徳島航空隊 防空砲台






2009.5.17 新規作成


現在の徳島空港の場所に徳島航空隊があった。
この航空隊の防空の為に2ヵ所の高角砲陣地と1ヵ所の照空陣地が周囲に配置されていた。ただし2ヵ所の高角砲陣地の位置は不明である。




斎田照空隊陣地

2009.3.15 探索








県立鳴門第一高等学校の北にある山の中に探照灯陣地跡が残っている。
同じ山でも撫養駅北側付近は公園として整備され、遊歩道もしっかりしているが、西側は藪に覆われつつある。今回は公園から寄せたが、山の北東にある大池付近から入れるかもしれない。
また大池からこの山の付近一帯は平成21年現在開発中であり、そのまま破壊されてしまう可能性もある。遺構も全体的に良く残っている上に、珍しい形状の探照灯施設があるので、史跡指定でもしてもらえないものだろうか。




東部探照灯:





左:Aの溝の南端の土塁、右:溝の南端



左:南端の土塁の東側、右:同左を南下から



左:溝の内部から土塁を、右:溝内部から北方向を、羊歯に覆われている



左:溝の中央部付近、羊歯の生えている部分が溝、右:同左から北の方向を見る



左:溝の北端付近から南を、右:北端部



左:溝の北端の壁、右:山頂のピーク付近、一面の藪で地形が確認できない



左:円形窪地Bを東から、右:同左を西から



左:西に開いている連絡路、右:Bの東側の平坦部





東側のピーク付近に探照灯関連の施設がある。
ピークの東側には、ほぼ南北に幅約3mの溝が長さ15mに渡って掘られており、これは中央部分で軽くクランクに曲がっている。溝の内部や北端付近は羊歯に覆われているが、横穴らしきものは見当たらなかった。遺構からの推定止まりだが、恐らくは車輪付の探照灯を溝に配置し、収納時は北側で隠匿しておき(ピークから伸びる尾根が南側からの視界をさえぎるようになっている)、使用時は南側に移動するのではないかと思われる。南端は一般の探照灯の円形窪地と同様に土塁がまわっている。
山頂を挟んで西側には、直径約3m程の円形窪地があり、ほぼ西側に連絡路らしき溝が付いている。大きさや位置から、探照灯用の管制器のものかと思われる。
山頂は羊歯の藪になっており、地形を確認できなかったために何があるのか、もしくは何も無いのかは不明である。




西部探照灯:





左:溝Cの南西端の土塁、右:溝の南西端の内部



左:溝Cを北東から、右:溝Cを南西から



左:溝C中央部を北から、右:溝C南西端を内部から



左:溝の南東壁、右:溝の北西壁



左:溝中央部から北側を、右:同左南側を



左:溝の北東端付近、右:同左から谷を望む



左:溝Cの北下の平坦地、右:同左の更に北下の平坦地



左:円形窪地D、右:同左の東縁





西側のピーク付近にも探照灯関連の遺構が残っている。
南西から東北方向に長さ約15m、幅約3mの溝Cが掘られている。こちらは一直線であり、溝の両側の高さは殆ど変わらない。こちらも東側のそれと同様に探照灯用の施設跡かと思われるが、こちらは隠匿するものが無く、別途屋根か何かを付ける予定だったのかどうかは不明である。
溝Cの北下には長細い平坦地が2段にわたって作られているが、当時のものなのかどうかは不明である。
東へと下る尾根上には円形窪地Dがある。内径は約3mで、東側のもののように連絡路は掘られていない。恐らくは探照灯の管制器のものかと思われる。
またCの南東がピークになっているが平坦地には整地されておらず、これといったハッキリとした遺構も残っていなかった。



中央部平坦地群:





左:壕E、右:同左、奥に部屋があるが崩落している



左:壕Eを南西から、右:通路北西脇にある小部屋



左:壕Eの北東下にある平坦地、右:平坦地Fを北から



左:平坦地Fの南東端にある穴、右:平坦地Fの南隅



左:平坦地Fを東から、右:平坦地Fの石垣



左:平坦地Fから平坦地H方向を望む、右:平坦地Gの東側






左:同左の南側の切岸、右:平坦地Gを東から



左:平坦地Gを北下から、右:平坦地Gの西側の窪み部



左:平坦地Gの西側の窪み付近に落ちていた碍子の破片、右:平坦地Hから平坦地G西側の窪みを



左:平坦地Hを南から、右:同左にある穴



左:壕I、右:壕Iの南東下の土塁



左:平坦地Hを北から、右:平坦地Hの東下の水槽跡?、レンガが落ちている



左:平坦地群の南東の尾根にある水槽跡?、右:同左





東西の探照灯の間にある谷には、施設跡らしき平坦地群が南北2ヵ所存在する。南側には4ヶ所の平坦地と2ケ所の壕、それから2ヵ所の水槽跡らしきものがある。
壕Eは西側の探照灯の東下に位置する。南西奥に10m2くらいの部屋があるが天井は崩落している。通路の脇には北西に小部屋があるが、ここが露天だったか崩落したものなのかはわからない。また壕の出口の北東下には小さな平坦地がある。
平坦地Fは10m×7mくらいの大きさで、南東に直径約3mの穴がある。北側の2辺は石垣で補強されている。
平坦地Gは、東側と西側とに分かれている。東側は東西約15m、南北約5mで、この陣地の中では最大の広さである。西側は東側の延長線上で、谷の斜面を掘って作られている。またこの付近で碍子の破片を発見した。
平坦地Hは南北約15m、東西約4mの広さで、北側に切欠壁に沿って直径約2mの穴が掘られているがこの穴の用途は不明である。北部の平坦地群の平坦地にも同様な穴があるため、もしかしたらトイレ跡なのかもしれない。
平坦地Hから更に北に上がると壕Iがある。完全に崩落しており元の大きさは良くわからなくなっているが、幅は3mでそれなりに大きい。壕の東下には通路を形成するためだろうか、土塁が作られている。
平坦地Hの東下と、平坦地群の南の尾根上に水槽跡と思われる窪地がある。落ち葉や土で埋まってしまっており元の大きさは判らない。




北部平坦地群:





左:平坦地Jの北側、右:平坦地Jの南側



左:平坦地Jの南西隅と穴、右:JとKの間の貯水槽を北下から



左:貯水槽、右:同左内部、レンガ積み



左:平坦地Kを南から、右:平坦地Kの南側



左:平坦地Kの北側、右:平坦地Kの東下の溝






左:Kから谷の南上を望む、右:谷を通る軍道



左:平坦地Lを南西から、右:平坦地L



左:平坦地Lの北東端、右:平坦地Lにある穴



左:平坦地Lの北側の石垣、右:同左、軍道脇



左:平坦地Lの北下、右:同左にあるコンクリート製水槽



左:軍道、右:軍道を下り切った辺り





谷の北側には、3ヶ所の平坦地と2ヵ所の貯水槽跡(内1ヵ所は時代不明)がある。
平坦地Jは三角形に近い平坦地で南北が約7mの長さであり、南西隅には穴がある。谷の北下から上がってくる軍道は平坦地Jで止まっている(北部平坦地群から南部に至る軍道もあったのかもしれないが、ハッキリとは残っていない)。
JとKの間の軍道の脇には貯水槽がある。内部はレンガ積みになっている。
平坦地Kは南北約12m、東西約4mで、他の平坦地のような穴は見つけられなかった。ただ東下に溝のようなものが走っている(後の水の侵食によるものかもしれないが)。
平坦地Lは三角形に近い平坦地で、東西が約8m、南東に穴が掘られている。北側は大きく落ちており、補強として石垣が組まれている。
Lの北下の谷の底に、コンクリート製の水槽がある。他に見ない形状なので戦後のものである可能性もある。
この付近は軍道がはっきりと残っている。そのまま下れば大池の付近まで行けたかもしれないが、面倒だったので行っていない。また猪の罠の大きな檻が置かれていた。






日付 呉海軍警備隊戦時日誌及び徳島航空隊引渡目録による記事
昭和19年9月 13mm機銃 3丁 :配員、下士官1、兵19
昭和19年10月 12cm高角砲4門 兵器未装備 :工事中 配員 准士1、下士8、兵68
13mm機銃 3丁 :配員、下士官1、兵19
昭和19年11月 工事中
昭和20年8月31日 引渡:

飛行場東端高角砲陣地(森隊、飛行場東北方高角砲陣地、板野郡松義村):
12cm高角砲4(300、516もあり)、高射器1、測距儀1
兵舎2(木造平屋、445m2)、弾庫2(木造平屋、73m2)
付属建物5(木造平屋、231.87m2)

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飛行場西方1.5km高角砲陣地(鹿海隊、矢倉高角砲陣地、板野郡大津村矢倉):
12cm高角砲4(558)、高射器1、測距儀1
弾庫1(木造平屋、59.4m2)

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斉田照空隊陣地(撫養町斉田撫養町斎田字大池、飛行場北東方約4km山上):
150cm探照灯2(管制器付)
発電機4、配電盤2、変圧器6(20K4個、7.5K2個)
兵舎4(木造平屋、120m2)、電源室1(木造平屋、21m2)
付属建物4(木造平屋、42m2)

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その他、航空隊全体で:
12cm高角砲尾栓8(弾192)
25mm機銃12(弾10600、57000)
13mm機銃6(弾10500)




徳島航空隊 兵器軍需品舟艇施設引渡目録 C08011096600(アジア歴史資料センター)
徳島航空隊 兵器軍需品引渡目録 C08011209400
徳島航空基地 施設引渡目録 C08011209500

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