蓋井島第1砲台



2012.6.10 下見
2013.11.23 第1回探索(北東地区洞窟砲台、第1砲台下段)
2013.12.8 第2回探索(臨時野砲砲台、第1砲台)
2014.3.23 第3回探索(乞月山洞窟砲台、第1砲台、北東地区洞窟砲台)
2015.3.7 第4回探索(全域)



右:米軍の航空写真(M741-A-47、国土地理院)



探索記録: 下部砲台上部砲台洞窟砲台兵舎その他鐘ヶ崎電灯所臨時野砲陣地


中:米軍の航空写真(M741-A-48、国土地理院)


車道脇からの乞月山への軍道入り口、左の枯れ木を目印に進む





蓋井島の南東にある乞月山の周辺に、蓋井島第1砲台とその周辺施設がある。
山頂まで軍道が辛うじて残っており、スニーカーでも無理すれば登れるが、できれば登山靴と軍手、鉈鎌があると良い。また上部砲台の方が荒れている。

下段砲台は、全国でも珍しい半掩蓋式穹窖(キュウゴウ)砲台で、機能的には中途半端な対空防御と中途半端な射界とを兼ね備えた正に中途半端の塊であるものの、見た目はそれなりに格好良い。
乞月山山頂付近にある上段砲台も、非対称で珍しい形状をした露天砲台で、半分くらいが用途のわからない構造物である。
乞月山の南西斜面には、戦争末期に造られた洞窟砲台が2基あり、どちらも工事途中のままである。

鉄筋コンクリート構造物は、鉄筋盗りにより一部破壊されている所もあるが、比較的状態も良く、港から15分程でアクセスできることを考えると、軍道を遊歩道化して乞月山山頂を展望台にしてくれると、もう少し本土から観光客も来るようになるのではないかと思う。


現代本邦築城史によると、蓋井島第1砲台の意図は以下のものであった:

任務: 
 所要に応じ観音崎、男島、妙見崎付近に配置を予想する中小口径加農砲台と協力して下関海峡付近に策動を企図する敵小艦艇を遠距離に阻止し、以て六連島付近泊地を援護し、併せて大島砲台と協力して北九州の北岸の東部に於ける我が航行艦船を援護し、且つ敵の海上よりする攻撃に対し、製鉄所及びその付近の工業地帯を援護するにあり。

備砲:
 45式15cmカノン砲 改造固定(特) 4門

標高:
 91m、135m

昭和8年10月20日起工、昭和10年3月20日竣工


蓋井島電灯所:
 射光機(94型可搬式150cm)1、電燈格納庫(張間5m50cm、桁行10m75cm)1、照明座1
 昭和9年10月10日起工、昭和10年6月20日竣工






第2砲台の位置についての問題:

 近代築城史は、入手が容易で図面も多く、非常に重宝する資料ではあるものの、記述に誤りも多い。この記述に従って山に入り、何度、貴重な時間と体力を無駄にしたことだろう。そして蓋井島でも、近代築城史の記事には誤りがある。

 近代築城史には、「蓋井島第2砲台は、第1砲台の南方泉水鼻に昭和13(1938)年6月起工、同年12月竣工した11年式7センチカノン砲2門の砲台である。150センチ射光機を付属した」とある(大山の、4門編成になった第2砲台についての記述は無し)。そして付図には、乞月山の南西に砲台のマークが描かれている。
 また下関重砲兵連隊史には、「第2砲台は、第1砲台の南方酒ノ瀬に、昭和13年6月起工、12月竣工した。11年式7cmカノン砲2門の砲台で、150cm射光機を付属した。昭和16年7月戦備下令時に第3中隊(7cmカノン4門)に転位した。」とある。こちらも地図には、乞月山の南西に砲台マークがある。

 近代築城史の記事にある「泉水鼻」は、実際には島の北西端(大山の北)にあり、「下関要塞蓋井島第二砲台備砲工事並蓋井島砲台八八式海岸射撃具撤去工事実施の件」(アジア歴史資料センター:C01007725200)でも、この島の北西端にある泉水鼻の南付近に第2砲台(7cmカノン2門)を描いている。恐らくは、近代築城史は「泉水鼻」の位置を勘違いし、乞月山の第1砲台の南西に第2砲台があると記述してしまったものと思われる。
 下関重砲兵連隊史は作成の際に、近代築城史や戦史叢書のから記事や図を多用しているが、蓋井島関連の記事をまとめる際にも、この近代築城史の地図と記事を転用ならびにこれに追加しており、その際にご丁寧にも「泉水鼻」の誤りを位置関係として正しい「酒ノ瀬」に修正し、位置はそのままにしてしまったのではないかと思われる。ただ、このままだと大山に実際に築かれた第2砲台との辻褄も合わなくなってしまうので、巧みに誤魔化している。

 ただ、それでも見落としがあってはならないので、2014年3月に乞月山の洞窟砲台を探索する際、ついでに酒ノ瀬から源蔵ヶ鼻に至るまでの南斜面も探索してみた。完全に全ての範囲を見て回ったわけではないが、少なくとも軍道や平坦地のような人工物は、この付近では見当たらなかったことから、矢張り誤りであると思われる。





目次:

下部砲台

上部砲台

洞窟砲台

兵舎その他

鐘ヶ崎電灯所

臨時野砲陣地



日付 記事(特記以外、現代本邦築城史より)
大正8年5月 要塞整理要領
41cm榴弾砲4門(計画)
大正12年2月 要塞再整理要領
砲塔45口径30cmカノン2門(計画)
昭和8年3月 要塞再整理修正計画要領
7年式15cmカノン4門(計画)
昭和8年10月20日 起工
昭和9年10月10日 起工(電灯所)
昭和10年3月20日 竣功。
45式15cmカノン改造固定(特) 2門(標高91m)、2門(標高135m)
昭和10年6月20日 竣功(電灯所)
94型可搬式150cm射光機1、電灯格納庫(5.5mx10.75m)1、照明座1
昭和16年7月7日 戦備下令(陸支機密第67号)[2]
昭和16年7月 既設砲台の施設申受け、兵舎の建設[2]
臨時野砲陣地の構築(38式野砲2門、第5中隊の一部)[2]
昭和20年2月下旬 第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)[1]
島内の2ヵ所(乞月山第1中隊107名、北東地区第3中隊105名)で洞窟砲台工事開始
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[1]
島内の2ヵ所の工事中止、火砲は浅川と山田へ

[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[2] 下関重砲兵連隊史









下部砲台




左:砲座Aを南西から、右:砲座Aを北東から


左:砲座A、右:背面部を南から


左:砲座Aを東から、右へ20度くらい振っている、右:砲架基礎


左:背面部を北から、右:連絡トンネル


左:正面奥が砲座B、途中に弾薬庫、右:東側へ伸びる通路


左:北側の弾薬庫、右:南側の弾薬庫


左:砲座Bを北から、右:砲座B


左:砲架基礎、右:砲座内へ降りる階段


左:南西から、右:北西から


左:南東から、右:連絡トンネル入り口




左:観測所C内部、右:北西隅、木枠が残っている


左:観測所C東側、右:北下へ降りる階段


左:南上の出口、右:観測所Cを外から


左:スリットを北西から、右:観測所からの階段との分岐


左:東側の連絡路出口、右:南へ掘り込まれた窪地


左:軍道分岐から連絡路出口を、右:分岐から上部砲台へ伸びる軍道


左:ケーブル溝D、右:謎の石垣



 尾根の西斜面に掘り込むように2基の砲座が造られている。半掩蓋式穹窖として初めて築かれたものであり、射界は120度程に制限されているが、耐弾性のある天蓋は3m位しかなく殆ど露天と変わらない。防空を考慮してこうした形になったらしいのだが、偽装はやりやすくなったとはしても、空襲に対しては攻撃が多少やりにくくなったくらいであり、この形式の砲座がこれ以降造られる事が無かったことからも、失敗作のように思えて仕方ない。南側の砲座Bの首線は、ほぼ真西(270度)を向いているが、北側の砲座Aの首線は290度くらいで、少し北西側に振っている。円座の半径は約3.3m。
 砲座AとBの間と、尾根の東側の出口の間には地下連絡通路が設けられており、その途中に弾薬庫と、その真上に観測所Cがある。この観測所は近代築城史によると小隊長用のものである。
 地下通路の東側出口先の軍道脇に、方形の掘り込みがあるが、用途不明である。また北へ下る尾根上に、ケーブルを掘り出した跡と思われる溝Dが麓まで続いている。付近に石垣が幾つかあるが、用途は不明である。


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上部砲台




左:観測所E、右:同左


左:観測所Eの内部、崩されたコンクリート片が散乱している、右:同左逆側、右奥に下への階段入り口と上への梯子跡


左:2階部分への開口部、右:測距儀の基礎、アンカーボルトは全滅


左:スリット、右:南西側にある入り口


左:観測所Eの2階部分、南東側の入り口、右:2階部の内部を南西から、屋根が完全に崩されている


左:2階部の内部を北西から、右:スリットの下の部分のみ残る


左:地下通路の南側の入り口、右:入って少しで北東方向に曲がる


左:手前から観測所への階段、弾薬庫2基、奥が砲座F、右:観測所への階段


左:弾薬庫、右:弾薬庫




左:砲座F側の出口、右:出口を東から


左:砲座Fの南面を西から、右:砲座Fを南から、円座や砲架基礎の痕跡が見当たらない


左:砲座Fを北西から、右:砲座Fの東面


左:砲座G、右:同左


左:砲座Gのコンクリート円座、右:円座の中へ降りる階段


左:平坦地Hを北西から、右:平坦地Hを北東から




左:平坦地I、右:同左


左:平坦地Jを北上から、右:平坦地J


左:平坦地K、右:平坦地Kから観測所Eの入り口を見上げる


左:地下貯水槽L脇から砲座G方向を、右:地下貯水槽L


左:下へ降りる軍道から観測所Eの石垣を、右:軍道脇の掘り込み部




 乞月山山頂には2基の砲座と、観測所、地下弾薬庫の他に、4ヶ所の平坦地がある。近代築城史によると山頂の観測所は主観測所で、2階建ての上階が戦闘司令所、通信室、算定具室で下階が測遠機室とあるが、形状を見るに上下逆であるし、もしかしたら大山の方の観測所の事を記述しているのかもしれない。
 観測所Eは、ほぼ山頂に存在しており、階段のある地下通路から数えると3階建てとなっているが、最上階部分は上半分が鉄筋盗りで破壊されており下半分しか残っていない。その下も、測距儀基礎を始め、破壊が酷い
 砲座の1つは、円座の存在からGであると思われるのだが、もう1ヵ所の砲座の場所が明確でない。ただ地下弾薬庫のある地下通路の出口にあること、また10m程の空間があることから、Fでないかと推測するのだが、カノン砲の基礎の形跡らしきもの(円座等)が見当たらない。砲座Gの円座は、倒木で正確に計測できていないが、半径が約3mである。
 他に、H、I、J、Kの4ヵ所の、それぞれ6m四方の広さの平坦地がある。用途は不明だが、個数から防空用の対空銃座かと思われる。観測所Eの西には、それらの指揮所と思われる2ヵ所の内径約2mの円形窪地(写真は撮影したものの、草で何が写っているのかわからなかったので割愛)と、それらを結ぶ連絡路がある。
 砲座Gの南東には地下貯水槽Lが、また下へと続く軍道脇に掘り込まれた場所がある。


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洞窟砲台




左:洞窟砲台M、右:同左上の崖


左:M正面の平坦地、右:Mの内部


左:床面、腐食してボロボロになった木材が一面に、右:奥面、連絡トンネルは掘られた気配なし


左:内部から外を、右:同左下


左:東側面、右:天井


左:西側面、右:崩れた木材


左:外の西面、右:洞窟砲台Mを正面から




左:洞窟砲台N、右:同左上の崖


左:N正面の平坦地、右:洞窟砲台N、一部崩落している


左:Nの内部、一部のみコンクリート施工、右:コンクリート部


左:コンクリート部を上から、右:横から


左:鉄筋代わりに石が…、右:奥面を、切れ目は連絡通路の入り口か


左:砲架基礎の為の掘りこみ、右:同左


左:天井、右:崩落部と、奥に西面


左:東面、右:洞窟砲台N




 乞月山の南西斜面に、2基の洞窟砲台がある。いずれも工事途中で放棄されて本当に洞窟のようであり、横幅はどちらも約6〜7mである。
 西側の洞窟砲台Mは、崩落こそ無いものの工事は遅れており、コンクリート打ちも砲架基礎の為の掘り込みも未施工の状態である。床には砕けた木材が一面に散らばっている。恐らくは工事に使用していた角材が腐食で粉々に砕けたものではないかと思われる。
 東側の洞窟砲台Nは、一部コンクリート打ちが為され、また床に砲架基礎を打つ為に掘り込まれるなどMよりも工事が進んでいるものの、天井が一部崩落している。コンクリート壁面は、奥は地肌そのまま、手前に板を張りながら間に段階的にコンクリートを流しているようだが、鉄筋は入っておらず、代わりにその辺の石片が使われている。耐弾性を考慮せず、ただ岩肌が崩落するのを防ぐためだけのコンクリート施工である可能性がある。


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兵舎その他




左:平坦地Oを北東から、右:平坦地Oを東から


左:北側の建物基礎、右:南側の建物基礎(藪に埋もれている)


左:平坦地Oを西から、右:平坦地Oの出入口


左:窪地P、右:同左右奥


左:窪地Qから南へ延びるケーブル溝、右:窪地Q


左:平坦地R、見えづらいが建物の基礎がある、右:軍道、QとRの間くらいを北に向かって





左:弾薬支庫Sの西側の入り口、右:内部、奥でT字になっている


左:入り口上側、右:東側の入り口


左:東側内部、奥でT字になっている、右:入り口上


左:東側の入り口脇の石垣、右:同左


左:左脇の藪の奥に弾薬支庫Sがある、右:平坦地Tを北西上から


左:平坦地Tの北側の壁面を横上から、右:同左を平坦地上から


左:平坦地Tを南から、右:同左南縁から弾薬支庫Sの入り口を見下ろす


左:平坦地Uを南東上から、右:平坦地U


左:陸軍の標柱V、右:別の場所の標柱




 下関重砲兵連隊史の付図によると、乞月山の北麓には兵舎、官舎、弾丸庫、井戸、火薬置き場が描かれているが、どこが何なのかは良くわからない。また周辺は藪が酷く、今ひとつ全体を探索し切れていない。
 兵舎地域の最南端には平坦地Oがある。南は斜面を削り込み、北には土塁を巡らせていることから、前記の内の弾丸庫かと思われる。2基の建物基礎があるが、南側のものは藪に埋もれて見えにくくなっている。その北東には窪地Pがある。用途は不明で、崩落した地下壕のようにも思えるがよくわからない。
 北へ続く軍道の西には、西斜面を掘り込んだ窪地Qがある。ここを起点として山頂に向かってケーブル溝が延びている。軍道を挟んで東には平坦地Rがある。建物基礎があるのだが、写真では良く見えていない。車道の周辺は広い平坦面となっており、兵舎等があったものと思われ、建物基礎のようなコンクリート構造物もあるものの、当時のものか戦後のものか区別が付かない。井戸跡は見つけられなかった。

 車道を挟んで北側の藪の奥に、地下式の弾薬支庫Sがある。連隊史の付図によると火薬置き場と書かれているものだと思われるが、小呂島にある似たものが現代本邦築城史の中で「弾薬支庫」と書かれていることから、ここでも弾薬支庫としておく。東西2ヶ所の入り口があり、入ると壁になって回り込むようになっているようだが、怖くて中に入れなかった(笑)。この弾薬支庫の上には平坦地Tがある。強引に削り出され三方が壁面になっている。建物基礎のようなものは見当たらず、用途も不明である。
 峠の電波施設の南側にも、削り出し平坦地Uがある。ここも用途不明。また北にある標高約70mの山の南斜面に、陸軍の標柱が幾つか建っている。またこの山の東斜面から山頂、そして北西斜面へと、ケーブル溝らしきものが走っている。


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鐘ヶ崎電灯所




左:遊歩道からW平坦地を、右:W平坦地


左:W平坦地の北西隅の石垣、右:東面の石垣


左:瓦礫を積んだ石垣、右:W平坦地に散らばる瓦礫


左:W平坦地から遊歩道方向を、右:電灯の誘導路の土塁、木の根元のコンクリート柱も当時の物のようだ


左:誘導路脇の標柱、横のコンクリート柱も当時のものか、右:電灯座Xの東下の石垣


左:電灯座Xの土塁、右:灯台裏から電灯座Xを


右:1975年頃の航空写真、電灯格納庫が残っている(CCG7412-C26-4、国土地理院)


 鐘ヶ崎灯台の北裏に鐘ヶ崎電灯所がある。

 尾根の東側に電灯格納庫があったと思われる平坦地Wがある。建物は崩されて長方形のコンクリート基礎のみが残り、その辺り一帯に瓦礫が散乱している。1975年頃の航空写真には建物の屋根が写っているのだが、何故崩されたのかは不明。

遊歩道を横断して、灯台の裏手にかけて、尾根上に電灯の誘導路と電灯座Xがある。土塁で縁取られているが、藪が酷くて地形が判るような写真が撮れていない。 誘導路には背の低いコンクリート柱にボルトと金具が付いたものが間隔を空けて並んでいる。電線でも架けていたのかもしれない。電灯座Xの東斜面には石垣が拭かれている。


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臨時野砲陣地? その他




左:麓からの道、右:頂上平坦面


左:西斜面の道路脇の平坦地、右:同左近くの平坦地


左:東側の海岸、ここにも軍用桟橋があったらしいが跡形もない、右:同左付近にある通信ケーブルの溝


左:西側の海岸にある軍用桟橋跡、先の方は崩れている、右:同左と鐘ヶ崎


左:港から乞月山を、右:金比羅山(鐘ヶ崎の北の山)から




 下関重砲兵連隊史によると、昭和16年7月の戦備下令で砲台に配員された際、補助として臨時の野砲陣地が1週間ほどで築城されたとある。38式野砲2門の編成で、観測所もあったらしいのだが、場所は不明。付属するいい加減な地図と、航空写真の影などから、上記地図付近ではないかと推測する。
 山に入ってみたものの、山頂は畑にもなっていたこともあり、あったかどうかすらもわからない。山の西斜面と車道の間付近に2段の平坦地があり、平坦地の縁に土塁のような盛り上がりがあることから、この辺かもしれない。
 観音崎砲台の臨時野砲陣地を見ると、コンクリート資材までは使用されていないものの、結構凝った造りになっていることから、別の場所の可能性もある。

 乞月山の北麓を通る車道をそのまま東へ進むと、曲がりつつ海岸へと下る。下関重砲兵連隊史の地図によると、この海岸にも桟橋があったと記述されているのだが、現在では跡形もない。またこの海岸から通信ケーブルが上陸し、山の尾根沿いに島の北西の大山まで続いていたが、たどって行くと掘り出した跡の溝が続いている。

港へと向かう車道の脇には、軍用桟橋が残っている。先の方は崩れてしまっているが、比較的良く残っている。


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