蓋井島第2砲台



2015.3.7 探索



右:米軍の航空写真(M741-A-48、国土地理院)






探索記録: 観測所他兵舎他砲台第1期(北)砲台第2期(南)偽装砲台




 蓋井島の北西の突き出た大山の周辺に、蓋井島第2砲台とその周辺施設がある。
一応道らしき物はあるが、目印のテープも所々で無くなっていたり、また足場も悪く、薮漕ぎに慣れたくらいのレベルでなければ、ここに行くことをお勧めできない。その為か、ネットを調べても、大山の登山記録は余りお目にかからない。


登山ルートについて(最上左図を参照)

 ルートは旧軍道と、防備衛所経由の尾根縦走、西麓経由の3本があるが、旧牧場の境界に石塁が築かれており、南北いずれかの門を通ることになる:

(1)旧軍道
 今回の探索では歩いていないが、ネットの登山記録を見ると、一応テーピングはされているらしい。旧牧場を通り、牧場の南側の門を通過するか、もしくは北側の門を通過した直後に西上に直登すれば辿り着けるのではないかと思うものの、確認できていない。

(2)尾根縦走:
 今回の探索では帰りに通る。尾根上の移動は足場が比較的良く楽ではあるが、230m三角点ピーク付近で道が判らなくなり、地図と踏み跡を見ながら防備衛所を目指すことになる。ただ尾根を下り始めると明確な踏み跡があり、防備衛所下まではわかりやすい。防備衛所下から折り返して斜面を東へ下るのだが、道が明確でなく、テープも見えにくい。獣道のようなかすかな踏み跡を辿りつつ、牧場の南側の門を目指す。また旧牧場の敷地は潅木が茂り、鉈鎌が無いと歩けなくなっている可能性が有る。実際、往きの際、牧場の南側の門への道を進んだものの、牧場の荒れ具合から、道は無いと引き返している。

(3)西麓
 往きに赤テープを辿っていると、こちらへ回されてしまう。牧場の敷地の範囲では、道が半分藪に埋もれつつある。牧場の北の門をくぐると道は判りやすくなるが、ほぼ同じ標高をだらだらと北へと歩かされる。斜面道なので足場も悪い。大山から東に降りる尾根線付近で登りになり、尾根線に取り付いた後に西上に登り始めるものの、この辺でテープを見失う。最後はそのまま西上に強引に直登する。途中堀切のようなものを横切る。初めは軍道かと思ったものの、前後に続きがない。軍道は、そのまま北に進むことで砲台の中心部へと進むことができる。
 道としては、本来は大山(砲台)への道ではない可能性もある。


 どちらにしても、地図、磁石は必須であり、鉈鎌も有った方が確実である。また25000分の1の地図は尾根を読み間違えやすく、位置を見失わないように、絶えず周囲の地形を確認しなければならない。





遺構概要:

 南北に250m前後の3ヶ所のピークがある。
一番北側の247mピークには、観測所と探照灯?関連の施設が、その南麓から真ん中の252mピーク付近には兵舎施設と7cmカノン砲座が、一番南の230mピーク付近には偽装砲台と海軍の白瀬防備衛所の施設とがある。


 北端にある観測所はこれまで見た中では最も大きい。下関重砲兵連隊史の地図には大隊本部といった記述もあるので、その辺の機能も兼ねているのかもしれない。また観測所の北には謎のコンクリート施設があるが、破壊とその後の薮化が酷く、何があるのか良くわからない状態になっている。要塞の機能として、電灯(探照灯)と発電所の施設かと思われるが、不明。

 2つのピークに挟まれた鞍部から東斜面にかけて、幾つかの平坦地と基礎が残っている。どれが何の施設かまでは特定できない。また、帰宅後に航空写真と重ねてみると、どうも探索し損ねた平坦地が幾つかあるようである(地図には薄墨で記入)

 真ん中のピーク周辺には、4基の砲座と周辺施設がある。記録によると2期に分けて築かれており、後から築かれた方の砲座は、多少手抜きのような造りであり、また人数が増えたことも有り、追加された兵舎等の施設跡も近くにある。

 少し離れて南側のピークには、石垣とコンクリート製の筒で造られた偽装砲が4基残っている。砲身を丸太で作った話は良く聞くが、資材と手間のかかるコンクリートで造られ、しかも本体部分まで含めて比較的綺麗に残っているのは、恐らく全国でも珍しいのではないだろうか。
 ネットの記述を見ると、この偽装砲について「資材不足で作られた」という説明がなされているものもあるが、戦争における「偽装」は物資の有り無しに関係の無い、極めて合理的な情報戦の為の手段である。米軍の戦略爆撃調査団の太平洋戦争についてまとめられたレポートの中の航空写真に関する章で、各種の偽装について記述されていること、偽装砲台による判定ミスの分析についても書かれている事からも、その重要性を推し量ることができるだろう。

 偽装砲のあるピークから南西に少し降った尾根には、海軍の白瀬防備衛所の見張所がある。



 現代本邦築城史の記事によると、対空射撃の為の空中聴音機の配備も予定されていた。


 下関重砲兵連隊史には、昭和19年6月の北九州空襲の際、第3中隊(蓋井島第2砲台)東探照(※)班所属、大里茂氏の以下の回想に、聴音機が配備されていた事が判る記述がある。(※東探照灯は下関重砲兵連隊史の蓋井島地図で、角ヶ崎(北東地区洞窟砲台の北西側)に記載されている。ただこの辺にはそれらしき遺構は見当たらず、間違いなのか本当にあったのか良くわからない。普通に第3中隊の探照灯(観測所北)ではないかと思うのだが…)

「昭和19年6月15日午後5時30分、西部軍全地域に警戒警報が発令され、同時に中隊は蓋地作命第16号により警急姿勢甲に転移した。その日は何故かいつもより消灯が1時間早く、なかなか寝付かれなかった。
空襲警報が発令されるや皆んな、戦闘姿勢戦闘姿勢と大声で叫びながら、迅速な行動で、それぞれの持場に着いた。照空陣地へ急ぐ途中の機関庫では、早くも小林一等兵が発電機関を始動していた。聴音機につくと同時に数機の敵機が頭上を飛んでいった。16日午前1時20分白島砲台に射撃開始の命令が下る。蓋井第2砲台は今か今かと待っていたが、高度不明で射撃ができなかった。関門、小倉、八幡地区の空には照空灯の光が光り、高射砲弾や機関銃の曳光弾が花火のようであった。延々2時間余りの戦闘で、その間蓋井〜水島(注:蓋井島南東約2km沖)間にも照明弾が投下され、これは東探照班が目標にされたに違いないと思った。午前5時30分、空襲警報が解除となり、全員無事な顔で昨夜の様子を語り合いながら朝食をとった」




 また、海軍の資料では、戦争末期に蓋井島に水上用電探が配備される予定になっていたものの、どうなったかは不明。配置されるとすれば大山付近だと思われるが、尾根から覗ける範囲内では、それらしい遺構は見つけられなかった。




現代本邦築城史の蓋井島第2砲台についての記事:

任務:
 観音崎、蓋井島及び白島砲台と協力し、蓋井島付近の海面に於ける敵艦船の航行特に関門地区への侵入を妨害し、我が海上交通を援護すると共に関門防空の第1線を形成するにあり。

備砲:
 11年式7cmカノン砲4門

標高:
 234m(昭和13年7月21日竣工)、243m(昭和14年8月31日竣工)

摘要:
 砲側庫を有せず、その代わりに各砲座には幅1.70m、奥行1.70mの弾薬置き場各1を有す、別に砲台に弾薬室(内庫、幅2.60m、長さ4.39m)1個を設備す



蓋井島第2電灯所:

射光機(ス式150cm遊動式)1
照明座1、掩灯所(幅3m、長さ4m)1、発電所及び属品格納庫1

昭和13年7月21日着工、昭和14年7月31日竣工





目次:

観測所他

兵舎他

砲台第1期(北)

砲台第2期(南)

偽装砲台



日付 記事(特記以外、現代本邦築城史より)
昭和13年7月21日 起工(砲台、電灯所)
昭和13年12月11日 下関要塞蓋井島第二砲台備砲工事並蓋井島砲台八八式海岸射撃具撤去工事実施の件
(アジア歴史資料センター:C01007725200)
11式7cmカノン 2門、据付終了
昭和14年3月20日 小六連島砲台へ備砲予定の11式7cmカノン2門を蓋井島第2砲台へ
(陸機密第29号)
昭和14年7月31日 竣功(電灯所)
ス式150cm遊動式射光機1、掩灯所(3mx4m)1、照明座1、発電所及び付属品格納庫
昭和14年8月31日 竣功(砲台)。
11式7cmカノン 4門
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[1]
7cmカノンも洞窟陣地へ移動(工事は6月上〜7月上に開始)
昭和20年8月頃 工事状況 [1]
武久砲台(元蓋井島第2砲台 7cmカノン1) 洞窟開削・コンクリ完了、備砲完了 400発
彦島砲台(元蓋井島第2砲台 7cmカノン1) 洞窟開削・コンクリ完了、備砲完了 400発
新町砲台(元蓋井島第2砲台 7cmカノン1) 洞窟開削・コンクリ完了、備砲完了 400発
富野砲台(元蓋井島第2砲台 7cmカノン1) 洞窟開削・コンクリ完了、備砲完了 400発

[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)









観測所他




左:観測所Aを南から、右:同左南面、2階への梯子等は撤去されて無い


左:観測所Aの南の通路を東から、右:同左を西から


左:2階内部、右:観測所Aの東面


左:観測所Aの西面南側、右:同左北側


左:観測所Aの北西隅のスリット、右:同左拡大





左:観測所Aの1階部の北面のスリット、右:同左拡大


左:観測所Aの1階部の北側内部、右:同左西側


左:1階スリット部の木枠、右:鉄支柱をガス切断した痕跡、木枠が焦げている


左:観測所Aを北東から、右:観測所Aの1階部北端を東から


左:観測所Aの1階北側の部屋、右:測距儀の基礎のアンカーボルトは抜き取り済





左:観測所Aの1階南側の部屋を北から、右:同左北東隅、木枠があちこちに残る


左:2階への梯子の跡、右:1階南側の部屋を南から


左:外から2階のスリットを、右:2階のスリットを北正面から


左:2階のスリットを斜めから、ここの支柱は残っている、右:2階の内部


左:東下から観測所Aを、右:同左から謎のコンクリート施設Bの南東隅の出入口を





左:謎施設Bの南東隅出入口、右:同左の東側


左:入り口脇の排水溝、右:出入口部の西面


左:謎施設Bの内部、右:同左にあるコンクリート残骸


左:謎施設B内のコンクリート残骸、右:出入口の北東面


左:西上から、謎施設Bの内部を、右:北西隅の張り出し





左:Cの北の平坦地の石垣、右:方形コンクリート構造物Cを西上から


左:方形構造物Cの南西隅、右:同左南面


左:方形構造物Cほ北東隅の出入口、右:Cの南下の石垣





 北側の丘陵部には、主に3つの施設がある。
 最も明確な遺構は、中央の少し北にある2階建ての観測所である。1階は南北に2部屋、2階は1部屋であり、内部と外部に階段・梯子があったようだが、鉄製品だったらしく全て撤去されており、2階に登る術が無い。
 1階の内、北側の部屋には西から北にかけて4分の1円弧のスリットが開けられ、その横に測距儀の基礎のような円柱構造物がある。アンカーボルトは全て抜き取られている。スリットには木枠が付けられており、ガラスか何かが挟まれていたように見える。スリットに何本かあった鉄製の支柱は、2,3本がガス切断機で切断、撤去されたしょうで、木枠が一部焦げている。
 1階南側の部屋は、東西の壁に6個づつ窓が開けられ、それ毎に木枠で仕切りのようなものが付けられている。それぞれに1人づつの作業者が配員され、何かしらの作業を行っていた場所(通信の応答?、弾道計算?)のようである。
2階は西から北にかけて直角のスリットが開けられており、スリットの近くの北西隅に測距儀の基礎らしいコンクリートの六角柱が建っている。こちらもアンカーボルトは全て無い。1階南の部屋の東西6ヶ所づつの謎の作業場の天井から、2階の床に向けて小さな穴が開けられている。2階のスリットの鉄製支柱は全て残っている。
 Aの用途は明確にはわからない。近代築城史は乞月山山頂の観測所について、「主観測所で、2階建ての上階が戦闘司令所、通信室、算定具室で下階が測遠機室」と記述しているが、これがこの観測所Aの記述であり、また上階と下階の記述が入れ替わっていると見ると、合うように思える。そこで、観測所Aを、蓋井島第1、第2砲台の主観測所としておく。

 尾根の最北部には、謎の半地下式コンクリート構造物Bがある。ほぼ長方形で、南東に出入口があり、また北西隅に張り出しがある。現在は露天で、内部はコンクリートの瓦礫がゴロゴロした状態であるが、南東隅の出入口の形状を見るに、全部とは言わないまでも、一部は天井で覆われていたものの、鉄盗りの際に徹底的に破壊された結果なのではないかと思われる。ツタや草が邪魔で、内部形状は判らない。
 用途も難しいが、下関重砲兵連隊史の地図に、この辺に探照灯が記載されていること、また現代本邦築城史の第2電灯所の施設の記述(照明座、掩灯所、発電所、属品格納庫)から、ここが第2電灯所ではないかと推測する。

 尾根の最南端には方形コンクリート構造物Cがある。1辺約6mのほぼ正方形で中は一段下がり、内部に長方形のコンクリート基礎がある。また北東隅には出入口が設けられている。アンカーボルトが幾つか残っている事から、この上に壁が屋根が載っていた可能性がある
 構造物Cの用途は判らない。第2砲台が建設される前に、この付近に地下式の補助観測所を建設し、88式海岸射撃算定具を配置したとの近代築城史の記述(この記事では主観測所は乞月山山頂だが)、更に「下関要塞蓋井島第二砲台備砲工事並蓋井島砲台八八式海岸射撃具撤去工事実施の件」(アジア歴史資料センター:C01007725200)に、第2砲台の建築と共に、射撃具を撤去する記事が記載されていることから、観測所Aを建築する前の補助観測所がCであった可能性がある。もしくは、海軍の蓋井島特設見張所(防備衛所とは別、昭和17年9月に廃止、撤去)、はては戦争末期に計画された特設見張所(対水上レーダー)の施設跡の可能性も、無いでもない。

 南下の兵舎群から、このピークに向かって通路と通信ケーブル溝が東斜面を登っているが、時間が無くどこに連絡しているかまで確認していない。



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兵舎他




左:平坦地Dを北西から、右:同左、中央部


左:平坦地Dを南西上から、右:平坦地Dを南東から


左:砲台へと向かう軍道、右:平坦地Dの北隅にある水槽


左:平坦地Eを南西から、右:建物基礎を北から


左:平坦地E北側を北西上から、右:同左南側


左:建物基礎の中央部にあるコンクリート方形基礎、右:建物基礎の北隅と水槽


左:平坦地Eの北隅にある埋め込み水槽への降り口、右:平坦地Eの東縁にある水槽





左:平坦地Eの東下の石垣、右:平坦地Eの北東上の平坦地


左:平坦地Fの南下にある貯水槽、右:平坦地Fの南東下の石垣


左:貯水槽を北東上から、右:平坦地Fの建物基礎


左:平坦地Fを南東から、右:平坦地Fの建物基礎の中央部





左:平坦地Gを西から、右:コンクリート基礎


左:埋め込み式水槽への降り口、右:同左アップ、左の丸太は電柱?


左:埋め込み式水槽上に開いているスリット、右:電柱の部品と碍子


左:地下壕出口の石垣、右:同左、地下壕側から


左:崩落した地下壕、右:平坦地Gの東側





左:水槽Hを東上から、右:同左を東から


左:Hから平坦地Iへと降りる道脇の石垣、右:同左付近から平坦地Iを


左:平坦地Iのかまどと奥に浴槽?、右:かまどを東から


左:浴槽?、右:浴槽?の北にあるコンクリート構造物、トイレ?





左:平坦地Iから平坦地Jの北西側、右:同左南東側


左:平坦地Jの南西面の石垣、右:謎のL字構造物


左:平坦地J、右:平坦地IからHへ登る道脇の石垣




 観測所のあるピークと、砲台のあるピークの間にある鞍部から東に下る谷にかけて、幾つかの平坦地と構造物跡がある。下関重砲兵連隊史のアバウトな地図には、この辺りの構造物として、北から「大隊兵舎・官舎・本部|油庫、発電所、倉庫、砲具庫|中隊長室、事務室、兵舎、炊事、風呂、兵舎、井戸」が描かれている。航空写真を見ると未探索の平坦地が幾つか有るようなので(推定平坦地は薄墨で描写)、この段階でどこが何かを推測するのは難しいが、それでも現時点で推定をしておくと、Dが倉庫と砲具庫、Eが発電所と油脂庫、Fから北にかけての平坦地群が大隊関連施設、平坦地Gが中隊関連施設と兵舎、平坦地IとJとが炊事、風呂、兵舎、井戸でないかと思われる。

 平坦地Dには北西から南東にかけて、長細い建物基礎がある。南西面と南東面が切岸になっている。また北隅に小さなコンクリート水槽がある。麓から砲台へと続く軍道の終点であり、また砲台へと登る軍道が分岐している。
 平坦地Eには複雑な形状の建物基礎と、3つの小さなコンクリート基礎、また北隅に地下へと降りる梯子がある。これは埋め込み式の水槽のメンテナンス用出入口かと思われる。発電機基礎らしいものは見えないが、施設が複雑であることから恐らくはここが発電所かと思われる。
 Eの北上には平坦地Fがある。建物基礎と、南端に天水桶のような埋め込み式水槽がある。藪が酷く時間が足らなかったので北東側を探索していなかったが、航空写真を見直してみると、どうもこの先にも平坦地があったようである。
 鞍部から東へ1段下がった所に平坦地Gがある。中央部に幾つかのコンクリート構造物と地下壕跡とがある。コンクリート構造物は腐葉土に覆われて全容は不明であるが、平坦地Eにあったような地下に降りる梯子がある。Eと同様に地下式水槽へのメンテナンス用出入口かと思われる。また人は入れないが、地下式水槽へ繋がっているスリットのようなものが開いている。この近くには電柱の横桁と碍子、電柱の柱のようなものが転がっている。南斜面に崩落した地下壕入り口があり、その正面には防御用の石塁が造られている。地下司令室でもあったのだろうか。平坦地Gは細長いが、兵舎建屋の基礎らしいものは確認できなかった。
 Gの北東下に、コンクリート水槽Hがある。平坦地IとJで使用する生活用水用の水槽かと思われる。同じ形状の物が角島砲台の砲台と兵舎の間にある。ここから平坦地I、Jへ下る道があり、その脇には石垣が組まれている。
 平坦地Iには3基のかまどと、その横に浴槽らしい水槽がある。またその北側にトイレらしいコンクリート構造物がある。更にその東下には平坦地Jがある。北西端に謎のL字型構造物があるが、用途は不明である。南西面に立派な石垣が組まれている。航空写真を見ると、この東奥にも平坦地があったようだが、確認していない。また構造上、この北東下に続く谷に、貯水池があると思われる。



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砲台第1期




左:砲台への軍道、折り返し点手前、右:砲台への軍道の石垣


左:砲座Kの東出入口付近、右:砲座Kの北東面の石垣


左:砲座Kの北面の石垣、右:同左西面の石垣


左:砲座Kの北東縁の石垣、右:砲座K内部(北を向いている)


左:砲座Kの南側、右:南西から砲座K内部を





左:砲座Kの南東側の砲側弾薬庫、右:同左アップ


左:砲座Kの北東側の砲側弾薬庫、右:砲座Kの南西隣にある地下式水槽?


左:砲座Kの南西出口から南を、右:砲座Kの東出入口脇にある何か通路っぽいもの


左:弾薬室Lを北東から、右:同左正面


左:弾薬室Lの北東側、右:内部、内室の壁面が崩れ落ちている





左:弾薬室L内部から入口を、右:床、内室の木枠と壁面が散乱している


左:弾丸部を挟む木枠、右:弾薬室Lの入口を中から


左:弾薬室Lの入口を外から、右:観測所Mの南東面入口


左:観測所M入口脇の石垣、右:観測所Mの内部


左:内部、右:逆側





左:2階部、天井が崩落している、右:天井には穴が


左:下へと降りる階段と両脇の穴、右:同左上


左:観測所Mを南から、右:同左


左:観測所Mを北から、右:観測所Mの北隣の半円形窪地


左:半円形窪地の北下の石垣、右:観測所Mの南隣の窪地





左:砲座Nを北東出入口から、右:内部から北東出入口方向を


左:砲座Nの南側、右:同左北側


左:南側の砲側弾薬庫、右:北側の砲側弾薬庫


左:砲座Nの南下の石垣、右:同左


左:砲座Nの南下にある連絡路っぽい何か、右:同左の先


左:軍道脇の石垣で組まれた何かO、右:同左内部


左:更に西にあるOと似たもの、右:同左内部




 御椀を伏せたようなピークを中心として、2基の砲座と観測所、弾薬室等がある。資料を見るに、蓋井島第2砲台は、まずこの2基の砲座が最初に築かれ、後に2基が追加されている。最初に築かれた施設は、後に築かれたものよりも丁寧な造りになっている。
 砲座Kは、観測所Mのあるピークの南東下にある。砲座の北西下面は綺麗な曲面の石垣が組まれ、内部も内面には石垣が組まれている。内径は約5m、北東と南東に2ヶ所の砲側弾薬庫がある。他の砲座の物と共通の形状、寸法で、幅は約1.5m、奥行きも同じくらいである。砲座の東と南西に出入口があり、特に南西側の脇には、地下式の貯水槽のメンテナンス口のような穴が開いている。用途はわからない。
 ピークにある観測所Mの北東下に、弾薬室Lがある。内部には砕けた石綿ボードのようなものと、木枠とが散乱している。木枠には、弾丸を挟むような形状をしたものも含まれており、ここに砲弾が保存されていたことがわかる。
 ピークには観測所Mがある。2階部の天井が鉄筋盗りの破壊により、崩落している。天井には穴が開いているが、目的は不明。穴の下には測距儀か何かの基礎があるが、アンカーボルトを抜くために半分砕かれている。この2階部は、登り階段がある部分以外の全周方向にスリットが開けられている。観測所Mの北隣と南隣には、半円形もしくは方形の窪地がある。これは観音崎砲台(下関)にも同様なものがあり、対空射撃時にはここで観測を行ったのではないかと思われる。
 観測所Mの南下には、砲座Nがある。内径は約6mでKよりも少し広い。南下面に曲面の石垣が組まれている。ほぼ南北に1つづつの砲側弾薬庫がある。
 砲座Nの南下には、目的不明の石垣組みの施設がある。用途は不明である。
 ピークの北東下、麓から続く軍道の脇に、石垣で組まれた窪地Oがある。用途は判らない。西側の軍道脇にも似た構造物がある。



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砲台第2期




左:北から下る軍道から砲座Pの北側の砲側弾薬庫を、右:同左


左:砲座Pを北東から、右:砲座P内部から北の出入口を


左:砲座P内部、右:同左北縁


左:砲座Pの南側の砲側弾薬庫、右:同左


左:砲座PとQの中間点から砲座Q方向を、右:同左の西正面の平坦地





左:砲座Qの北側の砲側弾薬庫、右:同左付近から砲座Qの内部を


左:東の土塁上から砲座Qの南側、右:砲座Q内部


左:砲座Qの北側の砲側弾薬庫、右:砲座Qの南の行き止まり部


左:行き止まり部、右:砲座Qの南側の砲側弾薬庫


左:行き止まり部から北を、右:砲座Qの内部東面の石垣





左:砲座Qの南上の謎施設Tの石垣、右:同左内部


左:施設Rの北側の崩落地下壕?、右:施設Rの石垣、北東角


左:施設Rの石垣、南面、右:施設Rの平坦地


左:平坦地Sへと降りる道、右:平坦地S


左:平坦地Sの南端にあるコンクリート水槽、右:同左内部


左:平坦地Sの南端にある、崩落した地下壕とその前にある石塁、右:石切り場?Uを西上から




 南側の2基の砲座は、北側の2基とは異なった造りをしている。ほぼ南北に走る通路から西に砲座を張り出し、砲座の南北の通路脇に砲側弾薬庫を設けている。砲座PとQの間には用途不明の平坦地がある。
 砲座Qの南上には、用途不明の石垣遺構Tがある。小隊長位置でもあったのだろうか。
 砲座Pの東下には、施設Rがある。北に崩落した地下壕入り口のような窪地が、また南には北に石垣を組み、周りからは落とした高さに長方形の平坦地を設けている。南側の2基の砲座の為の仮の弾薬置き場か何かだったのかもしれない。
 砲座Qの東下には平坦地Sがある。下関重砲兵連隊史の地図によると、追加された2基の砲座の要員のための兵舎が置かれていたようである。平坦地Sの南端には、天水を貯めたと思われるコンクリート水槽と、その脇に崩落した地下壕入り口のようなものがある。
 平坦地Sを少し南に行くと、掘り込まれた平坦地Uがある。尾根上から見ただけなのでなんとも言えないが、砲台で使用している石材を切り出した、石切り場のように見える。



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偽装砲台




左:偽装砲Aを北西から、右:同左を南東から


左:偽装砲Bを北西上から、右:同左を南西から


左:偽装砲Bを西から、右:同左を北東から


左:偽装砲Cを北東から、右:同左を南西から


左:偽装砲Dを北東から、右:同左を南西から




 230m三角点のあるピークから北にかけての尾根上に、4基の偽装砲が作られている。
 いずれも砲身を、コンクリート製電柱のような芯が空洞なコンクリート柱で作っており、この砲身を防盾を模った石塁の中に埋め込むことで、15cmカノン砲のような見た目に仕上げている。長い年月の間に殆どの砲身は折れてしまったが、北から2番目の偽装砲Bのものは先端部が折れただけで、当時の状態に最も近い形で残っている。
 偽装砲についての話は幾つか残っているが、偽装砲がそのまま残っている所は珍しい。県指定か国指定遺跡になってもおかしくないと思うのだが…さすがにそれは無理な話か。


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