沖ノ島 砲台





左:終戦後の米軍の航空写真(M120-2、国土地理院)






 玄界灘に浮かぶ沖ノ島に、沖の島砲台があった。
 島そのものが神社であり、一般人の立ち入りは禁止されている。年に1度、日本海海戦記念日に抽選で上陸可能な機会があるものの、自由行動は無理なので、砲台についての学術調査でもなければ、探索は不可能である。

また沖ノ島には海軍の防備衛所もあった。引渡目録[4]内の地図によると、二ノ岳付近かと思われる。




現代本邦築城史 下関要塞より[1]:

任務:
 沖ノ島全周の海面に於ける敵艦船の航通を妨害し我が海上航通を援護す

備砲:二連装15カノン2基(標高164.5m、132m)

起工:昭和12年6月1日
竣工:昭和15年3月31日

摘要:
 建設要領には第1、第2砲台と区分したるも通常は両所を総称して沖ノ島砲台と称え、  第1砲台を第1砲座、第2砲台を第2砲座と称す。



沖ノ島弾薬支庫:
 洞窟火薬庫1
 起工:昭和12年6月1日
 竣工:昭和14年12月15日



沖ノ島電燈所:(第1砲台と第2砲台で1ヵ所づつ?)
 射光機(96型遊動式150cm)1
 照明座1、掩燈所1、発電所及び属品格納庫1
 起工:昭和12年6月1日
 竣工:昭和14年12月15日






下関要塞沖ノ島砲台建築要領書(昭和12年2月調製、参謀本部)[1]

二、位置
 第1砲台:沖ノ島東端、第2砲台:沖ノ島西端


三、築設要領:
 1.第1砲台の首線は概ね真方位90度、第2砲台の首線は概ね真方位270度とし、両者相保ちて成るべく多くの火砲を以て全周を直接照準し得る如く設備す
 2.観測所は夫々砲台附近とし96式測遠機による射撃設備を具備せしめ第1号の射撃指揮に便なる如く観測所の相互利用を考慮すると共に軽易なる掩護設備を施す
 3.砲台はそえ夫々15加二連装各1基を施設す
 4.電燈所は夫々砲台附近に設け第2号の射撃指揮に遺憾なからしむ
 5.弾薬支庫は洞窟式とし装薬400発分及び填薬弾100発を収納し得る如く設備す
 6.将校以下約80名の為の棲息設備を設く








下関重砲兵連隊史[2]の、砲台についての記事(元は近代築城史)

 沖の島は筑前大島の北西17km、玄界灘のほぼ中央に位置する無人の孤島(福岡県宗像郡大島村)である。砲台は昭和12年6月に着工、15年3月に竣工した。96式二連装15cm加農砲4門(誤り。試製もしくは45式15cm連装カノン)の砲台であり、第1砲台の二連装15cm加農砲は島の北東部、白岳(標高180m)の北側に、第2砲台は島の西北部、鯨瀬の南側に構築した。観測所は第1砲台と三ノ岳の中間、標高200mのところに設け、観砲間は距離があるので通信線を埋設した。
 島は南側の船着場を除いて、石英ひん岩の断崖絶壁で囲まれ、日常用水を確保するため、各建物には地下タンクを設けて、雨水を溜めるように設備を施した。






下関重砲兵連隊史[2]の、戦備下令(昭和16年7月)時の記事

 沖ノ島の戦備についたのは下重7中隊(原文では6中隊とあるが、直ぐ前の大島の記述内に6中隊とあり、また別表でも第7中隊とある)の現役兵と召集兵であり、その後、復帰した現役兵は下重第5中隊に編入となり、豊予要塞の戦備についた。





下関重砲兵連隊史[2]の、要塞砲の撤収についての記事

 沖縄での攻防戦が激しくなった昭和20年5月末、軍から「島の要塞設備を撤収して、九州本土へ移設せよ」との命令が下った。
 沖の島は周囲が約4kmで平坦な場所が全くない岩山で、標高は約240m、島全体はジャングルに覆われ、五かかえも六かかえもあるような巨木が生茂っている。島には宗像大社の沖津宮が鎮座し、平時には神主と灯台看守の2人がいるだけで、島全体が神域となっていて女人禁制であった。許可なくしては何人も上陸できず、上陸する時は兵隊はもちろん、将軍といえども裸になって海に入り、禊をして心身を潔めなければならない。
 この沖の島砲台は、約2年間の歳月と延べ5万人の人力で築いた要塞である。それを撤収に必要な器材もなく、技術者もいない。また人員も中隊(約150名)だけで実施せよとの命令である。15cmの火砲4門を九州本土に移し、本土決戦に備えたい軍の意図はよくわかるが、二連装15cmカノン1基だけでも約40トンの重量がある。私はこの作業が中隊の人力だけでは困難、否、不可能であることを連隊長に意見具申した。そのうち1ヶ月ほどが経過し、その間連隊長から何回も督促があったが、私は実施しなかった。中隊の若い将校からも、何とか実施の方法を考えては? と言ってくるが、私が責任を取るからといって受付けず、連隊長はあくまで拒否すると抗命罪に問われると、私の身を案じていってくるが、私は立ちあがらなかった。軍法会議にかけられてもよいと覚悟を決めていたからである。遂に軍の参謀が島に現地視察にきて、これは大変な作業だということがわかり、器材と技術者を派遣してくれることを約束してくれた。
 7月に入って間もなく連隊長から、器材と技術者を送るから直ちに実施せよとの命令がきた。沖縄戦は既に終局を迎え、逼迫した戦局のなかで、軍はあくまでもこの撤収作戦を進めるという強い意向が伺えたので、私もこの作業に命をかける決心をした。そして7月の中頃、技術の責任者として島田准尉以下5名と必要器材が到着した。見れば技術者という軍属はトビ職であった。

 『島田准尉、死にに行ってくれ』板東中佐の声はつらそうだった。玄界灘の孤島、沖の島の砲台守備隊150名の生命を助けるために、要塞砲の解体撤去を行い、博多港まで輸送する作業の技術指導に、私以下数人の陸軍工員を現地に派遣する命令だった。
 昭和20年6月、戦局は急を告げ私も永年勤務した陸軍築城部本部が5月に解散となり、第二総軍築城部付で西部軍参謀部に出向し、築城関係の指導にあたっていた。
 当時の玄界灘は制空権が敵の手に陥ち、暁部隊の特攻船は毎日のように撃沈されていた。
 沖の島には、日本陸軍では珍しい15cmカノンの二連装砲が2基据付けられていて、下関要塞司令部の隷下で佐藤中尉を長とする1個中隊が守備をしていた。この砲台は、私の先輩たちが2年の歳月を費して据付けたものだが、この砲台を撤去して玄界灘を渡り博多港に運び入れるのを3週間で実施せよ、との命令であった。7月中旬、撤去用器材を積んだ機帆船で沖の島に乗りこんだ私たちは、石井雇員と臨時に雇い入れたトビ職3名と合計5人であった。

 翌朝、中隊全員を5時に起床させてお宮(沖津宮)の広場に集合を命じ、私はこの撤収作業を中隊の作戦命令として伝え、その重要性、至難さ、また重労働であることを自覚させた。作業は朝5時から夜8時まで、食事時間は1回30分、午前・午後に1回づつの休憩をとって1日の実労働時間は12時間30分、期間は1ヶ月である。
 15cmカノン4門の重量は約80トン、それに弾丸が1000発。1発の重さは45kgから50kg(弾種によって重さが違う)もあり、さらに薬筒が1000発、これらを人力で山の上から海岸まで運ばねばならない。将校といえども山から下りる時は、弾丸か薬筒か何か1つは必ず担いで下りること、私も山に上ったら必ず1発は担いで海岸まで運んだ。乏しい食料のなかで兵隊たちは必死になって働いた。敵の進攻は近いのである。

 以来連日、朝5時から夜8時まで、時には米軍戦闘機の機銃掃射を浴びながら、中隊全員と作業に取組んだ。食糧不足で米は1人1日5勺であった。鯛が主食で米は副食物のようだった。兵士は実によく働いた。肩の皮膚が破れて血を流しながら、弾丸を背負って山から海岸に運ぶさまには涙がでた。

撤収作業の見通しがついた8月の初めに、私は一足先に島を離れて九州本土へ渡った。それは火砲を設備する場所を決めるためで、軍司令部と連絡の上、福岡県福間町附近の山中で陣地偵察をしていた。

8月11日夜、火砲と弾薬を積んだ200トン船2隻を曳航して沖の島を出航、途中米軍機から照明弾を落され危いところだったが、ようやく翌12日午前10時、博多港に入港した。直ちに西部軍参謀部に報告したところ、終戦間近で誰からも相手にされなかった。

 8月12日夕方、撤収を終った船が博多港に着いたとの報告を受けて、私は翌日博多港へ行った。岸壁に繋がれた2隻の船には火砲、弾丸はもちろん陣営具、衣料、糧秣、その他の物資が小山のように積みあげられていた。玄界灘の荒海を70km近くも曳航されて、よくも無事に到着したものだと、思わず胸が熱くなった。
 その2日後が終戦である。この撤収作業に汗を流してくれた部下の苦労に対して、今でも頭の下る思いがする。

 (第7中隊長 佐藤光雄氏の回想(緑字)、挿入 島田清氏の回想(赤字))





日付 記事[1]
昭和12年6月1日 起工(砲台、電燈所)
昭和14年12月15日 竣功(電燈所)
昭和15年3月31日 竣功(砲台)
昭和20年8月 沖ノ島 第7中隊 2連式15加 4門
第56軍隷下の第57師団に配属され、8月上旬撤収を終了。
火砲、弾薬共博多港に到着時、終戦。(佐藤中尉)[2]

 東郷北西側(沖ノ島 15K4) 洞窟掘開 10% [3]

[1] 現代本邦築城史
[2] 下関重砲兵連隊史
[3] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[4] 派遣隊所在各地区(13)沖ノ島派遣隊(アジア歴史資料センター:C08011400400)











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