玄海島 砲台
2015.3.28 探索
右:米軍の航空写真、崩落部A・Bが明確に写っている(R427-27、国土地理院)
右:米軍の航空写真(M313-7、国土地理院)
灯台周辺の地図のアップ
玄海島にも砲台があったのは確かなようだが、備砲がどうなる予定だったのか、今ひとつ明確でない。
記録[1]によると、昭和20年2月下旬の15cmカノン砲台の洞窟陣地化(キ号演習)で、角島のラ式15cmカノン2門が玄海島に配備されることになり、工事が開始されたとある。また、地質不良により作業が困難で、島内の別の場所に位置変更が為されたようである。そして5月下旬の配置のやり直し(ケ号演習)の記事では、備砲が12cm速射カノン4門となっており、話が一つ飛んでいる。
資料によって、この12cm速射カノン装備の集成中隊についての記述はバラバラだが、近いものだと戦史叢書[2]の「要塞火砲転用による北九州沿岸の防備強化(P.342)」に、移動前の火砲一覧の中で壱岐要塞の分として、神集島と玄海島にそれぞれ12cm速射カノン4門と書かれている。その後、これと同じ8門の12cm速射カノン砲が九州北部沿岸に再配置され、終戦を迎えていることから、神集島と玄海島に配備されていたか、もしくは配備予定だったと推測できる。
終戦直後の航空写真を見ると、灯台の南西上付近に、砲座らしき2ヶ所の崩落跡が明確に写っている。しかし実際に山に入ってみたところ、崩落の跡はあったものの、砲座かと言われると多少困ってしまうくらいの痕跡しか確認できなかった。
その後、船の待合室で出会ったお爺さん(81歳)から、以下のような話を伺った:
・芋しか食べられなかったから、兵舎に遊びに行って食べ物をもらっていた
(金持ちは同じ芋でも干して粉にしてから団子にして食べていたが、貧乏人は茹でてしか食べられなかった、という話もあった)
・灯台の下の方に大きな兵舎があった(元部という地名)
・100人くらいの兵隊が居た
・大きな大砲が据えてあった。下にはコンクリートが打ってあった。
・大砲にはシートがかぶせてあった。
・戦後、砂やらで埋まったり、流されてしまった。
・位置は灯台の谷一つ向こうの上の方。(その辺の箱を灯台に見立てて、位置を教えてもらった所、上図の薄緑の辺りのような感じだった)
・中将(第16軍司令官か?)が砲台を視察するために島に来た。島民皆で敬礼をした
・灯台を建設する時、島民は○○箱(箱は何かの名称を言っていたが、忘れてしまった)1つ分の石を運んで10円をもらっていた。
話を聞いて再び灯台へと戻り、言われた辺りを探索しようと思ったものの、崩落が激しくて灯台の北西を走る大きな谷筋を越えることができなかった。
ただ、灯台への道の脇2ヶ所(GとH)で、比較的大きなコンクリート構造物があるのを見つけた。灯台の裏手にも謎のコンクリート構造物Eがあったが、こちらは排水路のようだ。
以上の資料、探索、聞き取り内容を総合すると:
(1)15cmカノン砲2門で工事が始まった。途中で位置が変更になっている。
(2)何かの理由で備砲が12cm速射カノン砲4門に変更される。備砲までされたかは不明。
(3)それすらも、5月下旬には本土へ移動
(4)兵舎は灯台の周辺
(5)砲台の建設予定地は不明。可能性としては:
・15cmカノン砲はAとB
・12cm速射カノン砲もしくは位置変更後の15cmカノン砲は、GからHにかけての道の脇
・もしくは、もっと別の場所
(6)備砲がされていなかった場合、他の砲台と同じく偽装砲台が置かれていた(上の話の中の、大砲にはシートがかぶせてあったという証言)
(7)備砲がされていた場合(時期的に12cm速射カノン)、大砲にはカバーがかけられていた
という感じであろうか。ともかく明確でない。
引き続き調査が必要だ。
日付
記事
昭和20年2月下旬
第1期作戦準備 第1次15cmカノン陣地の築城(キ号演習)[1]
玄海島(第4中隊102名、ラ式15cmカノン2門)で洞窟砲台工事開始
地質不良による作業困難により、島内の他の場所へ(?)
昭和20年5月下旬
海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[1]
工事中止、集成中隊(12cm速射カノン4門?)は第145師団へ(神湊2、波津1、相原1)
[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[2] 本土防衛準備九州(戦史叢書、朝雲出版社)
左:崩落部Aを北西側、右:同左中央部
左:崩落部Aの南東側、右:AとBの間付近にあったビン
左:崩落部Bを、右:同左中央部
左:崩落部Bの南縁、、右:中央部から東下を
左:平坦地C、右:近くにある石垣
左:灯台Dの南西面、右:灯台D
左:灯台裏手の排水路?E、右:同左最上部
左:灯台Dの門から南東方向を、右:道の北下にある平坦地Fの階段
左:Gにある土留のようなコンクリート構造物、右:Gの北東下の平坦地
左:道脇の石垣H、底の大きなものはコンクリート、右:同左の北西側、こちらは全て石
左:学校(廃校)から上がってくる道から灯台への道の分岐点、右:一応道、矢印の辺りを目指す(黄色いロープが張ってはある)
左:志賀島を、右:この辺で一度道を見失った
島の北東にある灯台を目指す。灯台まで道が付いているのだが、山に入ってからはイノシシによる掘り返しや、崩落で歩き難くなっており、スニーカーだと辛い。また畑跡で道を見失いやすくなっている。
砲座跡と思われる崩落跡AとBには、Gの西付近の尾根を登ると歩きやすい。そのままBの南縁付近まで行ける。
崩落跡AもBも、航空写真のあれが無ければ、とても砲座跡とは想像が付かない。いや、実際に違うかもしれない。しかし、航空写真の影と同じ位置にあることから、当時からこの辺に何かがあったことは確かなようだ。またこの付近で今では見かけない形状のビンも見つけたので、まあ何かあったのではないか。
Bの南側には、畑跡の平坦地Cがある。ただ藪で近寄れない。またBとCの間付近に明確な石垣もある。
灯台Dは、昭和9年4月1日点灯。敷地内に宿舎があったようだが、現在は建物基礎しか残っていない。灯台の南西裏手には、謎のコンクリート構造物Eがある。形状や位置から、山から出た水を灯台の西の谷へと流す排水路のようなものかと思われる。
灯台の南東側に、幾つかの平坦地がある。お爺さんの証言だと、この辺が兵舎だったようだが、道からは建築物らしい痕跡は見つけられなかった。
崩落部Gには、土留のようなコンクリート構造物があるが、用途が全くわからない。畑には関係が無さそうなので、砲台関連の遺構と見てもいいかもしれない。
更に道を南西に戻ると、石垣Hがある、普通の畑の石垣なのだが、南西端の底にある大きな塊が、コンクリートである。戦後にどこかにあったものを持ってきて流用したのではないかと思われる。
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