独立混成第124旅団(川棚)


配置概要[2]


黒井村の7cmカノンの配置図[2]



 終戦直前、川棚を中心として、梅ヶ峠よりも北、鯖釣山から南の範囲にかけて、独立混成第124旅団が配置された。旅団本部は川棚の三恵寺に置かれていた。
 編成は資料[3]の通りであり、通常の旅団よりも砲兵が多く、また火砲も海軍火砲となっている。この海軍火砲が何なのかはこの資料[3]には書かれていないが、[4]と[5]の2つの資料を見るに海軍の短12cm砲かと思われる。射程は5000m程の榴弾砲に近いものであるが、一般的な陸軍の火砲と異なり固定式であるため、陣地構築は多少難しかったと思われる。

 地図上にある幾つかの陣地を回ってみたものの、終戦直前の編成であったためか、これといった遺構らしいものは、余り見つけられていない。もう少し時間をかけて探せば他にも出てくるのだろうが、優先度はかなり低くなる。


 また124旅団には下関重砲兵連隊から15cmカノン2門が移されていたが、資料によると7cmカノン2門も移される予定だったようである。ただこれは垢田付近に配備されたもよう。15cmカノン2門はいずれも大休庵に配備されたと思われるのだが、上の配置図では大休庵は1門のみで、もう1門は黒井駅近くに描かれている。それっぽい山に入ってみると怪しげな遺構が残っていたが、15cmカノン関連の遺構とは断定できるようなものではなかった。


黒井駅近くの怪しい遺構





第15方面軍編成[3]

独立混成第118、122、124、126、127旅団
 司令部 300名、馬10匹、重機2
 独立歩兵大隊 744-748大隊 4個中1銃砲隊 897名、馬21匹、擲弾筒37、軽機36、重機8、歩兵砲2
 旅団砲兵隊 5個中1段列 820名、馬60匹 中隊は海軍火砲4門を標準とす
 旅団工兵隊 2個中 572名、馬20匹
 旅団通信隊 224名、馬15匹、電話機24、零式3型6、零式5型8




昭和20年度前期陸海軍戦備に関する申合(昭和20年4月1日)[4]

第3表:20年度前期地上兵器整備量

41式山砲 陸230
94式山砲 陸130
野砲(90式、95式) 陸38
15加、15榴 陸27
10榴、10加 陸54v 短12cm平射砲 陸400、海400




昭和20年度前期陸海軍兵器譲渡に関する申合覚(昭和20年5月30日)[5]

昭和20年度前期陸戦兵器譲渡予定表

短12cm平射砲
 6月:30(呉)
 7月:50(横)、100(呉)、20(舞)
 8月:70(横)、100(呉)、30(舞)
  計400
 弾薬:1門に付き200発






[1] 独立混成第124旅団 行動概要(防衛省戦史資料室、文庫-柚-140)
[2] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[3] 第15方面軍編成(アジア歴史資料センター:C14061066300)
[4] 昭和20年度前期陸海軍戦備に関する申合(アジア歴史資料センター:C14061054900)
[5] 昭和20年度前期陸海軍兵器譲渡に関する申合覚(アジア歴史資料センター:C14061055500)






黒井駅近くの怪しい遺構

2014.4.12 探索
2015.2.28 探索




北東麓の工事中の洞窟砲台?


左:北東から、右:東側の切り崩し


左:アップ、右:同左


左:西側の切り崩し部、右:同左


左:南東隅、右:南西隅



山頂付近の地下壕:


左:東側の開口部、右:同左内部、部屋になっている


左:部屋から開口部を、右:部屋の奥の分岐部を


左:分岐部から部屋を、右:分岐部から西側の開口部を


左:行き止まり部、蝙蝠とゲジゲジの巣、右:西側の開口部





 民家の裏手に、怪しい切り崩し部が2ヶ所ある。工事中の洞窟砲台のような感じがするのだが、良くわからない。

 その南西の山の頂上付近に、簡単な地下壕が残っている。東西2ヶ所の入口があり、東側には小さな部屋がある。西側の入口からは南に向かって通路が延びているが、直ぐに行き止まっている。本来は反対側まで抜ける予定だったのではないだろうか。
 用途は不明である。砲台であれば歩兵砲くらいなら入りそうである。仮に、北東麓のものが15cmカノンの工事中の洞窟砲台であれば、それの観測所という見方もある。ともかく、良くわからない。






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