しておいた)
指揮所




右上:指揮所の間取り、右下:指揮所Eを平坦地Dから



左:指揮所Eの北東面にある水槽、右:指揮所Eの北東面

 聴音機の南には平坦地Dがあり、それに連なって指揮所Eがある。前期型とも言える構造で、幅約15m、奥行き約6m、3つの部屋に分かれており、北西側の部屋には屋上に登る穴がある。北東面の出入口脇には2か所の水槽があるが、天水を貯める水槽かと思われる。


左:指揮所Eを南から、右:指揮所Eの南東にある土塁


左:南西下の兵舎地区を見下ろす、右:土塁の南東面の石垣


左:指揮所Eの内部、北西側の部屋、右:北西の部屋

 指揮所Eの南東は半円の土塁のような土盛があり、その南東側は石垣が組まれている。内部は窓の蝶番等は抜き取られているものの、天井を抜ける鉄パイプは残っている。また天井には木枠も残っている。


左:屋根へと上がる穴、右:指揮所Eno内部、南東側の部屋


左:南隅にある部屋の内部、右:天井


左:指揮所Eの北西にあるトイレ跡、右:屋上

 南東隅の小部屋は別用途らしく、下側に黒色の塗装がされている。指揮所Eの北西にはトイレ跡がある。ほぼ正方形で半分に方形穴が2つ空いている。屋上の写真も撮影してみたが、枯葉が厚く積もった上に草木が生えてしまい、管制器の基礎があるかどうかはわからなかった。


左:指揮所Eと円形窪地Fの間にある陥没した地下壕、右:同左続き


左:円形窪地Fの内部、右:円形窪地Fを北から


左:円形窪地F付近に落ちていた鉛の帯、右:円形窪地Fの南西の平坦地

 指揮所Eと円形窪地Fの間に、陥没した地下壕がある。その上を覆っていたコンクリートもしくはモルタルの破片が散らばっているが、厚さは薄く、また鉄骨が入っていた形跡はない為、耐弾というよりも防水の為に被せてあったのではないかと思われる。
 円形窪地Fは内径約3mで、内側が石垣になっている。管制器が置かれていたのではと思うのだが、少し掘ってみても基礎らしいものは見当たらなかった。Fの南西は広い平坦地になっている。また近くには鉛の帯が落ちていた。
探照灯




左:円形窪地Gを北東下から、右:円形窪地内部


左:コンクリート基礎、右:円形窪地Gの北東の溝

 東中倉山(大谷山)の山頂に探照灯の円形窪地Gがある。内径は約5m、中央には直径約126pのコンクリート基礎があり、直径約30oのボルトが6本、直径約114pの円周上に配置されている。恐らくは96式150p陸用探照灯の基礎である。北東側に溝が切ってあるが、ケーブル類を通したのではないかと思われる。


左:円形窪地Gの南東縁、右:Gの南西の平坦地


左:窪地H、右:海軍標柱I

 円形窪地Gの南西側は平坦地になっている。探照灯用の直流発電機が探照灯の近くにあった筈で、この平坦地辺りにあってもおかしくないのだが、発電機基礎等の痕跡は何もない。

 その平坦地の南下には、不明瞭な窪地が幾つかある。その1つHは、内部が2、3mの大きさで、地下壕の入り口というよりも退避用の蛸壺のような形である。

 南西へ下る山道の脇に、海軍標柱Iがある。番号は七であり、上面の方位角から最西端の標柱のようである。


左:2つの貯水槽Jを西上から、右:西側の単槽式水槽


左:東側の三槽式水槽、右:同左


左:東側の三連式水槽内部、右:2つの貯水槽を東下から

 円形窪地Gの南東下には、2つの貯水槽Jがある。南西上にある方が単式水槽で、北東下にある方が埋もれているものの三槽式水槽になっている。北東下にある兵舎地区で使用する上水を貯めておく為のものだと思われる。埋もれている為に正確な寸法は測れなかったが、長さ約5.5m、幅約3.2mくらいである。
 構造はレンガで組んだものの表面にモルタルを塗っている。配管が残っているかどうかは不明である。
兵舎




左:生活施設Kにある柿の種型水槽?、右:炊事場跡?


左:炊事場跡?の水槽、右:直流発電所跡?

 兵舎地区は北東側に炊事場や風呂場などの生活施設Kがあり、南西側に兵舎M、その間に何かの建物基礎のLがある。

 生活施設Kの南側に柿の種のような形をしたコンクリート製水槽らしきものがある。高さは30pくらいしかなく用途は不明。池か何かのようにも見える。
 


左:水槽?、右手前に階段がある、右:同左内部


左:水槽?の角にある構造物、向こう側に階段、右:風呂場跡


左:風呂場跡の北西側、右:トイレ跡

 生活施設Kの東には炊事場跡?がある。水槽が1ヶ所あるだけで、かまども流し台も残っていないので、本当に炊事場なのかはわからない。

 柿の種水槽の北西には大きな水槽がある。脇に階段があり、その階段の横にある水槽の1つの角には、垂直に直径2p程の穴の開いた構造物が作られている。この構造物の上に何か機器が置かれていて、階段はそれを操作・点検する為の物だったのではと思うのだが、用途はわからない。


左:風呂場とトイレの間にある水槽、右:トイレ跡、右側に恐らく小便器


左:建物基礎L、右:兵舎地区の真ん中付近から北西を望む


左:建物跡M、右:同左のT字型の基礎

 炊事場?の南東には看板に「直流発電所」とある。この看板を建てた平原氏の話によると、小学生の時に山に登った際、ここにコイルが大量に落ちていたことから、ここを探照灯の直流発電所と推定されているそうだ。ただ探照灯用の直流発電所は、送電ロスを防ぐために探照灯の直ぐ近くに置かれており、ここだと探照灯から少し離れすぎている。



左:建物跡Mにある北東側の水槽、右:南西側の水槽


左:兵舎地区の北西側の斜面、右:兵舎地区の南東側の一段低い平坦部

 生活施設Kの北端には風呂場とトイレの跡がある。風呂は恐らく五右衛門風呂の釡を置いていたようで、浴槽は残っていない。トイレとの間に小さい水槽があるが、風呂の湯を冷ますための水が入っていたのではないだろうか。トイレは大便器の地下槽が3ヶ所、またその向かいに小便器の跡らしきものがある。

 建物基礎Lは、長方形の基礎が4枚(2枚だったかも)並んでいる。用途は不明だが、倉庫とかそういったものかもしれない。

 建物跡Mは中央にT字型の基礎が走っている。恐らくは廊下で、これを囲む形で兵舎が建っていたのではないかと思われる。兵舎の建物の南東面の両端に天水を貯めたと思われる水槽が2つ残っている。

 兵舎地区の北西側は高さ10m以上の斜面で、途中まで石垣になっており、その下には排水溝が作られている。また南東側は一段低くなった平坦地があり、その先は山の斜面になっている。
発電所



右:発電所敷地の北側にある入り口から南東を望む


左:発電所Oと水槽、右:発電所Oの北の角部にある流し台?っぽいもの


左:発電所Oを西から、右:油脂庫N

 八世以山へ向かう登山道の東下に発電所の敷地がある。敷地の真ん中に発電所O、北西に油脂庫N、南東に発電機冷却水槽Pがある。
 発電所Oは建物の基礎と、小型の機器の基礎、天水貯め水槽、流し台のような物が見て取れるが、肝心の発電機の基礎は壊されたのか、それとも落ち葉に埋もれているのか、見当たらない。


左:油脂庫Nの内部、右:発電所Oの西にある蓋のある水槽


左:蓋のある水槽のパイプ穴、右:何かの機器の基礎


左:発電所Oの南東横にあるトイレ跡、右:発電機冷却用水槽Pを東から

 発電所の北には油脂庫Nがある。中には藁と木材が幾らか転がっているが、木材は建物についているガラリであり、発電所の建物の物かもしれない。
 発電所Oの西には、蓋の有るコンクリート製水槽がある。幅は1.8m程。蓋についていたパイプを盗る為に一部破壊されており、そこから中を見ると水が一杯貯まっている。雨が流れ込む構造にはなっていないにもかかわらず水で満たされているということは、内部から水が湧き出ているのかもしれない。水槽の用途は良くわからない。


左:発電機冷却用水槽Pを南から、右:水槽Pの南西側にある凹み


左:水槽Pの南西側にあるオーバーフロー用の溝、右:水槽Pの北西横にある排水溝

 敷地の東には、二連式の発電機冷却用水槽Pがある。水槽についているパイプ類が幾つか残っている。水槽の南西側にはオーバーフローした冷却水を流す溝があり、またそこからこぼれた冷却水を流す排水溝が水槽の北西下を走っている。

 [6]と平原氏の話によると、この発電所の位置に中国通信局(後に電電公社?)の超短波中継所が置かれていたそうである。平原氏によると、宮島志和カントリークラブがある辺りにあった施設と、広島との通信を中継する為に、昭和22年から25年くらいにかけて置かれていたそうである。その際、中継所で使用する電気は麓から電線を引っ張って上げていたそうで、その話から考慮するに、その時点で既に発電所の機能は無くなっていたようである。
 また発電所の水槽に金属類が比較的多く残っている理由は、金偏景気の頃にこの敷地が使用されていたことから、金属泥棒に入りにくい環境にあったからだと思われる。
揚水所



右:八世以山への遊歩道の少し脇にある海軍標柱Q(2番)



左:揚水所Rのある谷地、右:揚水所Rの施設跡


左:ポンプの基礎、右:揚水所の建物基礎を北西から

 発電所と尾根を挟んで反対に、揚水所Rがある。残念ながら貯水池は見つからなかったが、2月4日も3月12日も、どちらも久しく雨が降っていなかったにも関わらず、あちこちで湧き水が出ており、貯水池が埋もれてしまっているだけかもしれない。


左:揚水所の建物基礎を東から、右:水槽


左:海軍標柱S(3番)、右:湧き水


左:湧き水(猪のぬた場)、右:揚水所Rから尾根に上がる道の跡?

 谷の南東側に、揚水所の建物の基礎と、ポンプの基礎があり、その周辺には煉瓦が散乱している。ポンプ基礎のアンカーボルトは4本で、間隔は約66pと約50cmである。建物基礎の西下には中が土で埋まっているが、コンクリート製水槽がある。揚水所Rのすぐ西下に海軍標柱Sがある。番号は3番である。
水源について



左:大谷貯水池の堰堤、右:大谷貯水池の内部は土砂で埋まっている

 資料[5]によると、中野特設見張所の水源は北東麓にある大谷貯水池となっている。開戦後、呉鎮守府が40a余りの大谷貯水池を築き、そこから直径10pの鉛管で山上まで水を引き上げていたとある。
 しかし20名程の生活用水として、この大谷貯水池は余りにも大きすぎる。堰堤の長さは約50m、高さも10mくらいある。貯水池が明確に判明している笠戸防空砲台や足摺岬特設見張所、日御碕特設見張所、中島特設見張所、津和地島特設見張所では、貯水池の広さは30〜100m2、深さも1〜2mくらいであり、貯水量は大谷貯水池の100分の1くらいしかない。またポンプは貯水池の脇に置かれるので、大谷貯水池の水害で崩れていない東と南の岸を歩いてみたが、揚水所の遺構らしい形跡は見つからなかった。

 揚水所Rのある谷地での湧水量がどれくらいかわからないが、ポンプ基礎や揚水所の建物基礎のようなものが残っていることから、こちらが中野特設見張所の水源ではないかと思われる。
 仮に、大谷貯水池からこの揚水所Rを経由して2段階で水をくみ上げていたとしても、海軍が特別に大谷貯水池を造ったわけではなく、以前から農業用水として造られていたものを利用していたのではないだろうか。

その他の話

平原氏の話(資料[5]に書かれていないもの):

・小学校の時、遠足で海軍山(大谷山、東中倉山)に登っていた。
・コイルや磁石を拾った。鉛で、釣りの錘を作った。
・煉瓦も背負って降りた。左官が仕上げてくれた。
・兵舎の建物を降ろして、集会所(志和IC近く)に再利用した。
 現在その建物は残っていない。


地名の謎:

 昭和17年8月の戦時日誌の職員官氏名一覧の中にのみ「八世以山」と書かれているが、それ以外は戦時日誌と引渡目録を通して、「中野」もしくは「中野村」と呼ばれている。ところが、実際の中野の町は、遺構のある場所から約10q南西にあり、旧中野村の村境からでも3qは離れている。その為、資料[5]では「軍事施設のため、意図的に一般に知られないようにカムフラージュしたと思われます」と説明している。
 しかし、これまで国内にある多くの陸海軍の施設を調べてきたが、殆どの施設は実際に存在した地名と同じ地名で呼ばれている。少なくとも呉警備隊の担当範囲において異なる地名で呼ばれている施設は、この中野のみである。防諜目的で異なった地名で呼ばれていたということは無いのではと思われる。

 また、昭和24年の参議院の答弁書(内閣参甲第129号)[6]に「西志和海軍見張所」が超短波中継所として利用されていると書かれている為、「中野特設見張所はここではなく、旧中野村の範囲内に別途存在しているのでは?」という質問を受けたこともある。しかし、戦時日誌の昭和17年8月の記事にて「中野特設見張所」の所在地が「広島県賀茂郡西志和村」と書かれていることから、東中倉山(大谷山)周辺の遺構群が中野特設見張所であり、答弁書内の「西志和海軍見張所」も、中野特設見張所のことを示しているものと思われる。実際に、徳山警備隊の室積特設見張所が戦後の大蔵省資料内で、近くの地名をとって「岩屋照聴隊」と書かれていた事例もあり、公文書であっても戦後の他部署が作成した資料内の施設名は、それ程厳密な物ではないのかもしれない。

 では、なぜ中野村ですらない場所にあるにもかかわらず「中野」もしくは「中野村」特設見張所と呼ばれていたのか?という理由であるが、正直わからない。元々は中野村内が候補地であったが、工事が始まる前に西志和に変更になったものの、元々の呼称がそのまま使われてたという事が考えられるが、裏付けとなるような資料や記述は何も無い。
日付 呉海軍警備隊戦時日誌[1]等による記事
昭和16年11月 聴測照射所、第五砲台群、工事中
昭和16年12月 聴測照射所 工事中
昭和17年1月 聴測照射所 工事中
昭和17年2月 聴測照射所 工事中
昭和17年3月 特設見張所 既設(?)
昭和17年4月 96式150cm探照灯1型陸用及管制器2型陸用1 未
配員 下士(臨5)、兵(臨12)分隊士のみ
兵科12、機関科4、主計課1
昭和17年5月 中野村聴射所石炭輸送[2]
昭和17年6月 第24分隊士(八世以山)兵曹長 三浦末太郎
昭和17年7月 96式150cm探照灯1型陸用及管制器2型陸用1
仮称ヱ式空中聴音装置1
配員 下士1(臨6)、兵(臨11)
兵科14、機関科3、主計課1
昭和17年8月 特設見張所(丁)既設
仮称ヱ式空中聴測装置1、150cm探照灯(管)1
12cm望遠鏡1、7倍稜鏡4
広島県賀茂郡西志和村
官房機密第11482号(昭和16年12月5日)
昭和17年9月 特設見張所(照聴所)、丁乙
昭和18年1月 照聴所(丁)(第2砲台群)
昭和19年6月-9月 既設照聴所
昭和19年10月 既設照聴所、150cm探照灯1、空中聴測装置1
昭和19年11月
 ‐昭和20年2月
150cm探照灯1、空中聴測装置1 完備
昭和20年8月31日 引渡:
96式150cm探照灯及び同管制器、付属品補用品共、電動直流発電機 1基
仮称ヱ式空中聴測装置、付属品補用品共 1基
ディーゼル交流発電機陸上用40KVA220V三相60KVA配付 1基
建築物 兵舎1、其ノ他付属施設2 [3]

用地:18318m2、建物:383m2(中野)[4]