越前崎 特設見張所





2009年9月19日 探索


左:建物の残骸などのある丘、右:見張所があった場所


左:望楼の基礎?、右:コンクリの何か


左:建物の基礎、右:廃墟


左:越前岬灯台、右:越前岬水仙ランドからの景色


右:米軍の航空写真(M1184-A-87,111、国土地理院)


畑を耕していたおばさんに話を聞くと、海軍はこの上の平らなところに居たとのこと。現在は良くわからない白い建物と駐車場になっており、周辺を見ても残骸すら見当たらない。
建物の南西にある丘にも入ってみたが、廃墟や建物基礎が幾つかあるものの、見張所関連の遺構とは判別できなかった。変わった形のコンクリート基礎が、もしかしたら望楼時代の建物の基礎かもしれないが、良くわからない。


越前町史より

海軍望楼:
明治35年2月 越前岬丸かに海軍望楼を設立し、電信を架設した。
明治37年2月10日 日露戦争宣戦布告。
明治38年2月7日 厨と茂原との間の長須浜へロシヤ水雷漂着す。
明治38年5月30日 日本海海戦大勝利。
明治38年6月2日 四ヶ浦若連中祝賀提灯行列をした。
明治38年10月17日 海軍望楼廃止に付き士官2名舞鶴へ転勤す。
明治38年10月24日 海軍望楼を閉鎖す。
明治38年10月30日 日露戦争講和条約締結で、四ヶ浦若連中祝賀提灯行列、兵隊列楽行村中大賑い。
明治39年11月15日 舞鶴鎮守府より越前岬望楼の管理を梅浦郵便局へ委託した。

この望楼建物は払い下げられて上岬小学校の教員住宅として移築された。
信号旗掲揚柱は梨子ヶ平滝本が払下げを受けて、離れ屋敷建築材料に使用した。



舞鶴警備隊越前岬海軍見張所:
昭和14年 開設され下士官を長とする4名が常駐す。
昭和16年 兵曹長を長とする8名が常駐す。
昭和20年 長が少尉となる。
7月20日 電波探知機部隊が併置され、見張所長は越前岬灯台建物で宿泊するようになった。
電波探知機隊長は海軍大尉で長以下22名だった。幹部3名は血ヶ平民家に宿泊した。
8月1日の富山空襲のB29大編隊が京都上空を通過中に越前岬の電波探知機はその映像を明瞭にとらえていた。
終戦により廃止となる。

昭和23年 兵舎建物は四ヶ浦中学校仮校舎として丸山グラウンドに移築され一部は左右区の若布乾燥場として移築した。見張所建物は入札で城ヶ谷の長田長次郎が買いとり、代価を四ヶ浦町で納入す。




日付 舞鶴海軍警備隊戦時日誌及び引渡目録による記事
昭和16年12月31日 配員:1、4、5(准、下士官、兵)
昭和17年11月 特設見張所(戊)
昭和18年7月 特設見張所(丙)
昭和19年8月 探照灯、発電機、変圧器、配電盤の地下への移設工事





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