神湊、京泊、津野崎、新宮 砲台


2014.2.23 探索(神湊)
2015.1.18 探索(津屋崎、新宮)
2015.3.15 探索(神湊)




左:神湊(草崎)、右:京泊(津屋崎北)


左:津屋崎(曽根崎鼻)、右:新宮(磯崎鼻)



この4ヶ所は、大体の場所は判明しているものの、明確な位置と備砲が何かについては不明である。
備砲については、資料を総合するに以下のようになると思われる:

神湊 12SK1
京泊 12SK1
津屋崎 7K2
新宮 7K2



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下関要塞守備隊戦史資料[1]

工事進捗状況:
 神湊(12SK 2門) 洞窟掘開80%
 津屋崎(旧白島7K 2門) 洞窟掘開完了
 新宮(旧白島7K 2門) 洞窟掘開完了








第351師団戦史資料[3]

資料をスケッチしたもの

工事進捗状況:
 津屋崎砲台(7K 2門)7月末:50%、8月:50% (1門は8月から工事)
 新宮砲台 (7K 2門) 7月末:50%、8月:70%
 津屋崎北側砲台(京泊)(12SK 1門)7月末:0%、8月:0%
 



第145師団関係資料[5]

資料をスケッチしたもの





第56軍配備要図[4]

資料をスケッチしたもの




[6][7] 第145師団戦史資料及び付録(関係する部分のみ抜粋)

配属海岸砲を以って波津及草崎にも陣地を占領し三里松原北方海面並鐘崎、釣川、河口間北方海上に現出する敵艦艇の破砕に任ぜしむ

左地区隊:
 下関重砲兵連隊の1小隊(12SK2)波津(100)、草崎(148)



日付 記事
昭和20年5月下旬 海岸陣地帯構築作業(ケ号演習)[1]
集成中隊(玄海島12SK)→第145師団へ
第4中隊(白島7K) →第351師団へ

[1] 下関要塞守備隊戦史資料(防衛省戦史資料室、本土-西部-145)
[2] 下関重砲兵連隊史
[3] 第351師団戦史資料 (防衛省戦史資料室、本土-西部-89)
[4] 第56軍配備要図 (防衛省戦史資料室、本土-配備図-49)
[5] 第145師団関係資料  (防衛省戦史資料室、文庫-柚-132)
[6] 第145師団戦史資料(アジア歴史資料センター、A03032122800)
[7] 第145師団戦史資料付録(アジア歴史資料センター、A03032122600)







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神湊(草崎) 砲台








左:崩落地下壕Aを南東から、右:Aの東側の大きい方


左:崩落地下壕Aの東側のアップ、右:東側の崩落地下壕から西方向を


左:崩落地下壕Aの西側、右:Aの南東側の掘りカス


左:崩落地下壕B、右:平坦地C


左:崩落地下壕Dを北西から、右:同左正面から




左:崩落地下壕E、右:地下壕F


左:地下壕Fの南東側、右:Fの南東側入口


左:地下壕Fの内部、右:山を北東から(フェリーから)


左:山を東から(桟橋)、右:同左北側



 神湊港の西にある山には、幾つかの遺構がある。ただ砲座と推定できそうなものは残っていない。

 最も大きなものは、崩落地下壕Aである。東西に2本あり、東側のものは幅が最大5mもある。南東側には堀りカスと思われる土盛も残っている。当初はここが砲座の裏口かと思っていたのだが、地図のように位置と方向が悪く、仮に大きな崩落Hの位置に砲座があり、ここからそこまで地下壕が掘られていたとすると距離が長くなることから、弾薬庫か何かだった可能性の方が高そうである。
 その東には小さな崩落地下壕らしい窪地Bがある。またその南東には切り出し平坦地Cがある。
 更にその南東には、崩落地下壕Dがある。大きさは今一つだが、位置と方向から、砲座の裏口の可能性が高い。ただ反対側の東面は大きく崩落しており(G)、砲座があったかどうかは確認不可能である。
 また更にその南東には、崩落地下壕Eがある。北向きであり、用途は不明である。

 山の東面の道脇に、地下壕Fがある。辛うじて内部が残っているものの、長さが2m程しか無く、一体何がしたかったのか良くわからない遺構である。
 東面の道は北へと伸びているものの、大きな崩落Gがあり、それ以上進めなくなっている。また更に北側にもG程ではないものの、大きな崩落Hがある。


 







京泊(津屋崎北) 砲台



 津屋崎の北、恋の浦ガーデンの敷地内附近に砲台マークが描かれているが、工事の進捗度が0%なので、遺構は無いと思われる。








津屋崎(曽根崎鼻) 砲台


左:曽根崎鼻から灯台のある山を、右:展望台から南を、正面の山は立花山



 津屋崎の西、東郷公園のある山の南附近に砲台マークが描かれているものの、遺構を見つけられず。病院の真北附近なのか?


津屋崎町誌には、以下のように書かれている:

渡半島の山腹で加農砲の地下壕を掘っていた下関重砲兵連隊の下士官だった松並博(相模原市在住)は…(略)…
「…加農砲2門と部品、弾薬などは漁船で半島の沖に運び、水深2、30mの改定に沈めた」








新宮(磯崎鼻) 砲台


左:駐車場から北側の山を、右:同左附近の崩落地形っぽいようなそうでないような…



 相島への渡船の出ている新宮漁港の西の山附近に砲台マークが描かれているが、山に入ったもののそれらしい遺構は発見できなかった。もう一つ南東側の山塊だったかもしれない…








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