新町、富野、足立山 砲台?


2014.5.6 探索
2014.5.18 再探索





 小倉市外の東部にも、洞窟砲台が築かれていた。
 当初は新町(田向山砲台の東部)と、足立山の西尾根筋の2ヶ所だったが、後に足立山のものを富野堡塁の近くへと移動している。資料[1]にはコンクリ打ちまで終了したと書かれているが、そこまで手の込んだ遺構は見つけられていない。単に未発見なだけか、とっくに崩壊して埋まってしまったか、それとも記述が間違いで完成していなかったかは不明。




[1] 下関要塞守備隊戦史資料
7cmカノン、工事は6月上〜7月上に開始

第3中隊
 新町砲台(蓋井島 7K1 400) 洞窟掘開コンクリ完了 備砲完了
 富野砲台(蓋井島 7K1 400) 洞窟掘開コンクリ完了 備砲完了




資料をスケッチしたもの




第56軍配備要図[2]

資料をスケッチしたもの




[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[2] 第56軍配備要図 (防衛省戦史資料室、本土-配備図-49)













新町 砲台?


左:、右:




左:田向山砲台右翼観測所裏の施設、右:同左


左:Bとその前の道、右:崩落した地下壕入口B


左:Bから北東に進んだ辺り、右:同左奥の何かC


左:北斜面の崩落跡?、右:田向山砲台右翼観測所附近から北を

 明治期要塞の田向山砲台の右翼観測所附近に、幾つかの遺構らしきものがある。観測所施設Aの南東下に、崩落した地下壕入口Bがある。またその北東上にも小さいながらも崩落した穴跡のようなCがある。B、Cの尾根の反対側の北斜面に、崩落跡のようなものがあるが、洞窟砲台が崩落したにしては窪みが浅く、ただの崩落跡のように見える。
 洞窟砲台跡とは言い切れないが、Bが明確なので、一応ここを候補地としておく。








富野 砲台?




左:掘りかけを上から、右:掘りかけ正面から


左:アップ、右:掘りかけから車道を


左:掘りかけ附近にあった陸軍の標柱(恐らく富野堡塁のもの)、右:墓地の近くから小倉市街を

 場所不明。砲台山の西麓から富野堡塁にかけての辺りにあったと思われるのだが、明確な遺構が見つからない。富野堡塁の南東の車道脇に、掘りかけの地下壕を見つけたのがせいぜい。幅5m弱で比較的大きなものだが、7cmカノン砲を据えるには小さすぎるように思う。








足立山 砲台?








左:砲台山への遊歩道(旧軍道)と崩落した地下壕入口A、右:Aを正面から


左:崩落部B、右:同左を上から


左:崩落した地下壕入口C、右:同左を別アングルから


左:崩落部D上部、右:同左


左:Dの上端部、右:Dの下端部


左:切り出し部Eの北面、右:同左南面


左:Eの東正面、右:Eの西側の平面というか何というか


左:Eの西縁、右:同左から東を



 砲台山、足立山への登山道は、砲台山にあった陸軍の高射砲陣地の軍道だが、この登山道が西から北東へと大きくカーブする附近に、幾つかの遺構がある。この辺りは、現代本邦築城史によると、湯川堡塁の建築候補地である。

 遊歩道脇の崩落した地下壕入口Aは大きく、幅は5m以上ある。洞窟砲台の裏口としては十分な大きさなのだが、その対になる部分が明確でない為、高射砲陣地の付属施設跡(弾薬庫か何か)かもしれない。
 Aの南西隣には、大規模な崩落跡Bがある。元々何かがあったものが崩落したような地形なのだが、元の地形が想像つかない。
 尾根のすこし北東側に崩落した地下壕入口Cがある。幅は2m程と小さく、用途は不明である。
 Cから斜面沿いに北へ移動すると、明らかに人手が加わった崩落跡Dがある。洞窟砲台としては小さすぎであり、用途はわからない。
 Dの北西下に、切り出し部Eがある。キ号演習時に造られた15cmカノン砲の洞窟砲台の工事途中の景色に似ているのだが、どちらかというと石材の切り出し場のようにも思える。砲台山にある高射砲陣地には多くの石垣があることから、それらをここから切り出した可能性もある。仮にここが工事中の洞窟砲台跡だとすると、Aがその裏口になるかと思われる。







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