六連島、小六連島、田の首、八幡岬 砲台(近代築城史の幻の砲台)
近代築城史の下関要塞の項に、以下のような記述がある:
なお太平洋戦争中、西部軍築城班において、福岡県八幡岬に15センチカノン砲4門砲台を構築し、150センチ電灯1を置き、山口県六連島に30センチ榴弾砲4門および7センチカノン砲2門の砲台を構築し、田の首砲台には12センチ速射カノン4門(竜司山堡塁より火砲を移す)を増強した。
六連島砲台は、下関市西北約50キロの響灘に浮かぶ小六連島(馬島)に、昭和14年に着工した7センチカノン砲2門の砲台であるが、砲座および交通路のみを竣工した。
下関重砲兵連隊史にも同じ記述があるが、内容がほぼそのままであること、それ以外の記述が全く無いこと(元兵士の証言など)から、近代築城史の記事をほぼそのまま引用しただけのものと思われる。
ともかく、このことから、八幡岬、六連島、小六連島の砲台を探していたのだが、どうもおかしい。時期的に洞窟砲台ではなく露天砲台なのだが、終戦から2年前後の航空写真をいくら調べても、それらしい痕跡は見当たらないのである。終戦後、速攻で畑にされたという例もあるので、埋められてしまった可能性も無いことは無いのだが、何しろ情報ソースが誤報の多い朝日新聞もとい、近代築城史なのである。たちまち、六連島の位置を下関市から50kmと書いているのは誤りである(実際には5km)。
この、近代築城史に書かれている存在の怪しい砲台をまとめると、以下のようになる:
通常建設された砲台:
・小六連島(馬島) 7cmカノン2門(昭和14年着工)
西部軍築城班が太平洋戦争中に構築した砲台:
・八幡岬 15cmカノン4門、150cm電灯1
・六連島 30cm榴弾砲4門、7cmカノン2門
・田の首 12cm速射カノン4門(竜司山堡塁より火砲を移転)
現代本邦築城史の記事で、これらの砲台に関連しそうなものを集めると、以下のものがある:
要塞整理要領(大正8年)
田の首砲台 加式鋼製28口径27加4→斯加式12速加4(龍司山のものを流用)
六連砲台 16口径30榴4
八幡岬 41榴4(後の計画変更で大島に前進し、備砲も25cm連装カノンを経て15cmカノンとなる)
再修正計画(昭和12年)
小六連島 11年式7cmカノン2、150cm電灯1
交通路及び放列陣地を構築し戦時備砲す →(手書きで追記)取り止めて蓋井第二4門とす(昭和14年4月)
(蓋井島第2砲台に7cmカノン2門を追加する記事の中で)
増設2門の火砲は再修正計画にて戦時小六連に備附けんとするものを流用せしものなり。
(小六連砲台に関する、起工・竣工の記事は無し)
いずれも近いものがあるが、それらは計画のみ、未着工のものばかりである。
また龍司山堡塁の12cm速射カノンに関しては、以下の資料がある:
龍司山_火砲撤去の件(アジア歴史資料センター:C01007475500)
副官より陸軍築城部本部長へ通牒
別紙の通火砲撤去方取計われ度依命通牒す
陸密第194号 昭和9年4月9日
下関要塞 龍司山 斯加式12センチ速射加農 4
残っている資料は通牒のみで、実際に実行されたかは不明だが、可能性としては太平洋戦争中には、龍司山には12cm速射カノン砲が無く、倉庫に保管されていた可能性が高い。
いずれも決定打には成り得ないが、そうも近代築城史における、これら4砲台については誤報だった可能性が高いように思う。
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